古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

飛鳥寺

2025年02月28日 | 実地踏査・古代史旅
飛鳥寺は蘇我馬子が創建した日本で最初の本格的な仏教寺院です。現在は安居院という名称ですが、もとは法興寺や元興寺と呼ばれ、元興寺が平城京に移ってからは本(もと)元興寺とも呼ばれています。この小さなお寺、創建時は現在の20倍の面積があって、塔を中心に東、西、北に3つの金堂を配し、外側には回廊が廻らされていたそうです。日本で初めての瓦葺きの建物でもあります。





本尊は飛鳥大仏。光背や台座が失われ、何度も修復を受けているものの1400年前からこの場所に鎮座しているそうです。



面長の顔立ち、アーモンド形の眼、首を少しだけ左側に向け、ほかのお寺の仏さまとは少し様子が違っています。右から見ると少し厳しい表情に見え、左からは微笑むような表情。そう思ってみるとたしかにそう見えます。




仏教を受け入れ、丁未の乱で物部氏を倒し、この大伽藍を創建し、その後の日本の行方を決定づけたといっても過言ではない蘇我氏、蘇我馬子の偉大さを思い知らされました。







お堂の前の広場の端っこに塔の心礎の位置が示されていました。



お寺の西に入鹿の首塚があります。乙巳の変で飛鳥板葺宮において中大兄皇子らに斬られた入鹿の首がここまで飛んできたとか。ホンマかいな。


この首塚と向こうに見える甘樫丘の間に石敷きの広場が見つかっていて「飛鳥寺西方遺跡」と呼ばれています。中大兄皇子と中臣鎌足の二人が蹴鞠に興じた、法興寺の西の槻の木の広場とされていることを後で知りました。行っておきたかったけど、あとの祭りです。

(つづく)

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酒船石遺跡

2025年02月27日 | 実地踏査・古代史旅
飛鳥宮跡から5分くらいで酒船石遺跡に到着。この遺跡名は丘の上の酒船石と丘の麓から出た亀形石造物遺構を合わせての呼称です。中学、高校のときにはまだ酒船石しか見つかっていなくて、遺跡名はなかった。その後、平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、さらに平成12年(2000年)に砂岩でできた湧水設備、小判形石造物、亀形石造物が発見され、このように命名されたとのこと。



まずは丘の上の酒船石へ。途中、板塀で囲われた小屋のようなものがあったものの、あまり気にせずに頂上を目指します。そして頂上へ。この姿を目にするのはまさに50年ぶり。






竹林で囲まれたこの場所で謎の石造物を前にして4人はなんとタケノコ掘りの話で盛り上がってました。それにしてもこの石造物は何の目的で作られたのだろうか。その名のとおり、酒を作ったのか、それとも薬を作ったのか、50年前はまさに謎とされたこの酒船石ですが、丘のふもとに新たな遺構が出たことで謎の解明が進んだようです。

タケノコ掘りの話で盛り上がりながら3人は階段を降りていくのですが、私は写真を撮っている間に遅れをとりました。3人のうしろから階段を降りた私は、途中の板囲いが気になって行ってみたのです。そしたらなんと、これが新たに見つかった石垣遺構でした。





丘を降りて亀形石造物を見に行こうと思ったら、なんと、なんと、ここだけ有料でした。これだけにお金を払うのはちょっと、と思ってやめようとしたら3人から「待っといてあげるから行ってこい」と有難いお言葉。中に入ると同じようにひとりで見学に来た男性がいました。この人、たしか飛鳥宮跡でも見かけたぞ。彼がボランティアガイドの話を聞いていたので、そこに入らせてもらいました。いろいろ勉強になりました。










隣接する奈良万葉博物館の建設の際に見つかったこと、酒船石と一体の祭祀施設と考えられること、酒船石のある丘もそのために作られた人工の丘の可能性があること、丘の中腹にあった石垣や湧水施設に使われている石はこのあたりでは採れない砂岩であること、それを天理の方から運んできたこと、そのために運河(狂心の渠)を掘ったこと、ここに見えている遺構はすべて実物であること、などなどボランティアガイドさんのお話をたいへん興味深く聴きました。



こうして全景を眺めると、背後の丘は麓の施設を囲んでいるように見えます。丘を築いて石垣で檀を設け、酒船石を設置して、麓の湧水施設とあわせて何らかの祭祀をした。そんな光景が見えてきそうです。さて、次は飛鳥寺に向かいます。

(つづく)

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飛鳥宮跡

2025年02月26日 | 実地踏査・古代史旅
飛鳥の中心地へ戻ってきました。飛鳥宮跡と呼ばれる場所は6世紀末から7世紀後半までの間に設けられた複数の宮殿の遺構です。ただ、この場所は昔は「伝飛鳥板葺宮」という名称で、皇極天皇が設けた「飛鳥板葺宮」の遺構とされていました。しかし、その後に調査が進展して宮殿遺構が重複して存在していることがわかり「飛鳥宮跡」と名称を変更しています。




現在わかっている宮としては、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板葺宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮の4つです。中学の歴史研究会で来た時の記憶では、写真などでよく見る石敷き遺構のある部分だけかと思っていましたが、今回来てみて「こんなにも広い空間だったのか」と驚きました。

内郭の東南の隅から西側を見た様子、つまり内郭の南一帯です。



内郭の北東隅にやってきました。



例の石敷きの遺構です。この上に飛鳥板葺宮があると思っていましたが、この真ん中からは井戸が見つかっています。



石敷き遺構の西隣りに建物がありました。建物越しに内郭の南側を望みます。(余計なものが写っていますが無視してください)



内郭の北端から北側を望みます。右に香具山、真ん中に耳成山、そして左側が甘樫丘です。


ここに立っていると、激動の飛鳥時代、この場所を中心に日本が動いていた、まさにこの場所で蘇我入鹿が討たれたとは想像できないくらい、のどかな田園風景に癒されます。さて、次は酒船石です。

(つづく)

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都塚古墳・マラ石

2025年02月25日 | 実地踏査・古代史旅
都塚古墳は石舞台から5分ほど南へ走った田んぼのなかにあります。6世紀後半の築造で41m×42m方墳、「金鳥塚」とも呼ばれるそうです。ピラミッドのように階段状に石を積み上げた特殊な構造をしていて、少なくとも6段以上あるとのこと。朝鮮半島の百済の積石塚を模しているとの説があるらしい。




横穴式石室には刳り抜き式の家形石棺がそのまま残されています。この古墳は蘇我稲目の墓とする説があり、それで行っておきたいと思った次第です。




墳丘に登ると遠く生駒山まで見通せました。さっきの石舞台が蘇我馬子の墓だとすると、石舞台よりも少し古い築造であること、蘇我氏の勢力域の中でもっとも高い位置に造られていること、百済と関係がありそうなこと、などから稲目の墓だろうなと思いました。



この次はすぐ近くの「マラ石」に寄ってみました。この石が何故この場所にあるのか、子孫繁栄や農耕信仰と関係があるとか、飛鳥五大寺のひとつ、坂田寺の境界を表しているとか諸説あるようです。




これを見て思い出したのが飛鳥坐神社です。こんな石が「これでもか」というくらいに境内に溢れています。事代主命などを祀る神社に何故こんな石が奉納されるのかわかりませんが、おそらく「おんだ祭」に見られるように、五穀豊穣や子孫繁栄の御利益を願ってのことだと思います。このマラ石も当初は飛鳥坐神社に奉納する目的で作られたのだけど、何らかの理由でこの場所に据え置かれたまま今まで放置されてきた、と単純に考えておきたいと思います。



それにしてもよくできていますね。さて次は、飛鳥宮跡へ。

(つづく)

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亀石・石舞台古墳

2025年02月24日 | 実地踏査・古代史旅
ランチの後、Oさんの3つ目の希望である石舞台古墳を目指します。南東に向かってチャリで30分くらい、だらだらと緩い上り坂が続きます。電動チャリにしておいてよかった。橿原市を抜けて明日香村へ入ったところで「亀石」の案内が見えたので寄ることにしました。



ここはたぶん、中学の歴史研究会で来て以来だと思うので、ちょうど50年ぶりになります。



記憶が定かではないものの、周囲の景色がすっかり変わってしまったように思います。亀石から少し東に走ったところに「聖徳太子御誕生所」の碑があったので足を止めました。遠くに橘寺が見えます。ちょっと遠かったので眺めるだけにしました。




そしていよいよ石舞台。石舞台は中学の歴史研究会のあと、高校1年の遠足で来ました。そのあと、大学の時にも来たかもわかりませんが記憶が曖昧。当時は今のように公園として整備されていなかったし、確か無料で見ることができたと思います。




6世紀の古墳で被葬者として蘇我馬子が有力視されています。盛土が剥がされているために墳形は不明で、二段の方墳、上円下方墳、下方八角墳など推測され、いずれも最下段は方形です。







これ、高校の遠足で来た時の写真です。昔は上に登れたんですよね。(私はカメラマンだったので写ってません)


だいたい同じ角度から。


石室の中ではボランティアガイドさんが少し偉そうに説明して終わりそうになかったので早々に退散。残念ながら石室内部全体の写真が撮れませんでした。このあたりは石舞台のみならず、周囲の風景がのどかでいいですね。今では横を走る県道が多武峰まで通じていて、ここから談山神社にもすぐに行けます。

さて、この次は私が行きたかったところ、都塚古墳です。

(つづく)

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橿原考古学研究所附属博物館

2025年02月23日 | 実地踏査・古代史旅
初日はOさんと2人で富雄丸山古墳から天理市の杣之内古墳群を巡り、2日目はSさんとHさんを加えて4人で飛鳥を巡りました。まずはOさんの希望で橿原考古学研究所附属博物館に行くため、朝10時に近鉄の橿原神宮前駅に集合です。東口にあるレンタサイクル屋さんで電動チャリを借りて出発。



開催中の特別展「二上山にはじまりを求めて ―旧石器時代を知る、探る、考える―」の展示解説が始まると聞いたので、まずはそれを聞くことにしました。二上山と言えばサヌカイト、サヌカイトと言えば讃岐。その讃岐はOさんの地元です。私は旧石器時代のことを詳しく勉強したことがないので、解説をたいへん興味深く聞きました。ただ、1時間はちょっと長かった。私とOさんは何とか最後まで聞いていたものの、他の2人は休憩モードに入っていました。





二上山でサヌカイトが採れることはよく知られていますが、実際に採取できる場所は山腹ではなく山麓だということは知らなかった。



瀬戸内技法はちょっとだけわかった(かな)。


八尾南は25年前まで住んでいた。弥生時代、古墳時代の遺跡は知っていたけど、旧石器時代の遺跡があるのは知らなかった。




展示解説は面白かったのだけど、あまりに時間を費やしたために当初はじっくり見ようと思っていた常設展示を立ち止まることなく、文字通り駆け足での見学になったのは残念でした。

メスリ山古墳の巨大円筒埴輪は九州国立博物館で開催中の「はにわ展」に出張中でした。


ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡。神獣鏡は神仙思想の象徴だと思う。


展示資料はすべて一級品。











今回で2回目だけど、この駆け足見学はちょっともったいなかったので、また来よう。

博物館の次はこれまたOさんの希望の場所、橿原神宮へ。私はじつに40年ぶりの参拝だけど、こんなに人が少ないのは初めて。




さて、この時点ですでに12時をまわっていたので、国道に出てすぐ近くのファミレスでランチタイムにしました。このあと、飛鳥までチャリを漕いでいくのでしっかりと腹ごしらえです。

(つづく)

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小墓古墳

2025年02月22日 | 実地踏査・古代史旅
小墓古墳は西乗鞍古墳からすぐ近く、県道を挟んだ反対側の田んぼの中、杣之内浄水場に隣接しています。最新の情報では全長約90mの前方後円墳で6世紀前半の築造とされています。





墳丘の南側から田んぼのあぜ道を歩かせていただき、墳丘に近づいてみました。





田んぼから一段高くなっていて、その上に墳丘が乗っかっているように見えますが、この一段目が墳丘の一段目なのか、それとも周濠部分なのかがよくわかりません。前方部の東側の隅から見るとくびれ部を感じることができます。


一段下におりてみるとこんな感じです。


墳丘に登ってみようと思いましたが、草木に遮られて叶いませんでした。



当初はこのあと峯塚古墳へ行こうと思っていたのですが、足に乳酸がたまっていたのと、少し予定時間をオーバーしていたこと、一緒に行ったOさんがピーナッツが好きだと聞いていたので天理の中西ピーナッツへ連れて行ってあげようと思っていたこともあってこの日はこれにて終了としました。




(つづく)

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西乗鞍古墳

2025年02月21日 | 実地踏査・古代史旅
東乗鞍古墳の西隣りにある西乗鞍古墳は5世紀末頃の築造で、全長が約118m、杣之内古墳群では西山古墳に次ぐ2番目の大きさの前方後円墳。埋葬施設は明らかになっていませんが、横穴式石室である可能性が想定されています。墳丘への登り口は墳丘西側の前方部と後円部に2カ所ありますが、今回は前方部から登りました。登り口に「乗鞍山御野立之處」という石碑が建っていました。



墳丘は結構な高さがあり、だらだらと長い坂を上っていきます。上から眺めるとこんな感じで一直線の坂道になっています。



墳丘上は前方部も後円部もそれなりに広いスペースがあります。




前方部には昭和7(1932)年に大阪平野・奈良盆地を中心として実施された陸軍特別大演習の際、ここに設置された統監所において昭和天皇が全軍の動静を視察したことを顕彰する「大元帥陛下駐蹕之處」の碑が建っていました。高さがあって西側への見晴らしが結構開けているので、ここで演習を視察したというのは頷けます。この碑は墳丘登り口にあった碑とセットなのでしょうね。



帰りは後円部側に下りて行くと、ちょうど下りたところに説明板がありました。





さらに県道わきにも説明板。





西乗鞍古墳ほどの苦労はなかったものの、ダラダラ坂がかなり足にきました。これは歳のせいやな。次は県道を隔てたところにある小墓古墳です。

(つづく)

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東乗鞍古墳

2025年02月20日 | 実地踏査・古代史旅
なら歴史芸術文化村の裏手にある天理市営駐車場に車を停めて、徒歩にて3つの古墳(東乗鞍古墳、西乗鞍古墳、小墓古墳)を探索します。まずは駐車場の左手奥にある東乗鞍古墳へ。

東乗鞍古墳は6世紀前半の築造、全長約75mの前方後円墳です。後円部には長さ9mほどの横穴式石室があって内部には石棺が残っているとのことです。




登り口は事前の調べでおおまかにわかっていたものの、いざ墳丘に近づくと意外にも斜度がきつくて草木も茂っていたので、少々不安になりましたが、墳丘に沿って後円部方向(写真左側)に歩いていくと反対側にまわり込む小径が見つかったのでひと安心。

くびれ部あたりを歩いていたときに周濠と思しき場所を発掘調査しているのを見かけました。写真を撮りながら墳丘に沿って進んでいきます。




事前の調べでは墳丘に登る階段があるはずだし、石室も露出しているはずなのにそれが見つかりません。ついにほぼ一周、前方部までまわり込んで何とか登れそうなところを見つけると、それは前方部の隅角の斜面でした。結構な急斜面で足を滑らせないように注意しながら登ります。上から撮った写真だとあまり勾配を感じないですが、最初の登り口がきつかった。



墳丘上は樹木や竹が茂っています。隅角を登ってきた前方部左手から後円部側を撮ったこの写真では左側にくびれ部があるのがわかります。


逆に後円部から前方部を見るとこんな感じです。


後円部の墳頂に大きな陥没が見られました。盗掘で掘られた穴でしょうか。


このとき、墳頂から下を眺めていたOさんが叫びました。「階段があったぞ!」


たしかに階段です。階段の下には小径があって、その向こうには何とさっきの発掘調査現場が見えます。調査現場の写真を撮りながら歩いていたので、この階段を背にしていたことになります。何とも間抜けな話ですが、おかげで墳丘を一周して全貌を感じることができました。下へ降りて石室を確認します。




土砂が流れ込んでいるため、石室内は立入禁止です。長さが9mもあるはずですが、さすがに奥の方までは確認できませんでした。



それにしても、二人そろってこれに気がつかないとは。


帰りは墳丘の反対側に出ました。



なにはともあれ無事に探索終了。次は隣の西乗鞍古墳へ向かいます。

(つづく)

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なら歴史芸術文化村

2025年02月19日 | 実地踏査・古代史旅
西山古墳をあとにして「道の駅 なら歴史芸術文化村」に到着。構内唯一の飲食店「まるかつ天理店」でランチをとりました。まるかつは奈良本店にも行ったことがありますが、なかなか美味いトンカツが食せます。

食後は併設する文化財修復・展示棟を見学します。




ここは、仏像等の彫刻、絵画・書跡等、歴史的建造物、考古遺物の4分野の修復工房を1階とB1階にて通年公開しています。1階はこんな感じでガラス越しに作業している様子が見学できます。






地下にも工房があり、この日は當麻寺の仁王像(金剛力士像)の吽形像の解体修復が行われていました。2022年5月からまず阿形像の解体修復が行われ、続いて吽形像の修復ということのようです。そういえば、5年前に長女の安産祈願で當麻寺にお参りした際、阿形像の口からたくさんのハチが出入りしているのを見て痛々しく感じたことがありました。さらに隣ではどこかのお寺の四天王像(お寺の名前は忘れました)の解体修復が行われていました。このフロアは残念ながら撮影禁止でした。また、隣には展示室があって、特集展示「奈良県指定の文化財ー未来へつなぐリレーー」が開催されていましたが、こちらもすべて撮影禁止でした。



時間があまりないので駆け足での見学となりましたが、この修復・展示棟は時間があればゆっくり、じっくり眺めていたい文化財好きにはたまらない空間です。敷地内にはほかに芸術文化体験等や情報発信棟があり、なかなか楽しめる場所でした。



さて、車をすぐ近くの市営駐車場に移して、東乗鞍古墳、西乗鞍古墳、小墓古墳の見学です。とくに東乗鞍古墳では古墳見学の醍醐味を味わうことになりました。

(つづく)

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西山古墳・塚穴山古墳

2025年02月18日 | 実地踏査・古代史旅
天理参考館の職員さんの言葉に従って車を置いて西山古墳まで歩き、5分ほどで到着。目の前に広い職員用駐車場があり、車はほとんど停まっていないではないですか。職員用なので見学者が停めてよい、とは言えなかったのでしょうか。不親切だなあと思ってしまいました。

さて、西山古墳は全長約190m、日本最大の前方後方墳で、4世紀の築造とされています。前方後方墳とは言うものの、前方後方形は墳丘の1段目のみで、2段目・3段目は前方後円形となる特異な形状をしています。




後方部の手前に石標や何十年前の?と思われる説明板(鉄板)が立っています。



墳丘横にある天理大学馬術部の馬場を通り抜けて前方部から登ってみようとしましたが、この冬場でも枯れ草や枯れ木の群れに行く手を遮られて断念せざるを得ませんでした。写真ではそうでもないように見えますが、いざ目の前まで行くと枯れ草、枯れ木が腰の高さくらいまであって、それを掻き分けていくのは少し危険を感じたのです。登ってみたかったなあ。




残っている周濠の外側を歩いていくと、また説明板がありました。



前方部に生い茂る枯れ草や枯れ木がお分かりいただけると思います。



白馬が顔を出していました。


西山古墳を一周しましたが、隣の塚穴山古墳にも行ってみました。こちらは径63.4mの円墳で、石舞台古墳に匹敵する長さ約17mの巨大な横穴式石室が残っています。6世紀末から7世紀初頭の築造とされます。西山古墳の外堤を取り込んで造られたとのことです。フェンスに鍵がかけられていたので近寄れず、隣接する墓地から眺めてきました。



再び天理参考館まで歩いて戻り、次の目的地「道の駅 なら歴史系術文化村」へ向かい、そこでランチを取ってから文化財修復・展示棟を見学しました。

(つづく)

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天理参考館

2025年02月17日 | 実地踏査・古代史旅
富雄丸山古墳から天理市内へやってきました。杣之内古墳群を巡るにあたってまずは情報収集を、と思って天理大学附属の天理参考館へ行きました。行かなければ、と思い続けていた博物館です。とにかくこの天理教の建物が立派すぎて、天理市内を車で走るといつも圧倒されます。天理教の協会本部ほか各施設は布留遺跡の上に展開されているのはよく知られているところ。古墳時代前期の標式土器となった布留式土器が大量に出土した布留遺跡があとかたもなくなったのは少し残念ですが、この博物館がそれを後世に伝える役割をしっかりと果たしてほしいと思うのは私だけでしょうか。



この博物館、想像していた以上に展示が充実していました。とくに1階の「世界の生活文化」の展示資料の充実ぶりに驚かされました。アイヌ、朝鮮半島、東南アジア諸国など、これだけの資料をそろえている博物館は私の知る限りでは少なくとも関西ではここだけではないでしょうか。

とはいえ、私たちの興味は3階に展示される古代日本の資料です。3階は「世界の考古美術」として、日本、朝鮮半島、中国、オリエントの考古資料が展示されています。その中からとくに興味をひいたものをいくつか紹介します。

日本の展示からは「伝富雄丸山古墳出土」とされる3面の三角縁神獣鏡。墳頂の主体部から出たとされていますが、あくまで「伝」です。


次に鉄剣の環頭部分。単龍と双龍が同時に確認できました。


滋賀県の大岩山から出た銅鐸。大岩山からは全部で24個の銅鐸が出ていますが、そのうちの1個、「3号鐸」と呼ばれるものです。


朝鮮半島の資料としてはこれ。塼室墓と呼ばれる塼(せん)=レンガで造られた墓室から出た銘文墓塼。いわゆる墓誌にあたるものだと思いますが、ここには3世紀から5世紀初めの8点が展示されていました。


中国の資料としては、殷・周時代、あるいは春秋・戦国時代に作られた青銅器。この時代にこれだけ様々なものが青銅で作られていたのは驚きです。日本はまだ弥生時代の前期で、器物はすべて土製でした。大陸の先進性を見せつけられる展示です。




それから、3階展示室の外に展示されていた布留遺跡の資料。まさに本場、地元の遺跡であるものの、残念ながら思っていたほどの内容ではありませんでした。


また、このあとまわる杣之内古墳群に関する展示を期待していたのですが、残念ながらそれはありませんでした。帰りに受付で、西山古墳に駐車場があるのか、墳丘に登れるのか、など聞いてみましたが、見学用の駐車場というのはない、古墳周辺は私有地なので、、、何だか奥歯にものが挟まった言い方で要領を得ませんでした。それで言われたとおりに車を置いて歩いて行ってみると、、、

(つづく)

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富雄丸山古墳へ

2025年02月16日 | 実地踏査・古代史旅
2025年2月14日、香川県から来阪した古代史仲間のOさんと一緒に富雄丸山古墳、天理の杣之内古墳群を訪ねてきました。またその翌日には関西在住のSさん、Hさんの2名が合流して4人で飛鳥を巡ってきたので、2日間の様子を順に紹介したいと思います。とくに富雄丸山古墳は昨年の熱狂的なブームの最中には訪ねる気にならず、いつかそのうちに、と思っていたのでちょうどいい機会となりました。


富雄丸山古墳は4世紀後半の築造、直径が全国最大規模の約109m、造出を持つ3段築成の円墳です。2022年の調査で造出部から粘土槨の埋葬施設が新たに見つかり、木棺を覆った粘土層から過去最大となる2.37m(柄や鞘を装着すると全長2.85m)の蛇行剣、さらにその下層から過去に類例のない盾形銅鏡が見つかっています。







まず、盾形銅鏡には鼉龍文が施されています。鼉龍とは中国における空想上の神獣(ワニのような姿の龍)で、日本では画文帯神獣鏡を模倣したとされる鼉龍鏡が70面ほど確認されています。このことから、鼉龍→神獣→神仙思想→徐福という連想が働きました。Noteのマガジン「物部氏を妄想する」で書いたように私は、徐福が中国から引き連れてきた数千名の童男童女や方士たちの後裔がのちに「物部」と呼ばれるようになったと考えています。また彼らは渡来の際に意図したか否かはわかりませんが、全国各地に上陸しています(全国30カ所以上に徐福伝説が残っています)。

次に、蛇行剣は身の部分が文字通り蛇のようにくねった形をした剣です。全国で80例以上が確認され、その多くが九州南部の宮崎県や鹿児島県での出土となっています。後藤守一という考古学者が「蛇行曲身剣」と呼んだのが命名の始まりらしいのですが、これはまさに慧眼だったと思います。この剣は蛇が水面を泳ぐ姿を表しているのでしょう。蛇は神の化身とされます。また、蛇がとぐろを巻く様は渦に似ていて、渦は穢れを取り払うとされています。蛇行剣の主要出土地である九州南部を拠点にしていた隼人族の盾にある文様はこの渦をデフォルメしたものです。このあたりは当ブログ「龍蛇神について」で書きました。

さて、この古墳の被葬者についていろいろ議論があるようですが、盾形銅鏡の鼉龍文からは、のちに「物部氏」につながっていく人物との関連、蛇行剣からは隼人族との関連を考えたいところです。とくに後者については、狗奴国が九州南部にあって、その狗奴国王が神武天皇であったと考える私には何とも愉快な妄想ネタとなります。


すぐ隣に2号墳、3号墳がありました。これは知らなかった。





この日は平日ということもあったのでしょうが、昨年の熱狂がウソのように私たち以外には誰もいませんでした。少し後ろ髪を引かれる思いで天理を目指して出発です。

(つづく)

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電子出版しました

2025年02月10日 | 電子出版

久しぶりの投稿となります。振り返ってみると、12月と1月の2カ月間、一度も投稿していなかったことに今さら気がつきました。2016年にこのブログを始めて以来、これだけ空いたのはおそらく初めてです。

実はこの2カ月ほど、2冊の本の執筆にいそしんでおりました。そして先日、ようやくAmazonの電子書籍(Kindle版)として出版することができたので、そのお知らせを兼ねて書いております。2冊の本は以下になります。

 

「継体天皇 即位前の継体天皇を考える」

 

「天照大神と伊勢神宮」

 

過去にも2018年に「古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~」、2020年に「続・古代日本国成立の物語 ~邪馬台国の繁栄と終焉~の2冊を出していましたが、今回はこれまで以上に素人ならではの妄想を真面目に書き綴ったものを妄想古代史シリーズと題して、シリーズ化してみました。すでにこのブログなどで披露してきたものを再整理、再編集あるいは見直ししたものが中心となりますが、それなりに楽しんでいただける内容ではないかと思います。

妄想古代史シリーズは今回が第1弾と第2弾になりますが、このあと第5弾くらいまで企画しているので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

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