古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その11 半島外交と皇太后の死)

2019年04月03日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 息長氏の考察で少し寄り道をしたが話を神功摂政紀に戻そう。すでに「神功皇后(その5 新羅征討②)」で検討したように、神功皇后が熊襲を討とうとする仲哀天皇の意に反して新羅征討を敢行した理由は当時の外交事情が背景にある。三国史記、好太王碑文、七支刀銘文などに記された内容から、4世紀半ばから5世紀にかけての倭国は新羅との関係が悪化する一方で百済とは友好関係を築くようになっていた。倭の支援を得て新羅や高句麗に対抗しようとする百済の目論見と、百済を足掛かりにして朝鮮半島から中国へのルートを確保したい倭の思惑が一致したのであろう、神功皇后は新羅を討つという手段に打って出て見事に成功を収める。半島から凱旋帰国した神功皇后は続いて香坂王・忍熊王の兄弟による反乱を鎮圧して国内での政権基盤を盤石なものにし、磐余の稚桜宮で皇太后となり摂政として政権を担う一方、誉田別皇子を皇太子に立てた。のちの応神天皇である。これ以降、神功摂政5年に新羅が朝貢してきたことを皮切りに朝鮮半島との外交が活発になっていくのである。その様子を確認する前に、次のように書紀が引用する魏志倭人伝の記事を見ておきたい。

摂政39年…明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也
摂政40年…正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也
摂政43年…正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻

 見ての通り、卑弥呼による魏との外交記事であるが、これを神功摂政紀に挟んでいるのは魏志倭人伝に記す倭女王が神功皇后であると主張する意図があるのは明らかだ。新羅を討って半島から中国へのルートを確保したことを示したあとに記されているので、話の流れとしては分からなくもないが、そもそも卑弥呼は3世紀前半で神功皇后は4世紀後半であるので、卑弥呼と神功皇后が同じ人物であるはずがない。しかし、書紀の編纂者は百も承知でこの話を挿入したのだ。国内に天皇家の威厳を示す意図はもちろんであるが、中国に対してもそれを示しておきたかったのだ。というのも、書紀は日本国正史であり、中国に日本国の歴史を示すために漢文で書かれたのだから。

 さて、その後の神功摂政46年から半島との間で大きな動きが見られるので以下に示してみる。

46年 斯摩宿禰を卓淳国へ派遣
    百済が朝貢の意志をもっていることを聞く
    爾波移(にはや)らが百済に赴く
    百済の肖古王が爾波移に貢物を献上 
47年 百済が久氐(くてい)らを遣わして朝貢
    新羅は百済から奪った貢物を持って朝貢
    千熊長彦を新羅に派遣して悪事を暴く
49年 荒田別と鹿我別を久氐とともに卓淳国に派遣
    木羅斤資らの援軍を得て新羅を討つ
    耽羅(済州島)を平定して百済に与える
    百済の肖古王と貴須王子が荒田別らと合流
    千熊長彦が百済へ赴く
    百済王は春秋の朝貢を約束
50年 荒田別らが卓淳国から帰国
    千熊長彦が久氐とともに百済から帰国
51年 百済が再び久氐を遣わして朝貢
    千熊長彦を久氐につけて百済に派遣
52年 久氐が千熊長彦に従って朝貢
    七枝刀・七子鏡などを献上
55年 百済の肖古王が薨去
56年 百済の貴須王が即位
62年 新羅が朝貢しなかった
    葛城襲津彦を新羅に派遣して討つ
64年 百済の貴須王が薨去し、枕流王が即位
65年 百済の枕流王が薨去し、辰斯王が即位
69年 神功皇太后が崩御


 卓淳国は現在の慶尚北道にある大邱広域市あたりとされ、当時のこの地域は新羅の南端、加羅との境界に位置する国であった。倭国はこの卓淳国を新羅攻略の拠点にするとともに、卓淳国を介して百済と通好していたことが窺える。そして一連の記述からは百済との深い友好関係が読み取れる一方で、新羅に対しては一貫して厳しい対応が見られ、新百済、反新羅が色濃く出ていることがわかる。
 百済の意志が最もよく表れているのが、神功摂政52年における七枝刀(七支刀)および七子鏡の献上で、これは高句麗からの圧迫に対抗するために倭に支援を求めたものであると考えられている。
 七子鏡の確かな行方はわかっていないが、七支刀は奈良県の石上神宮に現存しており国宝に指定されている。身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした全長74.8センチの鉄剣で、剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされている。石上神宮の公式サイトには「表面の銘文は『泰■四年(■■)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀■辟百兵供供侯王■■■■作』、裏面は『先世以来未有此刀百済■世■奇生聖音故爲倭王旨造■■■世』とされており、概ね次のように解釈されているといます。冒頭の『泰■』の2字目は、現在僅かに禾偏(のぎへん)を思わせる線が残っているのみで、旁(つくり)にあたる所にはこの文字を探究した人がつけたと思われる傷痕があって、字は詳らかではありません。しかし、『泰和(たいわ)』として東晋(とうしん)の年号『太和』(西暦366~371)の音の仮借とみる説があり、それによるとこの七支刀は西暦369年に製作されたと考えられます。」と紹介されている。
 さらに山尾幸久氏によって「剣の裏面では『聖音(又は晋)』や『旨』の文字を銘記していることから百済王が東晋皇帝を奉じていることがわかり、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、同年に百済でこれを模造して倭王に贈った」との解釈がなされており、これによると神功摂政52年が372年ということになる。

 また、ここに記した百済による一連の朝貢は肖古王、すなわち第13代百済王の近肖古王の意志によって行われているが、晋書などの中国史書によると、肖古王は346年に即位して375年に没したことがわかっており、その没年である神功摂政55年が375年であるということがわかる。
 さらに、神功摂政62年に葛城襲津彦を新羅に派遣しているが、書紀は続いて百済紀からの引用として「壬午の年に朝貢してこなかった新羅に対して沙至比跪を遣わして討たせた」と記している。沙至比跪は襲津彦であると考えられ、壬午の年は382年であることから神功摂政62年が382年であることがわかる。
 以上のことから、神功皇太后が崩御した神功摂政69年が389年であることがわかる。しかしそうすると「神功皇后(その9 葛城襲津彦の登場)」において、神功摂政5年に葛城襲津彦が新羅の人質を逃がしてしまう記事が三国史記にある418年の記事(王弟未斯欣、倭国自り逃げ還る)に符合する、すなわち神功摂政5年=418年としたことと矛盾が生じてしまうが、これはどう考えればいいだろうか。神功皇后による新羅征討(三韓征伐)のあとの朝鮮半島外交に関する記事はこの神功摂政5年の葛城襲津彦の次は神功摂政46年の斯摩宿禰を卓淳国に派遣する記事まで出てこない。また一方で、書紀において葛城襲津彦は応神天皇紀および仁徳天皇紀にも外交担当として登場する。これらのことから、新羅征討直後に半島外交を開始したことを言わんがために襲津彦が人質を逃がしてしまった418年、つまり応神天皇時代の話を神功摂政5年の話として前に移動したと考えられないだろうか。
 いずれにしても、神功皇后の時代は4世紀半ばから後半であることがわかった。そしてこれ以降、なんと現代に至るまで朝鮮半島との外交が日本国の重要課題となっていくのである。

 神功摂政66年、中国の起居注からの引用として、晋の武帝の泰初2年に倭の女王が何度も朝貢してきた記事を記すが、これも先の魏志倭人伝の引用と同じく、倭の女王が神功皇后であることを示そうとしたものである。泰初は泰始の誤りで泰始2年は266年である。

 そして神功摂政69年に皇太后は崩御する。奈良市山陵町の佐紀盾列古墳群の北西地域にある五社神古墳(ごさしこふん)が陵墓に治定されている。4世紀末~5世紀初めの前方後円墳で全長275メートルは佐紀盾列古墳群最大、全国でも12位の規模を誇る。
 神功皇太后崩御のあと、誉田皇太子が応神天皇として即位し、応神王朝がスタートすることとなる。

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以上で「古代日本国成立の物語(第二部)」を終了とします。第二部では日本書紀の記述を中心に崇神王朝から応神王朝成立までを見てきました。神武王朝は南九州から東征してきた勢力、崇神王朝は出雲から大和に入った勢力、応神王朝は丹波・近江の連合勢力という私の仮説に基づいて第一部、第二部と綴ってきましたが、ここで少し時間をおくこととし、応神王朝については改めて第三部として書いていこうと考えています。ただ、これまでもそうでしたが、論証を進めながら仮説が変わっていくことがあるのでご了承ください。それではまた。


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新元号「令和」への思い

2019年04月01日 | 雑感
 新元号が「令和」に決まりました。出典や意味を知る前の第一印象は、漢字から受けるイメージ・音の響きなど、どれも「ええやん、ええ感じ」というものでした。「明治」「大正」「昭和」のどれもが角ばったイメージの漢字で、伝統や格式といったちょっと堅苦しい印象がありました(私は昭和生まれなので「昭和」には愛着がありましたが)。それが次の「平成」になった途端にカドがとれて剛から柔に急に優しくなって、ちょっと締まりのない印象を受けたことを覚えています。こういった過去の経験も含めて今回の「令和」の印象は「昭和」でもない「平成」でもないちょうどいい感じ、と思ったのです。

 「令和」の英字表記は「Reiwa」となります。この「R」の響きも軽やかでいいですね。調べてみると「大化」から「平成」までこれまでに247個の元号が制定されていますが「R」で始まるのは3つしかないのです。ひとつは奈良時代の「霊亀(Reiki)」、ふたつめが鎌倉時代の「暦仁(Ryakunin)」、みっつめが南北朝時代に北朝が制定した「暦応(Ryakuou」です。話は少しそれますが、学生時代に車を運転するようになって自動車メーカーがつける車の名前に興味を持ったことがありました。そのときに、各社とも多くの車種にラ行のどれかの文字を入れるケースが多いことに気がつきました。カローラ、カリーナ、クラウン、セリカ、コロナ、センチュリー、カムリ、ランドクルーザー、スカイライン、ブルーバード、パルサー、セドリック、グロリア、フェアレディZ、プレジデント、レパード、ローレル、スタリオン、デリカ、シャリオ、ミラージュ、ランサー、パジェロ、ギャラン、コルト、レジェンド、プレリュード、、、各社がラ行を意識していたのか、それとも偶然なのかわかりませんが、この時代の車でラ行のついていない車名を挙げるほうが難しいと思います(サニーとかシティとか少しはありますが)。当時、私はこのラリルレロの音から軽快に颯爽と走る車をイメージしていました。「令和」の「令」の音にそのイメージが重なりました。

 「令和」の出典は万葉集だそうです。日本の文献を出典にしたのは初めてとのことで、これまでの慣例や伝統を破ったと批判的に捉える人もいるようですが、そもそも今の時代にあって中国の文献にこだわる必要は全くないですよね。日本が中国の統治体制や文化を取り入れて国家としての体を構築しようとしていた奈良時代や平安時代ならまだしも、あるいは漢字の歴史が浅い時代ならまだしも、日本は漢字を使うようになってすでに千数百年の歴史を持つのです。歴史書も含めて膨大な漢字文献の蓄積があるのです。これこそが伝統であると思います。

 その出典である万葉集の巻五「梅花の歌32首」の序にある「初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」ですが、岩波文庫「万葉集(二)」によると「しょしゅんのれいげつ、きうるはしくかぜやはらぐ。うめはきやうぜんのこにひらき、らんははいごのかをりにかをる」と読んで、その意味は「初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前の白粉(おしろい)のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとにただよう香に薫っている」ということです。恥ずかしながら、この歳になって初めて「令」という字に「良い」とか「立派な」という意味があることを知りました。「命令」「法令」「号令」「発令」など、どれも上意下達のようなニュアンスで使うことばかりだったので少し意外でした。この「令」の字が元号で使われるのは初めてのことです。
 「和」は、やわらぐ、なごむ、穏やか、仲良くなる、混ざり合うなど、争うことなく良い関係になること、良い関係でいることを表していて、この「和」の字が使われるのは過去に19回ありました。いつの時代にあっても争いのない平和な時代が望まれたのでしょう。

 「令和」は、新しい時代を今よりもいい時代にしたい、平和な時代でありたい、という私達の願いを上手く言い表した良い言葉だと思います。様々なシーンで西暦表記が一般的になってきていますが、それはそれとして、日本の伝統として定着している元号が将来にわたって続いてほしいと願っております。




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