古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

印象に残る歴史博物館ベスト10

2020年07月18日 | 博物館
私はこれまでに全国各地にある歴史博物館や資料館、遺跡に併設されたいわゆるサイトミュージアムや遺構保存館など、100カ所以上の古代史にまつわる展示施設を見学してきました。その中でも特に印象に残っている博物館ベスト10を紹介したいと思います。印象に残っている理由はさまざまです。


①登呂博物館(静岡県)
 言わずと知れた弥生時代を代表する登呂遺跡に併設する博物館。登呂遺跡から出た木製農具などの豊富な遺物が展示されていますが、とにかくその展示が美しい。まるで立体図鑑を見ているような美しさで感動しました。

 ※この記事を書くにあたって振り返って見ると、登呂遺跡・登呂博物館を訪ねたときの記事を書いていないことがわかりました。なぜ書かなかったのだろう。

古代出雲歴史博物館(島根県)
 出雲大社の隣に建つ出雲を代表する博物館。記紀神話に登場する出雲を感じることができる場所ですが、この博物館の売りは何と言っても考古学史上最大の発見といっても過言ではない荒神谷遺跡出土の358本の銅剣と加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸です。さほど広くない展示室にこれらがまとめて展示されている様は圧巻でした。

貝殻山貝塚資料館(愛知県)
 もともと貝殻山貝塚を紹介する博物館だったと思うのですが、すぐ近くで出た東海地方最大の弥生環濠集落跡の朝日遺跡の紹介がメインになっています。小さな施設ですが、学習コーナーで休憩中にお話を聞いた職員の方に特別に収蔵庫へ案内いただき、尾張地方特有のS字甕を手に取らせていただきました。他ではできない経験でした。2020年11月 開館を目指して新しい施設「あいち朝日遺跡ミュージアム」が建設中です。

加茂岩倉遺跡ガイダンス(島根県) 
 銅鐸39個が発見された加茂岩倉遺跡に併設するガイダンス施設。朝早くに訪ねて先に遺跡を見学した後に施設に入ろうとすると鍵がしまっていました。すると、あたりを掃除していたお爺さんが鍵を開けてくれ、中に入るとお茶まで出してくれました。極めつけは、展示の説明までしてくれたのです。掃除のお爺さんと思っていたのが、ここの管理者の方でした。

さきたま史跡の博物館(埼玉県) 
 雄略天皇による全国支配を示す稲荷山古墳から出た国宝の金錯銘鉄剣の実物が展示されています。展示の素晴らしさと裏腹に、映像室で見た画像の粗さには辟易しました。 それに、古代史に詳しいと思われる見学者のおじさんが学生グループ相手に首をかしげるような自説を尤もらしく演説しているのを見て笑ってしまいました。

上野原縄文の森展示館(鹿児島県) 
 縄文時代を代表する上野原遺跡にある展示館。遺跡の学術的価値を伝えようとする意志を感じる博物館です。展示も登呂博物館に負けないくらい美しくて素晴らしい。博物館勤務を希望し続けた結果、定年後に嘱託職員としてそれが実現したという種子島出身の職員の方が印象的でした。

生目の森遊古館(宮崎県) 
 生目古墳群に隣接する宮崎市の埋蔵文化財センター。展示室が収蔵室の中にすっぽり収まっている感じで、三方のガラス張の壁を通して収蔵室に保管されている資料が丸見えになっています。遺物の整理などをしている部屋もオープンになっていて作業している様子も見ることができます。

板付遺跡弥生館(福岡県) 
 板付遺跡に併設する小さな施設ですが、この遺跡を特徴づける縄文晩期の土器と弥生早期の土器がともに展示されています。よくできたジオラマが遺跡の理解に効果的でした。学芸員の方が懇切丁寧に説明してくれたおかげで楽しい時間を過ごすことができ、生まれて初めて学芸員という職業や資格の存在を認識し、学芸員の資格を取ろうと思い立った場所です。

西都原考古博物館(宮崎県) 
 西都原古墳群の中に建つ立派な博物館。古墳群のことだけでなく、豊富な展示資料をもとに南九州の歴史を学ぶことができる場所で、資料の質、量、展示、立地などを総合的に見て、これまでに見てきた博物館の中ではベスト3に入ります。これまでに3回訪ねていますが、何度でも行きたくなる博物館で、近くに住んでいると入り浸ること間違いなし。

歴史交流館金峰(鹿児島県) 
 土砂降りの朝一番に訪問。ほかに見学者がいないのをいいことに学芸員さんにお願いしてマンツーマンでの案内をしてもらいました。整理中の資料なども特別に見せてもらってみっちり2時間、おかげで鹿児島県(南薩摩)の古代史の理解が深まりました。


以上、私の印象に残っている博物館を紹介しましたが、この10館は思いついた順に並べただけで、印象深いという点でそれぞれに優劣はなく順位はありません。また、見学者の視点や学芸員の視点で評価するとしたら違ったベスト10になると思いますが、それはまた別の機会に。






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古代オリエント博物館

2019年11月25日 | 博物館
 2019年11月の葛城・纒向への実地踏査の事前学習のため、池袋にある古代オリエント博物館で開催されている秋の特別展「しきしまの大和へ -アジア文華往来-」を観に行きました。この特別展は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館による巡回特別展を兼ねており、同博物館が所蔵する貴重な資料が展示されていました。
 実は実地踏査ツアーの行程を検討する中で、橿原考古学研究所附属博物館は絶対に行こうと考えていたのですが、調べてみるとなんと現在は休館中とのことでガッカリ。そして見つけたこの特別展でした。いっしょに実地踏査に行くことになっている古代史仲間の佐々木さんを誘って二人で行ってきました。

 古代オリエント博物館は池袋サンシャインシティ文化会館の7階にあります。エレベーターを7階で降りて通路を左に進むとそのまま入口につきます。(※本記事の写真は全て私が当館で撮影したものです)




 入館料は900円です。貴重な資料が豊富にあるとはいえ900円は少し高く感じました。


 この映像ホールの左手が今回の目的である特別展の展示室で、右手は常設展の展示室になっています。






 この石棒はインパクトがあります。


 葛城の中西遺跡からの出土物です。京奈和自動車道の御所南IC建設に伴って発見された中西遺跡は弥生時代前期における日本最大級の水田跡です。橿原考古学研究所によって2009年度より継続的に調査が行われ、大規模な水田跡が姿を現していましたが、調査も大詰めを迎えたこの時期に再び現地説明会が行われました(都合で行けなかったのが残念です)。


 鐸形土製品は銅鐸との関係でもう少し勉強する必要を感じています。


 纒向遺跡の解説パネルです。纒向遺跡は第1回目の実地踏査で行ったので、今回は山麓の古墳群を中心に踏査しようと考えています。


 西日本の各地から纒向遺跡に持ち込まれたいわゆる外来土器です。纒向遺跡における外来土器の比率は15~30%で、全国各地のどの遺跡よりも高い比率となっています。


 卑弥呼の墓ともいわれている箸墓古墳や西殿塚古墳など、纒向にある初期の前方後円墳からは円筒埴輪の原型とされている吉備の特殊器台が出ています。ここから、古墳の副葬品などの出土物から王権の誕生を辿っていきます。


 





 石釧や車輪石。原型はゴホウラ貝などを加工した腕輪とされており、王家の威信財のひとつです。


 特殊器台が発展して円筒埴輪になりました。


 舟形埴輪によって当時の造船技術を知ることができます。


 古墳時代中期になると鉄製の武器や武具が副葬されるようになります。


 古墳時代中期の5世紀に全盛期を誇ったとされる葛城氏の本拠地の航空写真です。ここも実地踏査で訪ねることにしているまさにど真ん中のところです。


 葛城の南郷遺跡群からは鉄滓や鞴の羽口など、製鉄が行われたことを示す遺物が出ています。


 新沢千塚古墳群からは朝鮮半島や大陸、あるいは遠くペルシャから伝わったとされる豊富な副葬品が出たそうです。この展示を見て、実地踏査の行程にこの古墳群を追加することにしました。


 南郷大東遺跡では水の祭りが行われたと考えられています。ここも行くことにしています。

 この特別展はまさに今回の実地踏査ツアーの事前学習としてはドンピシャの展示内容でした。この展示内容に沿って行程を組んだと思えるほどです。ただ、今になって思えばもう少しじっくり見ておけば良かったと思う資料や解説がたくさんありました。葛城・纒向への実地踏査ツアーの詳細はおいおい記事にして行こうと思っております。

 さて、この特別展を見学したあと、当館の常設展である古代オリエントのコレクション展も見学しました。世界史にもおおいに興味があるものの、この展示を理解するほどではないので、ひとつひとつの展示資料を詳しく見ることはしませんでした。




 これは日本古代史とも大きな関連がある好太王碑文のレプリカです。これはじっくり見ました。




 これはロゼッタストーンのレプリカです。




 午前中の2時間程度の見学となりました。本当はもう少しゆっくりと見たかったのですが、午後から予定が入っていたので致し方なしです。でも、東京ではこのように大和をフィーチャーした展示を見ることができないので、非常に貴重な経験となりました。ここで撮った写真は纒向・葛城踏査ツアーの記事の中でも振り返りで登場させることになると思いますのでお楽しみに。以上です。



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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
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國學院大學博物館

2019年10月27日 | 博物館
 昨年、学芸員の勉強がてら区立の歴史博物館をいくつか見学したのですが、どこも中途半端な印象がありました。それぞれの区の歴史という限定的な視点になっていて、区を越えた広い範囲で俯瞰できないこと、旧石器時代から近代までを網羅的に展示しているためにどの時代も資料が少ないこと、特に考古遺跡の少ない区では考古資料が少ないこと、などが不満として残りました。それ以来、東京では東京国立博物館を除いて、考古資料を堪能できる博物館はないものだと思っていたのですが、ひょんなことからこの國學院大學博物館のことを知り、大きな期待をもって見学に行ってきました。



この博物館は「校史」「考古」「神道」の3つのゾーンに分かれています。公式サイトによると、校史ゾーンの説明には「國學院の校名に冠する「国学」とは、日本の伝統文化に関する諸現象・事物の成り立ちとその本質の解明を目指した学問であり、古典籍や古器古物などの「モノ」を通じて、日本人の「心」を究明する総合的な日本文化学である。ここでは、國學院およびその設立母体である皇典講究所関連の資料や、本学所蔵の資料・コレクションを通して、本学における伝統文化研究・教育の実態を明らかにし、「モノ」と「心」に関する本学の歴史と学問の展開を追う。」と書かれています。

校史ゾーンの展示スペースです。


國學院大學の前身である皇典講究所の初期の時間割です。

古事記や日本書紀を始めとする古代の歴史書の学習が欠かせないようです。興味深く見ました。

考古ゾーンの展示スペースは想像以上に広くて展示資料も充実していました。








とくに石器や土器の量に圧倒されました。














熊襲の土器とされる熊本の免田式土器です。これを見れたのが一番の収穫でした。


古墳時代の資料も充実しています。










「王権と古墳―倭国統合の象徴―」と題した特集展示が開催されていました。




















神道ゾーンは写真撮影が禁止されていたので一枚も撮れませんでした。神社や祀り(祭り)に関する展示が中心ですが、新天皇の即位というタイミングも手伝ってたいへん興味深く見学しました。

大きな期待を持って見学に訪れ、その期待を裏切られることなく、大きな満足をもって館をあとにしました。館内は熟年夫婦、若い女性など大勢の見学者でにぎわっていました。また機会を作って見学に行きたいと思います。


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すみだ水族館

2019年09月04日 | 博物館
 2019年8月の暑い日、「東京金魚ワンダーランド2019」を開催中のすみだ水族館に行ってきました。スカイツリータウンの中にあることがわかっていたので北品川から京急に乗り、品川で乗り換えて押上で下車したまではよかったのですが、どうやら反対側の出口へ出てしまい、ソラマチを楽しむことなく水族館へ行くことになってしまった。



 入館料は2,050円。ビルの上の施設なので規模は大きくなく、展示される生物も小さなものばかりだろうと思っていたので「2,050円は高い!」が第一印象。ひととおり見学を終えたあとは「これくらいなら許せるかな」と、高額な印象が少しだけ和らぎました。それはこの水族館が自分にとって少なからず価値を感じられるものだったからだと思います。

 休日ということもあって小さな子供のいる家族連れで大賑わいでした。6Fのフロアは想像通り、小さな水槽が多くてどれもこれも人だかり。水槽の前を子供に譲ってあげるので思うように見学ができない状況でした。それでも、クラゲやチンアナゴには癒されました。いつまでも眺めていれます。これは一種の精神安定剤ですね。会社の同期の友人が熱帯魚にはまって自宅に水槽を並べるようになったのが少し理解できた気がします。





 横に長い水槽に水を取り巻く小さな生態系を作りだした自然水景という展示も良かった。水槽の底部一面に張られた水草が光合成によって酸素をはきだし、小さな魚やエビ、微生物がこの酸素を使って呼吸し、水草はこれらの生物が放出した二酸化炭素で再び光合成を行う、という生態系で美しい展示でした。





 大水槽を優雅に泳ぐサメ、エイ、ウツボにも癒されます。凶暴な生物が水槽の中でぶつかり合うことなく、争うことなく、共存していることがある意味で信じられない光景でした。





 5Fには6Fとの吹き抜け空間に設営された国内最大級とされる屋内開放のプール型水槽があって、マゼランペンギンが空を飛ぶように泳いでいます。個々のしぐさを間近で見ていると何ともかわいくて愛くるしい。これまた癒されました。その隣では4頭のオットセイが泳いでいます。せまい水槽の中を互いにぶつかることなく、壁にもぶつからず絶妙の技術でターンします。いつまで見ていても飽きません。





 この水族館に来た目的は開催中の「東京金魚ワンダーランド2019」という展示を見るためでした。金魚の常設展である「江戸リウム」と合わせてたくさんの金魚を見ていると「金魚もいいもんだ」と思えてくるから不思議です。



 1時間半ほどかけてすべての展示を見て外に出ると入口にはすごい行列ができていました。あれだけ混んでいるのにまだこれだけの人が入っていくのか、と思うと子どもたちが可哀そうになってきました。入館料2,050円は安くはないという気持ちは変わらないけど、癒しを求めて来る人にとってはリーズナブルなのかもしれない。年間パスポートは4,100円。近くに住んでいて癒されるために何度も来ようと思う人にとっては安いと言えるかもしれないな。そんなことを考えると歴史博物館の料金は格安だ。公立博物館の中には無料のところもある。有難いことだ。

 水族館を出てソラマチをぶらぶらしてご飯を食べて帰ってきました。





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原美術館

2019年09月02日 | 博物館
 2019年8月、東京都品川区北品川、御殿山の閑静な住宅街に佇む原美術館へ行ってきました。単身赴任宅から徒歩10分のところです。東京への転勤でこの北品川に住むようになって4年とちょっとになりますが、引っ越してきたときから気になっていた美術館です。いつでも行けると思いながらも訪ねることなく4年以上が経過、そしてついに来年末に閉館という記事を目にしたので重い腰がようやく上がって見に行ってきました。
 

 
 この美術館は、実業家であった原邦造氏が昭和13年(1938年)に建てた邸宅を再生して昭和54年(1979年)に開館しました。年に何度か美術館を訪ねることがありますが、通常は作品を鑑賞することが目的なのですが、この美術館の場合は作品の鑑賞が目的ではなく、建物そのものを見たい、邸宅がどのように美術館として利用されているのかを見てみたい、というのが目的でした。
 

 
 訪ねた日は「加藤泉 – LIKE A ROLLING SNOWBALL」と題した個展が開催されていました。私には現代アートはよくわからないのですが、意味不明ながらも非常にユニークな作品がこれだけ密集して並んでいると、個々の作品を鑑賞するというよりもむしろその空間が楽しく感じられました。それは私邸を活用したこの美術館だからこそ、なのかもわかりません。建物や部屋の構造や形、壁や床の色や材質、窓から見える庭園や木々の葉などのすべてが作品群と一体となって眼に入ってきます。いつまでもそこに留まっていたいとさえ思えてきます。小さな空間なので何度も行ったり来たりして、まるで小さい頃に親戚の家に遊びに行ったような無邪気な感覚に陥ってしまいます。建物と一体化した常設展もあり、本当に楽しい空間でした。
 

 

 

 

 



 
 この美術館の素晴らしい点をもうひとつ。それはミュージアムショップです。ここのショップはまるで小さな展示室です。並べられた商品は商品と言うよりもひとつひとつが作品、アートです。どれを手にとっても「へえー、面白い」「発想がすごい」と思えるものばかり。撮影許可が必要なショップは初めてでした。
 
 中庭に面したガラス張りの空間を利用したカフェも人気があるようでしたが、今回は利用しませんでした。
 
 当館は2020年12月に閉館することが発表されています。竣工から80年が経過した建物の老朽化というのが閉館の大きな理由です。古い建築を再利用しているのでユニバーサルデザインやバリアフリーの観点からこの先も美術館として運用していくには問題があるそうです。たしかに全ての展示室を車いすで鑑賞することはできず、エレベーターなんてとても設置できそうにない。そもそも美術館として必要な収蔵庫もなさそうだし、作品の搬入や搬出は建物の入口や廊下、階段を利用せざるを得ず、大型の作品を展示することはできないでしょう。また、資金面や行政面での制約を考えると建て替えも現実的でなく、群馬県渋川市にある姉妹館「原美術館ARC」に集約するという選択は納得のできるものです。
 
 美術館の閉館後はこの建物は取り壊されるのでしょうか、それとも住宅として残されて誰かが住むことになるのでしょうか。たいへん興味のあるところです。
 

 
 
 
 
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若狭三方縄文博物館(DOKIDOKI館)

2019年02月15日 | 博物館
2019年2月3日、福井県年縞博物館を見学したあと、眼の前にある若狭三方縄文博物館(愛称DOKIDOKI館)を見学しました。雨がかなり強くなっていたのですぐそこに見えている入口まで走りました。でもそこは身障者用の入口で封鎖されていたので、さらに走ってなんと2階まで上がる必要があり、結構濡れてしまいました。

年縞博物館から見えるDOKIDOKI館。

そこに入口がありそうでしょ。でも入口はぐるっと右に回って2階への階段を上がる必要があるのです。

ここが入口。


入口から見える年縞博物館。


 年縞博物館でセット券を購入していたのでそれを見せて入館。展示室は階段を下りた1階です。階段を下りたところがホールになっていて縄文杉の大株(埋没林)が床に展示されていたのでパチパチと写真を撮っているときに思い出した。いつも博物館では写真撮影がOKかどうかを受付で聞くようにしているのに忘れていた。階段を駆け上がって受付で聞くと「申請書を書いてください」と言われた。SNS等で公開するかどうかも聞かれたので「ブログに掲載します」といったら「特別な許可が必要です」と。面倒だったので公開はしないと言って通常の撮影許可だけもらいました。そういう事情なのでたくさん撮った写真をここで公開することはできないのが残念です。

 ホールを通り過ぎて常設展示室へ向かう土器の径(みち)という順路の壁面には縄文土器がずらりと並びます。実はそれぞれの土器のキャプションには土器の年代が記されているのですが、なんとほとんどすべての土器の年代が訂正されていました。それは水月湖の年縞によって年代が書き換えられたのです。

 この博物館は近くの鳥浜貝塚やユリ遺跡などの縄文遺跡からの出土品を中心に展示が構成されています。なかでも特徴的な展示は縄文時代の丸木舟です。全部で11艘(鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘)の丸木舟が展示されています。ユリ遺跡から出た9艘のうちの1艘は日本で初めて完全な形で出土した縄文丸木舟です。

 両遺跡とも古三方湖に面した遺跡で、この丸木舟で古三方湖から若狭湾、日本海へと漕ぎ出した姿が甦ります。この丸木舟のほか、発掘当時の縄文時代の遺跡としては日本で初めての出土となった漆塗りの櫛なども展示されていたようですが、記憶にありません。

 鳥浜貝塚は縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡で、この遺跡の発見が水月湖の年縞発見へとつながったそうです。ユリ遺跡は縄文時代中期から後期の遺跡と考えられています。

展示資料や展示室の写真が掲載できないので、代わりにリーフレットを。



入口から三方湖を臨むと縄文ロマンパークという公園が広がっています。



 このDOKIDOKI館の初代館長は先日亡くなられた梅原猛氏です。館の公式サイトには梅原氏のメッセージが掲載されていました。

縄文文化は日本文化の基礎であり、人類の還るべき文化が縄文にあるのではないかと考えています。森が破壊され、自然環境が破壊され、人類の未来が危惧される今日、縄文のもつ共生と循環の世界観が改めて認識される必要があるのではないでしょうか。
若狭三方縄文博物館[DOKIDOKI館]は、地球を破壊しつつある現代文明へのメッセージとして縄文の光を世界へ届けたいと思っています。  【初代館長 梅原 猛】




縄文のタイムカプセル 鳥浜貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」113)
田中祐二
新泉社



鳥浜貝塚: 若狭に花開いた縄文の文化拠点 (日本の遺跡)
小島 秀彰
同成社
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福井県年縞博物館

2019年02月14日 | 博物館
2019年2月3日、越前海岸へカニ旅行に行った帰り、若狭の三方五湖にある福井県年縞博物館を訪ねました。去年の9月にオープンしたばかりの博物館です。

建物のデザインも周囲の自然にマッチして素晴らしい。




 年縞とは聞きなれない言葉ですが、年縞博物館の公式サイトによると「長い年月の間に湖沼などに堆積した層が描く特徴的な縞模様の湖底堆積物」のことで、春から秋にかけてはプランクトンの死骸などが湖底に積もって黒っぽい層ができ、晩秋から冬にかけては鉄分や黄砂などが積もって白っぽい層ができるので、この黒っぽい層と白い層が交互に重なっていきます。つまり黒と白が1セットで1年分ということになります。

年縞を解説した映像とパネル。



 この博物館には2006年に三方五湖の水月湖の湖底から採取された何と7万年分の年縞が展示されています。水月湖の湖底35mからさらに73mの深さまでボーリングによって掘り進んで直径10cmほどの円筒状に切り出された堆積層です。これをボーリングコアというそうです。73m分を一度に採取できないので1mづつ掘り進めたとのことですが、そうすると1mごとの境い目は綺麗につながりません。それを補うために同時に3カ所で採取して、3本あわせて連続的な年縞として把握できるように工夫しています。年縞は縦に掘り進んで採取したものなので本来であれば立てて展示したいところですが、そんな高い建物を作れないので横向きに展示しているとのこと。

 73m分の堆積層がボーリングコアとして採取され、そのうち45m分で年縞が明確に確認され、それが7万年分に該当するということです。では45mより深いところはどうなっていたかというと、45m~64mまでは粘土堆積物で年縞が確認されず、65mから再び年縞が見られ、最深部の73m部分はおよそ15万年前のものと考えられているとのことです。

 1Fで料金を払って受付を済ませるとまずはシアターでの映像鑑賞。少しの待ち時間にシアター前のパネルを見ていると解説員の方が年稿についてやさしく説明してくれました。

シアター前のパネル。

シアターでは円筒型の壁面や床面いっぱいに立体的な映像が映し出され、年縞のこと、年縞で何がわかるのか、などをわかりやすく解説してくれます。身体が宙に浮くような感覚になる素晴らしい映像でした。

 そして階段を上がって2Fの展示室へ。この階段の踊り場には年縞研究に関するパネルが展示されているのですが、ここでも解説員の方が詳しい説明をしてくれました。とにかく年縞のことがよくわかっていないので、こういう解説は大変ありがたかったです。2Fへ上がると大きな空間に年縞が横たわっていました。

7万年分の年縞を横向きに展示。

見学はこちらからとなるのですが、この手前が一番浅いところ、つまり時代が新しい年縞で向こうの端っこが7万年前の年縞です。これを見るだけも圧巻でした。

 実際に展示される年縞を見た第一印象は「昆布みたい」です。採取したボーリングコアは直径10cmの円筒に詰まった黒っぽい泥で、そのコアを縦に半分に切ると年縞が現れます。細かな工程はおいといて、その切断したコアを乾燥させて樹脂で固めてから超極薄にスライスします。ここまで薄くスライスする技術を持った人は世界でただ一人しかいないそうです。たしかドイツのケーラーさん、だったかな。研究チームは処理を施したコアをドイツへ送ってスライスしてもらったそうです。そして薄くスライスしたものをアクリル板で挟みこんだものがここに展示されているのです。もともと黒っぽかったものが酸化して昆布のような色に変色しており、さらに小さな気泡がいっぱい見えるのですが、これはアクリル板で挟むときにほんのわずかに入った空気のために樹脂の中で気泡を生じてしまうとのことでした。

 年縞が3段に並べられていますが、3ヶ所から採取した3本の年縞で連続性を確保したことがわかります。ところどころに下の写真のような記載があって、これまたスゴイ!と思わず驚きの声が出てしまうのです。

「喜界カルデラの火山灰」と書いてあります。

7253年±23年前とあります。喜界カルデラの爆発は従来は約6300年前と言われていましたが、その後に約7300年前と補正されました。そしてこの水月湖の年縞によると7253年前であったことがわかります。

 ちなみに、この喜界カルデラの爆発は豊かに栄えていた南九州の縄文文化を消滅させました。この爆発で積もった火山灰はアカホヤと呼ばれ、鹿児島ではアカホヤの下の地層から数々の縄文遺跡が見つかっています。その代表が上野原遺跡で、イタリアのポンペイを彷彿とさせます。

下の段、左が「大山の火山灰(29888±36年前)」で右が「姶良カルデラの火山灰(30078年±48年前)」。

姶良カルデラの噴火は南九州にシラス台地を形成した日本最大級の噴火です。

縄文時代と弥生時代の境い目。


一番奥にある最初の年縞は71231±2097年前とあります。


一番奥から見た写真。

この角度がいちばん美しく撮影できるポイントとありました。

 放射性年代測定の較正に利用されて化石や過去の遺物の年代が特定できるのがこの年縞の大きな価値と言えます。この水月湖の年縞は7万年にわたって途切れることなく堆積してきたため、どの層が何年前のものかがわかります。その年縞に含まれる葉の化石の炭素14の量を測定することで、その葉が落ちて湖底に沈んだ年代の炭素14の量が特定できるので、逆に化石や遺物の炭素14の量がわかればそれらの年代が特定できるというものです。

 ただしそれは、この年縞を一年の狂いもなく正確に数えたからこそ可能になったのです。そしてこの水月湖の年縞は世界各地のどこの年縞よりも圧倒的に正確であることから、年代特定の世界のものさしとして認められたのです。「やはり2番じゃダメなんです。1番だからこそ世界標準になれたのです」とは解説員の言葉です。年縞を正確に数えるためにドイツやイギリスなどの複数のチームが顕微鏡やレントゲン撮影など複数の違う方法を用いて丹念に数えて突き合わせをして確定させたそうです。

 年縞はこのように化石や遺物の年代特定に使われるだけでなく、年縞に含まれる葉や花粉の化石から、湖の周辺はどの時代にどんな植生であったのかがわかり、そこから気候の変動もわかります。また先の喜界カルデラの火山灰のように、火山の噴火や地震、洪水などの自然災害の時代や規模などもわかります。火山灰や黄砂の積もった状況から偏西風の風向きの変化もわかるそうです。

研究の変遷。


年縞からわかったことを年表に表した展示。



世界各地の年縞。すべて実物です。





 年縞はどこでも採取できるわけではありません。水月湖の7万年もの年縞は次のような条件が重なったことで形成されたことから、この湖は「奇跡の湖」と呼ばれています。

水月湖で年縞が形成された理由。 
①山々に囲まれていて風が遮られるので、風によって湖水がかき混ぜられない。
②水深が深いので、仮に強い風が吹き付けて湖面が乱されても湖底は穏やか。
③流れ込む大きな河川がないので、大雨による土砂や水の流入で湖底がかき乱されることがない。
④かき乱されない湖底には酸素がなくて生物が生息しないので、生物に乱されれることもない。
⑤周辺の断層の影響で湖が沈降を続けているので、堆積物で湖が埋まってしまうことがない。

 水月湖の隣にある三方湖は水深が2mと浅く、また河川が流れ込むために年縞が形成されません。GoogleEarthで確認すると三方湖には土砂が流入しているので少し茶色に変色しているのがわかります。

 この年縞は上述したようにすでに様々な研究に活用されていますが、今後のあらたな研究にも活用できるように未利用のものが保存されているそうです。過去を解き明かすことは未来を考えることにつながります。歴史学や考古学はより良い未来を築くための学問だと思うので、水月湖の年縞は人類の未来のための貴重な資料であるといえます。

 たっぷり2時間、年縞の魅力にとりつかれた2時間でした。


時を刻む湖-7万枚の地層に挑んだ科学者たち (岩波科学ライブラリー)
中川毅
岩波書店


人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか (ブルーバックス)
中川毅
講談社

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堺市博物館

2019年01月06日 | 博物館
2018年12月、大阪府堺市の大仙公園内、仁徳天皇陵とされる大山古墳の真ん前にある堺市博物館を見学しました。





受付で料金200円を支払って入館。ちょうどシアターでの上映が始まったところだったので、まず最初に10分ほどの動画を見ることにしたのですが、百舌鳥古墳群を紹介するこの映像、なかなかよくできていました。百舌鳥古墳群と同時期に造営された古市古墳群とともに最盛期の様子をCGで再現し、当時の河川の流れもよくわかる。とくに大和川を消した映像がいい。現在の地図ではどうしても大和川が視界に入ってイメージを邪魔してしまう。現在の大和川は江戸時代に付け替えられたもので古代にはここを流れていなかったので、重要な河川は石津川や西除川、石川であるはずだ。それに気づかせてくれる映像でした。

シアターの裏に展示された大山古墳(伝仁徳天皇陵)の写真や絵図。














昔の大山古墳の様子やその変遷がよくわかる。現在は青々と木々が茂っている墳丘ですが、昔は意外にも地肌が見えていたこともあったようです。このあと展示室へ入りました。常設展は展示替えの真っ最中で中世以降のコーナーは閉鎖されていたのが残念だったものの、その分、考古資料をじっくりと堪能することができました。



















世界遺産登録を目指す百舌鳥古墳群のど真ん中だけあって、古墳時代の展示の充実ぶりは流石と思ったものの、逆に縄文や弥生時代の展示に物足りなさを感じずにはおれませんでした。

縄文・弥生の展示はこのパネルだけ。

四ツ池遺跡など重要な遺跡があるにもかかわらず、これはあまりに寂しすぎます。

となりの和泉市にある「いずみの国歴史館」で学芸員実習を受けたことを機に和泉や泉州の古代史を少し勉強したあとだけに、古墳時代につながる弥生時代、さらには縄文時代のことも学べる博物館であってほしいと思いました。

考古資料をじっくり堪能したものの上に掲載した写真がほぼ全てなので1時間ほどで見学を終了。常設展や百舌鳥古墳群に関する図録を購入しようと思ったのですが、いずれも在庫がなく入手できませんでした。仕方なく博物館を出て眼の前の大山古墳や周囲にある陪塚を見学することにしました。



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今城塚古代歴史館

2018年11月24日 | 博物館
2018年11月、大阪府高槻市にある今城塚古墳と併設する高槻市立今城塚古代歴史館へ行きました。この今城塚古墳は第26代継体天皇陵と考えられている全長190mの前方後円墳です。宮内庁は近くの茨木市にある太田茶臼山古墳を継体陵に治定していますが、築造時期から考えると今城塚古墳の方が有力とされています。

いつも通り、古墳を見る前に歴史館を見学することにしました。


2018年6月に起こった大阪北部地震によって展示資料に大きな被害がありました。これらの資料は修復作業中とのことです。


この歴史館の展示はなかなか見応えがありました。常設展示室の最初の部屋は主としてこの地域の古墳群(三島古墳群)や古墳から出土した遺物を中心に展示が構成され、三島の地が古代から有力者が治める繁栄の地であったことを主張しています。展示資料は基本的に全て実物で、ほとんどの資料はケースに入れずに露出展示されています。解説も写真を多用したわかりやすいものでした。






一番見たかったのがこれ、安満宮山古墳から出た青龍三年の年号が鋳出された鏡。


中国の年号が入った鏡、いわゆる紀年銘鏡は日本で十数例しか出ていません。そのうちのひとつがここにあります。青龍三年は西暦で言うと235年。邪馬台国の卑弥呼が魏から親魏倭王の称号とともに銅鏡百枚を下賜されたのが239年(景初三年)なので、この鏡は邪馬台国論争に一石を投じることとなりました。青龍三年銘鏡は丹後の大田南5号墳からも出ていて、丹後とここ三島の地が何らかのつながりがあったと考えられます。

覗きこむように見ていたら突然後ろからボランティアガイドのおばさんが声をかけてきました。どの資料についても詳しい説明をしてくれます。専門家顔負けの詳しさです。聞くと歴史が大好きとのことで、好きが高じてボランティアガイドになり、一生懸命覚えたということでした。

これは円筒埴輪が吉備の特殊器台に由来することを説明する展示。


ここで目から鱗の説明を聞きました。特殊器台には弧帯文という文様がつけられているのですが、文様のない部分がちょうど○とか△の形になっていて孔があけられています。これがやがて文様がなくなって○とか△の孔だけが残って円筒埴輪になった、というのです。なるほど、そういうことなのか。

三島地域の古墳の分布と築造の推移を表した図。

これは是非撮っておいてください、とガイドのおばさん。たしかにわかりやすい図です。

継体陵と考えられている今城塚古墳には6,000本の円筒埴輪が、さらに宮内庁が継体陵に治定する太田茶臼山古墳には7,000本の円筒埴輪が並べられていたと考えられています。これら多数の円筒埴輪は両古墳からほぼ等距離のところにある新池埴輪製作遺跡で製作されました。

新池埴輪製作遺跡の埴輪窯のはぎとり標本。


新池埴輪製作遺跡では18基の窯が見つかりました。円筒埴輪だけでなく様々な形象埴輪が製作されています。この遺跡は新池ハニワ工場公園として整備されています。行こうと思っていたのですが時間がなくて別の機会にすることにしました。

隣の部屋では石室の実物大模型を中心に今城塚古墳に関する資料が展示されています。




ガイドのおばさんは帰りのバスの時間が迫っているとのことでここまで。代わって、年齢は70歳前後、でもお爺さんというには失礼にあたるほど元気な男性ガイドさんがご年配のふたりの女性に説明しているところに入れてもらいました。

さらに隣の部屋へ進むと今城塚古墳の副葬品や埴輪が展示されています。






熊本県宇土市から運ばれたとされる阿蘇ピンク岩を削り出した家形石棺。


今城塚古墳が継体陵だとすると大田茶臼山古墳の被葬者はいったい誰なのか。ガイドのおじさんはまくしたてるように早口で説明を始めました。たいへん興味深い内容で勉強になりました。

今城塚古墳は継体陵として有名ですが、それ以上に注目を集めたのが平成9年からの発掘で見つかった埴輪祭祀場です。出土した形象埴輪の数や埴輪祭祀場の規模としては日本最大ということです。

その埴輪祭祀場から出た埴輪の数々。




発見されたその場所に復元されているのをあとで見ることになるのですが、圧巻でした。

最後のコーナーは阿武山古墳です。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設の際に偶然発見された古墳で、なんと藤原鎌足の墓ではないかと考えられています。漆で固めた夾紵棺(きょうちょかん)からは美しい錦の残片や玉枕、金糸などの豪華な品々が発見され、金糸から復元されるのは大職冠であるとされています。X線写真の解析で判明した被葬者の死亡状況などからも鎌足説が強くなっています。また「多武峯略記」に、鎌足は山階(山科)に埋葬された後、安威山を経て、大和の多武峯へ葬られたという記事にもその根拠があるとされています。


見学者がいたので斜めからの撮影となりました。

ロビーでは「昭和9年の記憶」と題して阿武山古墳に関するメディアの記事や写真などが展示されていました。


企画展示室では企画展「藤原鎌足と阿武山古墳」が開催されていました。

左が常設展示室、右が企画展示室です。

常設展示図録もよくできていました。


このあと、歴史館からすぐ近くの今城塚古墳を見学しました。


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貝殻山貝塚資料館(朝日遺跡)

2018年11月19日 | 博物館
 2018年11月、午前中に東谷山に登って志段味古墳群の尾張戸神社古墳などを見たあと高蔵寺駅に戻ってランチをとり、まだ時間が十分あったので清須市にある貝殻山貝塚資料館へ行くことにしました。貝殻山貝塚遺跡の上に建てられた資料館ですが、朝日遺跡の近くといった方がいいかもしれません。
 朝日遺跡は愛知県清須市と名古屋市西区にまたがる弥生時代の東海地方最大級の環濠集落遺跡で、東西1.4キロメートル、南北0.8キロメートル、推定面積80万平方メートルにも及び、最盛期の人口は約1,000人であったと推定されています。

 ここに大きな環濠集落遺跡があって資料館があることも知っていたのですが、なかなか行ってみようという気になれませんでした。しかし博物館実習で自主企画展のテーマを環濠集落にしようと決め、あらためて情報収集する過程でこの朝日遺跡が思っていた以上にすごい遺跡であることを知り、機会を作って行かなければと思っていたところでした。
 アクセスを調べてみると東海交通事業の城北線という電車があって尾張星の宮という駅から徒歩で10分となっています。意外に便利だと思ったのも束の間、この城北線を調べてみると単線、一両編成、ワンマン、本数も少なくて使いにくそうでした。西側は東海道本線の枇杷島駅と接続しているのに、東側は中央本線の勝川駅と一見つながっているように見えるのですが、この駅間は徒歩10分となっています。西から行くのは問題ないようですが、東からだとちょっと面倒だ、ということです。

 高蔵寺駅からだと東からの不便なルートになります。ある程度の覚悟を持って中央本線に乗ってNAVITIMEで乗継の時間を調べてみると、勝川駅で下車してから城北線の発車時間まで10分もありません。もし乗れなかったとしたら次は1時間後になります。汗だくになってダッシュで乗り継ぎ、10分ほどで尾張星の宮駅に到着。1時間に1本、乗客は5名ほど、いったいこの城北線は誰のため、何のためにあるのか。不便すぎる。バスで十分だ。

貝殻山貝塚遺跡の入口です。

少しわかりにくいですが中央に盛り上がったところがあります。古墳ではなく貝塚跡なのですが古墳だという説もあるようです。

お決まりの竪穴式住居の復元。


 このあたりは昭和4年(1929年)からの発掘調査で貝殻山貝塚が見つかり、昭和46年に国の史跡に指定され、昭和50年(1975年)に資料館が開館しました。その後、名古屋環状2号線と東名阪自動車道の建設工事に伴って昭和47年(1972年)からの調査が行われ、大環濠集落である朝日遺跡が発見されました。今となっては貝塚よりも大環濠集落をフィーチャーすべき遺跡となっています。

公園に建つ遺跡の説明板。

朝日遺跡が発見される前のものと思われます。

資料館前に建つ新しい説明板。

こちらは朝日遺跡をメインに説明しています。

資料館の入口。古くて小さな資料館です。

この写真を撮って入ろうとすると中から年配の方が扉を開けて出迎えてくれました。気さくな方なのでいくつか質問をしてみると詳しく答えてくれました。ただ、こちらはこの遺跡について知識があまりなくて質問が続かないのでまずは一人で見学を始めました。





朝日遺跡から出た特徴的な土器が並びます。





その朝日遺跡はこんな遺跡です。



こちら(→朝日遺跡マップ)のほうがわかりやすいかも。

 Wikipediaでは「縄文時代末期から弥生時代を中心に栄えた集落遺跡で、集落間の闘争の歴史と住民の生活の変化とその状況の両方を知ることができる。特に弥生時代中期の初頭~後半にかけては、他の集落の住民の襲撃に備え、強固な防御施設を建設していることがわかる。それは、環濠、柵列、逆茂木、乱杭などで、集落を二重、三重に囲む強固なものであった。これらは、弥生時代のものとしては日本で初めて発掘されている。今でも日本の弥生中期遺跡としては最大級である。これらの防御施設の発見で、集落が城塞的な姿であったことが分かり、それまでの牧歌的な弥生時代のイメージを戦乱の時代へと大きく変える根拠になった。また、方形周溝墓跡も発見されており、古墳時代へ変遷の萌芽を窺い知ることができる」と紹介されています。

 朝日遺跡から出た遺物はコンテナで13,000箱もあるそうです。国の重要文化財に指定されたものだけでも2,000点以上あり、さらに国の補助を受けて保存、修理作業が順次行われているところです。現在は平成29年度に保存、修理を終えた朝日遺跡出土の土器などを展示する企画展が開催中でした。そして史跡公園の南側に新館の建設が進んでいます。おそらく新館オープンを機に、朝日遺跡の名が冠されることになるでしょう。

 1時間ほどでひととおり見学を終えて休んでいると、再びおじさんが事務室から出てきました。せっかくなので池上曽根遺跡などをネタに会話をしてみると、いろいろと教えてくれました。この一帯は海抜が4mしかない湿地帯であったので逆茂木や木製品がよく残っていたといいます。土器も残りがよくて表面がきれいだとも。おじさんによると、同じ名古屋にある高地性集落の見晴台遺跡の土器は表面がゴツゴツで状態が良くないらしく、その違いは水に浸かっていたかどうかによるのです。見晴台の土器は雨に浸かったり日照で乾燥したりを繰り返すから劣化が激しくなる。ここの土器は残りが良いから土器に土がついている、残りが悪いと土に土器がくっつくんです、と。なるほどなあ。博物館実習で土器洗浄を経験したばかりなので、その表現の意味が理解できました。そして驚いたのは、湿地帯であったがゆえに遺跡が弥生時代で終焉を迎えた後、次に人が住むようになったのは平成になってからだというのです。古墳時代以降つい最近まで人が住むことはなく、千数百年の間、ずっと田んぼだったらしいのです。

 このあたりでおじさんの正体を確認したくなり「学芸員さんですか」と聞いてみると「資格は持っています」という答え。続いて「館長さんですか」と聞くと「もう定年を過ぎて単なる留守番役です」との返答。事務室の中に女性がいたので「あの方は学芸員さんですか」の問いには「彼女は学生のアルバイトです」と。留守番役とアルバイトで運営しているので開館日が木・金・土・日と変則的になっているとのこと。
 それにしても詳しいので、元は館長さんだったんだろうなと思って話を続けました。そしてこの地方特有のS字状口縁台付甕の話をすると俄然盛り上がってきました。「大阪の博物館ではS字を見ることができないし、名古屋市博物館に展示されていたのもケースの中だったのでなかなか詳しく見る機会がないんです」「ここにも展示されていませんでしたね」「S字は蓋をしたときによく密閉できるというのが利点なんですよね」といった話をすると元館長(?)さんは少し考えた後、「ちょっと来てください」といって展示室の裏にある収蔵室へ案内してくれました。土器がいっぱい並べられている保管棚の一番奥にS字が置かれていて、それを取り出して見せてくれました。「持ってみてください」「いいんですか?」、緊張しながら両手で持ってみてびっくりしました。「軽い!」「これがS字の一番の特徴なんです」




 いやあ、楽しい時間でした。朝の登山や乗り換えのダッシュで体は疲れ切っていたけど、元館長との会話の時間、気持ちはずっとワクワクしてました。これが博物館見学の醍醐味です。名古屋駅への帰り方を聞くと、城北線はダメダメと言われ、JR清須駅まで歩くと30分ほどかかるけど途中の清須城を見て帰るといい、と教えていただいのでそうすることにしました。



新館がオープンしたら必ず来るぞ。


東西弥生文化の結節点・朝日遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」088)
 
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葛城市歴史博物館

2018年10月08日 | 博物館
 2018年10月6日、葛城市歴史博物館を訪問。奈良県葛城市忍海にある登録博物館で、2004年の新庄町と當麻町の合併によって新庄町歴史民俗資料館から改称された博物館です。



入館料は200円。入口を入って左手に常設展示室、突き当たりの左側に特別展示室があります。


常設展示は古代から中世までの歴史資料および民俗資料が展示されます。特に葛城市内の弥生遺跡や古墳から出た遺物の展示を中心に、古代寺院に関する展示、竹内街道に関する展示がメインとなっています。

縄文から古墳時代にかけての遺跡からの出土品の展示。


古墳からの出土品の露出展示。


特に興味を持った舟形埴輪の復元資料。


近代の民俗資料。


特別展示室への入口。

「『古代葛城の武人』-葛城市兵家古墳群と大和の甲冑-」というテーマで特別展示が開催され、葛城市内のみならず奈良県各地の古墳から出た鉄製の甲冑などが展示されていました。他の博物館から借りた実物資料がたくさん展示されており、写真を撮らないように言われたので撮影は入口までです。

 特別展示は大きな気づきが得られたのですが、常設展示は正直言ってショボイと思いました。葛城といえば古代史解明のカギを握る重要な遺跡、古墳の宝庫なのに、それらの遺跡に関する展示がないのはどうしてでしょう。葛城襲津彦の墓と言われる室宮山古墳、大規模水田跡である中西遺跡、大規模住居跡が出た秋津遺跡、葛城の王都と言われる南郷遺跡群などです。これは公立博物館が現在の行政区に依存していることからくるものだと思います。
 公立博物館はほとんどの場合、郷土の歴史及び文化財についての市民の理解を深め、教育、学術及び文化の発展に寄与することを目的として設立されます。ここでいう「郷土」は設置者である自治体を指すので、それぞれの自治体の地域内にある遺跡などの文化遺産が展示されることになります。葛城市歴史博物館は上記の通り、新庄町と當麻町という範囲なので文化遺産は限られたものにならざるを得ないのです。したがって、古代の葛城地方の文化遺産を網羅しようと思えば、奈良県内の北葛城郡、香芝市、葛城市、大和高田市、御所市などの公立博物館を全て回る必要があるのです。(いずれ全部まわろうと思っていますが)
 古代を考えるときに現在の行政区分を前提に考えるのはナンセンスです。個人的にはせめて奈良時代の行政単位である令制国くらいの範囲で捉えたいと思うので、近隣の自治体が連携し、強みを活かしながら弱みを補完し合ってテーマ別の展示ができれば博物館の教育的な価値はさらに高まると思います。特別展や企画展がそれに当たると言ってしまえばそれまでですが。。。



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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
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大阪市立大阪歴史博物館(No.2)

2018年09月16日 | 博物館
 大阪歴史博物館は隣のNHKとともに大阪市立中央体育館の跡地に建てられ、2001年に開館しました。中央体育館を解体するときに難波宮跡が発掘されると同時に5世紀の遺跡である法円坂遺跡も発掘調査されました。このときの遺構が建物の下に保存され、見学をすることができます。

 チケット購入時に遺構見学ガイドツアーに参加したい旨を告げて開始時間や参加方法を聞いていたので、博物館の展示見学を少し早い目に切り上げて1階ロビーのツアー受付に向かいました。

1階ロビーの様子。


ツアーの参加者は私を含めて15名です。学芸員の方が1名とボランティアガイドの方2名の引率でツアーが始まりました。まず最初はこのロビーの下にある難波宮の倉庫群とされている遺構からです。

ロビーの床がガラス張になっていて、その下に遺構が保存されています。

掘立柱の跡が並んでいます。メジャーで示されているように120㎝四方の穴を深さ1mほどまで掘り下げ、そこに柱を立てて埋めるという、いわゆる掘立柱の方式で建てられたことがわかります。この建物は倉庫群を管理する管理棟と考えられています。

次は館外へ出て隣のNHKビルの地下へ降ります。地下に掘立柱跡が並ぶ倉庫群の遺構が保存されています。





柱に見立てた提灯のようなものがぶら下がっています。東西に4本、南北に5本、計20本の柱で1つの倉庫を構成し、この地下ではふたつの倉庫跡を確認することができました。

遺構の場所や構成を示した図。

この倉庫群は難波宮跡の西北に位置していました。

中央体育館解体時の様子。

床をはがした状態で建屋を解体する前に調査をしたようです。

この遺構は大阪城の西南、外堀の外側に位置します。

黄色のマルで囲われた部分です。このときはまだ陸軍の施設があったようです。

現在の様子を空撮。

難波宮跡の遺構はここまで。このあと、NHKの外へ出て法円坂遺跡の遺構を見学します。

 法円坂遺跡は難波宮造営を遡ること200年、古墳時代中期の大型倉庫群跡で国の史跡になっています。難波宮跡よりも下の地層から検出されました。この地は上町台地の北端にあたり、古代には上町台地の東側には河内湖が広がっていました。仁徳天皇のとき、湖に堆積した土砂によって滞るようになっていた河内湖の水を大阪湾に流すために台地を横切るように掘削して堀が設けられたことによって船の航行が可能になったこともあり、このあたりは古代瀬戸内海航路の拠点、一大物流拠点として機能する場所であったことがわかっています。
 第15代応神天皇の頃から政治の中心が大和から河内に移り、上町台地の南にあたる地に巨大な天皇陵が築かれるようになりました。この法円坂遺跡の大倉庫群は当時の政治情勢や外交の様子をうかがい知ることができる遺跡です。難波宮跡よりもこの法円坂遺跡の方を興味深く見学しました。

法円坂遺跡の説明板。






約90㎡の大型倉庫跡が16棟も検出されました。


倉庫1棟が復元されています。


通常は入ることができない内部に入ることができました。

 ここでガイドツアーは終了となりました。あまりに暑かったので道路を隔てたところにある史跡公園へ行くのはあきらめて、ガイドツアーで聞いた展示資料を確認するために博物館に戻ることにしました。そして最後にロビーをうろついていて見つけたのが「タイムカプセル」の案内表示。私の世代の多くの大阪人はタイムカプセルと聞いてピーンとくるはずです。そうです。大阪万博の時に地中深くに埋められたアレです。




 現代の生活で利用されている様々な物品を未来に伝えるために万博の時に松下館に展示された後、大阪城天守閣前に埋められたものです。カプセルは2つあって、1つは西暦2000年に一度開封されて内容物を確認後に再び埋められ100年ごとに確認することに、もう1つは5000年後に開封されることになっています。万博のときに小学4年生であった私はこのタイムカプセルの話にすごいロマンを感じたことを覚えています。それをここで見ることになるとは。

 タイムカプセルのサプライズもあって、たいへん貴重で感慨深い博物館見学となりました。
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大阪市立大阪歴史博物館(No.1)

2018年09月15日 | 博物館
 いつでも行けると思うとなかなか行く機会を作れない、いや作ろうとしないのが私の悪いクセ。博物館見学にもそれが現れており、自宅から近い大阪や奈良にある有名博物館はほとんど行っていないというのが実状です。そしてこの大阪市立大阪歴史博物館もそのひとつでした。学芸員の勉強のためにホームページは穴が開くほど閲覧したのですが、実際に見学に訪れたのは今回(2018年9月)が初めてです。なかなか感慨深いものがあったので紹介したいと思います。

 大阪歴史博物館は地下鉄の谷町四丁目駅から歩いてすぐのところにあり、難波宮跡のすぐ近く、大阪城の西南角のところにNHKビルと並んで建っています。もともとは大阪市立中央体育館が建っていた場所で、40年前の高校2年の夏、この中央体育館で大阪府の高校剣道国体予選が行われ、団体戦で見事3位に輝いた場所です。では順に紹介していきます。

入り口。正面に見えるのがNHKで左が博物館です。


特別展「西郷どん」が開催中でした。幕末の知識がないのでよくわからないのですが、大阪市の歴史と西郷隆盛は関係があるのでしょうか。大河ドラマが放映中なので隣のNHKの画策に乗ってしまったのでしょうか。今回、この特別展はパスしました。常設展示だけだと入館料は600円で、決して安くはないです。チケットを買ってまずエレベーターで10階の古代フロアへ上がります。

古代フロアの半分のスペースを使って復元された難波宮の大極殿。

すごい迫力なのですが、私にとっては10階から眺める難波宮跡とその背景の景色のほうが印象深かった。

その景色。

真ん中に大極殿、背景には生駒山地から二上山を経て金剛山地へと連なる山並み、その向こうには大和がある。ここは難波から近つ飛鳥と呼ばれる地を経て飛鳥へと続く竹内街道の出発点で、こうして眺めていると大和まではそんなに遠くないことを実感します。「近つ飛鳥」とは奈良県の明日香村の「遠つ飛鳥」に対して、大阪府羽曳野市飛鳥や南河内郡太子町あたり一帯を指す呼称で、聖徳太子、推古天皇、用明天皇などの御陵があります。難波宮からみて遠い飛鳥、近い飛鳥ということです。ここにある近つ飛鳥博物館は博物館教育論の課題レポートの対象として研究しました。

古代フロアに展示される考古資料で最も興味をもった船形埴輪。

手前が 大阪市平野区長原にある高廻り2号墳出土、後ろが1号墳出土です。高廻り2号墳は5世紀前葉に造られた直径21mの円墳です。手前の埴輪をモデルに古代船を復元して韓国まで漕いで渡ろうとした「なみはや号プロジェクト」というのが30年前に行われましたが残念ながらうまくいかなかったようです。20年近く前、私はこの船形埴輪が出土した大阪市平野区長原の近くの八尾南に住んでいました。このあたりに遺跡がたくさんあることは知っていたのですが、4世紀末から6世紀前半に造営されたとされる200基以上の古墳が密集する古墳群があるとは全く知りませんでした。

長原古墳群を示す説明板。 1階のロビーの壁に見つけました。


私の以前の自宅は上の地図の右下のあたりです。この船形埴輪以外にも長原遺跡から出た資料などが展示されていましたが、古代フロアの資料展示スペースの大半は難波宮に関する資料で占められていました。

難波宮発掘時の状況を復元した遺跡模型。

この地には2つの難波宮があります。ひとつは大化の改新後に孝徳天皇が飛鳥から遷都した宮(難波長柄豊崎宮)、もうひとつが奈良時代中頃に聖武天皇が恭仁京から遷都した宮です。前者を前期難波宮、後者を後期難波宮と呼びます。

前期難波宮の復元模型。


後期難波宮の復元模型。


10階から9階に下りるエスカレーターの踊り場から眺める大阪城。


9階は中世近世フロア。


大坂本願寺の時代から天下の台所と呼ばれる時代までの精巧な模型がふんだんに展示されています。残念ながらここまで時代が下るとあまり興味がないのです。

様々な模型が並びます。








8階は歴史を掘るフロア。なにわ考古研究所と命名された学習コーナーです。



考古学を学ぶために実物大の発掘現場が再現されているのですが、リアリティがあるようでない。

7階は近代現代フロア。大正末期から昭和初期の大坂の街並みを再現。







豊富な映像資料とともに見学すると、これはこれで大変興味深い。大阪で生まれ育った私自身の歴史に直結する時代でもあり、強烈にノスタルジーを感じます。

ゆったり見学ができる実物資料の展示スペース。


このあと、1階ロビーからスタートする難波宮遺跡見学ガイドツアーに参加しました。
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和歌山県立博物館

2018年07月15日 | 博物館
2018年7月、うだる暑さの中、和歌山市にある和歌山県立博物館に行ってきました。和歌山市は昨年の竈山神社日前神宮・國懸神宮を訪ねて以来、一年ぶりの来訪となります。


建物はシンプルな構造で、隣にある和歌山県立近代美術館と地下でつながっています。




常設展示室では古代から近代までの和歌山県の文化・歴史に関する資料を通史型に展示しています。和歌山は記紀神話の舞台にもなっており、高野山、熊野三山、熊野古道、和歌山城など歴史資産も数多くあるためか、特定の時代に偏ることなく各時代とも万遍なく資料と解説が展示され、模型や写真なども上手く使っており、和歌山の歴史を通史型に学ぶ人にとっては非常にわかりやすい展示になっています。





































この展示手法は初めて見ました。

子どもと目が見えない方のための展示です。これは銅鐸の説明で、模型とともに銅鐸の写真と説明が印刷されたパネルが置かれています。説明文には点字が施されています。写真もその輪郭がわかるように凹凸があります。右側の小冊子もすべて点字が重ねて印刷されています。

これもわかりやすい展示です。

日本史で律令時代の租庸調という税制を勉強しましたが、それを目に見える形で示したものです。夫婦と子供二人の4人家族が納めなければならない税はこれだけ、というのがよくわかります。

これは何を撮影したのでしょうか。

この常設展示室には2名の監視員が配置されています。お昼過ぎの時間に見学者は私ひとり。冷房が効いた薄暗い空間。眠くならない方がおかしい。監視員の方、ゴメンナサイ。

常設展示室を出たあと2階へ上がるとテラスを利用した屋外展示がありました。


その奥にはライブラリーコーナー。

この奥には研修室があります。

吹き抜け空間の向こう、右側が研修室で左側がライブラリーコーナー。


和歌山の歴史を学ぶには大変いい博物館でしたが、建物の大きさ、空間の大きさの割に展示スペースが小さい印象。翌日から企画展が始まるとのことだったので常設展しか見ることができなかったのが少し残念でした。
おまけに、もう少し考古資料があるかと思っていたのですが、そうでもなかったのも残念。考古資料を見ようと思えばこの博物館ではなく、紀伊風土記の丘へ行った方がいい、というのはあとでわかったこと。次の機会にしよう。

博物館の隣の美術館はパス。余裕があればすぐ近くの和歌山城へ行こうと思っていたものの、あまりの暑さのためにこれもパスして、県庁前のバス停から南海の和歌山市駅に向かいました。駅ビルでランチをとるつもりが駅についてビックリ。

なんと、ビルが解体されていました。仕方なく、コンビニでおにぎりを買って駅のホームでパクつきました。



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大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)

2018年06月24日 | 博物館
2018年6月24日の日曜日、翌朝の会議のために前泊で広島入り。午前中に東京から移動して、午後から大和ミュージアムを見学してきました。広島空港から呉駅までリムジンバスで1時間弱。バスの乗客は私を入れてふたりだけ。しかもほとんど高速道路だったので快適でした。

JR呉駅です。駅周辺では水兵さんの白い制服を着た若者を3人ほど見かけました。海上自衛隊の隊員かな。


駅前にある観光案内板を見ていると「こんにちは」と声をかけてくるボランティアのおじさん。この青い人です。

呉周辺の観光地を説明してくれました。大和ミュージアムのすぐ近くにある「てつのくじら館」にも是非行ってくださいと言われたので行こうと思っていたのですが、大和ミュージアムで時間切れになってしまいました。

大和ミュージアムのテラスから見た「てつのくじら館」。本物の潜水艦を陸にあげて博物館にしているそうです。正式名称は「海上自衛隊呉資料館」です。


大和ミュージアムは駅から徒歩で5分ほど。専用の通路があるので間違えることはありません。時刻はちょうど昼の1時。先に昼ご飯を食べようとショッピングモールのレストラン街へ行ってみたら、どこも結構な行列ができていたのであきらめてそのまま博物館へ。

とくに戦艦が好きというわけでもないのに、なんだかワクワクしてくる。


常設展と企画展のセットで800円。高くはない。そして入館するとまずはドカーンと大和の模型。サイズは実物の10分の1。


常設展は、海軍基地としての呉の発展を時代順に展示しています。1890年(明治23年)に呉鎮守府が開庁して以来、呉は軍港の街、海軍の街として発展を遂げます。



寄贈者の名前を見てびっくり。まさかの松本零士。見学の途中でわかったのだけど、松本零士はここの名誉館長とのこと。


とにかく映像資料、いわゆるビデオが豊富に展示されているのでわかりやすい。人が溜まっているところはビデオ映像が流れています。


ここは大和のコーナー。大和関連の資料がいろいろと展示されます。



このあたりから乗組員の手紙とか遺書とか。


あたりから鼻をすする音が聞こえてくる。

連合艦隊司令長官の山本五十六の遺品も。


これには胸を打たれた。


大和が沈没したときの戦死者名簿。


呉の海軍工廠で建造された戦艦などのリスト。艦艇は全部で133隻。


大型資料の展示室に展示される人間魚雷「回天」。実物です。


乗組員の遺言。

なんと、本人が出陣前に録音して残した肉声が流れる。ここでも涙だ。

零戦も実物。

零戦の向こうには戦艦の砲弾が展示されています。左の3本が大和で使われた46センチ砲弾。子供の身長くらいの高さはゆうにある。

このあたりですでに15時半を過ぎていました。まだ企画展があるので、残りの展示を少し駆け足で回りました。企画展は戦艦長門に関する展示でしたが、展示資料はどれも撮影禁止だったので残念ながら写真はありません。この企画展では大艦巨砲主義の象徴であり、第一次世界大戦後の連合艦隊旗艦であった長門や二番艦の陸奥は、敵国を攻撃するために存在したのではなく、戦争を抑止することが本来の役割であったという説明がされていました。ワシントン軍縮会議によって、このクラスの戦艦をイギリス、アメリカ、日本の三国がそれぞれ2隻、3隻、2隻を保有してバランスを保つということから出た理屈だと思うのだけど、素直には納得できない。今の核兵器と同じではないか。

企画展の展示室を出たのが17時少し前。てつのくじら館はあきらめて、大和ミュージアムの裏にある大和波止場へ。太陽が西に傾いて海風が吹いて、いい雰囲気でした。

大きなタンカーがドック入り。大和が建造されたドックはこのあたりのはず。


大和の左舷の前甲板を再現した公園。


振り返って大和ミュージアムの全景。


そろそろ疲れてきました。今日はこれくらいにして、是非とも再訪しようと心に決めて駅に向かいました。そう言えば昼ご飯を食べていなかった。駅ビルにあるここで生ビールとお好み焼き。


広島に向かう電車から見た夕陽。見学の疲れとビールの酔いが心地いい。


博物館の勉強も兼ねて見学をしたのですが、この博物館の特徴は何と言ってもボランティアの存在です。どこの博物館でもボランティアの方々がいるのだけど、ここは特に若者や外国人の見学者が多いので、ボランティアにも高いコミュニケーション力が求められる。でも、みなさん活き活きと説明されていました。あるボランティアの方は英語のマニュアルを片手に必死に説明している。またあるボランティアの方は見学者の後ろでメモをとりながら先輩の説明を聞いている。頭が下がります。展示の特徴といえば、個人からの寄贈資料がたくさんあること、ほとんどが実物資料であること、写真や映像資料(ビデオ映像)が豊富に展示されること、などかな。考古資料や民俗資料ばかり見てきたので、たまにはこういうのも勉強になります。

以上、大和ミュージアムのレポートでした。



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