古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

神功皇后(その11 半島外交と皇太后の死)

2019年04月03日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 息長氏の考察で少し寄り道をしたが話を神功摂政紀に戻そう。すでに「神功皇后(その5 新羅征討②)」で検討したように、神功皇后が熊襲を討とうとする仲哀天皇の意に反して新羅征討を敢行した理由は当時の外交事情が背景にある。三国史記、好太王碑文、七支刀銘文などに記された内容から、4世紀半ばから5世紀にかけての倭国は新羅との関係が悪化する一方で百済とは友好関係を築くようになっていた。倭の支援を得て新羅や高句麗に対抗しようとする百済の目論見と、百済を足掛かりにして朝鮮半島から中国へのルートを確保したい倭の思惑が一致したのであろう、神功皇后は新羅を討つという手段に打って出て見事に成功を収める。半島から凱旋帰国した神功皇后は続いて香坂王・忍熊王の兄弟による反乱を鎮圧して国内での政権基盤を盤石なものにし、磐余の稚桜宮で皇太后となり摂政として政権を担う一方、誉田別皇子を皇太子に立てた。のちの応神天皇である。これ以降、神功摂政5年に新羅が朝貢してきたことを皮切りに朝鮮半島との外交が活発になっていくのである。その様子を確認する前に、次のように書紀が引用する魏志倭人伝の記事を見ておきたい。

摂政39年…明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也
摂政40年…正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也
摂政43年…正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻

 見ての通り、卑弥呼による魏との外交記事であるが、これを神功摂政紀に挟んでいるのは魏志倭人伝に記す倭女王が神功皇后であると主張する意図があるのは明らかだ。新羅を討って半島から中国へのルートを確保したことを示したあとに記されているので、話の流れとしては分からなくもないが、そもそも卑弥呼は3世紀前半で神功皇后は4世紀後半であるので、卑弥呼と神功皇后が同じ人物であるはずがない。しかし、書紀の編纂者は百も承知でこの話を挿入したのだ。国内に天皇家の威厳を示す意図はもちろんであるが、中国に対してもそれを示しておきたかったのだ。というのも、書紀は日本国正史であり、中国に日本国の歴史を示すために漢文で書かれたのだから。

 さて、その後の神功摂政46年から半島との間で大きな動きが見られるので以下に示してみる。

46年 斯摩宿禰を卓淳国へ派遣
    百済が朝貢の意志をもっていることを聞く
    爾波移(にはや)らが百済に赴く
    百済の肖古王が爾波移に貢物を献上 
47年 百済が久氐(くてい)らを遣わして朝貢
    新羅は百済から奪った貢物を持って朝貢
    千熊長彦を新羅に派遣して悪事を暴く
49年 荒田別と鹿我別を久氐とともに卓淳国に派遣
    木羅斤資らの援軍を得て新羅を討つ
    耽羅(済州島)を平定して百済に与える
    百済の肖古王と貴須王子が荒田別らと合流
    千熊長彦が百済へ赴く
    百済王は春秋の朝貢を約束
50年 荒田別らが卓淳国から帰国
    千熊長彦が久氐とともに百済から帰国
51年 百済が再び久氐を遣わして朝貢
    千熊長彦を久氐につけて百済に派遣
52年 久氐が千熊長彦に従って朝貢
    七枝刀・七子鏡などを献上
55年 百済の肖古王が薨去
56年 百済の貴須王が即位
62年 新羅が朝貢しなかった
    葛城襲津彦を新羅に派遣して討つ
64年 百済の貴須王が薨去し、枕流王が即位
65年 百済の枕流王が薨去し、辰斯王が即位
69年 神功皇太后が崩御


 卓淳国は現在の慶尚北道にある大邱広域市あたりとされ、当時のこの地域は新羅の南端、加羅との境界に位置する国であった。倭国はこの卓淳国を新羅攻略の拠点にするとともに、卓淳国を介して百済と通好していたことが窺える。そして一連の記述からは百済との深い友好関係が読み取れる一方で、新羅に対しては一貫して厳しい対応が見られ、新百済、反新羅が色濃く出ていることがわかる。
 百済の意志が最もよく表れているのが、神功摂政52年における七枝刀(七支刀)および七子鏡の献上で、これは高句麗からの圧迫に対抗するために倭に支援を求めたものであると考えられている。
 七子鏡の確かな行方はわかっていないが、七支刀は奈良県の石上神宮に現存しており国宝に指定されている。身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした全長74.8センチの鉄剣で、剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で表わされている。石上神宮の公式サイトには「表面の銘文は『泰■四年(■■)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀■辟百兵供供侯王■■■■作』、裏面は『先世以来未有此刀百済■世■奇生聖音故爲倭王旨造■■■世』とされており、概ね次のように解釈されているといます。冒頭の『泰■』の2字目は、現在僅かに禾偏(のぎへん)を思わせる線が残っているのみで、旁(つくり)にあたる所にはこの文字を探究した人がつけたと思われる傷痕があって、字は詳らかではありません。しかし、『泰和(たいわ)』として東晋(とうしん)の年号『太和』(西暦366~371)の音の仮借とみる説があり、それによるとこの七支刀は西暦369年に製作されたと考えられます。」と紹介されている。
 さらに山尾幸久氏によって「剣の裏面では『聖音(又は晋)』や『旨』の文字を銘記していることから百済王が東晋皇帝を奉じていることがわかり、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、同年に百済でこれを模造して倭王に贈った」との解釈がなされており、これによると神功摂政52年が372年ということになる。

 また、ここに記した百済による一連の朝貢は肖古王、すなわち第13代百済王の近肖古王の意志によって行われているが、晋書などの中国史書によると、肖古王は346年に即位して375年に没したことがわかっており、その没年である神功摂政55年が375年であるということがわかる。
 さらに、神功摂政62年に葛城襲津彦を新羅に派遣しているが、書紀は続いて百済紀からの引用として「壬午の年に朝貢してこなかった新羅に対して沙至比跪を遣わして討たせた」と記している。沙至比跪は襲津彦であると考えられ、壬午の年は382年であることから神功摂政62年が382年であることがわかる。
 以上のことから、神功皇太后が崩御した神功摂政69年が389年であることがわかる。しかしそうすると「神功皇后(その9 葛城襲津彦の登場)」において、神功摂政5年に葛城襲津彦が新羅の人質を逃がしてしまう記事が三国史記にある418年の記事(王弟未斯欣、倭国自り逃げ還る)に符合する、すなわち神功摂政5年=418年としたことと矛盾が生じてしまうが、これはどう考えればいいだろうか。神功皇后による新羅征討(三韓征伐)のあとの朝鮮半島外交に関する記事はこの神功摂政5年の葛城襲津彦の次は神功摂政46年の斯摩宿禰を卓淳国に派遣する記事まで出てこない。また一方で、書紀において葛城襲津彦は応神天皇紀および仁徳天皇紀にも外交担当として登場する。これらのことから、新羅征討直後に半島外交を開始したことを言わんがために襲津彦が人質を逃がしてしまった418年、つまり応神天皇時代の話を神功摂政5年の話として前に移動したと考えられないだろうか。
 いずれにしても、神功皇后の時代は4世紀半ばから後半であることがわかった。そしてこれ以降、なんと現代に至るまで朝鮮半島との外交が日本国の重要課題となっていくのである。

 神功摂政66年、中国の起居注からの引用として、晋の武帝の泰初2年に倭の女王が何度も朝貢してきた記事を記すが、これも先の魏志倭人伝の引用と同じく、倭の女王が神功皇后であることを示そうとしたものである。泰初は泰始の誤りで泰始2年は266年である。

 そして神功摂政69年に皇太后は崩御する。奈良市山陵町の佐紀盾列古墳群の北西地域にある五社神古墳(ごさしこふん)が陵墓に治定されている。4世紀末~5世紀初めの前方後円墳で全長275メートルは佐紀盾列古墳群最大、全国でも12位の規模を誇る。
 神功皇太后崩御のあと、誉田皇太子が応神天皇として即位し、応神王朝がスタートすることとなる。

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以上で「古代日本国成立の物語(第二部)」を終了とします。第二部では日本書紀の記述を中心に崇神王朝から応神王朝成立までを見てきました。神武王朝は南九州から東征してきた勢力、崇神王朝は出雲から大和に入った勢力、応神王朝は丹波・近江の連合勢力という私の仮説に基づいて第一部、第二部と綴ってきましたが、ここで少し時間をおくこととし、応神王朝については改めて第三部として書いていこうと考えています。ただ、これまでもそうでしたが、論証を進めながら仮説が変わっていくことがあるのでご了承ください。それではまた。


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息長氏の考察③

2019年03月31日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 息長氏の本拠地である琵琶湖東岸の湖北地方には多数の古墳がある。とくに姉川中流の南岸、横山丘陵の北端周辺に位置する長浜古墳群と天野川下流域、横山丘陵の南端周辺に位置する息長古墳群に集中している。
 長浜古墳群には長浜茶臼山古墳をはじめとする数十基の古墳がある。どれも詳しい調査が行われていないため推定の域を出ないようだが、築造時期としては最も早いもので4世紀後半とされるがその最盛期は5世紀と考えられている。丘陵の尾根に築かれた長浜茶臼山古墳は全長が92m、葺石のある二段築成の前方後円墳で築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われる。丘陵の西側1キロほどのところにある丸岡塚古墳は前方部がすでに失われているが全長が130mに復元しうることが明らかになった湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造と推定される。また、丘陵東麓には第30代敏達天皇の皇后である息長広媛の陵墓として宮内庁が管理する村居田古墳がある。墳丘の多くが失われているために墳形や規模に諸説あるようだが、全長100mを超える前方後円墳で5世紀中葉から後半の築造と考えられている。さらに丘陵の西麓には応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の墓とされる5世紀後半の垣籠古墳がある。全長が50数mで前方後円墳とされていたが、最近になって前方後方墳であることが確認されたという。
 このように長浜古墳群では少なくとも5世紀の100年間に数十mから100mを超える規模の前方後円墳あるいは前方後方墳が継続的に築造されていることがわかる。

 次に息長古墳群を見てみると、こちらは長浜古墳群が最盛期を終えたあとの6世紀に入ってから最盛期を迎える。丘陵南西端の北陸自動車道沿いに位置する後別当古墳は全長が50m余りの帆立貝型の前方後円墳で5世紀後半の築造とされている。その後別当古墳を真南に500mのところにある塚の越古墳は全長が40m余りの前方後円墳で、5世紀末から6世紀初頭の築造とされる。盗掘を受けており、副葬品として鏡1面、金銅製装身具の残片をはじめ、馬具、金環、ガラス製勾玉、管玉、丸玉、切子玉などが確認されている。続いて塚の越古墳の東、丘陵南端の山津照神社境内にある山津照神社古墳は全長63mの前方後円墳で6世紀中葉の築造とされる。明治時代の社殿移設に際する参道拡幅工事で横穴式石室が発見され、3面の鏡のほか、金銅製冠の破片、馬具、鉄刀・鉄剣の残欠、水晶製三輪玉など、塚の越古墳とよく似た副葬品が見つかった。被葬者は息長宿禰王との言い伝えがある。また、山津照神社由緒には「当地に在住の息長氏の崇敬殊に厚く、神功皇后は朝鮮に進出の時祈願され、帰還の際にも奉賽の祭儀をされて朝鮮国王所持の鉞(まさかり)を奉納されました。これは今もなお当社の貴重な宝物として保管してあります」とある。そして後別当古墳の北西、丘陵の南西端の縁にある人塚山古墳は全長58mの前方後円墳で6世紀後半の築造と考えられている。
 なお、塚の越古墳や山津照神社古墳の副葬品として出土した金銅製装身具や馬具などの存在はこの地域の首長が朝鮮半島と交流していたことを示すものと考えられている。また、これらは湖西地方の高島市にある6世紀前半の築造と考えられる前方後円墳である鴨稲荷山古墳の副葬品とも似ている。その副葬品とは、金銅製の広帯二山式冠と沓、金製耳飾り、捩じり環頭大刀・三葉文楕円形杏葉など大変豪華なものであった。

 以上の通り、息長古墳群では長浜古墳群が最盛期を終えたあとの5世紀後半から6世紀後半の100年間にわたり、数十m規模の前方後円墳が継続的に築かれている。のちに近江国坂田郡と呼ばれるようになるこの湖北の地では、5世紀において姉川流域を中心に栄えて長浜古墳群を築いた勢力と、6世紀に入って天野川流域で栄えて息長古墳群を築いた勢力が認められる。これは長浜の勢力が息長に移動あるいは分岐したのか、息長を拠点にしていた勢力が長浜の勢力より優位に立ったのか、いずれであろうか。仮にいずれもが息長氏であるとすると、5世紀に栄えた姉川流域の古墳群を築いたのはまさに神功皇后からすぐあとの応神天皇の時代の息長氏であり、6世紀の息長古墳群は継体天皇時代の息長氏によって築かれたと考えることができるだろう。このあたりは継体天皇を考える機会に掘り下げてみたい。


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息長氏の考察②

2019年03月25日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 「息長」の名が歴史に初めて登場するのが古事記の第9代開化天皇の段である。開化天皇の后妃やその子女が記述される中に「息長水依比売」の名が見える。彼女は近江の御上祝(みかみのはふり)がいつき祀る天之御影神の娘であるとして、開化天皇の子である日子坐王(ひこいますのきみ)の妃となって5人の子女を設けている。この日子坐王はその後裔が丹波とのつながりを強く感じさせる王であり、その後裔から息長氏が起こってくるのである。

 まず、御上祝であるが、これは三上祝、すなわち三上氏を指しており、近江国野洲郡三上郷を拠点とする一族で、彼らもまた製鉄氏族であるとされている。滋賀県野洲市三上、近江富士と呼ばれる三上山の西麓に式内名神大社である御上神社がある。祭神は天之御影命であり、三上氏はこの御上神社の神職家であった。神社由緒によると、第7代孝霊天皇のときに祭神である天之御影神が三上山に降臨して以降、御上祝等が三上山を神霊の鎮まる厳の磐境としていつき定めて祀っているとのことである。本居宣長は古事記伝の中で、天之御影神は天照大神が素戔嗚尊との誓約をしたときに自らが身につける八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)から三番目に生まれた天津彦根命の子である、と説いている。つまり天之御影神は天照大神の孫ということになる。その天之御影神の後裔が息長水依比売ということである。
 御上神社を西に7キロほど行くと草津市穴村町がある。天日槍が来日したときに自ら住みたいところを探すと言って諸国を巡り歩き、宇治川を遡ったところでしばらく滞在した吾名邑である。また、北東に6キロあまり、蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社は天日槍に帯同していた陶人(すえひと)が住むところである。御上神社一帯は三上氏の拠点であるとともに天日槍ゆかりの土地でもある。三上氏は天日槍の丹波勢力と息長氏との接点役を果たしたのかも知れない。日子坐王と息長水依比売の第二子に水之穂真若王の名が見え、近淡海の安直の祖となっている。安は野洲であり、息長水依比売と三上氏とのつながりからその後裔が安直としてこの地を治めるようになったのだろう。

 古事記の開化天皇段には息長水依比売に続いて、息長宿禰王、息長帯比売命(神功皇后)、息長日子王の3人の名が登場する。息長宿禰王は日子坐王の三世孫であるが、息長水依比売の系譜ではなく、丸邇臣(和珥氏)の祖である意祁都比売命(おけつひめのみこと)の妹の袁祁津比売命(おけつひめのみこと)との間にできた山代之大筒木真若王の孫である。そして、その息長宿禰王と葛城高額比売との間に生まれた子が息長帯比売命(神功皇后)と息長日子王である。ちなみに、これらの「息長」のうち、書紀に登場するのは息長帯比売命(書紀では気長足姫尊)と息長宿禰王(書紀では気長宿禰王)のみである。神功皇后紀に「神功皇后気長足姫尊は稚日本根子彦大日々天皇(開化天皇)の曾孫、気長宿禰王の女(むすめ)なり、母を葛城高額媛という」との記述がある。

 古事記によると、息長宿禰王は、第9代開化天皇の子である日子坐王、その子である山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)、その子である迦邇米雷王の子、すなわち開化天皇の四世孫である。祖父の山代之大筒木真若王が丹波能阿治佐波毘売(たにわのあじさはびめ)を娶って生まれたのが父の迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)で、その迦邇米雷王は丹波之遠津臣の娘である高杙比売(たかくいひめ)を娶っているから、その子である息長宿禰王にはかなり濃い丹波勢力の血が入っている。つまり、丹波の血を継いだ最初の息長氏ということになる。さらに息長宿禰王は但馬を拠点とする天日槍の後裔である葛城之高額比売を娶っている。この婚姻は丹波・近江連合勢力の象徴ともいえるだろう。さらに、葛城之高額比売の名からも読み取れるようにこの連合勢力には葛城の勢力も加わっていることがわかる。というよりも、そもそも日子坐王は葛城を拠点とした神武王朝最後の天皇である第9代開化天皇の子である。その日子坐王が近江勢力の息長氏とつながり、さらには後裔が丹波勢力とつながることによって神武王朝以降の勢力を維持してきたのである。その意味から考えると、息長宿禰王と葛城之高額比売との婚姻によって葛城・丹波・近江勢力による崇神王朝包囲網が完成したと言ってもいいのかもしれない。そしてその婚姻によって生まれた息長帯比売(神功皇后)が崇神王朝打倒を果たしたのである。
 また、開化天皇の妃である意祁都比売命、日子坐王の妻である袁祁津比売命(意祁都比売命の妹)はいずれも丸邇臣(和珥氏、和邇氏)の祖先である日子国意祁都命の妹であることから、彼女らの後裔にあたる息長宿禰王は和珥氏ともつながっている。和珥氏は奈良盆地北東部一帯、現在の天理市和邇町や櫟本町のあたりを拠点とする豪族で山城から近江にも勢力を持っていた。滋賀県大津市の北部、琵琶湖に面するあたりに和邇中浜、和邇南浜、和邇中など地名に「和邇」を冠する一帯があり、このあたりが和珥氏の本拠であったとする説もある。そして付近には和邇製鉄遺跡群があったことは先に書いた通りである。息長氏は琵琶湖対岸に勢力をもつ製鉄氏族ともつながっていたようだ。和珥氏については機会を改めて考えたい。

 そして息長宿禰王のもうひとりの子である息長日子王は古事記において吉備の品遅君および針間の阿宗君の祖との注釈がある。息長氏は播磨や吉備にも勢力を拡大したのだろう。播磨は天日槍が来日したときに最初に滞在したところであり、その後に自らの居処を定めるために諸国を巡り、近江の吾名邑から若狭を経て但馬に辿り着くのである。播磨国風土記では天日槍が葦原志許乎命や伊和大神と土地の争奪戦を演じている。
 息長氏の勢力範囲ということで言えば、日子坐王と息長水依比売の子である山代之大筒木真若王の名から山城にも勢力を伸ばしていたことがわかる。京都府京田辺市にある朱智神社には山代之大筒木真若王の子である迦邇米雷王が祀られている。

 さて、ここまで開化天皇の子である日子坐王の系譜を中心に息長氏を見てきたが、古事記の景行天皇および応神天皇の段にも息長氏が登場する。つまり別系統の息長氏である。景行天皇の段では倭建命(やまとたけるのみこと)の系譜の記述に、ある妻との間にできた子として息長田別王(おきながたわけのみこ)が、その子として杙俣長日子王(くいまたながひこのみこ)、さらにその子として息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)が出てくる。つまり倭建命の後裔としての息長氏が存在する。さらにこの息長真若中比売が応神天皇の妃となったことが応神天皇の段に記される。つまり、日子坐王の系譜にある息長氏と倭建命の系譜にある息長氏がここでひとつになるのである。そして、応神天皇と息長真若中比売の間にできた若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)の子のひとりである大郎子(おおいらつこ)から継体天皇へとつながる系譜となっていく。但し、書紀では倭建命(日本武尊)の系譜に息長の名は見られない。古事記の記述をもとにここまでの「息長」をとりまく系譜をまとめると次のようになる。



 息長の名を赤字で示したが、日子坐王の後裔を見ていくと「丹波」を冠する名が頻出することから丹波の文字を青字で示した。天日槍の後裔についても「多遅摩」や「多遅麻」を青字にしてみた。こうしてみると息長氏と丹波勢力とのつながりの強さが感じられる。
 なお、日子坐王と息長水依比売の第一子である丹波比古多々須美知能宇斯王(たにわひこたたすみちのうしおう)は書紀では丹波道主命と記され、崇神天皇の時に四道将軍の一人として丹波に派遣された人物であるが、丹波・近江連合勢力側の人物である丹波道主命が敵対する崇神王朝側の人物として自らの勢力地に派遣されることは考えにくいので、丹波道主命が将軍として丹波に派遣された話は創作であろうと考える。


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息長氏の考察①

2019年03月21日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政紀はこのあとも続くのであるが、このあたりで神功皇后、すなわち気長足姫尊を輩出した息長氏について考えてみたい。

 息長氏の本貫地は琵琶湖の北方東岸にあたる近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市および長浜市の一部)、天野川と姉川が形成した長浜平野一帯とされる。北へは越前・若狭へ通じ、東ヘは尾張・美濃へ通じる交通の要衝である。伊吹山の南麓、尾張・美濃へ通じる街道は現代においても東海道新幹線、東海道本線、名神高速道路が通過するところである。また、天野川河口の朝妻津は琵琶湖水運における湖北、湖南への結節点でもある。米原市長沢にある長沢御坊の別名を持つ浄土真宗本願寺派の福田寺(ふくでんじ)は天武12年(683年)に息長氏の菩提寺として建立されて息長寺と号した寺で、神功皇后および天日槍が逗留したという伝承が残っている。なお、息長氏の本貫地については河内説や播磨・吉備説があり、たいへん興味深いところであるが、ここでは通説に従っておきたい。

 息長氏を語るときにその名の由来が必ず説かれる。すなわち、なぜ「息長」という名になったのか。主に3つの説、①生命力の長さを表しているという説、②水中で息を長く保つ海人を表しているという説、③鞴(ふいご)で空気を吹き送って火を起こす様を表しているという説に集約される。息長氏が近江国坂田郡を本拠として琵琶湖水運を掌握していたと考えられること、天日槍とのつながりなどからもわかるように息長氏は渡来系であり航海に長けた海洋族と考えられること、などから当初は②ではないかと考えていた。それが調べていくうちに後述するように近江国は畿内最大の製鉄産地であったこと、たたらに風を送る「息吹き」「火吹き」が語源であるとされる伊福氏、伊福部(いおきべ)氏、など製鉄由来の名を冠した豪族が周辺地にいたことなどから、息長氏についても③であると考えるようになった。

 現在、滋賀県下では60カ所以上の製鉄遺跡が見つかっている。財団法人滋賀県文化財保護協会が1996年に発行した紀要に所収された大道和人氏の論文によると、まず滋賀県南部には逢坂山製鉄遺跡群、瀬田丘陵製鉄遺跡群、南郷・田上山製鉄遺跡群の3つの遺跡群に属する17カ所の遺跡がわかっている。次に西部では和邇製鉄遺跡群および比良山製鉄遺跡群に属する12の遺跡がある。北部においては今津製鉄遺跡群、マキノ・西浅井製鉄遺跡群、浅井製鉄遺跡群に属する31カ所がある。このうち浅井製鉄遺跡群は伊吹山の北部、滋賀県と岐阜県の県境に位置する金糞岳から南に延びる鉱床を背景とした遺跡群であるが、大道氏によるとこの遺跡群は遺跡地図等には掲載されていないが、時期や内容は不明ながら製鉄に関わる鉱滓の散布地がみられ、また、近隣地域の調査において集落遺跡から製錬滓と想定される鉄滓が出土する例が見つかってくるようになってきたことから、ほぼ確実に製鉄遺跡の存在が明らかになってきた、としている。金糞岳の名も、鉄鉱石を精錬する時に出る鉄滓、すなわち金屎(かなくそ)が由来であるとする説がある。また、そこから流れ出る草野川を下ったところには鍛冶屋町という地名も残っている。このあたりは近江国浅井郡に属する地域であるがすぐ南が坂田郡である。
 その坂田郡では米原市能登瀬にある能登瀬遺跡からは鉄滓が出土している。また、伊吹山の東麓、岐阜県不破郡垂井町の日守遺跡からも鉄滓が出ており、同町内にある美濃国一之宮である南宮大社は金山彦命を祀っている。この金山彦命は、書紀の神代巻第5段一書(第4)に記される神産みにおいて、伊弉冉尊が火の神である軻遇突智(かぐつち)を産んで火傷を負い、苦しみのあまり吐き出した嘔吐物から化生した神である。金山彦という名はもとより、火の神に苦しんで吐き出された嘔吐物は製鉄炉から流れ出る鉄滓を表しており、この神はまさに製鉄の神であると言えよう。さらに同じく垂井町にある美濃国二之宮の伊富岐神社は製鉄氏族である伊福氏の祖神が祀られている。このように息長氏が本拠地としていた琵琶湖北部東岸から伊吹山の山麓にかけての一帯は広く製鉄が行われていた地域であり、まさに製鉄王国といっても過言ではなかろう。長常真弓氏はその著「古代の鉄と神々」の中で「息長氏は伊吹山の鉄によって大をなした」と述べている。



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神功皇后(その10 角鹿の笥飯大神)

2019年03月18日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政13年、誉田皇太子は武内宿禰とともに角鹿(敦賀)の笥飯大神に参った。越前国一之宮の気比神宮で、主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である。書紀の本編では笥飯大神に参ったと記されるのみであるが、応神天皇紀の最初に別伝として「皇太子となったときに越国に行き、笥飯大神を参った。そのとき、大神と皇太子は名を交換した。それで大神を名づけて去来紗別神といい、皇太子を誉田別尊と名づけた」と記される。そして、これと同じ話が古事記にもある。皇太子と武内宿禰は禊をしようと近江と若狭を巡り、角鹿で仮宮を設けたところ、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が皇太子の夢に現れたという。大神が皇太子と名前を交換したいと申し出たところ、皇太子は承諾した。すると翌朝、鼻が傷ついたイルカの大群が浜いっぱいに打ち寄せられていたという。皇太子が食する御食(みけ)を賜ったことからその神を御食大神と名付け、その神が今は気比大神と呼ばれている。
 「垂仁天皇(その9 天日槍の神宝②)」でも触れたのだが、垂仁天皇の時に来日した天日槍が持参した神宝のなかにあった膽狭浅太刀(いささのたち)と伊奢沙別命の音の類似などの連想から、伊奢沙別命は天日槍であるという考えが本居宣長以来説かれているが、私もその蓋然性が高いと考える。つまり、気比神宮に祀られるのは丹波・近江連合勢力の祖とも言える天日槍であり、始祖が祀られるこの敦賀の地は丹波・近江連合勢力にとって聖地とも言える場所ということになる。その天日槍の後裔である神功皇后は仲哀天皇の居所である近江の高穴穂宮をすぐに放棄して敦賀の笥飯宮に移り、ここを起点に三韓征伐を成し遂げ、さらには香坂王・忍熊王を討って大和に入って宮を設けた。これは崇神王朝からの政権交代が成就したことを意味すると考える。そして今、神功皇后の子である誉田皇太子は生まれて初めてこの敦賀にやって来たのであるが、さしずめ始祖である天日槍への政権交代の報告と故郷へのお披露目、顔見世といったところか。また、この聖地において始祖からその名を授けられたということは、その系譜を継ぐ正当な資格を与えられたということを意味すると考えられ、これをもって実質的に応神王朝が成立したと考えてよいだろう。書紀で垂仁紀に記される天日槍の来日譚が古事記においては応神天皇の段に記される理由はここにある。
 この一連の話の中で触れられるイルカが皇太子に献上される話は敦賀の地が天皇家に御食を献上する土地になったことを表しているが、これも応神王朝成立を背景とした説話である。延喜式や平城京跡から出土した木簡などから、若狭が海産物を献上する御食国(みけつくに)であったことがわかっている。

 皇太子と武内宿禰は敦賀から大和に戻ったところ、皇太后が酒宴を開催し、盃を挙げて祝った。そして歌っていうのには「この酒は私だけの酒ではない。神酒の司で常世の国にいる少御神が祝いの言葉を述べながら歌って踊り狂って醸して献上した酒だ。さあ、残さず飲みなさい」と。武内宿禰が皇太子に代わって「この酒を醸した人は鼓を臼のように立てて歌いながら醸したからだろう。この酒のうまいことよ」と返歌を歌った。
 どうしてここに少御神、すなわち少彦名命が登場するのだろうか。歌中では少御神は酒の神であるとなっているが、単に酒の神であるから酒の場面に登場させたのだろうか。そうではない。書紀第8段の一書、国造りの場面に登場する少彦名命は大己貴神(大国主命)とともに国造りを進めてきたものの、その最終段階で仲間割れを起こしたことから常世の国へ行ってしまう。この少彦名命は出雲から大和へやってきた崇神天皇、あるいは崇神につながる一族のリーダーを指しているということを当ブログ第一部の「大己貴神と少彦名命」で書いておいた。そしてこの酒宴は神功皇太后と皇太子、のちの応神天皇が崇神王朝を倒して政権交代を実現したことを祝う宴である。崇神王朝の開祖とも呼ぶべき少彦名命の酒を飲み干すことはそのことを喩えているのだ。歌の意味は「大和の少彦名命が創り、繁栄を謳歌した国を平らげてやったぞ。めでたいことだ。彼らの築いたものを全てわが手に収めよう」ということになろうか。


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神功皇后(その9 葛城襲津彦の登場)

2019年03月12日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功摂政5年、新羅王が3人の遣いを派遣して朝貢してきた。その際、先に人質として日本に滞在していた微叱許智伐旱(みしこちはっかん)を取り戻そうとして彼に嘘の証言をさせたところ、皇后はあっさりと帰国を許した。そして帰国にあたっては葛城襲津彦を随行させたのだが、対馬まで来たときに新羅の遣いにだまされて人質を逃してしまう失態を犯した。襲津彦は3人の遣いを殺害したあと、そのまま新羅に攻め入って捕虜を連れて帰国、このときに連行された捕虜は桑原、佐糜(さび)、高宮、忍海の四邑に住む漢人の祖先であるという。
 この新羅の人質を帰国させる話は三国史記にも記される。訥祇麻立干(とつぎまりつかん)2年、すなわち西暦418年の記事に「王弟未斯欣(みしきん)、倭国自り逃げ還る」とあって、これに先立つ実聖尼師今(じっせいにしきん)元年、すなわち西暦402年の記事に「倭国と好みを通じ、奈勿王の子、未斯欣を以って質と為す」とある。麻立干、尼師今ともに国王を表す名称で、未斯欣は書紀にある微叱許智伐旱であると考えられている。

 捕虜を住まわせた四邑であるが、桑原は現在の御所市池之内・玉手あたり、佐糜は御所市東佐味・西佐味、高宮は御所市伏見・高天・北窪・南郷の一帯、忍海は葛城市忍海に比定され、いずれも葛城氏の本拠地にあたる。この地域は豪族居館跡とされる大型建物遺構が出土した極楽寺ヒビキ遺跡、須恵器や韓式系土器などの遺物と祭祀で使われた導水施設とみられる遺構が出土した南郷大東遺跡、鉄製品やガラス製品を製作したと考えられる工房跡が出た南郷角田遺跡、大規模倉庫跡が出土した井戸大田台遺跡など5世紀代を中心とした南郷遺跡群と呼ばれる数多くの遺跡が発見されており、先進的な技術者集団の存在を背景とする繁栄が窺える。襲津彦は先進技術をもった集団を連れ帰って自らの本拠地周辺に住まわせて一族の繁栄の基礎を固めたのだ。
 葛城氏については当ブログ第一部「葛城氏の考察」や「葛城氏の盛衰」などで考察した通り、神武東征で功績のあった八咫烏、すなわち鴨氏から分かれた一族で、奈良盆地南西部の葛城地方を拠点に神武王朝を支えて大きな勢力を築き、襲津彦のときに大いに栄えた氏族であると考える。そして葛城氏が繁栄を謳歌できた理由は、前述の技術者集団の存在に加え、本拠地である葛城地方を南進して紀ノ川へ出て、さらに瀬戸内海、関門海峡を経て朝鮮半島へ通じる航路を統率していたことがあげられる。そしてそれができたのはともに武内宿禰を先祖に持つ兄弟氏族である紀氏の力によるところが大きい。なお、南郷遺跡群は5世紀前半から後半にかけての繁栄が想定され、御所市にある全長238mの前方後円墳である室宮山古墳は5世紀初め頃の築造とされている。神功皇后は4世紀後半から5世紀初めにかけて活躍したと考えられることから、葛城氏の繁栄が神功皇后に仕えた襲津彦を起点としていることと整合がとれている。さらに三国史記の402年および418年の記事とも一致する。


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神功皇后(その8 神功摂政の誕生)

2019年03月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 紀ノ川から大和に入る河川航路を神功皇后が押さえていたと書いたが、この点についてもう少し考えてみたい。紀伊水門は紀ノ川の河口にあたり、近くには神武東征の際に命を落とした五瀬命を葬った竈山があり、名草戸畔という女酋を倒した名草邑がある。この名草戸畔は地元では名草姫と呼ばれ、その死後に代わって紀伊を治めたのが紀氏であると言われている。そう言えば、皇后が小竹宮に滞在したときに常夜行が起こった理由を問うた相手は紀直の先祖である豊耳であった。この豊耳は名草戸畔のあとに紀ノ川流域を押さえた人物の後裔であろう。当ブログ第一部の「難波から熊野へ」で書いたように、私は名草戸畔の死後にこの地を治めたのは神武東征に随行してきた人物であったと考える。大和から大阪湾、さらには瀬戸内海へ通じる水運要衝の地を統治するために神武がこの地に残した腹心の部下が勢力拡大に成功して紀直、すなわち紀氏となった。この腹心の部下は神武一行が日向を発って宇佐に着く前に速水之門で道案内として一行に加えた珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦(しいねつひこ)であったと考える。
 書紀の景行紀では、景行天皇3年の武内宿禰の誕生の話にも紀直が登場する。神武王朝第8代孝元天皇の血を継ぐ屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が景行天皇3年に紀伊国に派遣され、紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘の影媛を娶って武内宿禰が生まれ、その武内宿禰が蘇我氏、平群氏、紀氏などの祖になった、と記されている。この菟道彦は珍彦である。菟道彦(=珍彦=椎根津彦)が紀直の遠祖とされていることと、その孫にあたる武内宿禰が紀氏の祖とされていることは整合がとれている。そして小竹宮で神功皇后のそばにいた紀直の先祖である豊耳はその系譜にある人物である。
 以上から、武内宿禰を介して神武王朝と神功皇后のつながりを確認することができるとともに、神功皇后が紀氏を配下に従えて紀ノ川流域を勢力下に置くことができたのは、まさに武内宿禰の影響によるものであることが理解できよう。また、景行3年に天皇が屋主忍男武雄心命を紀伊国に派遣した記事をあらためて読むと、景行天皇は紀伊国に行幸しようとしたが占いの結果がよくなかったので行幸を中止した、とある。紀伊国は神武王朝の勢力下にあったため、敵対する崇神王朝の景行天皇は紀伊国に入れなかったのだ。

 さて、神功皇后は紀伊国で合流した武内宿禰と和邇臣の先祖である武振熊(たけふるくま)に命じて宇治に陣を構える忍熊王を討たせた。このとき、皇后軍は数万の大軍で進攻したにもかかわらず、なんと敵を騙し討ちにする作戦に出たのだ。この作戦にまんまと引っかかった忍熊軍は宇治の陣をあとにして近江の逢坂、栗林、そして瀬田へと敗走を余儀なくされ、ついには全滅することとなった。仲哀天皇崩御から1年8ヶ月、新羅を征討し、香坂王・忍熊王を破った皇后は皇太后として天皇に代わって政治を担う摂政となった。
 実はこの皇后軍と香坂王・忍熊王との戦いは単なる皇位争いではなかった。これまで述べてきた通り、神功皇后は丹波・近江連合勢力が崇神王朝に送り込んだ皇后である。その皇后が香坂王・忍熊王を倒して我が子である誉田別皇子の皇位継承を確実なものにしたということは、丹波・近江連合勢力が崇神王朝を倒して政権を奪取することに成功したことを意味するのだ。さらに言えば、丹波・近江連合勢力はこの戦いによってもともと拠点としていた琵琶湖から若狭、日本海へ抜ける敦賀に加え、琵琶湖から難波へ通じる宇治川から淀川にかけての流域、大和から大阪湾、瀬戸内海へ通じる紀ノ川流域という水運の要衝を支配することになった。畿内あるいは大和から船を使って畿外へ出るルートはこの3つしかない。大和川ルートもあるが最後は河内湖から難波を通過するため、結局は難波を押さえておく必要があるのだ。そしてこれらのルートは海路でそのまま朝鮮半島へつながっているので外交上も非常に重要となってくる。これ以降、朝鮮半島との外交が一気に活況を呈してくるのはこのことと無縁ではない。

 皇后が摂政についた翌年、ようやく仲哀天皇が葬られることとなった。その陵は先に見た通り、河内国長野陵に治定される大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳である。
 そして幼い誉田別皇子を皇太子として次の天皇であることを世に知らしめた。そして神功摂政69年に神功皇太后が崩御したあと、皇子は応神天皇として即位した。私は仲哀天皇崩御後の神功皇后の時代も含めて第25代武烈天皇までを応神王朝と呼ぶこととしたい。

 しかしここでよく考えてみると、神功皇后は仲哀天皇の后となって以降、高穴穂宮で暮らすことはなかったのではないだろうか。書紀によると、仲哀2年1月11日に皇后になって翌2月6日には角鹿(敦賀)へ行幸して笥飯宮(けひのみや)を設けている。皇后は角鹿で滞在中に熊襲の反乱が起こったために角鹿を出て日本海沿岸を航行し、穴門の豊浦宮を経て儺県の橿日宮に入った。そしてそのまま熊襲を討ち、さらには朝鮮半島に渡って新羅を討った。凱旋帰国後は再び穴門豊浦宮に移り、帰京のために瀬戸内海を通過して難波から紀伊へ向かった。そこで香坂王・忍熊王を討って大和に入り、摂政に就任して大和の磐余に若桜宮を設けている。結局は高穴穂宮に戻ることはなかった。そもそも高穴穂宮は崇神王朝の景行天皇がその晩年に丹波・近江連合勢力を牽制するために設けた宮である。だから神功皇后は最初からこの宮に関心はなく、むしろ大和を押さえることにこだわったと考えられる。その磐余若桜宮は奈良県桜井市にある若桜神社または稚桜神社の2カ所が候補地とされている。




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神功皇后(その7 香坂王・忍熊王の反乱)

2019年02月27日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 当ブログ第二部の執筆を実質的に中断して1年が経過してしまいました。ちょうど昨年の今頃、博物館学芸員の資格を取るために通信制大学で学ぶことを決めて準備を進め、入学が決まるとすぐにテキストを購入して学習を始めました。それ以降、博物館学の各科目の学習やレポート執筆に多くの時間を割くことになり、古代史の勉強のための時間がとれなくなってしまいました。その結果、遺跡探訪や博物館見学のレポートなどを断続的に投稿してきたものの、第二部の執筆は中断せざるを得ませんでした。そして1年が経過、大学の成績発表は3月なので無事に学芸員資格が取れたかどうかはまだわかりませんが博物館学の学習がようやく終わりを迎えたので、古代史の勉強を再開しました。
 ということで、1年前の記事「神功皇后(その6 新羅征討③)」の続きから再開しようと思いますので、よろしくお願いします。

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 新羅遠征を成功させた神功皇后は凱旋帰国し、誉田別皇子、のちの応神天皇を産んだ。翌年、亡き天皇の遺骸とともに帰京しようとしたところ、天皇の御子である香坂王と忍熊王の兄弟が謀反を企てた。この兄弟は仲哀天皇と妃である大中媛の間にできた子である。「仲哀天皇(その1 崇神王朝の終焉)」で書いた通り、本来であれば大中媛が皇后となり、その大中媛が産んだふたりの皇子のいずれかが仲哀天皇の跡を継ぐべきであったのだが、丹波・近江連合勢力の企みによって神功すなわち気長足姫尊が皇后となったために、この兄弟の皇位継承権は神功皇后の子である誉田別皇子に劣後することとなった。神功皇后はふたりの父親である仲哀天皇を亡き者にしただけでなく、ふたりを直系皇統から追い出したのだ。兄弟が皇后による天皇殺害の事実を知らないにしても、謀反を企てる理由は理解ができよう。
 兄弟は筑紫から畿内に帰京する皇后一行を播磨で待ち伏せた。一行を騙すために明石の地にわざわざ天皇のための偽の陵を築いたと書紀に記され、その陵が神戸市垂水区にある五色塚古墳とされる。全長が194メートルの兵庫県最大の前方後円墳で4世紀後半から5世紀前半の築造、奈良の佐紀盾列古墳群にある全長207メートルの前方後円墳である佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳と同形とされている。日本で最初に復元整備が行われた古墳で、墳丘に登ると明石海峡を挟んで淡路島がすぐそこに見える。調査の結果、3段築成の上段および中段の葺石が淡路島産であることがわかっており、淡路島から石を運んだとする書紀の記述と一致する。主体部の埋葬施設は明らかにされていないが、被葬者は明石海峡という要衝を押さえ、さらには淡路島にも勢力を及ぼしたこの地の首長と考えられている。仲哀天皇は即位の翌年に淡路に屯倉を定めている。大和の巨大古墳との関連性に加え、その勢力内に屯倉がおかれたことを考えると、この被葬者はかなり天皇家に近い人物ではないだろうか。また、4世紀後半から5世紀前半という築造年代は神功の時代と重なりがある。書紀では仲哀天皇のための偽の陵とされているが、実際はこの時代の天皇家に近い人物を葬るために築かれた古墳と考えられる。ちなみに仲哀天皇は書紀では河内国の長野陵に、古事記では河内の恵賀の長江に葬られたとあり、大阪府藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳が仲哀陵に治定されている。

 兵を集めて待ち伏せていた兄弟であるが、難波の兎我野で祈狩(うけいがり)をしたときに赤猪に襲われた香坂王が命を落とすこととなった。怖気づいた忍熊王は軍を退かせて住吉に駐屯した。忍熊王が待ち構えていることを知った皇后は同行していた武内宿禰に命じて皇子を連れて紀伊水門に迂回させた。一方、そのまま難波に向かった皇后は難波を前にして船がぐるぐる回って進めなかったので務古水門(武庫の港)に戻って占いをしたところ4人の神々が現れて、それぞれが鎮座したい地を告げた。そしてその教えに従ったところ船が進むようになった。4人の神々とは天照大神、稚日女尊、事代主尊、そして表筒男・中筒男・底筒男の住吉大神であり「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」で書いた通り、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神々である。それぞれの神がどこに鎮座したのかを確認してみよう。

 天照大神が鎮座した廣田国は兵庫県西宮市の廣田神社、稚日女尊の活田長峡国(いくたのながおのくに)は神戸市生田区の生田神社、事代主尊の長田国は神戸市長田区の長田神社である。そして最後の住吉大神の鎮座地である大津渟名倉長峡(おおつぬなくらのながお)は特定が難しいが、先の3カ所から推定すると神戸市東灘区にある本住吉神社であろうか。五色塚古墳のある明石海峡を起点にして難波に至る現在の神戸市から西宮市にかけての大阪湾沿岸部に4つの神社が並んでおり、このことは明石海峡から難波までの航路を神功皇后が押さえたということを意味するのではないか。この航路を支配下に置いたことで船が進んだ、すなわち難波に進攻することができたのだ。そう考えると、これらの神々のお告げは新羅討伐の託宣と同様に神功皇后の意志や行動そのものを表していることになる。つまり、天照大神、稚日女尊、事代主尊、住吉大神は天皇家ではなく、神功皇后の味方であると言える。

 ところで、ここまでの神功皇后の様子、瀬戸内海を東進して難波の手前までやってきたところで不思議な力によって足止めを喰ったためにいったん引き返すという状況は、古事記の応神段に記される天日槍の来日譚とよく似ている。新羅から妻を追いかけて日本へやって来た天日槍はまさに難波に入ろうとしたところで難波の渡りの神に遮られたために引き返して但馬国に入るという話だ。天日槍はそのまま但馬に留まり、妻を娶って子孫を設ける。その末裔が気長足姫尊、すなわち神功皇后である。

 書紀はさらに示唆に富む話が続く。皇后一行が難波に入って来たために忍熊王は住吉から淀川を遡って宇治まで退いていたのだが、皇后は深追いせずにそのまま紀伊国に向かう。先に紀伊水門に向かった皇子と合流するためだ。皇后は紀伊国の日高で皇子と合流し、さらに小竹宮(しののみや)へ移った。この「日高」は現在の和歌山県日高郡、小竹宮はその北にあたる和歌山県御坊市にある小竹(しの)八幡神社が宮跡と考えられているが、果たしてそうであろうか。小竹宮の候補地は4カ所あるとされている。1つめが前述の小竹八幡神社、2つめが和歌山県紀の川市の志野神社、3つめが奈良県五條市西吉野夜中の波宝(はほう)神社、4つめが大阪府和泉市の旧府(ふるふ)神社である。
 小竹宮に滞在しているときに、昼でも夜のような暗さになる「常夜行」という現象が何日も続いた。日食があったのだろうか。天照大神の天の岩屋隠れを想起させる現象だ。土地の老人は、ふたつの社の祝者(はふり)を一緒に葬っているからだと言う。その祝者とは小竹祝と天野祝で、ふたりは良き友人であったので合葬されたのだが、別々のところに埋葬し直すと昼夜の区別が戻った。
 小竹祝は小竹宮とされる候補地のいずれかの社の神官で、天野祝は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある天野大社とも呼ばれる丹生都比売神社の神官であると考えられる。「天野」が丹生都比売神社であるなら「小竹」はその近く、すなわち通説の小竹八幡神社ではなく、2つめの志野神社、あるいは3つめの波宝神社と考えるのが妥当であろう。それぞれの神社が小竹宮の候補とされる理由は、志野神社はその名称から、波宝神社は地名の「夜中」が前述の常夜行の現象に由来すると考えられている、ということからである。志野神社の主祭神は天言代主命・加具土命・息長帯姫命、波宝神社は息長帯日売命と上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉大神が主祭神となっている。ちなみに、丹生都比売神社は第一殿から第四殿までの4つの本殿があり、第一殿には丹生都比売大神すなわち稚日女尊が祀られる。務古水門での占いに登場した神々のうち、天照大神を除く三神が祀られている。
 そしてさらに言うなら、皇后が皇子と合流した「日高」は日高郡ではなく、丹生都比売神社のすぐ近くの和歌山県伊都郡葛城町日高であると考えるべきであろう。

 皇后一行が明石海峡を通過して香坂王・忍熊王の兄弟と対峙するまでに登場した場所を地図にプロットすると下図のようになる。これを見ると、近江の高穴穂宮から瀬田川、宇治川、淀川を経て難波に至る河川航路(図の点線の楕円部分)は天皇家が押さえていたものの、播磨から難波に至る海路および紀ノ川から大和に入る河川航路は皇后が押さえていたと考えることができるだろう。なお、当時の住吉は上町台地の西に位置し、目の前には海岸が迫っていた。台地の東側は河内湖が広がっており、淀川や大和川が流れ込んでいた。





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神功皇后(その6 新羅征討③)

2018年02月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功皇后は吉備臣の祖である鴨別(かものわけ)に熊襲を討たせたあと、神の教えに従って新羅征討を決意する。そもそも神功皇后は仲哀天皇による熊襲征討を阻止して新羅を討たせようとしたにもかかわらず、皇后自らが熊襲を討たせたのはどうしてか。この疑問については「神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)」ですでに触れておいた。
 その後、荷持田村(のとりたのふれ)に住む羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)で討った。皇后が「熊鷲を取って心が安らかになった」と言ったので、この地を安(やす)と呼ぶようになった。荷持田村は現在の福岡県朝倉市秋月野鳥付近と考えられており、羽白熊鷲の墓とされる円墳が残されている。安は現在の福岡県朝倉郡筑前町であるが、筑前町は2005年に夜須町と三輪町が合併してできた町である。
 続いて山門県(やまとのあがた)で田油津媛(たぶらつひめ)を殺害した。この田油津媛については「景行天皇(その6 九州平定③)」で触れておいたが、景行天皇の九州征討のときに白旗を掲げて帰順を申し出た女首長である神夏磯媛(かむなつひめ)の後裔であろうと考えるのだが、先祖が景行天皇に忠誠を誓ったにもかかわらず二代あとの仲哀天皇のときには天皇家に敵対する勢力になっていたと書いたが、これは逆に考えた方がいいだろう。神功皇后は仲哀天皇を崩御に追い込んだあと、その天皇家側の勢力になっていた神夏磯媛の後裔を討ったのだ。

 こうして神功皇后は後顧の憂いを絶ったあと、いよいよ新羅出兵の準備を整えるのであるが、その過程で様々な不思議な現象が起こる。
 肥前国松浦県の小川のほとりで食事をしたとき、皇后は針をまげて釣針を作って飯粒を餌に、裳の糸を釣糸にして神意を伺う占いをして「私は西方の財(たから)の国を求めようと思うが、事を成すことができるなら河の魚よ、釣針を食え」と言って竿を上げると鮎がかかった。皇后は神の教えがその通りであることを知って西方を討とうと決意した。そして神田を定めて儺の河(那珂川)から水を引こうと溝を掘ったところ、大岩が塞がって溝を通すことができなかったので、武内宿禰を呼んで剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせて溝を通したいと願ったところ、急に雷が激しく鳴って大岩を踏み砕いて水を通すことができた。
 皇后は香椎宮に戻って髪を解いて「私は神祇の教えのもとに西方を討とう思う。もし霊験があるのなら頭を海水ですすいだときに髪がひとりでに二つに分かれますように」と言って海に入って頭をすすぐと髪はひとりでに分かれた。このあと皇后は分かれた髪を鬟(みずら)に結い上げ、群臣に向かって新羅征討の決意を表明すると一同が皇后に従った。
 数々の不思議な現象によって皇后の神性を表現することで新羅征討の成功を予感させ、さらに皇后が髪を鬟に結って男性に変身し、征討軍のリーダーとなって群臣をひとつにまとめるシーンは否が応でも気持ちを高める。仲哀天皇亡きあと、次の応神天皇が生まれるまでの中継ぎとして神功皇后が政権を担うに相応しいことを演出していると言える。

 その後も、軍兵が集まらないときに大三輪神社に刀・矛を祀ると軍兵が自然と集まり、さらに吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)、続いて磯鹿海人(しかのあま)の草(くさ)という人物に西方の国を確認させたあと、出発の吉日を占った。吾瓮は関門海峡に浮かぶ阿閉島、磯鹿は志賀島とされる。
 そして「和魂(にぎみたま)は王の身を守り、荒魂(あらみたま)は軍船を導く」という神の教えを受けて拝礼し、依網吾彦男垂見(よさみのあびこおたるみ)を祭りの神主とした。皇后はこの教えに従って荒魂を招いて軍の先鋒とし、和魂を請じて船の守りとした。このときの神は表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神である。皇后が新羅から帰還したときに三神が軍に従ったと記される。
 とことん神の力を背負っているが、極めつけは臨月に入っていた皇后が石を腰に挟んで「事を成就して戻ってからこの地で生まれてほしい」と祈って新羅に向かい、新羅征討に2ケ月以上の期間を要した後に、ちょっと考えにくいことだが、結果はその祈りの通りになった。そうして生まれたのが応神天皇である。

 こうして仲哀天皇が崩御してから約8ケ月を経て、皇后軍は新羅へ向けて出発した。このときも風の神、波の神の力を得て一気に新羅に上陸し、あっという間に新羅王を降伏に追い込んだ。このときの書紀の記述は、先に挙げた新羅本紀の346年の記事「倭兵、猝(にわ)かに風島に至り、辺戸を抄掠(しょうりゃく)す」にまさに合致している。征討軍は大勝利を収めたのであるが、新羅が地図や戸籍を差し出して神功皇后の軍門に降ったことを聞いた高麗および百済も帰順を申し出た。これをもって三韓征伐と言われる。

 先述の通り、神功皇后は新羅から帰還して応神天皇を生んだ。時の人はその場所を宇瀰(うみ)と名付けた。現在の福岡県糟屋郡宇美町である。皇后は腰に石を挟んで出産を遅らせたのであるが、果たして本当だろうか。そもそも臨月に入っていつ生まれるかわからない状態で新羅まで出向くなど非現実的である。仲哀天皇崩御が2月5日、そして応神天皇誕生が12月14日で、その間に新羅征討がある。これは応神天皇が仲哀天皇の子であることを言わんがためのぎりぎりの設定で、あまりに出来過ぎている。応神天皇誕生を12月14日よりあとの日にしてしまうと万世一系が途絶えるだけでなく、神功皇后が不貞を働いたことを明かすことになってしまうのだ。つまり、この無理な設定は新羅からの帰国後に生まれた応神天皇の父親が仲哀天皇でないことを明かしているようなものではないだろうか。応神天皇の誕生についてはあらためて考えたい。

 さて、新羅からの帰国後、軍に従った表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が「わが荒魂を穴門の山田邑に祀りなさい」と言ったところ、穴門直(あたい)の先祖である践立(ほむたち)と津守連の先祖である田裳見(たもみ)宿禰が「神の居たいと思われるところを定めましょう」と申し出たので、践立を荒魂を祀る神主とし、穴門の山田邑に祠を立てた。この山田邑の祠は山口県下関市一の宮住吉にある住吉神社で、大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つとされるが、全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。そして田裳見宿禰を先祖とする津守氏は住吉大社の歴代宮司を務める氏族である。



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神功皇后(その5 新羅征討②)

2018年01月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀においては神功皇后の祖先である天日槍は新羅から来日したとなっている。その天日槍の来日は垂仁天皇3年のときである。垂仁3年は3世紀半ばから後半にかけての時代と考えるが、先に見たように3世紀においては新羅という国はまだ成立しておらず、その地域が辰韓と呼ばれていた頃である。天日槍が新羅から来たと書紀が記しているのは、書紀編纂時に新羅国であった地域、すなわち辰韓地域からやって来たことを表しているに過ぎない。

 魏志韓伝(辰韓伝)によると、辰韓は始め6ケ国であったが徐々に分かれて12ケ国になった、弁辰もまた12ケ国である、として辰韓、弁辰それぞれの小国の名を列挙している。合わせて24ケ国としながらも並んでいる国を合計すると全部で26ケ国になり重複があるようだ。さらに魏志韓伝(弁辰伝)によると、弁辰は辰韓と雑居する、衣服や住居は辰韓と同じで言語や法俗も似ている、とある。弁辰と辰韓が雑居していることから先の国名の列挙も順番が入り混ざっているものと考えられる。弁辰と辰韓は境界を明確に定めずに互いの地域に入り込んで生活していて、衣服や住居も同じで言語も似ていることなども含めて考えると、魏志韓伝の編者である陳寿の認識は「弁韓は辰韓の一部」あるいは「似たような国」という程度であったのかもしれない。そうすると、新羅国の王子とされる天日槍は弁辰または辰韓のいずれかの小国の王子であった、という程度で考えたほうがよさそうだ。
 したがって神功皇后が祖先の祖国を討ったと大げさに考える必要はなさそうだが、その対象が新羅とされていることには意味がありそうだ。先述したように三国史記には当時の倭人あるいは倭国が何度も辰韓あるいは新羅の地に攻め入った事実が記される。その事実と書紀編纂当時における日本と新羅の関係性を掛け合わせた結果が神功皇后による新羅征討の説話になった、と考えたい。私は、神功皇后は実在の人物であり、当時の新羅に侵攻したことも史実であったと考えており、神功皇后による新羅征討は書紀編纂当時の新羅との関係をもとに創作された話であるという説や、そもそも神功皇后は実在しなかったという説には与(くみ)しない。では、書紀編纂当時の日本と新羅の関係性とはどういうことか。先に見たように日本と百済は百済建国の4世紀以来、一貫して近しい関係にあった。その百済の視点から5世紀以降の朝鮮半島の歴史を確認してみよう。

 5世紀後半、高句麗は本格的に朝鮮半島方面への経営に乗り出して百済に対する圧力を強め、百済への侵攻が繰り返された。財力、戦力を使い果たした百済は475年に蓋鹵(がいろ)王が殺害されて実質的に滅亡することとなった。この状況は三国史記や日本書紀の雄略紀にも記されている。しかし、479年に東城(とうじょう)王が即位すると百済は復興へ向けて舵を切り、次の武寧(ぶねい)王のときに勢力拡張を図って朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った。武寧王はこの時期に対外活動を活発に行い、倭国へは軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始め、これ以降、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく。

 伽耶地方では西側から勢力を広げた百済と東方から勢力を拡張していた新羅との間で緊張が生じた。また北側では高句麗と全面的な衝突に入り百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて軍事支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが日本書紀に見える。百済の聖(せい)王は新羅に対抗するため倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国へ先進文物を提供する一方で見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。

 その後、中国では589年に隋が南北朝時代を終わらせて中国を統一、さらに618年には唐が隋に替わって中国を支配することとなる。7世紀半ば、百済、新羅、高句麗、そして倭においても権力の集中が進む中、百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続けた。新羅からの援軍要請を受けた唐は、勢力拡大を危惧していた高句麗の同盟国となっていた百済を倒して高句麗の背後を抑えようとの意図から660年に水陸合わせて13万とされる大軍を百済に差し向け、新羅もこれに呼応して数万人規模の出兵をした結果、百済は降伏を余儀なくされて滅亡した。

 しかしその後、鬼室福信(きしつふくしん)などの百済遺臣が反乱をおこし、また百済滅亡を知った倭国でも朝鮮半島からの様々な文化の輸入が途絶することに対する懸念や百済への勢力拡張の目論見などから百済復興を全面的に支援することとし、人質として滞在していた百済王子の扶余豊璋(ふよほうしょう)を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵し、663年に白村江(現在の錦江河口付近)で唐・新羅連合軍との決戦に挑んだ(白村江の戦い)がこれに大敗を喫することとなる。こうして百済は完全に滅亡し、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることとなった。この結果、朝鮮半島は唐の支配下に置かれることになるが、これに新羅が反発、また唐も西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都である長安までもが危険に晒される状態となり、朝鮮半島支配を放棄せざるを得なくなった。そして675年に新羅が半島を統一することとなった。


 天武天皇が日本書紀編纂の詔を出したのが681年である。そのわずか18年前の663年、朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と戦った倭国・百済の連合軍が敗北を喫し、その建国以来、友好国として支援を続けてきた百済が消滅した。唐・新羅の対抗勢力であった高句麗も滅亡し、朝鮮半島は新羅の支配下に入ることとなった。唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛強化に取り組み、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地に朝鮮式古代山城の砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに667年に都を難波から内陸の近江京へ移した。こういう時代背景の中にあって天皇家を始めとする為政者たちが新羅のことを快く思うはずがなく、その意識は当然のごとく書紀の編纂者たちにも反映される。その結果、日本書紀は親百済、反新羅のスタンスが貫かれることとなった。もちろん、神功皇后の活躍した4世紀において親百済、反新羅であった事実に基づいていることも忘れてはならない。次にあらためてその事実を確認しておきたい。

 神功皇后が新羅に侵攻したことが史実であったと先述したが、新羅本紀に記される4世紀における倭と新羅が直接的に関係し合う記事を拾ってみる。 

 300年  倭国と交聘(こうへい)す
 312年  倭国王、使を遣わし、子の為に婚を求む
 344年  倭国、使を遣わし婚を請えり
 345年  倭王、移書して交を絶つ
 346年  倭兵、猝(にわ)かに風島に至り、辺戸を抄掠(しょうりゃく)す
 364年  倭兵、大いに至る
 364年  倭人、衆を恃(たの)み、直進す
 364年  倭人、大いに敗走す
 393年  倭人、来りて金城を囲む
  
 これによると4世紀前半においては「交聘」とあるように互いに往来があり、倭の王子は新羅から妃を迎えていたようだ。ただし、ここに出てくる倭国王が当時の大和政権の王、すなわち天皇であったかどうかは定かではない。312年のときに辰韓は倭の要請に応えて婚姻相手を差し出しているにも関わらず、344年に再度の要請が来たためにこれを断った。すると翌年、倭は国交断絶の書を送りつけたのだ。これを機に4世紀半ば以降、両国間の緊張が一気に高まることになる。そしてこの4世紀半ば以降の状況がまさに神功皇后による新羅征討説話に反映されているのだ。
 新羅本紀はこれに続いて5世紀における17回もの倭による侵攻記事を載せる。一方、同じ三国史記の百済本紀による同時期の倭と百済の関係記事を並べてみる。

 397年  王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以って質と為す
 402年  使を倭国に遣わして、大珠を求めしむ
 403年  倭国の使者、至る

 これらの記事に先立つ346年に近肖古王が百済を建国しており、また369年には百済が倭に対して七支刀を贈っている。4世紀後半から5世紀にかけて、倭は新羅と敵対関係にあった一方で、百済とは友好関係にあったことが理解されよう。日本書紀の編纂スタンスはまさにこの状況を反映していると考えることができる。

 先述の新羅本紀の記事、そしてこの百済本紀、さらには七支刀の銘文などから4~5世紀の朝鮮半島と日本(倭)の関係が読み取れるが、さらにこれに続くのがすでに触れておいた好太王碑文である。これらの史料は互いに矛盾することなく当時の状況を物語る。そして日本書紀においてもある程度の整合性が見出されることから、神功皇后の時代、すなわち4世紀半ばから後半にかけて倭が新羅に侵攻したことは史実であると考えてよいだろう。ちなみに、古事記においてもわずかであるが神功皇后による新羅征討の記事が記される。


-----<参考文献>-------------------------------------------------------

三国史記倭人伝 他六篇―朝鮮正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)
佐伯有清編訳
岩波書店



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神功皇后(その4 新羅征討①)

2018年01月28日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 神功皇后は天日槍の子孫である。その天日槍は書紀によると新羅の王子であるという。新羅の王子の子孫である神功皇后が夫の仲哀天皇に新羅を討たせようとしたことになる。それどころか、仲哀天皇が新羅でなく熊襲を討とうとして崩御したあと、皇后自ら指揮をとって新羅征伐のために半島に渡っている。神功皇后は祖先の祖国と戦って敗北させたことになるのだが、これはどういうことだろうか。それを考えるにあたってまず紀元前後から3~4世紀の中国および朝鮮半島の情勢について確認しておきたい。

 中国では漢が前202年に中国を統一した。その後、前195年にその漢の支配のもとにあった燕から亡命した衛満が朝鮮半島を支配して王として衛氏朝鮮を建国した。しかし前109年に漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、翌年にはその領土であったところに楽浪郡、臨屯郡、玄菟郡、真番郡の四郡を設けて朝鮮半島を実質的な支配下に置いた。しかしその後、この地方の住民による抵抗が大きくなって秩序が乱れてきたために、漢はこれらの郡を維持することを放棄し、前82年には真番郡と臨屯郡を廃止、さらに前75年には玄菟郡を中国東北地方の遼東郡に吸収することになる。そして中国の勢力が弱まったことを受けて高句麗が勢力を拡大し、前37年の建国に至った。一方、朝鮮半島南部においてはいまだ統一国家の形成には至っていなかったが地域住民による部族連合国家への胎動が始まっていた。

 西暦8年に王莽が漢を倒して新を建国したが、そのわずか15年後の23年、光武帝が新を滅ぼして25年に即位、後漢を建てた。44年になると朝鮮半島南部の国家形成が進展し楽浪郡に朝貢する部族が現れた。そして57年、倭の奴国が後漢から金印を授与されるのである。しかし後漢は朝鮮半島支配にさほど関心を示さず、むしろ遼東郡による高句麗や扶余あるいは北方の匈奴に対する牽制に注力した。その後、2世紀後半になって黄巾の乱や五斗米道の乱など民衆の反乱が相次いだ後漢は衰亡の途をたどり、遼東郡の支配を事実上放棄した。そしてこの隙をついて公孫氏が遼東郡の支配権を確立したのだ。公孫度(こうそんたく)は楽浪郡を復興し、さらにその南方に帯方郡を置いて朝鮮半島南部を支配した。時はあたかも3世紀前半、中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀が鼎立する三国時代に突入しようとしていた。公孫度あるいは子の公孫淵(えん)は後漢最後の皇帝である献帝から禅譲を受けた魏に忠誠を示しながらも南方の呉と国交を開くなど両属政策をとった。呉が公孫氏と組んで東方から魏を牽制したことは魏にとって大きな脅威であったため、魏は238年に公孫氏を討ち滅ぼした。このとき魏は公孫淵を南方から攻めようとして楽浪・帯方の二郡をおさえたのだ。こうして遼東郡から公孫氏の影響が排除され、朝鮮半島は楽浪郡・帯方郡をおさえた魏の勢力下におかれることになった。その結果、邪馬台国の卑弥呼は魏に対する朝貢を開始し、親魏倭王の称号を下賜されることになるのだが、それが翌年の239年のことである。

 魏志韓伝によると、3世紀の朝鮮半島の状況を「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」とし、韓には馬韓、弁韓、辰韓の三韓勢力が鼎立していること、さらに韓が倭と接していることを記している。さらに同じ魏志の倭人伝は「(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其の北岸の狗邪韓国に到り」とある。朝鮮半島の南端には倭に属する、つまり倭人が居住する狗邪韓国があった。
 265年に魏を滅ぼした晋(西晋)が中国を統一すると馬韓、辰韓地方には晋に朝貢する国が出てきた。この地域における国家形成への胎動と言えよう。そして3世紀末から4世紀にかけて高句麗や鮮卑、匈奴が勢力を増し遼東地域が大きな混乱状態になった結果、313年に楽浪郡が、続いて314年に帯方郡が滅亡することになり、このことが朝鮮半島の国家形成を大きく促進することとなった。

 そして4世紀にはいると三韓それぞれの地域で活発な動きが見られるようになる。まず馬韓地域では少なくとも4世紀前半頃までには馬韓諸国のなかの伯済国が周囲の小国を統合して、漢城(現在のソウル)を中心として百済国を成立させていたと考えられている。百済・新羅・高句麗の歴史が記される「三国史記」は現存する朝鮮半島最古の歴史書であるが、その「百済本紀」には百済の建国が紀元前18年と記される。しかし第13代王である近肖古王より以前の記録は伝説あるいは神話として後世に創作された話であるとされ、この近肖古王が即位した346年を百済建国の年とする考えが定着している。その百済の名が中国の史書に初めて見られるのは「晋書」帝紀威安2年(372年)の近肖古王による東晋への朝貢記事である。その結果、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守の号を授かったとある。この近肖古王は日本書紀では照古王の名で登場する。百済が東晋に朝貢したほぼ同時期に倭との通交も始まり、七支刀(ななつさやのたち)と呼ばれる剣が倭へ贈られたことが日本書紀の神功皇后紀に見える。この刀は石上神宮に現存しており、銘文の分析から369年に作成されたと考えられている。

 次に辰韓地域を見ると、3世紀には12か国が分立している状況にあったのだが、この中の斯蘆(しろ)国が基盤となり、周辺の小国を併せて新羅国へと発展していったと考えられている。斯盧国は280年、281年、286年の3度にわたって西晋に朝貢しているが辰韓諸国を代表しての朝貢であった。そして新羅の名が初めて中国史書に表れるのが377年である。356年に即位した第17代奈勿(なこつ)王が高句麗とともに前秦に朝貢している。三国史記の「新羅本紀」は新羅の建国を前57年とし、辰韓の斯盧国の時代から一貫して新羅の歴史としているが史実性があるのはこの奈勿王以後であり、それ以前の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

 中国では265年に魏を滅ぼし、続いて280年に呉を滅亡へと追いやった西晋が三国時代に終止符を打って中国を100年ぶりに統一した。しかし八王の乱が起こるなど国内が大きく乱れた結果、316年に滅亡する。その後、遺臣が江南へ移って東晋を建てることになるが、中国北部は異民族の武力抗争が続く五胡十六国の時代に入る。そしてこの混乱の中で台頭してきたのが高句麗である。
 高句麗は312年に楽浪郡を占拠し、この地にいた漢人や他国の亡命者を積極的に登用し、国家形態を整備し軍事力を拡大して東北地方の強国となっていった。しかし、故国原王のときに遼西に建国した燕と激しい攻防を続けた結果、最終的には355年に征東大将軍営州刺史楽浪公高句麗王の称号を与えられて冊封を受けることになる。さらに371年には国力を充実させた百済の近肖古王からの激しい攻撃を受けて王が戦死する危機に面し、国力を低下させてしまう。しかしその20年後の広開土王(391年~412年)のときに高句麗は最盛期を迎える。この広開土王の活躍は没後2年後に建てられた墓碑(好太王碑)に記されるのであるが、当時の三韓地域や倭との攻防が次のように記録されている。「もともと百済・新羅は高句麗に朝貢していた。そこへ倭が海を渡ってやってきて両国を破って従えた。そして百済は高句麗との約束を破って倭と和通したので広開土王は百済を討とうとした。一方の新羅は高句麗に救援を求めてきたので大軍を派遣して倭を退却させようとしたが逆を突かれて新羅の王都を占拠されてしまった。その後、倭が帯方郡に侵入してきたのでこれを討って大敗させた

 この碑文によると、百済は高句麗と対抗するために倭との関係構築を目論んだことがわかる。三国史記の百済本紀においても、397年に百済は倭国に太子を人質として供し、402年には遣使を送り、その翌年に倭国使者の来訪を歓迎した記事が見られる。一方の新羅はその百済や倭への対抗上、高句麗との関係を求めた。新羅本紀によれば、紀元前後からたびたび倭人の侵攻を受けていることがわかる。2世紀には講和の記事も見られるが、3世紀に入ると一転して倭人が一方的に攻撃する状況になる。4世紀になってすぐに倭国による遣使の記事があるが、345年の断交以降はほぼ敵対関係にあったことが窺える。5世紀において倭人、あるいは倭国が新羅に侵入した記録がなんと17回にわたって記されるのだ。ただし、新羅本紀に表れる倭あるいは倭人はとくに3世紀までの記事においては朝鮮半島南端すなわち狗邪韓国に居住する倭人を指す場合もあるので注意を要する。

 最後に弁韓の状況も見ておこう。先に魏志韓伝と魏志倭人伝の記事を合わせて確認したが、両書に矛盾がないとすれば3世紀の朝鮮半島南部は西に馬韓、東に辰韓、その間の南側に弁韓、さらにその南の半島南端に倭人の居住する狗邪韓国があったことになる。魏志韓伝は弁韓が12ケ国に分かれていたことを記し、その中に弁辰狗邪国という国名が見えるが、これは狗邪韓国のことではないだろうか。その後、弁韓地域では3世紀末から4世紀半ば頃、洛東江下流域の伽耶(加羅)が優勢になったとされるが、百済や新羅のように統一国家の形成には至らなかった。この「伽耶(かや)」と「狗邪(くや)」は音が似ていることから、弁辰狗邪国あるいは狗邪韓国が伽耶に発展したとする考えもあり、わたしもそのように考える。また、この地域は任那とも呼ばれ、神功皇后紀以降の日本書紀にも再三登場し、先述の好太王碑文にも「任那加羅」と記されている。魏志倭人伝にある帯方郡から邪馬台国までのルートにおいて朝鮮半島から九州に渡るときの起点になっていることからもわかるように、対馬の対岸にあり、倭人の居住地ということもあって倭はこの伽耶あるいは加羅を足掛かりに朝鮮半島との交易を行ってきた。また、この伽耶の地は古代からの鉄の産地でもあった。魏志韓伝には「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している」とある。

 少し長くなったが神功皇后の新羅征討を考えるにあたって、当時の朝鮮半島の歴史を概観した。



-----<参考文献>-------------------------------------------------------

古代朝鮮 (講談社学術文庫)
井上秀雄
講談社



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神功皇后(その3 打倒!崇神王朝)

2017年11月30日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 ここで今一度、書紀において熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神について考えてみたい。神託で示された神の名が天照大神、経津主神、事代主神、住吉大神であるとしておいたが、とくに二番目の神、すなわち尾田吾田節淡郡に居る神については諸説あるとしてひとまず経津主神としてみたが、書紀を読み進めると次のようなことが記されている。

 神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を生んだ後、仲哀天皇と大中媛との間にできた麛坂王(以降、香坂王とする)と押熊王が反乱を起こした時、皇后が難波に向かおうとして船が進まない状況に陥ったため、皇后が務古水門(武庫の港)に戻って占ったところ、4人の神が現れて託宣をした。託宣の内容は割愛するが、ひとり目が天照大神、ふたり目が稚日女尊(わかひるめのみこと)、3人目が事代主尊、そして4人目が表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神、すなわち住吉大神である。 それぞれの神の教えのとおりにしたら船は無事に進むことができたと言う。ここに登場する神は新羅を攻めよと告げた4人の神とよく似ている。違うのはふたり目が稚日女尊になっているところだけである。稚日女尊は書紀においては神代巻に登場し、高天原の機殿(はたどの)で神衣を織っていたとき、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで部屋の中に投げ込んだため、驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったとある。稚日女尊は天照大神の妹神あるいは御子神であると言われる。

 同じ神宮皇后紀に4人セットで登場する神々のうち、3人が同じでひとりだけが違っていると考えるよりも4人とも同一であると考えるほうが自然ではないだろうか。つまり、尾田吾田節淡郡に居る神とは稚日女尊と考えることができる。「神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)」では粟島坐伊射波神社を現在の伊雑宮であるとして、その祭神は天照坐皇大御神御魂、すなわち天照大神であるからひとりめの伊勢の五十鈴宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と重複するとしたのだが、よく調べると伊射波神社は三重県鳥羽市安楽島(あらしま)町にあって伊雑宮とは別の神社であった。そしてここの祭神が稚日女尊なのだ。淡郡は粟島のことをいい、粟島が変化して安楽島になったのだ。そうすると、熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅侵攻を勧めた神が、天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉大神の神々ということになる。

 さて、この4人の神がなぜ仲哀天皇に対して熊襲ではなく新羅を討つように勧めたのだろうか。この課題を考えるにあたっては、このブログで述べてきた古代日本国成立における私の仮説をおおまかに確認しておきたい。

 魏志倭人伝にある邪馬台国は出雲から大和の纒向に入った勢力が築いた国で、日本海沿岸から北九州にかけての諸国を倭国としてまとめていた。この国の王は記紀では崇神天皇と呼ばれた。一方、この邪馬台国と対立していた狗奴国は南九州にあって、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれ、その王は神武天皇であった。また、邪馬台国が成立するより以前の大和には丹後からやってきた饒速日命が奈良盆地中央部の唐古・鍵に国を築いていた。狗奴国王の神武は南九州から東征して大和に侵攻、饒速日命の国を統合して奈良盆地南西部に勢力基盤を築いて纒向の邪馬台国、すなわち崇神勢力と睨み合った。
 葛城を拠点とする勢力が初代天皇の神武から第9代の開化にいたる一族で、私はこれを神武王朝と呼んでいる。一方、纒向を拠点とする第10代の崇神から第14代の仲哀にいたる勢力を崇神王朝とする。記紀においては初代から第14代までの天皇が順番に即位して系譜をつないだように記されているが、私は神武王朝と崇神王朝が並立していたと考えている。これが弥生時代後期にあたる紀元3世紀のことだ。その後、3世紀後半から4世紀にかけて崇神王朝が優勢になり、神武王朝は実質的な終焉を迎えたのである。

 以上のような状況の中で神功皇后が登場したのである。神功皇后および子の応神天皇につながる系図を次のようにまとめてみた。



 天日槍および彦坐王の系譜については書紀の記述が乏しいために古事記によることにした。また、この系図では開化天皇と伊香色謎命の間に崇神天皇が生まれているが、私の考えではこのつながりは創作ということになる。
 これを見ると神功皇后の父である息長宿禰王の系譜をさかのぼると第9代開化天皇につながっていることがわかる。また皇后の母である葛城高額日売命は天日槍にさかのぼることができる。要するに神功皇后は神武王朝の末裔であり、天日槍の末裔でもあるのだ。また父が息長宿禰王であることから、近江を拠点にした息長勢力でもある。神功皇后が丹波・近江連合勢力の後裔として出現したことは「景行天皇(その12 近江遷都)」などで書いた通りであるが、ここではさらに神武王朝ともつながっていることが確認できた。

 神武王朝は垂仁天皇から景行天皇の頃に実質的な終焉を迎えた、すなわち崇神王朝に敗北を喫したのだが、その神武王朝の末裔である神功皇后が仲哀天皇を殺害し、崇神から5代続いた崇神王朝にとどめを刺したのだ。まさに神武王朝のリベンジを果たしたと言えよう。

 これで4人の神が仲哀天皇に対して熊襲討伐を止めさせようとした理由が推察できよう。熊襲は神武王朝の故郷であり出身一族であったのだ。そしてあらためて4人の神を見ると、4人すべてが神武王朝ゆかりの神であることがわかる。天照大神は神武王朝の祖先神であり、稚日女尊はその妹または子とされる。事代主神は葛城の神で、葛城は神武王朝の大和での勢力基盤の地であった。さらに事代主神は神武・綏靖・安寧の三代の天皇の外戚でもあったのだ。最後の住吉大神は日向の地で伊弉諾尊の禊ぎによって天照大神とともに生まれた神である。

 ただし、そう考えたとしても2つの疑問が残る。ひとつは天皇崩御後の神託で4人の神の名を聞き出した後、吉備臣の祖である鴨別を派遣して熊襲を討たせていること。もうひとつは、討伐の相手がなぜ熊襲ではなく新羅だったのか。
 まずひとつ目であるが、そもそも仲哀天皇や神功皇后が筑紫にやって来たのは熊襲が謀反を起こしたからである。おそらく熊襲は神功皇后と武内宿禰の作戦に乗っかって謀反を装ったのだろう。景行天皇や日本武尊のときに何度も負かされている崇神王朝を打倒する作戦に乗らないはずがない。そして仲哀天皇が崩御した(殺害された)ことによって作戦はいったん終了であるが、熊襲が謀反を起こしたこと、天皇が熊襲討伐に失敗したことが記されるので、その後の措置として残された皇后が熊襲を平定したことにした。だから鴨別の派遣に対して熊襲は反抗することもなく服従したとされるのだ。
 
 もうひとつの疑問、なぜ新羅を討つように勧めたのか、については少し時間をかけて考えたい。



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神功皇后(その2 仲哀天皇の最期②)

2017年11月28日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀天皇の崩御の場面を書紀の記述で確認したが、古事記ではここまでの状況をどのように記しているであろうか。
天皇が熊襲を討とうと筑紫の香椎宮に滞在していた時、皇后が神懸りした。天皇が琴を弾き、武内宿禰が祭場で神託を求めた。皇后に憑りついた神は「西の彼方に金銀のほか、眩いばかりの宝物がある国がある。その国を天皇に帰属させよう」と言った。しかし天皇は「高い山に登っても国は見えない」と言い、偽りを言う神であるとして琴を弾くのを止めた。すると神はひどく怒って「もはやこの国は汝の治める国ではない。一筋の道に行きなさい(死を意味することか)」と言ったので、武内宿禰が「恐れ多いこと。天皇、そのまま琴を弾いてください」と言った。天皇は再び弾き始めたが間もなくして琴の音が途絶えた。火を指し向けて見ると天皇は崩御していた。

 書紀の記述に比べるといかにも怪しい雰囲気が漂う描写だ。書紀では、天皇は神託に逆らって実際に熊襲討伐に出向いたが失敗して崩御したとあるが、古事記では熊襲討伐に出向くことなく、神託の場で崩御している。このとき、この場には天皇、皇后、武内宿禰の三人がいたのみである。そして武内宿禰が神に問いかけ、神が神功皇后に憑りついて問いに応える。天皇は琴を弾きながらそれを聞く立場だ。つまり、武内宿禰と皇后のふたりがこの場面を支配していることになる。そんな状況下で天皇が崩御した。天皇がふたりによって殺害されたのは明白だ。臣下と皇后による天皇暗殺。書紀ではそれを伏せるために神託の後に熊襲討伐に向かわせたのだ。
 殯(もがり)の儀式のあと、武内宿禰は祭場で再び神託を求めた。神は「この国は皇后の胎内にいる御子が治める国である」と言ったので武内宿禰は「その子は男か、それとも女か」と尋ねると神は「男である」と応えた。宿禰が「そのようにおっしゃる神の名をお教えください」と願うと神が「天照大御神の託宣である。また、住吉の底筒男・中筒男・上筒男の三大神である」と応えた。書紀では四人の神であったのが古事記では天照大神と住吉大神のみとなっている。

 仲哀天皇が崩御した時点では皇位を継ぐことができる皇子が三人いた。すなわち麛坂皇子と押熊皇子、そして誉屋別皇子である。いずれも神功皇后の子ではなかった。普通に考えれば三人の皇子のいずれかが皇位を継ぐことになるはずだが、神功皇后はそれを阻止して自らのお腹にいる子に皇位を継承させようと目論んだのだ。その作戦は皇后ひとりによるものではなく、武内宿禰とともに練ったものだ。香椎宮において仲哀天皇を殺害するとともにお腹の子に皇位を授ける神託を行う、そしてそれを告げた神を天皇家の祖先神である天照大神として誰も文句を言えないようにしたのだ。書紀よりも古事記の描写の方が当時の状況をよりリアルに伝えているように思う。

 さて、神託を告げた神は天照大神と住吉大神であるが、この二柱の神はこの場面における神功皇后と武内宿禰に重なって見える。要するにこのふたりが天皇を殺害したことを暗示しているのだ。



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神功皇后(その1 仲哀天皇の最期①)

2017年11月26日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 天皇は仲哀9年2月に香椎宮で崩御したが、神功皇后は、天皇が神の教えに従わずに崩御したことに心を痛め、祟った神を知って財宝の国を求めようと思い、群臣(まえつきみ)と百僚(つかさつかさ)に命じて罪を祓い、過ちを改めて小山田邑に斎宮を設け、翌月には自ら神主となって斎宮に入った。中臣烏賊津使主を審神者(さにわ)とし、武内宿禰に琴を弾かせた。審神者とは神託を聞いてその意味を伝える役割を担う人のことである。皇后は琴の両側に幣帛をたくさん積んで「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしょうか。願わくはその神の名を教えてほしい」と問いかけたところ、七日七夜にわたって神々の名が次のように告げられた。
 まず、伊勢国の渡会郡の五十鈴宮に居る撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。次に、尾田吾田節の淡郡(あわのこおり)に居る神。さらに、天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりひこいつのことしろぬしのかみ)。そして最後に、日向国の橘小門(たちばなのおど)の水底に居る海藻のように若々しく生命に満ちている神で名前は表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男神(そこつつのお)。皇后はこれらの神々の名を告げられた。

 ひとり目の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は伊勢の五十鈴宮の神となっているので、伊勢神宮に祀られる天照大神のことであるとする通説に異論はない。
 ふたり目の尾田吾田節淡郡の神が誰を指すのかは諸説あるようだ。ひとつは「淡郡」を阿波国阿波郡、「吾田」を赤田、さらに「節」をフチ=フツと考えて、徳島県阿波市にある赤田(あかんた)神社に祀られる経津主神とする考え。赤田神社は建布都神社の論社である。論社とは、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社のことである。鎌倉時代末期に卜部兼方が記した日本書紀の注釈書である「釈日本紀」は阿波郡の建布都神にあてている。経津主神は国譲りにおいて高天原から派遣された神である。
 別の説として「田節」を志摩国の答志(たふし)、「淡郡」を粟島と考えて、志摩国答志郡(現在の三重県志摩市磯部町)にある粟島坐伊射波神社(伊雑宮(いざわのみや))をあてる説がある。伊雑宮は志摩国一之宮で「天照大神の遙宮(とおのみや)」とも呼ばれ、祭神は天照坐皇大御神御魂 (あまてらしますすめおおみかみのみたま)、すなわち天照大神である。しかし、ひとり目の神が天照大神であるので、ふたり目の神が同一とは考えにくい。そうすると経津主神と考えるのが妥当ということか。
 三人目の神、天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神は長い名がついているが、要するに事代主神のことである。事代主神は大国主神の子で出雲の神とされているが、私は鴨氏あるいは葛城氏につながる葛城の神であったと考えている。詳しくは「事代主神」をご覧いただきたい。
 そして四人目の神として表筒男・中筒男・底筒男が挙げられているが、住吉大神そのものである。書紀の神代巻において、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰ってきて日向の小戸橘の檍原(あわきはら)で穢れた身体を洗ったときに生まれた九柱の神のうち、表筒男神・中筒男神・底筒男神の三柱の神を総称して住吉大神であるとしている。

 熊襲を攻めようとする仲哀天皇に対して新羅を攻めよと勧めた神が、天照大神、経津主神、事代主神、住吉大神の神々であることが神功皇后を通じた神託によって明らかにされた。


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仲哀天皇(その3 神の啓示)

2017年11月24日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 仲哀8年9月、天皇は橿日宮において熊襲討伐の会議を行った。そのとき皇后に神が憑いてこう言った。「熊襲は荒れて痩せたところで、取るに足らない国だ。それよりも目に眩い金銀や彩色の宝がある新羅の国を手に入れてはどうか。私をよく祀れば刀を血で濡らさずに自然と服従するだろう」と。しかし天皇はその託宣を信じなかった。「高い山に上って見渡したが、あたりは海が見えるだけで国など見えない。我を欺くのはどこの神か。歴代の天皇は皆、あらゆる神々を祀ってきた。祀っていない神はいないはずだ」。神はまた皇后に託して「水に映る影のように自分が見下ろしている国を『国はない』と言ってわが言葉を謗るのか。汝が信じないのであれば汝はその国を得ることはできない。ただし、皇后は今、子を孕んでいる。その子が得ることになるだろう」と言った。それでも天皇は信じることができずに熊襲討伐を強行したが勝つことができずに帰還した。
 翌年、天皇は病にかかって亡くなった。年齢は52歳であった。つまり、神の言葉を信じなかったことが原因と考えられた。別の言い伝えによると、天皇は熊襲を討った時に賊の矢が命中して崩御したのだと言う。
 皇后と大臣の武内宿禰は天皇の死を隠して天下に知らせなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津使主(いかつのおみ)、大三輪大友主君(おおともぬしのきみ)、物部胆咋連(いくいのむらじ)、大伴武以連(たけもつのむらじ)に詔して言った。「天下の民は未だ天皇が崩御したことを知らない。もし百姓が知ったら怠けるかもしれない」。そして4人の大夫(まえつきみ)に命じて宮中を守らせた。
 密かに天皇の遺骸を収めて武内宿禰に任せて、海路から穴門へ移させた。そして豊浦宮で火を焚かずに殯を行った。武内宿禰は穴門から戻って皇后に報告した。この年は新羅との戦があったので天皇の葬儀は行われなかった。

 以上が書紀に記された仲哀天皇の最期の場面である。書紀の仲哀紀はここで終わっているが、仲哀天皇の最期の場面は次の神功皇后紀に続いて記される。また、この場面は古事記においても記される。神功皇后紀にて続きの話を確認した上で古事記との比較をしながらこの場面を考えてみたい。



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