車を神門通りの駐車場に移動させ、神門通りでお土産を買うことにした。夕方に近い時間になっていたので人通りはそれほどでもなく、お土産もゆっくり選んで買うことができた。と言っても買ったのは出雲そばくらいだけど。
神門通りから二の鳥居。
こうして見ると、一の鳥居から二の鳥居に向かう参道は登り坂になっているのがわかる。そして二の鳥居からは「下り参道」になっていた。ということは二の鳥居がこのあたりで一番高いところということになる。これは何か意味があるのだろうか。
このあたりは勢溜(せいだまり)といって、江戸時代に林を切り開いて広場が作られ、芝居小屋が設けられたという。人の勢いが溜まるところということで勢溜と呼ばれる。やはり出雲大社の賑わいは江戸時代からなんだ。
ここが一番高いところで本殿がそれより低いところにあるのは、たまたまであろう。まず本殿をどこに設けるかを先に決める。それは自ずと背後の山(八雲山)に最も近いところになる。参道はその本殿に向かって敷かれることになる。そして出雲大社の場合はもともとは西の浜(稲佐の浜)から本殿に向かって参道が敷かれていた。それが後にこの勢溜ができたことによって参詣者はまずここに立ち寄ってから本殿に向かうことなり、この参道がメインストリートとなった。だから結果的に高いところから低いところに向かう下り参道になった。あくまで私の推測であるが。
お土産を買って車に戻り、稲佐の浜に移動。国譲り神話の舞台であり、古事記には「伊那佐の小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記される。現在では神が降り立つ神聖な浜として信仰され、11月には「神迎え神事」などの神事が行われるという。
もう少しで夕陽になりそうなんだけど。
ここは神が降り立つ浜。この海の向こうは朝鮮半島。その昔、大国主神の祖先である素戔嗚尊は朝鮮半島から日本海を渡ってこの地にやってきた。素戔嗚尊をリーダーとする集団はまず妻木晩田を拠点にして東は伯耆(青谷上寺地)から因幡(白兎神社あたり)を従え、越にまで勢力を拡大、西はこの出雲を制圧し、この集団の代々のリーダーはこの出雲で王位を継いでいった。その彼らの墓制が四隅突出型墳丘墓であり、その墓域が西谷墳墓群である。彼らに支配されることになった先住集団は荒神谷に銅剣を埋納し、加茂岩倉に銅鐸を埋納したのだ。祭器である銅剣や銅鐸を破壊される前に自らの手でその霊力を封じ込めるために「×」を刻印し、そして整然と並べて土中に埋めた。しかし、先住集団を次々に制圧して出雲を中心に日本海沿岸域を支配した素戔嗚尊を祖とする集団もやがては別の集団に支配権を譲ることになる。それが国譲りであり、その結果として出雲大社が建てられた。出雲大社の祭神大国主神が西を向いているのは祖先の故郷の地である朝鮮半島に想いを馳せるためなのだ。
最後にお気に入りのショットで締め括り。
Sさん、Oさん、お疲れ様でした。次は北九州へ。
神門通りから二の鳥居。
こうして見ると、一の鳥居から二の鳥居に向かう参道は登り坂になっているのがわかる。そして二の鳥居からは「下り参道」になっていた。ということは二の鳥居がこのあたりで一番高いところということになる。これは何か意味があるのだろうか。
このあたりは勢溜(せいだまり)といって、江戸時代に林を切り開いて広場が作られ、芝居小屋が設けられたという。人の勢いが溜まるところということで勢溜と呼ばれる。やはり出雲大社の賑わいは江戸時代からなんだ。
ここが一番高いところで本殿がそれより低いところにあるのは、たまたまであろう。まず本殿をどこに設けるかを先に決める。それは自ずと背後の山(八雲山)に最も近いところになる。参道はその本殿に向かって敷かれることになる。そして出雲大社の場合はもともとは西の浜(稲佐の浜)から本殿に向かって参道が敷かれていた。それが後にこの勢溜ができたことによって参詣者はまずここに立ち寄ってから本殿に向かうことなり、この参道がメインストリートとなった。だから結果的に高いところから低いところに向かう下り参道になった。あくまで私の推測であるが。
お土産を買って車に戻り、稲佐の浜に移動。国譲り神話の舞台であり、古事記には「伊那佐の小濱」、日本書紀では「五十田狭の小汀」と記される。現在では神が降り立つ神聖な浜として信仰され、11月には「神迎え神事」などの神事が行われるという。
もう少しで夕陽になりそうなんだけど。
ここは神が降り立つ浜。この海の向こうは朝鮮半島。その昔、大国主神の祖先である素戔嗚尊は朝鮮半島から日本海を渡ってこの地にやってきた。素戔嗚尊をリーダーとする集団はまず妻木晩田を拠点にして東は伯耆(青谷上寺地)から因幡(白兎神社あたり)を従え、越にまで勢力を拡大、西はこの出雲を制圧し、この集団の代々のリーダーはこの出雲で王位を継いでいった。その彼らの墓制が四隅突出型墳丘墓であり、その墓域が西谷墳墓群である。彼らに支配されることになった先住集団は荒神谷に銅剣を埋納し、加茂岩倉に銅鐸を埋納したのだ。祭器である銅剣や銅鐸を破壊される前に自らの手でその霊力を封じ込めるために「×」を刻印し、そして整然と並べて土中に埋めた。しかし、先住集団を次々に制圧して出雲を中心に日本海沿岸域を支配した素戔嗚尊を祖とする集団もやがては別の集団に支配権を譲ることになる。それが国譲りであり、その結果として出雲大社が建てられた。出雲大社の祭神大国主神が西を向いているのは祖先の故郷の地である朝鮮半島に想いを馳せるためなのだ。
最後にお気に入りのショットで締め括り。
Sさん、Oさん、お疲れ様でした。次は北九州へ。