前夜は早い目に温泉に入って食事も済ませ、21時過ぎには就寝態勢になっていました。テレビを見たりスマホを触ったり、おそらく22時頃には寝入ったようです。年末の四国旅行と同じように車中の寒さ対策を十分にしていたつもりですが、朝方に寒さで何度か目が覚めました。よく考えるとダムの下、川の横にある道の駅です。子供が小さい頃、毎年夏になると十津川の河原でキャンプをしたものですが、河原のテントで寝ていると真夏であっても深夜になると震えるくらいに冷え込みます。そのことを思い出しました。
早く寝たことと寒かったことから、朝は5時半ころに目が覚めてしまいましたが、外は真っ暗なのでしばらくウトウトしながら時間が過ぎるのを待ちました。そうこうするうちに車やトラックが入ってきます。ダンプカーもいます。トラックやダンプカーはエンジンを切らないのでうるさいのです。
外が白んできたのでワンコに朝ご飯をあげて散歩に出ることにしました。外に出ると一面に霧が立ち込めて真っ白です。空気は冷たくてリードを握る手が固まります。散歩の帰りにすぐ近くにある足湯でしばらく手をつけて解凍しました。その後、着替え、トイレ、歯磨きなど準備を済ませて出発です。
この日の予定は前日に決めました。まずは上のダムを見学です。ダムの名前は「日吉ダム」。今回もWikipediaで調べてみると、このダムが堰き止めている川は桂川だって。この川を下っていけば保津川下りの保津峡を経て京都市内に流れ込み、さらには淀川に合流して大阪湾へと。その桂川とは知らなかった。
ダム建設の経緯を見ていると、関西圏の人口急増にともなう水需要に応えること以上に、洪水対策としてのダムの必要性が認識されます。保津峡は確かに狭い。いったん大雨が降ると周辺の山々から流れ込んだ大量の水が保津峡に一気に押し寄せ、そこで流れが止められて亀岡盆地が水没するという。だからその上流で水量調節が必要となる。とはいえ、当然のことながらダムの底に沈むことを余儀なくされる村の住民はダム建設に反対だ。難航した補償交渉は、国庫補助率を上げるとともに、総合的な地域振興策を実施することでようやく妥結したとのこと。それによって当時の建設主体である水資源開発公団は地元と共に早くからダムによる地域振興を目指し、結果として温泉や温水プール、体育館、キャンプ場、道の駅などを備えた多目的一大レジャースポットとして「スプリングひよし」が誕生したということです。
ダムの下からです。前日に撮りました。
昨年の台風19号の際に「緊急放流」というのが話題になりました。ダムの貯水量を上回る前に放流するという行為が下流域に大きな被害を及ぼすからやってはいけない、と。日吉ダムに行くとダムのてっぺんからほんの数メートル下の岩肌に、平成25年の台風のときの最高水位のラインが示されています。このときは下流域の嵐山一帯が水に浸かりましたが、このダムがなかったら被害はさらに拡大していただろうとのことです。これを見ると放流する意味が理解できます。水があふれ出したらダムの機能を失います。最悪はダム決壊です。その前に水を吐き出す必要があります。入ってくる水と同じ量を出すので、わかりやすく言えばダムがなかったときと同じ状況にするということです。実施にあたっては下流域の自治体とタイミングを調整して実施するようです。台風25号のときの状況は日吉ダムのレポートに詳しく書かれていました。ちなみに「緊急放流」は正しくは「防災操作」の中の「特例操作」というそうです。「防災操作」にはほかに「予備放流」「洪水調節」という操作があります。いい勉強なりました。
実はこのダム、なんとダムの堤の中にダムを学習するための見学施設があるのです。残念ながら朝が早すぎて開いていませんでしたが、ほんとうに様々な面でダムを活用しようという思いが伝わってきました。
真っ白な霧の中を鷲が飛んでいました。
ダムの上から。
このダムでできた湖は「天若湖」と書いて「あまわかこ」といいます。
霧の中の1時間の散策はなかなかの充実タイムでした。時刻は8時過ぎ、次の行き先は京都府福知山市にある広峰古墳記念公園です。1時間ほどのドライブ、途中でお腹がすいてきたので食事処があれば入ろうと思ったのですが、いくら走ってもそんなお店は見つからず、結局コンビニに入りました。年末に四国の田舎を走った時も思ったのですが、そもそも田舎にはコンビニがあまりないのですが、数が少ない中でもミニストップのシェアが結構高いのです。そして、今回もミニストップ比率は高かったです。感覚としては4軒に1軒がミニストップです。ワンコを車に残してイートインコーナーで朝ご飯をとりました。
目指す広峰古墳記念公演はJR 福知山駅からすぐのところで、思った以上に街中にありました。
広峰古墳群はJR福知山駅の南側の丘陵上にある古墳時代初頭から中期にかけての30数基の古墳からなる古墳群ですが、現在はそのほとんどが消滅しています。この古墳群の盟主墳と考えられる広峰15号墳は全長40mの前方後円墳で、4世紀後半頃の築造と推定されています。広峰古墳記念公園はこの広峰15号墳を3/4のサイズに縮小復元し、公園として整備されたものです。
広峰15号墳を有名にしたのは木棺内から出土した「景初四年」の銘が入った斜縁盤龍鏡という銅鏡です。邪馬台国の卑弥呼が魏から親魏倭王の称号と銅鏡百枚を下賜されたのが景初三年(239年)なので、景初四年はその翌年ということになり、邪馬台国論争に一石を投じて一躍有名になりました。ただし、景初という魏の年号は三年までしかないので、この鏡は魏で作られたものではなく倭で作られた仿製鏡と考えられています。
説明板はほとんど読めなくなっていました。
朝が早くて誰もいないのでリードをはずしてあげました。
公園の外に見つけた盤龍鏡出土の碑。
なんで公園の外なの?
時刻は10時過ぎ。次は京都府から兵庫県に入って丹波市の石生(いそう)というところ。30分ほどで到着です。この石生というところ、おそらくほとんど知られていないと思うのですが、日本列島を縦断する中央分水嶺(分水界)の中で最も標高の低い所で、なんと標高が約95メートルしかありません。ここに降った雨や山から染み出した水が日本海側に流れるか、それとも大平洋(瀬戸内海)側に流れるか、運命の分かれ道。それが中央分水嶺です。わずか95メートルなのにどっちに行くかわからないというのも不思議な感じです。
駐車場に車を停めて水分れ(みわかれ)公園を目指して歩きます。
陽が高くなってきて少し暖かくなってきました。のどかで気持ちがいい。
水分れ公園にやってきました。
この右側の道が分水嶺です。道路の右側が日本海へ、道路の左側にあるこの小川は瀬戸内海へ通じています。
水分れ公園にはまさに運命の分かれ道があります。
右側に流れて行った水は由良川から日本海へ、小川(上の写真の小川です)を真っすぐに流れていくと加古川に流れ込んで瀬戸内海へ流れていきます。
この図がわかりやすいです。上の写真はこの図の奥から手前を向いて撮っているので方向が逆になりますが、上の写真の右側(日本海側)が左の赤い部分、黄色の部分が瀬戸内海側です。そしてその境目がさっきの道路です。
小川を掃除しているおじさんが声をかけてくれました。「どちらからこられましたか。もしお時間あるようでしたら説明させてもらいますが」と。たぶん市の職員の方だと思います。こちらは時間たっぷりなのでお願いしました。舞鶴から来たというおじさん・おばさんグループも加わって職員の方のレクチャーを聞きました。
江戸時代、加古川から由良川をつなぐ運河を開発する計画があったそうです。もしもそれができていたら、北前船の繁栄はありませんでした。温暖化がどんどん進んで北極や南極の氷が溶けだして海水面が上昇し、それが100メートルに達することがあるとすれば、日本はここで分断されることになります。そんな話もしてくれました。楽しい時間でした。
公園には立派な神社がありました。
𡶌部(いそべ)神社といいます。
日本海から由良川をさかのぼって石生を通過して加古川を下って瀬戸内海へ出る。あるいはその逆をいく。おそらく、徒歩と船が主たる移動手段であった古代人にとってこのルートは出雲や丹後と畿内を結ぶ大動脈だったと思います。そんな古代人が見た景色を見たいと思ってここに来ました。
日吉ダム、広峰古墳、水分れ公園。これだけ充実した時間を堪能しても朝の始動が早かったので時刻はまだ12時過ぎですが、十分に楽しんだのでこれにて帰路につくことにしました。帰りももちろん一般道で、3時間ほどで帰ってきました。以上、思いつきで行ったわりには充実した車中泊の旅の報告でした。
早く寝たことと寒かったことから、朝は5時半ころに目が覚めてしまいましたが、外は真っ暗なのでしばらくウトウトしながら時間が過ぎるのを待ちました。そうこうするうちに車やトラックが入ってきます。ダンプカーもいます。トラックやダンプカーはエンジンを切らないのでうるさいのです。
外が白んできたのでワンコに朝ご飯をあげて散歩に出ることにしました。外に出ると一面に霧が立ち込めて真っ白です。空気は冷たくてリードを握る手が固まります。散歩の帰りにすぐ近くにある足湯でしばらく手をつけて解凍しました。その後、着替え、トイレ、歯磨きなど準備を済ませて出発です。
この日の予定は前日に決めました。まずは上のダムを見学です。ダムの名前は「日吉ダム」。今回もWikipediaで調べてみると、このダムが堰き止めている川は桂川だって。この川を下っていけば保津川下りの保津峡を経て京都市内に流れ込み、さらには淀川に合流して大阪湾へと。その桂川とは知らなかった。
ダム建設の経緯を見ていると、関西圏の人口急増にともなう水需要に応えること以上に、洪水対策としてのダムの必要性が認識されます。保津峡は確かに狭い。いったん大雨が降ると周辺の山々から流れ込んだ大量の水が保津峡に一気に押し寄せ、そこで流れが止められて亀岡盆地が水没するという。だからその上流で水量調節が必要となる。とはいえ、当然のことながらダムの底に沈むことを余儀なくされる村の住民はダム建設に反対だ。難航した補償交渉は、国庫補助率を上げるとともに、総合的な地域振興策を実施することでようやく妥結したとのこと。それによって当時の建設主体である水資源開発公団は地元と共に早くからダムによる地域振興を目指し、結果として温泉や温水プール、体育館、キャンプ場、道の駅などを備えた多目的一大レジャースポットとして「スプリングひよし」が誕生したということです。
ダムの下からです。前日に撮りました。
昨年の台風19号の際に「緊急放流」というのが話題になりました。ダムの貯水量を上回る前に放流するという行為が下流域に大きな被害を及ぼすからやってはいけない、と。日吉ダムに行くとダムのてっぺんからほんの数メートル下の岩肌に、平成25年の台風のときの最高水位のラインが示されています。このときは下流域の嵐山一帯が水に浸かりましたが、このダムがなかったら被害はさらに拡大していただろうとのことです。これを見ると放流する意味が理解できます。水があふれ出したらダムの機能を失います。最悪はダム決壊です。その前に水を吐き出す必要があります。入ってくる水と同じ量を出すので、わかりやすく言えばダムがなかったときと同じ状況にするということです。実施にあたっては下流域の自治体とタイミングを調整して実施するようです。台風25号のときの状況は日吉ダムのレポートに詳しく書かれていました。ちなみに「緊急放流」は正しくは「防災操作」の中の「特例操作」というそうです。「防災操作」にはほかに「予備放流」「洪水調節」という操作があります。いい勉強なりました。
実はこのダム、なんとダムの堤の中にダムを学習するための見学施設があるのです。残念ながら朝が早すぎて開いていませんでしたが、ほんとうに様々な面でダムを活用しようという思いが伝わってきました。
真っ白な霧の中を鷲が飛んでいました。
ダムの上から。
このダムでできた湖は「天若湖」と書いて「あまわかこ」といいます。
霧の中の1時間の散策はなかなかの充実タイムでした。時刻は8時過ぎ、次の行き先は京都府福知山市にある広峰古墳記念公園です。1時間ほどのドライブ、途中でお腹がすいてきたので食事処があれば入ろうと思ったのですが、いくら走ってもそんなお店は見つからず、結局コンビニに入りました。年末に四国の田舎を走った時も思ったのですが、そもそも田舎にはコンビニがあまりないのですが、数が少ない中でもミニストップのシェアが結構高いのです。そして、今回もミニストップ比率は高かったです。感覚としては4軒に1軒がミニストップです。ワンコを車に残してイートインコーナーで朝ご飯をとりました。
目指す広峰古墳記念公演はJR 福知山駅からすぐのところで、思った以上に街中にありました。
広峰古墳群はJR福知山駅の南側の丘陵上にある古墳時代初頭から中期にかけての30数基の古墳からなる古墳群ですが、現在はそのほとんどが消滅しています。この古墳群の盟主墳と考えられる広峰15号墳は全長40mの前方後円墳で、4世紀後半頃の築造と推定されています。広峰古墳記念公園はこの広峰15号墳を3/4のサイズに縮小復元し、公園として整備されたものです。
広峰15号墳を有名にしたのは木棺内から出土した「景初四年」の銘が入った斜縁盤龍鏡という銅鏡です。邪馬台国の卑弥呼が魏から親魏倭王の称号と銅鏡百枚を下賜されたのが景初三年(239年)なので、景初四年はその翌年ということになり、邪馬台国論争に一石を投じて一躍有名になりました。ただし、景初という魏の年号は三年までしかないので、この鏡は魏で作られたものではなく倭で作られた仿製鏡と考えられています。
説明板はほとんど読めなくなっていました。
朝が早くて誰もいないのでリードをはずしてあげました。
公園の外に見つけた盤龍鏡出土の碑。
なんで公園の外なの?
時刻は10時過ぎ。次は京都府から兵庫県に入って丹波市の石生(いそう)というところ。30分ほどで到着です。この石生というところ、おそらくほとんど知られていないと思うのですが、日本列島を縦断する中央分水嶺(分水界)の中で最も標高の低い所で、なんと標高が約95メートルしかありません。ここに降った雨や山から染み出した水が日本海側に流れるか、それとも大平洋(瀬戸内海)側に流れるか、運命の分かれ道。それが中央分水嶺です。わずか95メートルなのにどっちに行くかわからないというのも不思議な感じです。
駐車場に車を停めて水分れ(みわかれ)公園を目指して歩きます。
陽が高くなってきて少し暖かくなってきました。のどかで気持ちがいい。
水分れ公園にやってきました。
この右側の道が分水嶺です。道路の右側が日本海へ、道路の左側にあるこの小川は瀬戸内海へ通じています。
水分れ公園にはまさに運命の分かれ道があります。
右側に流れて行った水は由良川から日本海へ、小川(上の写真の小川です)を真っすぐに流れていくと加古川に流れ込んで瀬戸内海へ流れていきます。
この図がわかりやすいです。上の写真はこの図の奥から手前を向いて撮っているので方向が逆になりますが、上の写真の右側(日本海側)が左の赤い部分、黄色の部分が瀬戸内海側です。そしてその境目がさっきの道路です。
小川を掃除しているおじさんが声をかけてくれました。「どちらからこられましたか。もしお時間あるようでしたら説明させてもらいますが」と。たぶん市の職員の方だと思います。こちらは時間たっぷりなのでお願いしました。舞鶴から来たというおじさん・おばさんグループも加わって職員の方のレクチャーを聞きました。
江戸時代、加古川から由良川をつなぐ運河を開発する計画があったそうです。もしもそれができていたら、北前船の繁栄はありませんでした。温暖化がどんどん進んで北極や南極の氷が溶けだして海水面が上昇し、それが100メートルに達することがあるとすれば、日本はここで分断されることになります。そんな話もしてくれました。楽しい時間でした。
公園には立派な神社がありました。
𡶌部(いそべ)神社といいます。
日本海から由良川をさかのぼって石生を通過して加古川を下って瀬戸内海へ出る。あるいはその逆をいく。おそらく、徒歩と船が主たる移動手段であった古代人にとってこのルートは出雲や丹後と畿内を結ぶ大動脈だったと思います。そんな古代人が見た景色を見たいと思ってここに来ました。
日吉ダム、広峰古墳、水分れ公園。これだけ充実した時間を堪能しても朝の始動が早かったので時刻はまだ12時過ぎですが、十分に楽しんだのでこれにて帰路につくことにしました。帰りももちろん一般道で、3時間ほどで帰ってきました。以上、思いつきで行ったわりには充実した車中泊の旅の報告でした。