古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

近江・越前への実地踏査ツアー⑥

2024年08月08日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月28日。鴨稲荷山古墳から近江大津宮跡へ向かう途中、トイレ休憩を兼ねて白髭神社に寄りました。琵琶湖に浮かぶ大鳥居が人気の映えスポットでしたが、あまりに観光客が増え、道路横断に際するマナーの悪さも手伝って、ついには湖岸へ降りる階段を閉鎖し、道路横断も禁止になりました。なんとも残念。代わってジェットスキーやボートで鳥居までやってくるサービスをする業者が出てきました。社殿は改修中でした。





湖西道路を走って琵琶湖を南下、近江大津宮跡(錦織遺跡)へやってきました。これまで巡った遺跡や神社から少し時代が下って7世紀の遺跡です。663年に白村江で唐・新羅軍に大敗を喫した天智天皇は敵国の本土侵攻に備えて都を飛鳥からこの近江に遷しました。しかしその後、壬申の乱で後継者の大友皇子(弘文天皇)が敗れたために5年余りで廃都となった宮です。















これは面白そう。
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ここから大阪に戻って高槻にある安満宮山古墳に向かいます。丘陵上に設けられた公園墓地の中、たいへん見晴らしのいいところにある古墳で、3世紀後半の築造、墳形は18m×21mの長方形、割竹木棺が直葬され、5面の青銅鏡、1,600個のガラス玉、鉄刀などの副葬品が見つかっています。中でも青龍3年(235年)の方格規矩四神鏡が有名で、丹後の大田南5号墳のものと同笵鏡とされています。







埋葬施設が復元されています。長方形墳であること、丹後の大田南5号墳との同笵鏡が出ていることから、この三島の地と丹後のつながりが考えられます。三島、近江、越、丹後の4点がつながっているように思います。すべてに関わりがあるのは天日槍です。



とにかく眺望が素晴らしい。淀川流域が見渡せます。しかも眼下には安満遺跡が広がっています。ここも最近になって公園として整備されました。また別の機会に行ってみようと思います。









これも良さそう。
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このあと、ファミレスでランチをとったあと、いよいよ継体天皇の真陵とされる今城塚古墳へ向かいます。それとともにツアーのゴールが近づいています。古墳見学の前に今城塚古代歴史館を見学します。



説明ガイドをお願いしたところ、なかなか楽しいガイドさんが担当してくれることになりました。このガイドさん(小和田さんといいます)、かなり勉強しているようで知識が豊富で、手作りの資料もたくさん用意しているし、質問にはすぐに答えが返ってくるし、何よりもしゃべりが軽妙で、たいへん楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

歴史館の展示については以前に投稿したこちらの記事「今城塚古代歴史館」をご覧ください。

さて、いよいよ今城塚古墳に行きます。佐々木さんは二度目ということでベンチで休憩。初めての岡田さんを案内する形で墳丘に登りました。墳丘の様子も以前の投稿「今城塚古墳」をご覧ください。







時刻は17時。このあと、この古墳に並べられた埴輪を焼いたとされる新池埴輪製作遺跡へ行く予定にしていたのですが、見たいと思っていた復元焼成窯が17時までしか見れないとのことだったのであきらめてパスし、代わりに継体天皇陵に治定される太田茶臼山古墳に行きました。

太田茶臼山古墳は5世紀中葉の築造で、全長226mは全国21位の大きさ。ここの埴輪も新池埴輪製作遺跡で焼かれています。さて、この古墳が継体陵ではないとしたら、いったい誰が葬られているのでしょうか。古墳の築造時期と継体の没年に70~80年程度の開きがあるとして、継体の曽祖父である意富冨杼王との説があるようです。なるほど。







さあ、これですべての踏査地の訪問を終了しました。そのまま出発地点のOCATに戻り、レンタカーを返却して、3人で反省会です。岡田さん、運転お疲れさまでした。佐々木さん、次はもう少しゆとりのあるプランを考えますね。とにかく無事に帰ってこれて何よりでした。

(おわり)


やっぱり最後は継体天皇で締めよう。
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近江・越前への実地踏査ツアー⑤

2024年08月07日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月28日、いよいよ最終日です。ホテルを朝7時半に出発してこの日の一番目、鳥浜貝塚まで走りました。本来なら近くにある若狭三方縄文博物館で詳しい情報を得たいところですが、朝早いために叶いませんでした。





鳥浜貝塚は縄文時代早期から前期の遺跡で、発掘当時としては日本最古の丸木舟とともに能登の輝石安山岩や隠岐島の黒曜石も出ているので、丸木舟で日本海を往来していたのでしょう。



こんなもの作らなくても来る人は来るし、この遺跡のことや縄文時代を勉強する人はする。あそこにこれがあるから行ってみよう、なんて誰も思わないぞ。がっかりだな。

それはそれとして、これはわかりやすいよ。
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次は若狭国一之宮へ向かいます。若狭国一之宮は上社と下社があり、上社が若狭彦神社、下社が若狭姫神社で、まずは下社から。








.
下社の祭神は海幸山幸神話に登場する豊玉姫命。上社の鎮座に遅れること6年、養老5年(721年)にこの遠敷の地に鎮座。よって遠敷神社とも呼ばれます。



境内にこんな謎かけのような案内板が。3人で解読を試みましたが叶わず、答えはきっと上社にあるだろうと言いながら次の上社に向かいました。





上社の若狭彦神社の祭神はこちらも海幸山幸神話に登場する彦火火出見尊。





下社もそうでしたが、緑に覆われた境内の雰囲気がいい。どうやらこの遠敷川沿いは大変湿気の多い所と思います。次の鵜の瀬や神宮寺も空気が湿った感じだし、国道のトンネルも水浸しだったし、きっと地下水脈があると岡田さんと話していました。

そして下社の謎かけの答えを佐々木さんが見つけました。詳しくは説明しませんが、そういうことです。太陽の道とかレイラインとか、こういうのいっぱいありますね。



さらに鵜の瀬まで遠敷川を遡ります。大阪に住んで60余年、東大寺のお水取りは知っていても、このお水送りは知らなかった。(お水取りも実際に見に行ったことはないけど)





水が綺麗でせせらぎが心地よい。





少し戻って神宮寺へ。お水送りの「お香水」を汲む井戸があるのだけど、拝観料が要ったので入口から写真だけ撮らせてもらいました。







まだ読んでいないけど面白そうです。
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ここから若狭街道(鯖街道)を走って滋賀県へ抜けます。途中、佐々木さんの提案で名水の里、瓜割の滝に寄りました。きれいな水で作ったくずまんじゅうが名物とのこと。





涼しくて気持ちがよい。しかし、ここで大きな失態。眼鏡を落としてしまった。帽子越しに頭に乗せて車外へ出たのだけど、車に戻って運転しようとしたときに失くしたのに気がついた。途中、頭に乗せていることは全く意識になかったので、どこで落としたのかもわからない。でもどこかに落ちているだろうともう一度滝まで戻ったけど無い。ふたりが一緒に行こうと言ってくれてもう一度行ったので、滝まで計3往復。滝のところで顔を洗ったりしたので流されたのかもわからない。やむなく、運転を岡田さんに代わってもらいました。

ここから再び継体天皇に戻ります。まずは継体の父、彦主人王の墓とされる田中王塚古墳。あたりに密集する田中古墳群の盟主墳で、直径約58m、高さ約10mの帆立貝形古墳です。築造年代は墳形や埴輪から5世紀後半頃と推定され、安曇川以南で最初に造られた首長墓とされています。陵墓参考地に指定されているために入れませんが、周囲を歩いてまわることができます。5年前に来た時は日が暮れて真暗だったので何も見えなかったけど、今回は高さや大きさ、くびれ部などが確認できました。











次は車ですぐのところ、鴨稲荷山古墳。ここも5年前の日暮れ時に来ました。築造時期は田中王塚古墳よりもあとの6世紀前半と考えられ、ここ高島の地で生まれたとされる第26代継体天皇を支えた三尾君(三尾氏)の首長墓と推定されています。冠・沓などの豪華な副葬品から朝鮮半島との強い交流が見られる古墳です。墳丘長約50mの前方後円墳と推定されていますが、墳丘が完全に失われて石棺がそのままの位置に建屋で覆って保存されています。













このあと、本当ならすぐ近くの高島歴史民俗資料館へ行って鴨稲荷山古墳から出た豪華な副葬品の復元品を見たかったのですが、なんと残念なことに今年3月をもって閉館になってました。5年越しの希望が叶わず、まことに残念。


(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー④

2024年08月06日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月27日、舟津神社を出て車を東に走らせます。北陸道の下をくぐって浅水川を渡ってすぐ、採石のために大きくえぐられた山が見えます。大正時代、採石作業中に銅鐸が発見されました。高さ51.7センチの突線紐式銅鐸で、現在は東京国立博物館で所蔵されているようです。由来はわかりませんが「新銅鐸」と呼ばれています。突線紐式なので弥生時代後期ということになりますが、この山の尾根上には10数基の古墳が見つかっているとのこと。



実はこのあと、佐々木さんの生家のすぐ近くにある弁財天古墳群へ行く予定にしていたのですが、朝から酷暑の中での山上の古墳見学が続いて、3人とも電池切れ寸前。残念ながら弁財天古墳群をパスすることにしました。

そして時刻はそろそろランチタイム。岡太神社の手前にある森六という蕎麦屋さんに入りました。越前おろし蕎麦の大盛をいただいたのですが、大根おろしが辛いのなんのって、むせるくらいに辛い。麺も太目でいつもの蕎麦を食べるようなわけにはいかない。でも美味い。ごちそうさまでした。



というわけで、食後すぐに岡太神社に到着。このあたりは継体天皇潜流地といって、即位前の継体天皇(男大迹王)が暮らしていたと言われるところです。そのため、継体天皇ゆかりのスポットがたくさんあります。岡太神社もそのひとつ。







社伝によると、この地の水害を煩慮して水路を穿ち、九頭竜・足羽・日野の三川を開いた男大迹王が、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀して岡太神社と号したということです。「岡太」は「おかふと」とも「おかもと」とも読みます。

岡太神社から歩いて数分のところ、六角形の玉垣に囲まれた皇子ケ池は継体天皇のふたりの皇子(のちの安閑天皇・宣化天皇)がこの池の水を産湯に使ったとされます。今は水が枯れていますが、果たして本当にこの池の水を産湯に使ったのでしょうか。そもそも、、、





このたりは越前和紙で有名なところ。この辺りを流れる岡本川の上流に美しい姫が現れて村人に紙漉きの技術を伝えとの伝承があり、その伝説の姫を和紙の神様・紙祖神「川上御前」として祀ったのが、次に行く大瀧神社/岡本神社。その前に紙の勉強ということで「紙の文化博物館」へ。



でも、紙の文化というほどには紙のことが勉強できる展示ではありませんでした。ということで早々に退出して大瀧神社/岡太神社に向かいました。



この神社、そもそもなぜふたつの名前が併記されるのか。少し長くなりますが、Wikiより抜粋して転記します。

上宮(奥の院)には大瀧・岡太両神社の本殿が並んで建つが、下宮(里宮)の本殿・拝殿は両神社の共有となっていることから、2つの神社の名前が併記される。伝承によれば、養老3年(719年)、この地を訪れた泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒(おおちご)権現を建立したという。後に明治時代の神仏分離令により、現在の大瀧神社となった。岡太神社については、約1500年前、大滝町の岡本川上流に美しい姫が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたのが始まりとされている。この伝説の姫『川上御前』を、和紙の神様・紙祖神として祀ったのが岡太神社である 。延元2年(1337年)の足利軍の兵火で社殿が失われ、岡太神社の祭神を大瀧神社の相殿に祭った。さらに天正3年(1575年)、織田信長の一向一揆攻略の際、大瀧寺一山が兵火に遭い消失。再建時に大瀧神社の摂社として境内に祀られるようになった。大正12年(1923年)、大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の分霊が奉祀され、岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。神社の格としては大瀧神社の方が上であるが、住民達が崇拝してきたのは川上御前であったため「大瀧神社・岡太神社」と並記していると考えられている。

ということです。先に行った岡太神社とは別物です。この神社の本殿、立派で荘厳で美しく、見ていて飽きない。こんな本殿は初めてです。素晴らしい。










 
次は味真野神社。継体天皇をはじめ全部で八柱が祀られ、境内は男大迹王の宮(鞍谷御所)の跡と言われています。しかし、もとは式内社の須波阿須疑神社三座であったが、その後に分離、さらに多くの神社を合祀して明治41年に現在地に遷って味真野神社と改称したというから、継体天皇とのつながりは不明。宮跡というのもあやしい。







それでもここは、継体天皇をモデルに世阿弥が著した謡曲「花筐」発祥の地とされ、神社に隣接する「万葉の里 味真野苑」には花筐に登場する継体大王と照日の像があり、恋のパワースポットとして人気があるらしい。





このあとは継体天皇の第2皇子(のちの第28代宣化天皇)ゆかりの地を訪ね、さらに五皇神社を参拝しました。





五皇神社は越前市の東南、浅水川に沿った谷あいにひっそり佇む風情のある神社でしたが、楼門や本殿は立派で荘厳な建物でした。五皇とは、誉田別皇子(応神天皇)、稚野毛二派皇子、太郎子、汗斯王子、彦主人王子の5人で、継体天皇を5世代遡った直系の5人の皇子(ひとりは天皇)です。











さて、これで継体天皇潜流地の踏査は終了です。このあと高速で敦賀まで走って、気比神宮、常宮神社と周ります。

越前国一之宮で北陸総鎮守の気比神宮の主祭神は伊奢沙別命。別名が気比大神あるいは御食津大神。ほかに仲哀天皇と神功皇后、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が祀られます。鳥居の深い赤色が美しい。









この日最後の踏査地は常宮神社。古くは気比神宮の奥宮あるいは摂社とされた神社で、祭神は天八百萬比咩命のほかは気比神宮の仲哀天皇以下の六座と同じです。ここは神功皇后が三韓征伐へと向かった出発地です。敦賀半島の中ほど、敦賀湾に面する海辺に鎮座。なかなか景色のよいところです。









この日はこれで8つの神社を参拝したことになります。まだ太陽が高い位置にありますが、この日の踏査はこれにて終了です。敦賀駅まで戻ってルートイン敦賀駅前にチェックインした後、食事に出て福井名物ソースカツ丼で疲れを癒しました。






(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー③

2024年08月05日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月27日、近江・越前ツアーの2日目です。宿泊したプリンスホテルタケフを7時半に出発。まずは福井市内の足羽山にある足羽神社を参拝し、有名な継体天皇像を拝みに行きました。







足羽神社の祭神はもちろん継体天皇。こんなことを書くと地元の人に叱られるかもですが、そもそも越前における継体天皇にまつわる数々の伝承や所縁の地はどうもあやしい。文献として残っているものがないので基本的にすべて口伝。『古事記』にも越前のことは出てこないし、『日本書紀』でも幼少時に父を亡くして母の振媛が越前に連れ帰ったことが記されるのみです。このあたりの不思議は「継体天皇(越前における伝承1)」「(同2)」として当ブログに書いたのでご覧ください。



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次は越国最古の四隅突出型墳丘墓、小羽山30号墓です。清水きららの森公園に車を停めて夏草が茂る丘陵に踏み込みます。茂みを掻き分け、少し迷いながらも進んでいくとありました。最後はイノシシ除けの電線をまたいだ少し先に念願の小羽山30号墓。





小羽山墳墓群は弥生後期中頃から後半の墳墓群で8基の四隅が見つかっています。そのうち30号墓は墳丘長が27m、長さ3.7mの箱型木棺に碧玉製管玉103点を始めとする副葬品が出土しています。築造は出雲の西谷3号墓とほぼ同じ弥生後期中頃で北陸地方で最も古い四隅突出型墳丘墓です。



このあとは鯖江市にもどって長泉寺山古墳群へ。ここで前日会食した佐々木さんのご友人と再会です。このご友人は鯖江市のご出身で数々の有名企業の要職を歴任してこられ、現在は福井と東京の二拠点生活で主に福井県の郷土史の掘り起こしと町おこしなどに取り組んでおられます。この方が、長泉寺山古墳に行くのならご一緒したいと希望され、朝8時半に鯖江市役所にて待ち合わせをした次第です。

長泉寺山一帯の尾根づたいに80基ほどの墳墓や古墳が確認されていて、その中でも山頂にあって唯一の明確な前方後円墳である長泉寺山67号墳が目的地です。ご友人が地元のツテで聞いてくれていた市役所裏手の登り口から70mの山頂まで登りました。



途中、道が分かれるところで少し迷いながら、そして蜘蛛の巣と戦いながらようやく到着。最後は知らないうちに古墳の上を歩いていました。







ご友人にご満足いただけたかどうかわかりませんが、道中で語ってくれたこのあたりの地形や歴史の話をたいへん興味深く伺いました。そうそう、市役所にはこんな横断幕が掲げられていました。そういえば鯖江は体操が盛んな町でした。ご友人とはここでお別れです。



次は王山古墳群。標高15~30mの鯖江台地南端の王山と呼ばれる丘陵上に弥生中期から古墳時代中期の54基の方形周溝墓や古墳が並びます。





尾根上に方形周溝墓というのはちょっと違和感。通常は尾根を方形に切り出して台状墓にすると思うのだけど、わたしの思い込みかな。切り出すよりも周溝を掘って区画するほうが楽チンだったからかな。











尾根の高い方から低い方へ整然と並んでいる様子から、この地の首長一族の代々の墓が高い所から順に累々と造られたと思えたのですが、調べてみると上からとか下からとか関係なく、3世紀の方形周溝墓と4世紀の方墳が順不同で造られたようです。

最後のはいちばん高い所にあるこの墓域最大の40号墓で、台状部の高さから方墳と思いきや、なんと弥生中期末の方形周溝墓だとか。いやあ、これは明らかに方墳もしくは台状墓でしょ。いずれにしても古墳群最大なので一族が最も栄えた頃のリーダーの墓なんでしょう。



これは何号墓だったか忘れたのだけど、ちょっと四隅突出墓な感じです。周溝が隅の部分で切れているケースで、周溝の掘り残しなのか台状部へ渡る通路なのか。これまで方形周溝墓を勉強してきて、台状部が削平されて地面と水平になっている例ばかり見てきたのですが、このように墓壙を含めて台状部がそのまま残っていてその台状部へ渡る、あるいは登るような形で隅の部分が残っているケースは初めてです。これを見る限りは台状部へ登るために設けた通路のように見えますね。

このケースのように、実際にこの眼で見たときに、それまで頭の中で考えたことと違っているとちょっと残念な気持ちになります。でも、それが現実なのだから仕方ないと言えば仕方ないと思いながら王山を下山しました。


方形周溝墓の勉強は面白いよ。
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王山古墳群のあとは王山の東麓にある舟津神社を参拝。祭神は崇神朝の四道将軍のひとり、大彦命です。



『舟津社記』によれば、大彦命が淡海(近江)から角鹿(敦賀)を経て八田(丹生郡越前町八田か)から船に乗って深江(鯖江市深江町)に舟を着けたので舟津というらしい。敦賀から山越えで八田に進み、その後は船で日野川を下ったということでしょうか。







北陸一の古社だそうです。大彦命が祭神となっていますが、この本殿の裏山が王山ということを考えると、もともとは王山に眠る一族の誰かを、あるいはその祖先を祀る場所だった可能性が高いと考えます。


(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー②

2024年08月04日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月26日、午後の部は「近江富士」の別名をもつ三上山の山麓に鎮座する御上神社からスタート。御上神社の主祭神、天之御影命は天津彦根命の子で天照大神の孫にあたります。天之御影命が三上山の山頂に降臨したので、神主の御上祝(はふり)が三上山をご神体として祀ったのに始まると伝えられます。











写真左の本殿が国宝に指定されています。拝殿から見てほぼ真東にある三上山をご神体として祀っているはずなのに、本殿を拝む方向はほぼ真北。つまり90度ずれているのですが、その理由は定かではありません。

この記事を書くにあたって復習していてわかったことが、境内の前に昭和天皇即位時の大嘗祭に供える献上米の栽培地として指定された悠紀斎田があったということ。それ以来、毎年5月に御田植祭が行われているそうです。

次は通称、銅鐸博物館と呼ばれる野洲市歴史民俗博物館へ。近くの大岩山から24個もの銅鐸が出たことは良く知られています。24個のなかのひとつは高さが134センチもあり、日本最大の銅鐸であり、実物は東京国立博物館に展示されています。







この展示によると中国の馬鈴が原型となって朝鮮半島の朝鮮式小銅鐸に発展し、それが日本に伝わって小銅鐸となった、と解釈できます。わたしが数年前に勉強したときには、原型は中国の銅鈴で、それが朝鮮半島に伝わって朝鮮式小銅鐸となり、さらに日本に伝わって小銅鐸となり、その後、小銅鐸のまま利用されるケースと、大型化に向かうケースの2つの系統に分かれた、と整理しました。



上の写真、いずれもレプリカですが、日本最大銅鐸と日本最小銅鐸のいずれもが滋賀県で出土している事実はなかなか興味深かった。大岩山出土銅鐸や滋賀県の他のところから出た銅鐸の展示はどれもレプリカながら、なかなか見応えがありました。

わたしはこの本で銅鐸を勉強しました。
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次の踏査地は冨波古墳。墳丘が削平されてしまった埋没古墳ですが、3世紀後半の全長42mの前方後方墳です。大岩山古墳群の中で最も早くに造られた古墳で、この地域を治めた最初の首長の墓と考えられます。すぐ隣に円形周溝墓と考えられる遺構が見つかっています。









今回のツアーの行程を組んだのがちょうど前方後方墳の勉強をしている時だったので、行程に入れました。近江は前方後方墳発祥の地との説があり、わたしもそのように考えています。詳しくは「前方後方墳の考察①~⑭」をご覧ください。

次の踏査地も以前から行ってみたいと思っていた鏡神社です。『日本書紀』には、垂仁天皇3年に新羅から来日した天日槍が、播磨国から菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑にしばらく滞在し、その後、若狭国から但馬国に至って居住地を定めた、近江国鏡村の陶人は天日槍の従者である、と記されます。その鏡村にある鏡神社の祭神はもちろん天日槍です。









思っていた以上に整備されていました。でも、このあたりは天日槍よりも源義経の元服の地として有名のようです。知らなかった。

次は結果的にこの日の最後となった乎加神社と神郷亀塚古墳です。乎加神社の前に車を停めて、まずは神社を参拝します。この神社はちょっとイメージと違った。実際に来るまではもっと小さな神社かと思っていたけど、境内は綺麗に整備され、拝殿、本殿とも立派なものでした。本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。









祭神は豊遠迦比売命となっていますが、これは社歴略掲にあるとおり、五穀の神なので豊受大神あるいは豊宇気毘売神のことを指します。

神郷亀塚古墳はこの本殿の裏側にあるので、そのまま歩いて向かいます。途中、地元のおばあさんが田んぼの草刈りか何かをしていたので挨拶をして通り過ぎました。このあたりと思って歩いていると説明板が目にとまりました。



立っている場所はこの図の左下あたりです。墳丘がこんな感じで見えます。と言ってもよくわからんか。



前方部正面へ周ってみます。発掘調査のあと、完全に埋め戻されて一面が家庭菜園になっています。ハートの上半分のように見える奥の木の手前、少し薄い緑のこんもりしたところが後方部です。わずかに左側だけ残された前方部が手前に少し延びているのがわかるでしょうか。



反対側から近づいてみました。残された墳丘の形が少しわかるようになりました。



家庭菜園で作業をしている人がいたので、これ以上近づくことができませんでした。帰りに後方部に向かう小径があるのに気がついて進んでみると、後方部の後ろ側すぐのところまで接近できました。



神郷亀塚古墳に興味のある方には是非読んでもらいたい一冊
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帰り道、さっきのおばあさんが「亀山さんを見てきたんか」と声をかけてくれました。この古墳、地元の方は亀山さんと呼んでいる、と上の本に書いてあったのを思い出しました。これぞ実地踏査の醍醐味と妙に興奮。

この古墳は乎加神社の本殿の裏にあるので、神社はもともと古墳の被葬者を祀っていて、拝殿は古墳を向いて建っていると思って確認したのですが、少しずれていました。車に戻ると、すぐ近くに両者の位置関係がわかる説明板が立っていました。





さて、時刻は17時を少し回ったところ。最後に米原市の朝妻湊跡に行く予定にしていましたが、この日の夜は宿泊地の越前市で佐々木さんの同郷のご友人と会食の予定にしていたので、約束の時間に遅れないよう、朝妻湊をパスすることにしました。これにて一日目が終了です。

(つづく)


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近江・越前への実地踏査ツアー①

2024年08月03日 | 実地踏査・古代史旅
2024年7月26日~28日、いつもの古代史仲間の岡田さん、佐々木さんとともに2泊3日の古代史実地踏査ツアーに行ってきました。12回目となる今回は近江・越前を巡って主に継体天皇ゆかりの地を訪れました。順に紹介したいと思います。

2024年7月26日午前8時、大阪のOCATに集合してレンタカーで出発、最初の踏査地である滋賀県守山市の伊勢遺跡を目指します。伊勢遺跡は最近になって史跡公園として整備されたばかりです。



伊勢遺跡は、東西約700m、南北約450m、面積約30haにおよぶ大規模な遺跡で、弥生時代後期の集落遺跡としては、国内最大級の遺跡です。伊勢遺跡で発見された大型建物群は、琵琶湖南部地域で形成されたクニの政治や祭祀を執り行う重要な施設だったと推定されており、我が国の形成過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡です。(伊勢遺跡史跡公園パフレットより抜粋)

祭殿と考えられる大型建物跡を覆うように建てられた展示施設はスマートなフォルムでなかなかいい感じですが、内部の空間は少しもったいない使い方。もう少し展示物があってもいいのに。この遺跡の発掘に携わったとおっしゃる職員の方が遺跡の概要を解説してくれました。











伊勢遺跡の次は同じく守山市にある下之郷遺跡です。こちらも10年ほど前に史跡公園として整備されました。弥生時代中期の大規模な多重環濠集落で、東西330m、南北260mにわたって幅の広い3重の環濠が巡らされています。







建物から手前にかけて地面の色が濃くなった部分が環濠跡です。これが建物の中に延びて下の写真のように発掘時の状態が復元されています。



しがらみ状遺構と言われる木製の杭は環濠に水を溜めたり水位を調整するための水利施設と考えられています。建物の裏に出ると水を湛えた3重の環濠が復元されています。







次はこれまた守山市内の服部遺跡。と言っても、服部遺跡は野洲川放水路の完成とともに消滅して今は何も見るものがないので、すぐ近くの守山市埋蔵文化財センターへ。方形周溝墓のことを勉強した際に出てきた遺跡で、当初はこの旅の行程に入れてなかったものの、伊勢遺跡、下之郷遺跡と順に見学してみると、どうしても行きたくなったので急きょ追加しました。



わたし達が入館すると職員の方が出てきて冷房のスイッチを入れてくれました。もっと服部遺跡にフォーカスした展示を期待していたのですが、ちょっと期待外れ。伊勢遺跡や下之郷遺跡など、守山市の遺跡や出土遺物を網羅的に紹介する解説と展示でした。







時刻は12時半。次の御上神社に向かう途中のラーメン屋さんでランチをとりました。


(つづく)


邪馬台国近江説が気になる方にはこの本がおススメ。
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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅④

2024年03月16日 | 実地踏査・古代史旅
2024年3月10日、いよいよ最終日。まずはホテルから車で10分ほどの小迫辻原遺跡へ。ここも2回目ですが、以前に来た時は広い台地のど真ん中に車を停めて、遺跡全体を眺めて帰ったのですが、あとで調べると端っこの方に説明板があることが分かって少し後悔したので、今回はその説明板を目指しました。




一面に見える黄色の花は朝霜が凍てついた菜の花です。弥生時代から古墳時代にかけての住居跡や墳墓などが発掘され、なかでも3基の環壕居館は日本最古の豪族居館跡と考えられています。安徳台遺跡もそうだったけど、防御などのために台地上に集落を形成するのはわかるとしても、水の調達が大変だったろうな、と思って調べてみると「史跡小迫辻原遺跡保存管理計画書」に「辻原台地上には湧水がないため灌漑用の水路がひかれている」と書いてありました。環濠集落や環濠建物が出ているので、どこかから水を引いてくる必要あるよな。

日田インターから高速に乗って一気に宇佐を目指します。途中、由布岳PAから由布岳を眺めてちょっとだけ観光気分。



ほぼ予定通りに宇佐神宮に到着。ここは3回目になります。当初の計画では宇佐神宮に来る前に御許山の上にある大元神社を訪ねることにしていたのですが、どうやら車で近づくのが難しそうなのであきらめました。




宇佐神宮は謎の多い神社。邪馬台国宇佐説では上宮本殿のある亀山が卑弥呼の墓ということになっていますが、果たしてどうでしょうか。一之御殿に八幡大神(応神天皇)、二之御殿に比売大神、三之御殿に神功皇后がそれぞれ祀られます。只今は鎮座1300年を迎える令和7年の勅使奉幣祭に備えて改修中でした。




この上宮のすぐ下に下宮があり、祭神は上宮と同じ三神です。こんなすぐ近くに同じ祭神を祀るのはどうしてでしょうか。下の説明から考えるに、下宮にはもともと大和の大神神社の社家の生まれとされる大神比義(おおがひぎ)が祀られていたのではないでしょうか。欽明天皇のときに大和から宇佐に派遣され、宇佐の菱形池に現れた八幡大神を初めて見たとされる人物です。




神宮寺跡や一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)跡、勅使が渡る呉橋など、広い境内をひと通り見て回ったあとは、参道の商店街でお土産を購入して次に向かいました。





次の目的地は宇佐風土記の丘。大分県立歴史博物館を見学して、すぐ横の赤塚古墳を見て、というコースですが急きょ、凶首塚古墳や百体神社に立ち寄ることにしました。大和朝廷は養老4年(720年)に九州の隼人を一斉に討伐。凶首塚古墳はその隼人の首が埋められていると伝えられます。そして隼人の霊を慰めるために宇佐神宮では放生会が行われ、その霊が百体神社に祀られることになりました。





勅使道がまっすぐに伸びた先に呉橋があります。まるで北海道でみるような真っすぐな道はちょっと感動でした。



寄り道のあとは風土記の丘へ。寄り道したことと博物館で少し時間を要してしまったので、風土記の丘に並ぶ古墳群(川部・高森古墳群)の見学をあきらめて赤塚古墳だけで我慢しました。




赤塚古墳は3世紀後半、九州最古の前方後円墳とされています。全長が57.5mほどでそれほど大きくないものの、畿内の椿井大塚山古墳やこのあと行くことにしている石塚山古墳と同笵の三角縁神獣鏡が出ており、大和と北部九州のつながりを考える上で重要な古墳です。また、3世紀後半は邪馬台国の時代でもあるので卑弥呼の墓と言われたことも。





後ろ髪を引かれる思いで次を目指します。次は京都郡みやこ町にある綾塚古墳と橘塚古墳です。ここも当初の予定になかったものの、北部九州の遺跡に詳しいメンバーのオススメがあったので行くことにしました。いやあ、行った甲斐がありました。






綾塚古墳は7世紀前半、直径40mの円墳。7世紀前半と言えば畿内では巨大古墳の築造がすでに終わっています。それなのにこの地ではこんなにデカい石を使った複室構造の巨大横穴式石室。東国でも古墳時代後期に巨大な前方後円墳が造られるなど、やはり大和から離れた地域では中央の動きが遅れて伝わるのか、それとも中央への従属意識が薄れて自立するようになっていったのか。



この説明板に登場するウイリアム・ガウランドは古墳研究の先駆者で「日本考古学の父」と呼ばれ、前方後円墳は円墳と方墳が合体したものであるとの説を唱えました。前方後円墳を勉強したときに知った名前にこんなところでお目にかかることになろうとは。

次は橘塚古墳。ここは小学校の敷地内にあるので入れないかもしれないと言いながら到着してみると、なんと校門が開いているではないですか。職員の方に了解を得ようとしてくれたものの誰もいない様子だったので、勝手ながら入らせていただきました。綾塚古墳よりも少し古い6世紀末、一辺が37〜39mの方墳で、こちらも巨石を使った複室構造の石室を持っています。飛鳥の石舞台を彷彿とさせます。綾塚古墳と橘塚古墳、来た甲斐がありました。






次はいよいよ3日間の最終目的地、出現期の前方後円墳とも言われる石塚山古墳。15分ほどで到着し、先に隣接する苅田町歴史資料館を見学します。舶載の三角縁神獣鏡7面や素環頭大刀などが出土していますが、この地を神域としていた宇原神社が社宝として所蔵しているため、残念ながら資料館には展示されていませんでした。現存する鏡は京都府の椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵とされています。



説明板に築造時期が書かれていませんが、もともと4世紀初めごろとされてきたのが、最近では年代を遡らせて3世紀中頃から後半を想定する考えが広がりつつあるそうです。





墳丘に登って周囲を歩いて全長130m、高さ10mを実感してきました。後円部の墳頂には竪穴式石室が出たと思われる場所が石で囲われ、墳丘は斜面を含めて一面に葺石が見られました。墳丘には浮殿神社が鎮座します。








これで予定した行程を完遂。小倉まで走ってレンタカーを返却、お茶してから小倉駅で解散です。とにかく事故なく無事に終われてホッとしたとともに、充実した旅の満足感に浸りながら新幹線で帰路につきました。次は丹後や吉備という案が出ているので、またまた企画に腕を振るいたいと思います。(おわり)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅③

2024年03月15日 | 実地踏査・古代史旅
2024年8月10日、2日目の午後は私がこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳から。

王塚古墳は6世紀前半の築造で、遠賀川流域では最大となる全長86mの前方後円墳。ここの見どころは何と言っても石室内の装飾壁画です。靫・盾・騎馬・珠文・双脚輪状文・わらび手文・三角文などが赤・黄・緑・黒・白の5つの色でびっしりと描かれています。



壁画の実物は見れませんが、隣接する装飾古墳館の中に見事に復元されています。この中に入ると時間が経つのを忘れていつまでも立っていられます。というか、横になって被葬者の目線で石室内を眺めたくなりました。いつか装飾古墳を勉強してみよう。


この古墳は遠賀川水系の大分川と穂波川が合流する地点、穂波川右岸に立地します。遠賀川も穂波川もこんなに内陸まで遡っても流れが穏やかでそこそこの水量があります。古代の遠賀川は直方市あたりまで潟が広がっていたともされ、この流域は水運によって栄えたことでしょう。飯塚市歴史資料館に展示されていた解説には立岩遺跡が不弥国であると書かれていました。

さて次はここから近いということで急きょ加えた大分八幡宮。ここも2回目の参拝。筥崎宮の元宮とされ、祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫の三神。


境内の裏手にある小山の上には仲哀天皇の陵があるとされ、急な階段を登ってきました。仲哀天皇陵は大阪の藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳に治定されていますが、『記紀』それぞれで崩御の描かれ方が違うものの、いずれも九州で亡くなっています。いったいどこがホントの陵墓なんだろうか。


さあ、ここから山越えで福岡平野に戻ります。渋滞する大宰府をなんとか通りぬけて安徳台遺跡のふもと、裂田溝わきのカワセミ公園の駐車場に到着。裂田溝は神功皇后が武内宿禰とともに開削したと『日本書紀』に記される用水路。流れる水のなんと澄んでいることか。


安徳台遺跡は駐車場のすぐうしろに見える台地の上に広がる弥生時代中期の集落遺跡で、130棟もの住居跡や甕棺墓などが見つかっています。比高差30mほどの台地上からは奴国が一望できます。


時刻は16時近く。山越えのショートカットで次の安永田遺跡を目指します。細いクネクネ道を難なく通り抜けて予定より少し早い到着。


1980年に九州で初めて銅鐸の鋳型が出土した場所です。さらに銅矛の鋳型片、溶解炉跡、フイゴなども出たことから、弥生時代中期の青銅器工房跡と考えられています。


説明板にある通り、銅鐸も銅矛も鋳型片が散らばった場所から出土しているのだけど、これはどう考えればいいのでしょうか。工房としての役目を終えたあと、鋳型を破壊してまき散らしたのか、それとももともと一カ所にあったものを後世の人が移動させたのか。いずれにしても九州で銅鐸が生産されていたことを示すエポックメイキングな場所と言えます。またこの発見のあとの1998年、吉野ヶ里で銅鐸そのものが出土しています。

そろそろ夕暮れが近づいてきたので次の高良大社へは高速を走って急ぎます。高良大社も2回目。今回は境内への階段を使わずに車で社殿裏手の駐車場まで登りました。その結果、神籠石を間近に見ることができてラッキーでした。


Wikipediaによると、高良大社の神籠石は城郭説と神社を取り囲む聖域であるとする霊域説があり、明治時代に論争が展開されましたが、昭和になって佐賀県の神籠石の調査から山城であることが確定的になったとあります。しかし、どうみても山城や城郭には見えません。うーん、どうなんでしょう。


境内から筑後川下流域が一望できます。遠くには吉野ヶ里遺跡、邪馬台国があったとされる朝倉なども望めます。眼下の平野では磐井の乱が展開されたそうです。この地を物部の故地とする専門家もいます。とにかく古代史好きなら必見の場所ですね。

高良大社の祭神は高良玉垂命。左殿に八幡大神、右殿に住吉大神を従えます。高良玉垂命とは誰なのか、Wikiによると、武内宿禰、中臣鳥賊津臣命、物部胆咋連、饒速日命、彦火々出見尊、景行天皇などなど諸説があって定まっていません。個人的には武内宿禰もしくは物部氏に関係する人物だと思います。


時刻は17時半。いよいよ日が暮れようとしています。おそらく夕陽待ちをしているのでしょう、たくさんのカップルがいました。


さて、いよいよこの日のラスト、高良大社のふもとにある祇園山古墳へ向かいます。卑弥呼の墓という説があるのにこれまで知らなかった古墳です。


一辺が約23mの方墳で3世紀中頃の築造です。墳丘上には箱式石棺が残されていて、墳丘の裾には葺石が、周囲には殉葬墓とも言われている石棺墓や甕棺墓などがたくさんありました。


太陽がまもなく地平線にタッチする時刻、なんとも幻想的な風景を見ることができました。以上で2日目が終了です。朝一番から精力的に動いて計画を完遂、何とも言えない充実感に浸りました。

この日の宿泊は3日目に備えて日田駅前のホテルを取っていたので、最後に高速を走って日田を目指します。チェックイン後にホテルのダイニングで晩ご飯。疲れもあって早々に解散しました。(つづく)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅②

2024年03月14日 | 実地踏査・古代史旅
2024年3月9日、旅の2日目。空気が冷たくてかなり冷え込んだ朝、朝食を済ませて7時半に出発です。この日の行程は「那珂八幡古墳→光正寺古墳→飯塚市歴史資料館→立岩遺跡→王塚古墳→大分八幡宮→安徳台遺跡→安永田遺跡→高良大社→祇園山古墳」と盛りだくさんなので時間を無駄にせずに効率的に周る必要があります。

那珂八幡古墳は何度も福岡に来ていて行こうと思えばすぐに行けるのに、これまで行ったことがなかったので、少し感慨深いものがありました。寺澤薫氏が纒向型前方後円墳としていましたが、最近になって少し長さが変わったために纒向型ではないと発表されていました。





全長85mの前方後円墳で築造時期は説明板には4世紀初めとか4世紀前半と書かれていますが、出現期の前方後円墳という考えが定着している感があるので、さすがに4世紀はないだろう、遅くとも3世紀後半としてくれた方が納得がいきます。ここでメンバーの一人が、九州では古墳の築造時期をできるだけ遅い時期にする意識が働いていると言いました。3世紀に前方後円墳があったとすれば始まりの地である大和の箸墓はそれよりも早い時期になり、邪馬台国大和説に有利に働くから、ということです。さもありなん。






次は光正寺古墳。3世紀後半、全長54mの前方後円墳。糟屋郡最大で、ヒスイ製勾玉や鉄刀、鉄剣、絹織物でまかれた刀子などの副葬品が出ていることなどから、この地の首長墓と考えられ、不弥国の盟主墳との説もあるようです。那珂八幡古墳よりも古いとするわりには出現期古墳としての知名度はどうだろうか。墳丘は綺麗復元整備されていて、墳丘からの眺望は王墓を実感できます。














次は飯塚市歴史資料館。ここは2回目。何と言っても立岩遺跡群から出た多数の甕棺や10面の前漢鏡など、展示資料の迫力が見ものの資料館です。残念ながら写真投稿は禁止となっていました。



資料館で情報収集した後はそのまま立岩遺跡へ。丘陵上のわずかな空間が保存されているだけですが、資料館で見たでっかい甕棺を想像しながらの見学です。






このあと、すぐ近くにあるという立岩神社に行こうとして車でグルグル回ったのですが、参道を発見できずにあきらめました。あとで調べると、熊野神社の境内に車を停めて、神社の裏手から歩いていくことができたようです。

さて、次は私にとってはこの旅でもっとも楽しみにしていた場所のひとつ、王塚古墳ですが、向かう途中のとんかつ屋さんで少し早いランチを取ることにしました。2日目の午前の部は以上です。(つづく)


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古代史仲間と行く北部九州2泊3日の旅①

2024年03月13日 | 実地踏査・古代史旅
久しぶりの投稿です。今回は5人の古代史仲間とともに北部九州を巡ったときのレポートとなります。昨年2023年11月頃に仲間で集まった際に誰ともなく発案され、その後に私が行き先の希望を聞くなどして3日間の行程を企画した旅で、日程は2024年3月8日〜10日の3日間で、博多、飯塚、久留米、日田、宇佐、京都などを巡りました。いつもなら行程マップを掲載するのですが、今回はいきなりの大きなハプニングがあって、いろいろと変更を余儀なくされたので、行ったところを順番に紹介することとします。

2024年3月8日(金)、朝9時半に博多駅近くのレンタカー屋さんに集合すべく、私は自宅の最寄り駅から始発の電車に乗り、新大阪を6時25分に出発する「さくら541号」に乗り込みました。予定では9時4分に博多駅に到着です。ところが、、、

福山駅を通過してすぐ、突然に列車が停止しました。「広島・新岩国間で停電が発生したため、一時運転を見合わせます」との車内アナウンス。ところが、その後に停車の原因が「人と列車が接触する事故」に変わり、運転再開見込みが10時と告げられました。集合時間に間に合わないだけでなく、博多着が正午頃になりそうなのですぐに仲間に連絡して、残念だけど本日は不参加の旨を伝えました。その後、再開見込みが10時半に変更され、三原駅まで進み、最終的に広島駅まで走って運転中止が決定されました。



広島駅からは後続のこだまに乗り換えです。その肝心のこだまが到着する前に続々と運転中止を決定したのぞみが入ってきて、ホーム上は人であふれてきました。幸いにもこだまが30分遅れくらいで到着し、座席を確保することができました。結局、博多駅に到着したのが13時を過ぎていたので、トータルで4時間の遅れとなりました。ひとりでどこかへ行こうかとも考えていたのですが、気持ちが少し萎えていたのでランチを取ってそのまま博多駅近くに取っていたホテルに向かうことにしました。

予定通りに出発したメンバーから、16時頃に香椎宮で合流しましょうと連絡が入ったので、もともとこの日の夕方に入る予定だった一人とホテルで落ち合った後、電車で香椎宮に向かいました。少し遅れたものの、無事に香椎宮の境内で合流ができ、本殿を参拝後に仲哀天皇大本営旧跡、沙庭跡、不老水など周辺を散策して本日の踏査が終了となりました。













聞くと、本日の行程を大幅に変更して、もともと翌日に行く予定だった金隈遺跡、板付遺跡、須玖岡本遺跡など、すでに私が行ったことのあるところをこの日に行ってきたとのこと。ありがたや。これで明日は王塚古墳に行けるぞ。

いったんホテルに入ったあと、博多駅すぐ近くの居酒屋で晩ご飯。わたしは新幹線での人身事故という滅多にないアクシデントに見舞われたものの、ほかの皆さんが楽しい1日を過ごしてくれたようで、この旅を企画してよかったと思いました。古代史談議に花が咲き、食後はホテル近くのファミレスで23時過ぎまでワイワイやってました。(つづく)


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象鼻山古墳群から長浜・息長古墳群へ

2023年10月28日 | 実地踏査・古代史旅
2023年10月27日、休みを取って「古代史日和」で知り合った仲間5人と一緒に古墳巡りをしてきました。行き先は岐阜県の象鼻山古墳群、滋賀県の長浜古墳群、そして息長古墳群です。

朝9時に新幹線の岐阜羽島駅で集合です。私以外は皆さん関東の方ばかりで、前泊で岐阜入りしたり、早朝に新幹線でやってきたり、運転手役をかって出た私は自宅から車で向かいました。さわやかな秋晴れの中、岐阜羽島駅をスタート。

最初に目指した象鼻山古墳群には30分足らずで到着、標高142mの象鼻山の山頂を目指します。




車が1台通れるほどの山道を20分ほど歩くと山頂です。山頂付近に70基の古墳が築造されていますが、最大のお目当ては1号墳。全長40mの3世紀中頃か後半に造られた前方後方墳で、畿内と東海の両方の特徴を併せ持つ古墳です。一般的には畿内の影響を受けた東海の一族が築いたとされていますが、実際に墳丘に登って広い濃尾平野を見渡してみると、西からやってきた勢力がここを拠点にして濃尾平野に進出したという全く逆のイメージが湧いてきました。






3号墳は上円下方墳とされていますが、墓ではなく祭祀用の舞台との想定で上円下方壇とする説もあるようです。小さな祠が建っていました。



墳丘に登ってあれやこれやと妄想話に花を咲かせて30分ほどの滞在で下山し、次は美濃国二之宮の伊富岐神社へ。



伊富岐神社境内は綺麗に整備されていて思っていた以上に大きな神社でした。祭神には諸説あるようですが、神社庁サイトでは多多美彦命(たたみひことのみこと)とあり「天火明命の子孫伊福氏の本貫なれば同氏等が氏神として創祀せるなるべし」とあります。伊福=伊吹で、伊福氏は製鉄氏族とする考えがあります。






ここで時刻は11時半。少し早い目のランチは近くの蕎麦屋さん「関ヶ原そば処幸山」へ。新しいお店のようで、店内は蕎麦屋さんらしくない雰囲気。天ぷらが売りのようですが、私は揚げ餅そばをいただきました。




お餅のせいか、歳のせいか、この量でお腹がいっぱいになりました。美味しかったです。さあ、次は関が原を通過して長浜古墳群へ向かいます。まずは横山丘陵の先端に造られた長浜茶臼山古墳。




全長92m、葺石のある二段築成の前方後円墳。築造時期は4世紀後半とも5世紀前葉とも言われています。長浜平野から湖北一帯を一望できる後円部からの眺望は一見の価値ありです。







墳丘上では後円部が丘陵先端だというのは明らかにわかるのですが、前方部、とくに先端部がどのあたりなのかがよくわからず、ここかな、こっちかな、いやいやこのラインでしょう、なんて話で盛り上がりました。





次はすぐ近くの垣籠古墳。全長が50数mで築造時期は5世紀後半とされますが、墳形はどの資料をみても前方後円墳とあり、現地の案内板もそうなっていたのですが、何かの資料(ネット情報?)で、最近になって前方後方墳であることが確認された、とあったのでそれを信じていました。でも、正しくは前方後円墳かも知れません。正確な情報をお持ちの方がいらっしゃればご教授いただければありがたいです。




応神天皇の皇子である稚野毛二派皇子の墓とされていることからか「両岐王宮」という神社になっていて墳丘上に祠が建っています。



後円部の半分が開墾で削られていて前方部の先端のように見えたこと、墳丘上に神社がある場合はたいがいの場合、社殿のあるところが後円部になっていることから、ここも同じだとだれも疑わずに前方部の端はどこだ、角はここかな、なんて言い合ってました。念のために資料を確認すると何とビックリ、前と後ろをまったく逆に見ていたことに気がつきました。





次は丸岡塚古墳。前方部がすでに失われていますが全長が130mに復元しうる湖北最大の前方後円墳で5世紀中頃の築造と推定されています。




田んぼの中の一本道を進んでいったものの、思っていた以上に道が細い。墳丘を巡る道はあるけど、これ以上進むとUターンできそうな場所もなく、直角に曲がる細い道でバックも厳しい。ということでギリギリまで近づいて戻ってきました。

空模様が怪しくなってきました。この日の天気予報は夕方から雷雨の可能性あり、ということだったので先を急ぎます。次は横山丘陵の南側にある息長古墳群の山津照神社古墳。





私はこの古墳は二度目で前回は墳丘に登って周囲をまわって細かく観察した古墳です。同じく二度目という仲間は前回は登っていないというので皆で登りました。削られて崩れてかなり変形していますが、前方後円墳を実感してもらえたようです。




山津照神社も拝んでおきました。




さあ、このあとです。来た道を戻ればよかったのに反対側に出たためにえらい目に遭いました。無理すれば何とか曲がれそうな直角に曲がる細い路地。安易に行ってしまってガリガリ(涙)。後悔しても始まらないので気を取り直して塚の越古墳へ向かいます。私はここも二回目です。




ほとんど削平されてしまっていますが、なんとか前方後円形を確認することができます。また、裏へまわると葺石を見ることもできました。




時刻は15時半。もうひとつくらい古墳を見ようかと思っていましたが、降り出した雨が強まりそうなのですぐ近くの近江はにわ館へ一時退避。息長古墳群で出土した埴輪が見れるものと思っていたのですが行ってみてビックリ。大きな第一展示室はもぬけの殻で真っ暗。第二展示室も前日までの展示品を撤収したばかりと言います。その展示品とは米原市の鎌刃城の出土品。

職員の方がおられたので聞いてみたところ、埴輪などの常設展示品は予算の都合など色々あってホールに展示した4体の埴輪以外はすべて収蔵庫にしまってあるとのことでした。学芸員さんも他の施設に勤務するようになったとのこと。図書館を併設した立派な展示施設で展示室2つもあるにもかかわらず、そして展示する資料も豊富にあるにもかかわらず、なんともったいないことか。陳腐化したPCなどの入れ替えに膨大な予算が必要ならPCがなくてもいい展示にすればよいのに。こんな文化財行政でいいのか、米原市。とても残念な気持ちになりました。






以上でこの日の予定が終了。雨が激しさを増して来たので館内で小降りになるのを待って解散場所の米原駅へ。時刻は予定よりも少し早い16時半。皆さん、お疲れさまでした。東京から来られて1日だけ、というのはもったいなかったと思いますが、次回は皆で1泊しましょう。

私は米原ICから北陸道に乗ったのですが、草津あたりで前方が見えなくなるくらいの土砂降りになりました。金曜日の夕方、仕事帰りの時間に重なったこともあって草津から自宅近くの松原までずっとノロノロ運転の渋滞に見舞われたものの、そんなこと何とも思わないくらいに楽しい時間を過ごせて満足の1日となりました。ありがとうございました!





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飛鳥を巡ってきました(後編)

2023年10月16日 | 実地踏査・古代史旅
飛鳥駅前のレンタサイクル屋さんで自転車を借りてキトラ古墳を目指します。高松塚古墳とともに石室内の壁画で有名な古墳です。ダラダラと続く長い上り坂、帰りは下りなので楽チンだぞと自分に言い聞かせて頑張ってペダルを踏みます。

キトラ古墳では先に壁画体験館「四神の館」へ入ります。先に情報収集した上で現地に立つ。実地踏査の鉄則ですね。ちなみにキトラ古墳は7世紀末~8世紀初頭に築造された小さな円墳です。




石室、正確には横口式石槨のレプリカ。正面(北面)に玄武、右(東面)に青龍、左(西面)に白虎、そして手前(南面)に朱雀が描かれ、それぞれの絵の下に十二支像が描かれます。そして天井には天文図。






壁面の劣化が激しくて壁画を十分に確認することができません。これが発見された当時の姿なのか、それとも保存が適切に行われなかった結果の姿なのか。館内の展示説明は保存や修復の苦労話が並んでいましたが、上手くいかなかったことがあったはずで、そういうことも説明されるべきだと思いました。館内の天井は天文図を模した照明が輝いてなかなか幻想的です。



館内での学習を済ませて外へ出て古墳を見学します。想像していたよりも小さい。この小さな墳丘の中にあんなものが埋まっていたのか。



次は第42代文武天皇陵に治定される檜隈安古岡上陵。ちょうど清掃が行われていて、清掃員の方が門扉を開けて墳丘に入っていくところでした。「手伝いますよ」と言ってついて入りたかった。





そして次は高松塚古墳。ここも先に展示施設の「壁画館」に入ります。高松塚古墳は1972年に色彩鮮やかな壁画が発見された古墳です。キトラ古墳と同様に石室の四面に四神が、天井には星宿図が描かれていて、築造はキトラ古墳とほぼ同じ時期の円墳です。



展示室の両側に実物大の壁画が展示されています。右側に展示されるのが「現状模写」(写真上)、左側の展示が「一部復元模写」(写真下)です。ほとんど違いがないのですが、さて、どう違うのでしょうか。





そんなことをブツブツ言いながら見学しているとタイミングよく職員の方が出てきて教えてくれました。右側は現状のままに模写したもので、左側は泥などの付着物を除去できる範囲で除去した状態を模写したもので、付着物を完全に除去できないのでそんなに違いが出ない、ということでした。

もう一つ、キトラ古墳では天文図と言ってたのに、こちらでは星宿図と言います。これもどう違うのかと思っていたのですが、説明を読んで理解しました。天文図は実際の星(星座)の配置を示していて、星宿図とは実際の配置とは関係なく星座を並べたものです。



見学を終えてすぐ近くの古墳へ。キトラよりも大きいけど直径はわずか23mです。ここも近くから見るだけです。




次は中尾山古墳。ここは発掘調査の結果、8世紀初頭の築造であること、八角形墳であること、立派な横口式石槨をもつこと、石槨中央部に火葬骨の蔵骨器があったと思われること、などから文武天皇の真陵だと考えられています。



天皇陵かも知れないにもかかわらず、発掘調査後の墳丘は残念な姿になっていました。



手前の五角形の石、何か意味ありそうですが、なんだかわかりますか。ヒントはこの古墳が八角形墳であること。この古墳は墳丘裾部(墳丘の周り)に石敷きが設けられていて、それが墳丘と同じ八角形をしていたことがわかっています。この五角形の石はその八角形の石敷きのひとつの角を表しているのです。



このあと、近道をするために自転車で階段を降りて、次の梅山古墳を目指したのですが、古墳の横を通過してまずは猿石を見ようと、吉備姫王墓に寄りました。






今はこの場所に置かれていますが、もともとは梅山古墳の南側の田んぼ(下の写真の場所かな)で見つかったと言います。また、ここには4体ありますが、もう1体が高取城跡への登山道に置かれているらしいのです。ということは田んぼから掘り出されたのが5体あったということになります。



いよいよ最後の見学です。さっき横を通ってきた梅山古墳、第29代欽明天皇陵(檜隈坂合陵)に治定される全長140mの前方後円墳です。築造時期6世紀後半で、天皇陵として築造された最後の前方後円墳になります。ただし、本当に欽明陵だとすればです。



『日本書紀』には妃の堅塩媛を合葬したと記されていることから、この古墳が欽明陵だとすれば主体部には二つの石棺があるはずです。ただ、残念ながら宮内庁管理下にあるために主体部の発掘が叶わず確認することができません。天武・持統合葬陵が野口王墓に治定された今、奈良県下最大の前方後円墳である丸山古墳がどの天皇陵にも治定されない中途半端な状態に置かれています。石棺が二つあることが確実であることから、丸山古墳が欽明陵である可能性は大きいと思います。

以上でこの日の飛鳥巡りは終了です。飛鳥駅で自転車を返却し、帰りの電車を待つまでの間、駅前の喫茶店で休憩です。秋晴れで汗ばむ1日、午前中は山登り、午後からは自転車で坂道上り、結構な疲労感の中で飲んだストロベリーの氷カフェの美味しかったこと。






(おわり)







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飛鳥を巡ってきました(前編)

2023年10月15日 | 実地踏査・古代史旅
2023年10月、そろそろ秋の様相を呈してきた飛鳥を友人と二人で巡ってきました。朝9時に近鉄岡寺駅で待ち合わせをして、丸山古墳→牟佐坐神社→益田岩船→牽牛子塚古墳→岩屋山古墳→近鉄飛鳥駅→キトラ古墳→第42代文武天皇陵→高松塚古墳→中尾山古墳→第29代欽明天皇陵→吉備姫王墓(猿石)という行程で巡って、最後は近鉄飛鳥駅にて予定終了となりました。



丸山古墳(私は中学生のとき以来、つい先日まで見瀬丸山古墳と呼んでいました)は奈良県最大の前方後円墳で、後円部の墳頂部が陵墓参考地になっています。墳丘には自由に登れるものの、墳頂部だけは柵が巡っていて入ることができませんでした。感覚的には纒向にある箸墓古墳や崇神天皇陵などの方が大きい感じがしました。






江戸時代以降、天武・持統天皇の合葬陵に治定されていましたが、明治時代に入って同じ飛鳥にある野口王墓がそうであることを示す資料が見つかったことから、野口王墓が天武・持統天皇合葬陵に治定されることになりました。とはいえ、こちらは奈良県下最大の前方後円墳ということからか、墳頂部だけでも陵墓参考地として残しておこうということになったのでしょう。



牟佐坐神社は第8代孝元天皇の軽境原宮跡とされています。神社はこんもりした小山の上に建っていて、もしかしたら古墳ではないかなと思わせるような小山でした。






益田岩船に行く途中に第4代懿徳天皇の軽曲峡宮(軽之境岡宮)跡の伝承地を経由しましたが、ここは碑が立っているだけでした。



住宅地を抜けて岩船山の麓に到着し、休む間もなく急な山道を登ります。5分ほど登ると見えてきました。益田岩船です。高校のときに松本清張の『火の路』を読んで以来、いちど見てみたかった益田岩船です。でかい。想像以上にでかい。







こんな山の上にポツンと残された巨大な石造物が何のために造られたのか。松本清張はゾロアスター教の拝火台とする新説を提唱されたが、①弘法大師による灌漑用貯水池「益田池」の築造記念石碑の台石、②天体観測や占星術のための台座、③穴の中に遺骨を入れて石の蓋をする火葬墳墓、④横口式石槨の建造途中で石に亀裂が入ったために放棄された、など諸説があって最近では④が有力とされ、わたしもそのように思っていましたが、その巨大さから、石槨とは考えにくいと思いました。横口式石槨ならこの巨石を90度横倒しにしなければならず、この場所で倒すと山を転げ落ちそうとも思いました。

ほぼ半世紀来の念願が叶ったからか、後ろ髪を引かれる思いで次の牽牛古塚古墳を目指して山道に分け入ります。前々日の雨の影響か足元がぬかるみます。まだまだ夏の名残りがあって草木が茂っています。厄介なのがちょうど顔の高さ辺りに張られている蜘蛛の巣。油断すると顔面に絡んでくるのです。さらに、倒木で道がふさがれたところも数カ所。それでも前進あるのみ。20分ほどで牽牛古塚古墳が見えてきました。









ここは2回目です。2022年に復元整備されて史跡公園として開放されていますが、石室の見学は予約が必要です。この復元が物議を呼んだことは記憶に新しいですね。なかなか古墳だと実感できず、私にはUFOにしか見えません。

7世紀中葉〜8世紀初頭の八角形墳で、墳丘裾部に凝灰岩切石が敷き詰められ、さらにこの石敷の上からも大量の凝灰岩切石が出土したことから、墳丘全体が凝灰岩切石で装飾されていたと考えられてこのような復元になりました。埋葬施設は凝灰岩の巨石を使用した刳り抜き式の横口式石槨で、石槨内には二つの墓室があります。『 日本書紀』天智紀に斉明天皇・間人皇女合葬の記載があることなどから第37 代斉明天皇(第35 代皇極天皇)の真陵である可能性が指摘されています。

先に見た益田岩船はもともとこの古墳の石槨として加工されたものの、途中で亀裂が入ったために放棄されたと言われるのですが、果たして真実はいかに。

次は飛鳥駅に向かう途中にある岩屋山古墳。ここも2回目です。巨大な横穴式石室を構成する巨石の切石加工が見事。一辺45m前後の方墳あるいは八角形墳とされます。築造時期は7世紀前半、あるいは7世紀中葉~第3四半期との説もあるようです。八角形墳なら天皇もしくはそれに準ずる皇族の墓の可能性があります。







時刻は11時過ぎ。山道を歩いたこともあって軽い疲労感。飛鳥駅すぐ近くの「Matsuyama Cafe」でランチをとりました。





たまたま1席だけ空いていてラッキーでした。飛鳥駅周辺でゆっくりランチできるお店はここくらいで皆さんにオススメしたいのですが、行かれる場合は予約必須ですね。後半戦は予定を少し変更してキトラ古墳まで足を伸ばすことにしたので、急きょレンタサイクルを借りることにしました。

(つづく)






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亀の瀬から龍田大社へ

2023年07月02日 | 実地踏査・古代史旅
2023年7月2日、亀の瀬地すべり資料館とトンネル内プロジェクションマッピングを観てきました。大和川に並行する国道25号線をこれまでに何十回と走ってきたのに、ここに立ち寄るのは初めてです。



奈良盆地を流れる150以上の川は最後はすべて大和川に集まって、JR関西本線の三郷駅あたりから大阪側の近鉄線安堂駅あたりまで、標高差20m近くをわずか8キロほどで下ることになるので、途中は白波が立つほどの瀬になります。これが亀の瀬。どうして亀の瀬と呼ぶのかというと、川の中に亀のよう見える石があるから。



古代、大和川は河内から大和への交通路として利用されましたが、この亀の瀬を遡ることができなかったので、手前で船を降りて川沿いを徒歩で行き、平坦なところで今度は小さな船に乗り換えて纒向あたりまでゆらゆらと進んだそうです。そして、亀の瀬は大和川の北側の山沿いを行く古代の官道、龍田道の通過点でもありました。

この古代ロマンあふれる亀の瀬は世界でも有数の地すべり発生地で、明治以来に限っても3度の大きな地すべりが発生しています。地すべり事故の惨状やそのメカニズム、国の事業として進められてきた地滑り対策などを学ぶのが「亀の瀬地すべり資料館」です。ビデオによる解説を視聴したあと、ボランティアガイドさんが説明してくれます。決して上手ではなかったものの、理解を深めるには大いに役に立ちました。

















1932年(昭和7年)の地すべりでは関西本線のトンネルが崩壊したため、当時の国鉄はこのトンネルを放棄し、線路は対岸へと迂回するルートに切り替えられました。その後、地すべり対策工事が進められていた2008年、放棄されて忘れ去られていたトンネルが発見されました。地元の柏原市はこのトンネルを利用して「日本遺産『龍田古道・亀の瀬』光の旅路」と題したプロジェクションマッピングを公開していて、今回はそれを観に来たわけです。






煉瓦造りの壁面が黒いすすで覆われた廃棄トンネルが現代と古代をつなぐタイムトンネルに早変わり。なかなか良い映像でした。

地すべり対策で造られた排水トンネルにも入れてもらえました。山にしみ込んだ地下水を集水ボーリングで集めて大和川に逃がすための排水トンネルで、ちょうど前日に降った雨水が集められて天上からボタボタと落ちてきていました。このトンネルが総延長で7キロも掘られ、地すべりをせき止めるための深礎工と呼ばれる巨大な杭が150本以上も打ち込まれるなど、驚くほど大規模な工事による対策が行われていることを初めて知りました。






すぐ近くにある「龍王社」は修験道の開祖である役行者が和歌山県の友ヶ島から順に設けた葛城二十八宿経塚の28番目、最後の経塚とされます。






たっぷり2時間の見学を終えたあとは龍田大社に向かいました。龍田大社はちょうど風鎮大祭の日に当たっていて、拝殿で拝んだ後に神楽を見せてもらうことができました。






秋になったら龍田古道を歩いてみようかな。


↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。




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古代史旅のレポート(讃岐・阿波編)⑦

2023年05月08日 | 実地踏査・古代史旅
2023年4月23日、3日目のレポートです。

いよいよ最終日。前夜、佐々木さんと私は栗林公園横のホテルに宿泊、岡田さんは自宅に戻って英気を養っていただきました。朝8時にホテル横のコンビニに集合して出発です。3日連続の快晴に恵まれて、いい締めくくりができそうな予感。

最初の目的地は快天山古墳。4世紀中頃築造の前方後円墳で全長98.8mは四国第3位。ただし、前期古墳に限れば四国最大規模になります。後円部に2基の竪穴式石室と1基の粘土槨の存在が確認され、いずれも刳抜式の割竹形石棺が見つかっています。この石棺を用いた古墳としては日本最古だそうです。





なんと長い前方部、こんな古墳があるのか、と思ったのも束の間、この部分は前方部ではありませんでした。実際はこの長い長い前方部っぽい途中に下の写真のような立札が立っていて、ここから先が前方部ということです。これの手前側は後世の盛土かと思って調べてみると、どうやら当時からの地山らしい。一見して境い目がなくて一体化しているので、どうやら前方部の先端を明確に切り出さなかったようです。

2002年に綾歌町から出された報告書によると、「墳丘裾縁を平坦にするという彊域設定に対する地形上の変更を施さないために、外観だけでは、墳丘の形を決定することは困難である。」「前方部の先端については、平地に築かれた前方後円墳に見るような、直に切られた斜平面をなさないので、これもはっきりしないが(中略)わずかに低い鞍部をなしているので、そこを一応前方部の先端 と見なすことができる。」とあります。

なんとも曖昧なことで。これで四国第3位が決まったということか。




後円部には何やら石塔が建っています。あとで調べてみると、かつて古墳の東側にあった円福寺というお寺の歴代住職3人(快山・快天・宥雅)のお墓でした。快天というお坊さんの名が古墳の名前の由来になったそうです。この3基の石塔を囲むように3つの石棺が見つかっています。その石棺の出たそれぞれのところに小さな説明板が置かれていました。








後円部上や前方部の裾部分にブルーシートが敷かれていて、何やら調査中の様でした。




初日の富田茶臼山古墳、2日目の渋野丸山古墳、そしてこの日の快天山古墳、これで四国三大古墳を制覇したことになります。

次は国分寺六ツ目古墳。高速道路建設で見つかった古墳で、石室が移築保存されています。なぜここに行こうと思ったのかというと、今回のツアーでどこを周ろうかと考えながらいろんなサイトや資料を見ていたときに、丘の上に築かれたこの古墳の発掘調査時の写真が気に入って、この眺めを見てみたかった、というのが理由です。


(「四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 第28冊 国分寺六ツ目古墳」より)

全長21.4m、香川県内最小規模の前方後円墳で、古墳時代前期初頭、4世紀前半頃の築造とされます。竪穴式石室、粘土槨、箱式石棺の3基が確認されました。この写真のまま丘陵の少し上に移築され保存されています。六ツ目霊園に車を停めさせていただいて見学しました。






石室だけが移築されているのかと思っていたら、ちゃんと墳丘部分もありました。埋葬施設を保護する建屋はフェンスだけでもいいような気がしました。



丘陵上からの眺望を楽しみにしていたのですが、新緑の季節で木々が生い茂っていて少し残念でした。

さて、次は石清尾山古墳群へ向かいます。積石塚で有名な古墳群ですが、何年か前の纒向ツアーで訪ねた双方中円墳の櫛山古墳を調べたときに、積石塚の双方中円墳があるこの古墳群の存在を知り、いつかは行きたいと思っていました。4世紀から7世紀にかけての200基余りの古墳群で、墳丘を土で築いた盛土墳と石で築いた積石塚が混在しています。積石塚は4~5世紀にかけてつくられたものだそうです。

山の上は広い公園になっていて大きな駐車場もあります。この日は快晴の日曜日ということもあって家族連れで大賑わい。私たちは車で行けるところまで行こうと駐車場に入りませんでした。

まず最初は坂道の途中にある石清尾山2号墳。径10mの盛土墳で横穴式石室が露出しています。築造は6世紀末〜7世紀初めとされ、新しい古墳です。






次は猫塚古墳。上述の双方中円墳です。4世紀前半の築造で全長が96m。標高200mの山の上にこんなでっかい積石塚を築くとは恐れ入ります。中円部の積石の高さを見ただけでそう感じました。




本当に石を積んでいるだけなので注意して登らないと危ない。サンダルやブーツでは無理です。事前に高松市の公式ホームページを見て、大盗掘により破壊されているとわかっていたものの、墳丘上に立ってみてびっくり。埋葬施設のあった中円部の積石がごっそり運び出されて、大きなクレーターのようになっています。

そのクレーターの縁を歩いて中円部から北側に伸びる長い方形部を確認したあと、クレーターの中心におりました。





もう一度登って西側を見ると高松市街が見渡せます。こちら側にも奥の方に大量の石が積まれていますが、これが盗掘の際に中円部からごっそり運び出された石の山なのでしょう。



クレーターの縁を進むと南側に伸びる方形部を確認できました。結構長く伸びています。



この大盗掘は明治43年という極めて最近に起こったことで、鉱山試掘を偽った計画的な犯行だったようです。現在ほどに文化財に対する理解や保護・保存の意識はなかったと思うものの、これは行政の失態だな。

急勾配の積石を慎重に降りて次に向かいました。次は姫塚古墳。全長43mの積石塚の前方後円墳で築造は4世紀前半。ここは立入禁止になっていました。ロープの外側から後円部と前方部から後円部を見た様子をとりました。





次は小塚古墳。全長17mの積石塚の前方後円墳。古墳群で最も小型の前方後円墳で4世紀の築造。ここは崩れた積石が散乱していて墳形を確認できませんでした。





次が石船塚古墳。全長57mの積石塚の柄鏡式前方後円墳で4世紀後半の築造。後円部から登ってみると真ん中に割竹式石棺が残されていました。







墳丘上から高松市街が見渡せますが、逆に下からこれらの古墳を見ることができたのでしょうか。現在は木々が生い茂っているのでまったく古墳の存在がわかりませんが、もし禿山なら見えるのかもわかりません。そんなことを検証された研究者の方はいないのかな。



最後が鏡塚古墳。全長70mの積石塚の双方中円墳で4世紀前半の築造。猫塚古墳に次ぐ規模で、尾根の最も高い所に立地しています。中円部に登ると平らに石がならされています。猫塚古墳の中円部もこんな感じだったのでしょうか。ここは両側に伸びた方形部がよくわかります。







石清尾山古墳群での古墳見学は以上ですが、この山塊はすべて急峻な岩山で、ここに大きな古墳を造ろうと思っても必要とする土を得ることができなかったと思います。だから仕方なく石を使ったのでしょう。




積石塚をいくつも見ていると、おそらく土を盛るよりも石を砕いて積み上げていく方が大変だと思いました。そうまでしてこの山の上にたくさんの古墳を造った理由は何でしょう。この3日間で多くの古墳が丘陵や山の上に造られているのを見てきましたが、石清尾山はそれらと同列に考えることができません。

4世紀に大規模かつ双方中円墳など多様な積石塚の古墳が築造され、5世紀中頃になると積石塚が小さい円墳になり、5世紀後半には積石塚が造られなくなって、その後100 年間は古墳の築造が途絶えます。そして6世紀後半になって横穴式石室の盛土墳が造られるようになる。石清尾山古墳群はこのような経過をたどったようです。

山を下りる前に見た展望台からの眺めが素晴らしかったなあ。



車で下山する途中、峰山ハチミツというお店がありました。いったん通り過ぎたものの、岡田さんと私の阿吽の呼吸で引き返し、休憩することにしました。おじさん3人で蜂蜜ヨーグルトアイスを注文、爽やかでまろやか、美味しかったです。




これで計画していた3日間の行程はすべて終了です。でも時刻はまだ12時前。ここで大失敗をしていたことに気がついたのです。快天山古墳から六ツ目古墳までは車で20分ほどなのに行程表では2時間もかかることになっていました。行程を変更したときにタイムスケジュールを変更するのを忘れてしまったようです。あと2時間分、どこかに行くこともできたのですが、アイスを食べたこともあって気持ちが終了モード。「以上、終了」としました。

山を下りて、岡田さんおススメの「さぬき一番」というお店でランチです。カレーうどん定食560円はコスパ最高でした。



このあと、栗林公園内の土産物屋さんでお土産を買って岡田さん宅にお邪魔しました。帰りのバスの時間までたっぷり3時間ほどの反省会。私にとって今回の実地踏査ツアーは、讃岐・阿波が思っていた以上に重要な地であることを実感できたこと、前方後円墳の成り立ちに関する様々な気づきが得られたことなど、これまででいちばん満足度の高いものとなりました。

岡田さん、3日間の運転、お疲れさまでした。また、お宅にお邪魔させていただき、ありがとうございました。

日曜日ということもあってか、帰りのバスは満席でした。高速道路から見えた屋島、その名の由来になった屋根のような特徴的な形はこれまでに何度も見ているけども、香川に来た記念に1枚撮っておきました。



佐々木さんはOCATで下車、私は最終の南海難波で下車、ともに無事に帰宅してすべての予定が終了。皆さん、お疲れさまでした。

(おわり)







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