古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

南河内の古墳めぐり③

2021年10月08日 | 遺跡・古墳
ここまで、双円墳の金山古墳、双方墳の二子塚古墳を見てきました。続いては二子塚山古墳のすぐ近くにある山田高塚古墳(推古天皇・竹田皇子合葬陵)です。宮内庁は「磯長山田陵」および「竹田皇子墓」として治定しています。

推古天皇は第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣の蘇我稲目の娘である堅塩媛です。夫の第30代敏達天皇は異母兄でもあり、第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟で、蘇我馬子は母方の叔父。蘇我氏および蘇我系天皇に囲まれた中で第33代天皇として即位しました。推古天皇については別の機会に勉強したいと思っています。











墳丘は3段築成、東西59メートル・南北55メートルの方墳です。日本書紀には、推古天皇は推古天皇36年(628年)に崩御、同年に遺詔により「竹田皇子之陵」に葬ったとありますが、この陵の所在地は書かれていません。一方、古事記では「御陵在大野岡上、後遷科長大陵也」として「大野岡上」から「科長大陵」へ改葬した旨の記述がありますが、竹田皇子と合葬したとは書かれていません。横穴式石室の内部に石棺が2基あるとする資料も残っているようで、推古天皇と竹田皇子の石棺と考えられています

御陵をぐるりと周回する小径があったので方墳の四辺を歩きました。



二子塚古墳がすぐそこに見えます。



この推古天皇陵を含む天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)と叡福寺にある聖徳太子墓など約30基からなる古墳群が磯長谷古墳群と呼ばれます。前方後円墳の造営が終了した後の6世紀中ごろから7世紀前半、古墳時代終末期から飛鳥時代初期のものと見られています。古墳群がある磯長谷は皇族の陵墓が集中していることから「王陵の谷」と呼ばれています。


さて次は推古陵から東へ5分、小野妹子の墓に行きました。













太子町のサイトから転載です。

科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。

なるほど、それで池坊家による碑が建てられていたのか。



推古天皇や聖徳太子のもとで外交に尽力したことから、その二人が眠るこの王陵の谷に葬られることになったのでしょう。お墓の向こうは小さな公園のようになっていて、そこからの眺めが結構素晴らしいものでした。右側にPLの塔が見えます。この塔を見ると信者でなくてもなぜか厳かな気持ちになるのは不思議です。



ついでと言っては失礼ですが、麓の科長神社を参拝してきました。





そして次は再び西に下って春日向山古墳(用明天皇河内磯長陵)に向かいました。GoogleMapを頼りにして近づこうとしたのが失敗で、ウロウロと無駄な時間と労力を使った挙句、ようやく拝礼所に到着できました。

3段築成の方墳で大きさは東西65メートル、南北60メートルとなります。天皇陵としては最初の方墳になるらしいです。用明天皇は欽明天皇の第4皇子で第31代の天皇です。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛で同母妹に推古天皇がいます。









ここでも御陵を一周して写真を撮って車に戻りました。そろそろ陽が傾いてきたのでこの日は次の太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵)で最後になります。車で3分ほどです。

ここまで蘇我氏系の天皇陵が方墳であることを実感してきたのですが、この第30代敏達天皇の陵は全長が113メートルもある前方後円墳なのです。というのも、敏達天皇は継体天皇嫡男である欽明天皇と仁賢天皇皇女である手白香皇女の間にできた子であるため、まだ蘇我氏の血が混じっていないのです。しかし、その後に欽明天皇が蘇我稲目の娘である堅塩姫や小姉君を妃としたことから蘇我氏が外戚として権力を持つことになりました。このあたりはいずれ詳しく勉強したいと思います。

拝礼所入口の前に車を停めて歩きます。





推古陵や用明陵と違って敏達陵は山の中にあるため、その存在を知る人はあまりいないのではないでしょうか。拝礼所はひっそりと佇んでいました。敏達の母である石姫皇女(いしひめのひめみこ)が合葬されていることを後で知りました。









時刻は17時少し前です。あと1時間くらいあれば聖徳太子の磯長墓を訪ねて叡福寺に行こうと思いましたが、次の機会にまわすことにしました。今年は聖徳太子が亡くなって1400年の御恩忌なので、時間のある時にゆっくりと参拝します。

さて、たくさんの古墳を見て回って長い1日となりましたが、地元に居ながらにしてようやく機会を作ることができ、満足感でいっぱいです。叡福寺をはじめ、まだまだ見どころがあるので、今後の楽しみにしたいと思います。









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南河内の古墳めぐり②

2021年10月07日 | 遺跡・古墳
地元南河内の古墳巡りの2カ所目は太子町にある二子塚古墳です。聞くところによると、双方墳であることが確認された唯一の古墳とのことで、たいへん貴重な遺跡となります。以下、二子塚古墳について太子町サイトからの転載です。

二子塚古墳は7世紀中葉に築造された全長69メートル、幅35メートルの双方墳で、長方形の下段墳丘上に東西二つの方形の上段墳丘がのり、それぞれに同形同大の横穴式石室が構築され、珍しいカマボコ型の家形石棺が納められています。

こちら(→「国指定史跡二子塚古墳」)にはさらに詳しい説明があります。

近くに駐車場はなく、どうしようかと悩みながらとりあえず近寄ってみようと狭い農道の坂道をソロリソロリと上がっていくと、古墳手前にある小屋の前が少しだけ広くなっていたので、そこに停めさせてもらうことにしました。GoogleMapで上空から見るとこんな感じで、まさにこの写真にあるように車を停めさせてもらいました。



どうやら発掘調査中で、墳丘上にロープが張られ、北東の斜面で数人の方が作業をしていたので、作業者のいない南西側(上の写真の左下)から回って墳丘に近づきました。南西面の墳丘斜面は綺麗に残っているのですが、北西面にまわった途端にびっくり。斜面がえぐれています。





ふたつの方墳の間に来ました。見えているのは北東側の方墳です。



説明板はボロボロでした。もともと7世紀中頃の築造とされていたのが、7世紀後半に変更されたようです。



この両側に方墳があるのですが、それらはイメージしていたのとは全く違う姿でした。



右側、つまり南西部の墳丘(西墳丘)です。墳頂は残っているのですが、墳丘全体が方形がまったくわからないくらいにえぐられています。



左側、北東部の墳丘(東墳丘)です。横穴式石室を構成する大きな石が露出しています。



墳丘内の中央土壇に踏み込んでちょうど古墳の真ん中あたりで両側をみるとこんな様子です。右側の西墳丘はもう何がなんだかわからないのグチャグチャ状態です。上にリンクを貼った「国指定史跡二子塚古墳」にある「航空レーザ測量成果による二子塚古墳の立体図」というのを見るとそのグチャグチャ具合がよくわかります。




 
墳丘の反対側に出ました。東墳丘の石室の入口が見えています。西墳丘は墳頂が見えます。ロープが張っているので近づけません。





ちょうど作業員の方が調査されている場所にきました。東墳丘の北東部斜面に浅いトレンチを入れて何か言い合っているところでしたが、そもそも調査中の墳丘に入り込んで写真をパシャパシャと撮っていたので一応断っておこう、上手くいけば詳しい話が聞けるかもしれない、と思って声をかけました。残念ながらいま掘っているところは発表前だからということで写真はNGでしたが、石室に石棺が残っているので入って見ていいですよ、と言ってもらえました。











盗掘のための穴が開けられていて、中は空っぽでした。この石棺は蓋がカマボコ型をした珍しいものです。この石室、石棺と同じものがもう一方の西墳丘にも存在するとのことですが、埋め戻されたのでしょう、その存在を気づかせるものは全くありませんでした。

2021年3月7日の日経新聞に掲載された写真がこれです。



下が見学会の際の資料および太子町サイトで公開されている古墳全体の図面です。





このあと、古墳の周囲をぐるりと回ってみての疑問。上の図面でいうと、墳丘の下側の平地部分は他の三面の平地部分よりも高さが1メートル以上も低くなっています。墳丘そのものの高さでいえば下側の方が高く見えるということです。後世に田畑の開墾や道路の敷設で土が取り除かれたのか、それとも築造時からこの状態なのか。調査員の方に質問しようと思ったのだけど、忙しそうにしていたので聞けずじまいです。残念。

右側が低くなっているのがわかります。





さて、この古墳には東西のふたつの石棺にふたりの人物が葬られていることになりますが、その被葬者を考えるにあたって墳丘上からのこの眺めがヒントになりそうです。次に行く山田高塚古墳、すなわち推古天皇・竹田皇子合葬陵です。



全国でもここだけという双方墳である二子塚古墳はこの推古天皇陵から南東へ200メートルほどのところ、少しだけ高い位置にあって推古陵を見守るように存在しています。このことから2名の被葬者は推古天皇と関係の深い人物だろうと思われます。築造が7世紀中頃なので、推古天皇崩御の628年からすぐあとのことです。また、方墳であることからすると蘇我氏系であると考えられます。

この二子塚古墳こそが推古天皇・竹田皇子の合葬陵であるという説があります。また、蘇我蝦夷が息子の入鹿とともに入ることを意図して生前に造った双墓(ならびのはか)という説もあるようです。直感的にはいずれも違うと思うので、少し考えてみることにします。









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南河内の古墳めぐり①

2021年10月06日 | 遺跡・古墳
2021年10月某日、快晴の秋空に誘われて、南河内の富田林に住んでいる限りは必ず行かなければ、とずっと思っていた自宅から近くにある古墳を巡ることにしました。今回のコースは、日本に数えるほどしかない双円墳の金山古墳、こちらも珍しい双方墳の二子塚古墳、そのすぐ近くにある推古天皇磯長山田陵(山田高塚古墳)、少し山に向かって小野妹子の墓、また山を下って用明天皇河内磯長陵(春日向山古墳)、最後に敏達天皇河内磯長中尾陵(太子西山古墳)と、全部で6つのお墓を訪ねました。

まずは自宅から最も近い金山古墳へ行きました。
古墳時代終末期にあたる6世紀末から7世紀初頭の築造で、2段築成の北丘と3段築成の南丘が並ぶ墳丘長85.8mの双円墳です。



南丘の西側から北に向かって。


北丘の西側から南に向かって。


この2か月ほどの学習で前方後円墳は壺形古墳であり、他の墳形も壺形を基本としていると考えるようになった私はここでさっそく考えをひとつ改めました。この双円墳の築造は前方後円墳が造られなくなった古墳時代終末期、仏教が隆盛を極めようとしていた時期にあたり、権力の象徴や儀礼の舞台は寺院に移ろうとしていた時代です。すでに古墳が壺形であることに意味がなく、墳形は自由な発想で造られたのではないでしょうか。

墳丘西側で検出された北丘主体部の横穴式石室に通じる墓道が復元されています。また、その横穴式石室の玄室と羨道に家形石棺が1基づつ残されています。





南丘でも墓道が見つかり(セメントで固めた部分)、横穴式石室の存在が判明したものの未調査となっています。



墳丘に上ってみました。この古墳は意外にも標高が高い所にあって眺望がひらけています。南丘から北丘ごしに遠くを見ると、なんと主軸の先にあべのハルカスが見えます。



北丘の西側に復元された墓道と石室が見えます。



北丘から南丘を見ると向うの方に金剛山がそびえています。



山並みをバックに遠景を撮ろうと思って墳丘を降りて少し離れたところから眺めた瞬間にひらめいたのです。そのときの映像がこれですが、さて何をひらめいたのでしょうか。



手前が北丘で右奥が南丘です。背景には左手には葛城山、右手には金剛山。真ん中の緑の高まりはすぐ近くの河南台地です。この河南台地の向こうは葛城山と金剛山の間を抜ける水越街道になります。よく見てください。北丘が葛城山に、南丘が金剛山に対応しているではないですか。壺形を意識しなくなった古墳時代終末期にこの地で生まれた双円墳は霊峰である二つの山をイメージして造られたのではないでしょうか。

この金山古墳は被葬者は明らかになっていませんが、「住吉大社神代記」にある「胆駒神南備山本記」の「白木坂三枝墓」に比定して、厩戸皇子(聖徳太子)の子の三枝王の墓とする説があるそうです。でも、上記の様子から、私は次のように想像、いや妄想をしてみました。

この古墳のある場所は大和の葛城から水越峠を越えて河内に入ったところなので、葛城から通じる水越街道を押さえていた葛城氏が峠を越えたこの地まで勢力を伸ばしていたと考えられます。しかしその葛城氏の本宗家は眉輪王の変などで5世紀に滅亡します。ただ、当時この河内側にいた支族はその後も生き残り、大和葛城を偲んで霊峰葛城山と金剛山をかたどった双円墳を築きました。つまり、この古墳の被葬者は葛城氏末裔と考えることができないでしょうか。

朝鮮半島新羅の南部、慶州には6世紀頃の双円墳がたくさん存在します。葛城氏は朝鮮半島外交で勢力を拡大した氏族で、新羅の双円墳という墳形を受容することは容易であったろうと思われます。そして前方後円墳が造られなくなったタイミングでその双円墳を大和から離れた少し目の届きにくいこの南河内に築いたのではないでしょうか。

さて、金山古墳の次は車で10分ほどのところ、これまた珍しい双方墳の二子塚古墳に向かいました。






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