古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

国会図書館に登録されました

2018年06月26日 | 雑感
去る4月26日、国会図書館から昨年末に出版した「古代日本国成立の物語」を受領したとの連絡がありました。国立国会図書館オンラインで検索してみるとちゃんと登録されていました。



なんだか、うれしい。

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大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)

2018年06月24日 | 博物館
2018年6月24日の日曜日、翌朝の会議のために前泊で広島入り。午前中に東京から移動して、午後から大和ミュージアムを見学してきました。広島空港から呉駅までリムジンバスで1時間弱。バスの乗客は私を入れてふたりだけ。しかもほとんど高速道路だったので快適でした。

JR呉駅です。駅周辺では水兵さんの白い制服を着た若者を3人ほど見かけました。海上自衛隊の隊員かな。


駅前にある観光案内板を見ていると「こんにちは」と声をかけてくるボランティアのおじさん。この青い人です。

呉周辺の観光地を説明してくれました。大和ミュージアムのすぐ近くにある「てつのくじら館」にも是非行ってくださいと言われたので行こうと思っていたのですが、大和ミュージアムで時間切れになってしまいました。

大和ミュージアムのテラスから見た「てつのくじら館」。本物の潜水艦を陸にあげて博物館にしているそうです。正式名称は「海上自衛隊呉資料館」です。


大和ミュージアムは駅から徒歩で5分ほど。専用の通路があるので間違えることはありません。時刻はちょうど昼の1時。先に昼ご飯を食べようとショッピングモールのレストラン街へ行ってみたら、どこも結構な行列ができていたのであきらめてそのまま博物館へ。

とくに戦艦が好きというわけでもないのに、なんだかワクワクしてくる。


常設展と企画展のセットで800円。高くはない。そして入館するとまずはドカーンと大和の模型。サイズは実物の10分の1。


常設展は、海軍基地としての呉の発展を時代順に展示しています。1890年(明治23年)に呉鎮守府が開庁して以来、呉は軍港の街、海軍の街として発展を遂げます。



寄贈者の名前を見てびっくり。まさかの松本零士。見学の途中でわかったのだけど、松本零士はここの名誉館長とのこと。


とにかく映像資料、いわゆるビデオが豊富に展示されているのでわかりやすい。人が溜まっているところはビデオ映像が流れています。


ここは大和のコーナー。大和関連の資料がいろいろと展示されます。



このあたりから乗組員の手紙とか遺書とか。


あたりから鼻をすする音が聞こえてくる。

連合艦隊司令長官の山本五十六の遺品も。


これには胸を打たれた。


大和が沈没したときの戦死者名簿。


呉の海軍工廠で建造された戦艦などのリスト。艦艇は全部で133隻。


大型資料の展示室に展示される人間魚雷「回天」。実物です。


乗組員の遺言。

なんと、本人が出陣前に録音して残した肉声が流れる。ここでも涙だ。

零戦も実物。

零戦の向こうには戦艦の砲弾が展示されています。左の3本が大和で使われた46センチ砲弾。子供の身長くらいの高さはゆうにある。

このあたりですでに15時半を過ぎていました。まだ企画展があるので、残りの展示を少し駆け足で回りました。企画展は戦艦長門に関する展示でしたが、展示資料はどれも撮影禁止だったので残念ながら写真はありません。この企画展では大艦巨砲主義の象徴であり、第一次世界大戦後の連合艦隊旗艦であった長門や二番艦の陸奥は、敵国を攻撃するために存在したのではなく、戦争を抑止することが本来の役割であったという説明がされていました。ワシントン軍縮会議によって、このクラスの戦艦をイギリス、アメリカ、日本の三国がそれぞれ2隻、3隻、2隻を保有してバランスを保つということから出た理屈だと思うのだけど、素直には納得できない。今の核兵器と同じではないか。

企画展の展示室を出たのが17時少し前。てつのくじら館はあきらめて、大和ミュージアムの裏にある大和波止場へ。太陽が西に傾いて海風が吹いて、いい雰囲気でした。

大きなタンカーがドック入り。大和が建造されたドックはこのあたりのはず。


大和の左舷の前甲板を再現した公園。


振り返って大和ミュージアムの全景。


そろそろ疲れてきました。今日はこれくらいにして、是非とも再訪しようと心に決めて駅に向かいました。そう言えば昼ご飯を食べていなかった。駅ビルにあるここで生ビールとお好み焼き。


広島に向かう電車から見た夕陽。見学の疲れとビールの酔いが心地いい。


博物館の勉強も兼ねて見学をしたのですが、この博物館の特徴は何と言ってもボランティアの存在です。どこの博物館でもボランティアの方々がいるのだけど、ここは特に若者や外国人の見学者が多いので、ボランティアにも高いコミュニケーション力が求められる。でも、みなさん活き活きと説明されていました。あるボランティアの方は英語のマニュアルを片手に必死に説明している。またあるボランティアの方は見学者の後ろでメモをとりながら先輩の説明を聞いている。頭が下がります。展示の特徴といえば、個人からの寄贈資料がたくさんあること、ほとんどが実物資料であること、写真や映像資料(ビデオ映像)が豊富に展示されること、などかな。考古資料や民俗資料ばかり見てきたので、たまにはこういうのも勉強になります。

以上、大和ミュージアムのレポートでした。



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上野原遺跡

2018年06月03日 | 遺跡・古墳
2018年5月26日、南九州踏査ツアーの第9弾。今回が最終回となります。



展示館を見学しているうちに雨があがりました。大雨の中、傘をさして足元がジュクジュクになりながら見学することを覚悟していたのでホッとしました。
展示館の裏が上野原遺跡を保存した公園になっています。竪穴式住居や集石遺構を復元した復元集落、遺跡発掘時の地層をそのまま保存した地層観察館、発掘跡を建屋で覆って保存した遺跡保存館など、広大な敷地に見どころ満載の遺跡公園です。

展示館から出たところの眺め。


まずは地層観察館。


この地層は鹿児島の縄文時代を理解するためには必要な知識となります。


地層が明確に分かれているのがわかります。


説明板。


竪穴式住居の復元。

よく見る復元と少し違ってドーム型になっています。

竪穴式住居跡と集石遺構の復元。

集石遺構はここに土器を置いて火を焚いて調理した場所と考えられます。



復元集落の説明。


遺跡保存館が近づいてきました。

こんもりした小山の下が保存館になっています。



保存館の内部。


説明板。


連穴土坑の遺構。

連穴土坑というのは縦に掘った2つの穴を横穴(トンネル)でつないだもの。この土坑跡は横穴の天井部が取り除かれています。猪の肉などを燻製にするためのものと考えられています。

保存館の小山に登って撮った遺跡の全景。

雨上がりのあとの空気が気持ちいい。

展示館に戻ってきました。


展示館の上が展望台になっています。

北西方面の景色。この右側が北方面で霧島、えびの高原が望めます。桜島は左側です。

展示館と遺跡の見学で予定通りの3時間。埋蔵文化財センターを見学できなかったこともあって後ろ髪を引かれながら16時半頃に車を出発させました。空港まで30分ほど。事故も渋滞もなく、2日間の実地踏査ツアーは無事に終了。

雲海に沈む夕陽が綺麗でした。
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上野原縄文の森展示館

2018年06月02日 | 博物館
2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第8弾。

南さつま市金峰町の歴史交流館金峰をあとにして最終目的地の上野原遺跡に向かいました。この遺跡も当ブログの「南九州の遺跡」で簡単に紹介しています。

雨がどんどん強くなる中、途中で間違えて高速を降りてしまうという失敗があったものの、13時過ぎに遺跡最寄りの国分ICを降りました。コンビニのおにぎりで昼ごはんを済ませて13時半頃に到着。遺跡が台地上にあるのはわかっていたのですが、これが平地から切り立ったような崖の上にある台地で、 急な坂道をアクセルを踏み続けて上っていくような高さがあります。



遺跡周辺は 「上野原縄文の森」と呼ばれる 県営公園として整備されています。公園内には「上野原縄文の森展示館」という博物館と「鹿児島県立埋蔵文化財センター」があって、後者は鹿児島県内全域の遺跡発掘調査を行い、その成果を報告書としてまとめたり、出土した埋蔵文化財の保存や活用を図る活動をしています。平日であれば収蔵物とともに職員の方々が遺物を調べたり報告書を書いているところを見学できるのですが、残念ながらこの日は休日で見れませんでした。

まずは展示館で見学です。


緑が雨に濡れていい雰囲気です。


料金は310円。チケットを購入してロビーを進むと年配の職員の方がどうぞと案内してくれた部屋が企画展示室。「バックナンバー 古の美術品」というテーマで県内の考古資料を美術品に見立てて展示。南日本新聞の連載企画を本物を展示することで再現した企画展です。軽石の石偶、レモン型土器など珍しい資料がたくさんあって、なかなか面白い企画展でした。

円筒形土器、角筒土器、レモン形土器の三点セット。

どれもこの地方独特の土器で、円筒形土器は歴史交流館金峰でも展示されていました。レモン形というのは、上から見たときの形がレモンの形に似ているからです。これらの形の土器は初めてみました。

市来式土器。

薩摩半島の西側の付け根、いちき串木野市にある市来貝塚から出土した土器。市来貝塚は縄文後期を主とする貝塚で、南九州の縄文後期を代表する「市来式土器」の標式遺跡です。市来式土器は南は沖縄県から九州全域で出土し、地域間の文化交流を示す重要な土器型式とされています。今回、市来貝塚へ行こうとも思ったのですが、少し遠くてルートからはずれるのでパスしたものの、ここでこの土器が見れるとは思っていませんでした。

企画展を見学しているときにさっきの年配の職員さんが「シアターで短い映画が始まるのでどうですか」と言ってくれたのでシアターに行きました。古代を生きた上野原遺跡の人々を描いた漫画映画で、子供向けの映像でしたが学芸員の勉強と思って観ていました。

映画のあと、企画展を最後まで観て常設展示の部屋へ行くと、ここでまた年配職員さんと話をする機会がありました。奄美大島の方でお歳は62歳、おそらく奄美の公務員の方と思われますが、昔から博物館で働きたいと思ってずっと希望していたのですが最後までかなわずに定年退職、この上野原での職員募集の知らせを見て受けてみたら採用されたとのこと。ボランティアかと思っていたら正規職員だそうで「願いがかなってよかったですね、おめでとうございます」と言ったら満面の笑顔になりました。

常設展示室の入口。

遺跡に復元されている竪穴式住居をイメージしています。

そんな話をしていると、今度は職員とおぼしき女性の方が近づいてきて「聞きたいことがあれば説明させていただきます」と声をかけてくれた。聞けば学芸員さんとのこと。面白そうな展示をみつくろって説明してくれました。当方も学芸員の勉強をしていることを伝えて、展示とは関係ない質問をさせていただいたのですが、快くいろいろ答えていただきました。

河口コレクション。


河口貞徳氏は鹿児島考古学会の重鎮。亡くなられたあとに遺族の意向で個人所蔵していた数々の出土品を県立埋蔵文化財センターへ河口コレクションとして寄贈されました。それはそれは貴重なものばかり。発掘調査で出た遺物を個人で所蔵するというのはどういうことなのだろう、個人の資金で発掘したということかな、それにしても出土したものを個人所有にしようと思うと土地の所有者の了解が必要だけど、と考えてしまいました。市来貝塚から出た縄文人の頭骨まで個人で所有されていたとは。

歴史交流館金峰の学芸員さんからも教わったのですが、約7300年前に薩摩半島の南にある鬼界カルデラが大噴火し、積もった火山灰(アカホヤというそうです)によって鹿児島の縄文文化は絶滅したそうです。先の鹿児島独特の円筒形埴輪などはアカホヤよりも古い時代の土器にあたり、アカホヤ以降の遺跡からはこの形の土器がまったく出ないそうです。まるでベスビオ火山の大噴火によって消滅した古代都市ポンペイのようです。いったん絶滅した南九州に北部九州やその他の地域から人々がやってきて新しい縄文文化を形成したとのことですが、それは他の地域とそれほど変わらない文化であったということです。

ロビーに展示される地層の剥ぎ取り標本。

数万年に渡る度重なる火山活動の結果がよくわかります。遺跡には実際に発掘されたときの地層がそのまま保存されています。

喜界カルデラの爆発時の様子がよくわかる地層剥ぎ取り標本。

噴火によってまず軽石が積もり、その後に左から右に火砕流が流れて樹木を燃やし、その上に火山灰(アカホヤ)が積もった様子です。

学芸員さんによると、遺跡が発見された時、当時の知事が『神様からの贈り物』と言ったそうです。上野原遺跡は工業団地の開発で発見されたのですが、知事はそのときから観光資源としての活用を考えていたようで、その結果、工業団地は半分に縮小されて遺跡部分が県営公園として整備されました。

この遺跡を一躍有名にしたふたつの土器。

形だけ見ると弥生式土器のようだけど、これが縄文時代の地層から出たことで専門家が驚愕したという。しかも、ふたつ並んで地中に埋められていたそうです。国の重要文化財に指定されています。

ほかにも興味深い資料(すべてが実物)がたくさん展示されていて時間が経つのを忘れて見学していました。それと、この常設展示は先日行った登呂遺跡に併設する登呂博物館と同じくらいに美しい展示で、まるで図鑑のようでした。











さあ、遺跡の歴史を学びながら展示を堪能したので、いよいよ遺跡を見学に行ってきます。
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歴史交流館 金峰

2018年06月01日 | 博物館
2018年5月26日、南九州踏査ツアーレポートの第7弾です。
栫ノ原遺跡の見学を済ませて国道270号線を北上。南さつま市金峰町にある「歴史交流館金峰」に到着したのが開館時刻の9時少し前。ここは前日に鹿児島から野間岬に向かう途中に立ち寄った「道の駅きんぽう木花館」の裏手にあります。開館まで待って入口に向かうとおばさんが掃除中。「もう開いてますか。」「はい、開いてますよ。どうぞどうぞ。お客さんですよお。」

前日に道の駅から撮った全景写真。


事務室から出てきた女性に料金300円を払って見学を始めたのですがダメもとで「説明をお願いできますか」と聞いてみたところ、快諾をいただいた。聞くと女性は学芸員さんでした。ここが面白くなければすぐに切り上げて鹿児島市内の博物館へ行こうと思ってやってきたのですが、結局はたっぷり2時間、この学芸員さんと楽しい時間を過ごすことになりました。

金峰町には高橋貝塚をはじめ重要な遺跡がたくさんあり、遺跡の宝庫という印象でした。薩摩地方独特の円筒型の土器、南九州唯一の甕棺など多くの貴重な展示資料を写真に撮ったのでここで紹介をしたいのですが、不特定多数の方への公開はNGとのことなので掲載を見送ります。学芸員さんの顔をつぶすことになるので。

でも、これくらいはいいかな。

この学芸員さんが企画から展示までを担当した企画展「米どころ金峰 ~No Rice,No Life~」です。

これは歴史博物館ではよくある古代衣装の試着体験。

他の博物館と違うのは、単なる貫頭衣ではなくて隼人の衣装になっていること。しかも隼人の楯もある。この渦巻き模様は隼人の象徴で、まさしく海の渦、あるいは海流の逆巻く様子を表現していて、隼人が海洋民族であることの証である、というのは私の意見です。

入口のホールに展示される木花咲耶姫の砂像。

金峰町には日本三大砂丘のひとつ、吹上浜があります。吹上浜では機を同じくして「砂の祭典」が開催されていました。でも、けっこう強い雨だったので会場の砂像はどうなったんだろうか。



学芸員さんにはいろいろなことを教わった。展示資料に関する詳しい話のほかに、高橋貝塚は以前は金網で囲っていなくて誰でも入れたこと、そしてこの学芸員さんがそこで高坏の破片を発見したけど持ち帰りたい誘惑に打ち勝ってその場においてきたこと(エライ!)、高橋貝塚のある玉手神社にあった小さな土俵はこの地に伝わる水難事故防止を願う「高橋十八度踊り(ヨッカブイ)」というお祭りで使われること、阿多貝塚の貝殻崎城跡の碑文が小泉元首相の筆による理由、この地域は温暖な気候を利用して全国でも例のない超早場米に特化した米作りをしていることなどなど、興味深いお話が満載でした。学芸員さん、ありがとうございました。

鹿児島県立歴史資料センター黎明館をパスして次に向かうは今回のメインイベント、上野原遺跡。楽しみだ。
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