古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

古市古墳群の探索(後半)

2022年03月23日 | 遺跡・古墳
2022年3月後半の3連休に古市古墳群を探索してきました。後半のレポートになります。前半では、清寧陵(白髪山古墳)→小白髪山古墳→日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)→峯ヶ塚古墳→小口山古墳、と順に紹介したので、この後半では、仁賢陵(ボケ山古墳)→青山古墳→浄元寺山古墳→墓山古墳→向墓山古墳、を紹介します。

ボケ山古墳は埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)として第24代仁賢天皇陵に治定されている全長122mの前方後円墳で、出土した円筒埴輪などの特徴から6世紀前半の築造と考えられています。外堤を調査したときに前方部北西側の堤に接する斜面で2基の埴輪窯が発見されました。







下の写真の白い建物の右手にある石が積まれた小さな丘で埴輪窯が見つかりました。野々上埴輪窯跡群と呼ばれています。埴輪窯が作られたのは6世紀前半頃と考えられているので、ここで焼かれ埴輪が仁賢陵で使用されたのでしょうか。




ボケ山古墳は拝所付近を含む三方を住宅に囲まれているのですが、後円部先端あたりは池に接しているために開放されています。





続いて青山古墳。外環状線を渡ってすぐのところにある直径65mの円墳で築造は5世紀中葉とされています。直径62mあるいは68mという情報もありました。それにしてもこの古墳、目視した時点ではホタテ貝式と思ったのですが、説明板にはその突出部は造出しと書いてありました。なんと幅25m、長さ17mという大きな造出しです。さらに全長が72mとも書いてありました。おそらく17mの造出し部を加えての大きさでしょう。





まさか65mの円墳に17mの造出しがあるとは思ってもみませんでした。上の写真を見てどう思われるでしょうか。そして反対側の周濠にはなんと、シラサギが餌をついばんでいました。白鳥陵から飛んできたのでしょうか。




さらに少し歩くと浄元寺山古墳です。1辺67mの方墳で5世紀中頃の築造。隣接する墓山古墳の陪塚です。方墳で67mの規模はなんと全国5位にあたり、時代は下るものの用明天皇陵の65mを上回る大きさです。






道路などで囲まれているので方墳だろうと察しがつくのですが、墳丘そのものは原形をとどめていませんでした。

浄元寺山古墳を先に進むと次の墓山古墳があるのですが、驚いたのは周堤上や周濠を埋め立てたところに墓地が広がっているのです。墓山古墳の名の由来になったのでしょうか。墓山古墳は全長225mの前方後円墳で5世紀初めの築造です。両側のくびれ部に造出しがあり、墳丘斜面は葺石で覆われ、テラス部に埴輪が巡らされていたそうです。深い周濠と幅32m前後の周堤があり、中心部の竪穴式石槨に長持形石棺が納められていたとも。これはどう考えても大王クラスの墓ではないでしょうか。



そんな墓山古墳がなんと応神陵の陪塚に指定されているのです。さらに驚いたことに、陪塚である墓山古墳はさきほどの浄元寺山古墳を含む5基もの陪塚を持っているのです。まあ、応神陵の規模からすると225mもの墓山古墳が陪塚だとされてもやむを得ないのでしょうが、その陪塚がさらに陪塚を5基も持っているというのが驚きです。その陪塚のひとつである1辺37mの方墳である野中古墳からは鉄製の刀剣や農耕具が大量に出土していて、墓山古墳の被葬者の副葬品とみられています。同様に陪塚である1辺18mの方墳の西墓山古墳(消滅古墳)からも大量の鉄器(刀剣200点、農耕具2000点以上)が出土しています。はたして墓山古墳の被葬者はいったい誰なのでしょうか。










墓山古墳のすぐ東にある向墓山古墳は1辺68mの方墳で5世紀初頭の築造です。方墳としては浄元寺山古墳を上回る全国4位の規模になります。宮内庁はこの向墓山古墳を応神陵の陪塚としていますが、上述した墓山古墳の5つの陪塚のひとつとする考えもあります。






さて、時刻は16時を回っています。ここまで1万5千歩ほど歩いてきたので疲れもたまってきました。駐車場の時間もあるので本日の探索はここまでとしました。古市古墳群にはまだまだ行っていない古墳があるので、また機会を作って探索したいと思います。










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古市古墳群の探索(前半)

2022年03月22日 | 遺跡・古墳
2022年3月後半の3連休に古市古墳群を探索してきました。昨年12月に応神天皇陵から北へ向かって仲津姫命陵までの探索に次いで2回目となります。

今回は、清寧陵(白髪山古墳)→小白髪山古墳→日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)→峰ヶ塚古墳→小口山古墳→仁賢陵(ボケ山古墳)→青山古墳→浄元寺山古墳→墓山古墳→向墓山古墳、というルートを巡りました。駐車場をどうしようかと事前にいろいろと調べた結果、羽曳野市立生活文化情報センター「LICはびきの」の駐車場が2時間まで無料というのがわかったので、ここを起点に巡ることにしました。前半、後半の2回に分けて順に紹介します。

まず最初が河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)として第22代清寧天皇陵に治定される白髪山古墳です。



全長115メートルの前方後円墳。この古墳は前方部の幅が後円部直径の2倍もあって裾の広がったスカートのようなちょっと不思議な形の前方後円墳です。前方部が発達した形態は墳形の最終段階を示すものと考えられているそうですが、出土した埴輪などから6世紀前半の築造とされています。





白髪山古墳の名称は、清寧天皇が生まれながら白髪であったことから古事記で「白髪大倭根子命」、日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子天皇」と名付けられたことに由来するそうです。白髪山古墳をぐるりと一周したあと、次は軽里大塚古墳へ行ったのですが、先に清寧陵(白髪山古墳)の陪塚とされている小白髪山古墳を紹介します。





白髪山古墳とは外環状線を挟んでいるのでわかりにくいですが、同一の軸線上に並んでいて同じ方向を向いている前方後円墳です。全長46mで幅10mほどの周濠がめぐり、墳丘には円筒埴輪が並べられていたそうなので、陪塚としては立派な古墳です。白髪山古墳とともに6世紀前半の築造と推定されています。

そして次に紹介するのが軽里大塚古墳。白鳥陵古墳とも呼ばれています。日本武尊の白鳥陵に治定されてる全長190mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されています。拝所までの参道の雰囲気がいい。







白鳥陵も一周しましたが、北側の周濠に沿って通っている道が竹内街道です。フェンス越しに周濠をのぞき込むとカモがびっくりしたのか一斉に飛び立ちました。




日本武尊の陵は全国に3カ所あって、伊勢の能褒野、大和の琴弾原、そしてここ河内の古市です。伊勢と大和は以前に行ったことがあるので、今回で日本武尊陵をコンプリートしたことになり、妙な達成感があります。

次が峯ケ塚古墳です。全長96m、出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、5世紀末から6世紀初頃の築造とされる前方後円墳です。江戸時代には日本武尊白鳥陵に治定されていたこともあったそうで、また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあるそうです。






昨年12月に応神陵など古市古墳群の北部方面を探索した日、ここ峯ケ塚古墳では、造出し部の調査の様子が見れる現地説明会が開催されていたことをあとで知って少し残念に思ったことがあります。調査のあとに埋め戻して造出し部ふうに土が盛られています。



また、発掘調査により二重濠をもつ古墳であることが判明しています。古墳の規模が縮小していく古墳時代後期に二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測されています。公園として整備されるにあたって周濠部分を水色の敷石、周堤部分を茶色の敷石にして頭の中で復元できるように配慮されているのが素晴らしいと思いました。写真右奥の方に見える水色の敷石が外濠を表しています。





羽曳野市のサイトによると、石室は盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が見つかっています。銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500 点以上にのぼるそうです。たしか発表されたときは古代史ファンの間で大騒ぎになった記憶があります。公園に隣接する「時とみどりの交流館」で魚佩のレプリカが観れます。ここでは百舌鳥・古市古墳群を紹介するビデオも観せていただきました。団体向けの貸し切り用のスペースとのことだったのですが、お客さんが誰もいなかったので無理をお願いしました。ありがとうございました。




峯ケ塚古墳の西側にある丘陵の尾根上に小口山古墳と小口山東古墳があります。小口山古墳は7世紀後半の小さな円墳で、巨石をくり抜いた横口式石槨が見つかって「河内軽里の堀抜石棺」として紹介された考古学史上著名な古墳です(知らなかった)。大きさは直径30mという情報と14mという情報が錯綜していますが、現況を見た感じでは30mもなさそうです。







小口山東古墳は目視ではその存在を確認できませんでしたが、おそらくここがそうだと思います。



古市古墳群は羽曳野丘陵の北端にあって、東側を北上する石川に向かって丘陵がなだらかに傾斜するところに立地していることを実感しました。この場所は大和川と石川が合流する地点でもあり、難波と大和や南河内を結ぶ要衝と言えます。大和から河内へ王権が移るに際しての墓域として相応しい場所でした。高台からはどんづる峯や二上山、遠くに葛城山が見えて眺めが良かったです。



これで古市古墳群探索の前半が終了です。










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淡路・四国への車中泊旅⑤

2022年03月10日 | 旅行・車中泊
淡路・四国への車中泊旅の最終日は「道の駅 滝宮」での目覚めから。さすがに疲れがたまってきたのか、朝の目覚めはいつもより1時間遅い8時半になってしまいました。ワンコの散歩をしていると地元の人がどんどんやってきて農産物直売所に行列を作っています。そのお店の様子を見に行った奥さんが野菜やお寿司を買い込んできました。値段を聞いてその安さにびっくりです。



朝一番は「五色台」まで走って瀬戸内海の絶景を見ながら買ったお寿司で朝ご飯です。こんなに新鮮で美味しいお寿司があんなに安い値段とは。



朝ご飯のあとはあたりを散策してから「瀬戸内海歴史民俗資料館」を見学しました。瀬戸内海を舞台に生きた人々の歴史、瀬戸内海で繰り広げられた漁業の歴史などを勉強しました。この資料館は展示の充実ぶりもさることながら、香川県の「石」を活用した建物が素晴らしかったです。











屋上が展望台になっていて、360度の絶景が楽しめました。





資料館を1時間以上かけて見学。この日は午後から高松に住む先輩のご自宅を訪問する予定を入れていたのでそろそろ出発です。



先輩のお宅は栗林公園のすぐ近く。ご夫婦で快く迎えていただき、1時間半ほど楽しい時間を過ごしました。

ここからは自宅までまっしぐらに走るのですが、途中で讃岐うどんを食べようと国道沿いを探すと次々とお店が出てくるのですが、なんとどこもかしこも営業終了。14時とか14時半に閉店とあります。香川県のうどん屋さんはランチタイムで終わることを学びました。

香川県から徳島県まで国道11号線を走って、鳴門ICから高速に乗りました。途中、淡路島南PAに入って展望台から眺めた夕陽がこの旅の最後のイベントとなりました。







自宅に到着したのが20時半。六甲山からの夜景に始まった5泊6日の淡路・四国への車中泊旅はこれにて終了。走行距離は1,185キロとなりました。

(完)






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淡路・四国への車中泊旅④

2022年03月09日 | 旅行・車中泊
淡路・四国への車中泊旅の5日目は「道の駅とよはま」からスタートです。明日は高松市に住む先輩のお宅をたずねる予定にしていたので、この日は香川県内で一日ゆっくりと過ごそうと決めました。最初に車で数分のところにある「一の宮海岸」に行きました。広い芝生公園になっていてワンコには嬉しい公園です。













2時間ほど過ごしたあと、前日にランチを食べ損ねていたこともあったので、少し早いランチをとることにしました。予約したのは「ricca」という雰囲気のいいイタリアンのお店。パスタのランチセットにドルチェをつけて大満足のランチとなりました。











ランチの後はどこに行こうかと考えて決めたのが「天空の鳥居 高屋神社」です。香川県には思っていた以上に見どころがあるな、と言いながら走っていると神社のある山に登る手前で車を停められました。高屋神社へ通じる道路は土日は通行止めになっているとのこと。ちょっと離れたところから出るシャトルバスを案内されたのですが、その料金がなんと1,000円。歩いて登るなら片道50分。やーめた。行き先をすぐ近くの「不動の滝」に変更しました。そしてこの滝、思っていた以上に良い滝でした。一帯が公園になっていて、家族連れがたくさん来ていました。







次はどこへ行こうかと探して決めたのが「フラワーパーク浦島」だったのですが、行ってみると花がまったく咲いていませんでした。それで行き先を「紫雲出山」の山頂に変更。ここには以前から気になっていた遺跡もあるので行ってみることにしました。













大平洋の大海原もいいけど瀬戸内海の静かな海もいい。水仙の花も咲き乱れて、居心地のいい場所でした。

そしていつかは来てみたかった紫雲出山遺跡。弥生時代中期の瀬戸内海を代表する高地性集落遺跡です。実際に来てみると残されている部分は思っていた以上に狭くてしょぼかった。でも来てみたわかったことは、瀬戸内海に突き出た半島の標高300メートルの山は思っていた以上に急峻な山で、飲料水を運び上げあるのはひと苦労だなということと、住居跡が保存されていた場所は半島の東側の崖の上で、東北方面に吉備を臨む場所にある、ということでした。攻撃されにくくて守りやすい場所にあることから軍事施設だったとされていますが、戦国時代のお城のような役割だったのかも知れない、と思いました。







時刻は15時。この日のメインイベントの「父母ケ浜」はここから10分ほどのところ。土曜日で人出が多くなることも予想して、少し早いと思いましたが行くことにしました。浜辺の前の駐車場に車を停めて夕陽を待っていたのですが、海岸にはたくさんの人が出て皆がポーズをして写真を撮っています。私たちもワンコを連れて海岸に向かいました。



こんなことをしながらワンコを抱いたまま跳びあがった時にバランスを崩して水の中に倒れ込んでしまいました。びしょびしょの砂まみれになってしまいました。恥ずかしいやら情けないやらで笑うしかない状況でした。びしょ濡れになったワンコにも申し訳なかったなあ。

車の中で全部を着替えて仕切り直し。太陽が沈んできていい具合の夕陽になってきます。少し風が強いのが難点。でも何十回とチャレンジしてなかなかいい写真が撮れました。見知らぬ方から写真を撮ってあげましょうと声をかけていただき、ふたりの写真も残すことができました。















さて、このあとは晩ご飯です。「浜海道 多度津本店」という海鮮が美味しそうなお店を見つけたので行くことにしました。激安でボリュームがすごくて美味かった。





この日のお風呂「丸亀ぽかぽか温泉」です。



高知の「土佐ぽかぽか温泉」と同じ系列ですが、丸亀は土佐と違って狭くて小さくて、なんだかゆっくりできなかったです。今回の旅の最後の夜は讃岐うどん発祥の地、綾川町にある「道の駅 滝宮」で車中泊です。











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淡路・四国への車中泊旅③

2022年03月08日 | 旅行・車中泊
淡路・四国への車中泊旅の4日目、種崎千松公園駐車場での車中泊は静かで快適な一夜となりました。この日も快晴の気持ちの良い朝を迎えました。公園のある海岸から桂浜はすぐそこに見えています。



桂浜の散策はいきなりの龍馬像から始まります。海の水が透き通っています。大海原、青い空、太陽の3点セットは今回の旅の絶景写真の定番になりました。













学芸員の勉強をしているときにプロモーションのベンチマークをした桂浜水族館。Twitterが面白いので是非ご覧ください。





仁淀川河口大橋を渡ってから仁淀川をさかのぼります。次に目指すのは「名越屋沈下橋」です。





沈下橋は仁淀川や四万十川でたくさん見られます。いちど車で渡ってみたい思っていたので念願がかないました。





本日のメインイベントは仁淀川の上流にある仁淀ブルーで有名になった「にこ淵」です。断崖に設けられた急な階段を降りていくと息をのむ美しい景観が待っていました。







陽の光のあたり方で蒼さや輝きが変わってくるのでしょう。水の蒼さがもっとも美しく見えるのが11月から3月の11時から15時の間ということらしいです。澄んだ水と同じように心も澄んでいくいくような感覚で、いつまでもここにいたいと思いました。

さて、この場所は四国のほぼ中心にあたる場所です。このあと、来た道を戻って高知から愛媛へと周って四国を一周するのか、それとも北上して香川に向かって四国半周で終わるのか。前夜から考え続けた結果、残された時間を考えて北上することに決めました。北上ルートの国道194号線は快適な道路で、たくさんのトラックとすれ違いました。





実は次に四国へ来た時には是非ともUFOラインを走ってみたいと考えていました。UFOラインは西日本最高峰の石鎚山を背景に標高千数百メートルの尾根を縫うように走る絶景のドライブコースですが、今回は残念ながら冬季閉鎖中でした。それでもその手前の寒風山までの道は通行可能になっていたので、雪の心配がなければ登ってみたいと思いながらその道路の入口に差し掛かると、寒風山から降りてくる車が2台ありました。この二日ほどは気温が上がっていたので走れるのだと思って、山を登ることにしました。



日陰になっているところは雪が解けずに残っていて、細い轍からはずれないようにゆっくりと進めます。標高が上がるにつれて雪の量が増えてカーブも多くて、どんどん恐怖心が出てきたので途中で引き返すことにしました。ガードレールがないところもあって怖かったです。再び国道に戻って快適なドライブです。



愛媛県西条市に到着後、ランチのお店を探しましたがランチタイムが終わっていたのでいいお店が見当たりません。結局「西条天然温泉ひうちの湯」というスパに行って併設の居酒屋で晩ご飯ということになりました。



この日は香川県観音寺市まで走って「道の駅とよはま」で車中泊となりました。





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淡路・四国への車中泊旅②

2022年03月07日 | 旅行・車中泊
淡路・四国への車中泊旅の3日目になります。この日は朝一番で四国最東端の蒲生田岬へ向かいました。四国には室戸岬、足摺岬、佐田岬と有名な岬がありますが、この蒲生田岬も負けず劣らず、絶景を堪能できる場所でした。

駐車場から海岸沿いの道を歩いた先に灯台に登る階段がありますが、これがなかなかきつかった。太ももがパンパンになった頃に右上の方にそびえる灯台が見えます。それでも、上まで登って眺めた景色は階段の苦痛を癒してくれました。













両手を広げて胸いっぱいに空気を吸い込むと何と気持ちのいいことか。前日と打って変わった陽気もあって、キラキラのお日様と広大な海原の絶景に何とも心地よい時間を過ごしました。

岬から引き返す途中、露店で野菜を販売しているところがあったので寄りました。実はこの四国旅、これもひとつの楽しみと思っていたことです。3年前に四国を一周したときには愛媛や高知のロードサイドの露店でおいしい愛媛マドンナやポンカンをゲットした経験があったので、今回も少し狙っていました。ここではみかんとちりめんじゃこが安かったので買いました。

次に行ったのが恵比寿洞です。ここは50メートルほどの岩山を荒波が削り取って貫通した海蝕洞で、この日は光の加減で水の蒼さがとてつもなくきれいでした。この岩山に登る階段は蒲生田岬の比ではなく、途中で引き返そうかと思うくらいにきつかったのですが、ここも登って良かった。絶景の再来です。













お昼前になってお腹がすいてきたのでランチのお店を探しました。いくつかの候補の中から決めたのが10分足らずのところにある「なかむら」というお店。評判のアオリイカ丼と海鮮丼をいただき、いずれも大満足でした。





午後からは室戸岬に向かって海岸沿いをひたすら走るのですが、とりわけ南阿波サンラインは絶景続きの快適なドライブコースでした。













さて皆さん、徳島と聞いて思い浮かべるのは何でしょうか。すぐ近くの大阪に住んでいる私たちですら、阿波踊り、祖谷のかずら橋、大歩危小歩危、大塚美術館くらいなもので、この日に立ち寄った素晴らしい絶景ポイントのことは全く知りませんでした。これだけの観光資源があって、しかも魚介類が新鮮で美味しい。もっと全国にアピールしたらいいのに、と話しながら運転していました、

室戸岬は2年前に来た時に感動の絶景をみたので今回はパスです。この日のうちに高知市内に入りたくて先を急ぎました。この日の最後に訪ねたのが高知県安芸市の「伊尾木洞」です。このあたりが海だった頃に波の浸食によって出来た天然の海食洞で、小さな洞窟を抜けると約40mにわたって渓谷が続き、一番奥には小さな滝がありました。なんだか不思議な空間でした。









このあと、高知市内まで走って晩ご飯を簡単に済ませて「土佐ぽかぽか温泉」で疲れを癒しました。宿泊場所は翌日の朝一番に桂浜にいくため、近くの種崎千松公園の駐車場に決めました。公園の駐車場は少し怖いと思ったものの、ここはキャンプ場にもなっていてキャンプ客がいたので安心して車中泊ができました。

そうそう、今回も高知で給油をせざるを得ない状況になりました。ガソリン価格が上昇中の今回の高知統一価格は有人スタンドが180円、セルフスタンドが178円でした。高知でガソリンを入れないことを改めて心に決めた一日となりました。 






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淡路・四国への車中泊旅①

2022年03月06日 | 旅行・車中泊
2022年2月22日、リモートでの仕事を終えて20:00に出発。いつものようにワンコと一緒です。淡路に渡る前に神戸の夜景を眺めようと六甲山へ向かいました。懐かしい神戸大学教養部(今はなんていうんだろう)の前の坂を登って鉢巻展望台、六甲ケーブルの駅がある六甲山天覧台からの眺めを楽しみました。





この日は空気が澄んでいて、30年ぶりくらいの夜景がキラキラ輝いていました。でも、夜の遅い時間になって気温はマイナス5度、道路にところどころ残った雪が凍っているようで、慎重に運転しました。明石海峡大橋を渡って、この日は淡路SAで車中泊です。





翌日は快晴となりましたが、相変わらず気温が低くて寒い。





サービスエリアからそのまま高速の出口を出て「あわじ花さじき」へ向かいました。この時期は早咲きの菜の花とストックという花が咲いていました。極寒の中、風が吹き付ける園内に長くとどまることができませんでした。









次に向かったのは、いつかは行ってみたいと思っていた五斗長垣内遺跡。ここは奥さんとワンコを車に残してひとりで見学です。詳しくは別の記事に書きましたので、ここでは割愛します。

お昼時になったのでランチのお店を求めて走るのですが、飛び石連休の初日ということもあってか、人気のお店はどこもかしこもいっぱいです。途中「幸せのパンケーキ」を見つけ、行列ができていたものの寄ってみることにしました。リゾート感が満載でした。



















淡路は母親の故郷で、これまでに何十回と来ているのでよくわかるのですが、現在の北淡地域はどうやら開発ラッシュのようです。次のランチに入ったお店の女将さんに聞いた話によると、パソナが進出して以来、開発がどんどん進められているようで「なるほど」と思いました。北淡の西側の海岸も「西海岸」というのが正式な呼び名に決まったそうです。間違いなく淡路ブームが再来しますね。

ランチのお店はこちら「そらと海」です。しゃきしゃき玉ねぎハンバーグご飯と淡路牛の淡路島牛丼をいただきました。






この後はどこへ行こうかと考えた末に、少し時期が遅いかもわからないけど行ったことないので、ということで「立川水仙郷」に行くことにしました。本当は黒岩水仙郷がよかったのですが、リニューアル工事で閉園中ということだったのでこちらにしました。









水仙はほぼ終わりかけでした。昔は黒岩水仙郷と双璧だと思っていたのですが、駐車場の周辺の斜面などに枯れた水仙の痕跡がたくさんあったので、手入れができずに枯らしてしまってこんなしょぼいところになったのでしょう。それよりも、ここはなんだかよくわからないところでした。UFO神社なるものがあって、テレビで紹介された記念の石碑が並んでいて、入らなかったけど妖しい展示室のようなものがあって。残念ながらもう来ることはないですね。

ちょうど夕方になってきたので、そのまま水仙ラインを走って西淡美原ICから高速に乗って四国に渡りました。





徳島市の「天然温泉えびすの湯」でお風呂に入って、翌日からの作戦を練ることにしました。翌朝一番に眉山に登る案があったのですが、作戦会議の結果、今から登れば夜景が観れるはずだから行ってみよう、そうすれば明日の行動も効率的だ、ということになりました。





光の量は神戸に及びませんが、思っていた以上に綺麗な夜景を楽しむことができました。そのあと、阿南市まで走って「道の駅公方の郷なかがわ」で車中泊となりました。











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五斗長垣内遺跡

2022年03月01日 | 遺跡・古墳
2022年2月23日、神戸・淡路経由、四国への車中泊旅の途中で兵庫県淡路市にある五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡に立ち寄りました。五斗長とは、淡路北部を南北に連なる標高200メートルほどの津名丘陵の西側の斜面、瀬戸内海を見下ろす高台にある集落の名前で、正式な住所は淡路市黒谷といいます。



この遺跡は、2004年に淡路島を襲った巨大な台風23号による被害からの復旧の際に見つかった遺跡で、出土品などから弥生時代後期の鉄器製作にかかわる遺跡であることがわかりました。23棟の竪穴建物跡のうち、12棟において鉄器を作る作業を行った炉跡が見つかったほか、朝鮮半島製とみられる鉄斧や鉄鏃など100点を超える鉄器、石槌や金床石、砥石など多数の石製鍛冶工具類も出土しています。直径が10メートルを超える国内最大規模の鍛冶工房を営むなど、ひとつの遺跡で100年以上もの長期にわたって鉄器を作り続けた珍しい遺跡とされていますが、最盛期は2世紀後半で、卑弥呼が登場する頃には稼働を終えていたことがわかっています。



駐車場に車を停めてガイダンス施設に入ると、右手に出土物の展示コーナー、左手が「まるごキッチン」という小さなカフェ、右奥に会議室(研修室かな)があります。この会議室で遺跡の紹介ビデオを見るのですが、地元の津名高校の放送部が制作したビデオはなかなか見ごたえのある素晴らしいものでした。弥生時代に入手できる素材(細竹、蓮の茎、動物の皮など)を使って袋状のふいごを作り、炉に空気を送り込む実験がビデオで紹介されていました。



ビデオを見た後は展示コーナーを見学します。展示物はすべてレプリカで、解説パネルは簡潔でわかりやすい内容でしたが、とくに「鋳造鉄斧片」と書かれた遺物が気になりました。「鍛冶による再加工が困難とされている鋳造鉄斧片が何のために鍛冶工房に持ち込まれたのか、今後の検討課題です」と解説されていました。















この遺跡は鍛冶工房とされているので、朝鮮半島などから材料となる鉄素材を運び込んで、鍛冶炉で熱して石製の工具類を使って鍛造した、と考えられていますが、大きな鉄片は鍛造が難しいということです。この鋳造鉄斧片は本当に外部から持ち込まれたのでしょうか。この場所で鋳造したとは考えられないのでしょうか。

ガイダンス施設を反対側(北側)に出ると一面に遺跡が広がり、右手に津名丘陵、左手に瀬戸内海が見えます。何カ所かに竪穴建物が復元されていますが、まず遺跡全体の立地や構造を考えてみました。

斜面の一番高いところまで上がって海(西側)の方をみると、両側(北側と南側)に延びる一段高い尾根に挟まれた場所に遺跡があることがわかりました。遺跡も丘陵上にあるのですが、両側がそれよりも高いために、相対的に一段低い場所にあることになります。また、遺跡の一番上はそこそこ標高があるので、瀬戸内海からの海風が吹き付けて寒かったです。次に斜面の一番低いところまで下りて山側を見上げると、思っていた以上の急斜面で、海からの強い風を背中に感じることができました。この時期は北西からの強い季節風が吹くようです。



これらのことから、この遺跡のある場所は瀬戸内海からの海風が津名丘陵に吹き上げる風の通り道になっているのではないかと思いました。紹介ビデオにあった袋状のふいごで炉の温度を上げたこともあったでしょうが、この強い風をうまく利用することで同程度の効果を得ることができたのではないでしょうか。さらに妄想を膨らませると、この海風を使って野だたらが行われていたと考えることはできないでしょうか。そうすると、ここで鋳造鉄斧片が出ている事実は重いような気がします。

建物跡は遺跡内に点在するように見つかっており、実験工房として利用されている大型建物「ごっさ鉄器工房」を含めて数棟が復元されていましたが、すべての復元建物の入口が南側を向いています。全国の遺跡から見つかる多くの竪穴住居が南や南東を向いていることからそのように復元されたと思われますが、南を向いているのはおそらく太陽光を住居内に取り入れるため、あるいは太陽信仰につながる精神性などによるものなのでしょう。ところが、この遺跡ではその南向きということに違和感を覚えました。











西側の瀬戸内海から吹き上げてくる風を利用して鍛冶炉の温度を上げていた可能性を考えると、入口は西側(海側)を向いて開いていなければなりません。斜面を吹きあがってきた風を小さな入口で迎え入れて住居内の気圧を一気に高めることにより、酸素濃度の濃い空気が取り込めたのではないでしょうか。これによって炉の温度を上げて鉄を溶融したのだと思います。

そして、鉄の溶融ができたということは野だたらで製鉄を行なっていた可能性も十分に考えられ、この場合、原料をどこから調達したのかが重要なポイントになります。山陰地方で盛んにおこなわれたたたら製鉄の原料は花崗岩に含まれる磁鉄鉱に由来する真砂(まさ)砂鉄ですが、これは淡路では採取されないので、安山岩に由来する赤目(あこめ)砂鉄が用いられたのでしょうか。あるいは播磨や吉備から砂鉄が運ばれたのでしょうか。弥生時代終末期の鍛冶工房跡が出た徳島の矢野遺跡では壺に入れられた砂鉄が見つかっており、採取した砂鉄を運搬するということが行われていた可能性はありそうです。

いろいろと妄想が膨らむのですが、そもそも、畿内最大の鍛冶工房を運営した勢力はどんな勢力で、なぜここで鉄器生産が行われたのか、ここで作られた鉄製品はどこへ供給されたのかなど、考えるべきことがたくさんあるので、検討課題としておきたいと思います。



五斗長垣内遺跡から北東に数キロのところに、五斗長垣内から少し遅れる弥生時代後期から終末期に鉄器生産を行う集落として栄えた舟木遺跡があります。4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170点もの鉄器が出土しました。淡路の勢力を考えるにあたってはこの舟木遺跡も含めて考える必要がありますね。





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