古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

伊都国歴史博物館

2017年10月31日 | 博物館
2017年3月、博多から少し足を延ばして伊都国の地を訪れた。伊都国歴史博物館、井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡と順に巡った。

伊都国歴史博物館は糸島市内の遺跡で出土した数多くの文化財を収蔵・展示している博物館。中でも新館3Fには平原遺跡からの出土物、特に直径46.5センチの内行花文鏡5面を含む40面の鏡のすべてが展示されており、圧倒された。また、それらの鏡が見つかった平原1号墓の発掘時の状況が展示室内に再現されている。

昭和62年に「伊都歴史資料館」として開館(旧館建物)。その後、平成16年に前原市立博物館として新館を建設。伊都歴史資料館の開館時、初代館長として平原遺跡発掘の功績を称えて、原田大六を予定したものの開館準備中に逝去された。氏の業績を称えて制作された銅像が旧館正面の脇に佇んでいる。(Wikipediaより抜粋)

旧館の入り口と原田大六氏の銅像。




旧館の裏側に建てられた新館。


新館3階の展示室の全景。


平原1号墓の発掘状況の再現レプリカ。


46.5センチの内行花文鏡。



番号がふられた40面の鏡が順に並べられている状況は圧巻。





糸島平野に広がる遺跡や古墳の数々。ここが伊都国とされている。
写真にある「現在地」が伊都国歴史博物館の位置。写真の下側が北。



このあと、井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡と徒歩で巡ったので順に紹介したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

板付遺跡

2017年10月29日 | 遺跡・古墳
2017年9月、福岡市博多区にある板付遺跡を訪ねた。板付遺跡は福岡平野のほぼ中央に位置し、標高7~9メートルほどの段丘と周辺の沖積地に広がる縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡で、環濠集落跡や水稲耕作跡が発見されている。国史跡に指定され、公園として整備されるとともに隣接して展示施設の板付遺跡弥生館がある。



環濠集落の入り口。


復元された環濠。


復元された水田。向こう側の少し小高いところが環濠集落。水田と環濠の間には水路があり、取水口などの跡も検出された。


板付遺跡弥生館。


右に環濠集落、左に弥生館、その間に復元水田。


縄文時代晩期の夜臼式土器。


弥生時代前期の板付式土器。


水田跡に残されていた弥生人の足跡。


環濠集落の全体図。


上図にある左上の斜めに走る濠を北側から。



以下、Wikipediaに記載された遺跡の沿革。
1916年(大正5年)に、中山平次郎が、甕棺内から青銅製の矛や剣が出土したことを学会に報告した。弥生土器に金属器がともなうことの初めての報告であった。
1950年(昭和25年)1月、竹下駅前で仕立て屋を営んでいた在野の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)が、ゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼式(柏崎式)土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集し、最古の弥生時代の遺跡である可能性が浮上した。日本考古学協会の共同研究「日本農耕文化の生成」の一環として、中原や九州大学の岡崎敬、明治大学の杉原荘介らを中心とした発掘調査が4年間にわたり行われ、断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出され、板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土し、日本最古の環濠集落であることが確実となった。また、炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土したことで稲作農耕の存在が確認された。


遺跡全体の復元模型。


弥生館の入口で受付をして中に入るとすぐに事務室の扉が開き、受付に座っていたおじさんが出てきた。そして、こちらが何もお願いをしていないのに説明を始めた。これまでの経験上、どこの博物館や資料館でも地元の方の説明を聞きながら見学する方が勉強になることがわかっていたので、素直におじさんの話を聞くことにした。
遺跡全体の復元模型を前にしてかなり詳しい説明をしてくれたのだけど、説明の内容から考古学の専門的な知識があることがわかったので、こちらも時々質問を投げかけて理解を深めることができたので大変ありがたかった。

このムラは最終的には弥生時代の中期から後期にかけて、南にある須玖岡本遺跡を中心とする奴国に吸収されてしまったと考えられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五色塚古墳

2017年10月26日 | 遺跡・古墳
2017年10月7日、初めての車中泊ツアーで岡山・倉敷に出かけたときに立ち寄った五色塚古墳。兵庫県神戸市垂水区五色山、淡路島を望む台地上に築かれた前方後円墳だ。全長は194m、兵庫県でもっとも大きな古墳で、4世紀末から5世紀初頭の築造とされる。隣には五色塚古墳とともに国史跡に指定された直径70mの円墳である小壺古墳がある。また、日本で最初に復元整備が行われた古墳として知られる。



2段目のテラス。葺石の復元の状態がよくわかる。

名古屋の志段味古墳群にある志段味大塚古墳も同様の復元がなされていたが、この完璧すぎる復元は個人的にはあまり好きではない。
これだけの状態に復元する前には当然、古墳全体の発掘調査が行なわれたのであるが、なんと埋葬主体は掘っていないらしい。墓を暴くことに抵抗があるのだろうか。学者や研究者は宮内庁管理の天皇陵の発掘は望むのに、全国各地の大きな古墳で埋葬主体が調査されていないところは山ほどあるようだ。

調査の結果、上段と中段の葺石は淡路島産ということが判明している。
日本書紀の神功皇后紀に「神功皇后が仲哀天皇の亡骸を伴って穴門から難波に戻ろうとするときに、香坂王・忍熊王が播磨の赤石に天皇の偽りの墓を造って淡路島の石を運び、人々に武器を持たせて待ち伏せした」という記述があるが、葺石の調査結果はこれを裏付けることとなった。

淡路島の西側には五色浜というところがある。ここから石を運んだから五色塚古墳と呼ばれる、という説もある。

出土した埴輪が少しだけ古墳横の管理事務所に展示されていた。鰭付円筒埴輪2点、鰭付朝顔形埴輪1点、いずれもレプリカだったと思う。

この古墳に並べられた埴輪は総数2,200本と推計され、うち600本が採集された。採集された埴輪のうち鰭付円筒埴輪42点・鰭付朝顔形埴輪3点・円筒埴輪3点の計48点は全形が復元されており、国の重要文化財に指定されている。千本を超える数の円筒埴輪が「千壺古墳」とも呼ばれる所以だと言う。

淡路島を望む台地上、という立地がよくわかる景色。

古墳のすぐ下(埴輪の隙間に見えるところ)に線路が見える。古代にはこの向こうがすぐ海岸だったという。
 

右下に見える白い建物が管理事務所。

古墳の周濠に設けられた方形の土壇。全部で3カ所ある。祭祀を執り行った場所らしい。


復元後の古墳全景。


明石海峡、淡路島を空から望む。

いずれも管理事務所にて撮影。


日本書紀にある赤石(明石)の墓がこの五色塚古墳だとすると、被葬者のない偽りの墓ということなるが、単に騙すためだけにこれだけの規模の古墳を築くはずはないが、残念ながら被葬者は明らかではない。しかし、瀬戸内海航路の要衝の地に古墳が築かれたことから考えると、明石海峡や淡路島までをも支配した豪族首長と推測される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成務天皇(その1 天皇即位)

2017年10月23日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 書紀には成務天皇は景行天皇の第四子であると書いてある。景行天皇の最初の皇后は播磨稲日大郎姫であるが、この后との間に生まれたのが大碓皇子と小碓尊(日本武尊)の双子の兄弟であった。ただし書紀には「一書云、皇后生三男。其第三曰稚倭根子皇子」とあって、播磨稲日大郎姫との間にもうひとり、稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)という第三子がいたことも記される。そして皇后が亡くなったあとに美濃から招いた八坂入媛命を后として生まれたのが稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、すなわち成務天皇である。したがって書紀の第四子という記述は一書にある播磨稲日大郎姫との間にできた第三子を数えてのことと思われる。

 さて、景行天皇から仲哀天皇にかけての期間、各天皇や皇子の生誕や崩御を丁寧にみると大きな矛盾を見つけることができる。確認してみよう。

 まず、景行27年に小碓尊(日本武尊)が16歳で熊襲征伐に向かったことが記されるので、日本武尊の生誕年は景行11年であることがわかる。そして日本武尊は30歳で亡くなったのでそれは景行41年ということになる。また、景行天皇の崩御は景行60年とある。さらに、成務紀には景行46年に稚足彦天皇(成務天皇)が24歳で皇太子になったとあるので、成務天皇の生誕が景行22年ということがわかる。その成務天皇は成務60年に崩御。また、仲哀紀には仲哀天皇は成務48年に31歳で皇太子になったことが記されることから、その生誕は成務17年となる。これを時系列に並べると次のようになる。(※印が書紀に記述あり)

  景行11年  日本武尊が生まれる
    22年  成務天皇が生まれる
    27年  日本武尊が16歳で熊襲を討つ(※)
    41年  日本武尊が30歳で薨去する(※)
    46年  成務天皇が24歳で皇太子になる(※)
    60年  景行天皇が崩御する(※)
  成務17年  仲哀天皇が生まれる
    48年  仲哀天皇が31歳で皇太子になる(※)
    60年  成務天皇が崩御する(※)

 問題は成務17年である。この年に仲哀天皇が生まれているが、この天皇は日本武尊の子である。しかし日本武尊はその36年前の景行41年にすでに亡くなっている。この矛盾も含めて仲哀天皇が実在しなかったという説がある。そもそも父親である日本武尊や后である神功皇后の実在性すら疑わしいとも言われる。日本武尊は複数の英雄によってなされた全国平定をあたかもひとりの英雄が成し遂げた話として創作されたと言われ、神功皇后は記紀編纂時に権力の座にあった持統天皇をモデルに創作されたという見方がある。そしてこのふたりの存在やそれにまつわる説話を史実として語るために創造されたのが仲哀天皇であると言うのが「仲哀天皇架空説」である。そして成務天皇であるが、成務天皇についてもその実在性が疑われており、主な理由は以下の通りである。

  ①60年の在位期間での事績が少なすぎる。主な事績は次の3点。
    ・武内宿禰を大臣に任命したことと。
    ・諸国の国郡に造長を、県邑に稲置を立てたこと(行政管理体制の整備)。
    ・甥の足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子としたこと。
  ②二段階の行政管理体制は成務天皇よりも後世であると考えられている。
  ③皇太子にした足仲彦尊はそもそも実在を疑われる日本武尊の子である。

 ①については、事績が少ないことで実在しなかったとするのは暴論のように感じる。欠史八代の実在性についても同様の理由が挙げられるが、本当に特筆すべき事績がなかったのかもしれないし、単に記録が残っていないだけかもしれない。②についても、確かに二段階になったのは後世かもしれないが、景行天皇のときに諸国を平定し、次の成務天皇のときに何らかの諸国管理体制の整備が始まった、という話の流れには違和感はなく、それが当初から二段階であったと誇張されていたとしても記紀の記述においてはよくあることなので何ら問題がないように思う。そして③であるが、これについては日本武尊をどう考えるか、ということになる。

 前述したように、日本武尊は複数の英雄によって成し遂げられた全国平定が、あたかもひとりの英雄によるものとして創作されたという考え方があるが、これには妥当性があるように思う。というのも、ひとりの人物が西は九州から東は東北と全国を巡り、自らの手で各地の豪族を討伐し続けたとは実際には考えにくい。むしろ、日本武尊を総大将とする複数の討伐軍が各地に赴いて同時多発的に行った作戦と考えた方が納得感がある。これは景行天皇による九州平定も同じで、天皇自らが九州を順に進攻したというのは現実味がなく、実際のところ天皇は豊前国長峡県に設けた行宮で指揮をとり、九州各地に軍を派遣したと考えるべきであろう。

 日本武尊は全国平定の総大将として実在したが、各地の平定物語があたかも全て日本武尊自らの手によってなされたというのは創作である、というのが私の考えである。さらに、実在した日本武尊は成務天皇と同一人物である、とも考える。先に「景行天皇(その11 日本武尊の死)」のところで日本武尊は天皇であった可能性が高いと書いた。さらに、伊吹山の神に敗れて亡くなったことが近江勢力に敗北を喫したことを意味しているとも書いた。天皇が敵対する近江勢力に敗北したとは書けないので、日本武尊が天皇であったことを伏せ、さらにそのまま亡くなったことにしたのだ。これによって天皇が敗北した事実が明るみに出ることはなくなる。したがって、私は日本武尊の死は創作であったと考える。

 日本武尊の死が創作であると考えると、先に指摘した日本武尊の死後に子の仲哀天皇が生まれたという矛盾はなくなる。また、日本武尊と成務天皇が同一人物だとすると、成務天皇の事績が少ないというのも納得できる。そもそも、景行天皇と最初の后である播磨稲日大郎姫との間にできた子は日本武尊のほかに大碓皇子がいる。一書には第三子として稚倭根子皇子がいることも記している。日本武尊が薨去したとしても、このいずれかを後継にできたはずなのに景行天皇が皇太子として指名したのは第二の后である八坂入媛との間にできた稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)であった。そしてこの成務天皇(稚足彦尊)は皇子を持たなかったために異母兄である日本武尊の子、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を皇太子としたが、同母弟である五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)や忍之別皇子(おしのわけのみこ)、あるいはその子に継がせることはしなかった。

 このように景行天皇から仲哀天皇に至る系譜は日本武尊の死を挟んで無理のある設定となっている。これが景行天皇の子である稚足彦尊、すなわち成務天皇が日本武尊と同一であると考えると無理なく直系の系譜としてつながってくる。そう考えると、成務天皇(稚足彦尊)に皇子がいなかったという設定も頷ける。本来の系譜である日本武尊の子に戻すことが簡単にできるからだ。

 成務天皇や仲哀天皇が実在しないと考える根拠のひとつに和風諡号の考察がある。成務天皇の和風諡号は「稚足彦(わかたらしひこ)」で、仲哀天皇が「足仲彦(たらしなかつひこ)」である。景行天皇は「大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)」だ。この「たらし」が7世紀前半の在位が確実とされる第34代舒明天皇(息長足日広額、おきながたらしひひろぬか)、第35代皇極天皇(天豊財重日足姫、あめとよたからいかしひたらしひめ)と共通することから、諡号に「たらし」を持つ景行、成務、仲哀は後世の創作である、という考えだ。また、成務天皇はこの「たらし」に「稚(わか)」を加えただけ、仲哀天皇は「仲(なか)」を加えただけで、どちらも意味を持つ固有名詞と考えにくいとも言われている。
 和風諡号については、欠史八代が実在しない理由のひとつともされている。欠史八代のうち、懿徳、孝安、孝霊、孝元、開化の5人の天皇の諡号には7世紀に国号として定まった「日本(やまと)」がつくことから、これらの天皇が実在しないというのだ。天皇の諡号については、漢風諡号は8世紀に淡海三船が定めたとされるが、和風諡号については実のところよくわかっていないのが実態だ。とくに古代の天皇について和風諡号を根拠にして白か黒かを論じるのはあまり意味がないように思う。私は記紀を素直に読んで欠史八代も、景行・成務・仲哀も実在したと考える。ただし、成務天皇は日本武尊と同一であると考えたい。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

景行天皇(その12 近江遷都)

2017年10月21日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行53年、日本武尊の平定した諸国を巡幸したいと考えた天皇は伊勢から東海道に入った。上総国から海路で淡(安房)の水門に着いた。淡水門は弟橘姫が入水した馳水(はしるみず)、つまり浦賀水道であろう。東国からの帰りに伊勢に立ち寄り、綺宮(かにはたのみや)に留まった。綺宮は三重県鈴鹿市加佐度町に跡地がある。近くに日本武尊の墓である能褒野王塚古墳があるので、天皇は子の地でわが子を偲んだのであろう。そして翌年、大和の纒向宮に戻り、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道15国の都督(かみ)に任じた。彦狭島王は豊城命の孫であるが、書紀には豊城命は崇神天皇のときに東国に派遣され、上毛野君、下毛野君の先祖になったとある。しかし彦狭島命は赴任前に亡くなったので、子の御諸別王(みもろわけのみこ)が後任として派遣された。任期中、蝦夷が騒いだので兵を送ったところ、蝦夷の首領たちが降伏してきた。御諸別王は降伏する者を許し、服従しないものを誅殺した。東国はこのあと久しく事が起こることがなかった。

 景行57年、天皇は諸国に田部と屯倉を作らせた。田部は天皇家の田で、屯倉は天皇家の直轄領のことである。日本武尊の活躍もあって支配の及ぶ地域が全国に広がったための措置であろう。翌年、天皇は近江国に行幸し志賀の高穴穂宮(たかあなほのみや)に3年間滞在した。そしてその地で崩御された。高穴穂宮はその後、成務天皇が60年、仲哀天皇が1年、宮として暮した。滋賀県大津市穴太にある高穴穂神社がその跡地とされるが、天皇はなぜここに宮を設けたのだろうか。
 高穴穂宮は琵琶湖の南西部、比叡山の東麓にある。すぐ近くには天智天皇の近江京(近江大津宮)があることから、これをもとにした創作であろうとの説があるが、私はここに三代の天皇が住んだかどうかは定かではないが、何らかの拠点があったのではないかと考える。琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川は宇治川から淀川となって河内湖に流れ込み、そのまま瀬戸内海に通じる。そして先に見たように、琵琶湖対岸の北東部には天敵の息長氏が居を構えている。息長氏は近江から北へ抜けて敦賀から日本海へと出るルートを押さえていたので、この南のルートを押さえられると大和は孤立することになってしまう。景行天皇はそれを恐れて高穴穂に拠点を設けたのではないだろうか。

 息長氏の拠点である近江国坂田郡は琵琶湖東岸、現在の長浜市、米原市、彦根市の広範囲にわたっており、さらに琵琶湖の水運をも押さえていたであろう。また、琵琶湖の南東地域は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍の渡来に同行してきた陶人(すえひと)が住んだのが鏡邑であり、現在の滋賀県蒲生郡竜王町の鏡村とされる。さらに少し南西にある草津市穴村町は天日槍が住んだとされる吾名邑と考えられている。そして、この息長氏と天日槍によるふたつの勢力圏のちょうど中間地点で発見されたのが稲部遺跡である。彦根市教育委員会の資料をもとに稲部遺跡を詳しく見てみよう。

 稲部遺跡は彦根市稲部町、彦富町にまたがる微高地に位置し、弥生時代後期中葉から古墳時代中期にかけて栄えた巨大集落遺跡である。その広さは20万㎡におよぶ。また、遺跡周辺は弥生時代後期から古墳時代前期の遺跡が密集する地域でもある。各地の土器が出土しており、その範囲は大和、伯耆、越前、美濃、伊勢、尾張、駿河などにおよび、この集落が広範囲にわたる各地と交流がなされていたことがわかる。また、韓式系土器も出ており、朝鮮半島との交流も窺える。韓式系土器とは、三国時代(3~7世紀)の朝鮮半島南部地域から渡来人が持ち込んだり、すでに日本に居住していた人が半島の土器を真似て作った土器のことである。
 青銅器の鋳造や朝鮮半島から運ばれた鉄素材をもとに鉄器の大規模な生産を行うとともに、大型建物や100㎡を超える超大型建物、独立棟持柱建物という首長層の居館と考えられる建物や儀礼に使用されたと考えられる建物と区画が時代を経るごとに出現する。政治都市や祭祀都市としての面を強く持ち、工業都市としての面も併せ持つ近江の巨大勢力の中枢部である。
 弥生時代終末期から古墳時代前期にかけては、3棟の大型建物が検出され、集落の中心的な儀礼空間と考えられる。近くの大溝跡からは韓式系土器が出土。さらに方形区画の内側に大型建物、区画の南側には大規模な鍛冶工房群と考えられる23棟以上の竪穴建物が見つかり、ここで鉄器の生産が行われた。その後、古墳時代前期前半から後半にかけて、方形区画を切ってさらに新しい大型建物2棟、超大型建物3棟が柵あるいは塀を伴って出現する。これらは倉庫や儀礼施設、あるいは首長層の居館と考えられる。最も大きい建物は188㎡あり、纒向遺跡の超大型建物(約238㎡)に次ぐ当時の国内屈指の規模である。

 「天日槍の王国」「天日槍と大丹波王国」に書いた通り、新羅から渡来した天日槍とその後裔一族は但馬を拠点に播磨、宇治、近江、若狭と、近畿北部のほぼ全域にわたる一大王国を築いた。そして近江においては息長氏と婚姻関係を築き、生まれたのが天日槍の七世孫である息長帯比売命、すなわち神功皇后である。稲部遺跡は弥生時代終末期から繁栄を始めたという。天日槍が渡来した垂仁天皇の時期から次の景行天皇の時期にあたる。その景行天皇の時、日本武尊が全国平定の仕上げとして出向いた近江の伊吹山で山の神に敗れた。この伊吹山での一戦が大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しており、崇神王朝が丹波・近江勢力に敗北を喫したことが後の神功皇后、応神天皇による政権交代につながるきっかけになったということはすでに書いた。その崇神王朝の都であった纒向に匹敵する大型建物や製鉄工房をもつ巨大集落であり、息長氏の本貫地と天日槍一族の近江における勢力地の中間地点にある稲部遺跡は、この丹波・近江連合勢力の拠点ではなかっただろうか。

 丹波・近江連合勢力は琵琶湖の東側の北から南までの全域を押さえた。この一帯は北へ抜ければ日本海、東へは尾張、美濃から東国へ通じ、先述の通り、瀬田川を下れば難波から瀬戸内海、さらにその先には九州、朝鮮半島がある。まさに日本列島の中心地、列島の要衝の地である。崇神王朝は大和の奥津城に引っ込んでいる場合ではなかったのだ。

 景行天皇が高穴穂に宮を移して以降、崇神、垂仁、景行と続いた纒向に宮が戻ることはなかった。石野博信氏によると、2世紀末に突如として現れた纒向遺跡は4世紀中頃に突然に消滅したという。景行天皇がその晩年に高穴穂宮に遷都した時期と重なる。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

景行天皇(その11 日本武尊の死)

2017年10月04日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 日本武尊が東国平定を終えて戻ってきた尾張で娶った宮簀媛は初代尾張国造である小止余命の子で、尾張戸神社の祭神である建稲種命の妹である。日本武尊はこのあと草薙剣を宮簀媛のもとに置いて近江の五十葺山(伊吹山)の荒ぶる神を倒すために出かけた。しかし、山の神は雲を起こして雹を降らせた。峯には霧がかかり谷は暗くなり、日本武尊は道に迷った。正気を失って病になり、やっとの思いで尾張に戻ることができた。しかし宮簀媛のもとには帰らず、さらに進んで伊勢の尾津浜で食事をとり、そのまま能褒野に向かった。尾津は尾張との境の揖斐川下流右岸、三重県桑名市多度町にある尾津神社あたりとされる。
 能褒野では蝦夷から連れて帰ってきた捕虜を伊勢神宮に献上し、吉備武彦を遣わして天皇に帰還の報告をした。しかし、ここで病が悪化し、そのまま亡くなってしまった。年齢は30歳だった。能褒野は三重県亀山市の東部から鈴鹿市の西部にわたる地域で、亀山市田村町には能褒野古墳群があり、その中で最大規模とされる墳丘長90mの前方後円墳である能褒野王塚古墳(能褒野墓)が日本武尊の墓に治定されている。しかし、この古墳の築造は4世紀末とされているので、少し時代が合わない。
 書紀には日本武尊の墓が三ケ所あると記される。ひとつは前述の能褒野王塚古墳、もうひとつが倭の琴弾原(現在の奈良県御所市冨田)、三つめが河内の古市邑(現在の大阪府羽曳野市軽里)である。能褒野に葬られた後、亡骸は白鳥となって能褒野から琴弾原、古市邑と飛び渡り、最後は天に昇って行ったとされる。古事記では能褒野から河内国の志幾(志紀)に飛んだ後、そのまま天に昇ったとある。宮内庁は書紀の記述を尊重し、能褒野王塚古墳(能褒野墓)、御所市の日本武尊琴弾原白鳥陵、羽曳野市の前の山古墳(日本武尊白鳥陵)の3つを全て日本武尊の墓に治定している。


 日本武尊が近江の伊吹山の神に敗れたことは、近江の勢力を制圧できなかったことを意味していると考える。「天日槍の王国」に書いたとおり、近江は天日槍の勢力が及んでいた。天日槍は渡来後に近江の吾名邑に住んだことがあり、またその近くには彼が連れてきた陶人(すえひと)が住む鏡邑があった。古事記によると、天日槍の七世孫が息長帯比売命(神功皇后)であり、息長氏は琵琶湖東岸の近江国坂田郡、まさに伊吹山の西麓にあたる一帯を拠点とする氏族であった。

 ここであらためて景行天皇と日本武尊が平定した地域を振り返ると、九州(ただし隼人の拠点である九州最南部を除く)、吉備、難波、東国、蝦夷となり、古事記ではこれに出雲が加わる。ほぼ全国にわたっているが、丹波が入っていないことに気がつく。私は、丹波は天日槍とその後裔一族が基盤をおく地域で、大丹波王国として大和の天皇家に匹敵する勢力を持っていたと考えている。そして近江はその丹波勢力とつながりを持つ息長氏の拠点であり、日本武尊はそこで敗れた。私はここに、崇神・垂仁の二代にわたって、さらに景行の前半まで含めると三代にわたって勢力を拡大し、神武王朝をも従えた崇神王朝の勢いに陰りを感じるのだ。その勢いにストップをかけたのが丹波を後ろ盾とした近江勢力、すなわち息長氏であった。日本武尊の伊吹山における山の神との戦いは、大和の崇神王朝と丹波・近江勢力との戦いを象徴しているのだと考える。

 ところで、日本武尊が天皇であったという説がある。書紀では「日本」、古事記では「倭」を名に持つことに加えて、書紀においては東征前に景行天皇が「我が子であるがその実は神人だ」「この天下はお前の天下、この位はお前の位」と言い、東征時には三種の神器のひとつである草薙剣を持たせ、日本武尊を「王(みこ)」、乗る船を「王船(みふね)」と記している。蝦夷と対峙する場面でも自らを「現人神の子」と名乗り、能褒野、琴弾原、河内の墓は全て「陵」と記される。古事記では景行天皇の段はほぼ全てが倭建命の事績で埋められるだけでなく、弟橘比売を「后」と記し、東征後に尾張に戻ったときに美夜須比売が神や天皇が食べるものを意味する「大御食(おおみけ)」を差し上げたと記す。常陸国風土記にいたっては、日本武尊を倭武天皇、弟橘媛を橘皇后と記している。私は日本武尊が天皇であった可能性はかなり高いと思う。記紀ともに、皇位継承権を持ちながら父である景行天皇よりも先に亡くなったので天皇になれなかったように装うが、東征前の景行天皇の言葉は日本武尊が皇位を継承したことの表れではないかとさえ思える内容だ。しかし残念ながら近江勢力に敗北を喫したことで死に至り、さらにその敗北が後の神功皇后と応神天皇による政権交代につながるきっかけとなったことから、日本武尊が天皇であったと直接的に記すことができなかったのではないだろうか。


 さて、宮簀媛の家に置いていった草薙剣であるが、現在は三種の神器のひとつとして熱田神宮に祀られている。熱田神宮の公式サイトによると、祭神は熱田大神、相殿神として天照大神、素戔鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀り、主祭神の熱田大神は草薙剣を御霊代(みたましろ)・御神体とよせられる天照大神であると、としている。しかし、相殿神に天照大神を祀っていることを考えると熱田大神を天照大神とすることに違和感を抱かざるを得ない。熱田大神はご神体である草薙剣そのものと考えるか、または尾張氏の祖先にあたる人物と考えるのが妥当ではないだろうか。
 草薙剣は素戔鳴尊が出雲で八岐大蛇を退治した時に尾から取り出したものを天照大神に献上し、次に天照大神が天孫降臨に際して瓊々杵尊に授けた。その後、八咫鏡とともに崇神天皇の宮に祀られていたものを宮外の笠縫邑に遷し、倭媛命によって伊勢神宮にもたらされた。それを日本武尊が受け取って東国平定に持参し、尾張に戻ったときに宮簀媛に預けた。そして日本武尊は戻ることなく亡くなったので、宮簀媛が熱田の地に社地を定めて祀ることになった。その後、盗難に合って神社外へ出たことがあったものの、今日現在まで熱田神宮に祀られている。よく考えると、八岐大蛇も天孫降臨も神話であり、何らかの史実に基づくとはいえ創作された話である。この剣はもともと尾張にあったのではないだろうか。
 草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれる。勘注系図によると、火明命の孫に天村雲命の名が見える。この天村雲命から海部氏と尾張氏に分かれていくので、天村雲命は尾張氏の始祖であるとも言える。同様に先代旧事本紀の天孫本紀においても天村雲命から尾張氏が始まっている。天叢雲剣と天村雲命、名前が一致するのは偶然だろうか。天叢雲剣はもともと尾張氏に伝わる剣ではなかっただろうか。尾張氏が尾張に定着し、天皇家との関係が深まる中で神器のひとつと看做されるようになっていった。そして熱田神宮にはその天叢雲剣とともに、尾張氏の始祖である天村雲命が主祭神として祀られているのではないだろうか。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

景行天皇(その10 東国征討)

2017年10月02日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 景行40年、天皇は東国へ出発しようとする日本武尊に斧と鉞(まさかり)を授けて、蝦夷は凶暴で手強い、一方で日本武尊は勇猛かつ無敵で、まさに神であると説き、天下の位も日本武尊のものであると言って、吉備武彦、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)のふたりを従わせるとともに、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人として付き添わせた。
 日本武尊はまず倭媛命に会うために伊勢神宮に立ち寄った。そこで倭媛命から激励を受け、草薙剣を授かった。草薙剣は三種の神器のひとつで、素戔鳴尊が八岐大蛇を退治したときに尾から出てきた剣だ。神の剣だからということで天つ神(古事記では天照大御神と明記されている)に献上されたのだが、天孫降臨の際に天照大神が八尺瓊勾玉と八咫鏡とともに瓊々杵尊に授けられた。草薙剣がその後に倭媛命の手に渡った経緯は記紀に記されないが古語拾遺によると、崇神天皇のとき、同床共殿による神の勢いを畏れ、形代(かたしろ)を作らせた上で鏡、剣ともに笠縫邑に遷して豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らせたと記される。その後、天照大神を祀る役割が倭媛命に代わったときに草薙剣も倭媛命の手に渡り、天照大神とともに各地を巡った後に伊勢で祀られるようになったのだ。

 伊勢から駿河に入った日本武尊は土地の賊に騙され、野で狩をしているときに火を放たれて焼き殺されそうになったが、火打石で迎え火を作って逃れることができた。書紀の一書では、腰に差していた剣が草を薙ぎ払ってくれたおかげで難を逃れたことから「草薙剣」の名がついた、とある。
 その後、相模から上総に渡ろうとしたとき、小さな海だから飛び上がって渡ることができるだろと言い放ったにも関わらず、途中で風が吹き荒れて船が進まなくなった。付き添っていた弟橘媛(おとたちばなひめ)が、海神の仕業を鎮めるために海に入りましょう、と言って入水すると風が止んで無事に上総に渡ることができた。この海は馳水(はしるみず)と呼ばれているが、現在の浦賀水道である。
 さらに上総から陸奥国に入った。海路で葦浦に回り、玉浦を横切って蝦夷との境に至った。葦浦や玉浦が現在のどのあたりかはよくわからないが、上総から海路で向かったとあることから、茨城県の沿岸だろうか。しかし、玉浦を横切ったともあるので海岸沿いに行ったのではなく、海を渡って対岸に着いた状況が浮かぶ。とすると、この海は霞ヶ浦だろう。
 蝦夷の首領たちが竹水門(たかのみなと)に集まって日本武尊の侵入を防ごうとしたが、その威勢に恐れをなして降伏した。日本武尊は蝦夷を捕虜として大和に連れ帰ろうとした。そして日高見国から常陸を経て甲斐国に至り、酒折宮に着いた。竹水門は陸奥国と蝦夷の国の境界にあったと考えられる。記紀が編纂された8世紀初め頃の陸奥国は現在の宮城県の松島以南とされることから、竹水門は松島湾のあたりで、竹水門を「たかのみなと」と読むことから陸奥国宮城郡多賀郷(現在の宮城県多賀城市付近)とするのが通説のようである。日高見国は景行27年に東国視察から戻った武内宿禰が攻略して手に入れようと奏上した蝦夷の国だ。北上川の名の由来になったとも言われるので、北上川の下流域あたりであろうか。
 その日高見国から戻るときには遠征してきた往路のルートを取らずに、常陸から甲斐国へ向かっている。その甲斐国の酒折宮で「新治、筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌で家臣に尋ねたところ、火焚きの者が「かがなへて(日々を重ねて)夜には九日、日には十日」と返した。新治・筑波ともに常陸国の西側にある郡なので、復路は霞ヶ浦を渡らずに陸路で戻ったのだろう。甲斐国の酒折宮は現在の山梨県甲府市酒折にある、その名も酒折宮という神社が跡地とされている。この神社の主祭神はもちろん日本武尊である。

 日本武尊は、蝦夷を服属させたが信濃国と越国がまだ服していない、と言って武蔵から上野(かみつけの)を経由して碓日坂、現在の碓氷峠に着いた。ここで吉備武彦を越国に行かせ、自らは信濃国に向かった。高い山、深い谷、険しい坂道に悪戦苦闘しつつ、途中で山の神である白鹿を退治し、ようやく美濃に出て吉備武彦と落ち合うことができた。白鹿は土地の賊であろうか。ともかく信濃と越を押さえて美濃まで来た。そのまま尾張に向かい、尾張氏の娘である宮簀媛を娶ってしばらく留まった。

 ここまでの東国遠征で書紀の記述にある国を順に並べると、往路が「伊勢→駿河→相模→上総→陸奥」、復路が「日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→信濃・越→美濃→尾張」となる。往路は東海道の国々を順に進んでいることを考えると、伊勢と駿河の間の尾張、三河、遠江は記述にはないが通過していると考えていい。上総と陸奥の間の下総、常陸も同様だ。また、復路は主に東山道を進んでいる。これによって、景行天皇のときに蝦夷を含めて東国のほとんどの地域が支配下に置かれたということがわかる。景行53年、天皇は彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を東山道15国の都督に任じている。彦狭嶋王は残念ながら赴任前に亡くなったが、子の御諸別王(みもろわけのみこ)が後任として東国を治めた。また、書紀では成務天皇のときに諸国に国造を設けたことが記され、先代旧事本紀の国造本紀にはこれらの地域のほとんどが成務朝の御世に国造が定められたことが記される。そうすると遅くとも4世紀後半までにはほとんどの東国諸国が大和の支配下に入ったことになる。

 なお、古事記にも日本武尊(倭建命)の東征が記されるが、出発後に伊勢の倭媛命のところに立ち寄ったあと、尾張の宮簀媛のところにも行っている。また、足柄山で白鹿を退治するなど、内容が少し違っている。


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 電子出版しました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする