古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

周溝墓が古墳に発展したのか(後編)

2023年05月24日 | 前方後円墳
前編で書いたような私の実体験や想像をもとに考えると、方形周溝墓であれ円形周溝墓であれ墓を溝で囲む一番の目的は、墓の領域を示すためであったと思うのです。また、周囲から水が流れ込んできた際にそれを受け止める目的もあったかも知れない。もともと方形周溝墓には盛土がされていないので、古墳のように墓に盛る土を掘った跡の溝ということではない。時代が下ると方形周溝墓にも土が盛られるケースが見られるので、その場合は溝を掘った土を盛ったのだと思いますが、当初はそういうことではなかった。

もうひとつ、調査報告書などで方形周溝墓が重なりあっている状況、あるいは周溝部から棺が見つかるという状況を見ることがあります。なぜ古い墓に重ねて新しい墓を造るようなことをするのか、という疑問がありましたが、前述の土葬墓と同様に考えれば合点がいきます。時とともに周溝が埋まってしまって境界がわからなくなったために意図せずに重ねて造ってしまった、ということだと思います。


このように考えると、方形周溝墓が前方後方墳に、あるいは円形周溝墓が前方後円墳に変化していったとは考えにくい。白石太一郎氏の「古墳とヤマト政権」に記載された下の図は、周溝を渡る通路(陸橋)が発展して前方部になったということを表していますが「?」です。陸橋は必ずしもこの場所に設けられるとは限らない。ひとつの角に設けられる場合もあれば、四隅、つまり4カ所に設けられる場合もある。



また、その陸橋がある時期に切断されて墓が周溝で囲まれてしまい、そもそもの陸橋の役目を果たさなくなる理由もよくわからない。陸橋が祭祀場を兼ねた時期を経て、その祭祀場が独立して前方部になった、というのであれば、祭祀のために周濠を渡る必要があり、そのためには舟が利用されたとしか考えられず、いかもに現実的ではない。A類からB類に経時的変化があったとしても、B類からC類への経時的変化は考えられず、B類とC類は断絶していると言わざるを得ない。

そもそも、方形周溝墓や円形周溝墓には必ず周溝があるけど、初期の古墳には周溝(=周濠)がないものが多い。この4月に讃岐や阿波で見た初期の古墳のほとんどが丘陵や山の上に造られていて周濠を備えていないものばかりでした。方形周溝墓や円形周溝墓が古墳の原型であるなら、初期の古墳はデフォルト(初期値)として周濠を備えていなければならないけど現実はそうではなく、周濠なしがデフォルトと考える方が合理的な状況です。つまり、古墳と周濠は必ずしもセットではないということです。丘陵を切り出して築造した古墳に周濠がなく、平地に造られた古墳には周濠があるという事実は、平地の古墳の周濠は明らかに墳丘に土を盛るために掘った跡だということです。

また、前方後方墳に比べると圧倒的に数の多い前方後円墳に対して、その原型とされる円形周溝墓の数は方形周溝墓に比べると圧倒的に少ないという現実もあります。方形周溝墓は近畿で隆盛したにもかかわらず、大和で造られる大半の大型古墳がそれを原型とした前方後方墳ではなく、円形周溝墓を原型とした前方後円墳であるというのはどのように考えればいいのでしょうか。

讃岐・阿波の古墳巡りと母の田舎での墓参りを機に考えてみた結果はこれまでの考えと変わらず、円形周溝墓が前方後円墳の原型であるとする通説(?)に少しも歩み寄ることができませんでした。では、前方後円墳はどのようにして生まれたのか。「前方後円墳って。(前方後円墳の考察①)」から16回シリーズで考察した「壺形古墳説」の思いが一層強くなりました。


実は父方の田舎でも土葬が行われていました。私が小学生の時、たしか父の叔父だったか誰かが亡くなって葬儀に連れていかれました。葬儀の最後に棺桶に蓋をしたあと、太くて長い青竹にその棺桶を縄で吊るし、数人の男の人が担いで墓地まで運ぶのです。私にも担げと言われたのだけど、大人が担ぐ青竹に手が届かず、横をついて歩いた記憶があります。その棺桶はそのまま墓地に埋められました。その墓が今どうなっているのかはわかりません。



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周溝墓が古墳に発展したのか(前編)

2023年05月23日 | 前方後円墳
この4月に讃岐と阿波を巡って以来、前方後円墳の成り立ちについて改めて思考を巡らせているのですが、そんな中、ゴールデンウイーク明けに母方の田舎に墓参りに行った際に、以前より考えていたことが確信めいたものになったので、そのことを書いてみたいと思います。またこの背景には、数年前に奈良県の瀬田遺跡で円形周溝墓が見つかったときに、円形周溝墓が前方後円墳の原型であるとの説が紹介されていましたが、円形周溝墓であれ方形周溝墓であれ、それらが前方後円墳あるいは前方後方墳の原型であるとの説(通説と言ってもいいのかな)に疑問を抱き続けている、というのがあります。


弥生時代、近畿地方を中心に各地で方形周溝墓という埋葬施設を溝で囲んだ墓が造られました。これらの調査時の写真や図を見るたびに思い出すのが、母方の田舎で見てきた土葬墓でした。今回の墓参りでも見てきました。関西圏にあるこの田舎ではつい最近まで、少なくとも私が子供の頃まで土葬が行われていました。今でも墓地のもっとも奥まった一画には土葬墓が並んでいて、いまだに花が添えられる墓がいくつもあるのです。その墓がまるで小さな長方形の周溝墓、あるいはほんとに小さな墳丘墓のように見えるのです。棺桶ひとつ分よりも小さなスペースに10〜20センチ程度の高さに土を盛り、その周囲を幅10センチ程度の浅く掘った溝で囲ってあります。

母方の墓は土葬墓ではないのでここから先は想像になりますが、この程度の盛土なら少し雨が降ると土が流れてしまうので、盛土はだんだん平らになっていくし、周囲の溝もすぐに埋まってしまいます。だからお参りのたびに溝を掘って土を盛るのだと思います。でも、それを何十年も繰り返すうちにそのスペースがだんだん狭く小さくなっていくのでしょう。せいぜい50センチ×30センチ程度の盛土がいくつもあるのはそういうことだと思うのです。埋葬時、浅い溝を掘る以外に明確に境界を示すものがあるわけではないので、何十年、何百年と経るうちに境界が不明瞭になって墓が輻輳して、ときには棺桶を埋めようと掘ってみると骨が出てきたなんてもこともあっただろうと思います。さらには誰も参らなくなって無縁仏になり、時間とともに小枝や枯葉に埋もれてしまう墓もたくさんあるはずです。溝も盛土もなく、周囲に瓦を差し込んで領域を明確にした墓も見受けられます。

そういえばひとつだけ、木製の屋形のようなものが置かれている土葬墓がありました。ビニールシートで覆って朽ち果てないようにしていましたが、どうみてもここ数年くらいの新しいものです。さすがに今は土葬はNGでしょうから、後裔の遺族の方が最近になって設置したのでしょう。もしかすると、どの土葬墓も最初はこういうものが置かれていて墓の場所や領域が明確だったのかもわかりません。子供の頃に見た記憶がよみがえってこないのが残念です。

また、どれもこれも写真でお見せすることができれば一目瞭然なのですが、古代の墓とは違ってさすがに現代の墓、しかも今でも祀られている墓の写真を撮ることは憚られました。これとて少し抵抗がありますが、Googleストリートビューから切り取った画像がこれです。これはほんの一部で、この右側の林の中や墓石が並ぶ向こう側に数十基かそれ以上の土葬墓が見られます。



(後編へつづく)


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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑦

2023年05月08日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月23日、3日目のレポートです。

いよいよ最終日。前夜、佐々木さんと私は栗林公園横のホテルに宿泊、岡田さんは自宅に戻って英気を養っていただきました。朝8時にホテル横のコンビニに集合して出発です。3日連続の快晴に恵まれて、いい締めくくりができそうな予感。

最初の目的地は快天山古墳。4世紀中頃築造の前方後円墳で全長98.8mは四国第3位。ただし、前期古墳に限れば四国最大規模になります。後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨の存在が確認され、いずれも刳抜式の割竹形石棺が見つかっています。この石棺を用いた古墳としては日本最古だそうです。





なんと長い前方部、こんな古墳があるのか、と思ったのも束の間、この部分は前方部ではありませんでした。実際はこの長い長い前方部っぽい途中に下の写真のような立札が立っていて、ここから先が前方部ということです。これの手前側は後世の盛土かと思って調べてみると、どうやら当時からの地山らしい。一見して境い目がなくて一体化しているので、どうやら前方部の先端を明確に切り出さなかったようです。

2002年に綾歌町から出された報告書によると、「墳丘裾縁を平坦にするという彊域設定に対する地形上の変更を施さないために、外観だけでは、墳丘の形を決定することは困難である。」「前方部の先端については、平地に築かれた前方後円墳に見るような、直に切られた斜平面をなさないので、これもはっきりしないが(中略)わずかに低い鞍部をなしているので、そこを一応前方部の先端 と見なすことができる。」とあります。

なんとも曖昧なことで。これで四国第3位が決まったということか。




後円部には何やら石塔が建っています。あとで調べてみると、かつて古墳の東側にあった円福寺というお寺の歴代住職3人(快山・快天・宥雅)のお墓でした。快天というお坊さんの名が古墳の名前の由来になったそうです。この3基の石塔を囲むように3つの石棺が見つかっています。その石棺の出たそれぞれのところに小さな説明板が置かれていました。








後円部上や前方部の裾部分にブルーシートが敷かれていて、何やら調査中の様でした。




初日の富田茶臼山古墳、2日目の渋野丸山古墳、そしてこの日の快天山古墳、これで四国三大古墳を制覇したことになります。

次は国分寺六ツ目古墳。高速道路建設で見つかった古墳で、石室が移築保存されています。なぜここに行こうと思ったのかというと、今回のツアーでどこを周ろうかと考えながらいろんなサイトや資料を見ていたときに、丘の上に築かれたこの古墳の発掘調査時の写真が気に入って、この眺めを見てみたかった、というのが理由です。


(「四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 第28冊 国分寺六ツ目古墳」より)

全長21.4m、香川県内最小規模の前方後円墳で、古墳時代前期初頭、4世紀前半頃の築造とされます。竪穴式石室、粘土槨、箱式石棺の3基が確認されました。この写真のまま丘陵の少し上に移築され保存されています。六ツ目霊園に車を停めさせていただいて見学しました。






石室だけが移築されているのかと思っていたら、ちゃんと墳丘部分もありました。埋葬施設を保護する建屋はフェンスだけでもいいような気がしました。



丘陵上からの眺望を楽しみにしていたのですが、新緑の季節で木々が生い茂っていて少し残念でした。

さて、次は石清尾山古墳群へ向かいます。積石塚で有名な古墳群ですが、何年か前の纒向ツアーで訪ねた双方中円墳の櫛山古墳を調べたときに、積石塚の双方中円墳があるこの古墳群の存在を知り、いつかは行きたいと思っていました。4世紀から7世紀にかけての200基余りの古墳群で、墳丘を土で築いた盛土墳と石で築いた積石塚が混在しています。積石塚は4~5世紀にかけてつくられたものだそうです。

山の上は広い公園になっていて大きな駐車場もあります。この日は快晴の日曜日ということもあって家族連れで大賑わい。私たちは車で行けるところまで行こうと駐車場に入りませんでした。

まず最初は坂道の途中にある石清尾山2号墳。径10mの盛土墳で横穴式石室が露出しています。築造は6世紀末〜7世紀初めとされ、新しい古墳です。






次は猫塚古墳。上述の双方中円墳です。4世紀前半の築造で全長が96m。標高200mの山の上にこんなでっかい積石塚を築くとは恐れ入ります。中円部の積石の高さを見ただけでそう感じました。




本当に石を積んでいるだけなので注意して登らないと危ない。サンダルやブーツでは無理です。事前に高松市の公式ホームページを見て、大盗掘により破壊されているとわかっていたものの、墳丘上に立ってみてびっくり。埋葬施設のあった中円部の積石がごっそり運び出されて、大きなクレーターのようになっています。

そのクレーターの縁を歩いて中円部から北側に伸びる長い方形部を確認したあと、クレーターの中心におりました。





もう一度登って西側を見ると高松市街が見渡せます。こちら側にも奥の方に大量の石が積まれていますが、これが盗掘の際に中円部からごっそり運び出された石の山なのでしょう。



クレーターの縁を進むと南側に伸びる方形部を確認できました。結構長く伸びています。



この大盗掘は明治43年という極めて最近に起こったことで、鉱山試掘を偽った計画的な犯行だったようです。現在ほどに文化財に対する理解や保護・保存の意識はなかったと思うものの、これは行政の失態だな。

急勾配の積石を慎重に降りて次に向かいました。次は姫塚古墳。全長43mの積石塚の前方後円墳で築造は4世紀前半。ここは立入禁止になっていました。ロープの外側から後円部と前方部から後円部を見た様子をとりました。





次は小塚古墳。全長17mの積石塚の前方後円墳。古墳群で最も小型の前方後円墳で4世紀の築造。ここは崩れた積石が散乱していて墳形を確認できませんでした。





次が石船塚古墳。全長57mの積石塚の柄鏡式前方後円墳で4世紀後半の築造。後円部から登ってみると真ん中に割竹式石棺が残されていました。







墳丘上から高松市街が見渡せますが、逆に下からこれらの古墳を見ることができたのでしょうか。現在は木々が生い茂っているのでまったく古墳の存在がわかりませんが、もし禿山なら見えるのかもわかりません。そんなことを検証された研究者の方はいないのかな。



最後が鏡塚古墳。全長70mの積石塚の双方中円墳で4世紀前半の築造。猫塚古墳に次ぐ規模で、尾根の最も高い所に立地しています。中円部に登ると平らに石がならされています。猫塚古墳の中円部もこんな感じだったのでしょうか。ここは両側に伸びた方形部がよくわかります。







石清尾山古墳群での古墳見学は以上ですが、この山塊はすべて急峻な岩山で、ここに大きな古墳を造ろうと思っても必要とする土を得ることができなかったと思います。だから仕方なく石を使ったのでしょう。




積石塚をいくつも見ていると、おそらく土を盛るよりも石を砕いて積み上げていく方が大変だと思いました。そうまでしてこの山の上にたくさんの古墳を造った理由は何でしょう。この3日間で多くの古墳が丘陵や山の上に造られているのを見てきましたが、石清尾山はそれらと同列に考えることができません。

4世紀に大規模かつ双方中円墳など多様な積石塚の古墳が築造され、5世紀中頃になると積石塚が小さい円墳になり、5世紀後半には積石塚が造られなくなって、その後100 年間は古墳の築造が途絶えます。そして6世紀後半になって横穴式石室の盛土墳が造られるようになる。石清尾山古墳群はこのような経過をたどったようです。

山を下りる前に見た展望台からの眺めが素晴らしかったなあ。



車で下山する途中、峰山ハチミツというお店がありました。いったん通り過ぎたものの、岡田さんと私の阿吽の呼吸で引き返し、休憩することにしました。おじさん3人で蜂蜜ヨーグルトアイスを注文、爽やかでまろやか、美味しかったです。




これで計画していた3日間の行程はすべて終了です。でも時刻はまだ12時前。ここで大失敗をしていたことに気がついたのです。快天山古墳から六ツ目古墳までは車で20分ほどなのに行程表では2時間もかかることになっていました。行程を変更したときにタイムスケジュールを変更するのを忘れてしまったようです。あと2時間分、どこかに行くこともできたのですが、アイスを食べたこともあって気持ちが終了モード。「以上、終了」としました。

山を下りて、岡田さんおススメの「さぬき一番」というお店でランチです。カレーうどん定食560円はコスパ最高でした。



このあと、栗林公園内の土産物屋さんでお土産を買って岡田さん宅にお邪魔しました。帰りのバスの時間までたっぷり3時間ほどの反省会。私にとって今回の実地踏査ツアーは、讃岐・阿波が思っていた以上に重要な地であることを実感できたこと、前方後円墳の成り立ちに関する様々な気づきが得られたことなど、これまででいちばん満足度の高いものとなりました。

岡田さん、3日間の運転、お疲れさまでした。また、お宅にお邪魔させていただき、ありがとうございました。

日曜日ということもあってか、帰りのバスは満席でした。高速道路から見えた屋島、その名の由来になった屋根のような特徴的な形はこれまでに何度も見ているけども、香川に来た記念に1枚撮っておきました。



佐々木さんはOCATで下車、私は最終の南海難波で下車、ともに無事に帰宅してすべての予定が終了。皆さん、お疲れさまでした。

(おわり)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑥

2023年05月07日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、2日目夕方の部のレポートです。

阿波での踏査を終えたあと、新しくできた新猪ノ鼻トンネルを通って阿讃山脈を縦断する快適なドライブで再び讃岐へ入り、讃岐平野の西にある有岡古墳群を目指します。まずは情報収集のため善通寺市役所のとなりにあるZENキューブ(善通寺市総合会館)内にある善通寺市立郷土館に行きました。

郷土館は2階の一画にある小さな施設ですが、迫力ある展示と丁寧な解説で郷土の歴史を学ぶことができる素晴らしい資料館です。





勉強中の縄文時代や展示資料の豊富な弥生時代も興味があったのですが、古墳時代の充実した展示は特筆ものでした。













3人が入室すると職員のおばさんが迎えてくれました。お願いしていないにもかかわらず一所懸命に展示の説明をしてくれます。でも、それがなかなか要領を得ない。私と佐々木さんがスルーする中で岡田さんはきちんと受け答えしていました。すると途中で職員さんから館長さんを紹介され、話が余計にややこしくなります。館長さん、讃岐弁で早口にしゃべるのでなかなか理解が追いつかないのです。

それでもわかったこと。
・王墓山古墳から出土した銀象嵌のある鉄剣は橿原考古学研究所に分析してもらった
・銀象嵌を施すと圧がかかって刀が反るので両面から微妙な力加減でたたきながら調整している
・善通寺の道路がすべて30度傾いているのは南海道が善通寺に突き当たるように設けられたことに由来する
・これによって昔からの善通寺市民の方向感覚は30度ずれている
・弘法大師(空海)は讃岐の豪族、佐伯氏の子で、父の名「善通(よしみち)」に因んで善通寺と名付けた

時間が十分にあればもう少し有効な会話ができたかもしれず、結局どっちつかずの少しもったいない時間になってしまいました。でも、お二人の熱意は十分に伝わりました。ありがとうございました。最後に職員さんが、1階に磨臼山古墳から出た割竹形石棺が展示されているので是非見て行ってください、と教えてくれました。



ZENキューブを後にしてまず王墓山古墳へ向かいました。王墓山古墳は全長46mの前方後円墳で6世紀前半の築造とされています。見事に整備された美しい古墳です。





両袖式の横穴式石室の中に「石屋形」があります。石屋形は九州ではよく見られるものの瀬戸内・四国地方では類例が少なく、 九州地方との交流が認められるとされます。石屋形とは石室内に設置された板石の組み合わせによる遺体安置施設(屍床)のことです。



また、石室内で見つかった金銅製冠帽と銀象嵌入鉄刀はヤマト王権が配下に入った豪族に下賜したものとされ、被葬者はヤマト王権と強いつながりを持った有力豪族と想定されます。



なお、古墳の周辺には陪塚と見られる小円墳7基があったらしいのですが現在では失われています。





佐々木さん、少しお腹が、、、

後円部を囲むように弥生時代終わり頃の箱式石棺や竪穴石室が10数基も見つかっています。この古墳の被葬者につながる一族の墓なのでしょうか。




次はすぐ近くにある宮が尾古墳。6世紀後半あるいは7世紀初頭に築かれた径20mの円墳で、石室内で、人物、船、騎馬人物、船団や殯の様子などを表したとされる四国では珍しい線刻壁画が確認されています。





古墳の向こうにそびえる山が我拝師山。郷土館で銅鐸が出た山として紹介されていました。古墳のすぐ横には横穴式石室と線刻壁画が復元されていました。





また、この古墳の調査中、すぐ隣りで破壊された石室が偶然に見つかりました。





この石室の左手下部にも線刻画が見つかったそうですが、復元された石室で見つけることができませんでした。





ここも史跡公園として整備されており、我拝師山を背にして2基の古墳を眺める光景は一見の価値ありです。

次はこの日のフィナーレとなる野田院古墳。Googleナビが示した宮が尾古墳からの最短経路に従って大麻山を登ることになったのですが、これが大失敗。車一台がやっと通れる細い道、両脇の木々がパタパタと車体にあたる。ちょっと遠回りしても通常ルートで登ればよかったと後悔。岡田さんには申し訳ないことをしましたが、なんとか大麻山頂上近くの野田院古墳に到着。

野田院古墳は3世紀後半に築造された全長44.5mの前方後円墳。後円部が径21m、高さ約2mの積石塚になっています。後円部だけが積石塚という不思議な前方後円墳です。






3世紀後半に西讃岐にも前方後円墳。東讃岐には津田古墳群のうのべ山古墳、阿波には宮谷古墳、吉野川中流域の東原遺跡に前方後円形積石墓と、讃岐と阿波には3世紀後半時点で前方後円墳あるいは前方後円形墳墓が存在したことがわかりました。感覚的には、これら前方後円墳が大和、もしくはそれに類する大きな権力の影響を受けたもの、という印象がなく、それぞれが自らの意志で築造したように感じました。

そして全国には、3世紀後半よりも早い3世紀前半あるいは中頃のものと考えられる前方後円墳(あるいは前方後円形墳墓)がたくさんあります。このことは前方後円墳の由来や意味を考えるにあたって極めて重要な事実であると思うのです。讃岐・阿波の3世紀後半の前方後円墳と同様、これら全てが大和の影響であるとは考え難い。このことは別の機会に考えてみることにします。

展望台に上ると伊予から吉備まで見渡すことができます。







古墳に近づくと後円部の積石の精巧な状況がよくわかります。もちろん現代の技術で復元されたものですが、どうやら築造当時すでにこの状態だったようです。





さて、以上でこの日の踏査は終了です。今から思うと磨臼山古墳にも行っておけばよかったかなと少しだけ後悔。それにしても岡田さん、朝からの長距離運転、最後の大麻山林道の走破、お疲れさまでした。おかげでもこの日も予定の行程を完了させることができました。

晩ご飯は岡田さんが予約してくれていた高松市内にある「弁慶」というお店。




ボリューム満点、味も良し。いいお店でした。


(3日目につづく)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑤

2023年05月03日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、ツアー2日目のつづき。

2日目は朝から、渋野丸山古墳、大代古墳、宝幢寺古墳、天河別神社古墳群と見てきて、次はこの旅で一番楽しみにしていた萩原墳墓群です。前方後円墳をはじめとする様々な思考において何度も登場する遺跡なので一度は見ておきたいと、と思っていたところです。

天河別神社古墳群のとなりの尾根、距離にして200mほどのところです。


(さぬき市古墳勉強会のサイトよりお借りしました)

1号墓はこの場所でしたが、残念ながら手前の道路を建設する際に破壊されました。また、そのときに尾根の先端も削られたものと思われます。2号墓はこの丘の上です。



前日、レキシルとくしま(徳島県立埋蔵文化財総合センター)で1号墓の出土品や写真を見たのと、宝幢寺の境内に移築された石室を見ておいたので、想像の世界で復元しました。






2号墓が尾根の上に残っており、南側の尾根先端部に前方部を向けています。1号墓・2号墓ともに弥生時代終末期の3世紀前葉の築造とされます。



急な登り坂を上がっていくと頂上付近で礫が崩れ落ちるように散乱していました。積石に使われていたものかな。




埋葬施設があったと思われる部分に東西方向に礫が積まれていて、いかにもという感じです。上は南側(前方部側)から、下は北東側から撮った写真。




おそらく前方部と思われるところ。上の礫が積まれた部分以外は何が何だかよくわからない状態です。



後円部先端の一段下がった位置から。1mほどの高低差があるので、これが墳丘の高まりなのでしょうか。



写真をいっぱい撮ったものの、あとで見てみると真ん中の埋葬施設部分以外はどこを撮ったのやらよくわからない。南側の木々の間から徳島平野が見えたのが印象的でした。



2号墓の重要な特徴は、積石塚であることはもちろんですが、前方後円形の墳墓であること、石囲いの埋葬施設をもっていたこと、3世紀前葉の築造であること、石材から採取された朱が中国産であると判明したこと、などです。

ここの石囲いの埋葬施設が隣の天河別神社1号墳に、前方後円形が4号墳に受け継がれました。さらに3世紀中頃の纒向のホケノ山古墳がそれらの特徴を備えていることから、阿波とヤマトの強い関係が想定されています。

ただ、現地を見た印象としてそれらを実感することができませんでした。墳丘の範囲や形などが現在の状況と比較できる形で説明したものがここにあれば、あるいは、せめて前方後円形がわかるように少し復元しておいてくれれば、と思いました。さらに、調査時の資料などを検索しても見つけることができませんでした。とはいえ、阿波や讃岐とヤマトの関係をしっかり考えてみたい衝動にかられているので、近いうちに時間をかけて調べてみようと思います。

かなりの消化不良、後ろ髪を引かれる思いでここを離れ、少し早い目のランチを取ることにしました。岡田さんおすすめの徳島ラーメンを食べようということになって、Googleでヒットした「やまふく」というお店に入りました。




少し味の濃いラーメンでしたがしつこくなく、美味かったです。さて、ここから吉野川に沿って西に1時間と少し走って到着したのが徳島県三好郡、吉野川北岸の足代東原遺跡。1基の前方後円形積石墓と36基以上の小型円形積石墓からなっている弥生時代後期から終末期の積石墓群です。




前方後円形積石墓は全長16.5m、主体部は未発掘であるものの組合せ石棺と推定されています。現地に立っていたふたつの説明板はいずれも東みよし町教育委員会によるものですが、一方は弥生時代終末期の築造とし、もう一方は古墳時代初頭となっていて見解が揺れているようです。東みよし町のサイトでは後者の見解をもとに最古の積石塚古墳としています。同じ場所に立つ同じ機関による説明板としては混乱を招くだけなので改善を望むところです。



前方後円形の積石塚はたしかに形はその通りなんだけど、とくに前方部にあたる部分は積石というよりも石を敷き詰めただけという感じ。これを古墳というのは少し無理があるなあ。

円形墓群は直径1.2m程度のものと2.5m前後のものに大別され、出土した土器から前方後円形積石墓よりも少し早い弥生時代後期末の築造とされます。





前方後円墳の原形が3世紀初頭の萩原2号墓とされ、それが3世紀前半あるいは中頃に東方面の大和において同じような墳墓が形成され、反対側の西方面ではこの東原遺跡が形成された、と考えればいいのだろうか。それにしてもこのあたりに3世紀の前方後円形の墳墓はほかに見当たらないようです。4世紀に入ると吉野川の対岸に全長35mの丹田古墳が出現するのですが。

吉野川中流の辺鄙なこの場所に弥生時代の前方後円形の墳墓があることに少し違和感を抱きながら次の目的地に向かいました。次は阿讃山脈を越えて再び讃岐の地に入ります。

(つづく)








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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)④

2023年05月02日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月22日、讃岐・阿波への古代史旅の2日目です。

ホテルでの朝食を済ませて7時半にスタート。この日の最初はホテルから車で20分ほど走った渋野丸山古墳です。徳島平野の南部、勝浦川左岸の尾根を利用した全長105mは徳島県下最大、四国でも前日の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模となる前方後円墳。築造時期は5世紀前半頃となっています。




徳島県では古墳時代前期は、このあと行くことになっている吉野川北岸の鳴門・板野地域や、前日に行った宮谷古墳のある吉野川南岸の気延山地域で古墳が築造されていましたが、前期後半からは徳島平野南部の勝浦川下流域にも古墳が築造されるようになりました。



また、中期前半(5世紀前半)になって大規模古墳であるこの渋野丸山古墳が築造され、これを最後に前方後円墳の築造が停止するという状況は、東讃岐の富田茶臼山古墳築造後の状況と同じです。これら大規模前方後円墳の築造はヤマト王権の権力をバックにした豪族首長によるものか、それともヤマト王権から派遣された中央の有力者によるものなのか。讃岐では前者を想定したものの、地元の豪族首長によるのなら、その後継者も前方後円墳を築くのではないだろうか。





前方部の斜面から墳丘に登ってみました。後円部頂上で何気なしに足元を見たときに目に入ったのがこれ。少し湾曲したような感じがするので、たぶん埴輪片だと思う。違うかな。



次は徳島平野を北上し、吉野川を渡って阿讃山脈のふもと、高速道路建設の際に発見された大代古墳。前日の「レキシルとくしま」で石棺を見学しておいたので、それが出た場所を確認したく、同時に墳丘からの徳島平野の眺望も見ておきたくてやってきました。高速道路によって破壊されるところだったのが、貴重な遺跡ということでトンネル工法によって守られた古墳です。




このトンネルの上に、4世紀末頃の築造とされる全長54mの柄鏡形の前方後円墳があるのです。駐車場からトンネルの上に通じる階段があるので登っていくと、、、



がーん😨



なんと階段の途中で鍵の閉まった扉に遮られてしまいました。おまけに、この古墳を見学するには許可が必要だと書いています。知らなかった。事前調査が足りていなかった。残念だったけど、あきらめて次へ向かいました。

ここからは西に向かいます。まずは宝幢寺古墳。宝幢寺という真言宗のお寺の裏にある古墳です。




境内には萩原1号墓の石室が移築されています。




墓地を通り抜けたところに突然に現れます。尾根を切り出したような感じの柄鏡式の前方後円墳で、全長が47m。築造時期は古墳時代前期後半と考えられています。後円部の頂上部には宝幢寺の江戸時代の住職の3基の墓が建てられています。一番下の後円部から前方部を見た写真で柄鏡形というのがよくわかります。







お寺の縁起が古墳との関係で語られるのは珍しいと思います。



このあたりは阿讃山脈から南に突き出す小さな尾根が連続していて、その尾根ごとに古墳が築かれています。次はすぐ西側の尾根上にある天河別神社古墳群です。





社殿の裏側に1号墳、左手に2号墳、隣の尾根の先端に3号墳、その尾根が分かれる付け根の部分に4号墳が並んでいて、この4基が国の史跡になっています。そして3号墳と4号墳の間に7号墳、さらに尾根の根元の方に5号墳以下、数基の古墳があるようです。3号墳のみが前方後円墳で残りは円墳です(4号墳は前方後円墳の可能性も指摘されています)。古墳時代前期前半に4号・5号・1号・2号墳の順で築造され、3号墳が古墳時代前期後半に築造されました。

1号墳は、3世紀末の築造で径25mの円墳。社殿によって一部が削られています。資料によると、墳頂部の竪穴式石室の外縁に二重の石囲い施設があり、萩原1号・2号墓の構造を引き継いでいるらしい。




2号墳は、4世紀前半の築造で径26mの円墳。墳丘上に小さな祠が建っています。




3号墳は、4世紀中頃の築造で全長約41mの前方後円墳。埋葬施設は未調査。尾根の先端部にある前方部を削るようにお墓が建っていました。




4号墳は、3世紀後半の築造で径20~25mの円墳、もしくは前方後円墳の可能性もあるそうです。埋葬施設の礫敷きが確認されています。4号墳のすぐ近くに円錐状に積まれた礫の山が気になったのだけど関係ないかな。




7号墳は4号墳と3号墳の間にあるはずなので、たぶんこの盛り上がりかな。なぜか表示がありませんでした。



5号墳やその他の古墳は竹藪を割って尾根をさらに奥に進まないとだめなようだったのであきらめました。

この古墳群では、3世紀末築造の1号墳が萩原1号墓・2号墓の構造(石囲い)を引き継いでいることが興味深いと思いました。萩原1・2号墓はこのあとに行くのですが、弥生時代終末期の3世紀初頭の築造とされています。そして、もしも3世紀後半築造の4号墳が前方後円墳であるなら、この古墳群の重要性がさらに高まります。萩原墳墓群の隣の尾根にあって、石囲いの埋葬施設、前方後円形という萩原1・2号墓の最大の特徴を3世紀の時点で引き継いだ古墳群になるからです。

古いのから新しいのまで、いたるところに説明板や案内板がありました。





次はいよいよ私にとってのこの旅のメインイベントと考えていた萩原墳墓群です。

(つづく)







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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)③

2023年05月01日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月21日、ツアー初日の夕方の部です。

津田古墳群の次は津田湾にそそぐ津田川を遡った内陸部、高松平野につながる長尾平野の東端にある富田茶臼山古墳。5世紀前半に築造された四国最大の前方後円墳で全長が139m。後円部に近づくと三段築成だというのがよくわかります。




ふもとからの急な階段を登って墳頂に立つと、きれいに整備された墳丘が見渡せます。








5世紀前半にこの富田茶臼山古墳が出現すると先に見た津田古墳群では古墳の築造が停止したといいます。たしかに、1世紀にわたって築造が続いた津田古墳群は4世紀末の岩崎山1号墳が最後の古墳です。このことをどう考えればいいのか。

津田川河口にある津田港は中・近世の商業港として知られているように、津田古墳群の築造を続けた勢力は津田湾を拠点として播磨灘海域の水運を握るとともに海上交易で富を得た海人族だと考えられます。5世紀に入ってさらに勢力を拡大したその後裔が内陸部に進出し、長尾平野一帯を勢力域に加えて統治した。その海人族リーダーがこの古墳の被葬者と考えれば、津田湾臨海部での古墳築造が停止したことの説明ができます。以降、この集団の古墳は内陸部で築造されることになるということです。



そうすると、この集団が臨海部から内陸部に進出する以前、この地は別の集団が押さえていて、海人族は彼らを制して支配下に置いたということなのでしょうか。

午前中に行った森広遺跡群は弥生時代後期に森広の有力者が統治した拠点集落で、その後裔が雨滝山奥古墳群を造営したと考えました。森広遺跡群から富田茶臼山古墳のあるところまでは3キロほどで、さらに雨滝山奥古墳群からも同じく3キロほどです。富田茶臼山古墳を築造した勢力はこの森広集落や雨滝山を拠点とした集団を従えて長尾平野を治めた、と考えることができそうです。

この妄想は、森広遺跡群+雨滝山奥古墳群をひとつの勢力、津田古墳群+富田茶臼山古墳をもう一方の勢力、とする2つの勢力集団を想定した妄想になりますが、全部が同じ勢力であったと考えることもできます。あるいは3つとも違う、さらには津田古墳群と富田茶臼山古墳を別勢力とすれば4つの違う勢力が長尾平野を舞台に覇権を争った、との妄想も湧いてきます。

しかし、雨滝山奥古墳群最大、全長37mの前方後円墳である奥3号墳が4世紀前半の築造で、同じく37mの前方後円墳であるうのべ山古墳はそれよりも半世紀も前の3世紀後半の築造であることから、やはりこれらは別々の勢力だと考えます。

富田茶臼山古墳が四国最大の前方後円墳であることと、津田古墳群はヤマト王権とのつながりが想定されることから、これらのヤマトを背景とした勢力が古くから栄えていた森広勢力を従えたと考えるのが妥当、ということにしておきます。


さて、ここでいったん讃岐に別れを告げて阿波に向かうことにします。時間の関係もあって高速を使って阿讃山脈を越え、翌日からの鳴門板野古墳群の見学に備えた情報収集のために徳島県立埋蔵文化財総合センター(通称レキシルとくしま)を目指します。



ここで見ておきたかったのは、萩原1号墓の出土品、矢野銅鐸、大代古墳の石棺、西山谷2号墳の移設された石室などです。








矢野銅鐸が木製容器に収められていたというのは初めて知った。銅鐸といえば人目につかない山の斜面などにひっそりと埋められた、とよく言われる。専門家でさえ、すべての銅鐸がそのような場所に埋められたかのごとく主張する人がいるけど、それは全くの間違いです。現にこの矢野銅鐸や、すぐ近くから出た名東銅鐸は集落あるいは墓地に埋められている。浜辺や川岸に埋められたものもたくさんある。島根の加茂岩倉や神戸の桜ケ丘、滋賀の大岩山などのイメージが強いんだろうなあ。

この日は平日ということもあって、展示室をほぼ独占して見学することができ、翌日に備えていい勉強になりました。

さて、次はその矢野銅鐸が出た場所を確認に行きます。GoogleMapによると銅鐸出土地は個人の私有地にあって説明板も何もなく、ただこのあたりというのを見るだけ、とわかっていたものの、一度この眼で見ておきたく、岡田さん、佐々木さんにお付き合いいただきました。ところが、です。



帰宅後にこの本を読んでいると、矢野銅鐸出土地を示す地図が掲載されていました。事前にGoogleMapに表示されていた場所が左の黄色の丸、本に掲載されていた場所が赤い丸で、少しずれていることがわかりました。ただ、本来の場所も道路の下なので、どうすることもできませんでした。



この本でもうひとつわかったことがありました。レキシルとくしまで見た銅鐸埋納状況の展示(下に再掲)。これ、なんと実際の出土地を剥ぎ取ったものなんです。貝塚などの剥ぎ取り標本というのはよく見ますが、こんな立体的な剥ぎ取り標本は初めて見ました。さらにこの本によれば、この銅鐸が埋納されたのが弥生時代終末期の可能性が高い、ということです。



そしていよいよこの日の最後、宮谷古墳。銅鐸出土地からはすぐのところです。宮谷古墳は徳島県最古級、3世紀後半の前方後円墳で全長が37.5m。気延山南東端の標高約50mの尾根上に築かれています。阿波で初めて造られた畿内型の前方後円墳で、纒向型前方後円墳に近い平面形をしているとされ、三角縁神獣鏡が出ています。



3世紀後半と言えば卑弥呼の時代。大和の纒向では最初の定型化した前方後円墳とされる箸墓古墳が築かれました。そして、その定型化前方後円墳のひとつ前の形として登場した後円部と前方部の長さが2:1となる前方後円形の墳丘墓が纒向型前方後円墳です。それが3世紀後半の阿波の地に出現しているということは、この時期すでに阿波と大和は強くつながっていた、と考えることができそうです。

さらにもうひとつの妄想。矢野銅鐸が埋納されたのが弥生時代終末期とすると、その後すぐの3世紀後半に宮谷古墳が築造されたことになります。宮谷古墳に葬られたリーダーが率いた矢野集落の集団は、銅鐸を祭器とする農耕祭祀をやめて銅鐸を埋納し、リーダーやその祖先を崇拝する首長霊祭祀を採用した。その新しい祭祀で使われた祭器が三角縁神獣鏡です。

弥生時代後期、各地で銅鐸が埋納されたあとに古墳時代に突入します。つまり、各地で古墳を舞台とした新しい祭祀が始まるわけです。午前中に行った弥生時代後期の森広遺跡群でも銅鐸が出土し、それに続いて奥3号墳で三角縁神獣鏡が出ています。



上が後円部から前方部、下が前方部から後円部を撮影。




三角縁神獣鏡が出た後円部の斜面を真正面から。







標高50mとは思えない眺望。そういえばこの日、ここまで見てきた前期の古墳はほぼ全てが山や丘陵の上に築造されていました。さらに、前期の前方後円墳であるこの宮谷古墳、うのべ山古墳(津田古墳群)、奥3号墳(雨滝山奥古墳群)はともに全長は37m(宮谷古墳は37.5mですが)と、どれも小ぶりな古墳でした。

東讃岐と阿波の古墳時代前期前半の古墳は、①全長40m未満の小さな古墳が圧倒的に多い、➁前方部と後円部の比率がほぼ同じ(後円部:前方部=1:1)、③埋葬施設が東西方向に設けられる、④前方部が尾根の上側に位置する、⑤積石塚である(阿波地方と合わせて阿讃積石塚分布圏 と呼ばれる)、など、在地色の強い古墳が多いとされています。これらは全て資料で確認することができますが、やはり実際に現地に立ってみると、より実感できるし納得がいく。

最後に阿波史跡公園に行ってみると、ちょうど17時を過ぎたところで、職員さんが復元住居の扉を順に閉めているところでした。あえて中を見るまでもないので写真だけ撮って終わりにしました。



以上、初日の予定が終了です。車で徳島市内へ戻ってホテルにチェックイン。すぐに食事に繰り出しました。




なかなか充実した1日でした。岡田さん、運転お疲れさまでした。

(2日目につづく)







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