古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

美山かやぶきの里 車中泊の旅(後編)

2020年01月25日 | 旅行・車中泊
  前夜は早い目に温泉に入って食事も済ませ、21時過ぎには就寝態勢になっていました。テレビを見たりスマホを触ったり、おそらく22時頃には寝入ったようです。年末の四国旅行と同じように車中の寒さ対策を十分にしていたつもりですが、朝方に寒さで何度か目が覚めました。よく考えるとダムの下、川の横にある道の駅です。子供が小さい頃、毎年夏になると十津川の河原でキャンプをしたものですが、河原のテントで寝ていると真夏であっても深夜になると震えるくらいに冷え込みます。そのことを思い出しました。

  早く寝たことと寒かったことから、朝は5時半ころに目が覚めてしまいましたが、外は真っ暗なのでしばらくウトウトしながら時間が過ぎるのを待ちました。そうこうするうちに車やトラックが入ってきます。ダンプカーもいます。トラックやダンプカーはエンジンを切らないのでうるさいのです。
 外が白んできたのでワンコに朝ご飯をあげて散歩に出ることにしました。外に出ると一面に霧が立ち込めて真っ白です。空気は冷たくてリードを握る手が固まります。散歩の帰りにすぐ近くにある足湯でしばらく手をつけて解凍しました。その後、着替え、トイレ、歯磨きなど準備を済ませて出発です。

 この日の予定は前日に決めました。まずは上のダムを見学です。ダムの名前は「日吉ダム」。今回もWikipediaで調べてみると、このダムが堰き止めている川は桂川だって。この川を下っていけば保津川下りの保津峡を経て京都市内に流れ込み、さらには淀川に合流して大阪湾へと。その桂川とは知らなかった。
 ダム建設の経緯を見ていると、関西圏の人口急増にともなう水需要に応えること以上に、洪水対策としてのダムの必要性が認識されます。保津峡は確かに狭い。いったん大雨が降ると周辺の山々から流れ込んだ大量の水が保津峡に一気に押し寄せ、そこで流れが止められて亀岡盆地が水没するという。だからその上流で水量調節が必要となる。とはいえ、当然のことながらダムの底に沈むことを余儀なくされる村の住民はダム建設に反対だ。難航した補償交渉は、国庫補助率を上げるとともに、総合的な地域振興策を実施することでようやく妥結したとのこと。それによって当時の建設主体である水資源開発公団は地元と共に早くからダムによる地域振興を目指し、結果として温泉や温水プール、体育館、キャンプ場、道の駅などを備えた多目的一大レジャースポットとして「スプリングひよし」が誕生したということです。

ダムの下からです。前日に撮りました。


  昨年の台風19号の際に「緊急放流」というのが話題になりました。ダムの貯水量を上回る前に放流するという行為が下流域に大きな被害を及ぼすからやってはいけない、と。日吉ダムに行くとダムのてっぺんからほんの数メートル下の岩肌に、平成25年の台風のときの最高水位のラインが示されています。このときは下流域の嵐山一帯が水に浸かりましたが、このダムがなかったら被害はさらに拡大していただろうとのことです。これを見ると放流する意味が理解できます。水があふれ出したらダムの機能を失います。最悪はダム決壊です。その前に水を吐き出す必要があります。入ってくる水と同じ量を出すので、わかりやすく言えばダムがなかったときと同じ状況にするということです。実施にあたっては下流域の自治体とタイミングを調整して実施するようです。台風25号のときの状況は日吉ダムのレポートに詳しく書かれていました。ちなみに「緊急放流」は正しくは「防災操作」の中の「特例操作」というそうです。「防災操作」にはほかに「予備放流」「洪水調節」という操作があります。いい勉強なりました。

  実はこのダム、なんとダムの堤の中にダムを学習するための見学施設があるのです。残念ながら朝が早すぎて開いていませんでしたが、ほんとうに様々な面でダムを活用しようという思いが伝わってきました。







真っ白な霧の中を鷲が飛んでいました。


ダムの上から。


このダムでできた湖は「天若湖」と書いて「あまわかこ」といいます。




 霧の中の1時間の散策はなかなかの充実タイムでした。時刻は8時過ぎ、次の行き先は京都府福知山市にある広峰古墳記念公園です。1時間ほどのドライブ、途中でお腹がすいてきたので食事処があれば入ろうと思ったのですが、いくら走ってもそんなお店は見つからず、結局コンビニに入りました。年末に四国の田舎を走った時も思ったのですが、そもそも田舎にはコンビニがあまりないのですが、数が少ない中でもミニストップのシェアが結構高いのです。そして、今回もミニストップ比率は高かったです。感覚としては4軒に1軒がミニストップです。ワンコを車に残してイートインコーナーで朝ご飯をとりました。

 目指す広峰古墳記念公演はJR 福知山駅からすぐのところで、思った以上に街中にありました。





 広峰古墳群はJR福知山駅の南側の丘陵上にある古墳時代初頭から中期にかけての30数基の古墳からなる古墳群ですが、現在はそのほとんどが消滅しています。この古墳群の盟主墳と考えられる広峰15号墳は全長40mの前方後円墳で、4世紀後半頃の築造と推定されています。広峰古墳記念公園はこの広峰15号墳を3/4のサイズに縮小復元し、公園として整備されたものです。
 広峰15号墳を有名にしたのは木棺内から出土した「景初四年」の銘が入った斜縁盤龍鏡という銅鏡です。邪馬台国の卑弥呼が魏から親魏倭王の称号と銅鏡百枚を下賜されたのが景初三年(239年)なので、景初四年はその翌年ということになり、邪馬台国論争に一石を投じて一躍有名になりました。ただし、景初という魏の年号は三年までしかないので、この鏡は魏で作られたものではなく倭で作られた仿製鏡と考えられています。



説明板はほとんど読めなくなっていました。


朝が早くて誰もいないのでリードをはずしてあげました。




公園の外に見つけた盤龍鏡出土の碑。

なんで公園の外なの?

 時刻は10時過ぎ。次は京都府から兵庫県に入って丹波市の石生(いそう)というところ。30分ほどで到着です。この石生というところ、おそらくほとんど知られていないと思うのですが、日本列島を縦断する中央分水嶺(分水界)の中で最も標高の低い所で、なんと標高が約95メートルしかありません。ここに降った雨や山から染み出した水が日本海側に流れるか、それとも大平洋(瀬戸内海)側に流れるか、運命の分かれ道。それが中央分水嶺です。わずか95メートルなのにどっちに行くかわからないというのも不思議な感じです。



駐車場に車を停めて水分れ(みわかれ)公園を目指して歩きます。

陽が高くなってきて少し暖かくなってきました。のどかで気持ちがいい。

水分れ公園にやってきました。

この右側の道が分水嶺です。道路の右側が日本海へ、道路の左側にあるこの小川は瀬戸内海へ通じています。

水分れ公園にはまさに運命の分かれ道があります。

右側に流れて行った水は由良川から日本海へ、小川(上の写真の小川です)を真っすぐに流れていくと加古川に流れ込んで瀬戸内海へ流れていきます。

この図がわかりやすいです。上の写真はこの図の奥から手前を向いて撮っているので方向が逆になりますが、上の写真の右側(日本海側)が左の赤い部分、黄色の部分が瀬戸内海側です。そしてその境目がさっきの道路です。


 小川を掃除しているおじさんが声をかけてくれました。「どちらからこられましたか。もしお時間あるようでしたら説明させてもらいますが」と。たぶん市の職員の方だと思います。こちらは時間たっぷりなのでお願いしました。舞鶴から来たというおじさん・おばさんグループも加わって職員の方のレクチャーを聞きました。



 江戸時代、加古川から由良川をつなぐ運河を開発する計画があったそうです。もしもそれができていたら、北前船の繁栄はありませんでした。温暖化がどんどん進んで北極や南極の氷が溶けだして海水面が上昇し、それが100メートルに達することがあるとすれば、日本はここで分断されることになります。そんな話もしてくれました。楽しい時間でした。

公園には立派な神社がありました。





𡶌部(いそべ)神社といいます。





 日本海から由良川をさかのぼって石生を通過して加古川を下って瀬戸内海へ出る。あるいはその逆をいく。おそらく、徒歩と船が主たる移動手段であった古代人にとってこのルートは出雲や丹後と畿内を結ぶ大動脈だったと思います。そんな古代人が見た景色を見たいと思ってここに来ました。

 日吉ダム、広峰古墳、水分れ公園。これだけ充実した時間を堪能しても朝の始動が早かったので時刻はまだ12時過ぎですが、十分に楽しんだのでこれにて帰路につくことにしました。帰りももちろん一般道で、3時間ほどで帰ってきました。以上、思いつきで行ったわりには充実した車中泊の旅の報告でした。







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美山かやぶきの里 車中泊の旅(前編)

2020年01月24日 | 旅行・車中泊
 2020年1月12~13日、急に思い立って車中泊の旅に出かけました。行き先は京都の山奥、美山というところにあるかやぶきの里。かやぶきの里といっても写真で見る限り、白川郷ほどに個々の家は大きくないし村も広くないけど、風情があってほっこりした気分が味わえそうなので、前から行きたいと思っていました。実は白川郷にも行ったことがなくていつかは行きたいと思っていたので、それよりも先に美山にという気持ちがありました。大きいのを見た後に小さいのを見るとガッカリするかもしれないと思って。
 
 いつも通りのペースで朝10時に自宅を出発。例によって高速は使わない方針でナビは一般道優先で設定。何も疑わずにナビにしたがって運転していると、京都市内を通りぬけるルートになっていて渋滞に巻き込まれました。前日にGoogleで検索したときに想定していたルートでは外環(国道170号線)から亀岡に抜ける道と思っていたので、途中で気がついたものの後の祭り。

 それにしても、ナビに頼るようになってからはドライブの楽しみがひとつ減ったように感じます。昔なら知らない土地に行くときは事前に道路地図を見て全体ルートを頭に入れて、それでも迷ったら道端に車を停めて確認して、そして何とか目的地に到着する、というのが常でした。迷いながらとしても自分の決めた道を行って目的地に到達する満足感みたいなものが味わえました。運転中は常に東西南北のどちらを向いているかをわかりながらハンドルを握っていました。それがナビに頼るようになってからは全体が頭に入らず、画面に表示される部分しかわからないので、あとどれくらいとか、どっちを向いているとか、数字や文字で表示されるものの感覚的にわからないので時々不安になるし、信号で停止するたびに拡大や縮小を繰り返す始末です。まるでナビに操られている感じさえします。奥さんもそれを感じているようで、道路地図を買おうかと言ってます。

 それはさておき、京都市内を抜けてからの周山街道(国道162号線)は追走車も対向車もほとんどなく、北山杉を眺めながらまるで森林浴をしながら走っているような感覚で非常に快適なドライブでした。目的地に着いたのが14時頃だったと思います。駐車場には観光バスが1台と20台くらいの乗用車が停まっていて観光客もそこそこいますが、どうやら見学を終えて帰る雰囲気の人が多い。こちらは今から車を停めてワンコと一緒に見学です。









白川郷と同じように放水銃が備えられていて年に2回の放水訓練があるそうです。

村のいちばん奥にある小さな神社。稲荷神社です。


実際に使われていたお宅が火事で焼失したあと、残っていた記録をもとに平成12年に復元して資料館になっています。

20年経ってかやぶき屋根の苔がいい感じ。

 小さな村の中を何も考えずにワンコを連れてウロウロするので、気がつけば同じところをグルグルしていました。でも飽きない。楽しいです。中国や韓国からの観光客が結構いたのには驚きました。

茅葺をやめて瓦葺きにしているお宅もあります。でも屋根の形はそのまま。


村の一番高いところにお寺があります。普明寺という禅寺です。こんな小さな村にあるお寺が曹洞宗のお寺とは少し驚き。


村のいちばん奥まったところにポツンと一軒家。


お腹がすいてきたのでこのお店でピザをいただきました。ワンコがいるので外のテーブルで。



マルゲリータ1200円、美山牛乳のアイスオーレ420円、しそジュース320円、締めて1,940円。オーレがおいしい。美山牛乳もそうだけどコーヒーの味がおいしいと思ったら、豆を挽いてサイホンで入れていました。ワンコの落ち着きがなかったので写真を撮り忘れました。

丘の上に立つ神社。鎌倉神社といいます。大きな石を積み上げた階段は少し危険です。


でも、村全体を見渡せるので気持ちがいい。


小さな川をわたった村のはずれにある知井八幡神社。写真の奥の階段を上がったところです。

こちらは立派な神社です。境内はまだお正月の雰囲気が少し残っていました。





それにしても、こんな小さな村にお寺がひとつに神社が3つもあるなんて。

村のはずれを流れる小さな川。誰もいないのでリードをはずしてあげました。


 このとき、近くのお宅から出てきたお母さんが野焼きを始めました。「どちらからですか」と声をかけてくれる気さくなお母さんでした。

昔ながらの郵便ポストはおなじみの撮影スポットのようです。


村の入口にあるお地蔵さん。

その後ろには大きなすすき。これ、すすき?

菜の花畑だけど、白菜から出た菜の花です。



駐車場の横を流れる川は由良川です。

けっこう流れが速いので落ちると危ない。念のためワンコに注意です。この川が由良川というのはあとでわかったことですが、翌日にも登場します。



 2時間くらいウロウロしました。少し太陽が傾いただけで山の向こうに沈んでしまいます。陰ってくると急に気温が下がって寒くなってきました。時刻は16時過ぎ。そろそろ退散かな。



 今年の冬は暖かいので雪が全くなかった。これを書きながらライブカメラを見てみても雪が全くありません。かやぶきの里では1月下旬から雪灯篭、2月には雪まつりというイベントがあります。楽しみにしている皆さんにとっては大変残念なことと思いますが、雪がないことで訪れることができる人もたくさんいます。痛し痒しというところでしょうか。

この機会に少し調べてみました(と言ってもWikipediaが中心ですが)。

 村の住所は京都府南丹市美山町北。中世には丹波国桑田郡弓削荘に属していました。桑田郡と聞いてビックリ。いま継体天皇を勉強しているところですが、第25代武烈天皇には跡継ぎがいなかったのでその崩御にあたって、傍系から天皇を迎え入れようと考えた大伴金村ら側近たちがまず招聘しようとしたのが倭彦王なる人物。彼は第14代仲哀天皇の五世孫で丹波国桑田郡に住んでいたといいます。彼は迎えに来た一団に攻め込まれると勘違いして逃亡したほどのダメ男なのですが、まがりなりにも王と呼ばれた人物。その倭彦王がいたのがこのあたりとは驚き。結局、倭彦王がダメ男だったことで次点であった継体天皇が即位できたという日本書紀のお話です。

 ここは林業を主産業とする山村集落ですが、集落の中を通る街道は鯖街道の一つとされ、多くの旅人が京都と若狭を行き来していたそうです。鯖街道といえば琵琶湖の西の街道のことだと思っていましたが、その鯖街道がいくつもあることを初めて知りました。そしてこの道はそれらの中でも最も西側のルートであることから「西の鯖街道」と呼ばれるそうです。さらに、この北地区は近世には篠山藩に属していたそうな。篠山といえば私の父親の出身地。篠山の中心地である丹波篠山市は兵庫県、そこから直線距離にして数十キロ、兵庫県どころか京都の奥も奥、若狭に近いこの場所が篠山藩とはこれまた驚き。でも少し親近感を覚えます。

 1993年(平成5年)に周囲の水田と山林を含む北地区の集落全体が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されたことから、当地区で「かやぶきの里保存会」が組織され、歴史的景観の保全と住民の生活を両立すべく様々な検討が重ねられました。その結果、住民が出資して「有限会社かやぶきの里」を設立し、建造物の維持管理および観光施設としての運営を組織的におこなうようになった、とあります。有限会社が運営しているというのは現地で知ったのですが、まさか住民の共同出資とは思わなかった。どこかの営利企業が村から委託を受けてビジネスとしてやっていると思っていました。

 この集落にある50戸ほどのうちの約7割、交流館、民俗資料館、民宿なども含めた38戸が茅葺き屋根だそうです。村には屋根を葺くための茅を育て、刈り取って乾燥、保管する茅場というのを管理しているそうですが、一戸分の屋根を葺く茅の量はその茅場一年分では足りないとのこと。ということは屋根の葺き替えは村全体で数十年単位あるいは百年単位で計画的にやらなければなりません。住民の結束、秩序、相互扶助などによって成り立っていると言えます。



 帰りの車を運転しながら思いました。住民どうしの結束や協力によって集落全体の景観保存が成り立っているということは、逆に言えばここに住民が住んでいるからこそできるのであり、意味がある。人が住まない集落を保存することに意味はない。何十年も前から日本中の小さな山村に過疎化の波は来ていて、この村も例外ではないはず。景観を保存する以上に大事なことは、住民が住み続ける村にすることだ。



 さあ、暗い山道を走るのはいやなので、日が暮れてしまう前に本日の宿泊地「道の駅スプリングひよし」へ向かい、30分ほどで到着です。ここは温泉もあり、駐車場も広いので車中泊には持って来いの道の駅。3連休の中日でもあるし、そこそこ車がいると思ったのですがそれほどでもない。でも、2台のキャンピングカーがいい場所をキープしていました。





この橋を渡ったところが温泉です。身体が冷えていたのでゆっくりと温まりました。


次の日はこの上にある日吉ダムからスタートです。続きは後編にて。



かやぶきの里 美山: 新進気鋭の写真家「黒川一成」の撮り下ろし写真集「かやぶきの里 美山」。旅行の参考に、また旅行に行った気分になれる一冊。 光画 (光画文庫)
黒川一成
光画文庫


美山町追憶―日本の原風景が今も残る京のかやぶきの里
奥村 恒正
ウインかもがわ


美山茅葺きの里―あらたひでひろ写真集
あらた ひでひろ
東方出版



古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋 浩毅
日比谷出版社


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纒向遺跡・纒向古墳群(葛城・纒向ツアー No.29)

2020年01月22日 | 実地踏査・古代史旅
 上ツ道をJR巻向駅付近まで南下してJRの踏切を渡ると、卑弥呼の神殿跡かと大騒ぎになった大型建物跡が出た纒向遺跡辻地区に出ます。前回訪ねたときには発掘後に埋め戻されたままの状態でしたが、その後に整備が行われたとのことだったので再訪しました。





 柱を復元することで建物の位置がわかるようになっていますが、この整備はどうなんだろう。いまひとつ想像力が働かない。地面もこんな風にしてしまうと3世紀の風景が甦ってこない。個人的にはこれなら整備前の方が良かったと思います。







三輪山をバックに。


 二度目の訪問であることと、整備状況にガッカリしたこともあって短い滞在時間でした。団地の間を抜けて次の目的地へ向かいます。途中、纒向小学校の東側に見える纒向石塚古墳を撮影します。前回訪問時に墳丘に上ったのでパスします。



 そのあと、右折して小学校の南側に出ると校舎の右側に纒向石塚古墳、左側に纒向矢塚古墳が見えます。



 纒向矢塚古墳も前回のときに墳丘に上っているので撮影のみ。



 そして目指したのが東田(ひがいだ)大塚古墳です。田んぼの真ん中に古墳が浮かぶのどかな風景。





 東田大塚古墳は全長約120メートルの纒向型前方後円墳。前方部は畑になっています。幅20メートルの周濠跡が確認され、発掘調査により3世紀後半の築造であることがわかっています。



 纒向型前方後円墳とは、定型的な前方後円墳が成立する前の弥生時代終末期に見られる前方後円形の墳丘墓を古墳として積極的に定義しようとしたもので、全長と後円部径、前方部長の比率が3:2:1になっているのが特徴です。「初期ヤマト政権の中枢たる纒向遺跡との政治的、祭祀的関係のもとに成立した」との見解により「纒向型」と呼称されます。さっき写真に収めた纒向石塚古墳や纒向矢塚古墳も該当します。

墳丘への上り口。

簡単に上がって行けそうですが「私有地 立入禁止」の札に遮られました。







 時刻は15時半を少し回った頃です。予定ではこのあと桜井市埋蔵文化財センターに寄って見学をするつもりだったのですが、さすがに疲れました。16時半が閉館なので行くなら急ぐ必要がありますが、前回も見学しているので「まあいいか」と思ってパスすることにしました。
 
 結果的に東田大塚古墳が最終踏査地ということになりました。2日間で訪ねたところは60カ所以上、そのうち古墳は40カ所。とくに2日目は細くて傾斜のある山の辺の道を自転車で走るという無茶をしたことが重なって疲労はピーク。前回の纒向訪問時もそうでしたが、夕方の太陽が傾きかけた中、西陽を浴びながら桜井駅までひた走るのはお楽しみが終わってしまった寂しさとともに何とも空しい気持ちになるのです。そんな気持ちを振り払って、写真だけでもと最後までチャンスを狙って撮りました。

三輪山。


大和川。


箸墓古墳。



以上、29回にわたる葛城・纒向を巡る実地踏査ツアーの報告を終わります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋 浩毅
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馬口山古墳・フサギ塚古墳・矢矧塚古墳(葛城・纒向ツアー No.28)

2020年01月21日 | 実地踏査・古代史旅
 大和神社を出て少しだけ北に向かうと左にすぐ見えるのが馬口山古墳です。全長110メートルの前方後円墳で、墳丘上で特殊器台型埴輪の破片が採取されたことから、古墳時代前期前半の3世紀後半に築造されたと考えられます。

大和神社の参道からすぐのところは前方部。


この裏手に回ると後円部が見えます。




 馬口山古墳を確認した後は国道と並行する村の中の道を南へ向かいます。この道はおそらく古代に上ツ道と呼ばれた道だと思います。走り出してすぐを左に曲がったところにフサギ塚古墳があります。全長110メートルの前方後方墳ですが、築造時期を推定できる遺物がないとのことでいつ造られたのかわかっていません。




他の方のブログなどを見ていると、少なくとも2016年時点ではこの説明板の文字がくっきりとしているですが、私たちが訪ねたときにはほとんど読み取ることができないくらいになっていました。

これは大和神社に向かう途中に撮影しました。


 さらに南下すると右手前方に見えてくるのが矢矧塚古墳です。全長が102メートルの前方後円墳です。こちらも築造時期はわかっていません。



これまた消えてしまっている説明板。


後円部です。


墳丘全体が柿畑になっています。


 これにて大和古墳群と柳本古墳群の踏査を終えて、あとは桜井市に向かってまっしぐら、纒向遺跡に戻ります。少しずつ陽が傾いてきました。



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マバカ古墳・栗塚古墳・大和神社(葛城・纒向ツアー No.27)

2020年01月20日 | 実地踏査・古代史旅
 ノムギ古墳の周濠跡で両足にくっついた無数のひっつき虫を取りながら自転車に乗って次に目指したのは栗塚古墳でしたが、その途中に見つけたのがマバカ古墳。岡田さん、佐々木さんはどんどん先を目指すので声を掛けずに写真を撮るだけにしました。





 大きさは約80メートルと書いてあります。形状はたぶん前方後円墳です。「たぶん」と書いたのは、この古墳の情報がネットから見つけることができなかったので、説明板にある図からの見立てです。築造時期は具体的に示されず「大和古墳群の中でも最も遡る時期」とあるだけです。大和古墳群は3世紀後半の築造が多かったので、その中でも最も遡る時期となると3世紀半ばとか前半の可能性があるということかな。それならもっと詳しい調査をすればいいのになあ。

 少し走ると国道との交差点。ここにコンビニがあって、その向こう側に見えるのが栗塚古墳です。発掘調査が行われていないので詳細は不明ですが、全長が120メートルの前方後円墳らしいです。道路建設のために前方部の大半が破壊されているので、見た目は円墳です。



 ここも写真を撮るだけにして、コンビニで水分補給。気温がどこまで上がっているのかわからないけど、とにかく11月とは思えないくらいの陽気。時刻は14時をまわった頃で、体温の上昇も甚だしい。スポーツドリンクを一気に飲み干し、信号を渡って大和神社に向かいます。


大和神社は信号を渡ってすぐのところです。






大和神社は「おおやまとじんじゃ」と読みます。神社の公式サイトにある由緒を転載します。

日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。
また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。


 祭神は日本大国魂大神、日本書紀では倭大國魂神とも記されます。崇神天皇の時に天照大神とともに宮中から遷されたのですが、天照大神がまず檜原神社に遷ったあと何度か場所を変えて最後に伊勢に鎮座したのと同じように、倭大國魂神もその鎮座地を変更しています。宮中から最初に遷った場所は日本書紀に記されていませんが、その後「神地を穴磯邑に定めて大市の長岡岬に祀った」と記されます。穴磯邑は「あなしむら」と読みます。午前中に行った相撲神社や穴師坐兵主神社があったところは桜井市大字穴師です。崇神天皇の磯城瑞籬宮からそれほど遠くなく、天照大神が最初に遷った檜原神社とは尾根筋がひとつ違うだけのところです。倭大國魂神が最初に遷った場所は穴師坐兵主神社のあたりではないでしょうか。そして最終的に現在の地に鎮座したということだと思います。







 この神社は戦艦大和ともゆかりがあります。戦艦大和の艦内には大和神社の祭神である大國魂神が分祀されていました。神社サイトによると、大國魂神は古代航海神の神格を有していたこと、名前が同じであること、そして国土の守護神の神格を戦艦大和に重ねたのではないか、というのが理由のようです。その関係から昭和28年に戦艦大和と運命を共にした英霊2,736柱の分霊が合祀されました。

 参拝を済ませたあと、境内にある星塚古墳を探しました。

多分これです。


 資料を見つけることができなかったので、いろんな人のブログを拝見したところ、全長70メートルほどの前方後方墳のようです。ただし、明確に前方後方形を認識できるわけではなく、ふたつの方墳を連結したような形ともあります。墳丘は林の中なので外から眺めるだけにとどめました。

 このあとは大和神社の裏手にある馬口山古墳です。



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波多子塚古墳・ヒエ塚古墳・ノムギ古墳(葛城・纒向ツアー No.26)

2020年01月19日 | 実地踏査・古代史旅
 西山塚古墳を少し北へ行ったところの左手にあるのが波多子塚古墳です。全長約140メートルの前方後方墳で、特殊器台型の埴輪が検出されています。また、1998年の発掘調査で古墳の北側に周濠が見つかり、多量の埴輪が出土しました。3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳です。



 特殊器台型埴輪というのは特殊器台が円筒埴輪に変化する過程のもので、特殊器台の台座の部分がなくなったものと考えればいいと思います。特殊器台が弥生時代後期後葉、円筒埴輪が古墳時代なので、特殊器台形埴輪が見つかることによって、その古墳の築造時期が古墳時代の早い時期、それこそ出現期あるいは前期前半ということが想定できることになります。



 でも、遠目から見てもこの古墳が140メートルもあるようには見えなかったのですが、それもそのはず、後方部の正面からの眺めだったので、この奥に前方部が伸びていたのです。

 自転車で走り出そうとしたら水が流れる音が聞こえたので思わず写真を撮りました。大和高原から流れ出る清水です。そのまま飲めそうなくらい美味しそうに見えました。



 そして、この写真を撮っているうちに岡田さん、佐々木さんは先に行ってしまいました。すぐに追いかけたものの、ふたりの姿は見えなくなっていました。軽い下り坂になっているので気持ち良くペダルを漕いだのでしょう。しばらく待ったものの戻ってこないので携帯に電話をしました。すぐその先を左に曲がらないといけないので、そのまま行かれては困るのです。ふたりが戻ったので予定していた道を進みます。ここまでずっと山の辺の道を北へ北へと進んできたのですが、ここで折り返しです。

 折り返し点にある古墳はヒエ塚古墳。全長が130メートルの前方後円墳で、前方部がバチ形に開いていることから古墳時代前期前半の築造と考えられます。大型古墳としては大和古墳群の最北端に位置します。

 尾根上に築かれた墳丘を下から見上げた時に思わず「ホタテや」とつぶやきました。というのも、左側の後円部と右側の前方部を道路が突っ切っているので、左側の墳丘は前方部の極端に短い帆立貝型前方後円墳と思ってしまったのです。そして右側の墳丘は別の古墳、具体的には次に行く予定だったノムギ古墳だと思ったのです。


前方部(右側)が短く切れているのがわかると思います。

道路を挟んで右側にある前方部です。


 このときはふたつの墳丘が別の古墳だと思いましたが、合わせてひとつのヒエ塚古墳だとわかったのが次のノムギ古墳に立つ説明板を見たときでした。

その説明板です。

図の上部に前方後円墳が描かれていますが、これがヒエ塚古墳で、その真ん中を道路が横切っていることがこの図で理解できました。

 そしてこの説明板のうしろにあるのがノムギ古墳です。全長が63メートルの前方後方墳です。出土した土器から大和古墳群に分布する前方後方墳のなかでは最も古い古墳時代前期前半の古墳と考えられています。

後方部の墳丘です。そんなに高くない。



私たちは古墳の周濠跡に立ってこの説明板を見ています。

大和古墳群の全体図です。


 さあ、ここから折り返しになります。そして自転車に乗ろうと足元を見てビックリ。靴から靴下からズボンから、ひっつき虫だらけになっていました。取るのが大変でした。



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小嶋 浩毅
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下池山古墳・西山塚古墳(葛城・纒向ツアー No.25)

2020年01月18日 | 実地踏査・古代史旅
 東殿塚古墳の探検を終えて再び柿畑のあぜ道を引き返し、佐々木さんの待つ念仏寺まで戻ってきました。今回の実地踏査ツアーもそろそろ終盤戦です。とはいえ、まだまだ重要な古墳が残っているのは纒向ならでは。

次もそのひとつの下池山古墳です。


 下池山古墳は全長が約120メートルの前方後方墳で古墳時代前期前半の築造と考えられています。中山大塚古墳や、このあとで行く予定のノムギ古墳とともに「大和古墳群」として国の史跡に指定されています。調査の結果、直径が37センチもある内行花文鏡が出土しました。日本最大の銅鏡が福岡県の平原遺跡から出た直径46.5センチの内行花文鏡なので、それと比べると小さいですがそもそも37センチでも十分に大きい。



 この古墳は西殿塚古墳、東殿塚古墳、中山大塚古墳と同様に古墳時代前期前半という古い古墳であることに加えて、大和古墳群に5つしかない前方後方墳であることが興味を引きます。

 前方後方墳といえば東海地方に多い墳形で、愛知県一宮市にある全長40.5メートルの西上免古墳は3世紀中葉を下らない、つまり3世紀前半の可能性がある古墳だと言います(本当に3世紀前半だとすれば西上免墳丘墓と言わなければいけない)。それくらい古いとすると、前方後方という形状は東海から大和に入ってきたと考えることが可能になります。


 さて、ここで話は大きく横道にそれますがご容赦ください。今回の実地踏査ツアーではたくさんの古墳を訪ねました。当ブログではそれらの古墳を訪ねたときの様子をお届けしているのですが、それに際して当該古墳の基本情報(大きさ、形状、築造時期など)も付加しようと思って様々なサイト(基本的には自治体の公的なサイト)から情報を得ています。ただ、築造時期については自分の中で今ひとつ明確になっていない部分があります。

 それは古墳時代の前期・中期・後期が何世紀にあたるのか、さらには各期の前半・半ば・後半はいつのことを指すのか。ひと昔前であれば古墳時代は4世紀から6世紀として4世紀が前期、5世紀が中期、6世紀が後期とすればほぼ問題なかったと思うのですが、最近では出現期と言い方も出てきて古墳時代が3世紀半ばにまでさかのぼってきています。また、前方後円墳が造られなくなったとされる7世紀においても方墳や円墳が造られていることから、この時期を終末期という場合もあるようです。

 稲作の存在を示す古い時代の遺跡が新たに見つかることによって弥生時代の開始が大きくさかのぼったのと同じように、古墳時代も少なくとも半世紀くらいさかのぼっているようです。その理由は、古墳そのものの研究だけでなく、出土する副葬品や埴輪、土器など様々な面での研究が進んだことに加えて、年輪年代測定法などの年代測定の新たな方法が定着してきたこともあると思います。これらの結果、特に古い時期の古墳の築造時期がさらに早まる傾向にあるように感じます。
 中には3世紀前半を古墳時代早期と定義する研究者もいるようですが、ここまでさかのぼると古墳時代に造られた墳墓が古墳で弥生時代に造られた墳墓が墳丘墓という、古墳と墳丘墓の呼称の見直しも必要になってきそうです。とくに弥生時代の後期に造られた出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の楯築墳丘墓、丹後の赤坂今井墳丘墓などは古墳と言っても問題なさそう。先述の西上免古墳という呼称も同じ話です。

さて、自分の中で以下のように整理ができました。とくに3世紀後半は出現期ではなく前期にあたるということを認識できました。

   出現期  3世紀半ば
   前期   3世紀後半~4世紀後半
   中期   5世紀前半~5世紀後半
   後期   6世紀前半~6世紀後半
   終末期  7世紀
    
 さらに桜井市や天理市のホームページの情報をもとに次のような整理をしてみました。

 ●纒向古墳群
  纒向石塚古墳   3世紀初頭または3世紀後半
  纒向勝山古墳   3世紀前半
  ホケノ山古墳   3世紀中頃
  箸墓古墳     3世紀後半
  東田大塚古墳   3世紀後半
  纒向矢塚古墳   4世紀前半

 ●柳本古墳群
  黒塚古墳     4世紀初頭から前半頃
  大和天神山古墳  4世紀前半
  行燈山古墳    4世紀前半
  渋谷向山古墳   4世紀後半
  上の山古墳    4世紀後半
  櫛山古墳     4世紀後半

 ●大和古墳群
  中山大塚古墳   3世紀後半
  西殿塚古墳    3世紀後半
  東殿塚古墳    3世紀後半
  下池山古墳    3世紀後半
  ノムギ古墳    3世紀後半
  波多子塚古墳   3世紀後半
  馬口山古墳    3世紀後半

 纒向古墳群にはホケノ山古墳(3世紀中頃)や箸墓古墳(3世紀後半)のように3世紀の築造とされる古墳が多く、なかでも纒向勝山古墳は3世紀前半とされています。3世紀前半ならまだ弥生時代なので正確に言うと纒向勝山墳丘墓です。纒向石塚古墳の3世紀初頭説も同様ですね。
 また、柳本古墳群は行燈山古墳(4世紀前半)や渋谷向山古墳(4世紀後半)のように4世紀の築造が多い。そして大和古墳群ではこの下池山古墳と同様に多くが3世紀後半の築造とされています。(古墳の築造時期については様々な説があるので、これはあくまで桜井市と天理市のホームページによった整理です。)
 ということは、古墳群の単位で考えたときにおおむね、纒向古墳群→大和古墳群→柳本古墳群の順に成立したと考えられます。あくまで今回および過去に踏査した古墳を中心に整理しただけなので間違っているかもわかりませんし、だから何やねんと言われればそれまで。機会を改めて検証したいと思います。

 長くなりましたが話を元に戻して、下池山古墳の次は西山塚古墳です。この古墳も今や墳丘の頂上までミカンなのか柿なのか、果樹園になっているようです。周囲を3分の2ほど囲む池は周濠の名残りと思われます。







 西山塚古墳は全長が114メートルの前方後円墳で、出土した埴輪などから6世紀前半(古墳時代後期前半)の築造と推定されます。前述の通り、前期の古墳がほとんどである大和古墳群では珍しい後期の古墳になります。西殿塚古墳のところで書いたように、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真陵に比定する説が有力です。



 そういえば、継体天皇の陵墓も宮内庁が治定する大阪府茨木市の太田茶臼山古墳は考古学的に時代があわないということで、高槻市にある今城塚古墳を真陵とする説が通説となっています。天皇・皇后ともに墓を間違えられているという事実は面白い。

 実はいま、昨年11月の実地踏査ツアーのレポートを当ブログで連載する傍ら、次回3月の実地踏査ツアーとして近江・越前の継体天皇ゆかりの地を訪ねる企画をしているところです。まさに継体天皇を勉強しているところなので、継体天皇や手白香皇后についても書きたいことがいっぱいあるのですが、また横道にそれていきそうなので我慢します。

 この次に波多子塚古墳を眺めたあとは折り返して桜井駅に戻るルートになるのですが、ここで佐々木さんと岡田さんがやらかしてくれました。次回に続く。



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西殿塚古墳・東殿塚古墳(葛城・纒向ツアー No.24)

2020年01月17日 | 実地踏査・古代史旅
 燈籠山古墳に佐々木さんを残して岡田さんと私は西殿塚古墳を目指して柿畑のあぜ道を歩き出しました。ダラダラとした登り坂の向こうに青空に映えて美しい姿の前方後円墳が見えています。



途中、左手の柿畑の中に見える小山が火矢塚古墳です。



全長49メートルの前方後円墳らしいのですが、柿の木がたくさんあって左側の前方部を隠してしまっているので円墳に見えます。

 熟した柿が甘く匂ってきます。これだけたくさんの熟した柿に囲まれると、その甘い匂いで気持ち悪くなりそうです。そしてついに西殿塚古墳に到着です。この古墳は衾田陵(ふすまだのみささぎ)として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されています。





 全長は約230メートルで大和古墳群では最大規模となります。斜面に造られたという意味では行燈山古墳や渋谷向山古墳と同じですが、このふたつの古墳は東から西に延びる尾根を利用して作られているので前方部と後円部に高低差が出ましたが、西殿塚古墳は東から西に傾斜する東西軸の斜面に直角に築造されているために東側と西側で高低差が出ます。西側のほうが低いために段築は東側より西側が一段多くなっています。
 主体部の埋葬施設は明らかにされていませんが、墳丘上からは特殊器台のほか、特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪などの初期の埴輪が検出されたことなどから、3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定され、出現期古墳である箸墓古墳に後続する大王墓と考えられています。そうです、西殿塚古墳は大和で特殊器台が出た4つの古墳のひとつです。



 前述のとおり、第26代継体天皇皇后、手白香皇女の陵に治定されていますが、継体天皇は6世紀前半の天皇であり、その皇后の陵が3世紀後半というのはあまりにかけ離れているため、考古学的には真の手白香皇女陵はすぐ近くにある西山塚古墳とする説が有力視されています。
 では、この西殿塚古墳の被葬者はいったい誰なのか、ということになりますが、なんと卑弥呼の宗女である台与とする説や、第10代崇神天皇という説があるそうです。


 さて、この西殿塚古墳のすぐ東側に平行して東殿塚古墳があります。当初のルートではいったん斜面を下りて後円部に回り込んで見学しようと考えていたのですが、上ってきた小道が先まで続いていて、東殿塚古墳の手前と思われる藪の中へ延びています。もしかしたらここから行けるかも、と思って進んでみました。

 ところが、藪に入り込んだ途端に大変なことになってしまった。右側は崖になっていて足を滑らせたら谷に落ちそうだし、小道があると思われるところは木々が茂っていて踏み込めない。でも、木々の向こうに墳丘らしきものが見えます。



なんとか木々をかき分けて小道に出ると、身長よりも少し高い壁が立ちはだかっています。



 これが前方部の縁であって欲しいと考えながら進むと、その壁を左に回り込むように小道が続いています。ここが前方部の角であって欲しいと思って左に曲がると、まだ先に小道が続いていそうな様子でしたが不安な気持ちも大きくなって「ここまでかな」と観念して引き返すことしました。



 東殿塚古墳は大和古墳群の中で最も高い所にあって、墳丘に上がると奈良盆地の全域を見渡すことができるそうです。残念ながら墳丘に上がることができませんでしたが、引き返すときの西殿塚古墳手前からの眺望はそれを十分に想像させてくれました。



 天理市のホームページによると、東殿塚古墳は全長139メートルの前方後円墳で、基底部の長方形区画は全長175メートルの規模があります。1997年の発掘調査で、周濠と周堤帯が見つかったそうです。ん?基底部?
 
橿原考古学研究所が行った3次元航空レーザー計測による空からの調査の写真。

奈良県立橿原考古学研究所とアジア航測株式会社による報道発表資料からです。

 左が西殿塚古墳で右が東殿塚古墳です。これを見ると墳丘の最下部に長方形の基底部があるのがわかります。前方部の手前には足を滑らせると危険な谷が確認できます。私たちはこの谷の縁に沿うように左から右に進んで前方部もしくは基底部の右角に到達したということになります。これを見てもわかる通り、どう考えても後円部側から墳丘に近づくべきでした。でも、前日の條庚申塚古墳もそうでしたが、実地踏査にふさわしいちょっとした探検気分を味わうことができたので、それはそれで満足です。

 話を戻すと、1997年の調査では埴輪祭祀の遺構が見つかり、埴輪が多量に出土。これらの結果、3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられる、とのことです。西殿塚古墳、東殿塚古墳ともに3世紀後半の古い古墳ということです。

 東殿塚古墳の出土品で特徴的なものが、前方部西側の一角に設けられた造り出し的な祭祀遺構から出土した楕円形円筒埴輪です。この埴輪の下部にヘラ書き船の絵を描いたものが3点(1~3号船画)発見されました。特に1号船画は、ゴンドラの形をした船に7本の櫂を描いていることから14人で漕ぐ大型船であり、帆に風を受けて海上を疾走する様子を描いたものと解釈されています。この線刻画から、3世紀後半にこのような大型船が使われていたことがわかります。



 いやあ、西殿塚古墳の美しい姿と眺望、東殿塚古墳での冒険、いずれも楽しい時間でした。佐々木さんも来ればよかったのになあ。



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中山大塚古墳(葛城・纒向ツアー No.23)

2020年01月16日 | 実地踏査・古代史旅
 黒塚古墳の見学を終えたあとは再び国道を渡って斜面に向かいます。目指すは中山大塚古墳ですが、坂道を上る途中に小岳寺塚古墳という古墳があるので写真だけでもと思っていたのですが気が付かずに通り過ぎてしまい、そのまま中山大塚古墳に到着してしまいました。ちょっと悔しい。この中山大塚古墳からは大和古墳群に入ります。



 中山大塚古墳は全長が約130メートルで古墳時代前期初頭の前方後円墳です。前期初頭ということは出現期に近い古い古墳です(古墳時代は3世紀半ばから始まったとされているので出現期といえば3世紀半ばから後半あたりを指します)。前方部が後円部よりも低く、前方部の前面が緩やかに曲線を描くバチ形であるという特徴は黒塚古墳と同様に出現期前方後円墳の特徴に該当します。

 黒塚古墳も4世紀前半あるいは3世紀半ばにさかのぼる可能性が指摘されているので、これらの古墳が属する柳本古墳群は箸墓古墳などのある纒向古墳群と同様に本当に初期の古墳が集中していると言えます。行燈山古墳の陪塚とも言われる大和天神山古墳も3世紀後半から4世紀前半頃の築造と推定されていました。つまりこのあたりで前方後円墳が築造されるようになって古墳時代が幕を開けたということだと思います。崇神天皇陵や景行天皇陵などの初期の天皇陵、あるいはそれらの天皇の宮跡がこの地にあることも併せて考えると、このあたりから大和政権が始まったと考えることができます。

 中山大塚古墳は後円部の先に扇型の張り出しがある珍しい古墳で、先に見た前方後円墳の後円部の先に方形部をつけたような形をした双方中円墳である櫛山古墳につながる形状とも言えます。双方中円墳は吉備の楯築墳丘墓が原型ですが、まずこの中山大塚古墳にその特徴を受け継いだのかもわかりません。そして、この後円部の張り出し付近から吉備の特殊器台の破片が見つかっています。

 特殊器台は円筒埴輪の原型とされていますが、器台はもともと集落で農耕祭祀に使用される土器として出現したと考えられています。祭祀の際に御饌を入れた壺を器台に載せて使用しました。その後、弥生時代後期から終末期にかけての吉備で楯築墳丘墓などの巨大な墳墓を築くような権力者が出現したことによって、その器台や壺が非常に大型化し、複雑な文様で飾られる墳墓専用の器台(特殊器台)や壺(特殊壺)に変化していき、農耕祭祀のための祭器から首長の霊を祀るための祭器として用いられるようになっていきました。

 吉備の楯築墳丘墓は双方中円墳の原型と書きましたが、それ以上に前方後円墳の原型であると考えられています。権力者(首長)が亡くなると巨大な墳墓を築き、その上で巨大な器台や壺を用いて埋葬者の霊を弔うという祭祀が吉備で始まり、それが大和に伝わった。大和政権の成立に吉備の首長たちが大きな役割を果たしたと考えられます。そういう意味で、この大和大塚古墳は大和政権の成立を考える上において非常に重要な古墳であると言えます。

 ちなみに、大和で吉備の特殊器台や特殊壺が見つかった例が、箸墓古墳、西殿塚古墳、弁天塚古墳とこの中山大塚古墳の4つあります。


 さてさて、また前置きが長くなってしまいました。国道から坂道を上ってくると前方部の手前にある広場に到着します。墳丘を削って設けた場所に大和稚宮神社という小さな神社がありますが、あとで行くことにしている大和神社の境外摂社の御旅所神社です。



 御旅所というのは、祭礼のときに神様(一般には神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、あるいはその目的地をさします。したがって、祭礼の時以外は神社に神様はいないのです。大和神社の祭神は倭大国魂神で、もともとは天照大神とともに宮中に祀られていました。天照大神は崇神天皇のときにその神威があまりに強かったので宮の外へ遷され、その場所が檜原神社である、というのは檜原神社のところで述べましたが、倭大国魂神は同じときに大和神社の地へ遷されました。その神の御旅所が中山大塚古墳の墳丘に設けられていることにも意味を感じてしまいます。

その遷座の話が書かれています。


中山大塚古墳の説明。


少しだけ休憩をして墳丘の左側に沿ってさらに坂道を上がっていきます。

右手が前方部でその先に後円部が見えています。


振り返るとくびれ部のあたり。


後円部です。


できるだけ全体が入るように撮ったつもりです。

右手が前方部で左手が後円部です。

 実はここで大失敗をやらかしてしまったのです。まだこの時点では気が付いていませんが。御旅所神社の前で少し休憩をとったあと、墳丘の左側に沿ってここまで来たのですが、休憩した場所の右手から墳丘に上ることができたのです。植え込みを利用して埋葬主体の場所などが確認できるようになっている、ということを事前に調べてわかっていたので必ず見ようと思っていたのに。残念で悔しい。

 中山大塚古墳の後円部の先に燈籠山古墳があります。全長が110メートルの前方後円墳ですが、前方部が近くの念仏時というお寺の墓地になっていて、近くから見ると円墳に見えます。後円部は築造時期は古墳時代前期前半とされ、これまた古い古墳です。

墳丘上は例にもれず柿畑になっています。




反対側の離れたところからみると前方部がわかります。

右側の大きな森に見えるのが中山大塚古墳で、左側の小さな高まりが燈籠山古墳の後円部、両側をつなぐように少しだけ高くなって墓石が林立しているところが前方部になります。

 このあとは畑のあぜ道を歩いて西殿塚古墳を見に行くのですが、佐々木さんからは「ここで休憩して待ってます」との申し出があったので、自転車を置いて岡田さんと二人で歩くことにしました。続きは次回に。



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黒塚古墳(葛城・纒向ツアー No.22)

2020年01月15日 | 実地踏査・古代史旅
 行燈山古墳は国道169号線に面しています。次の目的地の黒塚古墳は国道を渡ってすぐのところにあるのですが、時刻はちょうど12時。そろそろ腹ごしらえを、ということになり近くの回転寿司屋に行ってみたところ、お店から溢れんばかりの順番待ちのお客さん。すぐにあきらめて引き返し、コンビニでおにぎりやサンドイッチを買って外のベンチに座って食べました。これはちょっと想定外でした。

 お腹を満たしたあとはいよいよ黒塚古墳。全長が約130メートルの前方後円墳で、4世紀初頭から前半頃の築造とされています。前方部と後円部の落差が大きく、前方部正面に弧状のふくらみがあるバチ形をしていて、この特徴が前期古墳であることを表しています。平成9年からの調査で国内最多の33面の三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡1面が発見されました。

 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百枚との考えが根強くあります。すでに国内で数百面の出土が確認される一方で中国では全く出土しないことなどから国内で製造された鏡であるとの説もあり、その評価は定まっていません。
 近年になって進んだ三角縁神獣鏡の編年研究をもとに、この古墳の築造時期が西暦260年すぎ(3世紀中葉〜後葉)であるという説も出されています。ただ、この編年の考え方は三角縁神獣鏡が魏から下賜された銅鏡百枚であることを前提にしたものなので、その妥当性については素直に納得できないです。とはいえ、葺石や埴輪がないこと、崇神天皇陵や景行天皇陵などのように標高の高い斜面ではなく、出現期古墳とされている箸墓古墳や纒向石塚古墳などと同様に平地に築造されていることも合わせて考えると、築造時期はそれらの古墳と同じ時期、つまり出現期古墳のひとつと考えてもいいかも。

 さて、前置きはこのくらいにして、古墳を見る前にまずは公園内にある古墳展示館を見学しました。



解説パネルは色褪せていましたが、書かれている内容はじっくり読んでみたいと思いました。






副葬品も少しだけ展示されています。




展示室の突き当たりを左に曲がった瞬間に目に飛び込んできたのがこれです。

竪穴式石室の復元模型です。思わず「デカッ!」と声が出てしまいました。33面の鏡が副葬されていた状況も再現されています。なかなか見事な模型でした。

 石室の大きさは、内法長約8.3メートル、北小口幅0.9メートル、高さ約1.7メートルで、二上山麓の春日山と芝山の板石を持ち送りに積んで合掌造状の天井を作り出しています。石室には全長1メートル以上の刳抜式木棺が納められ、木棺の中央部には長さ2.8メートルの範囲に水銀朱を施し、両端はベンガラの赤色で塗られていたとのことです。

そして2階へ上がると鏡がずらっと並んでいました。圧巻です。






















これが唯一の画文帯神獣。貸し出し中のために写真です。


 まさかこの小さな展示施設にこれだけの実物が置かれているはずないな、と思いながら下に降りて職員の方に確認したところ、案の定、実物はすべて橿原考古学研究所附属博物館に所蔵されているとのことでした。つまり、ここにあるのは全てレプリカということです。

 いよいよ外に出て古墳を見学します。


周濠には後円部に向かって橋が架かっています。



後円部の頂上の真ん中に展示館で模型を見た石室のパネルが置かれていました。



展示室の中だからデカイと感じたのかな、という思いが少しあったのですが、現場で見てもデカイと思いました。

前方部。意外に低い。


前方部から後円部を見ます。たしかに落差は大きいです。


後円部上から南方面を眺めると大和三山が見えました。


 国内最多の三角縁神獣鏡が出土していること、これまで見てきた古墳は天皇陵を含めて山麓の斜面に築かれていたのに、この古墳は箸墓古墳や他の纒向型前方後円墳と同様に平地に築かれていること、そのことも含めて古墳時代前期あるいはそれを遡る出現期古墳の可能性があることなど、たいへん興味深い古墳です。



三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か―黒塚古墳と邪馬台国の真実
安本 美典
廣済堂出版


黒塚古墳の研究
奈良県立橿原考古学研究所,橿原考古学研究所=
八木書店古書出版部




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行燈山古墳と陪塚(葛城・纒向ツアー No.21)

2020年01月14日 | 実地踏査・古代史旅
 さて、次は行燈山古墳です。全長242メートルの前方後円墳で全国で第16位、柳本古墳群では300メートルの渋谷向山古墳に次ぐ第2位の規模で、古墳時代前期の4世紀前半の築造と考えられています。宮内庁によって「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」として第10代崇神天皇の陵に治定されています。





 この左側(南側)の周濠に沿って舗装された道があります。西に向かって斜面を下る坂道です。岡田さんと佐々木さんは脇目もふらに一気に坂道を下っていきます。気持ちいいだろうなあ、と思いながらも私はこの巨大古墳をしっかり目に納めながらゆっくり行こうと思いました。向こうに二上山が見えます。この古墳も渋谷向山古墳と同じく傾斜地に築造されているため、湛水のために3ヶ所で渡堤によって区切られています。

後円部の先端です。


 前方部に向かう途中、写真を撮りたかったのですが、周堤の高さが思った以上に高くてあきらめました。ふたりに遅れて前方部に到達。拝礼所に行くために一度国道に出ます。そのときに右手に見えたのが南行燈山古墳。立派な倍塚です。全長65メートルの前方後円墳で築造時期は行燈山古墳と同時期と推定されています。


墳丘が刈り上げられてそれなりに美しい。

右手の奥にが拝礼所が見えます。


拝礼所に向かう参道。


参道の左手にはアンド山古墳の前方部がすぐそこに。これも陪塚。

アンド山古墳は全長120メートルの前方後円墳。主体部の埋葬施設は竪穴式石室と見られ、この古墳も行燈山古墳と同時期の築造と推定されます。

拝礼所の手前にくると右手に南行燈山古墳もすぐそこに。


拝礼所の階段を上がったところです。






階段を上がるとアンド山古墳がよく見えます。


これは国道から撮ったアンド山古墳。


そして国道を挟んだ西側にある大和天神山古墳。




 写真は帰りに撮ったのですが、この古墳も行燈山古墳の陪塚とする説があるのでここで紹介します。大和天神山古墳は全長103メートルの前方後円墳で築造時期は3世紀後半から4世紀前半頃と推定されています。
 墳丘の東半分は国道169号の建設で削平されています。写真の左側が国道です。その国道工事に先立つ1960年(昭和35年)の発掘調査で竪穴式石室から内行花文鏡4面などの銅鏡23面を含む多数の副葬品が検出されています。

 以上、行燈山古墳(第10代崇神天皇陵)およびその周囲にある古墳を紹介しました。次はいよいよ33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳です。隣接する古墳展示館も含めてこの日一番楽しみにしていた古墳です。



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櫛山古墳(葛城・纒向ツアー No.20)

2020年01月13日 | 実地踏査・古代史旅
 渋谷向山古墳(景行天皇陵)のあと、山麓の傾斜に沿って山の辺の道を北へ数分走ると左手にまたしても大きな古墳。行燈山古墳(崇神天皇陵)です。そして右手(山側)の池の向こうに櫛山古墳。この池は櫛山古墳の周濠です。

後円部南側からみた行燈山古墳。


右手には櫛山古墳。




 まず、櫛山古墳から見学します。行燈山古墳と櫛山古墳は周堤を共有しているようにみえ、この周堤が山の辺の道になっています。この周堤から櫛山古墳の周濠を渡る渡堤が設けられています。

渡堤を渡ります。


途中に説明板があります。


 櫛山古墳は全国でも珍しい双方中円墳、つまり円墳を真ん中に挟んで両側に方墳をくっつけた形をした古墳で、岡山で行った弥生後期(3世紀後半)の楯築墳丘墓が原形となって、それからおよそ100年後の古墳時代前期後半(4世紀後半)にこの纒向の地に築造されました。
 墳丘に上ってその形を実際に見てみると、東西を軸に西側と東側に方形部があり、西側の方が長い長方形になっています。西側を前方部と考えた場合の前方後円墳の東側に方形の造り出しがある、という感じもします。全長が155メートルの大型古墳です。

西側の方形部を西からみると長方形に感じます。


岡田さん、佐々木さんが先を歩きますが、この先に中円部があります。


中円部の頂上は平らになっています。



真ん中あたりに折れた枝が重ねられていて、ここが少し窪んでいるように感じました。埋葬部の跡だと思われます。

頂上から見た東側の方形部。

長さが西側の方形部より短いのがわかります。

方形部の角がよくわかります。


頂上から西側の方形部を確認します。やはり長いです。


 ここは戦後間もない昭和23年以降、何度か発掘調査が行われています。東側の方形部は祭祀施設と考えられ、排水施設を伴う白礫を敷き詰めた遺構や、その下部に赤色顔料を含む砂層を施した方形の土坑などが検出されています。石釧、車輪石、鍬形石といった碧玉製腕飾類の破片、碧玉の管玉、鉄剣・刀子の破片と鉄斧、高坏や壺などの土師器など多数の遺物が出土しました。なかでも、直弧文を着けた鍬形石の土製品というのものが出たらしく、非常に興味がわきます。

 中円部の埋葬施設は全長7.1m、幅1.4mで南北に主軸をもち、扁平な石材を用いて石室の側壁を築いており、石室床面の中央には石棺を据えたと思われる方形の落ち込みがあり、長持形石棺の一部が出土したそうです。これらの跡が少し窪んでいたのでしょう。
 調査では石棺を据えてから石室の側壁を築いたものと考えられていて、これと同様の構造を持つ石室が前日に行った葛城の室宮山古墳の南石室だといいます。この南石室を実際に見たときに、石室の横壁と収められた石棺がぴったりくっつき過ぎていると感じて、どのようにして石棺を収めたのか不思議に思っていたのですが、答えがわかりました。土壙を掘ってまず石室の床面を作り、その上に石棺を入れ、それと密着させるように壁石を並べ、最後に蓋石をのせて石室を作ったのです。納得しました。

青と緑が映えてきれいです。



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渋谷向山古墳とその周辺(葛城・纒向ツアー No.19)

2020年01月12日 | 実地踏査・古代史旅
 珠城山古墳群と纒向珠城宮跡の間を抜けて北上すればすぐそこに渋谷向山古墳が見えてきます。ここから柳本古墳群に入ります。それとともに、この実地踏査もこれ以降は古墳一色になります。

 渋谷向山古墳は全長約300m(全国第8位)の前方後円墳で柳本古墳群では最大規模。「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」として第12代景行天皇陵に治定されています。築造時期は4世紀後半(古墳時代前期後半)と考えられており、古墳時代前期の古墳としては全国で最大規模です。
 出土品として、宮内庁書陵部の調査で出た円筒埴輪(普通円筒埴輪・鰭付円筒埴輪・朝顔形埴輪)・形象埴輪(蓋形埴輪・盾形埴輪)があるほか、伝世品として、江戸時代に出土したと伝わる碧玉製の石枕(国の重要文化財)があります。

まずは前方部の手前にある拝礼所から眺めます。何とも言えない美しさです。


水を湛える周濠も美しい。




 来た道を少し戻って南側の周濠に沿って後円部に向かいます。この古墳は龍王山麓の傾斜の強い場所に前方部を西に、後円部を東にして築かれています。墳丘の周囲には周濠が巡らされており、後円部の先端と前方部との標高差が約20メートルもある傾斜地での湛水のため、後円部側6ヶ所・前方部側4ヶ所で渡堤によって区切られています。上の写真は前方部から撮っていますが、向こう側に堤が見えます。

ここも湛水のための堤が見えます。ひとつの堤の落差は数メートルあります。




上りの傾斜がきついため最後は自転車を降りて押しました。後円部の南側の周濠は幅が狭くて手を伸ばせば届きそう。届かないけど。


後円部の北側の周濠にはしっかりと水が湛えらていました。


堤がわかりやすいです。


古墳全体を見渡せる場所に説明板が立っていました。




 この渋谷向山古墳(景行天皇陵)のすぐ東側に3つの古墳があります。ひとつは景行陵の陪塚である赤坂古墳、それとシウロウ塚古墳に立子塚古墳です。

赤坂古墳。一辺25メートルあるいは35メートルの方墳だそうです。

実はこのときは赤坂古墳の存在がわかっていませんでした。後で調べてわかったのですが、たまたま撮影していたのです。というのも、このあたりは古墳なのか山の尾根なのか、さっぱりわからず適当にパシャパシャ撮ってました。

シウロウ塚古墳。全長120メートルの前方後円墳。

位置関係から多分これがそうだろうと思って撮りました。墳丘が柿畑になっています。尾根の先端を切り出したのかな。どう見ても前方後円墳には見えません。ましてや120メートルもあるなんて。

立子塚古墳。直径20メートルの円墳。古墳時代の後期末、6世紀後半とか7世紀前半とかの築造。

これはもうどこに古墳があるのかさっぱりわかりません。

景行陵の真東にあるこの谷間を挟んだ右側の尾根に立子塚古墳、左側の尾根にシウロウ塚古墳という位置関係です。


ここで古墳にばかり気を取られていたところ、この場所が大和三山の絶景ポイントであることを岡田さんが教えてくれました。

耳成山と畝傍山はよくわかるけど、天香久山がわかりにくい。野焼きで上がる白い煙がいいですね。前日の葛城でもよく見かけました。

景行陵の東北すぐのところにあるのが陪塚の丸山古墳。円墳で直径は約35メートルまたは約20メートル。


さらに北西には全長144メートルの前方後円墳である上の山古墳。




こんな巨大でも陪塚。築造時期は渋谷向山古墳と同時期の4世紀後半とする説や、旧地形の復元等から渋谷向山古墳より先行とする説があるそうです。景行陵が東西軸なのに対して上の山古墳は軸が南北。直交させていることに何か意味があるのでしょうか。
 
 景行天皇陵の陪塚は、上の山古墳、丸山古墳、赤坂古墳の3つということになります。宮内庁はそれぞれ、飛地い号、ろ号、は号として管理しているそうです。

 この上の山古墳はこのタイミングではなくて帰りに国道を南下するときに見学したのですが、ここで紹介した方がわかりやすいと思って踏査順を無視して掲載しました。これで渋谷向山古墳(景行天皇陵)およびその周囲にある古墳の踏査は終了です。

 次は今回の実地踏査ツアーの目玉の一つでもある双方中円墳の櫛山古墳と第10代崇神天皇陵に治定される山邊道勾岡上陵です。



古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋 浩毅
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纒向日代宮跡・纒向珠城宮跡・珠城山古墳群(葛城・纒向ツアー No.18)

2020年01月11日 | 実地踏査・古代史旅
 穴師坐兵主神社から下り坂を少し下ったところに第12代景行天皇の纒向日代宮伝承地、さらに下ると同じく景行天皇の纒向日代宮跡とされる場所があります。このふたつの違いはよくわかりません。その距離はわずか数十メートルなので同じ宮跡に碑が2カ所あるということなのか、それとも違う宮跡を意味しているのか。

 まずは日代宮伝承地です。大和高原龍王山の尾根の延長の傾斜地、標高の高いところにあるので、奈良盆地を見下ろす眺めがいい。




桜井市が説明板などを整備したと思われます。


景行天皇陵に治定される渋谷向山古墳が右手に見えます。

数十メートル下ったところにある纒向日代宮跡の碑。

こちらは穴師坐兵主神社による説明です。石碑も神社が建てたのでしょうか。伝承地と宮跡。やはりこの距離なら同じ場所にふたつの碑があると見ていいでしょう。何だかどうでもいいことを考え込んでしまいました。

 このあと訪ねる第11代垂仁天皇の纒向珠城宮跡はここからさらに下ったほぼ平地と言って差し支えのないところにあるのですが、垂仁天皇の次の景行天皇が暮らしやすい平地から不便で暮らしにくい傾斜地に宮を設けた意味がよくわかりません。大雨が降った後の大和川の氾濫から逃れるため、自らが治める大和の国を上から眺めるため、それとも敵からの攻撃に対して少しでも防御性を高めるため、のいずれかしかないと思います。
 日本書紀によると、景行天皇は自ら出向いて九州の地を平定し、さらには子の日本武尊を各地に遣わしてほぼ全国を平定した天皇です。より高みから見下ろしたかったのでしょうか。


 纒向日代宮跡からさらに西に下ると右手に木々の茂った小山が現れます。珠城山古墳群です。穴師集落の小さな尾根上に位置する3基の前方後円墳で国の史跡に指定されています。東側(手前)から1号墳、2号墳、3号墳とほぼ東西を軸に並べています。ただし、1号墳と3号墳は前方部を西に向けていますが、2号墳だけが反対向きになっています。





 1号墳と2号墳の間に急な石段があり、これを上ると1号墳の後円部と2号墳の後円部の間に出ます。ここからそれぞれの墳丘に上ることができます。まず西側の2号墳に上って前方部のほうへ進みます。



2号墳の墳丘。




 2号墳の全長は85m。内部主体は不明で、前方部の前面にはかつて小石室が存在していましたが現在は消滅しています。前方部を先端まで進んで縁をおりると隣接する3号墳の前方部に突き当たります。

2号墳前方部の縁。


3号墳前方部の縁。


 3号墳の全長は50m。6世紀後半の築造と考えられています。写真に写る前方部の一部を残しほぼ消滅していますが、前方部と後円部に1基ずつの横穴式石室あり、前方部の石室から耳環、太刀片、土器類が出土しました。後円部の石室は全長9.7mで組合せ式石棺があり、金銅製双鳳文透彫杏葉等全国的にも例の少ない豪華な副葬品が出土しています。

帰りは墳丘に上らずに墳丘の裾部に沿って戻ると広場にでます。そこには説明板が立っていました。






もとの場所に戻って次は1号墳です。後円部の頂上は小さな祠が立っています。


 1号墳は全長50m。築造時期は6世紀中~後半と考えられています。後円部に南に開口する4.7mの横穴式石室があり、組合せ式の凝灰岩製石棺から人骨や挂甲、刀子、ガラス製小玉、石室内から環頭太刀、武器類、工具類、金銅製勾玉、銀製空玉、琥珀製棗玉、鞍金具等の馬具類等多種多様の副葬品が出土しました。

墳丘を降りて石室を見学します。




 3基の古墳の築造時期はいずれも古墳時代後期(6世紀)で、2号墳→1号墳→3号墳の順に築かれたと考えられています。垂仁天皇と景行天皇のそれぞれの宮跡に挟まれた場所に築かれているので、その時代のものかと思いきや、6世紀というと纏向においてはどれも新しい古墳と言えます。

この2号墳の南側、自転車で下ってきた坂道の脇に「纒向珠城宮伝承地」の説明板が立っています。

これも桜井市によるものなのでしょう。



ここからさらに西に200メートルほど行くと今度は「纒向珠城宮跡」の石碑があります。


 これでわかりました。桜井市が立てた新しい碑には「伝承地」と書かれ、以前からある石碑には「宮跡」と書かれています。それぞれの立てられた場所が違う理由はよくわかりませんが、纒向日代宮も纒向珠城宮もどちらも「宮跡」と「伝承地」があって、それは別々の場所を指し示しているのではなく、同じ場所のことを示しながらも碑の場所が違うということです。やはりどうでもいいことでした。

 日本書紀垂仁紀に「更に巻向に都をつくる。是を珠城宮と謂布ふ」との記載があることから、垂仁天皇が纒向に宮をおいたのはわかるとしても、この場所であるとどうして言えるのでしょうか。



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檜原神社・相撲神社(葛城・纒向ツアー No.17)

2020年01月10日 | 実地踏査・古代史旅
 崇神天皇磯城瑞籬宮跡の次の目的地が檜原神社です。平等寺を抜けて進むと大神神社の拝殿横に出ました。せっかくなので境内への入口付近に自転車を停めて参拝することにしました。





 ここからの行き方を事前にGoogleストリートビューで調べてみて少し悩みました。というのも山の辺の道は大神神社を横切るように北上して檜原神社に通じているのですが、途中で人ひとりが通るのがやっと、という細い道になります。楽観的に考えれば人ひとり分の幅はあるので自転車でも行ける。ただ、ほかに通行人がいればかなりの迷惑をかけることになります。悲観的に考えれば引き返すことになりかねない。結局、その道を迂回することにしていったん西のJRの線路近くまで下ってから北上、茅原大墓古墳を過ぎたあたりで右に曲がっていくことにしました。

茅原大墓古墳。

前回来た時は墳丘に上ったので今回はパスしました。

 そして、この道を選択したことで大変なことになりました。右に曲がってまっすぐ行くと檜原神社があるのですが、その間の数百メートルが強烈な登り坂。とても自転車では上がれず、ずっと押し続けることに。これには参りました。

佐々木さん、そろそろガス欠か。


三輪山が拝めます。


ようやくたどり着いた檜原神社。


 檜原神社は大神神社の摂社で、祭神は天照大神若御魂神、伊弉諾尊・伊弉冊尊が配祀されています。第10代崇神天皇の時、天照大神を宮中に祀っていた(同床共殿)ところ、この神の勢いが強くて畏れ多く、共に住むことができなくなったため、天皇は皇女の豊鍬入姫命に託して倭の「笠縫邑」に祀らせました。その場所が檜原神社と言われています。
 さらにその後も理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の皇女である倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在の伊勢の地に遷座したとされます。天照大神の伊勢への遷幸後もその跡地を尊崇し「元伊勢」として今に伝えられています。







 一時は石灯籠が二基あるだけのうらぶれた状況になったものの、昭和40年(1965年)に伊勢神宮の旧内宮外玉垣の東御門の古材を拝領して三つ鳥居が復元され、今日に至っているとのこと。その後、檜原神社境内整備50年記念として伊勢神宮の第62回式年遷宮古材を拝領して三つ鳥居が建て替えられました。

境内からは奈良盆地の向こう側の二上山が見えます。

二上山は奈良盆地のどこからでも見え、すぐにそれとわかります。古来、変わることがない景色です。

境内の前にある休憩処がお店を開けたところだったので少し休むことにしました。

こういうお店では甘酒がいいですね。

ここから再び山の辺の道に戻って相撲神社を目指します。途中、道を間違えてみかん山に入り込んでしまいました。


 日本書紀の垂仁天皇紀に、野見宿禰と当麻蹴速が日本最初の勅命天覧相撲を行ったことが記されます。日本の国技である相撲の発祥の地がこの相撲神社です。





この神社には社殿は無く、神社境内の中央に土俵跡、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに桧の木が4本植えられています。


土俵にはブルーシートが被せられています。

 相撲神社をさらに東に山を登っていくと大兵主神社(穴師坐兵主神社)があります。室町時代に穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社の3社が合祀された神社です。






拝殿のうしろに3つの本殿が並んでいるのがわかります。

 高い木々に囲まれた境内は朝の陽が地面まで届かず、しっとりとした空気に覆われて何とも言えない雰囲気がありました。



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