古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

物部氏を妄想する⑱(物部氏と鎮魂祭)

2024年01月18日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑱(物部氏と鎮魂祭)

物部の鎮魂が猿女の鎮魂に合体させられてその位置付けが低下、あるいはその存在が実質的に消滅してしまったとすれば、その背景として考えられるのは奈良時代になって以降、物部氏が没落してしまったことがあげられるのではないでしょうか。

当時、物部氏を代表していたのは石上朝臣麻呂(物部麻呂)でした。壬申の乱で大友皇子側についた麻呂は最後まで皇子に従った忠誠心を買われて乱後に天武天皇に重用されるようになります。天武天皇13年(684年)、物部連氏は多くの臣姓の氏族とともに朝臣の姓を与えられます。そして氏の名を石上と改め、石上朝臣麻呂として活躍、最終的に左大臣にまで上り詰めました。しかし、その石上麻呂が没した717年以降、物部氏は没落することになり、政治の実権は藤原氏に移っていきます。

一方で、伊勢神宮の祭祀に携わっていた猿女氏は宮廷に進出して祭祀の職掌を担うようになったと考えられています。宮廷祭祀の任にあたるために大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移して稗田姓を称したといわれます。一族に『古事記』編纂に参加した稗田阿礼がいます。

『記紀』で「神宮」と称される神社は伊勢神宮と石上神宮の二社のみです。天武天皇のときに宮廷祭祀としての鎮魂祭を開始するにあたり、皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮において猿田彦神の後裔とされる宇治土公氏とともに祭祀を担っていた猿女氏の鎮魂術と、もう一方の石上神宮に由緒を持つ物部氏の鎮魂術が取り入れられたのではないでしょうか。ただし、天照大神を祀る猿女の鎮魂が格上で、石上神宮の鎮魂は格下の位置付けがなされた可能性があります。

奈良時代以前の祭式を記録したものが残っていないので想像の域を出ませんが、当初は格下ながらも猿女の鎮魂術とともに物部鎮魂術が執り行われたものの、間もなく物部氏の没落とともに物部鎮魂術は簡略化され、さらには格上の猿女の鎮魂術への吸収、合体がなされ、『延喜式』の時点においては「一から十まで数える所作」だけが残りました。その後、『江家次第』に木綿を結ぶ所作が十種瑞宝を振ることにつながる旨が記されたり、『西宮記』の時点で御衣の入った箱を「振る」という所作が加わったりするものの、これらの所作が本当に物部の鎮魂術にある神宝を振る所作に由来するものかどうかは定かではなく、逆にこじつけの感すらあります。したがって平安時代中頃においては、物部鎮魂術の所作はほぼその形は失われていたものと考えられます。

石上神宮の鎮魂祭にまつわる文献資料を研究している田村明子氏によれば、石上鎮魂祭には古代からの連続した伝承があるとはいえず、現在の鎮魂祭は、衰微していく神宮の再建のために18世紀初頭に宮廷鎮魂祭の中で物部由来とされている所作の部分を参考として編まれた式次第を研究し、昭和8年(1933年)に新しく作られた祭祀だということです。氏によれば、平安時代末期には鎮魂祭との関連で白河天皇の厚い崇敬があったものの、鎌倉・室町時代には宮廷の祭祀から遠ざかって次第に衰退したそうです。

現在の石上神宮の鎮魂祭は昭和8年の次第から少し変化するとともに参列者の見守る中で「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、振れ、ゆらゆらと振れ」と呪言を唱えて鈴のついた榊(著鈴榊)を振る招魂の儀が行われたあと、禰宜が十代物袋(十種瑞宝を紙で象ったもの)を取り付けた著鈴榊で参列者一同を祓います。

石見国一之宮であった島根県の物部神社でも鎮魂祭(物部神社では「みたましずめのまつり」と読まれています)が行われています。神殿の上段では神官が二体の人形(ひとがた)の入った箱を振る所作を、下段では猿女に扮した巫女が自らが乗っている宇気槽をドンと撞いて多草をサラサラと振る所作を、一、二、三、四と数えながら10回繰り返します。さらに数えるたびに玉の緒を結びます。これは宮廷の鎮魂祭と極めて近い内容で、違いは箱に入っているものが御衣であることくらいです。物部神社の鎮魂祭も参列することが可能です。

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物部氏を妄想する⑰(石上神宮の祭祀)

2024年01月17日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑰(石上神宮の祭祀)

石上神宮について触れている資料に『紀氏家牒』という紀氏の伝承や系譜がまとめられたものがあります。平安時代の編纂とされていますが、現在は逸文が残るのみです。それによると、蘇我馬子の子の蝦夷は葛城県豊浦里にいたので豊浦大臣と呼ばれ、また、多くの兵器を所蔵していたので武蔵大臣とも呼ばれました。蝦夷の母は物部守屋大連の妹である太姫で、彼女は守屋家の滅亡後に石上神宮の斎神の頭となります。それで蝦夷は物部族の神主家等を下僕にして物部首または神主首と称するようになりました。蝦夷の母が守屋の妹であることは『日本書紀』皇極紀にも記されます。

物部守屋の死後、蘇我蝦夷は母であり守屋の妹である太姫を石上神宮の神官にするとともに、物部一族を物部首と称するようになった、つまり物部氏を首の姓に貶めたというのですが、これは蘇我蝦夷が市川臣の四世孫である武蔵臣を物部首と名付けたとする『新撰姓氏録』と差異がありますが、蘇我蝦夷のときに石上神宮を祀る一族を物部首と称するようになった点は一致します。それが春日臣氏(和珥氏)だったのか、それとも物部氏だったのか。

平林章仁氏は、石上神宮に収蔵される神宝は各地の豪族から服属の証に献納された霊威に満ちた聖器なので、王権の執政官である物部氏がその祭祀を専掌していたが、守屋の死以降、守屋に縁のある女性が祭祀に入り、さらに皇極朝で蝦夷・入鹿体制が確立すると蘇我氏による神宮祭祀への関与が強まって、物部氏のもとで神宮祭祀に従事していた春日和珥氏に物部首の氏姓が与えられた、とします。

また、石上神宮の創建年代を具体的に示す記録はありませんが、『日本書紀』には安康天皇が石上穴穂宮に宮を遷したこと、仁賢天皇が石上広高宮で即位したことなどが記されるので、5世紀前半から中頃には石上の地が王権にとって重要な場所であったと考えられます。さらに神宮境内にある禁足地から出土した剣や鉾、玉類などは古墳時代前期あるいは中期前半のものと考えられていることから、少なくとも5世紀には王権による祭祀が行われていた可能性が高いと言えます。伊勢神宮とならんで神宮の呼称が用いられていることも王権にとっての重要性を表しています。

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物部氏を妄想する⑯(石上神宮と物部氏)

2024年01月16日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑯(石上神宮と物部氏)

ここまで物部氏の職掌の変遷やヤマト王権内における政治的ポジションの推移を見てきました。弥生時代から古墳時代にかけて墳丘墓や古墳を舞台にした首長霊祭祀を担うことで王権との関係を築き、王権内で執政官として要職を担う中で警察や軍事、外交にまで役割を広げていきました。また、仏教信仰を巡る蘇我氏との争いでは祭祀一族としての一面を強く表出させました。しかしながら、その結果として王権内での力を弱めることになってしまいました。ここではその祭祀一族の側面について石上神宮との関係を確認します。

『日本書紀』垂仁紀によると、垂仁天皇は石上神宮に一千口の剣を納めた五十瓊敷入彦命に神宮の神宝の管理を命じます。そしてその後、五十瓊敷入彦命の後を継いだ妹の大中姫命がその役割を物部十千根大連に委ねることにします。また別伝によると、物部首の始祖である春日臣の市河にまかせたと記されます。いずれにしても垂仁天皇のときに物部氏が石上神宮の神宝の管理を担うことになったわけですが、これらの記述についていくつかの視点で考えてみます。

まず、五十瓊敷入彦命について。五十瓊敷入彦命は父である垂仁天皇から欲しいものを聞かれて「弓矢」と答えたことから弓矢を与えられました。一方、弟の大足彦尊は「皇位」を望んだために父の後を継いで景行天皇として即位しました。これは五十瓊敷入彦命が王権の軍事担当に任命されたことを意味し、それによって垂仁天皇39年に剣一千口を作って献上したということだと思います。別伝では、剣一千口は最初に忍坂邑に納められます。忍坂邑は現在の奈良県桜井市にあり、垂仁天皇の纒向玉城宮や景行天皇の纒向日代宮から近いところです。和泉国の茅渟菟砥川上宮で作られた剣は大和川をさかのぼり、いったん宮に納められた後に石上神宮に奉納されたのでしょう。

剣一千口が石上神宮へ奉納されたのは神宮が王権の武器庫だったからでしょうか。多くの専門家はこの武器庫説を否定していますが、垂仁紀には「是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神宝(このあと、五十瓊敷命に命じて石上神宮の神宝を管理させた)」とあるので、剣一千口は武器としてではなく神宝として奉納されたということがわかります。その後、垂仁天皇87年、この神宝管理は五十瓊敷入彦命から大中姫命を経て物部十千根に継承されますが、これが石上神宮と物部氏の関係の始まりとなります。

別伝によると、このとき五十瓊敷入彦命は10の品部すなわち、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部を賜ったとあります。楯部は楯の製作、神弓削部は弓の製作、神矢作部は矢の製作を職掌とし、いずれも武器の製作という共通点があります。敏達紀、用明紀、皇極紀には物部弓削守屋と記される箇所があり、守屋が弓削氏と関係があったと見られています。弓削氏の拠点は河内国の志紀郡にあり、物部氏の拠点である渋川郡に隣接します。また同様に矢作氏の拠点も矢作神社のある河内国若江郡と考えられており、物部氏、弓削氏、矢作氏には強い関係性があったと思われます。

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物部氏を妄想する⑮(物部本宗家の敗北)

2024年01月15日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

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物部氏を妄想する⑮(物部本宗家の敗北)

欽明天皇13年(552年)に百済から仏像や経論などが伝えられた際、欽明天皇はその信仰を受容するか否かを自ら決めずに群臣に尋ねました。蘇我稲目は「西の諸国はどこも礼拝しています。日本だけが背くことができるでしょうか」と答えます。一方の物部尾輿と中臣鎌子は「天皇が天下に王であられるのは、天神地祇百八十神を春夏秋冬にお祀りされているからです。これを改めて蕃神を拝めば恐らく国つ神の怒りがあるでしょう」と反対しました。そこで天皇は蘇我稲目に試しに礼拝させることにしました。いわゆる「崇仏論争」の始まりです。

稲目は小墾田の自宅に仏像や経典などを安置して寺としました。すると国に疫病が起きて多くの民が死んでしまったので尾輿と鎌子は、仏教を受け入れたのが原因だから仏像や経典を捨てるよう天皇に進言します。天皇はそれを認めてすぐに仏像を難波の堀江に捨てさせ、伽藍に火をつけました。

その後、敏達天皇の時代になり、稲目の子の馬子が大臣に任命され、仏教の信仰を続けます。一方の物部氏は尾輿の子の守屋が大連に任命され、また、中臣氏は勝海が大夫として物部守屋とともに仏教反対の立場を堅持します。敏達天皇14年(585年)、蘇我馬子は仏塔を建てて仏舎利を納めたところ、馬子自身が病にかかります。天皇は馬子の仏教信仰を認めますが、ちょうどこの頃に疫病が流行って多くの民が亡くなったため、物部守屋と中臣勝海はここぞとばかりに蘇我氏が仏法を広めたことが原因だと奏上すると、天皇はそれを受け入れて仏法をやめるよう詔しました。守屋は塔に火をつけて仏像と仏殿も一緒に焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てたところ、今度は疱瘡が蔓延して死者が続出、仏像を焼いたことが原因との噂が広まりました。そこで改めて仏の信仰を願い出た馬子に対して天皇は再び許可しました。

このあたりの展開は面白い。蘇我氏が仏教信仰を奏上する→天皇が蘇我氏に仏を祀らせる→疫病が蔓延する→物部氏・中臣氏が排仏を進言する→天皇が了解する→仏像を難波の堀江に捨てる、という図式が繰り返されます。天神地祇を祀ることで天皇の地位を保障されている欽明天皇も敏達天皇も自ら仏を祀ることはできないものの、百済からもたらされた新しい神(仏)に興味津々で、蘇我氏を通じて仏教を受容します。しかし一方でこの時期は先に見たように宮中祭祀を整備している真っ只中で、その実質的トップである中臣氏や昔からの祭祀一族である物部氏の進言に反対はできず、二人の天皇はいずれも中途半端なスタンスに終始します。
 
次の用明朝では引き続き蘇我馬子が大臣、物部守屋が大連として政務にあたります。『日本書紀』には「信仏法尊神道」とあり、用明天皇が従来の神々だけでなく仏法も信じたと明確に書かれています。用明天皇は稲目の孫であり馬子の甥でもあります。欽明天皇や敏達天皇と違って蘇我系の血をひく天皇であることから、仏教を信仰する姿勢を打ち出しました。また一方で、自身の娘である酢香手姫皇女を伊勢神宮に遣わして日神に仕えさせた、とも記されます。この時すでに伊勢神宮が成立していたかどうか疑問がありますが、敏達天皇のときに日祀部を設置したことの延長として、日神を祀ったのは事実だろうと思います。宮中祭祀整備の一環でしょう。ちなみにこの酢香手姫皇女は推古天皇の時代まで日神の祀に仕えたとあります。

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物部氏を妄想する⑭(中臣氏の台頭)

2024年01月14日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

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物部氏を妄想する⑭(中臣氏の台頭)

祭祀や祭器製作に始まり、神宝管理や石上神宮の神官など祭祀に関わる職掌を担ってきた物部氏が宮中警護を含む一般政務に関与するようになり、雄略天皇の5世紀後半以降は采女の管理、さらには行刑、軍事、外交と職掌を広げる一方で、本来の職掌であった祭祀関係、とくに古墳築造を含む葬送に関する祭祀は土師氏に取って代わられます。ただ、畿内では6世紀後半になると前方後円墳の築造が減り、天皇陵の築造としても571年に崩御した第29代欽明天皇陵が最後の前方後円墳となり、それとともに埴輪の配列も衰退、土師氏の活躍舞台も小さくなって、やがて8世紀になると土師氏は大江氏・菅原氏・秋篠氏といった氏族に分化していくことになります。なお、585年に崩御した第30代敏達天皇陵も前方後円墳ですが、母の石姫皇女の河内磯長中尾陵に合葬されたため、築造の最後は欽明陵ということになります。

さて、6世紀の継体朝以降、蘇我氏の台頭とともに中央での統治体制が整えられていく過程で「祭官制」と呼ばれる宮中祭祀制度が整備されていくことになります。中央における祭祀氏族として中臣氏や忌部氏が成立し、祭官として任用されます。また、各地に日置部や日祀部が設置されました。

中臣氏は神事・祭祀をつかさどった中央氏族で『記紀』には祖先が天児屋命と記されます。『大中臣氏系図』にある『新撰氏族本系帳』によると、欽明朝のとき、黒田大連の子の常磐大連が初めて中臣連の姓を賜わったとあります。中臣氏の出自については『尊卑分脈』や『大中臣氏系図』にあるように、もともと鹿卜による卜占を職掌とする卜部に属し、欽明朝のときに半島経由で入ってきた亀卜を担う卜占集団が形成されるのを機に中臣氏が卜部から分離・独立、祝詞奉読を中心とする神祭りと大夫としての活動にシフトしていったとする主張があります。中臣常盤大連の孫である中臣御食子の子が鎌足、その子が不比等となり、その活躍は誰もが知るところです。

忌部氏は中臣氏同様に神事・祭祀を担った氏族で、『記紀』では祖先である天太玉命が中臣氏の祖先である天児屋命とともに祭祀に携わったことが記されます。盾を納める讃岐忌部、玉を納める出雲忌部、宮殿の木材を納める紀伊忌部、麻・木綿を納める阿波忌部、鍛冶に携わった筑紫と伊勢の忌部などの各地の忌部を統率しました。大和国高市郡金橋村忌部(現在の奈良県橿原市忌部町)辺りを本拠地として、域内には天太玉命神社が鎮座します。近くには5世紀後半から6世紀前半まで営まれた大規模な玉造りの集落である曽我遺跡があることから、忌部氏自身は玉の製作に関与していたと考えられます。『日本書紀』には大化元年(645年)に忌部首子麻呂が神幣を賦課するため美濃国に遣わされたことが記され、その後、壬申の乱での忌部首子人の活躍を経て持統天皇の即位儀において忌部首色弗が神璽の剣・鏡を奉じ、慶雲元年(704年)には子人が伊勢奉幣使に任じられたことが記されますが、その後は玉造りの需要が減少したことや中臣氏の勢力が拡大したことから忌部氏の地位は大きく低下しました。

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物部氏を妄想する⑬(物部氏の職掌の変遷)

2024年01月13日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

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物部氏を妄想する⑬(物部氏の職掌の変遷)

前稿に続いて『日本書紀』をもとに物部氏の職掌の変遷を確認します。応神紀、仁徳紀に物部氏は登場せず、続く履中紀から継体紀までを見てみます。5世紀中頃から6世紀前半、古墳時代中期中頃から後期前半の時代になります。

⑧ 第17代履中天皇は即位前、羽田矢代宿禰の娘の黒媛を巡って同母弟の住吉仲皇子と争いになったとき、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主の三人の協力を得て石上振神宮に逃げ込んで難を逃れた。そして即位後は、平群木菟宿禰・蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執った。また、磐余市磯池での饗宴の際、盃に落ちた桜の花の在り処を物部長真胆連が見つけたことから、宮の名を磐余稚桜宮と定めた。これによって物部長真胆連は稚桜部造と改姓した。

⑨ 第19代允恭天皇が崩御したあと、皇太子の木梨軽皇子は離反した群臣を従えた穴穂皇子に討たれるのを恐れて物部大前宿禰の家に逃亡したものの、そこで自害した。穴穂皇子は第20代安康天皇として即位し、石上穴穂宮で政務を執った。

⑩ 第21代雄略天皇は即位後すぐに平群臣真鳥を大臣に、大伴連室屋・物部連目を大連とした。続いて、采女の童女君に生ませた女子を養育しない天皇に対して物部目大連が諫めたところ、天皇は女子を皇女に、童女君を妃とした。また、歯田根命が采女の山辺小嶋子と通じたことを知った天皇は歯田根命を物部目大連に引き渡して叱責した。

吉備下道前津屋が天皇を侮辱するような行為をしたと聞いた天皇は物部の兵士30人を派遣して前津屋と一族70人を誅殺させた。さらに天皇は伊勢の朝日郎を討つために物部菟代宿禰と物部目連を派遣した。決戦の時、物部菟代宿禰は怖じ気づいて進撃できなかったので物部目連が大刀を持って配下の筑紫聞物部大斧手とともに朝日郎を討伐した。天皇は菟代宿禰の所有する猪使部を取り上げて物部目連に与えた。

別のとき、楼閣を建てていた木工の鬪鶏御田が楼の上で走り回るのを見た伊勢の采女が捧げ物をこぼしてしまった。天皇は御田がその采女を犯したと疑い、処刑しようとして物部に引き渡したが、秦酒公の歌を聞いて罪を免じた。また別のとき、木工の韋那部真根との問答に納得しなかった天皇が真根を陥れ、物部に預けて野原で処刑することにしたが、仲間の工人が嘆き惜しんで詠んだ歌を聞いて赦した。

⑪ 第25代武烈天皇は物部麁鹿火大連の娘の影媛を娶ろうとしたものの、平群真鳥大臣の息子の鮪臣と通じていたので鮪臣を殺害した。悲しんだ影媛は歌を詠んだ。「石上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち行くも 影媛あはれ」。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑬(物部氏の職掌の変遷)

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物部氏を妄想する⑫(物部氏の台頭)

2024年01月12日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

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物部氏を妄想する⑫(物部氏の台頭)

6世紀初めの継体天皇の時に部民制が始まり、中央では大王家の祭祀を取り仕切ってきた一族が物部連氏となり、地方では各地の豪族の祭祀を担ってきた一族が物部氏となります。『先代旧事本紀』に天物部二十五部として二田物部、当麻物部など「○○物部」と記される物部や、『新撰姓氏録』にある物部飛鳥や『続日本紀』に見られる物部多芸など「物部○○」として記される物部がそれにあたります。これらは複姓物部氏と呼ばれ、「物部」に地名や職業の名称が付随したパターンが見られます。

また、この6世紀はその後の律令国家成立に向けて様々な変化が時代を動かす画期となった時期で、物部氏の役割にも大きな変化が見られます。ここでは『日本書紀』の物部氏が登場する場面をダイジェストで順に見ながら物部氏の台頭からその役割の変遷の様子を確認してみます。まずは①〜⑦として第14代仲哀天皇までを整理します。

① 初代神武天皇が即位前に大和に東征した際、敵対する長髄彦が「天磐船に乗って天降った櫛玉饒速日命という天津神の子がいる」と告げた。物部氏の遠祖である饒速日命は長髄彦を誅殺して神武に帰順した。

② 第8代孝元天皇は物部氏の遠祖である大綜麻杵の娘の伊香色謎命を妃として彦太忍信命を生んだ。また、物部系の穂積氏の遠祖である鬱色雄命の妹、鬱色謎命を皇后として第9代開化天皇を生んだ。

③ 第9代開化天皇は第8代孝元天皇の妃であった伊香色謎命を皇后として第10代崇神天皇を生んだ。

④ 第10代崇神天皇は大物主神を祀ろうと大田田根子を探し当てた際に、物部連の祖先の伊香色雄を神班物者(神に捧げるものを分ける人)にしようと占うと「吉」と出た。続いて、伊香色雄に命じて物部の八十平瓮で神に奉るものを作らせた。

⑤ 第11代垂仁天皇は安倍臣遠祖の武淳川別・和珥臣遠祖の彦国葺・中臣連遠祖の大鹿嶋・物部連遠祖の十千根・大伴連遠祖の武日の五大夫に対して、先代崇神天皇の事績を称えるとともに自らの治世においても神祇祭祀を怠りはしないと言った。また、天皇は物部十千根大連に命じて出雲国の神宝を検校させた。さらに、五十瓊敷命が作らせた太刀一千口を納めた石上神宮の管理を物部首の始祖、春日臣の市河にまかせた。その後、石上神宮の管理は物部十千根大連に委ねられ、これが所以で物部連が石上神宮の神宝を管理するようになった。

⑥ 第12代景行天皇は九州征討の途中、周防国佐波郡において南方に煙がたくさん上がるのを見て、多臣の祖の武諸木・国前臣の祖の菟名手・物部君の祖の夏花を派遣して偵察させた。続いて碩田国直入県(大分県直入郡)で土蜘蛛を討とうとして祈った神が志我神・直入物部神・直入中臣神の三神だった。

⑦ 第14代仲哀天皇が熊襲征伐のため神功皇后とともに橿日宮(福岡市)に滞在していたとき、皇后に憑依した神の託宣に背いたために突然病死した。皇后は武内宿禰と中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連ら四大夫に天皇崩御の秘匿と宮中警護を命じた。

それぞれの天皇の実在性や実年代に諸説あるものの、ここでは実在を前提に概ね2〜4世紀頃のこととして検討してみます。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑫(物部氏の台頭)

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物部氏を妄想する⑪(古墳祭祀と物部氏)

2024年01月11日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑪(古墳祭祀と物部氏)

弥生時代中期以降、朱で染められた甕棺墓や朱を敷き詰めた埋葬施設をもつ墳丘墓を築き、神獣鏡や鳥形木製品を副葬し、墳丘上で壺形土器の供献や飲食用土器を用いた飲食儀礼を執り行うなど、神仙思想を反映した葬送儀礼が各地で行われました。その後、弥生時代終末期から古墳時代に入ると墳丘そのものを神仙界に見立てた壺形に変化させ、埋葬施設を丸太や円筒埴輪で囲んで聖域化し、その中で飲食儀礼あるいはそれを簡素化した飲食供献を行うようになり、さらに古墳時代中期以降は造り出し部や周堤上で飲食儀礼の様子を形象埴輪によって再現するようになりました。また、神獣鏡の副葬は弥生時代から古墳時代を通じて行われました。

ここで墳丘墓や古墳を舞台に執り行われた飲食儀礼や飲食用土器の供献を伴う首長霊祭祀について諸説を確認しておきます。近藤義郎氏によると、亡き首長が祖霊から引き継いだ霊力を後継者に引き継ぐ祭式で、前方後円墳は首長霊継承の場であり、壺形埴輪や円筒埴輪は首長霊との共飲共食(神人共食)を形式化したものとします。また、その祭祀と新嘗祭との類似性を指摘します。高橋克壽氏は形象埴輪の研究から近藤氏同様に、前首長の埋葬後に執り行われた践祚・即位儀礼ないし首長権継承儀礼であったろう、とします。

この首長霊継承儀礼説は霊力が継承される具体的な仕組みへの言及がないなどの批判がある中、青山博樹氏は、古墳上での飲食儀礼は神人共食であるとの説を否定し、種籾を貯蔵する壺は豊穣をもたらす穀霊の住みかと考えられることから、その壺中の食物を食すことによって後継者に霊力を継承するという考えを示しました。そして首長霊が成立した背景には穀霊と祖霊を同一視する農耕儀礼的な思想があったとします。和田晴吾氏も首長権継承儀礼説を否定した上で「古墳は他界の擬えもの」と捉え、葺石や埴輪や食物形土製品は他界を演出するための舞台装置や道具立てであるとします。他界で首長の魂が首長でありつづけるために、首長霊を対象とした食物供献を中心とした儀礼が永続性のあるものとして固定化していき、首長である死者の魂に山海の幸を奉納する儀礼が継続的に行われていることを示しているとの見解です。さらに氏は、古墳に表現された他界のイメージは神仙の棲む世界のイメージと重なるとします。


続きはこちら→物部氏を妄想する⑪(古墳祭祀と物部氏)

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物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)

2024年01月10日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)

前稿では古屋氏の論文をもとに弥生後期から終末期にかけての各地域における祭祀を整理しましたが、ここでは続いて古墳時代における埴輪の囲繞配列を整理します。

囲繞配列の最も古い例が、弥生時代終末期のホケノ山古墳(奈良県)における畿内系加飾壺による主体部方形囲繞配列で、次に都月坂1号墳(岡山市)での都月型特殊器台形埴輪の囲繞配列が想定されています。この埴輪の分布は吉備・播磨・大和・山城・近江に見られ、古墳時代前期最古段階にこれらの地域に共通した祭器を使用する囲繞配列の分布圏が出現していました。一方、同時期の四国東北部では鶴尾神社4号墳(香川県)を最古とする独自の底部穿孔壺形土器による囲繞配列があります。

古墳時代前期前半になると北部九州・美作・大和・山城・北陸・東京湾東岸・関東北西部・東北南部など、列島の広域に底部穿孔二重口縁壺による囲繞配列が分布するようになります。さらに前期中頃以降には円筒埴輪による囲繞配列の分布域が拡大し、前期後半に入ると囲繞配列は円筒埴輪で行うのが一般的となりますが、北部九州や東日本では壺形埴輪や壺形土器、近畿北部では丹後型埴輪、伊予では伊予型埴輪など、地域的に限定された埴輪を使用する所も依然として存在します。

この囲繞配列がなぜ行われたのでしょうか。氏は、使われる器物が弥生時代の飲食儀礼に使われた儀器を象徴化したものとする考えと、囲うことで主体部(あるいは墳丘全体)を外界から隔離しているという考えを示し、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての時期に飲食儀礼が衰退して囲繞配列が盛行するという大きな流れをもとに、共同体的葬送祭祀から首長霊的葬送祭祀への変化の中で首長の葬られる区域を神聖化しようとする意識が囲繞配列を生み出したとします。また、成立当初の囲繞配列は非常に選択性が強く、祭祀的意味合いが濃いものでしたが、前期後半になるとほとんどの定型的な古墳で囲繞配列が行われ、列島の広い範囲で画一的なデザイン・製作技術の祭器を共有することから、壺や埴輪のもつ祭祀的側面が薄れたと考えられます。

また、弥生墳丘墓で盛行した主体部上の土器配置について、古墳時代前期になると儀礼に使われていた飲食具を穿孔するなど仮器化して供献するという変化が想定されることから、弥生時代以来の飲食儀礼が形骸化して供献儀礼に変化したとします。

以上、古屋氏の論文から参考となる部分を要約する形で弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳墓における祭祀を概観しましたが、次に笹生衛氏の「古墳の儀礼と死者・死後観 -古墳と祖先祭祀・黄泉国との関係-」に別の資料からの情報も付加して3世紀から6世紀までの古墳儀礼を整理してみます。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑩(古墳を舞台にした儀礼)

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物部氏を妄想する⑨(古墳出現前後の祭祀)

2024年01月09日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑨(古墳出現前後の祭祀)

弥生時代中期初め頃に中国から渡来した徐福集団が日本の各地に上陸して神仙思想を広めました。各地の王は不老不死、不老長生にあこがれて自ら神仙になることを望んだものの、現実は誰もが死を迎えます。後継者となった次代の王は亡き先代王を仙界に送り出すため、徐福集団の後裔たち(=各地の物部)とともに神仙思想を取り入れた埋葬や葬送の儀礼を営みました。甕棺墓や土器棺墓、朱に彩られた棺、壺形土器の供献、鳥形木製品の副葬などです。弥生時代後期から終末期になると大きな墳墓を築くようになり、仙界を描いた神獣鏡を副葬し、さらには墳墓の形は仙界を表す壺形になっていきます。

考古学者の福永伸哉氏は、初期の前方後円墳で鏡の多量副葬が始まり、とくに前期の畿内を中心とする有力古墳においては鏡が遺体を取り囲むように配置される方式(身体包囲型配置)が見られ、地域の有力古墳でも足下と頭側に置き分ける方式(頭足分離型配置)が認められるとして、東晋の葛洪が著した神仙術の書『抱朴子』にある「明鏡の九寸以上なるを用ひて自ら照し、思存する所有ること七日七夕なれば、則ち神仙を見るべく(中略)。明鏡は或は一つを用ひ、或は二つを用ふ。之を日月鏡と謂ふ。或は四つを用ひて之を四規と謂ふ。四規なれば之を照らす時、前後左右に各一を施すなり。(後略)」の文を引いて神仙思想の影響を指摘しています。また同時に、棺内への水銀朱の多量使用や神仙世界をモチーフとした神獣鏡の採用も同様に中国思想の影響とします。

遺体が埋葬された墳墓で行われた祭祀について、古屋紀之氏の「古墳出現前後の葬送祭祀」をもとに見ておきたいと思います。古屋氏は、北部九州、山陰・三次盆地、吉備、四国北東部(阿波・讃岐)、近畿地方北部(丹後)の5つの地域において、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳墓の様相と土器配置についての分析をもとに葬送祭祀を考察しています。なお、ここでは氏が庄内式併行期とする時代を弥生終末期、布留式併行期を古墳時代出現期、古墳時代前期前半中相を前期中頃、新相を前期後半と読み替えることとします。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑨(古墳出現前後の祭祀)

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物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)

2024年01月08日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)

前稿において徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる地域において、甕棺墓という埋葬方法、壺形土器を用いた葬送儀礼、水銀朱を用いた埋葬施設や葬送儀礼などに神仙思想の痕跡が共通に認められることが確認できました。これは、徐福がもたらした神仙思想に基づく埋葬方法や葬送儀礼が行われた地域に物部(物部氏と呼ばれる前の各地の集団)が濃密に分布していたということです。「2.物部の由来」で考えたように、物部氏は祭祀を職掌とする氏族でしたが、その原点は徐福が各地で伝えた神仙思想に基づく祭祀を担ったことにあったのではないでしょうか。さらにそれが各地で共通にみられることから、物部氏は徐福一行の後裔氏族として常に情報交換を行いながら各地で神仙思想の布教とともに新しい祭祀を広めていったと考えることができないでしょうか。

「5.物部氏と神仙思想」で触れたように、弥生時代中期から後期にかけて、各地のクニでは強い王(首長)が出現し、その王のもとで首長霊祭祀や祖霊祭祀が執り行われるようになっていきました。徐福集団の後裔であった物部氏はこれに呼応するかのように神仙思想を広めた結果、各地の王は自らが不老不死の神仙になることを望みました。やがて王が亡くなると後継王は亡き先代王を神仙界へ送り出すための埋葬や葬送儀礼を執り行うことになりますが、その祭祀を取り仕切ったのが各地の物部氏だったのです。そしてこの祭祀は、強大な王がいた吉備では双方中円形墳丘墓、丹後では台状墓や方形貼石墓、出雲では四隅突出型墳丘墓といった独自の様式を持った墳丘墓を舞台に行われました。この各地で独自に築かれた墳丘墓を考案したのも物部氏だったのではないでしょうか。

さて、弥生時代に物部氏が始めた神仙思想による葬送儀礼や墳丘墓を舞台にした祭祀はその後、古墳時代に入って前方後円墳という新しい墳墓を舞台とする祭祀に発展していきます。前方後円形という形状の由来については、円形周溝墓や方形周溝墓が発展したもの、円墳と方墳が合体したもの、前方部は祭壇が発達したもの、あるいは参道が発達したもの、など様々な説がありますが、私は辰巳和弘氏などが説く壺の形を模したものという説に説得力を感じています。(詳しくは「前方後円墳の考察①〜⑯」をご覧ください。)

円形周溝墓原形説は初期の前方後円墳には周濠がないものが多いという矛盾があります。円墳方墳合体説では初期の前方後円墳の前方部がバチ形である、つまり方形ではなく台形であることの疑問が残ります。祭壇・参道発達説では祭壇や参道である前方部に埋葬施設があることの説明がつきません。このように各説とも決め手に欠いている状況ですが、壺形古墳説によればこれらの疑問がほぼ解消されるのです。神仙思想では壺の中に仙界が広がるとされます。亡き王を仙界に送り出して不老不死、不老長生を手に入れてもらおうと考えて、朱をまとった棺に納めて壺形の墳墓に埋葬したのです。上空から見なければ壺形であることが認識できないという意見もあるでしょうが、墳丘を壺形にするのは死者の遺体を壺に納めることが目的なので、その形を第三者に見せる必要はないのです。

そこで次は弥生時代終末期から古墳時代初期にあたる3世紀の築造と考えられる前方後円形の墳墓について、徐福伝承地と物部分布地が濃密に重なる5つの地域での状況を確認します。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑧(壺形古墳の登場)

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物部氏を妄想する⑦(弥生時代における神仙思想の痕跡)

2024年01月07日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する⑦(弥生時代における神仙思想の痕跡)

先に見た徐福伝承地と物部分布域の重なる①北部九州一帯、➁瀬戸内海西側の沿岸部、③高知県高知市周辺、④丹後半島を中心にした一帯、⑤伊勢湾岸地域、のそれぞれにおいて、徐福が渡来した弥生時代中期から後期においてこれらの地域で神仙思想を想定しうる遺跡や遺物が見られるのか、を見ておきたいと思います。

まず「①北部九州一帯」を確認しますが、この地域は佐賀県を中心にとくに徐福伝承地が密集しています。その佐賀県に隣接する福岡県を中心とした一帯にある三雲南小路遺跡、吉武高木遺跡、立岩堀田遺跡など、弥生時代中期を中心とする各遺跡において、王墓とみなされる甕棺墓が多数出土しています。また、徐福伝承が色濃く残る佐賀県でも吉野ヶ里遺跡などで同様に多数の甕棺墓が見つかっています。

福岡県糸島市にある方形周溝墓に二基の甕棺が納められた三雲南小路遺跡では、周溝部分から辰砂をすり潰す石杵と水銀朱を入れた鉢が出土しているほか、1号甕棺墓の棺外で朱入小壺が見つかっています。また、福岡市にある吉武高木遺跡では、特定集団墓と呼ばれる甕棺墓群から内部に朱(硫化水銀)が確認された複数の甕棺が見つかっており、この朱は被葬者の顔面など遺体の頭部付近に塗布されたものと考えられています。同じく福岡県の飯塚市にある立岩堀田遺跡でも10号甕棺墓や28号甕棺墓などでは甕棺内に丹(朱と同意か)が塗られており、棺内から複数の前漢鏡や銅矛など豊富な副葬品が納められていました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、弥生時代中期における歴代の王の墓域とされる北墳丘墓から見つかった14基の甕棺のうち、6基から水銀朱が検出されています。

弥生時代中期、北部九州ではこれらの遺跡にみられるように甕棺墓が隆盛します。とくに王墓とされる甕棺墓は複式構造の合口部分を粘土などで密閉しており、再生を願って遺体を保存する意識が強く窺えることから、不老不死を目指した神仙思想に基づく墓制である、との見解があります。東晋の葛洪が著した神仙術の書『抱朴子』によると、神仙には「天仙」「地仙」「尸解仙」の3種類あって、天仙と地仙は死なないでそのまま仙人になる上級の仙人で、尸解仙はいちど死んでから再生して仙人なるというものですが、この尸解仙が仙人の原形だとされます。また、不老不死の仙薬の原料である朱(丹)が棺内に塗られていたり、棺外に朱入りの壺を副葬する例も同様に神仙思想によるものと考えられます。ここでは神仙思想を反映した墓制としての甕棺墓や朱の使用を徐福の痕跡のひとつとして考えたいと思います。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑦(弥生時代における神仙思想の痕跡)

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物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

2024年01月06日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

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物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

物部氏は神仙思想に基づく首長霊祭祀を担う祭祀氏族でした。この神仙思想を日本列島に持ち込んだのはほかでもない徐福です。徐福は中国の秦時代の方士で本名は徐市(じょふつ)といいます。中国においても伝説の人物とされていましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。方士(ほうし)とは、瞑想、占い、気功、錬丹術、静坐などの方術によって不老長寿、尸解(しかい=羽化すること)を成し遂げようとした、つまり神仙になることを目指して修行した者のことです。

司馬遷が著した『史記』によると、秦の始皇帝は長生不老の霊薬を手に入れるために徐福を東方に派遣します。ところがこのときは神薬を得ることができずに帰国、始皇帝の怒りを買うものの懲りずに二度目の派遣を認めさせ、3,000人の童男童女や多くの技術者とともに五穀の種などを持って東方に船出します。神薬を得るために渡海したのだから、一行には徐福と同じ方士が多くいたことでしょう。しかし徐福は平原広沢を得て王となり秦に戻ることはなかったのです。一度目の派遣が紀元前219年、二度目が紀元前210年のことです。また、徐福の時代から約500年後に書かれた「三国志」呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)の記述には「亶洲、在海中、長老伝言秦始皇帝遣方士徐福将童男童女数千人入海、求蓬萊神山及仙薬、止此洲、不還。世相承有数万家」とあり、秦の時代に徐福が渡海した話が記されています。

日本各地にこの徐福にまつわる伝説が残っていますが、これらの中国史書の記録が全て創作とは思えず、また実際に中国で徐福村の存在が確認されたことから、日本における徐福伝説もまったくの創り話ではなく、何らかの史実や根拠に基づいて生まれたものと考えることができそうです。つまり、徐福は日本へ来たということです。私が書籍やWebサイト(できるだけ公的な機関によるもの)で伝承の内容まで確認できた徐福伝承地が下表および下図です。北は青森県から南は鹿児島県まで、日本海側、太平洋側を問わず日本全国で30か所になります。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑥(徐福の渡来)

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物部氏を妄想する⑤(物部氏と神仙思想)

2024年01月05日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

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物部氏を妄想する⑤(物部氏と神仙思想)

物部氏の東遷は、北部九州から瀬戸内海沿岸、さらには摂津、河内、大和にかけて存在した物部一族の支援を受けて実現したのか、あるいは逆に、東遷の際に各地に一族を残留させながら通過したのか、さらには各地の氏族を帰順させて一族に取り込んだ結果としてそこに物部一族が存在することになったのか。順序の違いはあれど、いずれにしても少なくとも3世紀よりも以前のことになります。鳥越氏はそれを弥生時代中期前半より以前(前2世紀頃か)、谷川氏は1〜2世紀のこととします。また、ここまで詳しく触れませんでしたが、守屋尚氏は弥生時代後期中葉(2世紀頃)に東遷を開始したとします。

つまり、早ければ前2世紀頃、おそくとも2世紀には西日本各地にのちに物部氏あるいはその一族とされる集団がすでに存在していたということです。また、そもそも東遷の出発地であり物部氏の故地とされる北部九州に同族集団が濃密に分布していたのはどうしてでしょうか。物部氏の始まりは何だったのか。次にこのことについて考えてみます。

前2世紀から2世紀といえば弥生時代中期から後期にあたります。列島各地では有力な首長のもとでムラが統合されてクニが生まれ、地域ごとに繁栄を築いていました。その状況は中国の史書である『漢書地理志』や『後漢書東夷伝』、さらには『魏志倭人伝』などから窺うことができます。具体的な地域でいえば北部九州や出雲、吉備、丹後、讃岐などの各地に有力なクニがあったことが考古学によって明らかにされています。

前方後円墳が壺形古墳であるとの説を検証した際に、弥生時代後期あるいは終末期の墳丘墓として、吉備の楯築墳丘墓(双方中円形)、丹後の赤坂今井墳丘墓(方形)、出雲の西谷墳墓群(四隅突出形)などを取り上げて、埋葬や葬送儀礼に朱や壺が大きな役割を果たしたこと、それらは神仙思想の観念に基づくものであることを考察しましたが、以下に整理してみます。

続きはこちら→物部氏を妄想する⑤(物部氏と神仙思想)

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物部氏を妄想する④(物部氏の東遷)

2024年01月04日 | 妄想・物部氏
昨年の学習テーマは「物部氏」でした。物部氏はどこから始まったのか、降って湧いたように全国に分布するようになったのはどうしてか、物部氏のヤマト王権内での役割は何だったのか、などなど、折に触れて断片的に妄想していたことを真面目に考えてみよう、自分の妄想が成り立つのかどうかを検証してみよう、と考えて重い腰を上げました(やる前から大変な作業になるのはわかっていたのでそれなりの覚悟が必要でした)。

専門家の本や論文を読んだり、在野の研究家やわたしのような古代史マニアの方々がブログなどで発信されている様々な情報に目を通したり、関連しそうな遺跡の調査報告書から使えそうな情報を探したりしながら、約1年をかけて自分の考えを作り上げ、No.1〜No.18まで全部で18回シリーズ、約5万文字のレポートとしてまとめました。

まとめたものはすでにNoteで有料記事として公開していますが、ここでも18回それぞれ各回の触りの部分のみ紹介してみたいと思います。

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物部氏を妄想する④(物部氏の東遷)

『日本書紀』には、東にある青い山に囲まれた美し国(大和のこと)にニギハヤヒが降臨したこと、神武がその地を都にするために東征したこと、そしてニギハヤヒと戦って勝利し大和で即位したこと、そのニギハヤヒは物部氏の祖であること、が記されます。これは神武天皇に始まるヤマト王権よりも先にニギハヤヒが大和を治めていたことを表している、とされます。

民俗学者の谷川健一氏は「ニギハヤヒの降臨=物部氏の東遷」とし、ニギハヤヒを奉斎する物部氏がその故地である北部九州を出て河内、大和に東遷したと説きます。そして、大和の先住民であったナガスネヒコがその物部氏の権力を背景に大和を支配したとし、氏はこのナガスネヒコによる大和支配を「物部王国」と呼びます。さらにその物部氏の故地は現在の福岡県直方市もしくは鞍手郡で、東遷の時期は『魏志倭人伝』に記される倭国大乱があったとされる2世紀後半とします。

『先代旧事本紀』にはその物部氏東遷(ニギハヤヒ降臨)に加わった氏族の名が記されます。谷川氏はこれらの氏族名、その前提としての地名の分析などから河内・大和・摂津と筑前・筑後にまたがって物部氏の同族が多いことを指摘し、東西に渡る一族の交流があり、1〜2世紀頃から東への移動が始まったとします。1〜2世紀あるいはそれ以前の時点で東西に渡る一族の交流があったとする氏の指摘は明確な根拠が示されませんが、極めて示唆に富む指摘であると思います。

同じく民俗学者であり歴史学者でもある鳥越憲三郎氏も、後世に「物部」を称する一族が遠賀川下流域の鞍手郡から河内・大和に東遷したとします。谷川氏同様に『先代旧事本紀』に記されるニギハヤヒ降臨に登場する氏族名から類推される地名に対して、主として『和名類聚抄』をもとに考証した結果、遠賀川流域あるいはその周辺に残る地名と河内・大和のそれらが一致するケースが多くみられるとして、鞍手郡を中心とした地域に居住していた物部氏の主力が河内・大和へ移動したことが確実であると説きます。

続きはこちら→物部氏を妄想する④(物部氏の東遷)

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