古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

景行天皇(その9 尾張の勢力)

2017年09月23日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 熊襲討伐の功で天皇の篤い寵愛を受けた日本武尊であったが、次に東国が騒がしくなったときに再び征討担当に任命されることとなった。自分は九州から戻ったばかりで疲れているので次は大碓皇子を派遣してはどうかと奏上したところ、大碓皇子は逃げて隠れてしまった。天皇は大碓皇子を美濃に封じることにして、結局は日本武尊を派遣することにした。

 またしても美濃が出てきた。どうやら景行天皇の時代は美濃や尾張に縁があるようだ。すでに見たように景行天皇は美濃へ行幸して八坂入媛を娶り、その後も美濃国造の娘である兄遠子・弟遠子の姉妹を望んで大碓皇子を派遣したが、こっそり大碓皇子に奪われてしまった。その大碓皇子は東国遠征の件で美濃に封じられた。日本武尊は熊襲討伐において弓の名手である美濃の弟彦公を召集し、弟彦公は尾張の田子稲置と乳近稲置を連れてきた。また、このあと出てくるが、日本武尊は東国遠征に先立って伊勢に立ち寄ったが、その際に倭姫命から授かった草薙剣が尾張の熱田神宮に納められている。さらに東征の途中に尾張に立ち寄って宮簀媛(みやずひめ)を娶った。

 このように景行天皇の時に美濃や尾張と盛んに交流が行われたことがわかる。景行天皇は纒向の日代に宮を置いた。先代の垂仁天皇の宮は纒向珠城宮であった。前者の跡地は奈良県桜井市穴師、後者は桜井市巻野内とされ、いずれも纒向遺跡の東端にあたる。纒向遺跡では大和以外の地域から運び込まれた多くの外来系土器が出土しているが、3世紀末にその比率が高まることと、外来系土器の半数近くが東海地方のものであることがわかっている。この時代の纒向と美濃・尾張との交流、交易が盛んであったことの裏付けと言えよう。このあたりの話、もう少し考えてみたい。

 愛知県名古屋市の北東端にある守山区上志段味(しだみ)に志段味古墳群がある。庄内川が山地を抜けて濃尾平野へと流れ出る部分にあたり、市内最高峰の東谷山(とうごくさん)の山頂から山裾、庄内川に沿って広がる河岸段丘の上に大小の古墳が分布する。4世紀前半から7世紀にかけて、一部の空白期間を挟んで古墳時代を通してさまざまな古墳が築かれた。確認されている古墳は全部で66基、そのうち33基が現存する。現在は名古屋市が「歴史の里 しだみ古墳群」として整備中であり、発掘調査や古墳の復元が進められている。この中のふたつの古墳に注目したい。ひとつは全長115mの前方後円墳である白鳥塚古墳。愛知県で最初に築造された大型前方後円墳とされ、その形は崇神天皇陵と治定されている奈良県の行燈山(あんどんやま)古墳に似ているという。この行燈山古墳はもともと景行天皇陵に治定されていた。古墳の後円部頂上や斜面の葺石の上には多量の石英がまかれて墳丘が飾られ、石英で白く輝いていたことから白鳥塚の名がついたと言われている。もうひとつは東谷山の山頂にある尾張戸(おわりべ)神社古墳。墳径27.5mの円墳で斜面の葺石上には白鳥塚古墳と同様に石英がまかれていた。古墳上には尾張戸神社があり、祭神として天火明命、天香語山命、建稲種命(たけいなだねのみこと)が祀られている。天火明命は尾張氏の始祖、天香語山命はその子、建稲種命は天火明命の十二世孫にあたり、初代尾張国造である小止与命(おとよのみこと)の子で宮簀媛の兄である。いずれの古墳も築造は4世紀前半とされている。これらに加えて愛知県にはもうひとつ興味深い古墳がある。愛西市(旧海部郡佐織町)にある墳径25mの円墳である奥津社古墳だ。これも4世紀前半の築造とされ、尾張国造の領域内では最古とされている。墳頂に奥津社という神社があり、宗像三女神が祀られている。この神社には椿井大塚山古墳出土のものと同范とされる三面の三角縁神獣鏡が所蔵されている。これらの古墳に注目する理由はいずれも築造時期が4世紀前半とされていることである。加えて、大和の大王の古墳と同様式の古墳であること、葺石に石英をふんだんに使う贅沢な古墳であること、大和とのつながりを想起させる三角縁神獣鏡が出たと考えられること、などだ。

 このことから3世紀後半から4世紀前半にかけての時期、尾張の地にはかなりの有力者がいて大和王権との交流が行なわれていたと考えられる。では、その有力者とは果たして景行紀に記される八坂入彦や美濃国造の神骨なのだろうか。尾張戸神社の祭神にあるようにこの有力者はやはり尾張氏であろう。「尾張氏と丹波」にも書いたように私は、尾張氏は大和の葛城に近いとされる高尾張邑を本拠とし、神武東征で功績のあった高倉下(たかくらじ)以来、神武王朝に仕えた氏族であると考えるが、その尾張氏の一部が高尾張を出て丹後へ移り、さらに愛知に移って勢力基盤を築き、結果として丹波国造や尾張国造となっていった。大和において同じく神武に仕えた丹後の大海氏(海部氏と同族か)とのつながりが強く、その関係で尾張氏は丹後へ移ったと考えられる。これまで何度も見てきた勘注系図あるいは先代旧事本紀にはその尾張氏の系譜が記されるが、ここでは先代旧事本紀(以下、本紀とする)をもとに尾張氏の隆盛の様子を見てみたい。


 尾張氏の始祖は先述の通り天火明命で、その子が天香語山命である。本紀によると天香語山命は高倉下と同一とされる。そして天火明命の四世孫に記紀で尾張連の祖とされる瀛津世襲命(おきつよそのみこと)の名が見られるが、奥津社古墳あるいは墳頂にある奥津社との関連を想起させる。奥津社古墳の所在地の住所は2005年に町村合併して愛西市になる前は海部郡佐織町であった。隣接してあま市があり、この一帯は海部氏が丹後から移り住んだところと考えられる。天火明命の二世孫である天村雲命には天忍人命(あめのおしひとのみこと)、天忍男命(あめのおしおのみこと)、忍日女命(おしひめのみこと)の3人の子があって直系が天忍人命であるが、傍系の天忍男命の子が瀛津世襲命である。おそらくこの傍系筋が大和から丹後を経て海部氏とともにやってきたのだろう。奥津社古墳の被葬者は瀛津世襲命で奥津社の祭神も当初は瀛津世襲命ではなかっただろうか。瀛津世襲命の妹である世襲足姫命(よそたらしめのみこと)は第5代孝昭天皇の后になっている。

 さらに七世孫の建諸隅命(たけもろすみのみこと)は崇神天皇の時に出雲へ派遣されて神宝を献上させる役割を担った。この建諸隅命の妹が大海姫命(おおあまひめのみこと)となっており、崇神天皇の妃となった尾張大海媛と同一人物と考えられる。尾張大海媛は神武が崇神側との融和を目論んで差し出したと考えるが、直系の建諸隅命までもが崇神天皇に仕えていることを考えると、尾張氏はこの段階で神武側から離れて崇神側に着かざるを得ない状況にあったのだろうか。

 そして九世孫の弟彦命(おとひこのみこと)は日本武尊が熊襲討伐に同行させた弟彦公であるが、書紀によると日本武尊は弟彦公を美濃から呼び寄せたとなっていることから、この頃には尾張氏は完全に大和から尾張および美濃に本貫地を移していたと考えられる。その後、十一世孫の乎止与命(小止与命)が尾張国造に任命されることとなる。さらにその子が尾張戸神社に祀られる建稲種命で、その妹が日本武尊の妃となった宮簀媛である。本紀によれば建稲種命の子である尾綱根命(おづなねのみこと)のときに尾治(おわり)連の姓を与えられたとあり、それ以降に尾治氏を名乗るようになった。先に瀛津世襲命が尾張連の祖であることが記紀に記されていると書いたが、実は同じことが本紀にも記される。尾張と尾治が同じだとすると、記紀および本紀の記述は尾綱根命が尾治連の姓を与えられたことと矛盾してしまう。本紀の尾張氏の系譜については今一つ腑に落ちない部分がほかにもあるが大きな流れとして捉えることは可能であろうからここでは拘らないでおこう。ともかく、こういう経過を経て尾張氏は美濃・尾張に勢力基盤を設けて大和纒向との関係を築いていった。


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景行天皇(その8 日本武尊による熊襲征討)

2017年09月14日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行天皇による九州平定の話は古事記に収録されていないことから史実ではないという考え方もあるが、私はこれまで書いてきたように、崇神王朝は垂仁天皇の時期までに大和において神武王朝勢力を押さえることに成功したので、次のステップとして彼らの本拠地である九州を攻め落とそうとする戦略に至るのは必然であると思うので、天皇が自ら西征したかどうかはわからないが、何らかの形で九州への遠征が行われたと考えている。その流れがあるからこそ日本武尊による熊襲征討や東国平定の話につながるのだ。景行天皇は九州平定のあとすぐに五百野皇女(いおのひめみこ)を遣わして天照大神を祀らせている。神武王朝の本拠地を制圧したことで彼らの祖先神である天照大神の祟りを畏れたからだ。そして西の次は東ということで、全国平定を目指して武内宿禰を東国へ派遣して視察させたところ、攻略して広大な土地を手に入れようという結論に至った。

 そうこうするうちに熊襲が再び反抗するようになった。先の九州遠征で熊襲の本拠地である熊県を攻め、日向の高屋宮での6年間の滞在をもって襲の国を完全に平定したものの、支配下に置き続けるためには臣下を派遣して統治する必要がある。しかし、どうやらそれを怠ったものと思われる。取石鹿文(とろしかや)、またの名を川上梟帥という熊襲の首領が反抗を企てたのだ。書紀には辺境を侵すことが止まないと記されている。「辺境」とはこれまで何度も触れてきたとおり、狗奴国と北九州倭国との国境、すなわち現在の福岡県・大分県・熊本県の県境付近、書紀にある玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯、と考えるのが合理的だ。

 天皇は弱冠16歳の小碓尊を九州へ派遣した。小碓尊は弓の名手を連れて行きたいと要望し、美濃国の弟彦公(おとひこのきみ)を呼んだ。弟彦公は石占横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子稲置(たごのいなき)と乳近稲置(ちぢかのいなき)を率いてやってきた。小碓尊はどうして弓の名手を望んだのだろうか。九州の狗奴国と北九州倭国の国境付近にある多数の遺跡からは大量の鉄鏃が出土している。狗奴国、すなわち熊襲の軍勢は弓矢に長けた集団だったのだ。それに対抗する必要から弓の名手を要望したのだろう。

 小碓尊による熊襲征討の話は古事記にも記されるが、美濃や尾張から助っ人を呼び寄せた話はなく、伊勢で天照大神を祀る叔母の倭姫命を訪ね、衣服と剣を譲り受けて九州へ向かっている。豊鍬入姫命のあとを受けて天照大神を奉斎しながら各地を遍歴した倭姫命は伊勢で遍歴を終わらせ、その地で天照大神を永遠に祀り続けることを決めた。このことから彼女は伊勢で天照大神を祀った最初の皇女で伊勢の斎宮の起源とされているが、祀られる天照大神は天孫族である神武王朝の祖神である。私は、崇神天皇の時にその神を宮中から追い出し、垂仁天皇の時に畿内から離れた伊勢に封じ込めたことをもって神武王朝と崇神王朝の対立に決着がついた、すなわち神武王朝が崇神王朝に服したことを表していると考えている。九州で勢力を保持する熊襲が神武の出身部族あるいは親戚部族であったことを考えると、小碓尊が倭姫命の力を借りて熊襲を討つという古事記の話は、このことを背景に生まれたのであろう。

 そしていよいよ熊襲討伐。小碓尊は女装して熊襲の宴会に紛れこみ、隠していた剣で殺害するわけだが、記紀ともによく似た手口が記される。ただ、書紀では川上梟帥はひとりであるが、古事記では二人の熊曽建が登場する。いずれが正しいかは定かではないが、この殺害の場面で小碓尊が熊襲から日本武尊(倭建命)の名をもらったことを記紀ともに記す。敵のボスを殺害するまさにその瞬間、お前のような強い者を見たことがないので名前を授ける、と言われてそれを素直に受けるというのは常識的には考えられないが、神武王朝に対する敬意の表れであろうか。ともかくも熊襲の首領を討った日本武尊は同行させた弟彦達に残党を残らず斬らせた。

 こうして熊襲討伐を終わらせて海路、つまり瀬戸内海を通って大和へ戻った。途中、吉備と難波の柏済(かしわのわたり)でその地の首領を討った。いずれも瀬戸内海航路を安全に通行できるようにしたことを言おうとしたのだろうが、よく考えてみると景行天皇はこれより先、九州平定にあたって瀬戸内海を通って穴戸へ着いている。日本武尊自身も熊襲へ赴く際にはここを通っているはずだ。とすると、熊襲を討ったことによって吉備や難波が反乱を起こしたということになる。吉備はもともと隼人系海洋族であり神武一族と同盟関係にあった。難波の勢力も淀川水運を握る三島の勢力と思われ、彼らは瀬戸内海の大三島とつながる一族である。大三島、吉備、難波、三島は神武東征を支援した勢力であり、熊襲と神武の関係はそのまま彼らとの関係にあてはまるのだ。だから熊襲が討たれたことで反旗を翻したのだ。古事記では山の神、河の神、穴戸の神を討ったと記される。

 さて、古事記ではさらにこのあと、出雲に向かって出雲建を討つ話が記載されるが、内容は書紀の崇神紀にある出雲の神宝を献上させる際の話とよく似ている。それにしてもこの古事記の記述は少し唐突な気がする。熊襲討伐という大仕事の後、ついでに出雲を討ったような印象だ。しかも難波まで戻って来た後に出雲に向かうという不自然な設定になっている。古事記は全国統一を全て日本武尊の成果にする意図があったのだろう。

 熊襲を討伐した日本武尊は次に東国平定の旅に出ることになる。


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景行天皇(その7 九州平定④)

2017年09月06日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 八代県豊村(現在の熊本県宇城市)のあとは有明海を越えて高来県(島原半島一帯)へ、そこから再び有明海を戻って玉杵名邑(熊本県玉名郡および玉名市)に至り、土蜘蛛の津頬を殺害した。その後、内陸部へ移動して阿蘇国に到着した。当ブログの第一部の「倭国vs狗奴国 戦闘の様子」で詳しく見たように、玉杵名邑から阿蘇国にかけての一帯には狩尾遺跡群、池田古園遺跡、池田遺跡、下山西遺跡、西弥護免遺跡など、大量の鉄器や鍛冶遺構が検出された弥生時代の遺跡が密集している。奥野正男氏はその著書の中で、弥生時代後期後半から終末期にかけてこれらの遺跡から鉄族を中心とする大量の鉄器が出土する事実から、三世紀頃のこの地域において軍事的緊張が続いていたことが想定される旨のことを書かれている。ここは狗奴国と倭国の戦闘における狗奴国側、すなわち熊襲・隼人勢力の前線基地のあったところだ。景行天皇は的確に敵勢力の拠点を攻めていると言える。
 阿蘇国に阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。阿蘇津彦は肥後国一之宮の阿蘇神社の祭神である健磐龍命(たけいわたつのみこと)と同一神とされる。その阿蘇神社には阿蘇津姫も祀られている。阿蘇神社では健磐龍命は神武天皇の子である神八井耳命の子、すなわち神武の孫と伝えられているという。やはりこの地は神武勢力の領域なのである。景行天皇からみると敵側である神武の系譜にある阿蘇津彦、阿蘇津姫を土蜘蛛や賊として扱わずに神として敵でも味方でもないように書いている。これもまた万世一系を演出した書紀の矛盾の表れである。
 阿蘇津彦、阿蘇津姫が祀られる阿蘇神社は先の熊本地震で社殿が倒壊するなど甚大な被害を被り、現在は復旧の真っ最中である。

 阿蘇から再び有明海方面に向かった天皇は筑紫後国御木(大牟田市三池町)に到着し、仮の宮を設けた。大牟田市歴木(くぬぎ)町 の高田公園内に高田行宮跡の記念碑が建っている。書紀に長さが970丈もある長大な倒木の話が記載されている。天皇が「何の木だ」と尋ねたところ、老人が「歴木である」と答えた。天皇は「珍しい木で神の木だ」と言った後に「この国を御木(みけ)と名づけよ」と言ったことから当地の地名は御木となり、それが三毛→三池と変化した。三池町の隣の歴木町の名もこの書紀の逸話によるものだろう。高田行宮跡地の決定においては、この付近で地中に埋まった古代のクヌギが時々産出されることが大きな要因になったという。

 次に八女県(現在の福岡県八女郡あるいは八女市)に着いた。八女市矢部村には八女津媛神社がある。峯が重なる美しい山々を見た景行天皇が「あそこに神がいるのか」と聞いたところ、水沼県主である猿大海が「八女津媛という女神がいる」と答えた。この媛はおそらく神夏磯媛と同様、この地を牛耳る女首領であろう。とはいえ、土蜘蛛や賊ではなく神とされていることから、阿蘇津彦・阿蘇津姫と同じく神武勢力側の人物ではないだろうか。
 そしていよいよ九州平定の最終目的地である的邑(現在の福岡県うきは市)に到着して食事をとった。そして翌年、天皇はようやく大和へ戻った。景行12年に開始した西征は足掛け7年を要した。

 さて、あらためて九州平定の行程地図を見てみよう。南九州に足を踏み入れていないことは前回書いたとおりだが実はもう1ヶ所、踏破していないところがある。それは北九州の玄界灘沿岸各地である。ここは魏志倭人伝にある末廬国、伊都国、奴国、不弥国が並ぶ地域で、私が北九州倭国とよぶ地域である。これらの国々は邪馬台国、すなわち崇神王朝を盟主とした連合国家を形成していた。つまり邪馬台国の王は連合国の王でもあり、それが景行天皇であった。したがって、これらの国々が平定の対象となるはずがなく、当然のごとく西征の空白地帯となっているのだ。


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景行天皇(その6 九州平定③)

2017年09月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 前回、神夏磯媛は中臣氏の遠祖である天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔ではないか、という全くの想像話を書いた。時代は少し下って仲哀天皇の9年、仲哀天皇は熊襲を討とうと筑紫へ向かったが、ここで神功皇后に神が憑依して新羅を討てと告げた。しかし天皇はそのお告げに反して熊襲を討とうとしたが失敗に終わり、その直後に崩御した。その後、神功皇后は山門県(やまとのあがた)で土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺した。そのとき媛の兄である夏羽(なつは)が決起したが、妹が殺されたことを聞いて逃亡したという。若八幡神社の由緒によると、このときの夏羽は神夏磯媛の後裔であるとされている。ということは妹である田油津媛もまた神夏磯媛の後裔ということになるが、景行天皇の軍門に下った神夏磯媛の後裔が2代あとの仲哀天皇のときには土蜘蛛と呼ばれて討伐対象となっているのは少し解せない。一度は天皇家に従った神夏磯媛であるが、後裔が反抗して再び天皇家に敵対する勢力となっていたのであろうか。

 さらに、神武東征のときに菟狭津媛とともに神武一行を歓待した菟狭津彦を考えてみる。菟狭津彦・菟狭津媛は神武一行を歓迎するために菟狭川の上流に一柱騰宮を設けた。そして景行天皇のときになってこの菟狭川の上流は鼻垂という賊の拠点となっていた。もともと菟狭津彦はこの菟狭川流域を拠点とする首長であり、九州での倭国との戦闘で狗奴国を支えた勢力であると考えるが、神武王朝側の勢力であったため、敵対する崇神王朝3代目の景行天皇からみると鼻垂と呼ばれる賊として討伐対象とされたのであろう。菟狭津媛の後裔である神夏磯媛が菟狭津彦の後裔である鼻垂を敵勢力に売ったことは理解が困難であるが、前回書いたとおり、藤原不比等の遠祖による九州平定の手柄話と考えればあり得るか。いずれにしても想像の域をでる話ではない。

 さて、景行天皇一行は豊国のあとはそのまま南下して日向国へ向かっている。西都原古墳群との関連はすでに書いた通りである。
 日向の次は熊県(現在の熊本県球磨郡)に向かっているが、ここはまさしく熊襲の本拠地である。人吉盆地では熊襲の土器と言われる免田式土器が多数見つかっている。この免田式土器はその形状から中国の煮炊き用の器具である銅ふくを模倣したものと考えられ、その起源は大陸に求められるという。また、免田式土器が最初に出土した同じあさぎり町にある才園(さいぞん)古墳からは中国江南地方で鋳造されたとされる金メッキが施された鏡も発見されている。この熊県は大陸とつながる独自の文化を形成した一族である熊襲の拠点である。景行天皇は熊襲の本拠地を攻撃したのだ。

 その後、球磨川を下って八代海に面する葦北(現在の熊本県葦北郡)へ出て小島で泊まって食事をとった。山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖先の小左(おひだり)を呼び寄せて冷たい水を奉らせようとしたが、水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。球磨川の河口近くに水島の地名が見られる。現在は干拓が進んだためにほとんど陸続きになっているが、古代には海に浮かぶ島であったと思われる。

 一行は再び船に乗って火国に着き、八代県豊村(現在の熊本県宇城市)に上陸した。熊県のあとは九州の西側を北上しており、行程をプロットした地図をみるとよくわかるが、九州南端の大隅半島および薩摩半島には向かっていないのだ。日向の高屋宮に6年滞在して襲の国を完全に平定したという記述に加えて、熊襲の本拠地である熊県を攻めていることから熊襲を討ったことは想定されるが、実は九州南端を避けているのだ。ここは熊襲と同種族とされる隼人族の本拠地である。熊襲を討ったものの、いわば親戚関係にある隼人を討たないのはどういうことであろうか。実はここに書紀の矛盾が表れている。

 隼人の本拠地である南九州のこの地は、書紀において天皇家の祖先とされる瓊々杵尊が天孫降臨を果たした場所である。また、薩摩半島には瓊々杵尊が天孫降臨のあとに向かった笠沙岬があるが、ここは大陸からやってきた天孫族が実際に流れ着いた場所である。景行天皇にとって熊襲が敵なら隼人も敵であり、本来ならこの九州南端の地も制圧対象となるはずである。とくに隼人は天孫族そのものであり、大和で敵対した神武王朝の祖とも言える一族だ。崇神王朝にとってはどうしても討たなければならない相手であるはずだ。しかし、実態としては対立していた両王朝であったが、書紀においてはその編纂方針により、並立ではなく縦に並べて万世一系としているため、天孫降臨のあった隼人の地は崇神王朝にとっても故郷の地ということになる。自らの祖先の地を攻撃したと書けるはずがないのだ。




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景行天皇(その5 九州平定②)

2017年09月02日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行18年、天皇はさらに進んで熊県(くまのあがた)、現在の熊本県球磨郡に到着した。兄熊(えくま)・弟熊(おとくま)という土着の豪族の熊津彦兄弟がいたので呼び寄せたところ、弟熊が来なかったので派兵して誅殺した。

 その後、海路で葦北の小島に泊まった。現在の熊本県葦北郡である。この島には水がなかったので天神地祇を仰いで祈ると崖の傍から水が湧き出したという。このことからこの島を「水島」と呼ぶようになった。葦北から再び船に乗って火国(ひのくに)に着き、八代県豊村、現在の熊本県宇城市に上陸した。

 高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)へ渡り、ここで土蜘蛛津頬(つちぐもつつら)を殺した。高来県は現在は長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市などに再編されているが、明治まで高来郡が、平成の市町村合併までは北高来郡や南高来郡が郡名として残っていた。玉杵名邑は現在の熊本県玉名郡あるいは玉名市である。

 そして阿蘇国に到着した。阿蘇津彦と阿蘇津姫の二柱の神がいた。さらに進んで筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木に着いた。御木は現在の福岡県大牟田市三池町である。ここに高田行宮(たかたのかりみや)を設けた。次に八女県に着いた。現在の福岡県八女郡あるいは八女市である。ここで天皇が南の粟岬を見て「峯が重なって大変麗しいあの山には神がいるのか」と尋ねたところ、水沼県主(みぬまのあがたぬし)の猿大海(さるおおみ)が「八女津媛という女神がいます」と答えた。それでこの神の名が地名になった。水沼県主はこのあたりを支配していた土着の豪族で水間氏(水沼氏)の祖とされる。さらに的邑(いくはのむら)、現在の福岡県うきは市に到着して食事をとった。日向の夷守で諸県君の泉媛が大御食を奉ろうとして集まっている場面に出くわして以降、この的邑に到着するまでの行程は全て景行18年の一年間のことである。そして景行19年、天皇はようやく大和へ戻った。


 さて、ここであらためて景行天皇の九州平定の行程を確認し、九州の地図にプロットしてみた。

  ①周芳の娑麼(山口県防府市佐波)
  ②豊前国長峡県(福岡県行橋市長尾)
  ③碩田国(大分県)
  ④速見邑(大分県速見郡)
  ⑤来田見邑(大分県竹田市)
  ⑥柏峡の大野(大分県豊後大野市)
  ⑦日向国高屋宮(宮崎県宮崎市高屋神社)
  ⑧子湯県丹裳小野(宮崎県児湯郡)
  ⑨日向国夷守(宮崎県小林市)
  ⑩熊県(熊本県球磨郡)
  ⑪葦北(熊本県葦北郡)
  ⑫八代県豊村(熊本県宇城市)
  ⑬高来県(長崎県諫早市、島原市、雲仙市、南島原市)
  ⑭玉杵名邑(熊本県玉名郡、玉名市)
  ⑮阿蘇国(熊本県阿蘇郡)
  ⑯筑紫後国御木(福岡県大牟田市三池町)
  ⑰八女県(福岡県八女郡、八女市)
  ⑱的邑(福岡県うきは市)

 


 これを見ると西征のルートがよくわかる。大和から周芳の娑麼まではおそらく瀬戸内海を船で行ったのだろう。ということは、景行天皇のときには淡路や吉備、伊予など瀬戸内海航路の要衝は崇神王朝の支配下に入っていたと考えられる。いずれも神武東征を支援した一族であった。
 九州に渡った一行は豊前国長峡県を皮切りに時計回りに九州を一周していることがよくわかる。長峡県は豊前国に属し、碩田国、速見邑、来田見邑、柏峡大野は豊後国に属するが、豊前と豊後は7世紀末に分轄されるまでは豊国としてひとつの行政単位であった。その豊国の中心にある宇佐は神武東征の最初の寄港地であった。景行天皇が宇佐に滞在した記載はないが、長峡県に行宮を設ける前に偵察隊が討った鼻垂という賊は菟狭川の川上にいたという。菟狭川の川上と言えば、神武一行が宇佐に立ち寄った際に菟狭津彦・菟狭津媛が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を設けて神武天皇を歓迎した場所だ。また、私の考えではこの宇佐は魏志倭人伝に記された狗奴国と倭国(北九州倭国)の戦闘において鉄製武器の供給で狗奴国を支援した、すなわち狗奴国王である神武側についたところだ。景行天皇はこの宇佐の鼻垂を始めとする豊前の賊を討ち、続いて来田見邑を拠点に豊後の土蜘蛛を討った。これによって豊国を支配下におくことに成功した。
 
 
 ところで、鼻垂ら4人の賊のことを告げて降参してきた神夏磯媛はいったい何者だろうか。書紀には非常にたくさんの部下を持つ一国の首領で、八握剣、八咫鏡、八坂瓊と白旗を船の舳先に掲げて降参してきたとある。八握剣、八咫鏡、八坂瓊とは三種の神器である。神夏磯媛は三種の神器を持つ豊前国の首領であり、しかも「神」を名に持つ。福岡県田川市夏吉に若八幡神社があり、祭神には仁徳天皇、応神天皇、神功皇后に加えて 地主神として神夏磯媛命の名がある。神社由緒によると、神夏磯媛は夏吉地域開発の祖神とある。一方で書紀には神武東征の際に中臣氏の遠祖である天種子が菟狭津媛を娶ったことが記される。天種子は天孫降臨の際に瓊々杵尊に随伴してきた天児屋命の孫である。天孫族に近い関係にある天種子と菟狭津媛の間にできた子の後裔が神夏磯媛ではないだろうか。神夏磯媛が祀られる若八幡神社は宇佐からはかなり離れているが、いずれも豊前国である。天種子の系譜は書紀編纂時の実力者である藤原不比等へとつながる。藤原氏の祖先が天皇による九州平定に尽力したことが暗に示されている、と考えるのは想像が過ぎるだろうか。



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