古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

「考古学から見た邪馬台国大和説」を読んで

2020年11月26日 | 書評
本書は「畿内ではありえぬ邪馬台国」という刺激的な、そして畿内説論者にとっては何とも攻撃的かつ挑戦的なサブタイトルがついています。私は考古学や古代史の専門家ではないので「説」として主張しているわけではないですが、邪馬台国は畿内にあったと考えています。その私が本書を読むにあたって心がけたことは、できるだけ中立的なスタンスで受け止めよう、その上で本書の内容に何ら反論できずに納得することばかりであれば、素直に自分の考えを見直してみよう、ということでした。結果は、そういうことにならなかったのですが、ここでは本書の感想というよりも、本書が指摘することに対する私の考えを書いてみたいと思います。



著者は、多くの邪馬台国畿内説論者が卑弥呼の居所であったと考える纒向遺跡や卑弥呼の墓ともされる箸墓古墳など、畿内説の象徴とも考えられる考古資料をその論考の中心に据えて、大和における弥生遺跡や墳墓の状況、そこから見つかる出土物の状況などに対する多様な視点に基づく考察をもとに、これまでに邪馬台国畿内説(大和説)の根拠として主張されてきた様々な事象に対して否定的な見解を展開しながら、結果として大和に邪馬台国の存在を認めることができない、と断言しています。ただし、著者が否定する畿内説は過去から次のような文脈で語られてきた主張を指していると思われます。

・大和で起こった邪馬台国が強大化して西方に勢力を広げ、西日本一帯を統治下においた。(邪馬台国がその後の大和政権へとつながる)
・その統一過程において、大和で生み出した大型前方後円墳を広げていった。
・その最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳は卑弥呼の墓と考えられている。
・卑弥呼の神殿とも考えられる大型建物などが出た纒向遺跡が邪馬台国の中心と考えられる。
・邪馬台国による大陸との交流や交易によって人々が往来し、様々な物資が大和に持ち込まれた。

邪馬台国が畿内にあったと考える私は次のように上記の畿内説とは少し違った考えをしており、このように解釈する立場から見ると著者の指摘は邪馬台国畿内説にとって致命的な問題ではない(大和に邪馬台国が存在しえないと断言できない)と言えそうです。

倭国大乱の渦中にあった西日本各地のクニはこれ以上の疲弊や消耗、さらには自分のクニの消滅を回避すべく、この大乱を終息させて連合での共存を志向することにした。その結果、各クニの合議によって卑弥呼を女王として共立し、連合国の首都として邪馬台国を建設した。つまり邪馬台国とは、弥生時代の前期あるいは中期から存在した勢力が強大化し、後期に至って北部九州をも含む西日本を統一したという国ではなく、連合国に属する各クニが共同で建設した連合国統治のための政治国家である。そして、倭国とはこの連合国のことを指す。倭人伝の記述をそのように考えると、邪馬台国は連合国の扇の要となりうる場所で、なおかつ、それぞれのクニにとっては女王の直接的な介入を困難ならしめて一定の勢力を保持できる場所が選ばれたであろう。それが大和であったと考えることは可能であり、むしろ大和が必然であったとさえ言えるのではないだろうか。

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上記のような基本スタンスのもと、少し長くなりますが以下に著者の主張を「大和地域の弥生遺跡の考察」と「纒向遺跡の評価」という二つの側面で整理しながら、それに対する私の考えを述べてみたいと思います。なお、著者はこのほか様々な視点からの論考を展開していますが、大和の考古資料に対して直接的に言及しているこの二つの側面を補足するためのものと考えられるため、ここでは割愛したいと思います。

■大和地域の弥生遺跡の考察

●弥生時代における大和の大型集落遺跡として「唐古・鍵遺跡」を取り上げて、弥生時代の全期から古墳時代にいたる相当な長期間にわたって安定的に経営された大和の大型弥生集落の典型と位置付ける一方で、集落内で発見された弥生中期の二棟の大型建物に言及した上で、それが弥生後期の段階にまで継続していないこと、さらには唐古・鍵を除く大和地域においてはそもそも弥生の集落遺跡に大型建物が見られないこと、とくに古墳時代に見られるような周溝や区画を持った首長の居住を窺わせるような建物群の出現を想定できる状況にないことなどを指摘する。
→弥生中期から後期、さらには古墳時代に至る大和には大きな権力を持った首長の存在を想定し得る建物遺構が見つかっていないということから、邪馬台国の存在を想定しがたいということを暗に指摘しているが、後述するように少なくとも弥生後期の纒向遺跡には神殿を想定しうる大型建物跡が検出されていることからこの指摘は当たらない。

●大和盆地ではその南半部周縁、特に盆地東南部より紀伊に抜ける南西方面に高地性集落が多く見られる。汎西日本的な大きな広がりを持つ高地性集落はこの時代(弥生後期)の緊張関係なり争乱を起源とすることを否定できないとした上で、大和地域の高地性集落は弥生時代後期前半から中頃のものが多く、その時期は瀬戸内地域などよりわずかに後出することから、西方地域より波及した何らかの緊張関係に対して出現したものと位置づけることによって、国々の統合をもたらした政治的な動きが畿内から始まったものではないとする。
→国々の統合を促す緊張関係や争乱は畿内から西日本に波及したのではなく西方から畿内に波及してきたとして、畿内の邪馬台国勢力が西に拡大していったとは考えられないことを指摘するものの、この緊張関係や争乱が倭国大乱であり、その結果として大和に邪馬台国が建設されたと考えれば何ら矛盾することはない。

●大和の墳墓の実態について、弥生前期から現れる方形周溝墓は中期に増加するものの後期以降はやや減少することに加えて、弥生時代を通じて副葬品がほとんど出ないことを指摘するとともに、弥生後期に入ってから他の地域(瀬戸内・山陰・北陸など)で見られるような首長墓を想定し得る大型の墳丘墓も大和盆地ではほぼ皆無であるとする。
→弥生後期に至るまで大きな権力を持った首長の存在を想定し得る墳墓がないことをもって邪馬台国の存在を否定する意図が見えるが、首長の権力が次第に大きくなって邪馬台国になっていったのではなく、突然に女王が共立されて生まれたのが邪馬台国であり、それ以前に権力があったことを示すような豊富な副葬品を持った方形周溝墓や大型墳丘墓が見られないのはむしろ当然と言える。

●唐古・鍵遺跡の搬入土器の実態から、その交流範囲が、西は吉備、北は近江、東は伊勢湾岸地域が想定され、全体の傾向として西方の地域よりむしろ東方の地域との交流が多いとした上で、その範囲が北部九州にほとんど及んでいないことを指摘する。(吉備・瀬戸内20点、北部九州1点、近江40点、伊賀・尾張20点、伊勢湾岸地域60点以上)
→朝鮮半島を通じて魏と交流していた邪馬台国が畿内にあったとすれば、北部九州を含む西方の土器がもっと大量に出るはず、ということを仄めかすが、北部九州の土器が出ていないことについては、吉備が北部九州と畿内の中継地点として機能していたと考えれば、物資を積みかえた(土器を入れ替えた)ことを想定することも可能である。

●大和地域の鉄製品の出土は大阪府下と比較すると極めて少なく、鉄器製造にかかわる遺構や遺物はまだ知られていない。青銅製品についても調査例の多い唐古・鍵遺跡においてもわずかであり、銅鏡がほとんど見つかっていないことも大和の弥生遺跡総体の傾向である。大和は近畿圏の中でも金属器が少なく、青銅器生産も盛んであったとは言い難いとする。
→後述するように纒向遺跡では鍛冶関係の遺物が10か所ほどから出ているが、そのことには触れずに逆に石器が弥生後期初めまで使われていたことを持ち出して鉄製品の乏しさを強調する。そもそも湿地が広がっていた大和盆地では鉄製品が残りにくいという指摘もあり、金属製品の出土が少ないことを大和に邪馬台国がなかった材料にするのは少し無理があるように思う。

●大和で見つかった14個の銅鐸(うち2個は破片のみ)について、銅鐸の様式から判断できる製作時期と出土地の関係を見ると、盆地西側からは古い銅鐸が見つかり、新しいものが東部から、さらに最も新しい形式の銅鐸の破片が東部の纒向遺跡から見つかっている。これは西方より銅鐸文化を受け入れながらも後半期からは西日本よりも東方地域との関係が強まっていることを示しているとする。
→邪馬台国が大和にあったとすれば、逆の傾向を示してよいはずであるとの指摘であろうが、そもそも東西わずか10数キロの狭い大和盆地で見つかったわずか14個の銅鐸をもって東から、西からという議論はナンセンスではないだろうか。むしろ、全国で見つかっている銅鐸の出土の状況や発生から終焉までの傾向などから想定される歴史の動きは大和に邪馬台国が建設されたことに符合すると考えられる。

●大和における弥生時代の大陸産青銅器の出土は近畿地方の中でも特に少ない状況で、最も注目すべき中国鏡に至ってはその確実な出土例は清水風遺跡の前漢鏡1点のみである。さらには大陸系青銅品の代表格である貸泉などの中国銭貨は皆無である。
→これらの事実は、大陸との交流を持っていた邪馬台国における社会動向とは相当の違いがあるとして、大和の邪馬台国を否定的に捉えるが、邪馬台国は弥生後期後半に突然大和に建設されたので前漢鏡や貨泉が出ないのはむしろ当然であり、逆に布留式以降の大和では鏡が一般的になる。

■纒向遺跡の評価

●大型建物
過去の度重なる調査の結果、3世紀のものと考えられる建物AからFまでの6棟の建物跡あるいは建物跡と思われる遺構が東西軸上に並ぶように検出されている。最近の調査で建物Aの存在が確認できなかったことは著者の指摘のとおりであるが、最も大きいとされる建物Dについて、遺構の半分が古墳時代の削平によって検出不能であった中で様々な考古学者や建築の専門家が推定した結果に対し、建物の全体像の理解ができないから積極的な評価が困難であると切り捨てる。同様に、建物跡が東西軸上に並んでいることに対しても空間的制約によるものと短絡的に断言する。
→少なくとも3世紀の段階でこれらの建物群の存在が認められる以上、確定的なことが言えない中にあっても与件をもとにその性格や位置付けなど、何らかの評価をすることが求められよう。建物群が東西軸上に並ぶことについても、太陽の軌道との関連で意味付けしようとする主張などがある中、もう少し多面的な考察が欲しい所である。

●古墳
纒向遺跡には纒向石塚、纒向矢塚、纒向勝山、東田大塚、ホケノ山など、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳よりも古いとされる大型の古墳が多く存在する。そして箸墓古墳についてはその研究史を振り返りつつ、様々な観点からの考察を加えて、最古の大型前方後円墳であることとその築造時期は4世紀の中で考えるのが適切であり3世紀まで遡ることはないと結論づける。ホケノ山古墳についても墳丘上から見つかった土器の考察から、箸墓古墳とほぼ同時期の築造であるとする。しかしながら、 纒向石塚、纒向矢塚、纒向勝山、東田大塚については埋葬部の内容が明らかでないことが問題であるとし、さらには古墳の周濠内や墳丘内から出た土器による推定では確実性に欠けるとして、築造時期への言及を避けている。
→上記の大型建物に対する考察と同様、専門家の考察としては物足りない。箸墓古墳よりも古いと考えられているこれらの古墳の考察を経ずに、箸墓古墳の築造時期をもって邪馬台国の存在を否定することはできない。寺澤薫氏はこれらの古墳を纒向型前方後円墳として3世紀代の古墳であることを主張する。また、石野博信氏は周濠などからの出土遺物から纒向石塚古墳の築造が3世紀であると主張する。これらの主張に対する根拠ある反論が欲しい所である。

●外来系土器(搬入土器)
纒向遺跡では唐古・鍵遺跡以上に多数の搬入土器が見つかっており、搬入元地域の範囲も拡大しているが、概ね唐古・鍵遺跡と同様の傾向を示している。つまり、西方においては吉備や山陰が多く、北部九州からはひとつも入ってきていない。一方で、搬入土器のほぼ半数が東海系の土器で占められ、東日本を含む汎日本的な交流が窺える。著者はこの状況を邪馬台国の影響範囲をはるかに越えるものであるとして、3世紀のこととして捉えることに疑問を呈し、4世紀の箸墓古墳築造と関連づけて考えようとする。
→搬入土器の状況を素直に3世紀以降の動きと捉えたうえで、東日本との交流を考察するというスタンスが求められよう。狗奴国が東海地域にあったとは思わないが、倭人伝に記された他のクニが東海方面に存在した可能性があり、逆に倭人伝に記されない東方のクニが邪馬台国と交流していた可能性も否定できない。一方、西方の範囲が吉備や山陰が限界になっていて北部九州の土器が出ていないことについては、唐古・鍵遺跡と同様の理解ができる。

●金属製品と大陸系遺物
纒向遺跡では弥生時代を通じて金属製品や大陸系遺物が少ない状況が続いている中、庄内末期から布留式にかけてのものとされる鍛冶関連遺物が10か所ほどから出土するとともに、朝鮮陶質土器や木製鐙などの大陸系遺物も見つかっている。
→鍛冶関連遺物や大陸系遺物を比較的新しい時期のものと位置付けて邪馬台国時代とは一線を画そうとする意図が読み取れるが、庄内末期から布留式にかけての期間は3世紀後半を想定しうるので、むしろ邪馬台国の発展を示すものと解することもできる。


以上、二つの側面で整理したときの個々の論点に対する私の考えを書いてみました。全体的な感想としては、なるほどと頷く部分がある一方で、指摘や主張の端々に畿内説(大和説)を否定する意図が見えすぎて素直に受け取れない部分もあったのが正直なところです。遺跡や遺物の解釈にあたっては定説として確定していないものについては専門家によってその解釈が違う場合があるのは当然で、本書で取り上げられた考古資料に関してもそのようなものがたくさんあるはずです。同じものでも右から見るのと左から見るのとでは形が違うことはよくあります。少なくとも素人の私はどんな立場の人であれ、その人の主張を否定することはせずに「なるほど、そういう考えもあるんだ」と思って受けとめようと心がけています。

今回この著書を読んでみて、自分の中で確たる答えの出せていないことや修正が必要だと感じていたこと、たとえば「卑弥呼や台与が記紀に登場しているとすればそれは誰にあたるのか」、あるいは「女王であったふたりの墓はどこにあるのか」、「東海を中心とする東方との関係をどのように理解するか」、「邪馬台国と大和政権の関係をどのように定義するか」などについて改めて考える必要性を痛感したので、久しぶりに邪馬台国を学びなおそうと思いました。


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「日本語はどこからきたのか」を読了

2020年11月07日 | 書評
大野晋著「日本語はどこからきたのか」を読了したので、ポイントを以下に整理しておきます。

ある言語と別の言語、ふたつの言語を比較すること(比較言語学)によって、①意味が同じで音の対応が成り立つ単語が基礎語の中にたくさん認めれらること、②文法的な共通点が認められること、の2点を証明することができれば、このふたつの言語が共通の祖先をもつ、あるいは一方が他方の祖先である、つまり、それぞれの言語が親戚関係にあることがわかる。

著者はこの比較言語学の手法で日本語とタミル語(インド南部およびスリランカの一部で使われているドラヴィダ語に属する言語)を比較し、①については2000語ほどの基礎語のうち約500語が該当すること、②については肯定文の最後に疑問の助詞をつけて疑問文にするなど多くの共通点を持っていることから、 タミル語と日本語が親戚関係にあることを証明した。さらに加えて、③日本の和歌の「57577」の形式が紀元前後のタミル語最古の歌集に認められることも証拠として提示している。

しかしながら、この事実はあくまでふたつの言語が極めて近い関係にあることを証明したに過ぎず、この言語を用いる民族が親戚関係にあることを証明したことにはならない。そこで著者は、両言語の類似性を証明した上で、特に穀物に関する言葉、田畑などの耕作地に関する言葉、米・糠・粥など稲を加工した食料を表す言葉、織り物に関する言葉、墓に関する言葉、金属に関する言葉、船に関する言葉などの共通性を指摘し、さらに小正月の行事の共通性、甕棺による葬制の共通性、壺形土器や子持ち土器の形の一致、農具の形の一致などについても指摘し、稲作、金属器、機織りなど弥生時代の文明が南インドからやってきた集団によって、その言葉とともに伝えられたと主張する。ただし、日本の弥生文化は北部九州から始まったと考える著者は、タミル人が北部九州にやって来たとの説を展開する。

古代の造船技術や航海技術は私たちの想像を上回るものであったろうし、タミル語を使う集団が南インドを出て、ベンガル湾、マラッカ海峡、南シナ海、東シナ海を航海して北部九州にやってきた可能性は大いにあると考えるが、その到着地は南九州であったかもしれない。また、南インドからダイレクトに日本に来たのではなく、中国の江南や朝鮮半島を中継してやってきたことも考えられる。古来、東シナ海を挟んで江南地方と南九州との間で往来が盛んであったことを考えると、タミル文化が江南を経由して南九州に入ってきた可能性も否定できない。

また、著者は日本語と朝鮮語の比較も行っている。その比較においては、②は多くの点で成立するが、①については認められる単語の対応が少ないことから、両言語は近くて遠い関係にあるとしている。ただし、朝鮮語は15世紀以前にさかのぼる資料がないことがその証明を困難にしているという事情も指摘しており、その点においては朝鮮語が日本語の祖先であることを完全に否定することができないとも言える。このことから、弥生時代に南インドの集団が朝鮮半島を経由して日本にやってきた、あるいは朝鮮半島の集団が南インドの文明や言語を採用し、それを日本に伝えたという可能性が十分に考えられる。むしろ、そう考える方が説得力がありそうだ。

タミル語が日本語の祖先に位置づけられるという著者の説は聞いたことがあり、日本人のルーツを考えるにあたって参考になると思って本書を読んでみた。言葉の類似性や共通性に留まらず、稲作を伝えて弥生文化をもたらしたのがタミル人であったとまで言われると、俄かに賛意を表すことができない気持ちになったのが正直なところである。しかし、それにしても子持ち土器の形が似ていることには興味を覚えた。しかもタミル人は口縁部に皮を張って楽器(太鼓)として使っていたというから驚きだ。もしかすると日本で出土している子持ち土器も楽器だったのかもしれない。




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