古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神原神社古墳

2017年03月31日 | 遺跡・古墳
 ツアー最終日は気温も上がってポカポカ陽気の中、絶好の実地踏査日和となった。お宿を8時に出発し、まず向かったのが神原神社古墳。途中、右折すれば加茂岩倉遺跡という交差点を通り過ぎ、まっすぐに第一の目的地へ。この神原神社あるいは神原神社古墳は、ちょうど6年前に出雲へ出張した際に訪れたことがある。そのときの印象を元に書いた記事がこちら

 神原神社は島根県雲南市加茂町にある神社で、もともとこの神社は古墳の上に建てられていたが、昭和47年(1972年)、斐伊川水系の赤川の改修工事で社地が新堤防域に組み込まれるために神社を南西に50mほど遷移することになり、その際に古墳の発掘調査を行ったところ、その竪穴式石室から魏の「景初三年」(239年)の銘が入った三角縁神獣鏡が見つかったという。この鏡はあとで訪問する島根県立古代出雲歴史博物館にて現物を見ることになる。

 神社は現在の地に移されたが、古墳は残念ながら破壊されてしまい、現在は神社横の敷地に石室が復元されるのみである。これも開発と保存の狭間での妥協の結果ということだ。古墳を避けて堤防を築くことができなかったのかなあ、と少し残念に思う。この古墳は29m×25m、高さは5m程度の方墳と推定され、島根県では最古に属する前期古墳であるという。

堤防上から見た復元施設。


神社側から。


施設前の説明板。


復元された石室。


出土した三角縁神獣鏡の写真。大阪の和泉黄金塚古墳からも景初三年銘の鏡が出ている。


古墳発掘の様子。神社が壊されるのと同時に石室が明らかになってくる様子がわかって面白かった。





神原神社。

小さな神社のわりに注連縄が立派。さすが出雲。祭神は大国主神、磐筒男命、磐筒女命の三柱である。ということはこの神社が建てられていた古墳の主は大国主神ということになりはしないか。



 隣を流れるのが赤川。赤川という川の名前からの連想もあり、また前回ここを訪れたときのタクシーの運転手の話もあって、記紀に記される八岐大蛇の説話を思い出す。八岐大蛇、古事記では「彼目如赤加賀智而、身一有八頭八尾、亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而、見其腹者、悉常血爛也(大蛇の目は赤加賀智(アカカガチ=ホオズキ)のように赤く、体はひとつで、頭が八つ、尻尾が八つ、日陰かずらや檜や杉が生えていて、八つの谷と八つの峰に及び、その腹をみると常に血が滲んでいる)」と大蛇の姿を実に写実的に描いている。腹に滲む血とは、この地で砂鉄による製鉄が行なわれいたことから、その砂鉄(酸化鉄)が山や川を赤く染めた状況を表しているのではないか、とする説がある。錆びた鉄は赤い、という印象によるものだ。
 前日に訪れた菅谷たたら山内。ここで砂鉄による製鉄の様子をつぶさに知ることができた。この地の砂鉄は赤くない。かんな流しで採取する山砂鉄も、川底に沈む川砂鉄もその色は「黒」だ。出雲の砂鉄は黒色だ。したがって、八岐大蛇の腹の血は砂鉄ではない。この腹に滲む血は山のあちこちで行なわれるたたら製鉄の「炎」を表している、と考える方が妥当だ。ここでも、百聞は一見に如かず。

 2回目の訪問であったが前回よりも知識が増えている分だけ感じることも多かったかな。このあとは来た道を引き返して加茂岩倉遺跡へ。この加茂岩倉遺跡とその次の荒神谷遺跡はSさんもOさんも絶対に行きたい場所と強く主張されていた遺跡。その念が何かを寄せ付けることになったのだろうか。その何かは次回のお楽しみに。

 


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熊野大社(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.18)

2017年03月30日 | 実地踏査・古代史旅
 鉄の歴史博物館を後ろ髪ひかれる思いで出発。何とか熊野大社を参拝しようと、吉田掛合インターから松江自動車道(無料区間)に乗って次のインターの三刀屋木次で降り、県道24号線から53号線に入って山道を走る。この日は丹後半島からのロングドライブのため、ドライバーOさんはかなり疲れていたと思うが、日暮れの山道も慎重に運転していただいた。山道は暮れるのが早いというのはその通りで熊野大社に到着したときには太陽は沈んで空の色がどんどん濃い灰色に変わっていった。それでも神社は参拝が可能であったので、お賽銭を入れていつも通りに「健康で長生き」をお願いした。

 さて、ここ熊野大社は出雲大社とともに出雲国一之宮であり、主祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)」という長ったらしい名前の神様であるが、要するに素戔嗚尊のことである。創建は不明であるが、歴史上の初見は日本書紀の斉明天皇5年(659年)の「出雲國造を厳神の宮をつくらしむ」の記載である。出雲大社との関係が深く、出雲大社宮司の襲職は熊野大社から燧臼燧杵の神器を拝戴する事によって初まるのが古来からの慣で今も奉仕されている。以下、Wikipediaより引用する。

 火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。

一の鳥居。


二の鳥居。


随神門。大きなしめ縄。


拝殿。ここにも特大のしめ縄。


舞殿。


 ここ熊野大社でも大失敗をやらかしてしまった。実は私がここに来たかった一番の理由が、火継式が行われる鑽火殿を見ることであった。出雲国造家にとっての神聖な場所をこの目で見て出雲大社とのつながりを感じたかったのだ。それが何としたことか、日が暮れてしまう前に到着でき、一度はあきらめた熊野大社参拝が実現できることの喜びの気持ちが勝ってしまい、鑽火殿を拝むことをすっかり失念してしまっていた。またしてもあとの祭り。それに加えて、拝殿右側の舞殿がたいへん立派だったのでこちらの撮影に神経が行ってしまったのも後悔だ。実は拝殿の左側に鑽火殿があったのだ。失念していたとしても、もしもこれが目に留まって入れば思い出したであろうに。かえすがえすも残念だ。悔しい。

 そんなことで熊野大社の参拝を終え、ツアー2日目の予定が終了した。あとは安全運転で玉造温泉にたどり着くのみ。2日目のお宿は長楽園


 源泉かけ流し混浴大露天風呂は日本一という。湯あみ着を着用して入るので混浴でも全く問題はなかった。広々とした露天風呂はいつまでも浸かっていたいと思うほどに気持ちがよかった。

料理も半身の松葉ガニと陶板焼きのステーキがセットになった豪華な夕食。



何から何まで充実のツアー2日目でした。
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菅谷たたら山内(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.17)

2017年03月29日 | 実地踏査・古代史旅
 妻木晩田遺跡の見学を終えた時点で予定時刻を大幅にオーバーしていたため、次の熊野大社をあきらめ、ルート変更して高速道路を利用して菅谷たたら山内を目指すことにした。タイムリミットは入館締め切りの16時。カーナビでルート探索すると到着予定時刻は16時を過ぎることになっている。ドライバーのOさんには安全運転を心がけながらも急いでもらう必要があった。高速を降りてからの山道、男3人を乗せたヴィッツはウィーンと唸りながらドライバーとともに頑張ってくれた。その甲斐あって閉館時刻の5分前に到着。
 しかし、受付に行っても誰もいない。何度叫んでも誰も出てこない。しかたなく、そのまま見学施設である「高殿」に入ることにした。おっちゃんが大きな声でお客さんに説明していた。1人でやっているからどうしようもないとのことで、料金を後回しにしてとにかく説明を聞くことした。たたら製鉄のことは以前から少し勉強していたので、実際の設備を見ながら説明を聞くとよくわかった。

高殿の外観。

ここ菅谷高殿は全国で唯一現存する建物で、嘉永3年(1850年)の火災後に修繕され、大正10年(1921年)まで操業していたという。

部屋の真ん中にある炉。

土炉の両側にふいごがある。昔は天秤ふいごを踏んで炉内に空気を送り込んでいた。もののけ姫の世界だ。現存のふいごは水車による送風に変わっている。

ふいごに空気をおくる水車。高殿に隣接しており、送風管が高殿の下を伝ってふいごにつながっている。


ふいごの裏側に地中からの送風管が繋がっているのがわかる。


炉の上部。

この屋根は開閉ができるようになっている。そして万が一のために水を湛えた大きな樽が屋根の上に備え付けられていたという。

村下座。村下(むらげ)の控えの間である。

村下とはたたら製鉄における技師長のことで、世襲で一子相伝、その技術が外に漏れることなく代々伝えられてきた。

 静かな山の中、ただ鉄を作り出すというだけの同じ目的を共有する人々によって営まれる村。高殿に炉が構築され、いざ火が入ると三日三晩、炎の状況や炉内の状況を見ながら同じ作業を繰り返す。そして出来上がる鉄の塊。それは鉧(けら)と呼ばれる。炉の構築から鉧を取り出すまでの手順はまるで神聖な儀式のようである。

高殿から車で3分ほどのところにある「鉄の歴史博物館」。


その入り口に置かれた鉧。

これを大銅場という作業場で割って玉鋼などの部位に選別した。

大銅場。高殿の横にある建物。

真ん中に見える先の尖った大きな分銅で鉧を割るという。

 この博物館で見た映像は迫力があった。炉の地下設備の構築から鉧出しまで一連の作業が映し出され、緊張しながら深く見入ってしまった。かんな流しによる砂鉄採集、ふいごの構造、炉から取り出した鉧を池に入れて冷やす様、玉鋼の取り出しなど、事前学習で今ひとつ解りにくかったことがすべて理解できた。やはり百聞は一見に如かず、だ。

 それにしても、この博物館のある街並みは雰囲気があった。お土産屋さん、飲食店、宿泊施設などを誘致して、たたら製鉄とセットにして上手に売り出せば集客力は十分にあると思うのだが。


 青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡、そして念願のたたら製鉄、たいへん満足度の高い1日であった。前日の鮮やかな虹のおかげかも。日暮れが迫っている。この日のお宿は玉造温泉。山道を走れば途中で熊野大社に寄ることができる。日が暮れて参拝できないかもしれないが、とにかく行ってみることにした。



●古代の製鉄技術を知りたい方にお勧めです。

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妻木晩田遺跡(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.16)

2017年03月28日 | 実地踏査・古代史旅
 青谷上寺地遺跡をあとにして車は9号線バイパスに入る。途中、道の駅でランチを済ませたあと、山陰道の無料区間に入ってさらに快適なドライブが続く。大山連峰が見えてきた。このあたりは日本海からの風が強いのだろう、風力発電の風車が立ち並ぶ。




1時間近く走ってついに妻木晩田遺跡に到着。遺跡の概要はこちら。まずは資料館「弥生の館むきばんだ」で情報収集。

この資料館の展示はいただけない。遺跡の価値を台無しにするような安っぽい展示だった。青谷上寺地遺跡の資料館を見習ってもらいたい。

 そしていよいよ遺跡見学。広大な遺跡だが事前の学習でどこを見るかは決めていた。遺跡西側の洞ノ原地区の墳墓群と環壕集落、自分だけでなくSさん、Oさんにも是非とも見てもらいたいと思っていた。

遺跡全体のマップ。洞ノ原地区はマップの左下あたり。


復元された土屋根と草屋根の竪穴式住居。


内部は意外に広く、7~8人が暮らせそうだ。壁際の一段高いところがベッドスペースだ。


 洞ノ原地区は東側の丘陵上に四隅突出型墳丘墓11基を含む25基の墳墓が見つかった。弥生時代後期初頭から後期中葉にかけてのものである。妻木晩田王国前半期の王族の墓域と考えられる。

小さな四隅突出型墳丘墓群。貼り石でそれとわかる。


白く延びる遊歩道の先に環壕集落。その向こうには美保湾が広がる。美しい。


環壕集落内に復元された高床式の建物。建物越しに広がる美保湾。この光景を見たかった。


 遺跡全体が丘陵上に作られているのがよくわかる。この遺跡はいわゆる高地性集落である。先に見た青谷上寺地遺跡との関係で捉えるとこうなる。さらに四隅突出型墳丘墓の分布や変遷を合わせるとこのように考えられる。

 素晴らしい遺跡と景色を堪能して次の目的地へ向かおうと車に戻ったところで、遺跡の反対側(東側)に遺構展示館があることに気がついて、時間が厳しい中であったが少しだけ見に行くことにした。

竪穴式住居跡の発掘時の状況をそのまま保存している。



展示館のバルコニーからの眺め。遠くに日本海が見え、海岸に沿って風車が並ぶ。


 さあ、時間がない。30分の予定のところ、1時間を費やしてしまった。それだけ価値ある遺跡だったのでそれはそれでいいのだが、たたらに間に合うかが問題だ。予定では次は熊野大社であったが、いったんあきらめて菅谷たたら山内に向かうことにした。




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青谷上寺地遺跡(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.15)

2017年03月27日 | 実地踏査・古代史旅
 丹後半島を出発しておよそ3時間で青谷上寺地遺跡展示館に到着。しかし「まもなく目的地周辺です。案内を終了します。」とカーナビに告げられ、道路標示もそれを示しているにも関わらず、それらしき建物がない。とにかく道路標示が示す駐車場に入ると建物が4つある。1つはドラッグストアなのでこれは違う。2つめは商工会のビルでどうも違う感じ。一番小さいのがプレハブ作りで郵便局のよう。4つめの建物が「青谷ようこそ館」という雰囲気を醸し出す建物。これだろうと思って車を降りて歩き出してふと右手をみると、郵便局と思われたプレハブに「青谷上寺地遺跡展示館」の文字が。なんと、これかい。半信半疑で入ってみた。

これ、半信半疑になるでしょう。


 しかし、遺跡そのものが後述するように非常に特徴的かつ重要であることに加えて、展示物が小さくコンパクトにまとめられていて見せ方が上手いので、拝観後の満足度は非常に高かった。ちなみに、入館料は無料である。素晴らしい。

郵便局かと思われた展示館の入り口を入っですぐのスペースで遺跡の概要をビデオで紹介してくれる。遺跡が栄えた当時の様子をCGで再現した映像が非常にわかりやすかった。


展示室の入り口。


 青谷上寺地遺跡は弥生時代前期末から古墳時代前期初めにかけて存在した遺跡である。弥生中期後半に著しい拡大を遂げて後期に続いたが古墳時代が始まると突如として姿を消した。この遺跡について以前に書いた記事がこちら


弥生人の脳が奇跡的に残っていた。


古代人の脳は世界に6例しかなく、そのうちの1つがこれだ。


弥生人の脳だけでなく戦いによって傷ついたと考えられる殺傷痕人骨が110点見つかった。


 これらの人骨は埋葬されていたのではなく溝などからバラバラな状態で出土した。男性だけでなく、女性や子供の骨も見つかったという。倭国大乱を裏付ける遺跡であるとされる所以である。
 このほかに特徴的な遺物としてサメやシカやキツネなどが描かれた板や土器がある。その絵が実に動物の特徴をよく表していて、弥生人の観察眼とデザイン力に驚かされた。また、弥生時代最大の板材を利用した護岸施設や大型建築部材、屋根の下地など、進んだ建築技術を持っていたことを伺わせる遺物も出ている。

このパネルから木材の加工技術や建築技術の高さがわかる。


個人的に興味を引いたのがこの楯である。


 赤く塗られた表面に渦巻の模様がある。楯に渦巻き模様を描くのは南九州の隼人族と同じだ。青谷上寺地を拠点とした海洋族と隼人族は何らかのつながりがあるのだろうか。

 このほかにもまだまだ紹介したい遺物や遺構があるがこれくらいにしておこう。この展示館を45分ほどで終わらせ、トイレも済ませて車に乗り込み、次の妻木晩田遺跡に向かおうとして気がついた。肝心の遺跡の現場を見ていない。どうせ埋め戻されて何もないのだろうけど、ここまで来て見ないわけには行かない。しかし、すぐに場所がわからず、近くの手入れのされていない空き地を遺跡だろうと勝手に思って車窓から眺めるだけにとどめた。何しろ時間が厳しいので。しかし、帰宅後に調べてみると遺跡はもう少し離れた場所にあって、発掘時の様子を説明した案内パネルが並んでいた。それともうひとつ、近くの青谷総合支所には青谷調査室というのがあって、遺跡からの出土品の収蔵状況を公開していて職員の方が解説してくれたらしい。いずれもあとの祭りだが、おそらくこれらを見に行ってると菅谷たたら山内には間に合わなかっただろうから、結果的に正解だった、と自分に言い聞かせている。

 3人は次の妻木晩田遺跡へ急いだ。
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丹後から青谷上寺地遺跡まで(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.14)

2017年03月26日 | 実地踏査・古代史旅
 ツアー2日目は丹後半島をあとにして出雲を目指すロングドライブ。朝6時に起床してゆっくり温泉に浸かった後、お宿の裏へ出て天橋立越しに上る朝陽を眼に納め、7時半からの朝食をしっかりいただく。やはりお米がおいしく、朝からお腹パンパン。そして8時過ぎに出発。この日は当初予定では最初の訪問地が武内宿禰の終焉の地である因幡国一之宮の宇部神社であったが、そのあとの青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡は絶対にはずせないし、それ以上にはずせない菅谷たたら山内は16時が入館締め切りなので絶対に遅れるわけにはいかない、ということで宇部神社を早々にあきらめることにした。結果は大正解で、ここに立ち寄っていたらたたら製鉄の本場を見ることはできなかった。
 今回の記事は、お宿を出たあと最初の訪問地である青谷上寺地遺跡までほぼ3時間、ひたすら走るだけであったが、途中にあったエピソードを紹介することにしたい。

出発前。お宿の裏はすぐに阿蘇海、右手には天橋立。


前日のぐずついた天候から打って変わってスカッと爽やかな1日のスタート。

 前日に引き続きOさんが運転するヴィッツは国道312号線を西に向かった。途中、朝の爽やかさがウソのように降りだした雨の中、籠神社に伝わる勘注系図に饒速日命が降臨した伊去奈子嶽と記される磯砂山(いさなごさん)を左手に見ながら久美浜湾のあたりで国道178号線に入る。これでついに丹後半島を1周したことになるわけだ。


さらに走って日本海に出る直前、餘部鉄橋の下にある道の駅「あまるべ」でトイレ休憩。


 ここは一昨年にも訪れ、近くの旅館「尾崎屋」で松葉ガニを堪能した。人生で最も満足度の高いカニ料理だった。餘部鉄橋は1986年の列車転落事故のあと、コンクリート製の橋脚に付け替えられたが、当事の鉄製橋脚の一部が残されていて大惨事の記憶を生々しく伝えてくれている。

 178号線から9号線のバイパスに入り快適なドライブが続く。いつの間にか鳥取市を抜けて海岸沿いに出たかと思ったら「白兎海岸」の案内。因幡の白うさぎの舞台だ。景色の素晴らしさにつられて道の駅「神話の里 白うさぎ」で休憩することにした。

左手に見えるのが気多の岬。白兎は隠岐の島からここまでワニを並べさせた。

この神話は日本書紀には記載なく、古事記と因幡国風土記が記している。出雲の大国主神の勢力がこの因幡国まで及んでいたことの表れだろう。

白兎神社。由緒不明、祭神は白兎神という。

境内には白兎が体を洗った御身洗池があり、近くには白兎が身を乾かした山と伝えられる身干山があるらしい。

 さあ、あと少しで青谷上寺地遺跡だ。



 

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大風呂南墳墓群(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.13)

2017年03月25日 | 実地踏査・古代史旅
 籠神社・真名井神社をあとにして向かったのが初日の最終訪問地である京都府与謝郡岩滝にある大風呂南墳墓群。ここはコバルトブルーに輝く見事なガラス釧(腕輪)が出たことで一躍有名になった。丹後半島東側の付け根、野田川河口付近から大宮町の竹野川上流に通じる峠道の尾根の先端に築かれた弥生時代後期の墳墓群。1号墓は方形台状墓で、朱が敷き詰められた大きな舟底状の木棺が納められ、前述のガラス釧1個、銅釧13個、ガラス製勾玉50個、多数の石製管玉に加えて、11本の鉄剣、4個の鉄鏃、鉄製ヤスリなど多量の鉄製品も副葬されていた。

 今では木々が生い茂る山道であるが、もしもこの木々がなかったとしたら眼下に阿蘇海や天橋立を見下ろす絶景の尾根に築かれた墳墓である。墳墓の規模は大きくないが、素晴らしい副葬品の数々や墳墓が築かれた場所を考えると、弥生時代後期に丹後半島東側を治めた王の墓と考えるのが妥当であろう。大風呂南墳墓と同じ弥生時代後期、丹後半島西側には先に見た赤坂今井墳丘墓が築かれている。丹後半島には東西を分割統治する二人の王が並立していたのかもしれない。

今では埋め戻されて単なる草むらになっている1号墓跡。


1号墓から少し奥に入ったこのあたりが2号墓のはず。

真ん中に見える建物の上には携帯電話の電波塔が立っている。こんな山中にある重要遺跡が偶然にも発見されたのはこの電波塔建設のおかげである。現代人が開発を進めるに比例して古代史が解明されていく。

この案内板はカラーであって欲しかった。


大風呂南墳墓や丹後の遺跡を知りたい方に是非とも読んでいただきたい一冊。

北近畿の弥生王墓 大風呂南墳墓 (シリーズ「遺跡を学ぶ」108)
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 以上で初日の実地踏査は終了。まもなく日暮れがやってくる時刻になったが、途中の新井崎神社をキャンセルして伊根の舟屋に変更した以外は予定通りに行程を進めることができた。遺跡は全部埋め戻されているので遺跡そのものを確認することはできないが、その立地条件を理解し、実際にその場に立って周囲の風景や空気を五感で感じることは大いに意味があると改めて思った1日だった。

 1泊目のお宿は天橋立からすぐ近くの天橋立温泉「仁風荘」。お宿代はひとり1万円。少量だけどカニがついて、煮魚が美味くて、それに何といってもつやつやのお米が最高に美味くて、何とお茶碗に三杯もいただいてしまった。楽天の評価やコメントがイマイチだったのでかなり不安を抱いていたのだけど、宿泊客が少なくて一番広い部屋を使わせていただいたことも含めて、満足のお宿でした。

 
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籠神社・真名井神社(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.12)

2017年03月24日 | 実地踏査・古代史旅
 丹後半島を一周してついに念願の籠神社へ到着。京都府宮津市大垣にある丹後国一之宮で祭神は彦火明命。真名井神社との関係で由緒がややこしかったので籠神社のWebサイトをもとに改めて整理すると次のようになる。

【神代】
 ・彦火明命が真名井原にて豊受大神を祀っていた(吉佐宮と呼ばれていた)
【崇神天皇の時】
 ・天照大神が大和の笠縫邑から真名井原の吉佐宮に遷された(豊鍬入姫命による)
 ・その後4年間、天照大神と豊受大神が一緒に祀られていた
【垂仁天皇の時】
 ・天照大神が伊勢に遷された(倭姫命による)
【雄略天皇の時】
 ・豊受大神が伊勢に遷された(天照大神のお告げによる)
【飛鳥時代】
 ・宮名を吉佐宮から籠宮と改めた
【養老三年(719年)】
 ・真名井原から現在の地に遷宮されて現在の籠神社が創建された
 ・主祭神を海部氏の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀って創祀した
 ・真名井原では遷宮後も祭祀が続けられ「真名井神社」と呼ばれるようになった

 籠神社の宮司家は海部氏であり、真名井神社(吉佐宮)を創建した彦火明命は海部氏の始祖とされる。つまり現在の籠神社は海部氏が自らの祖先を祀っていることになる。彦火明命(天火明命)は日本書紀では瓊々杵尊の兄(一書では父)とされ天孫族になる。先代旧事本紀では物部氏の祖である饒速日尊と同一神とされ、この立場に立てば海部氏は物部氏と兄弟氏族ということになる。このあたりの謎は今後も時間をかけて解いていきたい。

立派な一の鳥居。


きれいな参道。百度石まで立派。


重厚感ある二の鳥居。カネあるなぁ、なんて下世話な感想。


由緒。これまた立派。


この神門から先の境内は撮影禁止。



 近くの丹後郷土資料館へ行けば海部氏系図や海部直伝世鏡などの宝物のレプリカを見れると聞いたが、真名井神社へも行きたいし時間的に厳しかったのであきらめざるを得なかった。もともと厳しいスケジュールだったのでやむを得ない。籠神社が開いている時間に到着しただけでOKだ。拝殿で拝んでから徒歩で真名井神社へ移動。

 真名井神社は残念ながら改修工事中。

一の鳥居かな。


真名井の御神水。


真名井原の縁起。ちょっとピンボケになってしまった。




二の鳥居から本殿への参道。


磐座。本殿はすでに取り壊されており、磐座ともどもシートで覆われてしまっていので撮影できたのはこれだけ。。



参拝を終えて戻る途中、海面から空に向かって伸びる大きな虹がくっきりと見えた。明日はいいことあるぞ。


籠神社、真名井神社の参拝を無事に終え、初日の最後の目的地である大風呂南墳墓群へ向かった。

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浦嶋神社(宇良神社)(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.11)

2017年03月23日 | 実地踏査・古代史旅
 竹野神社を後にして向かったのが京都府与謝郡伊根町本庄浜にある浦嶋神社。この時点で予定時間をかなりオーバーしていたので先を急ぐ必要があった。しかし、ここからは丹後半島一周ルートに入る。天候も怪しくなってきてツアー初日のメインイベントである籠神社に時間内に着けるかどうか、暗雲が立ち込めてきた。

 浦嶋神社は延喜式神名帳に「宇良神社(うらのかむやしろ)」と記載されているらしい。祭神は浦嶋子、つまり浦島太郎である。創祀年代は825年、浦嶋子を筒川大明神として祀ったと神社に立つ由緒に書いてある。銚子山古墳のたもとに屋敷を構えていた浦嶋児がここに祀られている。日本書紀の雄略紀や丹後国風土記に浦嶋子の説話が記されており、1300年以上を経た現在まで浦嶋伝説が語り継がれているのがすごいと思う。

「郷土の歴史と文化を守る会」が設置した由緒が書かれた説明板。


境内は駐車場からすぐ。


拝殿。



境内にある蓬山(とこよ)の庭。

事前にネットで調べた写真では石組みの前は海をイメージしたと思われる波模様が白い石できれいに描かれていたが、前日からの悪天候の影響か、木の枝や葉っぱで乱れていたのは少し残念だった。

 浦嶋伝説はまだまだ勉強不足。この丹後の地になぜこのような説話ができあがったのか。記紀の海幸山幸説話との関係、塩土老翁との関係などを考えると、丹後と大和政権誕生に何らか関係があったような気がするが、今後の課題としておきたい。

 参拝途中から雪混じりの雨が降り始め、気温がかなり下がってきた。先を急がねば。次の予定は徐福伝説のある新井崎神社であったが、国道をはずれてさらに岬の先まで行かねばならないため、残念ながらあきらめることにした。で、その代わりと言うわけではないが、Oさんが「伊根の舟屋」を見に行きたいとドライバー特権で主張された。ルートをあまりはずれることなく行けるのと、写真を撮るだけということで時間ロスがあまりなく、私もSさんも了承して次は伊根の舟屋へ向かった。




 以上、伊根の舟屋でした。
 次はいよいよ本日のメインイベントである籠神社へ。



浦島伝説のルーツをたどり浦島一族の真相に迫る一冊。
浦島太郎の知られざる顔 (シリーズ〈古代史の探求〉)
クリエーター情報なし
ミネルヴァ書房
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竹野神社(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.10)

2017年03月22日 | 実地踏査・古代史旅
 神明山古墳を堪能したあと、もと来た道を引き返して竹野神社の参道にもどり、せっかくなので参拝することにした。「竹野」と書いて「たかの」と読む。第9代開化天皇に嫁いだ丹波国大県主由碁理(ゆごり)の娘「竹野媛」が晩年郷里に帰って「天照皇大神」を祀ったとされる由緒ある神社で、したがって祭神は天照皇大神。創建年代は不明である。
 本殿脇には摂社である斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)。祭神は開化天皇皇子で丹波道主命の父である日子坐王命、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命、そして竹野媛命の三柱。神明山古墳の被葬者は日子坐王命という説もある。


資料館から府道を渡ったところに三の鳥居があり右側に「竹野神社」、左側に「斎宮神社」の石標が立つ。


丹後市教育委員会による縁起の説明板。


中門へ続く参道。

普通は参道のまっすぐ先に拝殿、本殿が正面を向いて見えるのだが、ここは参道の軸と本殿の軸が少しずれている。

立派な中門。


本殿。

天皇家ゆかりを意味する「菊の御紋(菊花紋)」と皇室専用の家紋「桐花紋」が彫られている。

本殿と並んで建つ境内摂社の斎宮神社。


参道わきの不思議な石。

木が小さいときに地面の石を巻き込んでくわえ込み、そのまま石を持ち上げてこんな状態になった、と想像する。力ずくでも取れなかった。

 駐車場に戻るときに気がついたが、三の鳥居から海に向かって参道が延びている。資料館の少し先に二の鳥居があり、参道はさらに先まで延びている。時間があれば行ってみたかったが、残念ながら急ぐ必要があったために車に乗り込んで次の目的地に向かった。
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神明山古墳(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.9)

2017年03月21日 | 実地踏査・古代史旅
 古代丹後の里資料館を見学したあとは近くの神明山古墳へ。資料館の方に行き方を教えてもらうと目の前の竹野神社の参道わきから登る道があるというので車を駐車場においたまま向かった。

 この古墳は京丹後市丹後町宮にある前方後円墳。先に見た網野銚子山古墳、与謝郡与謝野町加悦にある蛭子山1号墳と合わせて「日本海三大古墳」と言われる。全長が190mで銚子山古墳に次ぐ規模で、古墳時代前期末~中期初頭頃(4世紀末~5世紀初頭頃)の築造とされる。
 未だに発掘調査が行われていないが、遺物として墳丘表面の葺石のほか、円筒埴輪・形象埴輪(家形・盾形・蓋形埴輪など)・石製模造品(詳細不明)・弥生土器(墳丘封土内より)などが検出されている。埴輪では丹後型円筒埴輪の破片が見られるほか、舟を漕ぐ人物の線刻を有する破片も見られる。網野銚子山古墳と同様に潟湖である竹野湖に対して葺石で覆われた墳丘の横面を見せる形式をとっている。竹野群誌によると網野銚子山古墳と同様に、日子坐王もしくは丹波道主命の墓と言われている。


公会堂の入り口にたつ京丹後市教育委員会による説明板。


公会堂の入り口から古墳のくびれ部へ通じる小道。


後円部の手前から振り返って前方部を撮影。


前方部から墳丘上へ。


後円部の頂上。



日本海を臨む。


日本海から見た葺石で覆われた墳丘。(「丹後王国の世界」より)

北西方面から見たときの現在の古墳の姿とCGで再現された葺石で覆われた築造時の姿を比較。銚子山古墳と同様に潟湖に面した場所に築かれた様子がよくわかる。太陽が西に傾きかけた頃に日本海から古墳を眺めると西陽が葺石に反射して輝いて見えたことだろう。

 それにしても、なぜこの墳丘を発掘しないのだろうか。墳丘上は見ての通り木々が茂ることもなく、いつでも掘り起こせる状態なのに。銚子山古墳の墳丘終端を確認するための発掘と比べると、ここの埋葬主体を掘る方がよほど意味があるように思うのだが。
 後ろ髪をひかれながら神明山古墳をあとにして来た道を引き返し、駐車場にもどる途中に竹野神社を参拝した。





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古代丹後の里資料館(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.8)

2017年03月20日 | 実地踏査・古代史旅
 遠所遺跡のあとは神明山古墳と古代丹後の里資料館へ向かったが、ここで大きな失敗をしてしまった。

 実はこのツアーの行程を考えているときに「どこへ行くか」だけでなく「どこを走るか」も重視して頭を悩ませた。ニゴレ古墳の舟型埴輪に見たように、丹後が「古代丹後王国」として繁栄した理由のひとつは、海洋族であった一族にとってこの丹後の地が海運、水運に恵まれていたことがあると考えている。丹後半島西側には浅茂川湖や離湖などの海岸沿いに点在する潟湖があり、丹後半島を縦断するように竹野川が流れ、そして半島東側には外洋から内に入り込んだ宮津湾やその奥には天橋立で仕切られた阿蘇海があり、さらには由良川から加古川を行けば瀬戸内海へも通じる。舟を使って縦横無尽に動き回ることができるのだ。今回のツアーでは各地の遺跡や古墳を「点」で捉えるだけでなく、それらをつながりとしての「線」で考えたり、丹後全体を「面」で感じたいと思っていた。だから走るルートも考えた。

 遠所遺跡から神明山古墳への当初予定ルートは来た道を戻って竹野川に出て、川沿いの国道を北上するというものだった。竹野川を舟で行くように周囲の景色を感じたいと思っていたからだ。竹野川に沿う平地部分は峰山町付近でも海抜が25mほどである。峰山から河口まではおよそ15kmなので川の流れはゆったりしている。だから周囲の山から流れ出た砂がたまりやすい。実際にここに立ってみるとわかるが、この川沿いの平地は本当に真っ平らである。長い年月を経る中で徐々に砂に埋もれていったという印象だ。時間を巻戻して古代にさかのぼると竹野川の河口はもっと手前にあった、つまり海面がもっと奥まで入り込んでいたのではないか。
 丹後を研究しておられる斉藤喜一氏のサイトである「丹後の地名」を拝見すると「『丹後町史(昭51)』によれば、江戸時代の金毘羅(峰山町泉)詣りは、間人方面からなら、多久神社(峰山町丹波)の下までは舟でいったと言われている。」とあり、いずれにしても少なくとも江戸時代までは竹野川の水運が利用されていたことがわかる。

 今回の当初ルート(竹野川沿いの国道482号線)を辿ることによってこのことを体感したかったのだが、もともと時間的に厳しい行程を組んでいたために若干のあせりの気持ちからこのことがすっかり頭から抜け落ちていて、遠所遺跡から神明山古墳へはカーナビが選んだ最短ルート、すなわち海岸沿いの国道178号線を走ることになってしまった。途中で思い出したものの後の祭り。あー、残念。でも、琴引浜や間人海岸を眺めながらのドライブも良かったのでOKだ。

海岸沿いの国道から。




そんなことで神明山古墳へ到着したものの、先に近くにある古代丹後の里資料館を見学することした。資料館は小ぶりではあるがこの田舎にしては立派な建物。


以下は資料館での展示の様子。




 丹後の歴史を理解するために時系列に構成され、遺跡や古墳からの出土物はレプリカではなくほとんどが実物を展示していたように思う。小さな資料館であるが見学後の満足感、充実感は大きかった。時間があれば説明パネルを順に読みながら理解を深めたかったがタイトなスケジュールのためにそれは叶わず、その代わりに窓口で展示ガイド「丹後王国の世界」を購入。

 

 資料館の入館料が300円、ガイドブックが500円。内容の充実ぶりから考えるといずれも格安だ。
 沖縄の「ゆこ」さんがやっておられる「沖縄写真通信」というホームページがある。写真を通じて沖縄の自然・文物などを紹介するサイトであるが、全国各地の博物館や資料館を訪ね歩いた際の詳細なレポートが掲載されており、これが秀逸である。情報収集や知識習得という意味では実際に資料館へ行くよりも役立つかもしれないので是非ご覧いただきたいと思うが、そのサイトで「古代丹後の里資料館」も紹介されており、この田舎の小さな資料館を絶賛しておられる。

 資料館を見学したあとは神明山古墳へ急いだ。
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遠所遺跡(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.7)

2017年03月19日 | 実地踏査・古代史旅
 ニゴレ古墳のあと、すぐ近く遠所遺跡へ。遺跡は京丹後市弥栄町の西端、ニゴレ古墳の南側の谷奥にある。

 遺跡の手前まで行こうと広い道から田んぼ道に入った瞬間、突然にギンギンガリガリと車が叫んだ。何が起こったのかすぐに判らなかったが、運転していたOさんは事態を把握していたらしく落ち着いた口調で「車の腹をこすった」とおっしゃった。そうだとしたらタダでは済んでいないはず。どこかが損傷していてもおかしくないほどに異様な金属音だった。とりあえず遺跡の手前まで行って車を停め、状況を確認したが、とくに問題はなさそうであった。田んぼ道は轍が深く、たしかに腹を擦ってもしかたがないか、と。しかし帰りも繰り返すわけにはいかない。轍を避け、なおかつ横の田んぼに落ちないよう、細心の注意で運転してもらった。

 遠所遺跡は5世紀末頃から13世紀頃まで長期間にわたり利用された一大製鉄コンビナート遺跡である。古墳時代後期(6世紀後半)と思われる鍛冶も確認されているが、奈良時代後半(8世紀後半)においては原料(砂鉄)→製鉄→精練→鍛練→製品までの一貫した生産体制てあったことが明らかとなっている。鉄生産の各工程を知ることのてきる遺跡は非常に珍しい。鍛冶炉付近からは、小割にした刀や研ぎ減りした刀子なども出土しており、使用された鉄製品を再溶解し、新たな鉄器を作っていたと考えられる。この谷での鉄製産は、最盛期には丘陵斜面にまで鍛冶炉を築いており、その鍛冶炉の壁は修復してまで使用されていた。鍛冶炉を取り囲むようにかなり大きな柱穴があり、丘陵裾部のわずかな平地には密集して数棟の工房が立っていたと考えられる。また、生産の場が生活の場でもあったようで、工房建物周辺の平坦地には多くの建物が検出され当時使用された土器・木器・石器・金属器や食べた物などが多量に出土している。

 5世紀中頃に築造されたニゴレ古墳との関係で考えると、同時期にはこの地で製鉄が始まっていたと考えたい。古代の製鉄がいつ頃始まったのかについては諸説あるが「古代の製鉄(鉄器生産)」で書いたように私は弥生時代にはすでに製鉄が行われていたと考えており、ここ丹後においても先の奈具岡遺跡で確認したとおりである。丹後半島各地で弥生時代から続けられてきた製鉄の技術の粋を集めて建設されたのが、この遠所遺跡ではないだろうか。

遺跡の全景。



京丹後市教育委員会の案内板。


このあと、日本海三大古墳の2つめ、神明山古墳へ向かった。



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ニゴレ古墳(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.6)

2017年03月18日 | 実地踏査・古代史旅
 奈具岡遺跡の次はニゴレ古墳。ここは当初の予定には入っておらず、奈具岡遺跡のあと遠所遺跡に向かったのであるが、遠所遺跡の手前に突如現われたので立ち寄った。墳丘には簡単に登ることができたが、上部は少し急斜面になっており朝方の雨のために足元がぬかるんで少し危険な状況だった。下から見た感じでは円墳かと思ったが、登ってよく見るとどうやら円形ではないし四角でもない。前方後円墳の後円部かとも思ったが前方部が確認できない。尾根の端を切り出しただけの古墳だろうと思いつつ、墳丘を降りて案内板を見ると「不整形墳」となっていた。不整形墳とは初めてみた言葉だが、形を特定できない場合に使うのだろう。しかしこの古墳は感覚的には円墳である。築造時期は古墳時代中期、5世紀中葉とされる。
 案内板の説明には「離湖(網野町)と竹野川流域(弥栄町)を結ぶ交通路を見おろす丘陵部先端に位置します」とある。これまた赤坂今井墳丘墓、大田南古墳群と同様の特徴だ。丹後では弥生時代後期から古墳時代前期、中期と丘陵上に墓が築かれる習慣が続けられている。

古墳への登り口。


墳丘上の様子。


京丹後市教育委員会の案内板。


 ここからは舟型埴輪とほぼ完全な形の鉄製甲冑が出土。舟は外海を航行できる準構造船を模したものであることから、被葬者として日本海を舞台に交易活動をしていた海洋族のリーダーがイメージされる。また、すぐ近くに製鉄コンビナートである遠所遺跡があることから、同時にこのコンビナートを経営するリーダーでもあったのではないか。したがって交易品は鉄製武器を中心とした様々な鉄製品であったと考えられる。このリーダーが亡くなったとき、海洋族を象徴する舟型埴輪と、彼らの富の象徴である鉄製品の中でももっとも高価な甲冑を被葬者に捧げるために埋葬したのではないだろうか。
 舟型埴輪・甲冑とも、よく似たものが宮崎の西都原古墳から出土している。私は古代の日向は海洋族である隼人とつながる一族が治める国であったと考えており、ここに日向と丹後のつながりが見出せることに興味を覚えている。


 そして次はすぐ近くの遠所遺跡へ。ここでまたアクシデント。
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奈具岡遺跡(丹後・出雲 実地踏査ツアー No.5)

2017年03月17日 | 実地踏査・古代史旅
 大田南古墳群をあとにして次は車で5分ほどの奈具岡遺跡へ向かう。

 竹野川の中流域の小高い丘陵上に位置する、弥生時代中期の大規模な玉作りの専業的生産集団の遺跡である。緑色凝灰岩の管玉を製作した工房群22基と、水晶やガラスを素材にして玉を製作していた工房74基が検出された。どちらの工房からも未成品や失敗品が出土しており、材料から製品が作られるまでの工程が明らかになったという。また、鉄器生産を行っていたと思われる鍛冶炉も検出されている。鉄素材は中国製と考えられ、奈具岡の水晶玉は中国の鉄素材を入手するための交換財であった可能性が指摘されている。

 現在は国営農場になっていて一面にビニールハウスが立ち並んでいたので、残念ながら遺跡の「遺」の字も感じることができなかった。道路を挟んだ反対側が奈具岡南古墳群で、資料によると方墳が並んでいるようだ。そして道路の向こうを一見すると方墳っぽい盛り土が観察できたのでOさんと「あれは古墳かな」と話をしながらよーく見ると、盛り土のカドがきれいに角ばっている。たぶん重機で成らした造成地だろう、ということになった。

京丹後市教育委員会の案内板。


道路の向こうに見える造成地。


 資料によると周辺には奈具遺跡、奈具谷遺跡、奈具墳墓群など多数の遺跡や墳墓・古墳が密集しているのにそれらを見ることも感じることもできなかった。しかし、ここで出土した水晶玉などはこのあとの古代丹後の里資料館で実物を見ることができたので許そう。

 そうそう、ここでは雨でぬかるんだ土に足を取られたのか、はたと気づけばSさんが靴を汚して残り雪で靴を洗っていたのが印象的だった。

 さて、このあと3人は遠所遺跡へと向かった。
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