古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

2016年最後の投稿

2016年12月31日 | 雑感
 今年も残すところ3時間ほどになりました。
 今年の年初、古代日本国成立に関する自分の考えを本にしようと目標を決め、自分の仮説を検証するために本を読み、情報を集めて、考えて、整理して、原稿を書いて、ということを毎日少しづつ続けてきました。また、休日や出張の空いた時間を利用して遺跡や古墳群、神社などを訪ね、自分で感じたことを仮説の補強に利用することにも努めました。結果、すでに書いてきた通り自分の考えを「古代日本国成立の物語(第一部)」としてまとめることができたのですが、書籍化については少し先送りすることにしました。というのも、原稿を書きながらも考えが途中で180度変わってしまうことが何度もあったため、いきなり書籍原稿として起こすのではなく、後戻りや変更もあり、という前提でブログで発信しながら仮説を固めていくのがいいと考えたからです。そして一年がかりで検証を積み重ねてきて、ほぼ固まったと思えるようになりました。
 このブログは開始以来4ケ月が経ちましたが、実は一日も欠かさずに発信を続けて本日の年末を迎えることになりました。明日から新しい年に入りますが、いよいよここまで書いてきた内容を書籍原稿として編集する作業に入るとともに、合わせて第二部の構想も考えていきます。したがって、しばらくの間、当ブログの発信は不定期になってしまうと思いますが、ときどきはのぞいていただければと思います。

それでは来年もよろしくお願いいたします。



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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
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纏向遺跡訪問紀(6)

2016年12月30日 | 番外編
 纏向大溝は自然の川を利用したのか、それとも掘削された運河だったのか、いずれにしても矢板などで護岸工事が施された立派な水路だった。北溝は大和川につながり、南溝は箸墓古墳まで延びていたと考えられている。大和三山に対する藤原宮のように3つの古墳の中心点、運河の合流地点の近くに何らかの建物があったのではないだろうか。三方が山(墳丘)に囲まれて川(運河)が帯のように流れる地、いわゆる「山河襟帯の地」と考えての発想だ。発掘時は校庭の全部の土を剥がしてみたのだろうか。

 この纏向大溝は三輪山系から流れ出る水を集めるためのものか、それとも物資運搬の大動脈か。前者ならこの合流地点は神聖な地域であったとも考えられ、後者なら3つの古墳のみならず箸墓古墳の築造において大きな役割を担ったことであろう。いずれにしても計画的に作られた政治都市である纏向にとってなくてはならない設備であったことは間違いない。

 この日の纏向踏査はこれにて終了。纏向遺跡は全体のわずか数パーセントしか発掘されていないと言われているが、そうだとすると未知の遺跡であると言っても過言ではない。わずか数パーセントでこれだけ多彩で重要な遺物や遺構が出ているのだから、掘れば掘るほど日本の古代史が解明されていくような気がする。次は何が出るのか、老後の楽しみにするとしよう。

 纏向小学校をあとにして西陽が照りつける中を桜井駅に向かってひたすら自転車を走らせるのだが、これが結構長い距離で疲労困憊。桜井駅からは近鉄で難波に。どういう理由か忘れたけれど、Oさんの友人と合流して千日前のがんこで慰労会。お疲れさんでした。




邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
石野 博信
新泉社




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纏向遺跡訪問記(5)

2016年12月29日 | 番外編
 箸墓古墳の前方部正面で拝礼したあとは来た道を戻らずに田んぼの畦を通り、自転車を担ぎ上げて45度の傾斜を3メートルほど上って古墳北側の池に出た。この場所は箸墓古墳が紹介されるときによく使われるお決まりの場所だ。例に漏れず、ここで記念撮影をして、次はいよいよ纏向遺跡の中心地へ。まずは県道50号線を北上して纏向石塚古墳。桜井市立纏向小学校の東側にあるこの古墳は纏向遺跡最古の古墳とも言われているが、太平洋戦争中に高射砲設置のために墳丘部が削平されたとのことでもはや古墳の面影はなく、古墳だと言われない限りわからないだろう。

 次に向かったのが卑弥呼の神殿跡か、と騒がれた建物群の跡が検出された辻地区。ここが発掘されたときは大騒ぎになったらしいが、現在は全て埋め戻されて線路と民家と田んぼに囲まれたどこにでもありそうな空き地になっている。私が子供の頃はこういう場所は必ずと言っていいほど子供たちの遊び場になっていたが、訪れたときは人の気配もなく、ましてや卑弥呼の存在など微塵も感じられず。おそらくここが纏向遺跡、いや政治都市「纏向」の中心地、私流に言えば邪馬台国の首都とも言える場所だったのだろう。

 さて、来た道を西に少し戻って再び纏向小学校へ。今度は北側、小学校の正門を通り過ぎてすぐのところにある纏向勝山古墳。ここは帆立貝型というかシャモジ型の古墳であることがしっかりと認識でき、周溝も半分ほどが残っている。ただ、柵があって墳丘部に入ることができなかった。

 次は小学校の西側、正門前の道路をぐるっと左に折れたところの纏向矢塚古墳。ここは前方部が失われていて後円部のみの円墳状態になっている。こんもりした低い小山という感じで、歩いて墳丘頂上へ。Oさん、Sさんはあまり興味がないのか、ついて来ない。登るというにはあまりに低い墳丘であり、登ってみても何もないが、この下には誰が葬られていたのだろうか、と想像することは楽しい。

 纏向小学校を囲むように、東に石塚古墳、北に勝山古墳、西に矢塚古墳。まるで香具山、耳成山、畝傍山の大和三山を彷彿とさせる配置である。大和三山の中心には藤原宮があったが、これらの古墳の中心には何があったのだろうか。それは纏向大溝だ。幅約5m、深さ約1.2mの北溝と南溝の2本の溝が纏向小学校の校庭で「人」の字形に合流しており、そこはまさにこれら3つの古墳を結ぶ中心にあたる場所であった。



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纏向遺跡訪問記(4)

2016年12月28日 | 番外編
 ホケノ山古墳をあとにして次は箸墓古墳に向かった。途中、というかホケノ山古墳のすぐ近くに国津神社というのがあり、なんだか由緒ありそうな名前だったので立ち寄ったが残念ながらさびれた神社で、後日に詳しく調べることもなく今日に至っている。この神社を早々に辞してさらに地面の傾斜に従って自転車を走らせるとすぐに箸墓古墳の後円部右側部分に出る。ここに小さなお店があって「北橋清月堂」という和菓子屋さんだった。ここで少しだけ休憩を取った。

 箸墓古墳は東西軸の東側を30度ほど北に傾けた線を軸にして西側に前方部、東側に後円部がある前方後円墳である。古墳の北側は前方部から後円部の半分くらいまで、築造時の周溝が池として残っているが、それ以外の周溝は全て埋められて民家や田畑になっている。古墳の南縁に沿って、もともとは周溝部分であったはずのところが道路になっており、和菓子屋さんで休憩した後はその道を後円部から前方部の南側の先端部まで走り、そこを右に曲がって前方部の正面に到着。陵墓参考地である箸墓古墳は「大市墓」として宮内庁の管理下にあり、もちろん中にはいることができない。柵の中を覗いてみても単なる林でしかなく、面白くも何ともない。卑弥呼の墓か、台与の墓か、残念ながらそんなロマンを感じることもなかった。

 それでも、ホケノ山古墳と箸墓古墳を続けて訪ねてみて、いずれかが卑弥呼の墓で、もう一方が台与の墓だとすると、ホケノ山が卑弥呼の墓だろうと感じた。墳墓の形が前方後円墳の古い形である帆立貝型であるということもそうであるが、両者の距離はそれほど離れていないのだけど、ホケノ山のほうが東側の山に近い標高の高いところにあって上から見下ろす感じがあり、その被葬者にはより大きな権威あるいは神性があるという印象だった。



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纏向遺跡訪問記(3)

2016年12月27日 | 番外編
 茅原大墓古墳のあとは今回の目的の一つであったホケノ山古墳から箸墓古墳へ。今回の実地踏査、実はSさんが先に下見をしてくれていたのだが、ホケノ山も箸墓も場所がわかっているSさんは自転車をすっ飛ばして前を行く。遅れて走る私は「檜原神社」を案内する表示を見つけた。崇神天皇のときに宮中から移された天照大神が最初に鎮座した笠縫邑がこの檜原神社であり、元伊勢と呼ばれていることを知っていた私は是非とも参拝したくてOさんとともに自転車を停めてSさんに向かって叫んだ。しかしその声は届かず、Sさんはホケノ山古墳に向かってまっしぐら。残念ではあったけど檜原神社の参拝をあきらめてSさんを追った。

 この山の辺の道は三輪山や竜王山などの山裾を南北に走る道である。大神神社から北に向かって走り、左折してホケノ山古墳へ。すると意外にも下りの傾斜が強くてペダルを漕ぐ力を抜いても勝手に自転車が進む。山の辺の道は思った以上に標高のあるところをつなぐ道だとわかった。カーブを曲がって右折すればすぐにホケノ山古墳だ。ここも茅原大墓古墳と同じく帆立貝型の前方後円墳。前方部から登って後円部の頂上へ。発掘の結果、埋葬施設に特徴があることがわかった古墳だが、当然のことながら埋め戻され、頂上は平らにならされていた。それにしても、あれだけ衝撃的な内容が出たのに埋め戻されたあとは出入りが自由で誰も見張っていないのは不思議に感じた。つまりその場で墳丘を掘り起こしても誰にも咎められないということだ。そんなことはしないけど、掘ってみたい衝動に駆られたのは事実だ。墳丘の上からは箸墓古墳がすぐそこに見えた。


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纏向遺跡訪問記(2)

2016年12月26日 | 番外編
 駅前でレンタサイクルを借りた私たちがまず始めに向かったのが大神神社だ。纏向に来てこの神社とそのご神体である三輪山を外す訳にはいかない。大神神社を参拝した後、少し北寄りにある大神神社の摂社である狭井神社で三輪山登拝の受付を済ませ、「三輪山参拝証」と書かれた襷をかけ、いざ登拝開始。甘く見ていた。これはお参りではあるが間違いなく登山だ。雲ひとつない真っ青な空、初夏の陽射しが否応なしに照りつけて時間とともに気温を上げていく。帽子やタオルを持参しなかったことを後悔し、さらには給水のことも考えていなかった自分を責めた。登山中は参拝気分はどこへやら、汗だくになってひたすら登り続けて山頂へ。山頂にある高宮神社を参拝し、裏手に回って奥津磐座をこの目に収めたあと、下山の途に。下山後すぐに狭井神社の社殿横に湧き出る御神水で水分補給し、生き返った気分。計2時間の三輪山参拝は貴重な体験となりました。

 三輪山参拝を済ませるとすでにお昼の時間。一刻も早く冷たいビールにありつきたくて大神神社近くの三輪そうめんのお店(たぶんここ→「御食事処福神堂」)に入った。お金を払ってそうめんを食べるなんて考えられなかったけど、身体が冷たいものを欲しがっていたこともあって意外にも美味しくて「まあ許そう」という気持ちになった。

 ビールとそうめんで生き返った3人が次に目指したのが桜井市立埋蔵文化物センター。大神神社の参道を西に向かい、国道169号線にぶつかったところを右折してすぐ。ここは纏向遺跡からの出土物が常設展示されており、纏向踏査の前に情報収集しておこうということで先に訪ねた。全国各地から流入した土器など、書籍やネットの写真でしか見たことがなかった出土物の実物をこの目で確認でき、古代都市のイメージが膨らんだ。

 その後、いよいよ纏向めぐりへ。大神神社の大鳥居をくぐって参道を戻り、山の辺の道へ。まずは茅原大墓古墳。実はこの古墳の存在はここを通るまで知らなかったのだが、墳丘に登れそうだったので自転車を停めて登ることにした。帆立貝式の前方後円墳となっていたが、後円部頂上から見ても前方部はほとんど確認できず見た限りでは円墳であった。発掘調査のために墳丘部の木々はすべて伐採されていたので眺望がよく、午前中に登った三輪山がよく見えた。実は古墳に登るのは初体験ということもあって何だかワクワクしてしまった。



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纏向遺跡訪問記(1)

2016年12月25日 | 番外編
 その日は快晴で初夏の陽射しがまぶしい休日だった。2013年6月16日、土曜日の朝9時、仲間2人との待ち合わせ場所である近鉄線の桜井駅に降りたった。この日は3人で纏向遺跡を訪ねることにしていた。

 私は某企業に勤めるビジネスマン、Oさんは私が勤務する会社の子会社の社長、そしてもう1人のSさんは私の会社を10数年前に辞めて起業し成功を収めている人で、私にとっては仕事を教わった先輩であり、また大学の先輩でもある。このSさんは私の会社にいたときにOさんとは気心の知れた同期の仲であった。さらに私とOさんはSさんが経営する会社の株主でもある。そして今、3人は飲み仲間であり麻雀仲間である。私たち3人はそんな深い関係であることをご理解いただいた上で話を進めたい。

 Sさんは自身の会社業績の良し悪しに関わらず、毎年何らかの形で株主に対して御礼の会を開催してくれており、この年は3年に一度の1泊2日の株主旅行の年に当たっていた。いつものように3人で古代史を酒の肴に飲んでいる時に旅行の話になり、神話の里を訪ねる宮崎ツアーを企画しようということになった。そしてツアー企画メンバーとして古代史、特に邪馬台国や魏志倭人伝を事前に勉強しておくということが宿題として課せられた。私は邪馬台国も魏志倭人伝も少しはかじっていたが、この際、少し真面目に考えてみようと思い立ち、これが「古代日本国成立の物語」を考える直接のきっかけとなった。

 そしてこのときに私なりにたどり着いた仮説が、魏志倭人伝にある狗奴国は南九州にあって、その国の王が東征して大和の磐余の地で神武天皇として即位、一方で邪馬台国は大和の纒向にあって両国はにらみ合う関係にあった、という考えであった。桜井市の南側から橿原市にかけての一帯を磐余と呼び、畝傍山の麓の橿原で即位した神武天皇は神日本磐余彦尊という名を持つ。その磐余の地のすぐ北側にあるのが纒向遺跡だ。

 さて、話を2013年6月16日に戻そう。株主ツアーを3週間後に控えたこの日、事前学習の仕上げとして3人で纏向遺跡を訪問するために桜井駅で集合することになったのだ。桜井の駅前に立った時にビビっときた。この駅より南側が磐余、北側が纏向、ということはこの場所は、いや奈良盆地を東西に横切る近鉄線はまるで磐余と纏向、すなわち狗奴国と邪馬台国の国境線ではないか、と。自分の仮説に確信を持った瞬間だった。

<株主旅行で披露したレポートにある地図>
このときは唐古・鍵遺跡の地域を邪馬台国の領域に含めていたが、その後の検討でこの地域は邪馬台国に含まないと考えるに至った。




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◆仮説「古代日本国成立」年表

2016年12月23日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 さて、「古代日本国成立の物語」もいよいよ大詰めにきた。記紀を始めとする日本の史料、魏志倭人伝などの中国の史料、そして考古学の成果として明らかになっていること、これら3つの材料をもとに最も無理なく合理的に説明ができ、加えて自ら現地を訪問して見て聴いて感じたことがその説明に納得感を与えるような答を導き出す、という考え方で取り組んで神武王朝の時代まで論証を進めてきた。まだまだ解明すべき課題がたくさん残っているが、中国大陸や朝鮮半島からやって来たいくつもの渡来人集団が主役となって様々な紆余曲折を経ながら、この日本列島をひとつのまとまりある形にしようとする、その入り口までやってきた。ここまで、それなりに筋道の通った物語として成り立たせることができたのではないか、と考える。
 日本書紀では神武王朝のあとに崇神王朝が成立したことになっているが、私の考えでは出雲から大和にやってきた少彦名命が纒向で崇神王朝(邪馬台国)を成立させた後、日向から東征してきた神日本磐余彦尊(狗奴国王の卑弥狗呼)が大和で饒速日命の勢力を取り込み、葛城で神武天皇として神武王朝を成立させ、この2つの王朝が並立、対立する状況(邪馬台国vs狗奴国)になった。そのため、神武も崇神も「ハツクニシラススメラノミコト」と呼ばれることになった。神武王朝は中国大陸の江南から渡来した集団に由来する政権であり、崇神王朝は朝鮮半島から渡来した集団に由来する政権であったが、記紀編纂を命じた天武天皇は神武王朝と同様に中国江南系であったために、万世一系を演出する記紀においては神武天皇が天皇家の開祖として先に王朝を成立させたことになった。神武王朝は大和で勢力基盤を整えて崇神王朝に対して攻勢をしかけるも、四道将軍の派遣や熊襲征伐などを敢行した崇神王朝の勢力に押し返され、神武王朝と同系の応神天皇が登場するまで忍耐を余儀なくされた。このあたりについては機会をあらためて「古代日本国成立の物語(第二部)」として発信していきたい。

 最後に私の仮説をもとに中国史書(主に魏志倭人伝)と日本の史書(主に日本書紀)を合体させた年表を示して締め括りとしたい。

<仮説「古代日本国成立」年表>
 
 
 黒字:中国史書より、青字:日本史書より、赤字:私の仮説




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◆神武王朝の勢力拡大

2016年12月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 天皇が皇后や妃を娶るということはその皇后や妃の出身氏族と姻戚関係になることであり、自身の勢力の後ろ盾を得ることである。また、他者の勢力基盤がある地に自身の兄弟や子女を派遣してその地を抑えることは、その地の氏族を自身の勢力に取り込むことである。神武王朝の各天皇が娶った后妃の出身氏族をまとめると次のようになる。進出地域は既にみた宮や陵墓の場所、あるいは后妃の出自などから勢力範囲と想定される地域を記した。カッコ内は一書に記された記事とそれをもとに想定される進出地域である。
 
 
 

 第5代孝昭天皇までは事代主神を祖先神とする鴨氏から后を迎えて関係構築に取り組んだことは、その皇居や陵墓が奈良盆地南部の磐余や南西部の葛城にあったのと呼応している。尾張氏も本貫地が葛城の高尾張であると考えられるので同様である。さらに、一書では磯城県主や十市県主などから后を迎えたことになっているが、磯城県主は神武東征の論功行賞として弟磯城が授かった地位である。磯城の地はおそらく現在の奈良県磯城郡あたりであろう。そのすぐ南には橿原市十市町があるので、磯城と十市はほぼ同一地域を指すと考えられる。奈良県磯城郡には唐古・鍵遺跡があり、饒速日命の勢力域である。神武王朝は葛城や磐余を拠点にしながら饒速日命の後裔勢力の力をも必要としていたのだろう。また、孝昭天皇の子である天足彦国押人命が和珥氏の祖になっていることは既に見たが、それは彼を奈良盆地北部に派遣したと考えられ、それが功を奏したからか、第9代開化天皇は当地へ進出することが可能となったのではないだろうか。第7代孝霊天皇のときに吉備氏とつながっているがもともと吉備は神武東征の際に同盟国として神武に協力をした勢力であった。さらに第9代開化天皇が妃を迎えた丹波は饒速日命の祖国であり、尾張氏、丹波氏、海部氏のつながりはすでに見てきた通りである。

 このように神武天皇および欠史八代、すなわち神武王朝における書紀の記述は、各々の天皇が天皇として実在したかどうかは別にして、神武が東征を果たして大和に入った後の状況をある程度推測することが可能である。前半は饒速日命の後裔勢力の力も借りながら奈良盆地南部あるいは南西部の葛城地方で勢力基盤を整え、後半に入って奈良盆地中部から北部へ徐々に進出し、さらにその後、畿外にも同盟国の輪を拡大していった。その一方で、奈良盆地東部の纏向にあった邪馬台国との対立関係は続いていた。まさに魏志倭人伝に記された時代と重なってくる。


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◆神武王朝の皇居・陵墓

2016年12月21日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 私は初代神武天皇から第9代開化天皇までを神武王朝と呼んでいるが、この神武王朝9人の天皇の皇居(宮)および陵墓の場所を地図上にプロットしてみた。左が皇居の場所(カッコ内数字は天皇の代位を表わす)、右が陵墓の場所(マル内数字は天皇の代位を表わす)である。
 

 

■皇居の場所
 第6代孝安天皇までは奈良盆地南西部の葛城地方に宮を置いていることがよくわかる。吉野や宇陀から大和に入った神武天皇は饒速日命を従えたあと、邪馬台国のあった纏向に直ちに進出することを避け、邪馬台国と対峙するかたちで鴨氏の力を借りながら勢力基盤を整えていったと考える。その後、第7代の孝霊天皇が饒速日命の拠点であった唐古・鍵遺跡のある奈良盆地中央部へ、第9代開化天皇が奈良盆地北部へ進出し、纏向の邪馬台国を取り囲むように勢力を伸ばしていった。

■陵墓の場所
 皇居の場所と同様に第6代孝安天皇までは奈良盆地南部あるいは南西部に陵墓が築かれていることがよくわかる。特に畝傍山の麓に陵墓が集まっており、初代の神武天皇が宮を開き、崩御後に葬られた場所として神聖視されていたのだろう、その後の3人の天皇もこの地に陵墓が設けてられている。第7代孝霊天皇と第9代開化天皇は葛城を出て奈良盆地中心部あるいは北部へ進出したために陵墓もそれにあわせた場所になっている。ただ、孝霊天皇の陵墓が宮から少し離れていることについてはよくわからない。



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孝安天皇陵

2016年12月20日 | 遺跡・古墳
2016年6月18日、葛城めぐりの最後が御所市玉手にある第6代の孝安天皇陵。日本書紀には玉手丘上陵とある。ここは場所がわかりにくかった。ラグビーで有名な奈良県立御所実業高校のすぐ近くなのでそこまで問題なく行ける上に、こんもりした山の上には明らかに御陵と思われる施設も見えている。しかし近づくと満願寺というお寺の敷地に入っていく。御陵はこのお寺の裏手の山の上なのでどこかに登る道があるはずと思い、お寺の駐車場に車を停めさせていただいて周囲をウロウロ。しかしどこにも道がない。半分あきらめ気分で最後に車でこの小山を一周しようと思って裏の方まで走ったときに駐車場を発見。陽も沈みかけていたので階段を駆け上がって参拝してきました。



階段から横道に入ったところに鳥居と祠。木々の向こうに少し見える景色は奈良盆地。そこそこ高いところまで上がってきたことがわかっていただけるかな。


一番上まで上るとまた鳥居。この奥には社殿がある。あとで調べると、金比羅神社というらしい。祭神は大倭帯日子国押人尊で孝安天皇その人である。

ようやくたどり着いた御陵。



この孝安天皇陵も古墳ではなく丘陵の頂上に葬ったということだろう。



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孝昭天皇陵

2016年12月19日 | 遺跡・古墳
2016年6月18日、葛城一帯を車でまわったときに2つの天皇陵にも立ち寄った。まずは御所市三室にある第5代の孝昭天皇陵。日本書紀には「掖上博多山上陵」と記されている。鴨都波神社から国道24号線を少し南下すると右手に小さな森が見えてくる。北から南に車で向かうと右折する場所がわかりにくく、少し迷ったあげくにたどり着いたが、駐車場がなかったので近くに路駐して御陵と隣接する孝照宮へ。

孝昭天皇陵。古墳ではなく小山をそのまま御陵にしたようである。




孝照宮の立派な石の鳥居。左手が御陵。階段を上がっていくと、、、


狭い境内はこんな状態。台風のためか、写真のように鳥居の前に木が倒れて通せんぼ。


鳥居をくぐった左側に拝殿があるので御陵に向かって拝礼することになる。孝昭陵のとなりにあって拝殿裏がその御陵、お宮さんの名称である「孝照」は「孝昭」に通じるため、たぶん孝昭天皇を祀っているのだと思う。奈良県神社庁のサイトには掲載されていない。




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◆孝霊天皇~開化天皇

2016年12月18日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
最後に、第7代の孝霊天皇から第9代の開化天皇までを見てみる。

■孝霊天皇(第7代)


 神武に仕えた饒速日命が建国した唐古・鍵に近い黒田に宮を置いたことは、いよいよ敵対する邪馬台国のすぐ近くに進出して拠点を設けたことを表していると思われる。また、吉備と関係する二人の子がいる。隼人系海洋族である吉備との関係強化に動いたと考えられ、畿内の外へ出て勢力基盤を整えようとしたのだろう。彦五十狭芹彦命は後に崇神天皇の命で四道将軍の一人として吉備へ派遣されることになるが、何らかの理由で崇神王朝に取り込まれてしまったか、あるいは神武王朝と崇神王朝を無理なくつなげる作為のために本来は崇神王朝に属する人物を神武王朝に入れたのだろうか。
 また、妃である倭国香媛は古事記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命となっているが、「阿礼」は神霊の出現の縁となるものを指し、綾絹や鈴で飾られるもので、巫女であることを示唆する。この倭国香媛が産んだ倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼であるとも言われている。

■孝元天皇(第8代)


 穂積氏が后を、物部氏が妃を出しており、両氏の勢力拡大のきっかけがこのときに作られた。また、埴安媛が妃になっていることは河内地域へ勢力を拡大したことを示す。さらに書紀には大彦命が崇神天皇のときに四道将軍として北陸に派遣されたことが記されている。埼玉県行田市のさきたま古墳群にある稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた意富比コ(「コ」は「つちへんに危」)は大彦命を示すと言われており、実在の可能性が高いと考えられている。彼も彦五十狭芹彦命と同様に系譜を作為した結果としてここに登場することになったのだろうか。
 また、彦太忍信命は武内宿禰の祖父であり葛城氏、蘇我氏などの有力豪族の遠祖である。武埴安彦命は崇神の時代に謀反により殺害されている。こうして見ると、孝元天皇紀としての事績は記されていないものの、後の事象につながる人物が多く登場しており、事実に基づいた記載である可能性が高いと考えることができる。また、この時期に政権基盤が整いつつあったと考えることもできそうだ。

■開化天皇(第9代)


 饒速日命の故郷である丹波から妃を迎えており、これもまた畿外における勢力基盤強化の一環である。また、奈良盆地北部(現在の奈良市)に宮をおいたということは奈良盆地一帯を勢力下においたことを示唆するとともに、木津川から淀川、あるいは琵琶湖へ通じる水運を掌握したことの表れとも考えられる。孝元・孝霊・開化の3人はいずれも諡号に日本根子が含まれているが日本根子は「大和の中心」の意であり、この開化天皇の時代に邪馬台国、すなわち崇神王朝を上回る勢力を持つに至ったのではないだろうか。


 以上、初代の神武天皇とそれに続く欠史八代の計9名の天皇について書紀に記載された内容を整理して概観した。次は宮や陵墓の場所、氏族との関係などを俯瞰してみたい。



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◆懿徳天皇~孝安天皇

2016年12月17日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
次に、第4代の懿徳天皇から第6代の孝安天皇までを見てみる。

■懿徳天皇(第4代)


 中世の『古今和歌集序聞書三流抄』に、懿徳天皇が出雲に行幸して素戔嗚尊に出会うという逸話がある。出雲へ行幸したとは考えにくいが、出雲の流れをくむ邪馬台国との関係強化があったことの示唆であろうか。この懿徳天皇以降は次の孝昭天皇を除き「日本」や「倭」を諡号に持つことになる。

■孝昭天皇(第5代)


 子である天足彦国押人命は古事記においては和珥氏のみならず春日氏・小野氏・大宅氏・粟田氏・柿本氏など多くの氏族の祖となっている。特に和珥氏・春日氏の本拠地は現在の天理市で邪馬台国の近くである。孝安天皇は子を邪馬台国付近に進出、定着させて勢力を拡大したと思われる。天理市は纏向遺跡の北にあり、纏向を挟み撃ちにする形にもなっている。皇居がある掖上の近くには神武・綏靖・安寧の后の祖神である事代主神を祀る鴨都波神社があり、鴨氏とのつながりが見える。また、后である世襲足媛の系譜から尾張氏とのつながりも想定される。

■孝安天皇(第6代)


 皇居のおかれた「秋津嶋」は秋津洲、蜻蛉嶋など、のちに日本全体の呼称にもなる地名であるが、もともとはこの宮がおかれた奈良盆地南西部の葛城地方を指す地名であったと考えられる。この室秋津嶋宮は葛城襲津彦の墓と言われる宮山古墳と接する場所が跡地に比定されており、鴨氏から派生した葛城氏との関係の強さが伺われる。


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◆神武天皇~安寧天皇

2016年12月16日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
まず、初代神武天皇から第3代安寧天皇までを整理してみた。

■神武天皇(初代)


 皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命は書紀では事代主神の娘となっている。事代主神は大国主神の子で国譲りの際に大国主に代わって承諾の意を伝えたとされるが、もともとは出雲ではなく葛城の神であり、一言主神と同一神として託宣を司った。后の名前に「蹈鞴(たたら)」を含んでいることから出雲のたたら製鉄を想起し、これによって神武が出雲から后を迎えたと考えられているが、事代主神が葛城の神であるので神武を出雲とつなげるのは妥当ではなかろう。むしろ神武が葛城にほど近い橿原で即位して葛城の娘を娶って鴨氏、あるいは後の葛城氏との関係を強化したと考えるのが自然である。

■綏靖天皇(第2代)


 皇后の五十鈴依媛命は事代主神の娘で、神武の后である媛蹈鞴五十鈴媛命の妹である。神武に続いて綏靖も事代主神である鴨氏から后を迎えた。葛城高丘宮は葛城一言主神社のすぐ近くにあり、鴨氏は外戚としてのみならず天皇の側近として仕えるようになっていたのであろう。


■安寧天皇(第3代)


 事代主神の孫である鴨王の娘を娶っており、ここでも先のふたりと同様に鴨氏から后を迎えている。三代続けて天皇家に后を送り込んだ鴨氏は外戚としての地位を盤石にした。天皇家も鴨氏の力を借りて葛城を拠点に大和での勢力を拡大していった。しかし、一書によると磯城県主の葉江の娘、川津媛が后であるとされ、自らの諡号である磯城津彦玉手看尊や異伝で子とされる磯城津彦命とともに磯城との関係も垣間見える。



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