書紀には成務天皇は景行天皇の第四子であると書いてある。景行天皇の最初の皇后は播磨稲日大郎姫であるが、この后との間に生まれたのが大碓皇子と小碓尊(日本武尊)の双子の兄弟であった。ただし書紀には「一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子」とあって、播磨稲日大郎姫との間にもうひとり、稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)という第三子がいたことも記される。そして皇后が亡くなったあとに美濃から招いた八坂入媛命を后として生まれたのが稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、すなわち成務天皇である。したがって書紀の第四子という記述は一書にある播磨稲日大郎姫との間にできた第三子を数えてのことと思われる。
さて、景行天皇から仲哀天皇にかけての期間、各天皇や皇子の生誕や崩御を丁寧にみると大きな矛盾を見つけることができる。確認してみよう。
まず、景行27年に小碓尊(日本武尊)が16歳で熊襲征伐に向かったことが記されるので、日本武尊の生誕年は景行11年であることがわかる。そして日本武尊は30歳で亡くなったのでそれは景行41年ということになる。また、景行天皇の崩御は景行60年とある。さらに、成務紀には景行46年に稚足彦天皇(成務天皇)が24歳で皇太子になったとあるので、成務天皇の生誕が景行22年ということがわかる。その成務天皇は成務60年に崩御。また、仲哀紀には仲哀天皇は成務48年に31歳で皇太子になったことが記されることから、その生誕は成務17年となる。これを時系列に並べると次のようになる。(※印が書紀に記述あり)
景行11年 日本武尊が生まれる
22年 成務天皇が生まれる
27年 日本武尊が16歳で熊襲を討つ(※)
41年 日本武尊が30歳で薨去する(※)
46年 成務天皇が24歳で皇太子になる(※)
60年 景行天皇が崩御する(※)
成務17年 仲哀天皇が生まれる
48年 仲哀天皇が31歳で皇太子になる(※)
60年 成務天皇が崩御する(※)
問題は成務17年である。この年に仲哀天皇が生まれているが、この天皇は日本武尊の子である。しかし日本武尊はその36年前の景行41年にすでに亡くなっている。この矛盾も含めて仲哀天皇が実在しなかったという説がある。そもそも父親である日本武尊や后である神功皇后の実在性すら疑わしいとも言われる。日本武尊は複数の英雄によってなされた全国平定をあたかもひとりの英雄が成し遂げた話として創作されたと言われ、神功皇后は記紀編纂時に権力の座にあった持統天皇をモデルに創作されたという見方がある。そしてこのふたりの存在やそれにまつわる説話を史実として語るために創造されたのが仲哀天皇であると言うのが「仲哀天皇架空説」である。そして成務天皇であるが、成務天皇についてもその実在性が疑われており、主な理由は以下の通りである。
①60年の在位期間での事績が少なすぎる。主な事績は次の3点。
・武内宿禰を大臣に任命したことと。
・諸国の国郡に造長を、県邑に稲置を立てたこと(行政管理体制の整備)。
・甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子としたこと。
②二段階の行政管理体制は成務天皇よりも後世であると考えられている。
③皇太子にした足仲彦尊はそもそも実在を疑われる日本武尊の子である。
①については、事績が少ないことで実在しなかったとするのは暴論のように感じる。欠史八代の実在性についても同様の理由が挙げられるが、本当に特筆すべき事績がなかったのかもしれないし、単に記録が残っていないだけかもしれない。②についても、確かに二段階になったのは後世かもしれないが、景行天皇のときに諸国を平定し、次の成務天皇のときに何らかの諸国管理体制の整備が始まった、という話の流れには違和感はなく、それが当初から二段階であったと誇張されていたとしても記紀の記述においてはよくあることなので何ら問題がないように思う。そして③であるが、これについては日本武尊をどう考えるか、ということになる。
前述したように、日本武尊は複数の英雄によって成し遂げられた全国平定が、あたかもひとりの英雄によるものとして創作されたという考え方があるが、これには妥当性があるように思う。というのも、ひとりの人物が西は九州から東は東北と全国を巡り、自らの手で各地の豪族を討伐し続けたとは実際には考えにくい。むしろ、日本武尊を総大将とする複数の討伐軍が各地に赴いて同時多発的に行った作戦と考えた方が納得感がある。これは景行天皇による九州平定も同じで、天皇自らが九州を順に進攻したというのは現実味がなく、実際のところ天皇は豊前国長峡県に設けた行宮で指揮をとり、九州各地に軍を派遣したと考えるべきであろう。
日本武尊は全国平定の総大将として実在したが、各地の平定物語があたかも全て日本武尊自らの手によってなされたというのは創作である、というのが私の考えである。さらに、実在した日本武尊は成務天皇と同一人物である、とも考える。先に「
景行天皇(その11 日本武尊の死)」のところで日本武尊は天皇であった可能性が高いと書いた。さらに、伊吹山の神に敗れて亡くなったことが近江勢力に敗北を喫したことを意味しているとも書いた。天皇が敵対する近江勢力に敗北したとは書けないので、日本武尊が天皇であったことを伏せ、さらにそのまま亡くなったことにしたのだ。これによって天皇が敗北した事実が明るみに出ることはなくなる。したがって、私は日本武尊の死は創作であったと考える。
日本武尊の死が創作であると考えると、先に指摘した日本武尊の死後に子の仲哀天皇が生まれたという矛盾はなくなる。また、日本武尊と成務天皇が同一人物だとすると、成務天皇の事績が少ないというのも納得できる。そもそも、景行天皇と最初の后である播磨稲日大郎姫との間にできた子は日本武尊のほかに大碓皇子がいる。一書には第三子として稚倭根子皇子がいることも記している。日本武尊が薨去したとしても、このいずれかを後継にできたはずなのに景行天皇が皇太子として指名したのは第二の后である八坂入媛との間にできた稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)であった。そしてこの成務天皇(稚足彦尊)は皇子を持たなかったために異母兄である日本武尊の子、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子としたが、同母弟である五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)や忍之別皇子(おしのわけのみこ)、あるいはその子に継がせることはしなかった。
このように景行天皇から仲哀天皇に至る系譜は日本武尊の死を挟んで無理のある設定となっている。これが景行天皇の子である稚足彦尊、すなわち成務天皇が日本武尊と同一であると考えると無理なく直系の系譜としてつながってくる。そう考えると、成務天皇(稚足彦尊)に皇子がいなかったという設定も頷ける。本来の系譜である日本武尊の子に戻すことが簡単にできるからだ。
成務天皇や仲哀天皇が実在しないと考える根拠のひとつに和風諡号の考察がある。成務天皇の和風諡号は「稚足彦(わか
たらしひこ)」で、仲哀天皇が「足仲彦(
たらしなかつひこ)」である。景行天皇は「大足彦忍代別(おお
たらしひこおしろわけ)」だ。この「たらし」が7世紀前半の在位が確実とされる第34代舒明天皇(息長足日広額、おきなが
たらしひひろぬか)、第35代皇極天皇(天豊財重日足姫、あめとよたからいかしひ
たらしひめ)と共通することから、諡号に「たらし」を持つ景行、成務、仲哀は後世の創作である、という考えだ。また、成務天皇はこの「たらし」に「稚(わか)」を加えただけ、仲哀天皇は「仲(なか)」を加えただけで、どちらも意味を持つ固有名詞と考えにくいとも言われている。
和風諡号については、欠史八代が実在しない理由のひとつともされている。欠史八代のうち、懿徳、孝安、孝霊、孝元、開化の5人の天皇の諡号には7世紀に国号として定まった「日本(やまと)」がつくことから、これらの天皇が実在しないというのだ。天皇の諡号については、漢風諡号は8世紀に淡海三船が定めたとされるが、和風諡号については実のところよくわかっていないのが実態だ。とくに古代の天皇について和風諡号を根拠にして白か黒かを論じるのはあまり意味がないように思う。私は記紀を素直に読んで欠史八代も、景行・成務・仲哀も実在したと考える。ただし、成務天皇は日本武尊と同一であると考えたい。
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