古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

纏向遺跡訪問紀(6)

2016年12月30日 | 番外編
 纏向大溝は自然の川を利用したのか、それとも掘削された運河だったのか、いずれにしても矢板などで護岸工事が施された立派な水路だった。北溝は大和川につながり、南溝は箸墓古墳まで延びていたと考えられている。大和三山に対する藤原宮のように3つの古墳の中心点、運河の合流地点の近くに何らかの建物があったのではないだろうか。三方が山(墳丘)に囲まれて川(運河)が帯のように流れる地、いわゆる「山河襟帯の地」と考えての発想だ。発掘時は校庭の全部の土を剥がしてみたのだろうか。

 この纏向大溝は三輪山系から流れ出る水を集めるためのものか、それとも物資運搬の大動脈か。前者ならこの合流地点は神聖な地域であったとも考えられ、後者なら3つの古墳のみならず箸墓古墳の築造において大きな役割を担ったことであろう。いずれにしても計画的に作られた政治都市である纏向にとってなくてはならない設備であったことは間違いない。

 この日の纏向踏査はこれにて終了。纏向遺跡は全体のわずか数パーセントしか発掘されていないと言われているが、そうだとすると未知の遺跡であると言っても過言ではない。わずか数パーセントでこれだけ多彩で重要な遺物や遺構が出ているのだから、掘れば掘るほど日本の古代史が解明されていくような気がする。次は何が出るのか、老後の楽しみにするとしよう。

 纏向小学校をあとにして西陽が照りつける中を桜井駅に向かってひたすら自転車を走らせるのだが、これが結構長い距離で疲労困憊。桜井駅からは近鉄で難波に。どういう理由か忘れたけれど、Oさんの友人と合流して千日前のがんこで慰労会。お疲れさんでした。




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纏向遺跡訪問記(5)

2016年12月29日 | 番外編
 箸墓古墳の前方部正面で拝礼したあとは来た道を戻らずに田んぼの畦を通り、自転車を担ぎ上げて45度の傾斜を3メートルほど上って古墳北側の池に出た。この場所は箸墓古墳が紹介されるときによく使われるお決まりの場所だ。例に漏れず、ここで記念撮影をして、次はいよいよ纏向遺跡の中心地へ。まずは県道50号線を北上して纏向石塚古墳。桜井市立纏向小学校の東側にあるこの古墳は纏向遺跡最古の古墳とも言われているが、太平洋戦争中に高射砲設置のために墳丘部が削平されたとのことでもはや古墳の面影はなく、古墳だと言われない限りわからないだろう。

 次に向かったのが卑弥呼の神殿跡か、と騒がれた建物群の跡が検出された辻地区。ここが発掘されたときは大騒ぎになったらしいが、現在は全て埋め戻されて線路と民家と田んぼに囲まれたどこにでもありそうな空き地になっている。私が子供の頃はこういう場所は必ずと言っていいほど子供たちの遊び場になっていたが、訪れたときは人の気配もなく、ましてや卑弥呼の存在など微塵も感じられず。おそらくここが纏向遺跡、いや政治都市「纏向」の中心地、私流に言えば邪馬台国の首都とも言える場所だったのだろう。

 さて、来た道を西に少し戻って再び纏向小学校へ。今度は北側、小学校の正門を通り過ぎてすぐのところにある纏向勝山古墳。ここは帆立貝型というかシャモジ型の古墳であることがしっかりと認識でき、周溝も半分ほどが残っている。ただ、柵があって墳丘部に入ることができなかった。

 次は小学校の西側、正門前の道路をぐるっと左に折れたところの纏向矢塚古墳。ここは前方部が失われていて後円部のみの円墳状態になっている。こんもりした低い小山という感じで、歩いて墳丘頂上へ。Oさん、Sさんはあまり興味がないのか、ついて来ない。登るというにはあまりに低い墳丘であり、登ってみても何もないが、この下には誰が葬られていたのだろうか、と想像することは楽しい。

 纏向小学校を囲むように、東に石塚古墳、北に勝山古墳、西に矢塚古墳。まるで香具山、耳成山、畝傍山の大和三山を彷彿とさせる配置である。大和三山の中心には藤原宮があったが、これらの古墳の中心には何があったのだろうか。それは纏向大溝だ。幅約5m、深さ約1.2mの北溝と南溝の2本の溝が纏向小学校の校庭で「人」の字形に合流しており、そこはまさにこれら3つの古墳を結ぶ中心にあたる場所であった。



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纏向遺跡訪問記(4)

2016年12月28日 | 番外編
 ホケノ山古墳をあとにして次は箸墓古墳に向かった。途中、というかホケノ山古墳のすぐ近くに国津神社というのがあり、なんだか由緒ありそうな名前だったので立ち寄ったが残念ながらさびれた神社で、後日に詳しく調べることもなく今日に至っている。この神社を早々に辞してさらに地面の傾斜に従って自転車を走らせるとすぐに箸墓古墳の後円部右側部分に出る。ここに小さなお店があって「北橋清月堂」という和菓子屋さんだった。ここで少しだけ休憩を取った。

 箸墓古墳は東西軸の東側を30度ほど北に傾けた線を軸にして西側に前方部、東側に後円部がある前方後円墳である。古墳の北側は前方部から後円部の半分くらいまで、築造時の周溝が池として残っているが、それ以外の周溝は全て埋められて民家や田畑になっている。古墳の南縁に沿って、もともとは周溝部分であったはずのところが道路になっており、和菓子屋さんで休憩した後はその道を後円部から前方部の南側の先端部まで走り、そこを右に曲がって前方部の正面に到着。陵墓参考地である箸墓古墳は「大市墓」として宮内庁の管理下にあり、もちろん中にはいることができない。柵の中を覗いてみても単なる林でしかなく、面白くも何ともない。卑弥呼の墓か、台与の墓か、残念ながらそんなロマンを感じることもなかった。

 それでも、ホケノ山古墳と箸墓古墳を続けて訪ねてみて、いずれかが卑弥呼の墓で、もう一方が台与の墓だとすると、ホケノ山が卑弥呼の墓だろうと感じた。墳墓の形が前方後円墳の古い形である帆立貝型であるということもそうであるが、両者の距離はそれほど離れていないのだけど、ホケノ山のほうが東側の山に近い標高の高いところにあって上から見下ろす感じがあり、その被葬者にはより大きな権威あるいは神性があるという印象だった。



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纏向遺跡訪問記(3)

2016年12月27日 | 番外編
 茅原大墓古墳のあとは今回の目的の一つであったホケノ山古墳から箸墓古墳へ。今回の実地踏査、実はSさんが先に下見をしてくれていたのだが、ホケノ山も箸墓も場所がわかっているSさんは自転車をすっ飛ばして前を行く。遅れて走る私は「檜原神社」を案内する表示を見つけた。崇神天皇のときに宮中から移された天照大神が最初に鎮座した笠縫邑がこの檜原神社であり、元伊勢と呼ばれていることを知っていた私は是非とも参拝したくてOさんとともに自転車を停めてSさんに向かって叫んだ。しかしその声は届かず、Sさんはホケノ山古墳に向かってまっしぐら。残念ではあったけど檜原神社の参拝をあきらめてSさんを追った。

 この山の辺の道は三輪山や竜王山などの山裾を南北に走る道である。大神神社から北に向かって走り、左折してホケノ山古墳へ。すると意外にも下りの傾斜が強くてペダルを漕ぐ力を抜いても勝手に自転車が進む。山の辺の道は思った以上に標高のあるところをつなぐ道だとわかった。カーブを曲がって右折すればすぐにホケノ山古墳だ。ここも茅原大墓古墳と同じく帆立貝型の前方後円墳。前方部から登って後円部の頂上へ。発掘の結果、埋葬施設に特徴があることがわかった古墳だが、当然のことながら埋め戻され、頂上は平らにならされていた。それにしても、あれだけ衝撃的な内容が出たのに埋め戻されたあとは出入りが自由で誰も見張っていないのは不思議に感じた。つまりその場で墳丘を掘り起こしても誰にも咎められないということだ。そんなことはしないけど、掘ってみたい衝動に駆られたのは事実だ。墳丘の上からは箸墓古墳がすぐそこに見えた。


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纏向遺跡訪問記(2)

2016年12月26日 | 番外編
 駅前でレンタサイクルを借りた私たちがまず始めに向かったのが大神神社だ。纏向に来てこの神社とそのご神体である三輪山を外す訳にはいかない。大神神社を参拝した後、少し北寄りにある大神神社の摂社である狭井神社で三輪山登拝の受付を済ませ、「三輪山参拝証」と書かれた襷をかけ、いざ登拝開始。甘く見ていた。これはお参りではあるが間違いなく登山だ。雲ひとつない真っ青な空、初夏の陽射しが否応なしに照りつけて時間とともに気温を上げていく。帽子やタオルを持参しなかったことを後悔し、さらには給水のことも考えていなかった自分を責めた。登山中は参拝気分はどこへやら、汗だくになってひたすら登り続けて山頂へ。山頂にある高宮神社を参拝し、裏手に回って奥津磐座をこの目に収めたあと、下山の途に。下山後すぐに狭井神社の社殿横に湧き出る御神水で水分補給し、生き返った気分。計2時間の三輪山参拝は貴重な体験となりました。

 三輪山参拝を済ませるとすでにお昼の時間。一刻も早く冷たいビールにありつきたくて大神神社近くの三輪そうめんのお店(たぶんここ→「御食事処福神堂」)に入った。お金を払ってそうめんを食べるなんて考えられなかったけど、身体が冷たいものを欲しがっていたこともあって意外にも美味しくて「まあ許そう」という気持ちになった。

 ビールとそうめんで生き返った3人が次に目指したのが桜井市立埋蔵文化物センター。大神神社の参道を西に向かい、国道169号線にぶつかったところを右折してすぐ。ここは纏向遺跡からの出土物が常設展示されており、纏向踏査の前に情報収集しておこうということで先に訪ねた。全国各地から流入した土器など、書籍やネットの写真でしか見たことがなかった出土物の実物をこの目で確認でき、古代都市のイメージが膨らんだ。

 その後、いよいよ纏向めぐりへ。大神神社の大鳥居をくぐって参道を戻り、山の辺の道へ。まずは茅原大墓古墳。実はこの古墳の存在はここを通るまで知らなかったのだが、墳丘に登れそうだったので自転車を停めて登ることにした。帆立貝式の前方後円墳となっていたが、後円部頂上から見ても前方部はほとんど確認できず見た限りでは円墳であった。発掘調査のために墳丘部の木々はすべて伐採されていたので眺望がよく、午前中に登った三輪山がよく見えた。実は古墳に登るのは初体験ということもあって何だかワクワクしてしまった。



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纏向遺跡訪問記(1)

2016年12月25日 | 番外編
 その日は快晴で初夏の陽射しがまぶしい休日だった。2013年6月16日、土曜日の朝9時、仲間2人との待ち合わせ場所である近鉄線の桜井駅に降りたった。この日は3人で纏向遺跡を訪ねることにしていた。

 私は某企業に勤めるビジネスマン、Oさんは私が勤務する会社の子会社の社長、そしてもう1人のSさんは私の会社を10数年前に辞めて起業し成功を収めている人で、私にとっては仕事を教わった先輩であり、また大学の先輩でもある。このSさんは私の会社にいたときにOさんとは気心の知れた同期の仲であった。さらに私とOさんはSさんが経営する会社の株主でもある。そして今、3人は飲み仲間であり麻雀仲間である。私たち3人はそんな深い関係であることをご理解いただいた上で話を進めたい。

 Sさんは自身の会社業績の良し悪しに関わらず、毎年何らかの形で株主に対して御礼の会を開催してくれており、この年は3年に一度の1泊2日の株主旅行の年に当たっていた。いつものように3人で古代史を酒の肴に飲んでいる時に旅行の話になり、神話の里を訪ねる宮崎ツアーを企画しようということになった。そしてツアー企画メンバーとして古代史、特に邪馬台国や魏志倭人伝を事前に勉強しておくということが宿題として課せられた。私は邪馬台国も魏志倭人伝も少しはかじっていたが、この際、少し真面目に考えてみようと思い立ち、これが「古代日本国成立の物語」を考える直接のきっかけとなった。

 そしてこのときに私なりにたどり着いた仮説が、魏志倭人伝にある狗奴国は南九州にあって、その国の王が東征して大和の磐余の地で神武天皇として即位、一方で邪馬台国は大和の纒向にあって両国はにらみ合う関係にあった、という考えであった。桜井市の南側から橿原市にかけての一帯を磐余と呼び、畝傍山の麓の橿原で即位した神武天皇は神日本磐余彦尊という名を持つ。その磐余の地のすぐ北側にあるのが纒向遺跡だ。

 さて、話を2013年6月16日に戻そう。株主ツアーを3週間後に控えたこの日、事前学習の仕上げとして3人で纏向遺跡を訪問するために桜井駅で集合することになったのだ。桜井の駅前に立った時にビビっときた。この駅より南側が磐余、北側が纏向、ということはこの場所は、いや奈良盆地を東西に横切る近鉄線はまるで磐余と纏向、すなわち狗奴国と邪馬台国の国境線ではないか、と。自分の仮説に確信を持った瞬間だった。

<株主旅行で披露したレポートにある地図>
このときは唐古・鍵遺跡の地域を邪馬台国の領域に含めていたが、その後の検討でこの地域は邪馬台国に含まないと考えるに至った。




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