古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その6 新羅征討③)

2018年02月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功皇后は吉備臣の祖である鴨別(かものわけ)に熊襲を討たせたあと、神の教えに従って新羅征討を決意する。そもそも神功皇后は仲哀天皇による熊襲征討を阻止して新羅を討たせようとしたにもかかわらず、皇后自らが熊襲を討たせたのはどうしてか。この疑問については「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」ですでに触れておいた。
 その後、荷持田村(のとりたのふれ)に住む羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)で討った。皇后が「熊鷲を取って心が安らかになった」と言ったので、この地を安(やす)と呼ぶようになった。荷持田村は現在の福岡県朝倉市秋月野鳥付近と考えられており、羽白熊鷲の墓とされる円墳が残されている。安は現在の福岡県朝倉郡筑前町であるが、筑前町は2005年に夜須町と三輪町が合併してできた町である。
 続いて山門県(やまとのあがた)で田油津媛(たぶらつひめ)を殺害した。この田油津媛については「景行天皇(その6 九州平定③)」で触れておいたが、景行天皇の九州征討のときに白旗を掲げて帰順を申し出た女首長である神夏磯媛(かむなつひめ)の後裔であろうと考えるのだが、先祖が景行天皇に忠誠を誓ったにもかかわらず二代あとの仲哀天皇のときには天皇家に敵対する勢力になっていたと書いたが、これは逆に考えた方がいいだろう。神功皇后は仲哀天皇を崩御に追い込んだあと、その天皇家側の勢力になっていた神夏磯媛の後裔を討ったのだ。

 こうして神功皇后は後顧の憂いを絶ったあと、いよいよ新羅出兵の準備を整えるのであるが、その過程で様々な不思議な現象が起こる。
 肥前国松浦県の小川のほとりで食事をしたとき、皇后は針をまげて釣針を作って飯粒を餌に、裳の糸を釣糸にして神意を伺う占いをして「私は西方の財(たから)の国を求めようと思うが、事を成すことができるなら河の魚よ、釣針を食え」と言って竿を上げると鮎がかかった。皇后は神の教えがその通りであることを知って西方を討とうと決意した。そして神田を定めて儺の河(那珂川)から水を引こうと溝を掘ったところ、大岩が塞がって溝を通すことができなかったので、武内宿禰を呼んで剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせて溝を通したいと願ったところ、急に雷が激しく鳴って大岩を踏み砕いて水を通すことができた。
 皇后は香椎宮に戻って髪を解いて「私は神祇の教えのもとに西方を討とう思う。もし霊験があるのなら頭を海水ですすいだときに髪がひとりでに二つに分かれますように」と言って海に入って頭をすすぐと髪はひとりでに分かれた。このあと皇后は分かれた髪を鬟(みずら)に結い上げ、群臣に向かって新羅征討の決意を表明すると一同が皇后に従った。
 数々の不思議な現象によって皇后の神性を表現することで新羅征討の成功を予感させ、さらに皇后が髪を鬟に結って男性に変身し、征討軍のリーダーとなって群臣をひとつにまとめるシーンは否が応でも気持ちを高める。仲哀天皇亡きあと、次の応神天皇が生まれるまでの中継ぎとして神功皇后が政権を担うに相応しいことを演出していると言える。

 その後も、軍兵が集まらないときに大三輪神社に刀・矛を祀ると軍兵が自然と集まり、さらに吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)、続いて磯鹿海人(しかのあま)の草(くさ)という人物に西方の国を確認させたあと、出発の吉日を占った。吾瓮は関門海峡に浮かぶ阿閉島、磯鹿は志賀島とされる。
 そして「和魂(にぎみたま)は王の身を守り、荒魂(あらみたま)は軍船を導く」という神の教えを受けて拝礼し、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を祭りの神主とした。皇后はこの教えに従って荒魂を招いて軍の先鋒とし、和魂を請じて船の守りとした。このときの神は表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神である。皇后が新羅から帰還したときに三神が軍に従ったと記される。
 とことん神の力を背負っているが、極めつけは臨月に入っていた皇后が石を腰に挟んで「事を成就して戻ってからこの地で生まれてほしい」と祈って新羅に向かい、新羅征討に2ケ月以上の期間を要した後に、ちょっと考えにくいことだが、結果はその祈りの通りになった。そうして生まれたのが応神天皇である。

 こうして仲哀天皇が崩御してから約8ケ月を経て、皇后軍は新羅へ向けて出発した。このときも風の神、波の神の力を得て一気に新羅に上陸し、あっという間に新羅王を降伏に追い込んだ。このときの書紀の記述は、先に挙げた新羅本紀の346年の記事「倭兵、猝(にわ)かに風島に至り、辺戸を抄掠(しょうりゃく)す」にまさに合致している。征討軍は大勝利を収めたのであるが、新羅が地図や戸籍を差し出して神功皇后の軍門に降ったことを聞いた高麗および百済も帰順を申し出た。これをもって三韓征伐と言われる。

 先述の通り、神功皇后は新羅から帰還して応神天皇を生んだ。時の人はその場所を宇瀰(うみ)と名付けた。現在の福岡県糟屋郡宇美町である。皇后は腰に石を挟んで出産を遅らせたのであるが、果たして本当だろうか。そもそも臨月に入っていつ生まれるかわからない状態で新羅まで出向くなど非現実的である。仲哀天皇崩御が2月5日、そして応神天皇誕生が12月14日で、その間に新羅征討がある。これは応神天皇が仲哀天皇の子であることを言わんがためのぎりぎりの設定で、あまりに出来過ぎている。応神天皇誕生を12月14日よりあとの日にしてしまうと万世一系が途絶えるだけでなく、神功皇后が不貞を働いたことを明かすことになってしまうのだ。つまり、この無理な設定は新羅からの帰国後に生まれた応神天皇の父親が仲哀天皇でないことを明かしているようなものではないだろうか。応神天皇の誕生についてはあらためて考えたい。

 さて、新羅からの帰国後、軍に従った表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が「わが荒魂を穴門の山田邑に祀りなさい」と言ったところ、穴門直(あたい)の先祖である践立(ほむたち)と津守連の先祖である田裳見(たもみ)宿禰が「神の居たいと思われるところを定めましょう」と申し出たので、践立を荒魂を祀る神主とし、穴門の山田邑に祠を立てた。この山田邑の祠は山口県下関市一の宮住吉にある住吉神社で、大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つとされるが、全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。そして田裳見宿禰を先祖とする津守氏は住吉大社の歴代宮司を務める氏族である。



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オブサン古墳・西福寺古墳群

2018年02月22日 | 遺跡・古墳
オブサン古墳はチブサン古墳から歩いて5分ほど、チブサン古墳の北西約200mに位置する。6世紀後半の築造とされ、直径約22m、高さ約4mの突堤付き円墳である。埋葬主体部は巨石で造られた横穴式石室をもち、この石室は全長約8.5m、玄室・前室・羨道からなる複室構造で、前庭部を含めると16m以上に及ぶ。玄室部の壁面や仕切り石に赤色顔料で連続三角文などが描かれる装飾古墳であるが、その装飾は時間の経過とともに薄れてしまい、残念ながら肉眼では確認できなかった。ここもチブサン古墳と同様にすぐ近くにガイダンス施設があった。

オブサンは「産(うぶ)さん」が訛ったもので、安産の神様として古くから地域の人たちに信仰されている。また、西南戦争の際には薩摩軍が立てこもり、そのときの官軍の弾痕が残っている。

チブサン古墳から歩いていくと墳丘が見える。


南側から石室の開口部。

両側に伸びるのが突堤と言われる部分で、この構造をもった古墳を見るのは初めてだ。

石室の構造。


手前が前室、奥が玄室で扉の奥が石屋形。屍床(ししょう=遺体を横たえる床)を家形にしたもの。


玄室の石屋形。

石室内には玄室の石屋形と手前の両側、前室の両側と計5つの屍床が設けられている。つまり、あとから4つの遺体を追葬するためだ。王家一族の墓ということだ。

玄室の側壁(上が左側、下が右側)。



いずれにも装飾が確認できなかった。

ガイダンスにあった説明。


石室の構造図がわかりやすい。

同じくガイダンスに展示された閉塞石。

左が前室を塞いでいた閉塞石、右が玄室の閉塞石。前室の石には西南戦争時の弾痕(小さな丸い穴)が認められる。

このオブサン古墳の裏手を上がると、西福寺古墳群がある。



西福寺古墳群には円墳1基、方形周溝墓2基、石棺12基が保存されている。12号石棺はチブサン古墳のそばにあったやつだ。

古墳時代前期と推定される方形周溝墓。上の写真のいちばん奥に見える一段高くなった平らな墳丘がそれ。

古墳時代の方形周溝墓という言い方は違和感がある。2つ上の写真からもわかるように一段高くなった墳丘墓で周濠もある。それが前期とはいえ古墳時代のものであるというなら、まさに古墳そのものではないか。

様々な石棺があちこちに。ほかの地域から移設されたものもたくさんある。



それぞれの石棺には盛り土があったはずだが、すべて削平されていた。

オブサン古墳も含めてこの一帯を治めていた権力者の墓域ということだろう。実は上の方形周溝墓のすぐ向こうに山鹿市立博物館があるということをあとで知った。どうやら通常の見学者とは真逆のコースを辿ったようだ。

以上、6回にわたって九州車中泊ツアーで立ち寄った遺跡・古墳を紹介しました。
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チブサン古墳

2018年02月20日 | 遺跡・古墳
装飾古墳と呼ばれる古墳がある。石室の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾を施したものの総称で、墳丘を持たない横穴墓も含まれる。 日本全国に657基があり、その半数以上が九州地方にある。とくに熊本県には全体の3割にあたる196基が存在し、その6割の117基が菊池川流域にある。つまり全国の装飾古墳の2割弱が菊池川流域にあるということだ。先に見た岩原横穴墓にある8基もそれにあたる。

今回はその中でも特に有名なチブサン古墳とオブサン古墳を見学。近くの山鹿市立博物館に申し込めばチブサン古墳の石室が見学できるということがわかったのだけど、これは1日に2回、10時と14時のみとなっていたので時間が合わずにあきらめることにして、鞠智城からまずはチブサン古墳に向けて車を走らせた。

チブサン古墳は山鹿市城字西副寺にある古墳時代後期(6世紀前半)の前方後円墳で、割り石を積み上げた石室に置かれた石棺の壁に赤、白、黒の三色で〇、△、◇などの図が描かれている装飾古墳。ふたつ並んだ〇が女性の乳房に見えることから「チブサン」と呼ばれるようになったと言われる。
この古墳は菊池川支流の岩野川右岸、標高約45メートルの平小城台地の東端に位置し、周辺には城横穴群、付城横穴群、馬塚古墳など装飾古墳が多く分布する地域である。南北に流れる岩野川の橋を西に渡るとすぐに台地を登る坂道になる。その坂道の登り始めをすぐに右折し、さらに細い急な坂を10メートルほど登っところが駐車場なので、台地の東端に位置するというのがよくわかった。

前方部の右後方から。


後円部にある石室への入り口。

山鹿市立博物館に申し込めばこの入り口から中に入って見学することができたのですが、、、

駐車場の横に設けられたガイダンス施設。


装飾された石棺のレプリカ。

右側に描かれたのが冠をかぶった王というのが一般的な解釈だけど、宇宙人とUFOという説もある。

チブサン古墳の説明。


山鹿市教育委員会が石室保存工事をした際に発掘された土器と石人。いずれもレプリカです。

チブサン古墳の石室は古くから開口されていたようで、とっくの昔に盗掘されて副葬品はまったく残っていません。石人の実物は東京国立博物館に展示されているので、近いうちに観に行きたい。

石人や石馬など石製品を持つ古墳は全国で28例あるが、そのうち27例が九州にあるという。そのなかでも熊本県は特に多く、先に行った江田船山古墳も含めて15例あるらしい。装飾古墳といい、石人の副葬といい、熊本県の古墳文化はたいへんユニークである。あきらかに畿内、大和と違う文化を持った人々が治める地域であった。

墳丘の近くで見つかった石棺。チブサン古墳の被葬者と関係ある人物が埋納されたのであろう。


この石棺を見ながら徒歩で次のオブサン古墳へ向かった。
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鞠智城

2018年02月18日 | 遺跡・古墳
方保田東原遺跡の次は歴史公園鞠智城。 「鞠智」は通常は「きくち」と読みますが、もともと「くくち」と読まれていたそうです。 鞠智城は熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる標高90~170メートルほどの米原台地に築かれた古代の山城です。公式サイトによると、鞠智城は東アジア情勢が緊迫した7世紀後半に大和政権が築いた山城で、663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した大和政権が日本列島への侵攻に備えて西日本各地に築いた城のひとつ、となっています。



663年の白村江の戦いでの敗戦あとの「日本書紀」の記述をみると、664年に対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽(とぶひ=狼煙)を配備、筑紫国に水城を築き、さらに665年には長門国に城を築き、筑紫国には大野城と基肄(きい)城を築城、続いて667年に大和国に高安城、讃岐国に屋嶋城、対馬国に金田城を築いた、とある。唐・新羅軍が対馬海峡を渡って瀬戸内海から都に襲来してくることに備えた防衛戦略である。さらに念には念をということで飛鳥から近江大津京に都を移し、翌年に中大兄皇子は天智天皇として即位した。

なるほど、よくわかる話だけど、ちょっと待てよ。一連の防衛網構築に鞠智城は登場しないではないか。しかし公式サイトにはいかにもこのときに鞠智城が築かれたように書いてある。しかもこれは通説とされている。実は「続日本紀」に、698年に大宰府に命じて大野、基肄、鞠智の三城を修繕させた、という記述があるのです。 大野城、基肄城は665年に築城された城なので、それらと一緒に修繕するように命じたということは、鞠智城の築城も同時期であったろうと推測され、さらに発掘調査の結果、少なくとも7世紀後半から10世紀中頃まで城が存在したことが判明しているという。しかし、この城の立地も含めて考えるとどうも納得がいかない。



大野城、 基肄城は博多湾に上陸されたときの防衛拠点になるのはよくわかるけど、この鞠智城は博多湾からあまりに遠すぎて直接的な防衛機能は果たしえない。そこでこの城は前線の大野城・基肄城、加えて大宰府への武器や食料の補給基地の機能を有した、という考えが出てきた。うーん、それでもかなり無理があるぞ。補給のためには1000メートル近い山々が連なる山岳地帯を越えていかなければならないし、それ以上に単純に遠すぎるのだ。あえて言えば、この城は有明海から菊池川流域に上陸されたときの防衛基地であると考えればまだ少し納得がいく。しかし、敵の立場になれば菊池川流域に上陸することにほとんど意味はないのだ。有明海への侵入においては筑後川流域に上陸するだろう。その場合は少し距離が離れているが基肄城が機能することになるのだ。

これらの状況から私は次のように考えている。鞠智城は唐・新羅軍の本土襲来に備えて大野城や基肄城とともに新たに築かれた城ではなく、ここには古くから何らかの施設が存在しており、大和政権はその施設を再利用しようとして改修させた。日本書紀に築城の記事がないにもかかわらず、唐突に続日本紀に改修の記事が表れるのはこのためだ。そしてその改修は689年のことであり、すでに唐・新羅軍が侵攻してくる恐怖は消え去っていた。改修の目的はおそらく九州中南部を統治するための出先機関としての活用ではないだろうか。では、この地に古くからあった施設とは何であろうか。

ここに来る前に方保田東原遺跡を訪ねたが、そこからこの鞠智城までは距離にして10キロほど。方保田東原遺跡の立地が狗奴国の北限域にあたると考える私は、この鞠智城の前身である施設も狗奴国と関係があるのではないかと考える。 方保田東原遺跡は吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模をもつ集落遺跡で、しかも鉄器の生産設備を備えていたことから、狗奴国に属する大きな権力集団の拠点であった可能性が高い。菊池川流域には方保田東原遺跡のほか、うてな遺跡、小野崎遺跡など弥生時代の大規模集落遺跡が出ており、狗奴国はこれらのムラを統治するために鞠智城の場所に出先機関を置いた。そして弥生時代後期、ここを拠点にして邪馬台国を盟主とする倭国との戦争に臨んだのだ。鞠智城の前身の施設は狗奴国の出先統治機関であるとともに対倭国戦争における前線基地であった、と考えたい。

しかし、残念なことに弥生時代にさかのぼる遺物や遺構は発掘されておらず、すべての遺物、遺構は7世紀以降の施設の存在を物語るのみである。私としてはこれらの遺構のさらに下に弥生時代の遺構があるだろう、と想像を膨らませるばかりである。ただ、いずれにせよ、この鞠智城は白村江の戦いや唐・新羅軍の侵攻とは関係のない施設である。

ちなみにこんな説もあり、私もかなり近い考えを持っています。
鞠智をククチと読むことと、狗奴国の王に仕える官の名が狗古智卑狗(クコチヒク)であることの関連から、この肥後国(熊本)がまさに狗奴国そのものであった、とする考えです。狗古智卑狗=鞠智彦(ククチヒコ)、すなわち鞠智を治めた男、となるわけです。「鞠智」はその後に「菊池」と改字されて現在の地名になっています。また、ここは熊襲の地でもあることから、熊襲と狗奴国の関連も同時に説かれます。私は南九州一帯(大隅、薩摩、日向の南)を初期の狗奴国に比定し、その狗奴国がこの阿蘇周辺まで北進してきて領土を拡大した、そしてその結果、すぐ北側の倭国とぶつかって戦争に突入することになったと考えています。

「熊本県指定史跡 鞠智城跡」の碑。


日本の古代山城で唯一の八角形の建物跡が4基も見つかった。これは朝鮮半島の山城に見られる様式である。

貯水池跡と思われるところから百済系と考えられる銅造菩薩立像も出ており、八角形の建物と合わせて百済技術者による建築と考えられている。

空撮写真と全体図。


周囲の長さ3.5km、面積55haの規模で、72棟の建物跡、城門の門礎石、版築工法による土塁跡などが見つかった。

温故創生館という鞠智城を学習するための施設があって入館料は無料であったが、時間も限られていてワンコを連れていたこともあって入らなかった。今から思えば、少しだけでも見ておけばよかったかも。

温故創生館の前にあった像。

中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が配置されている。台座には万葉集からの防人の歌のレリーフまであって、全く意味のわからない寄せ集めの像だ。

ここは見学というよりも広い芝生の公園と思って散歩気分で来るのがいいと思います。ワンコを連れて入ってはいけないようですが。
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方保田東原遺跡

2018年02月16日 | 遺跡・古墳
岩原横穴墓群を出て向かったのが方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡。熊本県山鹿市方保田にあり、菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した環濠集落遺跡で、その広さは35~40haにもおよび、吉野ヶ里遺跡(およそ50ha)に匹敵する熊本最大の集落遺跡である。この遺跡は当ブログ第一部の「倭国vs狗奴国 戦闘の様子」でも紹介した。

調査の結果、住居跡80軒、埋葬施設21基のほか、幅8mの大溝や多数の溝が確認され、外敵から集落を守っていたことがわかっている。出土した鉄器は破片も含めると170点を超え、全国で唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されるとともに、鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されている。巴形銅器をはじめとする数多くの青銅器も発掘されており、この地の権力者を中心に形成された集落であると考えられる。

北九州への車中泊ツアーの記事にも書いた通り、岩原横穴墓群からカーナビに頼って行ったところ、畑の中の細い道を走り、最後は住宅地に入り込んで「目的地周辺です」と言われたところが行き止まりで、眼の前では数十人のお年寄りがゲートボールに興じている。どうみても遺跡らしい風景ではなく「ホンマかいな」と思ってあたりを探索することに。

そして見つけたのがこの2つの説明板。



最後に住宅地に入り込まなければスンナリとここに来れていた。

お年寄りの皆さんは熊本最大の集落遺跡の上でゲートボールをしているのだった。この奥に遺跡が広がっていて、歩き回るとその広さが実感できる。

ゲートボール場の奥に広がる遺跡。

向こうにある建物がこの遺跡から出た遺物を収蔵している「山鹿市出土文化財管理センター」。

振り返るとゲートボール場。

右手の住宅のあたりに停まっている右端の白い車が私のです。写真左手が2枚の説明板が立っているところ。

遺跡の真ん中に設置された説明板。

この地図で菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に遺跡があることがわかる。

台地の下を流れる方保田川。台地上というのがよくわかる景色。台地というよりも河岸段丘というのが適切なのかも。


特徴的な遺物が紹介されている。


発掘時の様子。


「国指定史跡 方保田東原遺跡」の碑。

実は山鹿市出土文化財管理センターがある方が遺跡の入り口になっているようで、この碑はセンターのすぐ近くに立っていました。

この遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄したことから邪馬台国との関係を説く考えもあるが、私はこの場所は邪馬台国あるいは倭国の領域というよりもむしろ南九州から北上してきた狗奴国の北限域にあたるのではないかと考えている。
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岩原横穴墓群

2018年02月14日 | 遺跡・古墳
清原古墳群を見学した後、道の駅きくすいを出発して向かったのが岩原横穴墓群。岩原古墳群に属し、岩原台地の北側から南西側にかけて崖面に6群、131基の横穴墓がある。

岩原古墳群の全体図。右側が北。

この図の右側、下から上、そして左へと岩原横穴墓群が第1群から第6群まで延びる。今回見学したのは右下「現在地」と書かれたところの第1群10数基ほど。全131基のうち8基に装飾が施されており、そのうち6基がこの第1群にあるのだけど、とてもじゃないけど崖面を登って確認することはできなかった。

第1群の全体図。右側が北。



駐車場の前の崖がいきなりこんな感じで、ここから左手、数十メートル奥までずっと崖面に横穴墓が掘られている。







崖の上の方にも。


駐車場から奥を眺める。右側に横穴墓が並ぶ。

この奥にあるゆるい坂道を登ったあたりまで見学できたが、それ以上は進むことができなかった。

さて、この「横穴墓」ですが読み方は「おうけつぼ」ではなく「よこあなぼ」と読みます。一昨年の東海大学の公開講座で習いました。南九州には独特な墓制として「地下式横穴墓」というのがあって、これを勉強したときに教えてもらったのです。「竪穴」に対する「横穴」なので竪穴(たてあな)と同様に訓読みすることが考古学の世界では一般的になっているそうです。その過程では様々な論争があったそうですが、興味のある方はこちらをご覧ください。

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清原古墳群(江田船山古墳)

2018年02月12日 | 遺跡・古墳
2017年11月1日から5日にかけて出かけた九州への車中泊ツアーで訪問した遺跡や古墳は、清原(せいばる)古墳群(江田船山古墳)、岩原横穴墓群、方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)、鞠池城跡、チブサン古墳・オブサン古墳・西福寺古墳群の5ケ所。まず清原古墳群を紹介したい。

清原古墳群は熊本県玉名郡和水(なごみ)町にあり、前方後円墳3基(江田船山古墳・塚坊主古墳・虚空蔵塚古墳)、円墳1基(京塚古墳)からなる。前方後円墳3基は一括して国の史跡に指定されている。一帯は江田船山古墳公園として整備され、肥後民家村や歴史民俗資料館などがある。また、隣接して道の駅があり、今回はこの道の駅で車中泊をした翌朝に古墳群を見学したときの状況をレポートしたい。


清原古墳群の中で最も古く最も大きい前方後円墳が江田船山古墳である。5世紀後半の築造と推測され、全長は62メートル。盾形の周濠を持ち、豊富な副葬品が出土している。出土品の大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年(昭和40年)に国宝に指定された。とくに75文字の銘文が刻まれた銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀は、埼玉県のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣とともに歴史の教科書に登場する有名な大刀だ。3年前に東京国立博物館で見学したことがある。出土品はこの銀錯銘大刀のほか、刀剣類、銅鏡6面、冠帽類、耳飾類、玉類、武具類、馬具類、鉄鏃類、土器類など92点に及ぶ。また、古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されていたようで、これらの石人は古墳のすぐそばにレプリカが並べれらていた。

後円部の正面から。周濠がきれいに復元されている。


「史跡 船山古墳」の碑。


左側の造出(つくりだし)部から後円部に登る階段の先に見える石棺保存室の入り口。


扉にはこう書かれていました。


おそるおそる扉を開けると、、、


ガラス貼りの部屋に横口式家形石棺が保存されていました。

部屋の中が暖かいからだろう、ガラスの内側は結露がいっぱいで中がよく見えない。3枚のガラスの下にあるハンドルは手動のワイパーを上下に動かすためのもの。両端のは故障で動かず、真ん中のワイパーだけが動かすことができた。ここに銀錯銘大刀が置かれていたのだ。

墳丘全体を左側から。


手前の説明を順に。







1873年(明治6年)、地元の池田佐十が「夢のお告げ」を受けて丘を掘ったところ石棺が出土したことから古墳であることがわかり、これが貴重な遺物発見の端緒となった。池田佐十は数多くの貴重で豪華な遺物を発見し保管していたが、明治政府はそれらの遺物を当時の金額で90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移したという。貴重な遺物を掘り当てた池田佐十なる人物も凄いが、それよりもそれらの遺物が散逸しないようにまとめて買い取った当時の政府の慧眼に拍手だ。

もっとも貴重な副葬品である銀錯銘大刀には次のような銘文が刻まれていた。

台天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无□弖八月中用大鐵釜并四尺廷刀八十練□十振三寸上好□刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太□書者張安也

「台」を「治」と読み替え、判別できない文字(□)を類推して妥当と思われる文字をあてはめたのが次の文章で、現在ではこれがもっとも有力とされている。

天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太書者張安也

「獲□□□鹵大王」の部分は、1978年に埼玉県の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文から「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王=雄略天皇)」とする説が有力となった。その結果、現在では江田船山古墳の銀錯銘大刀の銘文は次のように解釈されるようになった。

天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇)の世に、典曹(文章を司る仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安である。

ちなみに、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文はこちら。

<表>
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

<訓読>
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。

<裏>
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

<訓読>
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

こちらの銘文は両刃剣の側面の幅広い部分に大きく彫られているので見ての通り判別不能な文字がない。一方の江田船山古墳のほうは片刃刀の幅の狭い峰(背)の部分に彫られているために判読不明な文字が多くなっている。

ここにある「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と読んで「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」の名を持つ第21代雄略天皇と解するのが通説となっている。雄略天皇は少なくとも東は埼玉県、西は熊本県北部までその影響力を及ぼしていたことの表れである。宋書倭国伝に雄略天皇と考えられている倭王武が「東方では毛人の五十五カ国を征服し、西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、海を渡っては北の九十五カ国を平定した」と記されていることと対応しているとも言われる。

いくつかのWebサイトを参照していろいろ書いたが、なかには様々な矛盾を指摘する考えもあるようだ。私自身はこれらに関しての勉強がおよんでいないので今のところは有力な解釈や通説とされる考えに従っておきたいと思う。

清原古墳にはこのほかに3つの古墳があったので写真だけ掲載しておきます。

虚空蔵塚古墳(こくんぞうづかこふん)。



墳長44mの帆立貝式前方後円墳。墳丘上に人物埴輪や円筒埴輪が確認されている。

塚坊主古墳。





全長43.3mの前方後円墳で築造は6世紀前半とされる。ここも石室が保存されているようでしたが、扉には鍵がかけられていました。

京塚古墳。


円墳で清原古墳群中の一基だけど他の3基と違って国指定史跡の範囲外。なぜこれだけがはずされたのか理由はわからない。

それぞれの古墳で確認された石人を集めて京塚古墳のとなりに並べられていた。

20~30基くらい並べられていたでしょうか、ひとつひとつ見ていくと、この古墳群で見つかったものだけでなく、他の地域のものがいくつも含まれていました。石人はこの地方の古墳の特徴のひとつです。
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弥生二丁目遺跡

2018年02月01日 | 遺跡・古墳
2018年1月のとある休日、所用のため東京大学の近くへ出かけた。なにぶん東大には縁がなかったのでこのあたりに行くのは初めてで、事前に地下鉄の東大前駅から目的地までのルートを確認するためにGoogleMapを見ていて眼に留まったのが「本郷弥生」という交差点。行ったことがないのにこの名前が記憶に残っていた。本郷弥生町。小学校か中学校の歴史で習った有名な地名。ここから発掘された土器がそれまで各地で発掘されていた土器(縄文式土器)と明らかに違ったことから、弥生式土器の名がつけられた。その由来となった町。当然、弥生時代の呼称もこれに基づくのです。
この土器は発掘当時は「本郷弥生町出土壺型土器」と呼ばれ、文化庁が運営する文化遺産オンラインというサイトに掲載されています。ただし、本郷弥生町という町名は当時も今も存在しておらず、当時は「東京府本郷区向ヶ岡弥生町」、現在は「東京都文京区弥生」となっています。

本郷弥生の交差点。


この交差点から歩いて5分のところに建てられた碑。

「弥生式土器発掘ゆかりの地」とある。「ゆかりの地」ってどういうこと。「発掘の地」でええやん。実はこの土器が発掘された正確な場所が今となってはわからなくなったらしい。以下は文京区のサイトから転載。

明治17年(1884)、東京大学の坪井正五郎、白井光太郎と有坂鉊蔵の3人は、根津の谷に面した貝塚から赤焼きのつぼを発見した。これが後に縄文式土器と異なるものと認められ、発見地の地名を取り「弥生式土器」と名付けられた。しかし、「弥生式土器」の発見地は、都市化が進むなかではっきりしなくなり、推定地として3か所が指摘されていた。 昭和49年(1974)、東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、昭和51年(1976)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。しかし、弥生式土器の発見地は特定するにいたっておらず、現在も調査研究が進められてる。

ゆかりの地の石碑の横にあった説明板。




「弥生二丁目遺跡」は東大浅野キャンパスの構内にある。見学自由とのことだったので人生で初めて東大に足を踏み入れて見てきた。



国の史跡に指定されたことで、ここには建物も建てられず、空き地として放置されている。この裏は急な崖になっていて、遺跡が台地上に形成されたことがわかる。この弥生二丁目遺跡が弥生土器が出土した「向ヶ丘貝塚」の可能性が最も高いらしい。

この道は弥生坂と呼ばれ、遺跡のある台地を下っていく。右側が東大の構内でその中にこの遺跡がある。


台地の下へ回って遺跡を裏から撮影。遺跡が台地上にあることがよくわかる。この大木の足元にさっき見てきた遺跡がある。


この東大構内からは方形周溝墓も発掘されている。



方形周溝墓が出たのはこのあたりか。

とにかくこの浅野キャンパスは弥生遺跡の上にあるということだ。

せっかく東大へ来たのだから赤門を。



古代、とくに弥生時代の集落は概して台地や丘陵地、微高地など周囲よりも少し高いところに設けられている。他のムラからの攻撃に備えるのが第一の目的であろう。周囲が見渡せて見張りやすく、攻撃する側にとっては攻めにくい。そして第二の目的は河川の氾濫による被害を回避することであろう。台風などでひとたび川が氾濫するとムラ全体が流されてしまう。とくに台地上などは水の確保に苦労するはずだが、それでも低地で敵の夜襲や水害におびえながら暮らすよりも、毎日低地を流れる川で水を汲んで集落まで運び上げる苦労のほうがマシ、ということだろう。
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