古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

妄想・蘇我氏と継体天皇

2024年11月30日 | 継体天皇

『古事記』『日本書紀』が編纂されるよりも前、推古天皇のときに蘇我馬子と聖徳太子によって『天皇記』および『国記』が編纂された。この史書は大和王権における蘇我氏の地位を確固たるものにする意図を含んで編まれたものと思われる。しかし、645年の乙巳の変において蘇我本宗家滅亡の際に蘇我蝦夷宅に保管されていた両書が焼失したとされ、現在ではいずれの内容も確認することはできないが、船史恵尺が焼かれた『国記』の一部を取り出して中大兄皇子に差し出したとする逸話が残っていたり、仮に蝦夷宅にあったものが全て灰になったとしても他に写本が残されていたはずで、何らかの形で後世に残された可能性が高い。そして、天武天皇のときに始まった『日本書紀』編纂における原資料として利用されたと考えられる。『日本書紀』の編纂は藤原不比等が主導したとされ、藤原氏にとって都合の悪い話や他の氏族を利する話は改変されているとするのが専らの考えである。

さて『日本書紀』によれば、武烈天皇が崩御して後継が途絶えたとき、大連の大伴金村を中心に有力豪族たちが後継天皇を誰にするかを話し合ったことが記される。大伴金村が丹波にいる仲哀天皇五世孫の倭彦王を推挙すると、大連の物部麁鹿火や大臣の巨勢男人などが同意したので招聘に出向いたところ、倭彦王は何を思ったのか、恐れをなして逃亡してしまった。大伴金村は次の策として、越前にいた応神天皇五世孫の男大迹王の招聘を進言すると再び有力豪族がみな同意し、これによって継体天皇即位が実現した。

武烈朝における大伴金村は最も発言権を持つ豪族だったようだ。仁賢天皇が崩御してすぐ、大臣だった平群真鳥は自らが天皇になろうと企んで国政を欲しいままに動かしていた。そんな状況にあって皇太子だった武烈は物部麁鹿火の娘の影媛をめぐって真鳥の子の鮪と歌垣の場で争ったが敗れ、それをきっかけに大伴金村に命じて真鳥・鮪の親子を討たせた。そしてその後すぐに即位した武烈は金村を大連に任じた。そんなことがあって、軍事で王権に仕えてきた大伴氏は武烈の信任を得た金村の時に最も大きな力を持つことになった。

話を戻すと、金村が男大迹王よりも先に推挙した倭彦王は金村にとっては一押しの候補であったはず。その一押しの倭彦王が逃亡という無様な姿を見せたことは、そのまま金村の顔に泥を塗ることであり、彼に対する信用を一気に失墜させる事態であったと言えるだろう。それにも関わらず『日本書紀』は何事もなかったかのように金村が第二候補の男大迹王を推挙する場面に移る。そして他の豪族たちも、傍系皇族の中では一番だと言って賛同する。一押しの倭彦王に逃げられるという失態を演じた金村に対して大連の物部麁鹿火や大臣の巨勢男人は素直に従ったのだろうか。ましてや金村の後ろ楯であった武烈はすでにいない状況で。

『日本書紀』のこの部分の記述はやはり不自然である。金村が推挙した第一候補に逃げられたのであれば、次は同じく大連の物部麁鹿火や大臣の巨勢男人が第二候補を挙げてよさそうであるがその様子はなく、何事もなかったかのように再び金村が第二候補を挙げている。また、そもそも男大迹王が皇族の中で最も後継王に相応しいというのであれば、倭彦王の逃亡劇を記す必要はなく、男大迹王を最初から候補としておけば済む話。倭彦王の話を書き残したために、後継王に最も相応しいはずの男大迹王が第二候補になるという矛盾が生じることになっている。倭彦王が本当に逃げたかどうかは議論のあるところだが、倭彦王を推挙したものの招聘できなかったという大伴金村の失態が事実であることを物語る。そのように考えると、続いて男大迹王を推挙したのは実は金村ではなかった可能性が出てくる。またそれは麁鹿火や男人でもなかった。

冒頭に書いたとおり『日本書紀』は藤原不比等が主導し、藤原氏に都合よく書かれ、逆に藤原氏にとって都合の悪い部分はカットあるいは改変されている。藤原氏にとって都合の悪いことのひとつに蘇我氏の活躍がある。天皇家の外戚となり大和王権で最大の権力を手にした蘇我氏、その蘇我氏が編纂した『天皇記』『国記』にも継体天皇即位について書かれていたはずだ。大伴金村が倭彦王の招聘に失敗した後、越前から男大迹王を招聘したのは蘇我氏だったのではないか。不比等が仕えた持統天皇へとつながる系譜の始まりは継体天皇であり、その継体天皇を即位させたのが蘇我氏であるという事実を不比等は看過できなかった。それで『日本書紀』では大伴氏による事績として改変したのだ。大伴氏による倭彦王の招聘失敗という失態を明らかにするとともに、蘇我氏の功績を消し去る一石二鳥の手を使ったと言える。

また、『日本書紀』では大伴氏が仕えた武烈天皇を極悪非道の天皇として描いているが、これは武烈を暴君とすることで次の継体天皇を正当化しようとする意図による、との説がある。加えて、仁徳天皇の系譜の最後にあたる武烈をそのように描くことで仁徳系列そのものを貶めることにもなっている。前述のとおり、藤原不比等は継体に始まる系譜にある持統天皇に仕える身であるから、このような意図が働いたと言える。

『古事記』によると、蘇我氏は葛城氏などとともに武内宿禰を祖とし、履中天皇のときに蘇賀満智が平群木菟、物部伊莒弗、円大使主とともに執政官として国政を担っている。次に雄略天皇9年(465年)には蘇我韓子が紀小弓、大伴談、小鹿火らとともに新羅征討の大将に任じられて朝鮮半島に渡るものの、同年に紀小弓の子の紀大磐との確執から命を落としている。韓子の子に高麗がいて、その高麗に続く稲目から蘇我氏の勢力が伸長していくことになる。稲目の没年は欽明天皇31年(570年)であるから生誕は早くても500年前後と考えられ、そうすると武烈崩御後に継体を招聘した蘇我氏は高麗ということになる。この蘇我高麗は『日本書紀』にまったく登場しない。満智、韓子と二代続いて登場したあと、高麗をとばして稲目以降は大臣として、また天皇家外戚としての事績が記されることを思うと、高麗が出てこないのはどうも不自然である。仁徳王朝から継体王朝へと移行するタイミングで活躍したであろう高麗の存在が消されているのだ。

蘇我高麗は継体天皇擁立で功績をあげたと思われるが、それは蘇我氏が出雲から出た氏族であったことで実現できた(「◆蘇我氏の出自」を参照)。出雲と越前は日本海ルートを通じて常に往来があったこと、蘇我氏、男大迹王ともに朝鮮半島とのつながりが想定されていること、などから互いのその存在を認識していたと思われる。そして高麗は倭彦王の逃亡劇に乗じて越前の男大迹王を推挙するに至ったのではないか。さらに継体が樟葉宮で即位するとすぐに仁賢天皇の娘で武烈の姉でもある手白香皇女を皇后に立てさせた。高麗は、葛城蟻臣の娘である荑媛の子が仁賢天皇であることを利用して、近しい関係にあった葛城氏を通じて手白香を后にすることに成功した。葛城氏は継体即位の頃、すでに王権の中枢からはずれて没落の途をたどっており、大伴氏や物部氏の活躍を快く思っていなかったであろうから蘇我氏の意向に同調したのだ。

ちょうどこの頃、高麗に子ができた。蘇我稲目である。稲目は高麗の野望を継承し、高麗の尽力によって即位した継体と尾張の目子媛との間にできた子である宣化天皇のときに大臣となった。さらに高麗の働きによって継体の皇后になった手白香が生んだ欽明天皇のときにも引き続き大臣を務めるとともに、娘の堅塩媛、小姉君の二人をともに欽明の妃に入れて外戚として台頭する。一方の大伴氏は倭彦王招聘に失敗した後、継体朝での任那四県割譲がもとで失脚、物部氏は麁鹿火が軍事・神祇を職掌として継体朝を無難に乗り切り、その後の尾輿、守屋へとつなげていく。蘇我稲目は百済から伝えられた仏教を積極的に取り入れようとして神祇を担う物部氏に対抗したが、その政策は子である蘇我馬子に引き継がれ、最終的に丁未の乱において物部本宗家の守屋を討ち、その権力を確固たるものとした。

このように歴史を辿ってみると、乙巳の変で蝦夷・入鹿が討たれるまで続いた蘇我氏全盛時代は高麗による継体天皇擁立によって幕を開けたと言えるだろう。

(おわり)


 



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続・継体天皇の考察⑫(継体天皇の考察を終えて)

2024年10月02日 | 継体天皇
2020年に8回シリーズで考察した際にも味真野伝承や治水伝承に言及し、あまりにも情報を持ち合わせていない中で、足羽敬明が『足羽社記略』の中ででっち上げた創り話だろうと安易に結論づけていた。今回はその『足羽社記略』を含むそれなりに多くの資料に目を通し、自分なりに分析、考察して結論を出した。結論だけ見れば前回と変わらないのであるが、今回はそこそこ達成感のある作業となった。あらためて、その結論は以下の通り。

若かりし頃の継体天皇(男大迹王)は越前の味真野に潜龍していなかった。世阿弥の著した謡曲『花筐』によって地元の人々がそのように思い込み、次々とゆかりのある場所を創り出して700年もの間、語り継いできた結果、それがあたかも事実であると信じられることになった。

さらに、三大河川の治水事業や国土開発事業も継体天皇(男大迹王)によるものではなかった。越前の為政者たちが水害と闘ってきた長い歴史や彼らの功績がひとえに継体天皇(男大迹王)の事績として集約され、長らく語り継がれ、あたかも歴史上の事実として認知されることとなった。

これらの伝承が現代まで生きて様々な資料に記録されることになった大きなきっかけは『足羽社記略』かも知れないが、地元において様々な伝承地が創出され、今なお存在し続け、観光スポットにまでなっている現状を生み出したのは、明治以降に書かれた各郡の郡誌によるところが大きいと思う。



古代史を学んで得た知識をもとに各地の遺跡や神社、さらには今回のような伝承地を巡っていると、本当にこの場所なのか、同じいわれを持つ場所が2つも3つもあるが本物はどこなのか、と思うことがよくある。この場所で起こったことが歴史に書かれたのか、歴史に書かれたことをこの場所で起こったことにしたのか、後者を仲間内では「古代史テーマパーク」と呼んでいる。今年7月、その仲間たちと継体天皇の足跡を辿って近江から越前を巡ってきたが、味真野の地はまさにテーマパークを感じる場所だった。

今回の検討においてひとつ心残りがある。それは『記紀』などとはまったく別の伝承が記されているとされる『真清探當證』を確認していないことである。それによると男大迹王は愛知県の一宮で誕生し、岐阜県の根尾村(現在の本巣市)で育ったとされる。そしてその根尾村にも男大迹王が植えたと伝わる薄墨桜があるという。別の機会に読んでみたい。

最後に、今回の作業の過程で感じたことを書いて終えたいと思う。それは、歴史を考える中で伝承を取り扱うことは大変難しいということ。基本的に人々の口から口へ伝わるもの、いわゆる口伝が伝承の本質である。それを記録された文献から拾い出したとしても、それは文字に変換されたごく一部の情報であり、また逆に記録者の主観によって恣意的に編集されている可能性もあり、伝承が事実か否かを判断する確かな材料になり得ない。また、前述の「テーマパーク」の如く、いかにも物的証拠であるかのように存在する遺跡や遺構、神社など現存する建物でさえも確実性は認めがたく、百歩譲っても状況証拠のひとつでしかない。そう考えると、伝承が事実か否か、というのはそもそも証明できるものではなく、事実であった可能性が高いか低いか、を判断するところまでしかできない。今回はそのことを身をもって理解することができた。

今回の検討において断片的ではあるが古代の越前について様々な情報を得て、さらに地理についても少し知識を得ることができ、より一層この土地に対する興味が深まった。近いうちに今回の検証を兼ねて越前を再訪し、『真清探當證』など別の資料にもあたり、また別のテーマを設定して取り組んでみたい。


(おわり)


<参考文献等> ( ①~⑫の全ての参考文献等 )

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「帰鴈記」 松波正有(享保2年 1717年)
「越前地理指南」 福井藩・編(貞享2年 1685年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「越前国官社考」
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「𠮷田郡誌」 福井県𠮷田郡役所・編(明治42年 1909年)
「丹生郡誌」 福井県丹生郡教育会・編(明治42年 1909年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
「足羽郡誌」 福井県足羽郡教育会・編(昭和18年 1943年)
「古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅
 (https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru)
「織田文化歴史館Webサイト」
 (https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/) 
「福井県神社庁Webサイト」
 (https://www.jinja-fukui.jp/)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
 (https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「風土記が拓く出雲の古代史」 吉松大志氏
「南越書屋Webサイト」 清水英明氏
 (https://nan-etsu.com/)
「玄松子の記憶」
 (https://genbu.net/)
「東安居公民館サイト 東安居地区の史跡・名所」
 (http://www1.fctv.ne.jp/~hiago-k/siseki%20meisyo/higasigomura.html)
「國神神社Webサイト」
 (http://www.kunigamijinja.jp/)
「大湊神社Webサイト」
 (https://echizen-oshima.com/)
「the能ドットコム」
 (https://www.the-noh.com/jp/)
「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」
 (http://kazuo-ichijyogaku.cocolog-nifty.com/blog/)
「越前市Webサイト」
 (https://www.city.echizen.lg.jp/)
「古墳の土木技術」 湯川清光氏
「大阪府立狭山池博物館Webサイト」
 (https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/)
「堤根神社Webサイト」
 (https://tutumine.jimdofree.com/)
「水土の礎 千年の悲願」 農業農村整備情報総合センター
 (https://suido-ishizue.jp/nihon/13/)




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続・継体天皇の考察⑪(継体天皇による治水伝承の検証)

2024年10月01日 | 継体天皇
越前での継体天皇(男大迹王)による治水事業が史実なのか、それとも架空伝承なのか。明確な答えは出せないが、どちらの可能性が高いかという結論まではたどり着きたい。そのために次の2つの視点で検討してみる。ひとつ目は、5世紀後葉の時代に九頭龍川のような大規模河川を治水する土木技術があったのか、あるいは同様の事例があるのか、ふたつ目が、男大迹王はその事業主体、すなわち越前の統治者になっていたのか。

まずひとつ目について。継体天皇(男大迹王)による治水事業が行われたとすれば5世紀後葉と思われるが、その頃の大規模な土木工事と言えば古墳の築造がある。5世紀は古墳時代中期にあたり、大仙古墳や誉田御廟山古墳など大王墓である前方後円墳の規模が巨大化した時期である。巨大古墳の築造では、周濠の構築、墳丘の構築、巨大石室の構築などの技術ほか、工事の前提となる精密な設計技術や測量技術も求められ、これらの技術は河川治水の技術に通じるものがあると考える。たとえば周濠の構築においては、大規模な溝を掘削する、周堤を築く、その周堤が決壊しないように突き固める、といったこと。これは新しい流路を設けて堤防を築く技術に通じる。墳丘の構築においても同様に、大量の土を盛り上げて固め、葺石を敷き詰めて土砂の流出を防ぐことが求められる。巨大な石室構築では、巨石の切り出しと運搬、据え付けが行われるが、こういった技術も応用されたであろう。なお、横穴式石室は6世紀になって一般化するが、すでに5世紀において採用が始まっていた地域もある。そしてこれらの工事の前提として精密な設計や測量の技術が必要となるが、これらはおそらく朝鮮半島からの渡来人に依存していたと思われる。



このように考古学的には巨大古墳築造の技術が治水工事に活かせたことが推測されるが、文献に見える古代の土木工事あるいは水利工事を確認すると、『日本書紀』崇神紀に河内の狭山池のほか、依網池、苅坂池、反折池など多くのため池が造られことが記載され、垂仁紀においても高石池、茅渟池、狭城池、迹見池を造ったほか、諸国に命じて800以上の水路を掘らせたことが記される。仁徳紀には淀川に茨田堤を築いたとあり、これは淀川の流路を安定させるためだったと考えられている。またこのとき、難波の堀江の開削も行われている。『古事記』では応神天皇の時として、この茨田堤築造や難波の堀江開削には新羅からの渡来人(秦人)が使役されたことが記される。崇神天皇、垂仁天皇は4世紀、応神天皇は4世紀から5世紀にかけて、そして仁徳天皇は5世紀前半とされる。

日本最古のダム式ため池である狭山池から出土した樋に使われた木材の年代測定結果が西暦616年伐採のものとわかり、これが現在の狭山池の築造年代とされているが、5世紀の工事技術が大きく劣っていたとは思えない。現在、池の隣接地に大阪府立狭山池博物館が建っており、当時の優れた土木技術を見学することができる。

以上のとおり、継体天皇即位前の5世紀に越前平野を流れる三大河川の治水工事を行うだけの技術があったのか、という点については、それまでに蓄積された土木技術と渡来人がもつ様々な知見を活用すれば十分に可能であったと考える。次に、継体天皇(男大迹王)はその工事を実施する主体者、すなわち越前国あるいは少なくとも坂井郡域を統治する立場にあったのかどうか、について考えてみたい。

母の振媛とともに近江から越前の坂中井に移った継体天皇(男大迹王)は、母方の江沼氏、あるいは父方の三尾氏、さらには三尾氏の後継ともされる三国氏の庇護のもとで育ったと考えられる。とくに三国氏は坂井郡を本拠地としており、この地を治めていた豪族である。『先代旧事本紀』の「国造本紀」に、成務天皇のときに三国国造が任命されたとあるが、『福井県史』はこの三国国造は三国氏であったと思われる、とする。

継体天皇(男大迹王)が越前の治水事業を成し遂げたとするならば、少なくとも5世紀後葉の時点で坂井郡の統治を三国氏から承継していなければならないが、それは三国氏の後継者が途切れない限り可能性はない。三国氏は7世紀の天武天皇のときに八色の姓の最上位である「真人」の姓を与えられていることから、途絶えることなく栄えていたことがわかる。ちなみに『日本書紀』によれば、三尾君堅楲の娘である倭媛との間にできた椀子皇子が三国公の祖先であるとなっている。また、椀子皇子を祀る國神神社の由緒によれば、椀子皇子は継体即位後、その意志を継いで坂井平野の開拓を進めたとある。いずれも継体が即位したことによって創られた話である可能性が高いが、前者からは三尾氏と三国氏の関係が垣間見える。

逆に継体天皇(男大迹王)が統治者として治水事業を指揮したのではなく、三国氏による事業において何らかの重要な役割をもって関与したということであれば、その役割を全うしたとしても自身の功績として都に聞こえるようなことにはならない。むしろ全て三国氏の功績となるであろう。

さらに言えば、治水の対象が九頭龍川だけならまだしも、日野川や足羽川も含めた三大河川の治水となれば足羽郡や丹生郡も関係してくるため、これはもう越前を統治する立場でなければ不可能である。仮にそれが事実であったとすれば、ヤマト王権は彼を天皇として迎え入れるのと引き換えに、その役割を担うべき人物を指名するか、もしくは代わりの者を派遣しなければならないがそんなことにはなっていない。

さて、継体天皇(男大迹王)の治水伝承が生まれた越前平野は古代から水に苦しめられた地域であったことは想像に難くない。九頭龍川が山間部を抜けて坂井平野に流れ出る扇状地の要である扇頂にあたる地域、現在の鳴鹿大堰のあたりや、日野川と足羽川が合流したあと、すぐに九頭竜川に合流する地点などは氾濫が絶えないことは容易に想像できる。また三国港の伝承で河口付近の岩を穿ったとあったが、河口の岩が流れをせき止めることで水が逆流してあふれ出ることもあったかも知れない。越前の古墳のほとんどが丘陵上に築かれているのはこのためだと思われる。農業農村整備情報総合センターのWebサイト「水土の礎 千年の悲願」には、越前平野における水との闘い、あるいは水を介した人々の争いの歴史が書かれている。

古来、この地の歴代の統治者、すなわち九頭龍川、日野川、足羽川のそれぞれの流域を治める豪族たちが渡来人の知恵を借りながら、自らが持つ土木技術を駆使して川の氾濫と闘ってきたことと思う。平安時代になって十郷用水という先進的な灌漑システムを構築できたのも、その歴史の積み重ねによるものと考える。その歴史が人々に刻まれているからこそ、大規模な治水事業や国土開発の成果を天皇となった地元の英雄、男大迹王の功績に仕立て上げたのだろう。それを最初に記録したのは足羽敬明かも知れないが、それは民衆の声を代弁したにすぎないと思われる。


(つづく)


<参考文献等> 

「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
 (https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「古墳の土木技術」 湯川清光氏
「大阪府立狭山池博物館Webサイト」
 (https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/)
「國神神社Webサイト」
 (http://www.kunigamijinja.jp/)
「堤根神社Webサイト」
 (https://tutumine.jimdofree.com/)
「水土の礎 千年の悲願」 農業農村整備情報総合センター
 (https://suido-ishizue.jp/nihon/13/)




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続・継体天皇の考察⑩(継体天皇による治水・国土開発の伝承)

2024年09月30日 | 継体天皇
さて、味真野伝承の始まりとその後の展開を考えてみたが、次に継体天皇が三大河川である九頭龍川・日野川・足羽川を開き、越前平野を開拓したという伝承について考えてみたい。取り上げる文献は古い順に『越前地理指南』(1685年)、『足羽社記略』(1732年)、『越前国名勝志』(1738年)、『越前国名蹟考』(1815年)、『今立郡誌』(1909年)など各郡の郡誌とする。

まず、今回対象とした中で最も古い文献である『越前地理指南』は江戸時代における越前・若狭の地誌を集成した『越前若狭地誌叢書』(1973年発刊)に採録されたものを参照する。この『越前地理指南』は『越前国絵図記』とも呼ばれる。その坂井郡三國浦の項に「此湊の所を掘落すと等ク銚子の口より水を移すことくに漲り落るにより水戸を銚子口と云」とある。

次にあらためて『足羽社記略』であるが、「継体帝水ヲ納メ三大川ヲ定メ玉フ」「継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナル」という簡単な記述が2カ所にあるのみだ。

次に、元文3年(1738年)の『越前国名勝志』を見てみる。この書には「一書の古記」と注釈をつけて、明らかに『足羽社記略』からの引用や参照と思われる記述が随所に見られるのだが、不思議なことにこの治水事業に関してはその注釈がつかない。今立郡の項に「開三大河治水郡郷定メ成ル」、足羽郡の項には「三大河ヲサダメ水徳神ヲ祭リ玉フ」「三大河ヲ開キ玉フ」とあり、さらに𠮷田郡の項にも「三大河ヲヒラキ玉フ」と続き、坂井郡山鹿村の項に「大河ヲヒラキ水ヲオサメ郡郷ヲサダメラルルノトキ三國ミナトノ山ヲキリヒラキ玉ヘハ水悉クウミヘ落テ湖水スナハチ陸地トナル」と記される。

前述の3つの文献をもとに整理すると、「三大河を開いた」が基本形で、その基本形にオマケとして「郡郷を定めた」や「三國の湊を開いた」が付加されて2点セットあるいは3点セットになるケース、また、基本形がなくオマケのみのケースもあるということが言える。

次に、文化12年(1815年)に書かれたとされる『越前国名蹟考』を確認する。坂井郡の巻の鳴鹿山鹿村の項に「三大河を開き水を治め郡郷定めなるの時三國の湊の山を切開き玉へば水悉く海へ落て湖水則陸地と成る」とあって『越前国名勝志』山鹿村の項を継承した3点セットである。また、三國浦の項に「此湊の所を掘り落すとひとしく銚子の口より水をうつすか如くに漲り落るにより水戸口を銚子口といへり」と記載され、これは『越前地理指南』からの引用であり、基本形を欠くオマケだけのケースである。さらに𠮷田郡舟橋村の項で基本形の「三大河を開き玉ふ」が『越前国名勝志』から引用される。

最後に明治時代以降に書かれた各郡の郡誌をあたってみたところ、とくに『坂井郡誌』には次のように多数の記載が見られた。九頭龍川の治水沿革として「三國の港口を開墾し九頭龍日野足羽の三大川を疎通し諸水を導て之を北海に注ぎ以て下民の憂苦を除き併せて後世漕運の利を興されたりと傳ふ是れ蓋し本川治水の嚆矢とす」が3点セット、三國の地名由来としての「三國は水國の義なるべし(中略)此地を堀切り港となし玉ひて後いつとなく三國の港と稱ふるに至れり」はオマケのみ、三國港の起源譚としての「此湊の處を掘り落すと等しく銚子の口より水を移すが如くに水が漲り落るにより水戸口を銚子口と云へり」は『越前国名蹟考』三國浦の項をそのまま継承したオマケだけのケース。三國あるいは三國港の説明で治水事業そのものに触れないのは、三國の人々にとっては開港と治水は別物と考えているのだろうか。

さらに三國神社の由緒として「治水の件は多年の思召立にて寶算四十九年の御時開港の御竣功被為在し」、神明神社の由緒として「國内治水の事業にはいたく御叡慮あらせられ多年の思召を以て日野足羽九頭龍の三大川を開墾し諸方の濫水を當地の西北銚子口へ疎通せしめられたり」、横山神社の由緒にも「郡民をして西の方峡門を穿ち盤石を截ち水を大海に注かしめしかば茫々たる曠野を見るに至れり」とあり、最後に坂井郡の歴史の中で「此の國に在すること五十有餘年東奔西走よく本國の水理を察し遂に雍塞せる湖口を切り開き國内に氾濫せる河水を鍾めて海に注がしむ今の三國の港これなり」として継体天皇に触れるが、これらはいずれも基本形のみ、もしくは2点セットである。

ほかに『今立郡誌』では「汜水を治め給ひし(汜水とは、川の流れが本流から支流に分かれて再び本流に戻ること‥‥筆者付記)」、「三大川を治め給ひし」、「汜水を治め、三大川を開き給ふ」、『足羽郡誌』では「三大川を改修し三國に至りて水門を開き給ひしに、作業甚だ困難なり」、『𠮷田郡誌』では「彼の治水の大恩澤に霑ひしも我郡は定めて多かりなるべし」という具合に記載され、基本形のみ、あるいは2点セットをシンプルに伝える。

各郡の郡誌においては『坂井郡誌』だけが継体天皇による治水事業や三國開港を豊富な文字数で伝えるが、やはりこの伝承のお膝元であり、古代より度重なる水害に苦しめられてきた歴史の裏返しなのだろうか。大袈裟と言っても過言ではない言い回しである。『足羽社記略』においてシンプルな表現だった継体天皇の治水事業の紹介が、新たな文献による引用や参照を重ねる過程で、重厚な修飾が加わっていったと言えるだろう。当初は『足羽社記略』の表現がシンプルすぎるが故に、これが伝承の始まりではなく、さらに古い文献に詳しく書かれているはずと考えたのだが、前述の通りシンプルだからこそ伝承の始まりだったのかもしれない、と考えるようになった。実際のところ『足羽社記略』よりも古い『越前地理指南』には三國開港のことが書かれるものの、治水事業のことが書かれていない。そして今のところ、治水事業が書かれた『足羽社記略』よりも古い文献を見つけることができていない。つまり『足羽社記略』が治水伝承の始まりであった可能性が高いということである。

伝承の始まりが『足羽社記略』だっとして、果たしてこの治水事業は本当に継体天皇(男大迹王)によるものかどうか、あるいは継体即位前の5世紀後葉に本当に行われたのかどうか、次にそれを考えてみたい。


越前国各郡と敦賀郡各郷の位置を示す地図(「織田文化歴史館」Webサイト)


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前地理指南」 福井藩・編(貞享2年 1685年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「𠮷田郡誌」 福井県𠮷田郡役所・編(明治42年 1909年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
「足羽郡誌」 福井県足羽郡教育会・編(昭和18年 1943年)




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続・継体天皇の考察⑨(味真野伝承の誕生と展開)

2024年09月29日 | 継体天皇
701年に制定された大宝律令や757年の養老律令では、笞罪・杖罪・徒罪・流罪・死罪5種類の罪が定められ、これを「五罪」と呼んだ。「五刑」とも呼ばれる。死罪に次ぐ重い罪として流罪があり、これは都から遠く離れた配所に送られて一定期間の労役に服するものであった。罪の軽重により「近流(こんる」、「中流(ちゅうる)」、「遠流(おんる)」の3等級があり、その配流先は「近流」が越前と安芸、「中流」が信濃と伊予、「遠流」が佐渡・伊豆・隠岐・阿波・土佐・常陸の6か国であった。罪が重いほど都から遠いところに流されたわけである。

近流の配流先として越前があるが、味真野がその地だったという。天平12年(740年)頃、中臣宅守が下級女官の狭野弟上娘子(さのおとがみのおとめ)を娶った際、理由は不明ながら越前国への流罪を言い渡された。そのとき二人が交わした相聞歌63首が『万葉集』巻15に収録され、3770番の「味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ」から、宅守が越前の味真野に流されたことがわかる。継体天皇の潜龍とこの歌とは何の関係もないのであるが足羽敬明もこの歌を取り上げて「按スルニ此処ハ継体潜竜ノ時御座ノ地」とする。

なお、中臣宅守のほかに越前に配流された貴人として、平安時代後期の源顕清、鎌倉時代の一条実雅、南北朝時代の上杉重能、室町時代の畠山直宗などがいる。また、『花筐』を著した世阿弥はその晩年に中流の罰により佐渡に流されている。

越前市の味真野地区に味真野神社がある。この神社の変遷はややこしく、もともと式内社の須波阿須疑神社三座があったがその後に三社に分離し、本宮として当社が建てられた。明治時代になってから式内社の小山田神社などいくつかの神社を合祀、さらに味真野神社に改称して今日に至る。したがって継体天皇のほか、建御名方命、大己貴命、事代主命、天照大神などが祀られている。しかも鎮座地は継体天皇の宮跡とされており、さらに足利将軍家の子孫である鞍谷氏の御所跡でもある。また、社殿前には『花筐』発祥地の碑も立っていて、隣接する「万葉の里味真野苑」には主人公の大迹部皇子と照日前の像がある。実に盛りだくさんなスポットであるが、実はこの味真野苑は万葉の里というだけあって、継体天皇よりも先述の中臣宅守と狭野弟上娘子に因んで整備された公園で、ふたりの相聞歌の碑が各所に配置されている。その場所が『花筐』発祥の地というのは偶然ではないだろう。



「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」というWebサイトの運営者(氏名不詳)は「世阿弥は、万葉集に詠われた貴種配流地味真野を舞台に、『日本書紀』の継体天皇を題材にして、謡曲『花筐』を新作した」とするが、同感である。一方、世阿弥が配流地の佐渡からの帰京時、越前を通過する際に味真野に立ち寄った可能性を指摘し、その経験をもとに『花筐』を著したとする説があるが、どうだろう。世阿弥が佐渡に流されたのは1434年、72歳のときで帰京したのが79歳、そして帰京の2年後に亡くなっている。帰路に味真野に立ち寄った可能性はあるとしても、帰京してから死去するまでの2年の間に『花筐』を著した可能性はそれほど高くはないと考える。

余談であるが、鞍谷御所の遺構と考えられる土塁や空堀が味真野神社境内をコの字に囲むように残っているが、足羽敬明はこれを「今ニ土階園囿ノ迹」と記す。

味真野伝承に関してここまでの材料をもとに想像を逞しくして以下のように考えたい。越前の人々にとって6世紀に継体天皇を輩出したことは大きな誇りであった。そして奈良時代に律令制度が始まると、とくに丹南の武生盆地に住む人々は、味真野に貴人が流されてくるという経験を何度も重ねることになる。この2つのことは時代を経る過程で越前の人々と都あるいは都に住む高貴な人々との心理的な距離を縮めていった。さらに室町時代になって能楽の第一人者である世阿弥がその味真野を舞台に継体天皇をモデルにした謡曲を著すと、この地の人々が歓喜したことは想像に難くない。流刑地であった地元が天皇の潜龍地として一躍脚光を浴びることになったのだ。『花筐』にあやかって、あちらこちらで今でいうヒット映画の聖地のような場所が誕生したのではないだろうか。神社の由緒や祭神が書き換えれられ、継体天皇ゆかりの旧跡なる場所があちこちに創造され、桜の樹にまで逸話が加えられた。実際は『花筐』にも登場しない想像の産物に過ぎないが、これがそのまま後世に伝わった。

江戸時代になると足羽神社の社家である足羽敬明が神社の権威を高めようと書いた『足羽社記略』に丹南地域のこれらの伝承を取り入れ、さらには継体天皇にあやかった同様の想像話を越前全土に展開した。『足羽社記略』に書かれる多くのことは根拠を見いだせない作り話であることはこれまで見てきたとおりである。また『足羽社記略』のほかにもこの頃に書かれた『帰鴈記』や『越前国名勝志』、あるいはその後に書かれた『越前国名蹟考』といった書物にも同様の話が収録されることになる。さらに明治時代に入ると越前国各郡の郡誌が編纂されることになるが、情報源として採用されたこれらの文献から引用されたり参照されたりして、想像の産物であった伝承があたかも史実であったかのように扱われることになった。このように想像するのである。


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「帰鴈記」 松波正有(享保2年 1717年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
 (https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」
 (http://kazuo-ichijyogaku.cocolog-nifty.com/blog/)
「越前市Webサイト」
 (https://www.city.echizen.lg.jp/)
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続・継体天皇の考察⑧(味真野伝承に対する疑問)

2024年09月28日 | 継体天皇
味真野潜龍時の伝承についてその信憑性をもう少し具体的に考えてみたい。そもそも男大迹王は味真野に潜龍していたのか、味真野伝承は『足羽社記略』から生まれたのか、あるいは『花筐』に根拠を見出せるのか。以下にいくつかの伝承をあげて考える。

五皇神社
神社が鎮座する越前市文室(ふむろ)町は、味真野地区から谷あいを浅水川に沿って入っていった細長い谷の奥まった一帯である。『今立郡誌』に男大迹王が味真野に潜龍していたときにここに学問所を設けたことが記され、「文室」の地名はこのことに由来するとされる。果たして本当にこんな山奥に学問所を設けたのだろうか。また、もともと文室地区の堂ノ谷に鎮座していたが明治時代に現在地に遷されたという。男大迹王がまだ天皇になるとわかっていない潜龍の時に、あたかも自らが応神五世孫と『記紀』に書かれることが分っていたかのように応神天皇まで遡った先祖5人を祀ったことは俄かには信じがたい。また、この神社は『足羽社記略』に記載がない。



岡太神社
岡太神社は越前市粟田部町にあり、今立郡十四座中で最も古い式内社とされる。『今立郡誌』によると雄略天皇のとき、このあたりが周囲の山々からの激流によって沼のように浸かってしまうことを思慮した男大迹王が三大川を開いて水が流れるようにしたことから、建角身神、大己貴命、国狭槌尊の三柱を勧請したとある。これが事実とするなら少なくとも三大河川の近くに三柱を祀ると思うのだが、どうだろう。周囲の山々というのも岡太神社の周囲ではなく、越前平野の周囲と言う意味だろうから、その点からも鎮座地と由緒のギャップは否めない。なお、この神社も『足羽社記略』に記載されない。岡太神社境内には「継体天皇潜龍之聖迹」の碑が建つ。



薄墨桜
男大迹王が上京する際、前述の岡太神社の桜を形見にするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになったという。そもそも桜の品種として薄墨というものがあるものの、この岡太神社にある薄墨桜はエドヒガンという品種らしい。鯖江市の上河内の山中にも男大迹王が植えたと伝わる薄墨桜があり、現在のものはその孫桜といわれるが、これもエドヒガンである。継体天皇即位からすでに1500年以上が経過するが、エドヒガンはいったい樹齢何年くらいまで生きるのだろうか。それにしても薄墨桜の伝承はあまりに情緒的すぎて、いかにも後世の創作という印象が拭えない。薄墨桜は『足羽社記略』のみならず『花筐』にも登場しないにもかかわらず『今立郡誌』には「男大迹皇子に由緒ある薄墨桜」として紹介されている。

刀那神社
男大迹王が味真野に潜龍していたとき、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀るために建てたのが刀那神社の始まりとする。「継体一族の旧跡」で書いたとおり、刀那神社の論社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所にあるが、鯖江市が上戸口町の刀那神社を式内社に比定しているのはこの伝承によるのかもしれない。『今立郡誌』や『越前国名蹟考』にはこの伝承は記載されず、『足羽社記略』には「其の社を尾花の森と言う」「未だ其の証跡を見ず」とあるが伝承と一致しない。

勾の里
越前市上真柄町は継体天皇の第一皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)生誕の地とされ、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。『足羽社記略』には「勾」が訛って「真柄」になったとあり、皇子が安閑天皇として即位した際、郷里を慕ってその宮を「勾ノ金橋宮」と呼んだとも記される。

檜尾谷町
継体天皇の第二皇子、檜隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地といわれ、昔は「檜王谷」と言われていたが「王」の字を使うことが畏れ多いとして「尾」の字になったとか。皇子が愛でた隈石という奇石が近くの個人宅にある。『足羽社記略』は坂井郡の檜山隈坂(檜山村と隈坂村)が檜隈皇子の御名代とし、安閑天皇同様に大和の宮を故郷の名をとって「檜隈の廬入野宮」と名付けたとある。『越前国名蹟考』の坂井郡の項には熊坂村と檜山村が記載され、坂井郡と言う意味でこちらのほうが妥当性があると考えるものの、『坂井郡誌』によれば「天皇などの存すべきところではあらざる辺土の山中」らしい。



ふたりの皇子の生誕地については『今立郡誌』に詳しく紹介されているが、『日本書紀』をもとに考えると、安閑天皇は継体が16歳のときに誕生、宣化天皇は17歳のときとなる。継体天皇は幼少のときに越前の坂井郡にあった母の実家に移ってきたのだが、16〜17歳という青年期にすでに尾張連草香の娘である目子媛を娶り、坂井郡から遠く離れた味真野に暮らしていたとは到底考えられない。まだまだ三尾氏や江沼氏のバックアップが必要であっただろう。

皇子カ池
花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられ、『今立郡誌』などに記載があるが、前述の通り、両皇子が味真野地区で誕生したという伝承そのものを疑う立場から、この話も同様である。



この皇子カ池や岡太神社の所在地は越前市粟田部町である。『足羽社記略』において「御駕庄」の項に「男大跡部 今云粟田部」とある。また『越前国名蹟考』における「味真野」の説明では「昔は全て此の辺り村里田野、皆味真野にして大跡部皇子の皇居なり」とある。「男大跡部」「大迹部」はいずれも継体天皇である男大迹王のことと思われるが、『花筐』に登場した大迹部皇子の名が使われている。「おおあとべ」が「あわたべ」に変化したということだろうが、ここに味真野伝承における『花筐』の影響を垣間見ることができる。

これらのほかにも味真野地区においては大小さまざまな伝承があるようだが、少なくともここに挙げた疑問を解消する材料が見当たらない以上、ほとんどすべてが創作と言ってもよいのではないだろうか。そしてそれは『足羽社記略』によるものではなく、むしろ『花筐』に由来する可能性があることもわかった。『足羽社記略』は1732年に著された書で、『花筐』は室町時代に遡る。次にさらに時代を遡った『万葉集』から探ってみる。


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
the能ドットコム
 (https://www.the-noh.com/jp/)




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続・継体天皇の考察⑦(越前の継体伝承の出所)  

2024年09月27日 | 継体天皇
『足羽社記略』をもとに5回にわたって、①継体天皇の祖先、后妃、子女など一族の御名代の地(12カ所)、②旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地(9カ所)、③由来のあるとされる式内社が鎮座する地(17カ所)について見てきた。このほかに④一族の誰かの御座所あるいは神霊を祭るとされる地(6カ所)、⑤一族の名前と地名の間につながりが想定される地(8カ所)、⑥その他(3カ所)、については個々の記載内容の紹介を割愛するが結論を言えば、④⑤⑥についても一部でその通りだろうというのはあるが、ほぼ①②③と同様の状況が見出せる。つまり、確実に否定できるものはないが、単なる語呂合わせやこじつけの可能性が高いケースもあり、積極的に肯定できるものもない、ということ。④⑤⑥については以下に地名を挙げておく。

④一族の誰かの御座所あるいは神霊を祭るとされる地(6カ所)
 今立郡‥‥勾、目子嶽
 足羽郡‥‥雄椎村、弓筈社
 大野郡‥‥伊振嶽
 坂井郡‥‥檜山隈坂

⑤一族の名前と地名の間につながりが想定される地(8カ所)
 丹生郡‥‥忍坂村、廣瀬村
 今立郡‥‥朽飯村、御駕庄
 足羽郡‥‥額田、一乗谷赤渕
 坂井郡‥‥本荘、二面村

⑥その他(3カ所)
 今立郡‥‥野大坪村
 足羽郡‥‥足羽川大橋、福井

このほか、継体天皇との関係性は認められないが、主に足羽神社との関係をもとに記載された地名19カ所をあげておく。

敦賀郡‥‥大丹生浦
足羽郡‥‥下馬村、小和清水村、善住山、
     地主神、太上宮、足羽神社馬来田山
齊殿清水、東西下埜、三井、四井、杉森
坂井郡‥‥九頭龍、三國、高木村、木幡、
     根王村、信露貴川、足羽川

さて、『足羽社記略』は足羽神社社家の足羽敬明が継体天皇を利用して足羽神社の権威を高めるために著した書との評価が定着しているが、実際に内容を確認してみると、妥当性があろうと思われる箇所がいくつかあるものの、語呂合わせや強引なこじつけで継体天皇に関係する皇族を引き合いに出している箇所に満ち溢れているとの印象である。越前の国はこれこの通り継体天皇と深く結びついています、その継体天皇が創祀された足羽神社、その継体天皇を祀る足羽神社は言わば越前の守り神です、大いに敬い大切にしなさい、というメッセージが感じられた。

それはそれとして少し意外であったことは、「1.越前における継体天皇の伝承」で挙げたような、一般に広く流布している即位前の継体天皇(男大迹王)にまつわる国土開発や産業奨励の伝承、味真野に潜龍していたときの伝承に関する記載があまりに少ないことだ。以下の通り、わずか数カ所に記載されるのみだった。

今立郡 御駕庄味真野
 此処ハ継体潜龍ノ時ノ御座ノ地。
今立郡 勾
 生ニ子有天下其一日勾大兄(安閑帝)此時ニ生育シ玉フ。
今立郡 目子嶽
 毎年四月五日川上御前ノ祭ト云テ蒜葱ヲ食フ。
足羽郡 弓筈社
 是継体帝ノ水徳ノ神霊ヲ祭ル。
 継体帝水ヲ納メ三大川ヲ定メ玉フ。
 継体帝御弓ノ筈ニテ岩ヲ突キタマヘハ忽冷泉ワキダス
 (中略)其地ヲ酌渓ト云。
坂井郡 檜山隈坂
 継体帝ノ子宣化帝ノ御座所ナリ。
坂井郡 雄島
 継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナルノ功業ヲ封シ祭リ玉フ神是ナリ。

三国に港を開いて様々な産業を奨励したこと、薄墨桜のこと、味真野潜龍のときに岡太神社を創祀したなどが記されていない。もともと、これらの伝承はこの『足羽社記略』から始まったのではないかとまで想像していたのだが、あてが外れた。治水事業に関する書きっぷりも、すでに存在していた伝承をもとにサラっと書いている印象である。治水や国土開発については次稿以降であらためて考えるとして、次にもうひとつの資料として室町時代に世阿弥が著した謡曲『花筐』を確認したい。

『花筐』は継体天皇(男大迹王)をモデルとした大迹部皇子と最愛の女性である照日前を描いた謡曲で、伝承と関連する話が含まれているのではないかと思って読んでみた次第である。照日前のモデルはもしかすると継体妃であった目子媛かもしれない。事実上の正妻であったにもかかわらず、即位後は皇后となった手白香皇女にその地位を譲らざるを得なかった姿が少しダブって見える。以下がWikipediaに記載された『花筐』のあらすじである。

春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹部皇子は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。秋の大和国・玉穂。帝(皇位を継いだ大迹部皇子)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく。

the能ドットコム」というサイトに公開されている『花筐』のストーリーの現代語訳を読むと、即位前の継体天皇が越前の味真野にいたことが書かれているが、伝承にまつわる話としては残念ながらそれ以上のことは何も書かれていない。安閑天皇や宣化天皇が味真野で生まれ育ったことや、岡太神社や五皇神社を創祀した話もなく、薄墨桜も出てこない。うーん、これまたあてが外れたか。

ただし、ひとつ不思議なことがある。継体天皇は幼少期に母の振媛とともに母の実家のある越前にやってきた。その場所は式内社の高向神社のある坂井郡高向、現在の坂井市丸岡町である。九頭龍川右岸(北側)に広がる坂井平野の東端にある。一方の味真野は日野川を遡った武生盆地の東端にあって、高向からは直線距離にして30キロほど南にあたる。

幼い継体はおそらく母方の江沼氏や父方の三尾氏、あるいは実力者の三国氏の後ろ盾のもとで成長し、影響力を蓄積し、行使していったと考えられるので、これら諸氏の拠点から遠く離れた武生盆地の奥まったところに潜んでいたとするのは理解に苦しむ。さらに、目子媛を妃としたあとも尾張氏のバックアップを得るために美濃街道と通じた坂井平野の方が都合がよい。また、越前平野の治水、開拓に尽力したことが事実であるなら、やはりその中心地、すなわち九頭龍川流域に拠点を構えておく必要があるだろう。仮に治水伝承が事実でないとしても為政者の立場にあったとすれば同じことである。加えて、足羽神社が越前の英雄である継体を祀っているのはやはりお膝元に位置していることが大きな理由であろう。



『坂井郡誌』の三國神社の項に「古伝説」として、男大迹王は高向村で幼少期を過ごして成長した後、この三国の地に宮を造って母の振媛とともに移住し、49歳のときに三國港を開港、その9年後に三國の宮を出て即位した、とある。古伝説とはいえ味真野潜龍の伝承と比較するなら、どちらに信憑性を認めるべきか。継体が味真野に潜龍していたとする伝承、あるいはそれを前提とする数々の伝承はやはり事実に基づかないのではないか。もっと言えば、フィクションである『花筐』がそのきっかけになっているのではないだろうか。


(つづく)


<参考文献等>

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅
 (https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru)
the能ドットコム
 (https://www.the-noh.com/jp/)




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続・継体天皇の考察⑥(越前の式内社と継体天皇の関係・後編)  

2024年09月26日 | 継体天皇
前稿では、越前国の式内社114社126座のうち『足羽社記略』に記載される40社44座の社名を紹介した上で、『足羽社記略』に登場する式内社17社から、敦賀郡の石田神社、丹生郡の兄子神社、雨夜神社、佐々牟志神社、麻氣神社、足羽郡の直野神社、分神社の7社について、その記載内容を簡単に確認した。本稿ではその後編として、今立郡の刀那神社、大野郡の國生大野神社、坂門一事主神社、荒嶋神社、坂井郡の毛谷神社、久米多神社、國神神社、絲前神社、大湊神社、英多神社の10社について確認していく。



刀那神社(今立郡)
継体天皇にまつわる旧跡に登場した「茨田」に書いたとおり、刀那神社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所に論社があるが、鯖江市によると上戸口町の刀那神社を式内社に比定している。しかし「其社ヲ尾花ノ森ト云」とあることや、茨田皇女がこの地で薨じたので社を建立して皇女の御霊を祀ったとする社伝からも尾花町の刀那神社(現在の禅定神社)の方が妥当であろう。

國生大野神社(大野郡)
「是乃大埜氏ノ神㚑也」とし、その大埜氏については「此命ノ大埜朝臣者是上毛埜下毛埜君ノ祖也」とする(「埜」はいずれも「野」と同じ)。此命とは豊城入彦命を指す。『記紀』によれば上毛野氏・下毛野氏の祖は豊城入彦命であるが、『新撰姓氏録』によると大野朝臣は「豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也」とある。壬申の乱で活躍した大野君果安や東国征討で名を挙げた大野朝臣東人などを輩出した大野氏と大野郡をつなげたい意図が窺える。福井県神社庁によれば國生大埜神社の祭神は伊邪那美尊と大若生子命となっている。大若生子命は若生子村の名を冠することからこの土地の神であろう。

坂門一事主神社(大野郡)
『足羽社記略』では「坂門一事神社」と記し、坂田大俣王の御名代とした坂戸村(現在の大野市牛ヶ原)に鎮座する。福井県神社庁によれば神社名は坂門一言神社で、祭神は坂田大跨命と一言主命である。坂田大跨王は継体妃である広媛の父で、天神本紀で五部造として饒速日尊に随伴して降臨した坂戸造の祖神とする説もあるようだが定かではない。なお、「一言神」「一事神」「一言主神」「一事主神」など、文献によって異なる名称が用いられる。

荒嶋神社(大野郡)
荒嶋嶽の西麓、大野市佐開に鎮座する。荒嶋嶽は「継体安閑宣化欽明敏達朝廷棟梁之臣物部氏等ノ神㚑ノ坐ス山也」とするが、これらの天皇に仕えた物部氏は、物部麁鹿火、物部尾輿、物部守屋の3名の大連である。福井県神社庁によれば祭神は物部大連ノ霊と天津児屋根命となっているが、天津児屋根命は春日宮との合祀の結果であると思われる。「旧事紀云物部ノ荒山ノ連公ノ弟物部麻作ノ連ハ笑原ノ連ノ祖也」として、荒嶋嶽の麓にある和良比婦村の名称を笑原の訛であるとする。その真偽は定かではないが『足羽社記略』のところどころで物部氏を登場させることは大変興味深い。

毛谷神社(坂井郡)
足羽郡黒龍の項で紹介される。「中古故アツテ當郷櫻井ノ上ノ山ニ改メ祭ル」「今其麓ヲモ毛谷ト云」とあって「桜井ハ継体ノ御子椀子王ノ子櫻井王ナリ」とするが、桜井山の名が桜井王に由来するのかどうか、真偽はわからない。『延喜式』では坂井郡33坐に入っており、坂井郡高屋郷黒龍村毛谷の杜に創建された後に現在地の福井市毛矢に遷座、その後に裏手の櫻井山を寄進されたことが毛谷黒龍神社(現神社名)の由緒に記される。また、男大迹王による三大河の治水工事の際に高龗神(たかおがみ)、闇龗神(くらおがみ)の二柱を祀る毛谷神社が創建され、その後に男大迹天皇が合祀されたとも記されるが『足羽社記略』はこのことに触れない。

久米多神社(坂井郡)
「山アリ陵山ト云フ」「久米田神社(上久米田山ニ有)」「是継体帝棟梁ノ臣大伴ノ大連ナランカ」とする。『越前国官社考』によると、陵山には神武東征の時に大伴連等の祖である道臣命と共に大和で兄宇迦斯を討った大久米命が葬られているらしい。福井県神社庁によれば久米田神社にはまさに大伴金村大連が祀られている。大伴金村は武烈天皇の後継として継体を推挙した重臣である。神社の所在地は坂井市丸岡町下久米田である。

國神神社(坂井郡)
「今丸岡ト云」「継体ノ子椀子王ノ故趾ナリ」「其神㚑ハ國神村ニアリ」「國神ノ神社是ナリ」とする。神社ホームページによると、所在地は坂井市丸岡町石城戸町で祭神は椀子皇子である。由緒には、男大迹王の意志を継ぎ、湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたことにより国土開発の守護神として厚く崇められたと記される。三尾君堅拭の娘である倭媛の子で三国公・三国真人の祖とされることから、越前で影響力を持っていたと考えられる椀子皇子が、父継体の意志を継いだという話はさもありなん。

絲前神社(坂井郡)
「糸媛ノ神㚑ノ在ス処ナランカ」とする。糸媛は応神天皇の妃であるが、先述した通り、坂井郡に応神天皇の所縁があるとは考えにくい。福井県神社庁サイトに絲前神社や糸崎神社は見当たらないことから、現在では廃絶されている可能性がある。ただし、糸崎神社の別当寺といわれる糸崎寺の記録が残っていることから、現在の糸崎寺近辺に鎮座していたと思われる。

大湊神社(坂井郡)
「三尾君等ノ祖神也 今ハ雄嶋三尾大明神ト号ス」とある。神社ホームページによると祭神は三保大明神(三尾大明神)、事代主神、少彦名神、大物主神、三穂須々美神、天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、応神天皇とするが大物主神以降は天正年間、応神天皇は明治45年の合祀となっている。三尾大明神の名から三尾君との関係は窺えるものの、美保大明神あるいは事代主神からは出雲とのつながりも想定される。また「継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナルノ功業ヲ封シ祭リ玉フ神是ナリ」とするが、神社ホームページや福井県神社庁サイトにこのことは記されない。鎮座地は坂井市三国町安島である。

英多神社(坂井郡)
『足羽社記略』の最後の項で、九頭龍川の流れについて荒嶋カ嶽から順に記載する中で「英田(アヤタ)を経」「遂ニ三國ニ至リ海ニ朝宗ス」と記載される。「今布施田ト云」「延喜式ニ英田神社コレ継体帝四代ノ孫薙波王ノ神社」とあることから、福井市布施田町にある熊野神社が英田神社に比定される。しかし、福井県神社庁サイトにそのことは記載されず、祭神は櫲樟日命(くすびのみこと)とする。この神は素戔嗚尊が天照大神の八尺瓊勾玉を譲り受けて化生させた五柱の神の一柱である。九頭龍川河口付近には熊野神社が多く分布し、そのほとんどの祭神は櫲樟日命である。この事実は越前と出雲とのつながりを想定させてくれる。ところで、薙波王は敏達天皇の皇子である難波王の誤りであろうが、語呂合わせにもなっていないにも関わらず継体天皇との関係に言及するのはどうしてだろうか。

以上、前編・後編の2回に分けて『足羽社記略』において天皇家、とくに継体一族との関係性に言及している式内社17社について内容を確認してみた。どれもその内容や両者の関係性を確実に否定できるわけではないが、その根拠が史実として明確になっているものはなく、また、単なる語呂合わせの場合もあり、積極的に肯定できるものはひとつもないと言うのが正直な印象である。


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国官社考」
福井県神社庁Webサイト
 (https://www.jinja-fukui.jp/)
玄松子の記憶
 (https://genbu.net/)
國神神社Webサイト
 (http://www.kunigamijinja.jp/)
大湊神社Webサイト
 (https://echizen-oshima.com/)




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続・継体天皇の考察⑤(越前の式内社と継体天皇の関係・前編)  

2024年09月25日 | 継体天皇
『延喜式』には越前国の神社として114社126座が記載されている。いわゆる式内社である。『足羽社記略』には以下の通り「延喜式ニ云フ」として越前国の40社44座が記載されるほか、近江国の1社も記載される。名称は『延喜式』に記載の名称とし、『足羽社記略』記載の名称が異なる場合はカッコ内に記載。

『足羽社記略』に記載される越前国の式内社
 敦賀郡
  ・天鈴神社
  ・伊部磐座神社(伊部磐倉社)
  ・加比留神社(鹿蒜神社)
  ・丹生神社
  ・石田神社   
  ・信露貴彦神社(信露貴神社)
  ・剱神社
 丹生郡
  ・大山御板神社
  ・佐佐牟志神社四座
  ・麻氣神社
  ・兄子神社
  ・雨夜神社
 足羽郡
  ・直野神社(直埜神社)
  ・分神社(分ノ神社)
  ・足羽神社
  ・杉社郡神社(杉森郡神社)
  ・椎前神社
  ・山方神社(山方ノ神社)
 今立郡
  ・國中神社二座
  ・船津神社
  ・刀那神社
 大野郡
  ・國生大野神社
  ・坂門一事主神社(坂門一事神社)
  ・荒嶋神社
 坂井郡
  ・毛谷神社(毛屋神社)
  ・布久漏神社
  ・柴神社
  ・久米多神社(久米田神社)
  ・己乃須美神社 
  ・意加美神社
  ・國神神社
  ・御前神社
  ・多祢神社
  ・大溝神社
  ・保曾呂伎神社(保曽魯岐神社)
  ・三國神社
  ・高向神社
  ・絲前神社(糸﨑神社)
  ・大湊神社
  ・英多神社(英田神社)

この40社44座のうち、継体天皇をはじめとする天皇家あるいはその近親との関係で記載されるのが上記リストに青字で示した、敦賀郡の石田神社、丹生郡の兄子神社、雨夜神社、佐々牟志神社、麻氣神社、足羽郡の直野神社、分神社、今立郡の刀那神社、大野郡の國生大野神社、坂門一事主神社、荒嶋神社、坂井郡の毛谷神社、久米多神社、國神神社、絲前神社、大湊神社、英多神社の17社があり、それぞれの鎮座地をプロットしてみた。(合祀によって本来の鎮座地が不明な場合は合祀後の神社の鎮座地とするが、神社名は『延喜式』記載の名称を用いる。)



本稿ではまず前編として石田神社から分神社までの7社を確認してみる。

石田神社(敦賀郡)
敦賀市三島にある八幡神社がもともと石田神社と称されていたようだ。「垂仁紀ニ石田祖アリ」とある通り、たしかに『日本書紀』垂仁紀に「五十日足彦命、是子石田君之始祖也」と記される。さらに「継体記日田中皇子」「姓氏録坂田真人」とするものの、継体紀に登場するのは「田中皇子」ではなく「中皇子」であり、『新撰姓氏録』にも坂田真人は「継体皇子仲王之後也」と記される。冒頭で石田神社の鎮座地を「今云田中村」とし「又気比ノ庄朝日ノ市ト云フ」とも記すのは、丹生郡の式内社で現在の鯖江市石田上町に鎮座する石田神社との混同によるものか。丹生郡石田神社のすぐ近くには「田中」「気比庄」「朝日」の地名が残っている。果たしてこれらの混乱は単なる誤りなのか、それとも作為ある虚偽なのか。なお、福井県神社庁によれば敦賀郡石田神社について誉田別尊に加えて配祀される五十日足彦命が石田大神であるとする一方、丹生郡石田神社の祭神は、大日孁貴尊、鸕(茲鳥)草葺不合尊、誉田別尊、大己貴命、少彦名命の五柱とする。

兄子神社(丹生郡)
安閑天皇・宣化天皇の神霊が鎮座する小健山の麓にある神社としている。小健山は「一名日野山又ハ小嶽」とし「兄子神社 小健山ノ梺也」としているので、現在の越前市安古町にある兄子神社ではなく、論社とされる越前市中平吹町茶端にある日野神社とするのが妥当であろう。福井県神社庁によれば兄子神社の祭神は安閑・宣化ではなく穴穂尊(安康天皇)であり、一方の日野神社の祭神は継体・安閑・宣化となっている。由緒には、継体天皇が当国に潜龍し給いし時、二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)を伴って登山され、朝日を拝されてその鮮やかなことに感じ入られ、「此処こそ朝日を拝むべき山である」と仰せられたとの伝説がある、と記される。

雨夜神社(丹生郡)
「続日本紀云宝亀五年二月戊申叙越前國丹生郡雨夜神従五位下 是茨田連神社也 延喜式云雨夜神社」として従五位下を叙された雨夜神を祀る茨田連神社が式内社の雨夜神社であるとする。また「古事記云茨田連ハ神武ノ子 日子八井命茨田連ノ祖ナリ」として天皇家との関係を説いている。天正11年(1583年)に明神大社である越前市大虫町の大虫神社に合祀された。福井県神社庁によれば、その大虫神社の祭神は天津日高彦火々出見尊、鸕草葺不合尊など天孫族系の六柱である。また、丹生郡越前町天王の雨夜神社が論社とされているが、こちらの祭神は雨夜神・保食神となっていて茨田連や日子八井命との関係は確認できない。

佐々牟志神社(丹生郡)
「旧事記云三尾君祖ハ垂仁ノ御子磐撞別命」「堅拭ノ女倭姫皇女此所此四人ヲ祭ル」とする。倭姫は三尾君堅楲の娘である。福井県神社庁によれば祭神は鵜茅草葺不合尊・神倭磐余彦尊・ 椎根津彦尊・武位起尊の四柱であるが、倭姫皇女がこの四座を祭っていたのはどうしてだろうか。また、鎮座地の佐々生村の字について「生ノ字モトノ読ハムシ也 今ハフト云」として、「生」はもともと「ムシ」と読んでいたが今は「フ」と言うとするが果たしてどうか。

麻氣神社(丹生郡)
麻氣神社は継体天皇の伯父、麻和加介(まわかけ)の旧跡とする牧谷(現在の南条郡南越前町牧谷)の項に記載され、「其社ハ宮谷村ニアリ」とするが、宮谷村は牧谷から山を越えた反対側、味真野地区にある。福井県神社庁によると現在の祭神は饒速日命となっている。麻氣神社はほかに丹生郡越前町真木の麻氣神社、越前市牧町の酒列神社が論社とされるが、いずれも宮谷村からはかなり離れている。

直野神社(足羽郡)
『足羽社記略』には「直埜神社」と記され「是祭三尾君也」としている。継体妃の倭媛が三尾君堅楲の娘である。福井県神社庁によれば現在は大己貴神社に合祀されているために元の祭神が不明である。その大己貴神社は現在の福井市南居町に鎮座する。

分神社(足羽郡)
足羽東郷脇村の項に説明がある。「脇」「分」「別」の三文字が通じるとして、脇村にあることから「分ノ神社是ナランカ」とする。同様に「継体帝ノ伯父伊被知和希・伊波己里和希等の御代ナランカ」ともする。要するに、脇=分=別(和希)を根拠にして継体天皇と関連づけているのである。福井県神社庁によれば神社の所在地は福井市脇三ケ町で、祭神は伊波知和希命であるので、その点においは整合するが果たしてどうだろうか。さらに「此二神ノ父意富々等王ハ延喜式ニ近江伊香郡意富々良ノ神社也」として、意富々等王と近江国式内社である意富布良神社をつなげている。滋賀県神社庁サイトによると、長浜市木之本町にあって祭神は建速須佐之男命、大穴牟遅命、猿田彦大神など五柱で、由緒に継体天皇との関連を見いだすことはできない。

以上、まず前編として『足羽社記略』において天皇家、とくに継体一族との関係性に言及している式内社7社について内容を確認した。錯誤や語呂合わせの印象が強く、実態が確認できない場合も含めて、積極的に肯定することができない。


(つづく)


<参考文献等>

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「福井県神社庁Webサイト」
 (https://www.jinja-fukui.jp/
南越書屋Webサイト」 清水英明氏
 (https://nan-etsu.com/)
玄松子の記憶」 
 (https://genbu.net/)




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続・継体天皇の考察④(継体天皇一族の旧跡)

2024年09月24日 | 継体天皇
継体天皇の妃や皇女、あるいは他の関係者にまつわる旧趾・旧迹・遺蹤(いしょう)があったとする地名として、丹生郡に2カ所、今立郡に1カ所、足羽郡に3カ所、坂井郡に3カ所の合計9カ所が記されるので順に見ていく。なお、原文には旧趾・旧迹・遺蹤などの言葉が使われているが、意味の違いはないものとして全て旧跡として表現する。

関端(せきかはな)(丹生郡)
「俗ニ鶯ノ関ト云所カ」として、『先代旧事本紀』に継体天皇妃である茨田連小望の娘の関媛の名が見えることから彼女の旧跡だろうとする。「鶯の関」が設けられていた場所は福井県南条郡南越前町の「関ケ鼻」という所で、敦賀から木ノ芽峠や山中峠を越えて武生盆地の細長い扇状地に入ったあたりである。明らかに関媛とは無関係であろう。

牧谷(丹生郡)
継体天皇の伯父、麻和加介(まわかけ)の旧跡か、とある。牧谷は前述の関ケ鼻に隣接する所で、『上宮記(逸文)』によれば、麻和加介は第11代垂仁天皇の四世孫にあたり、三代後に継体の母である振媛につながる。また『記紀』によると垂仁天皇の皇子である磐衝別命は近江から越前にかけて勢力をもっていた三尾氏の祖となっていることから、その後裔が近江と越前の国境付近の要衝を押さえていたとしても不思議ではないが。後世の人が「麻氣」を「牧」に書き換えたのだとし、集落には麻氣神社が鎮座する。式内社とされるこの神社には何と饒速日命が祀られている。

茨田(かやた)(今立郡)
継体天皇の皇女、茨田皇女の旧跡である、とする。「今カヲダト云訛也」「刀那坂ノ東也」「刀那今ハ戸ノ口ト云」「其社ヲ尾花ノ森ト云」とあり、現在の地名ではそれぞれ「河和田」「戸口」「尾花」ということだろう。刀那神社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所に論社があるが、鯖江市によると上戸口町のものを式内社刀那神社に比定する。尾花町の刀那神社の社伝によると、茨田皇女がこの地で薨じたので社を建立して皇女の御霊を祀ったとする。

三尾野村(みをの)(足羽郡)
三尾君堅楲の旧跡であろうか、とする。三尾君堅楲の娘の倭媛が継体妃となって二男二女を生んでおり、椀子皇子は三国公の祖である。三尾野村は現在の福井市三尾野町としてそのまま地名が残る。三尾氏は継体天皇が幼少時を過ごした近江の高嶋郡が本貫地であるが、三尾野はその越前における拠点と考えることができる。前回の継体天皇を考察した際に三尾氏の拠点についても考えてみた。→ 継体天皇③(継体天皇の母系系譜1)

角折村(つのおり)(足羽郡)
角折君の旧跡である、とする。前述の三尾野と同様に角折村は現在の福井市角折町として地名が残り、日野川と足羽川の合流地点にあたる。角折君は三尾角折君のことであるが、いわゆる複姓氏族で前述の三尾君とは別の一族と考えられているが、その三尾君の拠点と考えられる三尾野とは距離にして10キロも離れていないので、まったく別の氏族と考えるのも無理があるかもしれない。

下市村(足羽郡)
「旧ノ名ハフル市」「此所ノ山ゾヒニマス明神は継体帝ヲ祭ル社也」「其田中ノ山ヲ亀山ト云」とあって、その亀山が継体天皇の妃である角折君の娘(妹の誤り)、稚子媛の旧跡である、とする。下市村は現在の福井市下市町で、日野川の対岸が前述の角折町である。下市山の麓は亀山と呼ばれ、大己貴命、少彦名命、継体天皇、大山祇命、稚子媛を祀る式内社の與須奈神社が鎮座する。当社は、寄品大明神、亀山神社、薬師神社、中山神社が合祀、移転、社号変更を経て現在に至るが、継体天皇を祀る寄品大明神は旧社地が下市山中にあった。また、亀山神社では稚子媛が祀られていたという。「天皇(継体帝)の御冠石(オカフリイシ)ト云モノ此所ニアリ」とある「冠石(かむろし)」が北方の川岸の近くの林の中にあるらしい。

椀子岡(まるこのおか)(坂井郡)
継体天皇の子、椀子王の旧跡である、とする。「今丸岡ト云 マルフノオカノ中略」とあるが「マルフ」は「マルコ」の誤りか。「其神㚑は國神村ニアリ」「延喜式云國神ノ神社是ナリ」とある式内社の国神神社は椀子皇子を祭神として坂井市丸岡町に鎮座する。神社由緒によると、武烈天皇8年に椀子皇子が磨留古乎加(まるこのおか)に降誕、その胞衣を埋めて神明社としたのが創建。男大迹王の意志を継ぎ、湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたことにより国土開発の守護神として厚く崇められたとのこと。

佐野(坂井郡)
意冨冨杼王の弟の沙祢王の旧跡である、とする。意冨冨杼王は応神天皇の孫で継体天皇の祖父で沙祢王はその弟である。佐野は現在の福井市佐野町か。「旧ノ字ハ沙祢」「祢ト野ト通スル故ニ今佐野ト云カ」とあり、これはさすがに語呂合わせとこじつけであろう。

市皇子(坂井郡)
継体天皇の子である大市皇子の旧跡である、とする。「今ハ一王子村ト云」とあり、現在の福井市一王寺町に大市皇子を祭神とする市王子神社が鎮座するが、継体天皇に大市皇子という皇子はいない。福井県神社庁サイトは祭神を大市皇子命とした上で由緒に次のように記している。
 
『足羽社記』に「天皇子 大市皇子云々」と御祭神の御名が、記載してあり、『越前国名勝志』に「一書の古記に云ふ。足羽の子、大市皇子の旧跡なり」と書かれている。足羽とは、継体天皇のことである。

『足羽社記』は『足羽社記略』のことであろう。『越前国名勝志』は『足羽社記略』の少しあとに著された書で、そこにある「一書の古記」はその『足羽社記略』を指す。このように18世紀以降に書かれた越前国の地誌や史書は『足羽社記略』を参照しているケースが多い。

足羽敬明が継体天皇一族の旧跡とする地名を確認したが、これら9カ所を地図にプロットすると下図のようになる。




(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
福井県神社庁Webサイト
 (https://www.jinja-fukui.jp/)
南越書屋Webサイト」 清水英明氏
 (https://nan-etsu.com/)
玄松子の記憶」 
 (https://genbu.net/)
東安居公民館サイト 東安居地区の史跡・名所
 (http://www1.fctv.ne.jp/~hiago-k/siseki%20meisyo/higasigomura.html)




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続・継体天皇の考察③(継体天皇一族の御名代)

2024年09月23日 | 継体天皇
『足羽社記略』には次のとおり、継体天皇の祖先、妃、皇女などのうち、越前に御名代(みなしろ)があるとされる13名が記される。このうち継体天皇の近親としては皇女6名、妃1名、他3名の10名がおり、残り3名は応神天皇の後裔である。御名代(名代)とは、天皇・皇后・皇子・皇女ら王族の御名(王名や宮号)を負った部民のことで、その御名や功業を後世に伝えるために設置された大王直属の集団である。順に見ていく。

応神天皇の娘の矢田皇女(敦賀郡矢田野)
継体天皇の娘の出雲皇女(丹生郡宇須美村)
同じく、太娘皇女(丹生郡太郎浦)
同じく、白坂活目媛(丹生郡白崎村)
同じく、小野稚郎女(丹生郡小野村)
継体天皇の祖父の乎非王の義父の牟義都国造伊自牟良君(足羽郡石場)
継体天皇の義父の坂田大跨王(大野郡坂戸村)
継体天皇妃の稚子媛(大野郡若子)
継体天皇の娘の圓媛皇女(坂井郡旧市村圓淵)
同じく、稚綾姫皇女(坂井郡旧市村稚綾淵)
継体天皇の祖母の久留媛(坂井郡黒目村)
応神天皇の娘の雌鳥皇女(坂井郡雌鳥浦)
応神天皇の三代孫の阿居乃王(坂井郡阿居)

敦賀郡矢田野
「応神天皇ノ女矢田媛ノ御名代ナラン」とする。「矢田野」と「矢田」のつながりを根拠としているのであろうが、そもそも敦賀郡に「矢田」あるいは「矢田野」の地名があるのだろうか。「矢田野」は歌枕として敦賀郡と近江国との国境にある愛発(あらち)山を詠んだ歌に使われることが多いが、実は大和の地名である。これは『万葉集』に詳しい足羽敬明の勇み足ではないだろうか。ここでは愛発の地を充てておく。

なお、『公望カ私記』から「凡ソ御名代ノ部ヲ定ムルハ御名ヲ取リ、又ハ所居ノ地ヲトルカ」と引用していることから、これ以降は名前と地名の一致や類似をもとに御名代を考えていることが窺える。『公望私記』とは文章博士として『日本書紀』講書で講師をつとめた矢田部公望が延喜4年に記した筆録である。

丹生郡宇須美村
「三尾角折君ノ妹稚子媛ヲ妃トシテ出雲皇女ヲ生ム 此皇女ノ御名代ナラン」とする。『「福井県史」通史編1』によれば、足羽郡に出雲部の存在が確認され「その起源として、継体天皇の皇女出雲皇女の名代ではないかという一案を挙げておく」との見解が示され、宮内庁の吉松大志氏は、出雲氏が出雲皇女の養育に関与した可能性を指摘する。ただ、出雲皇女と宇須美村に音のつながりが見られないにもかかわらず御名代とする根拠をあえて言えば「イ」が「ウ」、「ヅ」が「ス」、「モ」が「ミ」への変化を考えたということだろうか。この宇須美村は明治42年発行の『丹生郡誌』に記載された地図から判断すると、現在の丹生郡越前町宇須尾と思われる。『越前国名勝志』でも同様の指摘がなされている。

丹生郡太郎浦
「関媛所生ノ太娘皇女ノ御名代ナランカ」とする。関媛は茨田連小望の娘で太娘皇女は茨田大娘皇女のことである。「又佐良実ハ娘字」という難解な一文が冒頭にあるのだが、佐良=左に良=郎と解して「郎」という字は実は「娘」という字であるとの指摘ではないだろうか。つまり「太郎浦」は「太娘浦」であるとして太娘皇女の御名代の根拠としていると思われるが無理がある。太郎浦は中世に「池大良」と記された大良浦のことで、現在の南条郡南越前町大良である。『越前国名勝志』は「古ハ池ノ太良浦ト云フ」とした上で「一書ノ古記ニ云ク、関姫ノウミ玉フ大娘皇女ノ御名代乎」と『足羽社記略』の記述を引用する。

丹生郡白﨑村
「白坂活目媛ノ御名代ナランカ」とするが、「﨑旧字ハ坂ナリ」「今﨑ト云ハ訛ナリ」とある。つまり「白﨑」=「白坂」であるとして、白坂活目媛の御名代の根拠とするがどうであろうか。現在の越前市白崎町がその所在と思われる。

丹生郡小野村
「小野稚郎女ノ御名代ナラン」とするのは転訛や読み替えがないという意味においては妥当かも知れないが、果たしてどうだろう。所在地は現在の越前市小野町であろう。

足羽郡石場
「継体帝祖母久久留比賣父 伊自牟良君ノ御名代」とする。久久留比賣は久留比賣の誤りか。伊自牟良君は牟義都国造である。「伊自ハ石ナリ牟良ハカヘシ場也」としているが「カヘシ場」の意味が不明であるが、そもそも「伊自」=「石」に無理がある。所在は足羽山の北麓あたりとされ、笏谷石が採掘されたことに因む名であろう。

大野郡坂戸村
「継体帝ノ妃廣媛ノ父坂田大俣王ノ御名代也」とする。「今サカムトト云フは酒人ノ言也」として、『先代旧事本紀』の「天神本紀」に見える坂戸造、『新撰姓氏録』に見える坂田酒人真人、『延喜式』に見える坂門一事神社(延喜式には坂門一言主神社とある)、『万葉集』巻16の3821番の歌に登場する坂門氏などを並べ立てるが、坂田大俣王との関係は不明で「坂戸」と「坂田」の語呂合わせか。ただし、現在の大野市牛ヶ原に坂田大跨命を祭神とする坂門一言神社が鎮座する。

大野郡若子(わかこ)
「稚子媛ノ御名代ナランカ」とする。稚子媛は三尾角折君の妹である。「今ワコゴト云フ」としながら「若子」に「ワカコ」と振り仮名がふられているものの、「若」と「稚」、音が同じで意味もほぼ同じなので問題ないと言えば問題ない。現在の大野市上若生子・下若生子である。

坂井郡旧市村圓淵・稚綾淵(つぶらがふち)
継体天皇の妃、和珥臣河内の娘である荑(はえ)媛が生んだ一番目の娘が稚綾姫皇女で二番目が圓媛皇女。「此二皇女ノ御名代ナランカ」とあり、いずれも「圓」「稚綾」の文字が共通しているが、そもそも川の淵が御名代というのは考えにくい。「今若葉ト云フハ訛ナリ」と「稚綾」が「若葉」になったとあるのも怪しい。『越前国名勝志』には、荑媛がふたりの皇女を生んだのは継体即位後の樟葉宮でのことなので、その御名代が越前にあるのはおかしいとの指摘が記載される。

旧市村は現在の吉田郡永平寺町に東古市の地名が残るあたりか。「凡ソ此境ヲ椎領ト号ス 領内ニ柴原村アリ 延喜式ノ柴神社是ナリ」とあるが、江戸時代の記録から𠮷田郡に志比領という知行地があったことがわかっており、また、現在の𠮷田郡永平寺町松岡一帯が芝原郷で域内に柴神社が鎮座する。「又日椎前神社 今ノ椎境村也」とある椎境村は𠮷田郡永平寺町の松岡志比堺の地で、ここに鎮座する八幡神社が「志比の地の先」という意から式内社椎前神社鎮座の地と比定されている。このあたりは九頭竜川が越前平野に流れ込むあたりで、淵がいくつもあったのだろう。

坂井郡黒目村
「久留媛ノ御名代也」とする。久留媛は牟義都国造である伊自牟良君の娘で継体天皇の祖母であるが、ここは単に「久留」と「黒」の音が似ていることを根拠としているようだ。所在地は坂井市三国町黒目であろう。

坂井郡雌鳥浦(めとり)
「応神帝女雌鳥皇女ノ御名代ナランカ」とする。「今ノ免鳥浦」とあるが現在の福井市免鳥町であろう。雌鳥皇女は矢田皇女の妹であるが、姉の矢田皇女の御名代が敦賀郡矢田野と言うのは応神天皇と敦賀の関係を考えればまだ妥当性があるとしても、妹の御名代が敦賀郡から大きく離れた坂井郡にあるのはどうしてだろう。果たしてその昔、「免鳥」を「雌鳥」と書いていたのだろうか。所在地は福井市免鳥町であろう。

阿居(丹生郡西安居村)
坂井郡の最後に九頭竜川流域の地名を順に紹介する中で、阿居の地が登場し「応神帝三代孫阿居ノ王ノ御名代カ」とする。阿居乃王は稚渟毛二派皇子の子で兄弟に継体天皇の祖父である乎非王がいる。所在は坂井郡ではなく南にある丹生郡西安居村になり、現在の福井市本堂町あたりとされる。「阿居」の語が通じていることを根拠とするのだろうが、前述の雌鳥浦と同様に三代孫とは言え、敦賀から遠く離れた地に応神天皇ゆかりの地があるのは違和感がある。明治42年に出版された『丹生郡誌』の西安居村の項に『足羽社記略』からの引用が見える。

足羽敬明が継体天皇一族の御名代とする地名を確認したが、これら13カ所を地図にプロットすると下図のようになる。



これらのほとんどが語呂合わせ、こじつけの印象が拭えない。これは、継体天皇あるいはその一族にまつわる旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地名についても同様である。次稿ではそれを確認する。


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「丹生郡誌」 福井県丹生郡教育会・編(明治42年 1909年)
福井県神社庁Webサイト
 (https://www.jinja-fukui.jp/)
『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
 (https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
風土記が拓く出雲の古代史」 吉松大志氏



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続・継体天皇の考察②(継体天皇と所縁のある土地)

2024年09月22日 | 継体天皇
まず、『足羽社記略』を読んでみて意外だったのが、前稿で紹介したような継体天皇自身にまつわる伝承や事績について多くを語っていないことだ。抄本においてはそのあたりが省略されたのかもしれないが、それを確認することはできないので、この抄本をもとに考えていく。

ここでは主に郷名および個別の地名の由来について、継体天皇およびその一族、近親に所縁があると思われる箇所を抜き出して列挙した。『足羽社記略』に記載される順に挙げると次のようになる。それぞれの内容についてはなるべく原文に従いながら、意味がわかりやすくなるように筆者にて現代語に訳した上で、必要に応じて原文に基づいて振り仮名を入れた。地名のうしろの番号については後述する。

敦賀郡
■石田神社 ③
・今は田中村と言う。垂仁紀に石田君の始祖が記され、継体紀には田中皇子が記される。
 (※「田中皇子」は「中皇子」の誤りか‥‥筆者付記)
■矢田野  ①
・応神天皇の娘、矢田皇女の御名代であろう。

丹生郡  
■忍坂(をしさか)村  ⑤
・若野毛二俣王の娘、忍坂姫命(押坂大中姫)が允恭天皇の后となって安康天皇、雄略天皇を生んだ。
・その支流が住んだところ。
■宇須美(うすみ)村  ①
・継体天皇と三尾角折君の妹の稚子媛の間に生まれた出雲皇女の御名代であろう。
■廣瀬村  ⑤
・継体天皇が坂田大跨王の娘の廣媛を妃としたことに由来する。
・ただし、他にも由来と思われる記録があってひとつには決められない。
■佐々生(ふ)村  ③
・三尾君の祖は垂仁天皇の子、磐撞別命であると先代旧事本紀に記す。
・三尾君堅楲の娘、倭姫皇女が四坐を祭るのが延喜式にある佐々牟志神社である。
・今は「生」を「フ」と読むが、もとの読みは「ムシ」である。
■関端(せきがはな)  ②
・継体天皇の妃、茨田連小望の娘、関媛の旧跡だろう。
■太郎浦  ①
・又佐良実は娘の字。その関媛が生んだ太娘皇女の御名代か。
 (※「佐良」を「左に良」と解し、「郎」は「娘」の字であるとの意味か・・・・筆者付記)
■白崎村  ①
・「﨑」の旧字は「坂」であるから、太娘皇女と同腹の白坂活目媛の御名代ではないか。
■小野村  ①
・同じく太娘皇女と同腹の小野稚郎女の御名代か。
■牧谷  ②③
・継体天皇の伯父、麻和加介(まわかけ)の旧跡か。
・後の人が杣山の麻氣の二文字を「牧」と書き換えた。延喜式にある麻氣神社がそれである。
■小健(をたけ)山  ③
・継体天皇の子の安閑・宣化二帝の神霊が鎮座する山で、延喜式にある兄子神社がある。
■雨夜  ③
・越後国丹生郡に鎮座する雨夜神は茨田連神社で、延喜式に雨夜神社とある。
・古事記によれば茨田連は神武天皇の子、日子八井命茨田連の祖である。
 
今立郡
■野大坪村  ⑥
・水無瀬川の岸の松陰は昔、男大迹皇子が猟をした日に必ず馬に水をあげた場所である。
■朽飯村  ⑤  (※「くだしむら」と読むか‥‥筆者付記)
・「朽飯」は「くたかし」の略言である。
・継体天皇の妃、三尾角折君加多夫の妹の倭比売が九高(くたかし)王を生んだ神霊ある場所である。
■御駕庄  ⑤
・今は五箇庄といい、男大迹部(をあとべ)という村があり、今は粟田部という。
・味真野は継体天皇が潜竜のときにおられた場所である。
■勾(まかり)  ④
・勾大兄(安閑帝)は故郷の勾村の名を慕ってその宮を勾の金橋宮と呼んだ。金刺宮とも言う。
・勾は今は真柄村といい、勾大兄が生まれ育った場所は味真野の郷である。
■目子嶽(めこがたけ)  ④
・足羽山の東南にある大きな山で今は部子嶽(へこかたけ)と言い、継体妃、目子媛を祭る山である。
・東麓に足羽川の源があり毎年4月5日に川上御前の祭がある。(※川上御前は和紙の祖神・・・筆者付記)
■茨田(かやた)  ②③
・延喜式にある刀那神社はここにある。継体天皇の皇女、茨田皇女の旧跡である。

足羽郡
■額田郷  ⑤
・今は糠溜(ぬかたべ)という。
・応神天皇の子に額田大仲彦皇子がいて、推古天皇の幼名は額田部皇女という。
・允恭天皇は額に「町」形のつむじがある馬を献上されたことを喜んでその者に額田部の姓を与えた。
■三尾野(みをの)村  ②
・三尾君堅楲の旧跡であろうか。
■直埜(なごの)村  ③
・延喜式に直埜神社があり、三尾君を祭っている。
■足羽東郷脇村  ③
・「分」「別」「脇」の三文字は通じている。延喜式の分(わき)神社がある。
・継体天皇の伯父、伊被知和希・伊波己里和希の御世のことである。
・二神の父の意冨々等王は延喜式にある近江国伊香郡の意冨々良ノ神社で、母は伊久牟尼利止古大王。
・母の名にある止古王は今、徳王と言うか。また、岩倉は伊波和気(いはわけ)の名残か。
・皆、東郷の範囲にあるが、伊被知和希だけが分かれて村の名となった。
■一乗谷赤淵(あかふち)  ⑤
・赤パチとも言う。「フ」と「ハ」は通じている。
・赤渕山にあり継体天皇の伯父、伊波己里和氣の弟の阿加波知君のことを指すが、社は今はない。
■角折(つのおり)村  ②
・角折君の旧跡である。   
 (※角折君は三尾角折君のこと・・・筆者付記)
■雄椎(をほし)村  ④
・角折君を祭る場所がある。 
■下市村  ②
・ここの山沿いにある明神は継体天皇を祭る社である。
・亀山は継体天皇の妃である角折君の娘、稚子媛の旧跡である。
 (※「娘」は「妹」の誤りか・・・筆者付記)
・継体天皇の御冠石(おかふりいし)というものがここにあると言われている。
■弓筈(ゆはつ)社  ④
・継体天皇の水徳の神霊を祭っている。
・天皇が水を納め三大川を定めたとき、弓の筈で岩を突いたところ、冷泉が湧き出た。
・渇死しかけていた役人がこれで救われたことから、この地を酌渓(しゃくたに)と言うようになった。
■黒龍  ③
・延喜式にある毛屋神社は当郷の櫻井の上の山に遷座された。
・桜井は継体天皇の御子、椀(まる)子王の子の櫻井王のことである。
■石場  ①
・足羽社地の名で、継体天皇の祖母、久久留比賣の父、伊自牟良(いしむら)君の御代名である。
・伊自は石のことで、牟良はかへし場のことである。
 (※「久久留」は「久留」の誤りか‥‥筆者付記)
■足羽川大橋  ⑥
・万葉集(巻九1742番)にあるとおり、河内国にも同じ名前の橋がある。
・継体天皇が即位まで過ごした越前国と即位した河内国に同名の橋があり、深い契りがあることだろう。
■福井  ⑥
・足羽社の北の庄に福井の神が鎮座し、また摂津国の継体天皇陵の近くにも福井の村がある。
・継体天皇の神霊の坐す国と陵山の麓のいずれにも福井の名があることは深い理由がある。

大野郡
■大野郡  ③
・延喜式にある國生大埜神社は崇神天皇御子の豊城入彦命の後裔である大埜氏の神霊が祀られる。
■坂戸村  ①③
・継体天皇の妃、廣媛の父の坂田大俣王の御名代である。延喜式にある坂門一事神社がある。
■伊振嶽(いふりがたけ)  ④
・継体天皇の母の振媛を祭る山である。
■荒嶋嶽  ③
・延喜式にある荒嶋神社がある。継体から敏達までの朝廷に重臣として仕えた物部氏の神霊が祀られる。
■若子(わかこ)  ①
・継体天皇の妃である稚子媛の御名代であろう。

坂井郡
■旧市村  ①
・圓淵(つぶらがふち)は継体天皇と荑媛の間に生まれた二番目の圓媛皇女の御名代であろう。
・圓淵の上流にある稚綾という淵は同じく一番目の稚綾姫皇女の御名代であろう。
■久米田  ③
・延喜式にある久米田神社は継体天皇の棟梁の臣である大伴大連の社ではないか。
■椀子(まるこの)岡  ②③
・継体天皇の子、椀子王の旧跡である。その神霊は延喜式にある国神村(今は国兼)の国神神社にある。
■檜山隈坂(ひやまくまさか)  ④
・継体天皇の子、宣化天皇の御座所である。大和での宮は故郷の名をとって檜隈廬入野宮と呼ばせた。
■本荘(ほんぜう)  ⑤
・「本」の旧字は「誉」。応神天皇の名前は誉田で、本庄(本荘)は誉田の荘の中を略したものである。
・十の郷で順に行われる春日祭がある。開化天皇が春日宮、雄略の娘が春日太娘、仁賢の娘も春日皇女。
・誉田荘の春日社と言えば歴代天皇の父母の始祖が並び、その春日祭の最終日は足羽祭である。
■二面(ふたをもて)村  ⑤
・「二面」は「二俣」が転訛したもので、三国公等の祖に若沼笥二俣皇子がいる。
■黒目(くろめ)村  ①
・継体天皇の祖母、久留媛の御代名である。
■雌鳥(めとりの)浦  ①
・今の免鳥浦である。応神天皇の娘の雌鳥皇女の御名代ではないか。
■糸崎(いとさきの)浦  ③
・応神天皇の妃、糸媛の神霊のある所ではないか。延喜式にある糸﨑神社である。
■佐野  ②
・旧の字は「沙祢」で「祢」と「野」が通じることから佐野と言うか。
・意冨冨杼王の弟の沙祢王の旧跡である。
■市皇子  ②
・今は一王子村と言い、継体天皇の子、大市皇子の旧跡である。
■雄嶋  ③
・延喜式にある大湊神社があり、三尾君等の祖神である。
・今は三尾大明神と言って、継体天皇が治水によって三大川を開き郡郷を定めた功績を祭る神霊である。
■九頭龍川流域  ①③
・川の途中の阿居の地は、応神天皇の三代孫、阿居の王の御名代であろうか。
・延喜式にある英田神社は英田(あやだ)の地にあり継体天皇四代孫の薙波王の神社である。
 (※「薙波王」は「難波王」の誤りか‥‥筆者付記)

以上のように、継体天皇およびその一族、近親に所縁があると思われる箇所は全部で延べ55カ所(敦賀郡2カ所、丹生郡12カ所、今立郡7カ所、足羽郡12カ所、大野郡6カ所、坂井郡16カ所)となった。内容別に整理すると次のようになる。(番号は上述の地名のうしろの番号と同じ)

①継体天皇の祖先、后妃、子女など一族の御名代の地 12カ所
②旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地 9カ所
③一族に由来のあるとされる式内社が鎮座する地   17カ所
④一族の誰かの御座所あるいは神霊を祭るとされる地 6カ所
⑤一族の名前と地名の間につながりが想定される地  8カ所
⑥その他                     3カ所

これらのうち①②③について次稿以降で内容を確認していく。なお、「織田文化歴史館」のWebサイトに掲載されている地図をお借りして越前国内の各郡の位置関係を確認しておく。


越前国各郡と敦賀郡各郷の位置を示す地図
(「織田文化歴史館」Webサイト)


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
織田文化歴史館Webサイト
 (https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/) 
福井県神社庁Webサイト
 (https://www.jinja-fukui.jp/)




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続・継体天皇の考察①(越前における継体天皇の伝承)

2024年09月21日 | 継体天皇
継体天皇については4年前に以下のような8回シリーズで考察を試みた。

① 三王朝交替説
➁ 継体天皇の出自
③ 継体天皇の母系系譜1
④ 継体天皇の母系系譜2
⑤ 継体天皇の父系系譜1
⑥ 継体天皇の父系系譜2
⑦ 越前における伝承1
⑧ 越前における伝承2

その後、今年2024年7月に継体天皇の足跡を辿って近江・越前へのツアーを催行したことから、再び継体天皇への興味が湧いたので前回の続編という位置付けで、継体天皇が男大迹王として越前にいたときのことについて考えてみることにした。

継体天皇は幼少期を過ごした近江の地で父である彦主人王を亡くし、幼年で母の振媛とともに彼女の実家のある越前に移り住んだ。その後、大和では武烈天皇崩御後に皇統が途絶えかねない事態に陥ったため、大伴金村以下の重臣は越前の男大迹王を皇室に迎え入れることを決定し、男大迹王は58歳にして第26代継体天皇として即位することとなった。西暦508年のことである。58歳で即位したということは越前で過ごした時間はなんと半世紀に及ぶことになる。ただし『古事記』ではその崩御の歳を43歳としているので、その年齢に大きなズレがあるが、ここでは『日本書紀』の記述に従って考えていきたい。

西暦2007年(平成19年)、福井県や滋賀県では継体天皇即位1500年を祝う様々なイベントが開催された。そして継体天皇にまつわる様々な伝承が広く一般に知られるようになった。とくに越前における男大迹王の伝承としては大きく①越前平野の治水・国土開発と産業奨励にまつわる伝承、②潜龍していた味真野にまつわる伝承、の2つに分けることができ、各々の内容として次のようなものがある。

①越前平野の治水・国土開発と産業奨励にまつわる伝承
■大規模な治水事業を行い、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を開拓して湿原の干拓に成功した。この結果、越前平野は実り豊かな土地となって人々が定住できるようになった。
■三国に港を開いて水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙、製鉄などを奨励し、様々な産業を発展させる基礎を作った。
■男大迹王が河和田の郷へ視察した際に冠を壊してしまった。片山村の漆塗り職人がこれを修理して献上したところ、大変喜んで「片山椀」と命名して産業として奨励し、これが今日の越前漆器に発展した。
■足羽山の笏谷石は越前青石とも呼ばれ、男大迹王が産業として奨励した伝承に基づき、近年まで足羽山で採掘されてきた。
■男大迹皇子は古代製鉄技術を駆使して鉄製農具や今までにない鉄製道具を量産し、それを使って農業振興や治水事業を推進した。

②潜龍していた味真野にまつわる伝承
■鯖江市上河内町の山中に自立するエドヒガンの古木は男大迹王が如来谷と呼ばれる山中に植えた薄墨桜の孫桜と伝わる。
■男大迹王が上京する際に、岡太神社の桜を形見とするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになった。
■男大迹王が味真野に住んでいた頃、九頭竜・足羽・日野の三川を開く治水事業を行った際に建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社を創建した。
■男大迹王が味真野郷に住んでいた頃、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀った神社を建てた。これが刀那神社の始まりである。
■男大迹王が味真野に住んでいた頃、学問所を建てて勉強をしていた。地名も文室と呼ばれ、ここに宮殿を建て応神天皇から男大迹王の父、彦主人王までの五皇を祀ったのが五皇神社である。
■勾の里は第1皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)の誕生の地で、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。すぐ近くの桧隈の里は第2皇子の桧隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地と伝えられる。
■花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられる。

これらの伝承は『記紀』や継体天皇にまつわる系譜が記される『上宮記(逸文)』などには全く記されないために、前回は他の研究者の考察を参考にして考えるに留まったが、今回は前回のときに得た情報をもとに『足羽社記略』の抄本と世阿弥の著した謡曲『花筐』のシナリオを読むところから手をつけていくことにする。

『足羽社記略』は足羽神社の神主である足羽敬明が享保2年(1717年)に著した書で、越前国の地誌とでも呼べばいいのだろうか、越前国内各地の地名由来や地理について、とくに継体天皇を中心とした大王家系譜とのつながりや足羽神社を始めとする神社との関係を軸に書かれている。ただし、実際のところは史実と認めがたいことや、無理のあるこじつけが随所に見られることから、継体天皇やその一族を利用して神社の権威を高めて隆盛を図ることが目的であったとされている。


(「福井県文書館 デジタルアーカイブ福井」より)

享保17年(1732年)に著された抄本(足羽敬明自身による抄本)が福井県文書館に所蔵され、デジタルアーカイブ福井によって公開されている。そこには越前国内の敦賀郡、丹生郡、今立郡、足羽郡、大野郡、坂井郡にある計55の管郷、個別の場所として計67カ所、国名、郡名を合わせた全部で128の地名についての由来や地理的な説明が書かれている。郡ごとに内訳を見ると、敦賀郡(管郷6郷、地名3カ所)、丹生郡(管郷9郷、地名11カ所)、今立郡(管郷9郷、地名6カ所)、足羽郡(管郷10郷、地名23カ所)、大野郡(管郷9郷、地名4カ所)、坂井郡(管郷12郷、地名20カ所)となっている。

また著者は、これらを説明するにあたって多くの文献を参照、あるいは引用している。『古事記』『日本書紀』のほか、『続日本紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』などの六国史、ほかに『先代旧事本紀』『日本紀略』『延喜式』『倭名類聚抄』『類聚三代格』『新撰姓氏録』『公望私記』『万葉集』などで、これらの文献にかなり精通していたことが窺え、その知識の上に著者の逞しい想像力を加えて書かれた書という印象である。次稿より内容を確認していく。


(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅 




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継体天皇⑧(越前における伝承2)

2020年02月25日 | 継体天皇
 継体天皇にまつわる越前における数々の伝承について、その信憑性について調べてみることにした。ネットを検索しまくったところ、2つの情報を得ることができたので紹介したい。

 ひとつめは「一乗学アカデミー 歩けお老爺 (archaeology=考古学) の備忘録」というブログにある「味真野の継体伝説(世阿弥、足羽敬明の功罪)」という記事。ここには私と同様の疑問を抱いたブログ作者の考えが掲載されているので、少し長くなるが一部をここに引用させていただく。

ここでは継体天皇が越前市味真野に潜龍していたという歴史事実でもない伝承が、まことしやかに地元に根付いていることについて、探ってみたい。
①越前国“現在の味真野地域”は、奈良時代から罪ある中央貴族の配流(近流)の地に定められていた。

②桑田忠親氏は、「世阿弥は、永享6年(1434)72歳の高齢で若狭小浜から佐渡へ配流された。『金島集』には、5月4日、都を出て、次日若州小浜といふ泊りにつきぬ。こゝは先年も見たりし所なれども、(中略)身のわかさ路と見えしものを、いまは老の後瀬山、(後略)とあり、若き日の思い出のある小浜港から罪人として舟出した。
また、赦されて帰洛する際も舟路を利用したが、一説によると、白山禅定を試みたともいう。しかし、70数歳の老体のことだから、登山したとも思われない」(桑田忠親『世阿弥と利休』改訂増補版 至文堂 昭和53年5月20日)と述べられている。
世阿弥元清は、『日本書紀』の継体天皇記事をテーマにした恋慕の狂乱物の謡曲「花筐(はながたみ)」を創作しており、越前市には能面製作の府中出目家もあるので、帰路、味真野に立ち寄ったかもしれない。
『花筐』は「これは越前の国味真野と申す所御座候。大迹邊(おほあとべ)の皇子に仕へ申す者・・・・」から始まり、「照日の前と申す御方、このほど御暇にて御里に御座候・・・・」と展開していく。
大迹邊の皇子が越前に御滞留中、寵愛を受けていた照日の前(日本書記では不詳)が都へ狂い出で、紅葉の御幸の御前で真情を認められるという筋である。
“歩けお老爺”は「世阿弥は、万葉集に詠われた貴種配流地味真野を舞台に、『日本書紀』の継体天皇を題材にして、謡曲『花筐』を新作した」と考えている。

③佐久高士氏は「武生市味真野地方は皇子の居住地と伝え、同地区一体(帯)には、皇子に関する史蹟として、各種各様の標柱が建てられているが、怪しいものばかりである。皇子に関していろいろの伝説の元を作った人は、足羽敬明(もりあき)という近世中期に生まれた足羽神社の神主である。この人は『足羽社記略』という書物を書いて、越前の産業・神社・山嶽・用水・郷荘等、総てを男大迹皇子とその皇子皇女とに結びつけて、越前一国が全く皇子一家の創造物であることを思わせ、その皇子を祀ってある足羽神社への祟敬の念を高しめようと計ったのである」(郷土史物語『福井の歴史』世界書院 昭和42年4月10日)と、「足羽社記略」の功罪について言及され、
杉原丈夫氏も「足羽神社の神主牧田(足羽)敬明が享保2年(1717)に著作した『足羽社記略』は、『越前国名蹟考』をはじめ郷土の地誌に引用され、それがさらに明治以降郡誌や町村誌に転載されて、彼のでたらめな考証が、無批判的に郷土の人々に信じられるという結果になっている。その罪軽からずといわねばならない。故に本叢書ではこの書を、地誌そのものの価値によってではなく、安易な考証に対する批判資料として収載した」(『越前若狭地誌叢書』続巻。松見文庫 昭和52年7月)と、「足羽社記略」の解題で述べている。

 以上のことから、味真野地区には多くの継体伝説が色濃く根づくことになったのである。
 (引用おわり)

 この記事によると、世阿弥の著した「花筐」と、足羽神社の神官である足羽敬明の著した「足羽社記略」によって継体にまつわる伝承が生まれて定着していったということである。「花筐」についてはあらすじを確認したが「足羽社記略」については確認できなかった。しかし、「一乗学アカデミー」の記事はおおむね納得することができた。

 継体にまつわる伝承は大きく分けるとふたつある。ひとつは越前平野の治水とその後の産業奨励に関する伝承、もうひとつは継体が過ごしたとされる味真野地区に残る伝承である。ふたつめの味真野伝承については「一乗学アカデミー」の記事の通りだろうと思うのだが、実は治水伝承について腑に落ちないことがあって、さらに調べてみることにした。

 「『福井県史』通史編1 原始・古代」によると、継体天皇進出のエネルギー源として、少なくとも四つの要素を考えることができるとして、その第一の要素に米を主体とする農業を挙げている。以下に引用する。

越前における継体天皇伝説は非常に多いが、その大部分は治水に結びついたものである。そのすべてを荒唐無稽と退けることは、かえって歴史の実情から遠ざかることになるであろう。それは五世紀末ごろにおける九頭竜川水系における農業の発展を反映するものではなかったか。技術革新が進行すると、元来肥沃な越前平野の生産力は飛躍的に増大していったに違いない。

表9 『弘仁式』『延喜式』にみえる公出挙稲

注1 『弘仁式』主税上は断簡による前欠のため、畿内・東海道の諸国および近江国
  の数値は不明である。したがってそれら以外の確認できる国を多い順に列挙した。
注2 『延喜式』の越前国は1,028,000束、加賀国は 686,000束である。

表9に示すのは、『弘仁式』ならびに『延喜式』主税上に記されている公出挙稲の数値である。もとより米の総収穫量を示すものではないが、まったく無関係とも考えられない。『弘仁式』において越前(加賀を含む)の出挙稲数値は、陸奥・肥後・上野についで全国第四位である。『延喜式』においては越前・加賀に分かれているが、もしこれを合算するならば全国第二位となる。これらは平安時代の史料であるが、六世紀ごろの実情をまったく反映していないとも考えられない。陸奥・肥後などはおそらく律令制以後の発展が顕著であろうから、古墳時代後期ごろには越前の米生産力が全国一であった可能性さえ否定しえないのである。
(引用おわり)

 文中にも書かれているが、ここに示された弘仁式は9世紀初めに制定されたものであるから継体天皇の時代から約300年後ということになる。また、弘仁式における越前には加賀を含んでいるため、延喜式にある越前と加賀の比率を適用して弘仁式での越前分を算出すると約657,000束となり、取り立てて大きな数字にはならない。さらにはこの表には畿内・東海道諸国・近江が含まれていない。この3点を考慮したときに「古墳時代後期ごろには越前の米生産力が全国一であった可能性さえ否定しえない」とまで言えるだろうか。
 弥生時代から古墳時代に入って有力な豪族が自らの勢力地の統治体制を確立していく過程で、治水や開墾など地域開発の事業が行われたことは事実であろうし、その結果として米の生産量がアップしたことも事実だろう。しかし、越前が全国一の生産力であった可能性にまで言及するのは少し飛躍が過ぎるように思う。

 ただ、各地の有力豪族が自国の開発を進めていたころ、越前には男大迹王が暮らしていた。越前平野の開発に男大迹王が関与していたことを否定する史料は何もないが、一方で男大迹王による事績であることを裏付ける史料はあるのだろうか。『福井市史 通史編』には足羽神社など地元の神社の神社明細帳に治水伝承の記載があるとしているが、神社明細帳は明治時代になってから社格を決めるために作成されたものであるので、伝承を裏付ける史料とはなり得ない。

 一般社団法人・農業農村整備情報総合センターによる「水土の礎」というサイトにある「千年の悲願 九頭竜川の用水」には「『続日本記』では、古代、この平野は大きな湖でしたが、継体天皇が三国の岩山を切り裂いて湖の水を海へ流すことにより田畑を開いたとあります。」と記されている。しかし「続日本紀」にはそのような記述が見当たらない。記述がないのにどうしてこのように書かれているのだろうか。
 ここでも登場するのが「足羽社記略」を著した足羽敬明である。彼は「続日本紀故事考」という書も著している。この書も内容を確認することはかなわないが、「千年の悲願 九頭竜川の用水」に書かれている内容は「続日本紀」ではなく「続日本紀故事考」のことを指しているのではないだろうか。足羽敬明はこの書でもあることないことを書き連ねたことが想定される。継体天皇を祭神として足羽神社の格をあげるために「足羽社記略」や「続日本紀故事考」を著し、継体天皇を越前の英雄として描いたのではないだろうか。これが地元に定着、あるいは他の地域にも広がっていき、いつしか事実のように語られるようになった。

 とは言え、火のないところに煙は立たないので、越前の発展に男大迹王の貢献はあったのだろうと思うが、それにしてもこれだけの事業を男大迹王の力だけで成し遂げることができたのだろうか。第一に必要となるのが資本力である。ほかに技術力と労働力(動員力)、加えて道具類の生産・調達力なども必要となる。幼少期に近江から越前に移った男大迹王は誰かのバックアップなしにはこの事業をなしえなかったはずだ。おそらく母の出自である江沼氏あるいは三尾氏・三国氏ということになろう。なかでも最も有力であった三国氏によるところが大きかったのではないだろうか。

 男大迹王は三国氏の協力なしには越前を治めることが叶わなかった。そして、継体天皇としての即位は三国氏の存在抜きには語ることができなかった。これが三国氏が八色の姓で「真人」を与えられた最大の理由ではないだろうか。
 武烈天皇が崩御して皇位継承者が不在となったとき、大連の大伴金村、物部麁鹿火、大臣の許勢男人の3人が次の天皇を決めるとき、「男大迹王は慈しみや仁愛があって孝順だ。皇位を引き継ぐべきだ。願わくば、ねんごろに進めて帝業を受け継ぎ、国を盛んにしていこう」「傍系の中から吟味して選ぶに、賢者はただ男大迹王だけだ」 と話し合った。男大迹王は三国氏の力をバックに越前を治め、様々な施策によって大いに発展させた。この実績が中央まで聞こえていたのであろう。


 3月の近江・越前への実地踏査ツアーの事前学習として即位前までの継体天皇について学んできましたが、いったんここまでとします。ツアーの報告はあらためてこの場で。







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継体天皇⑦(越前における伝承1)

2020年02月23日 | 継体天皇
 幼い時に父を亡くし、母とともに母の実家のある越前の高向に移った男大迹王はその地で成長し、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かな成人になった。そして男大迹王が57歳の時に武烈天皇が崩御し、少しばかりの紆余曲折があった後、翌507年に58歳となった男大迹王は第26代継体天皇として河内国樟葉宮で即位した。即位後の事績はあらためて考察するとして、ここでは男大迹王として越前を治めていたときのことについて考えてみたい。
 幼年で越前に移り58歳で即位したということは越前で過ごした時間はなんと50年以上に及ぶということになる。ただし、古事記ではその崩御の歳を43歳としているので、その年齢に大きなズレがあるが、ここでは書紀の記述に従っておきたい。

 今から10年と少し前の西暦2007年(平成19年)、福井県や滋賀県では継体即位1500年を祝う様々なイベントが開催された。そして継体天皇にまつわる様々な伝承が一般に知られるようになった。とくに越前における男大迹王の為政者としての主な伝承は次のようなものがある。

・当時の越前国は沼地同然で、居住や農耕に適さない土地あったので、まず足羽山に社殿(現在の足羽神社)を建て、大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀ってこの地の守護神とした。
・大規模な治水事業を行い、九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造って湿原の干拓に成功した。この結果、越前平野は実り豊かな土地となって人々が定住できるようになった。
・三国に港を開いて水運を発展させ、稲作、養蚕、採石、製紙、製鉄などを奨励し、様々な産業を発展させる基礎を作った。これによって男大迹王は「越前開闢の御祖神(みおやがみ)」と称えられるようになった。
・即位のために越前の国を離れる際に「末永く此の国の守神に成らん」と自らの生霊を足羽神社に鎮めて馬來田皇女を斎主として後を託した。これによって足羽神社では継体天皇が主祭神として祀られている。


これらのほかにも次のような伝承が様々なサイトで紹介されている。

・男大迹王が河和田の郷へ視察した際に冠を壊してしまった。片山村の漆塗り職人がこれを修理して「三つ汲み椀」を添えて献上したところ、大変喜んで「片山椀」と命名して産業として奨励し、これが今日の越前漆器に発展した。
・足羽山の笏谷石は越前青石とも呼ばれ、男大迹王が産業として奨励した伝承に基づき、近年まで足羽山で採掘されてきた。足羽山には笏谷石採掘に携わった人々により王の遺徳を讃えるために造られた石像が立てられている。
・男大迹皇子は古代製鉄技術を駆使して鉄製農具や今までにない鉄製道具を量産し、それを使って農業振興や治水事業を推進した。
・鯖江市上河内町の山中に自立するエドヒガンの古木は男大迹王が如来谷と呼ばれる山中に植えた薄墨桜の孫桜と伝わる。
・男大迹王が上京する際に、岡太神社の桜を形見とするよう言い残したが、上京後は花の色が次第に薄黒くなり、いつの頃ともなく薄墨桜と呼ばれるようになった。
・男大迹王の娘である茨田姫が住んでいたとされる場所が尾花町に残っている。尾花の裏山の「天王」というところから石室が見つかり、土器や刀剣、勾玉が出としたことから、茨田姫の墳墓だと伝えられている。
・男大迹王が味真野に住んでいた頃、九頭竜・足羽・日野の三川を開く治水事業を行った際に建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社を創建した。
・男大迹王が味真野郷に住んでいた頃、当地の守りとして刀那坂の峠に木戸をもうけ、守護神として「建御雷之男命」を祀った神社を建てた。これが刀那神社の始まりである。
・男大迹王が味真野に住んでいた頃、学問所を建てて勉強をしていた。地名も文室と呼ばれ、ここに宮殿を建て応神天皇から男大迹王の父、彦主人王までの五皇を祀ったのが五皇神社である。
・勾の里は第1皇子である勾大兄皇子(第27代安閑天皇)の誕生の地で、男大迹王が月見の時に腰を掛けた月見の石が残されている。すぐ近くの桧隈の里は第2皇子の桧隈皇子(第28代宣化天皇)の生誕地と伝えられる。
・花筐公園の一角にある皇子ケ池は勾大兄皇子と桧隈皇子がこの地で誕生した時に産湯に使った池と伝えられる。


 実はこれらの伝承は記紀や上宮記一云には全く記されていない。継体天皇を学びながらこれらの伝承に触れることになったのだが、これらを裏付ける史料がどこにも提示されていないので少し調べてみることにした。伝承の個々の内容はともかくとして、これだけ多くの伝承がこの地区に残ることになったのはどうしてだろうか。特にこの味真野の狭い地域に伝承が密集しているのはいかにも不自然だ。そう思って調べてみることにした。






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