古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

須玖岡本遺跡(北九州実地踏査ツアー No.12)

2017年12月30日 | 実地踏査・古代史旅
板付遺跡の次は奴国の王墓があったとされる須玖岡本遺跡に向かったのだが、ツアーを企画した時点では板付遺跡の次に金隈(かねのくま)遺跡を訪ねることにしていた。弥生時代の共同墓地の遺跡で、弥生時代前期中頃から 後期前半までの約400年間にわたって営まれ、348 基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘された遺跡である。 そしてこの甕棺墓の発掘現場を建屋で覆ってそのまま展示館として公開しているので、かなりリアリティを感じることができると思っていたのだけど、事前に駐車場の有無を調べてわかったことが、なんと改修のため平成31年3月まで休館だって。こりゃあ残念。仕方なく金隈遺跡をパスすることにした。

須玖岡本遺跡は福岡県春日市、春日丘陵の北側半分に位置し、南北2キロ、東西1キロの範囲にある弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を総称した呼称だ。古代史に明るくない人でも「漢委奴国王」の金印は記憶に残っているだろう。その金印を後漢の光武帝から授かった奴国である。ただし、金印が出たのはこの須玖岡本遺跡ではなく、博多湾に浮かぶ志賀島とされている。

明治 32年(1899)、土地所有者の吉村源次郎は家屋の新築のために脇にある「長さ3.60メートル、幅2.0メートル、厚さ30.3センチメートルの横石」とその側方に立つ「高さ1.20メートル、幅1.50メートル、厚さ40センチメートルの立石」の二つの巨石が邪魔になるので動かして下を掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土した。もともとはこの遺跡を須玖岡本遺跡と呼んでいたが、いまではここを「D地点の遺跡」という。具体性に欠ける呼称で、どうもいただけない。

須玖岡本遺跡の碑。

向こう側に「D地点の遺跡」から移された二つの巨石が見える。

二つの巨石。横石と立石。



遺跡の中にある「奴国の丘歴史資料館」。


資料館を入ると左手に受付があり、ボランティアと思われるご老人が応対してくれた。このご老人、方言がきついのと滑舌が悪いのが重なって、ほとんど何を言ってるのか聞き取れない。わかったふりをして失礼のないように会話を済ませた。

資料館の展示室。



「D地点の遺跡」から出た合口甕棺を復元し、映像とミックスして紹介。

「この王墓の主は後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を授かった王より数世代前と考えられている」と出ている。金印授受が紀元57年なので、それより数世代前となると弥生時代中期ということになる。

資料館裏手の公園。(前回訪問時の写真)

ここは甕棺墓や住居跡が出た遺跡で、甕棺発掘現場をそのまま残して白いドームで覆っている。

ドームの中。(いずれも前回訪問時の写真)



前回来たときは車ではなく最寄りの南福岡駅から徒歩でやってきて周辺を巡ったので、このあたりが丘陵地であることがよくわかった。また、住宅が建て込んでいる状況から、この丘陵で宅地開発が進んだ結果として数々の遺跡が見つかったのだということもよく理解できた。今回は車だったのでそういうわけにはいかなかったのだが、奴国の首都とも言えるこの遺跡に来ただけでも十分に価値のあることと思う。

さあ、次は私も行ったことのない大分八幡宮。大分と書いて「だいぶ」と読む。福岡県飯塚市にある神社で筥崎(はこざき)宮の元宮とされているところだ。
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板付遺跡(北九州実地踏査ツアー No.11)

2017年12月28日 | 実地踏査・古代史旅
話を実地踏査ツアーに戻します。

ツアー2日目は福岡市内にある板付遺跡から。

この遺跡には「板付遺跡弥生館」という展示施設が併設されており、開館が9時だったので少し早く着くようであれば先に遺跡を見学すればいいと思ってホテル出発を8時半に設定。そして案の定、15分ほど前に到着。車を降りると職員の方々が建物周辺を掃除していて開館の準備をしておられるようだったが、ダメもとで「まだ入れないですよね」と尋ねると女性の職員の方が「入れますよ、どうぞ」と言ってくれた。お役所仕事の対応で「9時からです」と言われる覚悟をしていたので、何だかすごく嬉しかった。

板付遺跡弥生館。(前回訪問時の写真)


板付遺跡は福岡平野のほぼ中央に位置し、標高7~9mほどの台地上と周辺の沖積地に広がる縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡である。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環濠があり、その内外には貯蔵穴が多数掘り込まれていた。またすぐ近くから幹線水路、井堰、取排水溝、畦畔などを伴う水田跡も見つかっており、初日に訪問した菜畑遺跡に次いで旧い水稲耕作跡であるとされている。この台地上の遺構が復元整備され、すぐ近くに弥生館が建てられた。

弥生館の受付で記名をして中に入ると、先ほど「どうぞ」と言ってくれた職員の方が入ってきて説明を始めてくれた。名札を見ると学芸員となっていた。前回ひとりで訪問したときもかなり年配の職員の方がお願いしていないのに説明のために付き添ってくれた。

遺跡のジオラマ。(前回訪問時の写真)


1916年(大正5年)に環濠の東南の位置から甕棺墓数基が見つかり、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土し、学会に報告された。1950年(昭和25年)、地元の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏がゴボウ畑を踏査中に、当時縄文土器とされていた晩期の夜臼(ゆうす)式土器(刻目突帯文土器)と弥生土器とされていた前期の板付式土器(板付Ⅰ式土器)を同時に採集したことがきっかけとなり、日本最古の環濠集落であることが確実となった。

1978年(昭和53年)には、縄文時代晩期末の地層から大区画の水田跡と木製農機具、石包丁なども出土し、用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認された。畦の間隔から水田の一区画は400平方メートルと推定され、花粉分析から畑作栽培も推定された。この結果、水稲農耕それ自体は弥生時代最初の板付Ⅰ式土器期よりも溯る、すなわち縄文時代に遡ることが明らかになった。

土器の展示。(前回訪問時の写真)


上の写真の左上の土器が夜臼式土器。下の写真を含めて下へいくほど新しくなる。

学芸員さんの話によると、このあたりは昔から農作業中に土器片がたくさん掘り出されて遺跡があることは確実視されていたという。中原氏は当初よりこの地から縄文土器と弥生土器が一緒に出るはずだと考えて調査を続け、付近の地主にお願いしてゴボウ畑を掘らしてもらっていたときに2種類の土器を発見したのだ。したがって、この発見は偶然ではなく中原氏の執念によるものなのだ。

中原氏の活動。(前回訪問時の写真)


学芸員さんは滑舌がよくて説明もわかりやすく、前回のご年配の方とはえらい違いだった。弥生館を20分ほどで見学したあと、歩いてすぐ近くの遺跡へと向かった。

遺跡と弥生館の間にある復元水田。(前回訪問時の写真)

今回の訪問時は実った稲が刈り取られていた。水田の向こう側の少し小高いところが環濠集落。

遺跡の入り口。(前回訪問時の写真)


学芸員さんの話では、遺跡が出た後に福岡市が保存のために土地の買い取りを進めようとしたのだが、そうすると当然ここに住んでいる方々は住居の移転を余儀なくされる。そのとき、保存地域内にあった通津寺(つうしんじ)というお寺が真っ先に移転に賛成してくれたという。そのおかげでその後の民家の移転も進んだのだとか。福岡というところはつくづく古代遺跡に対する理解のある土地だと思った。その通津寺は遺跡の東南、歩いて数分のところにある。

入り口に立っている説明板。(前回訪問時の写真)


環濠の内側。(前回訪問時の写真)

竪穴式住居が復元されているが、実はここから住居跡は出なかったらしい。昔から民家があった場所なので削平が進んだ結果、環濠の内側からは部分的に貯蔵穴が出た程度だった。

環濠の北西部に斜めに走る濠。(前回訪問時の写真)

この弓のような形をしたところから多くの貯蔵穴が出た。通常、こういう貯蔵穴に保存するのはどんぐりなどの木の実である。稲作が行なわれてた以上、高床式倉庫など米を保存するための施設などがあったはずだ。まさか、この穴に埋めていたとは思えない。

板付遺跡発見のきっかけとなった甕棺墓が出たところ。(前回訪問時の写真)

これは墓の上に乗せられていたと思われる大石。墓の上に石を乗せるのは支石墓の名残なのだろうか。銅剣や銅矛が副葬されていたことからこの集落の有力者の墓とされている。次に行く奴国である須玖岡本遺跡においても王墓の上に巨大な石が置かれていた。

この遺跡は弥生時代中期になる頃には最盛期を終え、中期から後期にかけて周囲の勢力に吸収されて通常の集落となったようだ。このクニを吸収したのが次にいく奴国なのかもしれない。学芸員さんのおかげで思っていた以上に充実した見学となった。

さあ、次はいよいよ奴国とされる須玖岡本遺跡だ。
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車中泊の旅(尾道)

2017年12月26日 | 旅行・車中泊
北九州実地踏査ツアー報告の合い間を縫って車中泊レポート第三弾を投稿します。
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2017年12月9日〜10日、尾道へ一泊二日の車中泊ツアーに行ってきました。

当初は北陸カニツアーを計画していたのですが、前日の天気予報で「日本海側に寒波、降雪のおそれ」という予報が出たのでリスクを回避して急きょ行き先を変更することに。
以前から一泊コースとして候補にあげていた尾道に決めて、時間に余裕があれば往路あるいは復路で岡山にある吉備津神社、吉備津彦神社、楯築遺跡などに行こうと考えて富田林の自宅を出発。
直前に予定変更ができることは車中泊の大きなメリットですね。

ちなみに楯築遺跡には弥生時代後期、古墳時代直前の墳丘墓(楯築墳丘墓)があります。前方後円墳の原型とも言われる双方中円型の墳丘墓です。円筒埴輪の原型と言われる特殊器台とともに吉備の勢力が大和政権成立に大きな影響を与えた、あるいは大和政権の中核勢力であったという説の根拠のひとつになっています。

朝10時出発の予定をしていたものの、なんやかんやで12時をまわってしまったので、この日の岡山立ち寄りはあきらめました。いつも通り阪神高速神戸線から第二神明に入り、そのまま加古川バイパス、姫路バイパスを経て尾道まで国道2号線、つまり一般道を走ることにして高速代を節約。結果、尾道までの交通費は1620円+ガソリン代ということになりました。

夕方になって岡山市内に向かう岡山バイパスで渋滞につかまってしまったので、途中でバイパスを降りて晩ご飯をとることにしました。焼肉屋さんを探しているところに回転寿司の看板が。前回の九州車中泊ツアーで地元の回転寿司屋のコストパフォーマンスの良さを知ってしまった私たち夫婦は回転寿司の看板には敏感になっています。迷わず焼肉を諦めてこのお店に入ることにしました。

時刻は17時過ぎで夕食には少し早いこともあって店内はすいていました。何気なしに見ていたカウンターに貼ってあったステッカーに「マリンポリス」の文字。なんや、大手系列の店やったんか、と少し残念に思ったものの、安くて美味かったので良しとしよう。お会計は2人で2100円ほどでした。

バイパスに戻るとまだ渋滞が解消していなかったので、抜け道を走って渋滞を回避。岡山市内を抜けたあたりでバイパスに戻ると倉敷までは3車線の快適なドライブ。その後バイパスが終わって国道2号線をダラダラと走り、20時半頃に尾道へ到着。

初めての車中泊で倉敷・鷲羽山に行った時も岡山バイパスは大渋滞だったので、今回で学習しました。次からはこの時間にここを走らないようにしよう。

尾道では「尾道平原温泉 ぽっぽの湯」という日帰り温泉施設で入浴。料金は800円と少し高いけど露天風呂が広くて気持ち良かった。


その後、宿泊場所として事前に調べておいた尾道市内の24時間最大800円のコインパーキングに行ってみると、何ということでしょう、12時間最大800円に変わっていたのです。隣に24時間最大800円があったけど7台分しかスペースがなくて満車(泣)。ここに停めて翌朝はそのまま徒歩で市内観光と思っていたので、これはマズイことになった。付近を少し走ってみたけどいい場所がない。結局、もう一度ネットで調べてみると尾道トラックステーションという長距離トラックのための仮眠用施設がヒット。ダメもとで行ってみるとトラック用の広い駐車場にコンビニもあってなかなか良さげ。トラックのエンジン音が少し気になったものの快適に過ごすことができました。ここは車中泊をする方にはオススメです。

翌朝はもともと予定していたコインパーキングに車を置いて、ワンコとともに徒歩で坂道の町を満喫。

パーキングから歩いてすぐのところに千光寺山ロープウェイの乗り場があって、その隣に佇む艮神社。艮を「うしとら」と読むことを初めて知りました。左が艮神社の鳥居で右がロープウェイの乗り場。ロープウェイは境内の真上を上がっていく。



ここは映画「時をかける少女」のロケ地とのこと。


境内の横を登っていく細い坂道は「猫の細道」。猫の匂いがプンプンするのか、ワンコの動きが慌しい。






さらに上がると天寧寺の三重塔。その裏手を進むといよいよ坂道の街を実感する風景が眼に入ってきます。


階段の左手にある広場は尾道共楽園。どうやら付近の家で飼われている猫の集合場所になっているようです。観光客から餌を貰うからか少々メタボな猫が多い。共楽園の上には「みはらし亭」という宿泊施設。崖の上に建っているので泊まるとちょっと不安になるかも。そしてこれより上は千光寺の境内になるのでワンコが入れず、奥さんと交代で行くことに。

境内へ登る階段の途中には「除虫菊発祥之碑」がある。ここに刻まれる上山英一郎氏は殺虫剤産業を興し、日本の除虫菊生産を世界一に導いた人物。あの金鳥蚊取り線香の生みの親です。


まずは境内からの眺め。絶景です。






この千光寺は西暦806年の建立となっていますが、その信仰の始まりはどう考えても磐座(いわくら)信仰です。磐座とは神様が降臨する大きな岩のことで、つまり、仏様ではなく神様を祀ることから始まったのだと思います。山の上にはこれでもかというくらい、たくさんの大きな岩がそびえているのです。

三重石。


玉の岩の上を行くロープウェイ。


梵字岩。


夫婦岩。

 
石鎚山くさり修行(女鎖)。

ここは修行場で鎖を頼りに岩を登って行くのだけど、おしゃれな格好した母娘があられもない姿でこの女鎖に挑戦していましたが、その様は少し滑稽さを感じました。

境内のいちばん奥にある梵鐘。

ここからの眺めがまた素晴らしい。この街は坂を登るたびに少しずつ景色が変わって行くので同じ方向を眺めても飽きることがない。

そして、ここの魅力は町全体に何とも言えないのんびりとした空気が漂っていることかな。坂道に一歩足を踏み入れると車もバイクも自転車もなく、ただ人がゆっくり歩くだけ。さらに、そこかしこに猫がすわっている。眼下から時折聞こえる電車や貨物列車の音。その向こうには水面が穏やかな尾道水道と横たわる向島。時間が止まったように感じるのです。文学者がこの町を好んだことがよくわかります。

奥さんと交代で千光寺境内まで登った後は違うルートで坂道を下りました。志賀直哉旧宅では地元のおじさんが話しかけてきたので5分ほど立ち話。尾道の美味しいものは何ですかと尋ねたら「小魚やな」との回答。小魚って何?と思ってたら「でべら、ままかり」と続けてくれた。どちらも初めて聞く魚。とにかくランチはそれにしようと決定。

志賀直哉旧宅。


旧宅からの眺め。


千光寺新道。綺麗に整備された階段がまっすぐに続く。

観光ポスターの撮影現場とのこと。

これを下り切ったところで目の前に線路、そして線路をくぐると国道。都会と田舎、現実世界と妄想世界、動と静、あくせくとのんびり、、、この線路が境界線、このガード下が結界のように感じました。


国道を渡るとすぐに東西にのびる長い商店街。おじさんから聞いた尾道名物の小魚を食せるお店を探しながら車に戻りました。見つけたお店は「まかない食堂 むらちゃん」。ワンコを車に残してお店に戻り、私がでべろの海鮮丼、奥さんが小魚の唐揚げ定食を注文。どちらも美味かった。お店の大将も気さくに話しかけてくれ、料理と相まって非常にいい時間を過ごすことができました。




食後は商店街をウロウロ。観光客が多いのでシャッター通りにはなっていなくて、古くからのお店と新しいお店が上手に混在していて、歩いていて楽しい。行列のできるパン屋さん、潰れた銭湯を改装したお土産屋さん、テレビにも出た有名なメガネ屋さん、記念館として公開されている旧商工会議所、尾道ラーメンのお店、、、中でも奥さんが気に入ったのが帆布のお店。

尾道帆布。芸能人がたくさん来店しているようです。


小さなパン屋さん。店内には6人しか入れません。そりゃ行列ができるわな。


もともとは小さな銭湯。店内にもその名残りがありました。


商工会議所記念館の資料を見ていて初めて知ったことが、住友銀行(現在の三井住友銀行)発祥の地がこの尾道だったということ。てっきり大阪だと思っていました。


商店街を端っこまで歩いたので折り返して、すぐ近くの港の通りを経由して車に戻ると時刻はすでに14時半。ここに車を停めたのが8時半頃だったので、この小さな町に6時間もいたことに気がついてビックリ。心が癒される本当にいい町でした。

少し時間が厳しくなったけど、ひとまず岡山の楯築遺跡に向かおうと思い、国道2号線を東に走っていると急に雨が降り出してきました。走るに連れて雨足が強くなってきたので、さすがに遺跡見学はあきらめました。どこかで温泉に入って帰ろうと着替えの用意もしてあったのですが、雨も降っているし予定よりも遅くなっているので、このまま帰って家でお風呂に入ろう、「陸王」も見れるし、ということで温泉もあきらめて、そのまま鴨方インターから山陽道に乗って帰って来ました。


これまで尾道という町は広島へ行く途中、あるいは広島から帰る途中に立ち寄る観光地であったのが、最近は若者を中心に尾道で宿泊する人が増えてきて、市内に宿泊施設が増え始めているということを志賀直哉旧宅のおじさんから聞きました。そういえば、しまなみ海道の終点(始点)でもあるので、四国からサイクリングでやって来た人、あるいは朝一番で自転車で四国に渡る人が尾道を拠点にしているという話を聞いたこともあります。実際、満車だった24時間最大800円のコインパーキングでは車から自転車をおろしているところを見ました。商店街を歩いているときにもサイクリングの格好をしたグループを見かけました。
また、坂道を巡っているときには、若いカップル、私達のような中年夫婦、若い女性の2人旅が多いなあ、と思いながら歩いていました。商店街もそういう二人組が行き交っていました。団体やグループが少ないこともこの町の雰囲気を壊さずにいいのかも。瀬戸内海のど真ん中にあって、古来、鞆の浦とともに潮待ち港として栄え、江戸時代には北前船で賑わった町が観光地としてその賑わいを取り戻している姿を見て、町の雰囲気が気に入ったことと合わせて妙な感動を覚えました。

このレポートを読んでいただいた方、ぜひ尾道を訪ねてみてください。
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吉武高木遺跡(北九州実地踏査ツアー No.10)

2017年12月24日 | 実地踏査・古代史旅
県道49号線を日向峠に向かって走る。原田大六はここを昇る朝陽が平原1号墓に眠る被葬者を照らしたと言い、古田武彦氏らはここが天孫降臨の場であったと言う、その日向峠も車で走るとあっという間に通り過ぎてしまう。そして峠を降りる頃には日没を迎え、あたりがどんどん暗くなっていく。

もしも明るいうちにここを通過するようであれば立ち寄ろうと思っていた吉武高木遺跡はすぐのところだ。鏡、玉、剣の三種の神器が発見された最古の王墓が出たとして有名になった遺跡。せっかくなので雰囲気だけでも感じようと車を向けた。

写真で見ると空に青みが残っているが、実際はほぼ真っ暗という状況。

真ん中の山が飯盛山。その左手がいま走って来た日向峠。

説明板も明かりを照らさないと読めない。

この遺跡は福岡平野の西端、飯盛山の東麓にあって、弥生時代前期終わり頃から後期初め、とくに中期に最盛期を迎えた。魏志倭人伝に記される伊都国と奴国の間に存在しながら、弥生後期には消滅していたために倭人伝に記されることはなかった。福岡平野東側にあった奴国に吸収されてしまったのだろうか。

最古の王墓の説明。


南西に向かって伸びる甕棺ロードのスタート地点。

幅30~40m、長さ約500mにわたって甕棺墓群が存在しており、その総数は2,000基にも及ぶと推定されている。
明るいとこんな感じ。(前回訪問時の写真)



この遺跡は「やよいの風公園」として整備されている。(前回訪問時の写真)


前回訪問時のレポートはこちら


さすがに長く滞在してもしかたないのですぐに退却。博多駅近くのホテルに向かった。
これで初日の実地踏査は全て終了。桜馬場遺跡をパスした以外は計画通りに進捗し、満足の一日となった。チェックインを済ませて博多駅近くの居酒屋で互いに一日の労をねぎらいました。
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平原遺跡(北九州実地踏査ツアー No.9)

2017年12月22日 | 実地踏査・古代史旅
三雲南小路遺跡から平原遺跡までは車で5分ほど。吉野ヶ里遺跡からここまで来る途中、かなり時間を気にしながら巡って来たのは、この場所に陽が沈む前に来る必要があったためだ。その理由は、ここでは遺跡を見ること以上に遺跡からの眺めを確認することに意味があるからだ。

歴史公園として整備された当時の総理大臣であった海部俊樹氏の筆による石碑。(写真は前回訪問時のもの)


平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた総称である。1965(昭和40)年、土地の持主であった井手さんがミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、多数の銅鏡の破片が出土したことから平原1号墓が発見され、原田大六氏による調査の結果、最終的に5基の墳丘墓が発見された。1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年に国宝に指定された。

駐車場に立つ説明板。(写真は前回訪問時のもの)

問合せ先に井手さんの名が書かれている。遺跡を発見した井手さんのご子息だろうか。この方々の深い見識とご厚意のおかげでこの遺跡が日の目を見て現在に至っているのだ。
また、よく見ると「平原弥生古墳」となっているが、これは考古学的にはおかしい表現だ。弥生時代の盛り土の墓は墳丘墓、古墳時代に入ってからのものが古墳、というのが一般的だ。したがって「平原弥生墳丘墓」が正しい表現となる。しかし、素人的にはあまりこだわるところではない。いっそ「平原古墳」とした方がわかりやすいとさえ思う。「平原弥生古墳」と命名したのは原田大六だ。


復元された1号墓の真後ろから東側を臨む。この景色を見るためにやって来たようなもんだ。(上は前回訪問時の写真、下は今回の写真)



左側の一番高い山が高祖(たかす)山、写真の真ん中の一番低いところが日向(ひなた)峠。高祖山の右にある一段低い山が槵触(くしふる)山と言われており、ここが天孫降臨のあった「筑紫の日向(ひなた)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)」であるという説が有力視されているようだが、この山が「くしふる山」であると記された地図を私はまだ確認できていないことと、そもそも天孫降臨がこのあたりであるとすれば、なぜ最も高い高祖山に降りたことにしなかったのだろうか、という疑問があるため、私はここが天孫降臨の場所であるという考えには賛成しかねるのだ。


この1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに「大柱跡」とされる穴があり、その延長線上に日向峠がある。

以下、遺跡を発掘した原田大六氏の見解を示しておく。

 この遺跡の時代を出土した鏡の年代から2世紀前半頃(弥生時代後期)と想定。そして、弥生時代としては考えられない超大型内行花文鏡をその円周から「八咫の鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡に伝わる話(入れ物の大きさ、文様)からこの2種類は同型鏡ではないか、としている。40面の破砕された鏡については、これらの破砕は人的な力によるものではなく、殯(もがり)の時にかけてあったものが強風で落ちて割れたためと解釈している。 
 墓壙周辺にある柱穴群を、棟持ち柱を持つ伊勢神宮のような神明造の殯宮跡だと考え、その方向及び鳥居と考えられる柱穴の方向から、ここを農歴として利用する太陽観測所であったとする。銅鏡以外の副葬品がほとんど勾玉や管玉などの装飾品であり、武器類が少ないため埋葬された人物は「女性」であると考えられる。10月下旬、日向峠より上る太陽の日が被葬者の股間に当たるように墳墓が作られているところから、被葬者を太陽の妻、天照大神とした。


たいへん興味深い説である。天照大神を実在と考えるあたりが孤高の学者と言われる所以かも。

伊都国歴史博物館にあった説明。


さて、陽が沈む前にここに到着できてよかった。これでほぼこの日の予定を終了。ここからは西に眺めた日向峠を走って福岡市内に戻るのだ。天孫降臨があったと考える人もいる日向峠を越えるのだ。私はここを天孫降臨の場所とは考えていないのだが少し感慨深い思いになった。
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三雲南小路遺跡(北九州実地踏査ツアー No.8)

2017年12月20日 | 実地踏査・古代史旅
次は井原鑓溝遺跡前の県道を数百メートル北上して左折するとすぐのところにある三雲南小路遺跡。歩いてもすぐのところだ。このふたつの遺跡は隣接していると言っていい。

この遺跡は江戸時代の文政5年に発見された。発見当時の様子を記録した青柳種信の「柳園古器略考」には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」つまり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていたと書かれている。これが現在「1号甕棺」と呼ばれているもので、中から銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、ガラスの璧8枚、金銅製金具などが出土した。これらの出土品は殆どが現残していないが、わずかに銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられており、国の重要文化財に指定されている。出土した甕棺からこの墓は弥生時代の中期後半(紀元前後)に造られたものと考えられる。

文政5年の発見から150年後の1975年(昭和50年)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見された。2号甕棺も、高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な甕棺二つの口を合わせて埋めたもので、これも盗掘されていた。副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製勾玉1個、ガラス製勾玉1個、ガラス製管玉2個、ガラス製垂飾1個などが出土している。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土し、新たに金銅製の四葉座飾金具が出土した。銅鏡はすべて中国製で、1号棺、2号棺からの前漢鏡を合わせると60面近く出土している。この時の調査では2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺は墳丘の中に埋葬されたと考えられる。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものである。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものと考えられる。

副葬品の内容から王と王妃の墓であろうと考えられる。三雲南小路遺跡の南端の所に井原鑓溝遺跡があり、後漢鏡が20面くらい出土しているが、この遺跡は末廬国の桜馬場遺跡とほぼ同時代と見られている。そして、そのあとの時期の王墓とされるのが平原遺跡である。方格規矩鏡、内行花文鏡の組み合わせから、後漢中期の組み合わせであろうとされ、それは邪馬台国の時代に相当する。伊都国の王墓は、三雲→井原→平原と変遷して行くと考えられる。

遺跡の中に立つ説明板。


遺跡を上空から。左が説明板にあった遺跡の図面、右がGoogleMapの航空写真。


遺跡の全景。説明板の右にあるのが周溝跡。(前回訪問時の写真)


手前が1号甕棺、むこうが2号甕棺。


伊都国歴史博物館に展示されていた2号甕棺。(前回訪問時の写真)


三雲南小路遺跡から井原鑓溝遺跡方面を臨む。(前回訪問時の写真)


伊都国歴史博物館の説明。(前回訪問時の写真)



このあとはいよいよ平原遺跡。とくに佐々木さんが楽しみにしていたところだ。

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井原鑓溝遺跡(北九州実地踏査ツアー No.7)

2017年12月18日 | 実地踏査・古代史旅
伊都国歴史博物館から車ですぐ、県道563号線脇に説明板が立つだけの井原鑓溝遺跡。(前回訪問時のレポートはこちら

江戸時代の天平年間(1780年代)に銅鏡を多数副葬した甕棺が発見され、青柳種信がそのときの様子や出土品を「柳園古器略考」に記した。この書は文政5年(1822年)に発見された三雲南小路遺跡1号甕棺の調査報告書として著されたが、種信はさかのぼること40年前の井原鑓溝遺跡についても聞き取り調査を行なって、農民が保管していた27個の鏡片や2個の巴形銅器の拓本を残している。

道路わきに立つ説明板。

宇木汲田遺跡や柏崎遺跡と同様にこの説明板だけが遺跡の存在を示している。

怡土郡井原村に次市といふ農民あり。同村の内鑓溝といふ溝の中にて・・・・溝岸を突ける時岸のうちより朱流れ出たり。あやしみて堀て見ければ一ツの壺あり、其内に古鏡数十あり、また鎧の板の如きのまた刀剣の類あり

「柳園古器略考」の拓本から復元される鏡は18面の方格規矩四神鏡で、その多くが紀元1世紀前半の中国(新および後漢初期)の鏡であり、それから考えると井原鑓溝遺跡の墓の年代はおおむね1世紀後半から2世紀初頭と推定される。つまり弥生時代後期前半ということになる。出土した豪華な副葬品から伊都国王の墓と考えられるが、実はこう記された場所が未だ特定されていないらしい。前原市教委(現・糸島市教委)は大正時代の地籍図や字名の語源になったと見られる水路跡を割り出して1994年から調査を続け、この付近で弥生時代後期の中国鏡を発見したことが2005年2月18日の朝日新聞に掲載された。

出土した鏡は約10片に割れていた方格規矩四神鏡1面で、拓本に残された鏡と同じ鏡だ。また一緒に約170個のガラス玉も見つかり、さらに16基の甕棺墓も確認された。それでも井原鑓溝の王墓はこれだ、と特定ができないらしい。

説明板のむこうに広がる田んぼの下に遺跡があるものと思っていたのだけど、県道に沿って南北に甕棺墓が並んでいたようだ。

右側の図を見るとほぼこの道に沿って水路(溝)跡があるのがわかる。近くには「ヤリミゾ」という地名もあったらしい。

このあたりかな。北側から南、つまり上図の上から下を見る。



伊都国歴史博物館の説明。


ここも雰囲気だけ感じておしまい。
そして、ここでポツポツと雨が降ってきた。実は佐々木さんは大の雨男、一方の岡田さんは晴れ男。このツアーに行く前からどちらが勝つか見もの、岡田さん頑張れ、と3人で笑っていた。佐々木さん、3週間前に行った奥さんとの旅行が台風並みの大雨と大風でえらいことになったらしく、そこで悪い気を出し切ってくれたおかげで翌週の私の九州車中泊旅行は快晴続き、そしてこのツアーがどうなるか、という状況の中、ここまで晴れ間が覗かないものの何とかもっていた天気がいよいよ崩れるのか。

次はすぐそこに見えている三雲南小路遺跡へ。
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伊都国歴史博物館(北九州実地踏査ツアー No.6)

2017年12月16日 | 実地踏査・古代史旅
菜畑遺跡にあったのが「末盧館」、そしてここが「伊都国歴史博物館」、翌日訪問予定の須玖岡本遺跡には「奴国の丘歴史資料館」がある。末盧国、伊都国、奴国、まさに魏志倭人伝を辿るように進んでいく。

この糸島市では井原鑓溝遺跡、三雲南小路遺跡、平原遺跡と3つの王墓を訪ねる予定なので、事前に基本的な情報をインプットしておこうという主旨で先に立ち寄った。

ここは昭和62年に建てられた旧館と平成16年に建てられた新館をつなげてひとつの建物としている。旧館は新館の裏手にあって立派な構えをしているが、現在は入り口を閉鎖して新館をメインとして運営されている。旧館開館時には平原遺跡発掘の功績をたたえて初代館長として原田大六氏を迎えることが予定されていたが残念なことに開館直前に逝去された。現在は氏の銅像が旧館の脇に立てられている。

ここの訪問は2回目となる。前回は時間に余裕があったので旧館も含めて隅々まで見学したが、それによって旧館にはあまり見るべきものがないということがわかっていたので、今回は新館のみの見学とした。とくに平原遺跡で発掘された直径46.5cmの5面の内行花文鏡を含む40面の銅鏡の実物展示をはじめ、平原王墓発掘現場を再現したレプリカなど、圧巻の展示がある新館3階は是非ともSさん、Oさんに見てもらいたいという気持ちだった。(初めて来たときのレポートはこちら

さて、ご両人の了解をもらったので、このあたりでSさんとOさんの正体を明かしておこう。Sさんは大学の先輩で20年前までは職場の先輩でもあった佐々木さん。佐々木さんは会社を退職して起業し、現在は代表をつとめておられる。Oさんも会社の先輩で、間もなく定年を迎えられる岡田さん。私を含めた3人は古代史仲間であるとともに遊び仲間、飲み仲間でもある。

新館全景と入り口。




旧館の入り口と原田大六氏の銅像。(写真は前回見学時のもの)




日本最大の鏡。国宝です。(写真は前回見学時のもの)

今回、このほぼ完全な形で残っていた鏡はどこか別の博物館に貸し出し中だった。

出土した40面の鏡がすべて展示されていた。(写真は前回見学時のもの)


平原1号墓の発掘時の状況。(写真は前回見学時のもの)


三雲南小路遺跡で出た甕棺。(写真は前回見学時のもの)



私は2回目だったので、それぞれの展示物や説明パネルをひとつひとつ詳しく見たり読んだりしなかったが、岡田さんと佐々木さんも個別に詳細を知ろうという気持ちよりも全体感をつかめば十分、という感じだったので、思ったよりも早く切り上げることができた。

訪問したときは新館1階で秋季特別展として「古代出雲と伊都国」という企画展示をしていたが、出雲からの借り物はすべて3月の丹後・出雲実地踏査ツアーで実物を見てきたものだった。もう少し出雲と伊都国の関係やつながりを説明すれば良いのに、と思わせる少し残念な展示だった。

いよいよ3つの王墓へ。まず向かったのが井原鑓溝遺跡。
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志登支石墓群(北九州実地踏査ツアー No.5)

2017年12月14日 | 実地踏査・古代史旅
柏崎遺跡の次は志登支石墓群。
 
大阪人の私は日本で九州にしか存在しない支石墓というものをこれまで見たことがなかったので、この機会に是非とも見ておきたいと思ってルートに組み込んだ。ただ「魏志倭人伝と神功・応神の痕跡を訪ねる」というツアーのテーマからはずれるので、時間が押したときにはパスするのもやむを得ないと思っていたのだけど、桜馬場遺跡をパスしたことで、ここまでほぼ予定通りの時間。

柏崎遺跡からは一般道を走っても1時間かからないので高速(福岡前原道路)を使うつもりはなかったのに、車中での会話が盛り上がっていたからか、いつのまにか高速に入ってしまっていた。カーナビを一般道でセットしたつもりが高速優先になっていたようだ。次の周船寺インターで降りたものの国道を少し引き返すことになり、またこの国道が渋滞だ。時間とカネの無駄遣いがくやしい。渋滞回避のために裏道を走ろうと住宅街へ入り、田んぼ道を走り、なんとか目的地に到着。



日本の支石墓は数個の支石の上に長方形や亀形の天井石を載せる碁盤式の墓で、朝鮮半島南西部で支石墓が最盛期を迎えていた縄文時代晩期に九州北西地域に出現する。主に松浦半島、糸島半島、島原半島など九州北西部に広まったが、弥生時代前期が終わる頃にほぼ終焉を迎えたという。朝鮮半島には世界の半数の支石墓があるといわれている。

志登支石墓群は弥生時代早期~中期と推定される支石墓群である。1953年(昭和28年)の発掘調査によって10基の支石墓と8基の甕棺が確認され、そのうち支石墓4基、甕棺墓8基が調査された。支石墓の天井石には花崗岩や玄武岩を使い、大きいものは長さ約200cm、幅約150cm、厚さ約60cmにも及ぶ。4km先の可也山(かやさん)から運ばれたと推測され、最大のものは5トン以上もある。内部(埋葬施設)は石敷き、石囲い、土壙の三種があり、それぞれ1~3個の支石による碁盤形である。6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から磨製石鏃が4点が出土した。また、甕棺墓は単式棺と合口式であった。

糸島市は古くから支石墓の天井石らしい大きな石が水田や畑地に散在して露出するところで、志登支石墓群のほかに新町遺跡、石崎矢風遺跡、長野宮ノ前遺跡、小田支石墓、曲り田遺跡、三雲加賀石遺跡、井田御子守支石墓、石ヶ崎支石墓など多数の支石墓が分布している。


もう少し大きいのかと思っていたけど実際に見ると意外に小さい。それに、支石が地面に埋まってしまってる。
それぞれの天井石の横にある四角い石は「○号墓」と書かれた石標。

支石は時代が下るにつれて低くなり地面に埋もれるようになっていったらしい。朝鮮半島北部の支石墓は碁盤式ではなくテーブル式といって天井石の下で祭祀が可能なものもあったという。
それにしても、この支石墓を現代の墓石に置き換えると、今でも田舎で見られる親族一同の墓地という感じ。ということはやはりこの場所は古代の有力者一族の墓地ということになるのでしょう。

大きな石を上に載せるというのは石で死者の霊を封じ込めるためか、それとも死者の権力を誇示するためだろうか。


むこうに見えるのが可也山。あそこから5トンもの石を運ぶのは大変だったろうなあ。

こうして見るとこの山が神奈備山として祀られたのだろうな。


発掘調査の様子を載せた説明板。



10基の支石墓が確認できたのに調査したのは4基というのは予算の関係か、それともスケジュールの関係か。全部調べれば石器だけでなく青銅器や鉄器が出たかもしれないのに、どうして中途半端なところで止めるんだろう。

朝鮮半島ではほぼ全域に支石墓が分布するものの、この碁盤式というのは半島の南西部に顕著に見られるという。そして碁盤式の支石墓が朝鮮半島の南西部から九州北西部にかけて分布する状況は極めて興味深い。この墓制が朝鮮半島から持ち込まれたものであること、つまりこのあたりには半島からの渡来人が居住していたと考えられる。

また、魏志倭人伝によると、朝鮮半島北部にある帯方郡の使者は半島の西を海岸沿いに船で進んで南端の狗邪韓国に到り、さらに対馬海峡を渡って末蘆国(現在の北松浦半島あたり)に上陸し、その後に伊都国(現在の糸島半島や糸島平野)に到ったとある。倭人伝が書かれた弥生時代後期には支石墓はすでに作られなくなっていたが、その分布と帯方郡からの使者のルートが重なっている。九州北部でこの墓制が見られるようになった縄文晩期あるいは弥生早期にはこのルートが確立されていたことが想定される。

次に行く伊都国歴史博物館の説明。(前回訪問時の写真)


さあ、次の目的地は伊都国歴史博物館。車で20分ほどだ。
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宇木汲田遺跡・柏崎遺跡(北九州実地踏査ツアー No4.)

2017年12月12日 | 実地踏査・古代史旅
菜畑遺跡を出て20分ほどで宇木汲田遺跡。田んぼの中にあることはわかっていたがカーナビを過信したがためにえらい目に合ってしまった。まもなく目的地周辺というところまで来てカーナビが示す宇木川沿いの道に入った。舗装のしていない狭い道で大丈夫だろうかと不安に思ったものの、堤防沿いで障害物もないのでゆっくり進むことにした。

少し進むとセメントで舗装中のために細い材木を横に渡して行き止まりにしていた。でも見るとセメントは乾いていたのでその材木を横にどけてさらに進んだ。舗装中のもう一方の端まで来ると今度は簡単には動かせそうにない状態で塞がれていた。これは見えなかった。すぐそこに遺跡の案内板が見えているのに、仕方なく戻ることにした。細い道を200メートルほどバックしなければならない。ハンドル操作を誤ると田んぼに脱輪するので慎重にバックした。ああ、ムダな時間を費やしてしまった、と少し後悔。

最初からこの道を走ればよかったのに。車の両側にSさんとOさん。


宇木汲田遺跡は、佐賀県唐津市の夕日山から北東に延びた二つの小丘陵の前面、宇木川の左岸平坦地域に立地する、弥生時代前期から後期の甕棺墓を中心とした遺跡である。この遺跡の特色は甕棺の副葬品にあり、これまでに細形銅剣・細形銅戈・細形銅矛・多鈕細文鏡・銅釧・管玉・勾玉などが数多く発見されていることから、ここから末廬国における王権が始まったと考えられている。



上の説明板の反対側、銅鐸の舌が出土したところ。


ここはご覧の通り、説明板のほかは見るべきものがないのだが、この立地と雰囲気からここに王権が栄えたことが何となく感じることができた。そして次は、ここから北西に数百メートルほどのところにある柏崎遺跡。

柏崎遺跡は、縄文~古墳時代の約14万平方メートルに及ぶ大遺跡。明治の終わり頃に発見された甕棺から「触角式有柄銅剣(推定全長54.9cm)」と2本の中細銅矛が見つかった。触角式有柄銅剣は世界で3例しかなく、現在は東京国立博物館の所蔵となっている。

宇木汲田遺跡と同様の説明板。


この遺跡の最盛期は弥生中期中葉から後半にかけてで、宇木汲田遺跡が衰退を始めたころから栄え始めたために、宇木汲田遺跡の一族が移り住んだか、唐津地域の首長が交代したかのどちらかだと考えられている。
しかし実際に現地に行ってみると宇木汲田遺跡と柏崎遺跡は同じ地域にあり、ひとつのクニであると思った。一族が移り住んだのでもなく、唐津地域の首長が交代したのでもなく、ひとつのクニ、すなわち同じ地域内にある別々の家に住む一族の中で何らかの形で王位が継承されただけのことだ。親から子に継いだのか、それとも本家から分家に継承されたのか。ふたつの遺跡はそれくらい近い距離である。

眼の前が柏崎遺跡でその向こう側に宇木汲田遺跡。両遺跡が一体となってこの平野部に広がっている。同じ一族が治めた地域としか考えられない。


ちなみに、桜馬場遺跡は両遺跡の少しあと、弥生後期の王墓であったとされ、末廬国の王権は宇木汲田遺跡→柏崎遺跡→桜馬場遺跡と継承されていったと考えられる。

唐津平野の遺跡分布。


末廬国とされる一帯で実地踏査ならではの感覚に浸ったあと、次の目的地は伊都国とされる福岡県糸島市である。そう、このツアーは「末廬国→伊都国→奴国→不弥国」と、魏志倭人伝に記された邪馬台国への道程をたどる旅なのだ。
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菜畑遺跡(北九州実地踏査ツアー No.3)

2017年12月10日 | 実地踏査・古代史旅
吉野ヶ里遺跡をあとにして次に向かったのが佐賀県唐津市の菜畑遺跡。出土物が展示されている末盧館が併設されている。

以下、唐津市のサイトをもとに遺跡の概要です。
唐津市街の西側に位置する低丘陵端にあり、東向きに開く開析谷の南側斜面を中心に立地。昭和54年(1979)、都市計画街路事業に伴う確認調査で発見され、昭和55~56年に唐津市教育委員会によって本発掘調査が実施された。調査の結果、住居跡、土壙墓、甕棺墓、水田跡、井堰、貝塚が確認され、縄文時代晩期~弥生時代前期を中心に、縄文時代前期~弥生時代中期に及ぶ遺跡であることが判明した。中でも水田跡は、畦畔や矢板列によって区画されており、縄文時代晩期から弥生時代中期にかけての、数期にわたる変遷が明らかになった。最下層の水田跡は、今から2,500~2,600年前の縄文時代晩期後半のもので、炭化した米や木製農具とともに当該期の土器が出土し、現在確認できる日本最古の水田跡として注目を集めた。

菜畑遺跡に近づいたところで気がついた。この道、このまえの車中泊で呼子に行くときに通った道だ。結局、そこから最後の交差点を曲がるまでは同じ道だった。そして曲がって数百メートルで目的地。事前の下調べで駐車場があると思っていたのだけど案内がない。末盧館の入り口を通過したのにわからない。行き過ぎて戻ってもわからない。もう一度戻ると、末盧館の入り口のところに「車は建物の中に入れてください」とある。こんな狭いところから入るの?と思いながら入ってみると駐車場があるわけではない。空いたところに停めるしかない。
こんな状態。建物の左側奥には職員の車もあったので数台も入ればいっぱい。というか数台も入れば順にバックで出るしかないだろう。


末盧館の二階、展示の様子。










出土した彩文土器の実物を展示。この実物の前にある札をよくみると「弥生時代前期」と書いてあるが、となりの土器の写真の下部の小さい文字は「縄文時代晩期」となっている。最近は弥生時代が縄文晩期まで遡ることがほぼ通説になっているので、それを反映したものと思われるが、どうせなら写真の方も修正すればいいのに。


水田跡の発掘時の写真。

この遺跡が出たために翌日に行く予定の福岡の板付遺跡が「日本最古の水田跡」の称号を譲ることになってしまった。

復元水田。ここでは実際に古代米の栽培が行われており、ちょうど収穫のあとだった。


園内では収穫した稲を干していた。


ここを見学しているときに末盧館から女性の学芸員の方が出てきて説明をしてくれた。
この遺跡は末盧館前の道路(私たちが走って来た道)の拡幅工事の際に発見された。そして貴重な遺跡であることがわかってすぐに国の史跡に指定されたので、それ以降は発掘が行われていないという。(Wikipediaによると「本遺跡は1979年(昭和54年)に発見され、1980年12月から1981年(昭和56年)8月にかけて発掘調査が実施された。1983年(昭和58年)に史跡に指定された」とある。)
国の史跡になるくらいの重要な遺跡であれば国の主導でさらに調査が行われるものだと思ったのだが、学芸員さんによると、国の史跡になると学術調査などでない限り発掘することができなくなるという。この末盧館や復元水田のあるこのあたりは発掘されていないのだとか。
以下、学芸員さんとのやりとりです。

わたし    「末盧館を建てるときには当然調査されたのでしょうね」
学芸員さん 「そのときも調査されなかったんですよ」
わたし    「ということは遺跡を破壊したかもしれないのですか」
学芸員さん 「遺跡はたいがい数メートル以上の地下にあるので破壊することはなかったようです」
わたし    「このコンクリートの建物は基礎が浅いので地震に弱いかもしれませんね」

学芸員さんも困り始めたのでこれ以上突っ込むのをやめました。
国が指定する史跡ってどういう意味があるのだろうかと調べてみると、国にとって歴史上または学術上価値の高いものを保護することが目的であり、文化財保護法に基づいて決定されるという。保護することが目的なのでそれ以上の発掘ができないという理屈だろうが、さらに詳しい調査をして遺跡の価値を高めるという考え方もあるのではないだろうか。

予定では次の目的地は桜馬場遺跡であったが、ここは事前調査で遺跡の痕跡はまったくなく、住宅地の中にあって雰囲気を感じることもできないだろうと思っていたので、あとの時間を考えてその次の目的地である宇木汲田遺跡に向かった。


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吉野ヶ里遺跡(北九州実地踏査ツアー No.2)

2017年12月08日 | 実地踏査・古代史旅
福岡空港を出て徒歩で事前に調べておいた空港近くのレンタカー屋さんに向かう。看板が出ているものの明らかに営業している様子ではない。少し焦ったものの、入り口に近づくと「移転しました」の貼り紙。書いてあった連絡先に電話すると、迎えに行くのでお待ちくださいとのこと。ほどなくマイクロバスがやってきて、無事に新店舗で手続き完了。前回の丹後・出雲ツアーでは私が免許証を忘れたために3日間ともOさんに運転をおまかせしたので心苦しかったが、今回は出発前に免許証とメガネを何度も確認しておいたので問題なし。

まずは最初の目的である吉野ヶ里遺跡へ。
13年前に奥さんとの旅行で来たときは国営公園として整備中であったものの、遺跡という雰囲気を十分に感じることができたが、今回の訪問では遺跡と言うよりもむしろ公園という感じだったのが少し残念でした。

公園への入り口。


資料展示室を見た後、南内郭へ向う。


物見櫓から南内郭を眺める。

<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。

修学旅行の高校生が大勢いたけど、遺跡のことを勉強してから見学しているのだろうか。観光するならもっといいところがあるのに。この広い公園に閉じ込めておけば問題を起こすこともないし、どこかへ行ってしまうこともないから、先生も旅行会社も楽なんだ、とSさん。なるほど。

同じく南内郭の物見櫓から「倉と市」というエリアを望む。

<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。

北内郭入り口と主祭殿。


<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。

北内郭の周囲は南内郭よりもきれいな板塀で隙間なくびっしりと囲まれていました。復元に現実感がないだけでなく、吉野ヶ里の風景を台無しにしている、とはSさんの弁。同感だ。

主祭殿三階の展示。

神託の場面を再現している。琴を弾く人と審神者(さにわ)が両側に控えている。神功皇后による神託もこんな感じだったのだろうか。審神者とは神の言葉を解釈して伝える人のことです。

北墳丘墓へ向かう途中の甕棺墓列。

このツアーではこのあと、飽きるほどに甕棺を見ることになるのです。

北墳丘墓。

<吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトから>
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。

2003年に来たときはこんなに高い盛り土だったろうか。
この墳丘墓を手前から眺めるだけにして戻ろう、というSさんに抵抗したOさんと私。ここまできて近くで見ないわけにはいかないと。墳丘墓への道が裏側に通じているので行ってみると、なんとそこはこんなことになっていました。

2003年に来たときにはこんなのなかった。盛り土が高くなっている理由がわかった。吉野ヶ里遺跡歴史公園のサイトによると、北墳丘墓の遺構の保存のため埋め戻されたが、平成20年に北墳丘墓の内部を展示施設として発掘当時の状況が公開されたという。Sさんの言うことを聞かなくてよかったあ。

吉野ヶ里遺跡歴史公園はまだまだ広大なのだけど、全部回っているとそれで一日が終わってしまう。2時間ほどかけてメインどころは見たので、これで次の目的地「菜畑遺跡」に向かうことにした。
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北九州実地踏査ツアー(No.1)

2017年12月06日 | 実地踏査・古代史旅
2017年11月、「魏志倭人伝と神功・応神の痕跡を訪ねる旅」と称して古代史仲間3人で北九州を巡る2泊3日の実地踏査ツアーに行ってきました。レンタカーを借り、真っ盛りの紅葉や観光を楽しみながら、次のような行程で20か所以上を訪問してきたので、エピソードをまじえて順に紹介したいと思います。今回のメンバーもいつも通りのSさんとOさんです。ちなみにこの3人で実地踏査と称して古代遺跡や神社を巡るのは5回目になります。

3日間の行程は以下の通りです。博多を拠点に初日は西へ時計回りに、2日目は北へ時計と逆回り、3日目は東へ、というルートになりました。なお、私自身は二度目の訪問であったところが多く、二度目のところはあまり写真を撮らなかったので、必要に応じてひとりで訪ねたときの写真を流用します。

●初日

 福岡空港
 →吉野ヶ里遺跡
 →菜畑遺跡(末盧館)
 →宇木汲田遺跡・柏崎遺跡
 →志登支石墓群
 →伊都国歴史博物館
 →井原鑓溝遺跡
 →三雲南小路遺跡
 →平原遺跡
 →吉武高木遺跡
 →福岡市内(泊)

●2日目

 福岡市内
 →板付遺跡(板付遺跡弥生館)
 →須玖岡本遺跡(奴国の丘歴史資料館)
 →大分八幡宮
 →飯塚市歴史資料館
 →立岩遺跡
 →宗像大社(神宝館)
 →新原奴山古墳群
 →福岡市内(泊)

●3日目

 福岡市内
 →筥崎宮
 →香椎宮
 →高良大社
 →平塚川添遺跡
 →小迫辻原遺跡
 →宇佐神宮
 →大分県立歴史博物館
 →川部高森古墳群
 →大分空港

地図にプロットするとこんな感じです。



早朝6:15羽田発のJAL303便で福岡へ。上空からの富士山はお決まりのショット。


朝が早かったので機内で少し眠ったものの、到着前に目が覚めて思い出したように窓の外の景色を確認。2週間前に奥さんとの車中泊ツアーで行ったばかりの九州であるが、そのときに壇之浦パーキングからまじかに見た関門海峡を上空からも見ておきたかったので。

こうしてみると、海とは言いながら川のように狭いのがよくわかる。古来、ここが数々の歴史の舞台になったことがよくわかる景色でした。

関門海峡を過ぎるとすぐにもうひとつのチェックポイントの洞海湾と遠賀川下流域に広がる遠賀平野。ここは仲哀天皇の時に熊襲が反乱したのを聞いた天皇が紀伊の徳勒津宮(ところつのみや)から、神功皇后が敦賀の笥飯宮から穴門の豊浦宮を経て橿日宮(香椎宮)に向かったときのルートだ。天皇が船で海岸沿いに進み、皇后がこの洞海湾を進んだと日本書紀に記されている。遠賀川下流域は古代には古遠賀潟と呼ばれた潟が広がっていて洞海湾とは水路でつながっていたと言う。それを空から実感したかった。

左側真ん中の横に伸びるのが洞海湾。右側に上から遠賀川が流れ、両側に平野が広がる様子。これを見ると水路でつながっていただろうと思える。

これで安心してふと気を抜いた瞬間に思い出したのが宗像大社。あわてて撮った写真がこれ。

写真ではわからないけど、左上に辺津宮の宗像大社、左下が中津宮のある大島にわたる神湊。真ん中には新原奴山古墳群があり、周囲に広がる平野は古代は入り江になっていたという。GoogleMapの航空写真でも見ることができるが、やはり自分の眼で確かめることに意味がある。

さあ、いよいよ福岡空港に着陸だ。

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車中泊の旅(北九州)

2017年12月04日 | 旅行・車中泊
2017年11月、10月末に納車された新車のミニバンを駆って結婚30周年記念のイベントで北九州を巡る車中泊の旅に行ってきました。
車中泊は前回の岡山・倉敷の旅に続き、二回目となります。仮眠を含めて4泊5日、少し長くなりますが、以下、レポートです。

11月1日夜
 20時半に富田林の自宅を出発、阪神高速神戸線から第二神明、加古川バイパス、姫路バイパスを経て山陽道へ。西に向かってひた走り、途中で仮眠をしようと2度ほどサービスエリアに入ったものの、いずれもトラックでいっぱい。それにしても、パーキングの駐車エリアを占領するほどのトラックの量にビックリしました。結局、宮島SAまで行ってようやく仮眠をとるこができました。
 
11月2日朝
 初めて車で越える関門海峡。古来、数々の歴史を生み出してきた要衝をこの眼に収めるために壇之浦PAに立ち寄りました。海峡は想像以上に狭くて潮の流れが速いと思いました。
 
 
11月2日昼
 ツアー最初の目的地、呼子に到着。何年か前に食べて感激した呼子のイカをもう一度、と海に浮かぶレストラン「萬坊」でイカコース(2,860円)を堪能。造りのあとは天ぷらと塩焼きも。萬坊はイカしゅうまい発祥のお店らしい。
 
 

11月2日午後
 食後は加部島に渡り、港の入り口に佇む田島神社を参拝。こんな田舎の小さな島にある神社なのに式内明神大社。古代にはこの港は朝鮮半島への渡航基地だったのではないだろうか。
 

 加部島の北端、杉の原放牧場へ。海や青空とともに素晴らしい風景で、風が心地よかったなあ。
 

11月2日夕方
 波戸岬の「恋人の聖地」のベンチに座って海を眺めるうちに夫婦でうたたね。潮風の中で気持ちよかった。ゆったりとした時間を過ごしたあと、ワンコを連れて岬の突端にある灯台まで歩き、そこで日没を待って夕陽を眺めた。あたりが暗くなってきて車に戻るころには釣り人も観光客も誰もいなくなり、観光客でいっぱいだったところはドッグランに。恋人の聖地にはハートのモニュメントがあり、カップルがそこで写真を撮るのがお決まりとか。岬の名前は波戸(はと)岬。だからハート。
 

11月2日夜
 日没後に唐津市内まで戻り、虹の松原近くの「鏡山温泉美人の湯」で入浴。近くの回転寿司屋で晩ご飯を食べたあと、宿泊予定地「道の駅きくすい」までまっしぐら。睡魔に負けて途中休憩をはさんだものの23時頃に無事に道の駅に到着。なんと、キャンピングカーなど車中泊の車が結構停まっていて、すでにいい場所は残っていなく、仕方なく広い通りに近い空いたところに駐車。その後、トイレに行ったときに植え込みのむこうにいい場所を見つけたので車を移動して寝場所を確保。朝までぐっすり眠ることができました。
 
11月3日朝
 起床後、ワンコの散歩がてら、道の駅のとなりにある江田船山古墳を見学。ここは歴史の教科書にも載った古墳で、関東の稲荷山古墳とともに銘文入り鉄剣が出たことで有名。実地踏査カテゴリーであらためて紹介しようと思います。
 

 道の駅を出発前にこの日の行き先を決めようと眺めていたGoogleMapで見つけたのが加保田東原(かとうだひがしばる)遺跡。福岡・熊本・大分の県境あたりは北九州倭国と狗奴国の戦いが行われたところで、狗奴国の前線基地のひとつと考えていたこの遺跡がこんな近いところにあると知って訪問を決定し、道の駅を出発。すると車を走らせてすぐに岩原横穴墓群の案内表示。まずはここに立ち寄ることにしました。
 

 岩原横穴墓群を出るとすぐに加保田東原遺跡、のはず。カーナビに従って走ると最後に細い道に入って住宅地の裏に出たところで行き止まり。目の前の広場では数十人のお年寄りがゲートボールを楽しんでおられる。おそらくこの広場が遺跡であろうと、奥さんとワンコを車に残して遺跡の痕跡を探し求めました。すると、最後に曲がったところを曲がらずに少し進んだところに大きな説明板が立っていて、さらに歩き回ると広場の向こうに大きな原っぱがあり、その向こうに資料館らしき建物が見えたのです。行ってみるとそこが遺跡の入り口になっていて、入り口をはいってすぐのところにこの石碑が立っていました。カーナビに頼ったためにわかりにくいルートになってしまったようです。おまけに朝が早かったので残念ながら資料館に入ることはできませんでした。向こうに小さく見える住宅付近に車を停めてます。
 

11月3日昼
 加保田東原遺跡では広場や原っぱを眺めただけに終わったのですが、それでもここに来たことに価値があると思うことにしました。そのあと、歴史公園として整備された鞠智(きくち)城を見学。663年の白村江の戦いに敗れた大和政権が新羅や唐の侵攻に備えて各地に築いた城の一つということになっていますが、来てみてわかったことは、あまりに海から遠くて、新羅や唐の攻撃に備えるためという理屈が成りたないということ。兵站基地という説もあるのですが、それも無理があることを確信しました。
 

 その後、装飾古墳で有名なチブサン古墳、オブサン古墳を見て、さらに近くの西福寺古墳群を見学。チブサン古墳(一番上の写真)は予約をすれば内部を見学できたのですが時間が合わずに断念。一方のオブサン古墳(一番下の写真)は石室を見ることができたのですが、明かりを照らしても装飾を確認することができませんでした。真ん中の写真はチブサン古墳の装飾された石室のレプリカ。訪れる人は無く、ここでもドッグラン状態でワンコは大喜び。
 
 
 

 西福寺古墳群をあとにして、近くの鍋田横穴群を横目に見ながらこの日のメインイベントが待つ天草に向かいました。途中、宇土半島と大矢野島にかかる天門橋を渡ったところで工事中の吊り橋をまじかに見ることができました。思わず、日本の土木技術は凄いなあ、と呟いてました。
 

 天草五橋を通過。小学生の頃に見た切手の画像を思い出して懐かしい気持ちに。前島橋を渡ってすぐを左折してリソラテラスというところで休憩。ここは古くはドライブインとして繁盛しただろうと思うものの、海に向かうレストランやカフェを設けて若者でいっぱいでした。
 
 
11月3日夕方
 途中、少し渋滞があったものの、結果として予約した17時少し前という絶妙なタイミングでツアー最大の目的地「たなか畜産」に到着。アルコール抜きで30周年をお祝い。おまかせセット(税別5,000円)はサラダ、スープ、カレーが食べ放題で満腹満腹。ちなみに焼肉食べ放題コースは税別3,800円です。
 

11月3日夜
 お店を出ると既に真っ暗。まっすぐに熊本市内に戻り「天然温泉ぶぶたん」で入浴。その後「道の駅大津」で車中泊。もともとの計画は翌日にまっすぐ阿蘇山に向かおうと思っていたのだけど、調べるうちにメインルートの国道57号線が通行止めになっていることがわかった。そうか、地震で崩落した阿蘇大橋ってここのことだったのか。そして迂回ルートであるミルクロードを通ることにして、ついでにうまくいけば阿蘇の雲海を見てみたいと思い、宿泊地をミルクロードの入り口にある「道の駅大津」に決めました。

11月4日早朝
 朝4時半に起床。雲海を期待しながら阿蘇の大観峰を目指して真っ暗なミルクロードを走るうちに霧が出てきた。これは雲海が見れるかも、と思いながら運転を続けると右手の阿蘇カルデラの中に綺麗な夜景が見えてきた。ん?夜景? そしていよいよ日の出前の大観峰へ。駐車場にはすでに多くの車と人。かろうじて空いていたところに車を停めて外に出ると、やはり夜景が見える。空が徐々に白んでくる。霧がかかっているものの雲海にはほど遠い状況。残念だったけど、きれいな朝陽を拝むことができました。
 

11月4日午前
 大観峰から外輪山を下って阿蘇を縦断。途中「道の駅阿蘇」で顔を洗って歯磨き。阿蘇パノラマラインを走って草千里を経て阿蘇山上広場へ。残念ながら火口に向かう道路はいまだ通行禁止。この阿蘇に来ると街の中では感じなかった大地震の影響を至る所で感じました。
 

11月4日昼
 阿蘇をあとにして高千穂峡に到着したものの、駐車場はどこも満車。真名井の滝までワンコを連れてかなり歩くことに。天気も良くて高千穂峡は観光客で溢れていました。高千穂神社や天岩戸神社は来たことがあるのでパスして次の目的地へ。
 
 
 高千穂のあとは阿蘇の東側を北上して久住高原へ。途中、少しお腹がすいてきたので道端に車を停めて、カセットコンロでお湯を沸かし、持参したカップラーメンで腹ごしらえ。久住高原では見事な景色と紅葉を堪能。
 

11月4日夕方
 久住連山をあとにして、やまなみハイウェイを走って別府温泉へ。高校の修学旅行で走ったコースだ。ただ、映像が記憶に残っておらず「やまなみ」というから久住連山の稜線を走るのかと思っていたらずっと山の中だった。

11月4日夜
 別府に到着。市内で見つけた地元の回転寿司屋は新鮮で安くて旨くて大満足。鉄輪温泉にある「ひょうたん温泉」は750円と少し高いが源泉掛け流しで情緒のある本格温泉。また行きたくなる温泉でした。最後の宿泊場所はフェリーターミナルの駐車場。一泊500円ナリ。車中泊仲間の間では、別府市内は車中泊の場所がほとんどないことでよく知られているらしい。

11月5日朝
 早朝、隣に停まった釣り人の車にワンコが鳴いたために起床。おかげで別府湾の見事な朝陽を拝めました。
 

 別府へ来たら地獄めぐり。修学旅行の記憶がよみがえる血の池地獄と海地獄。血の池地獄は開園一番乗り。
 
 
 
11月5日昼
 最後の目的地、直方市の明治屋産業「びっくり市」でショッピング。ここは2・3日前に奥さんがテレビで見たらしく、行けたら行こうと往路の車中で決めたところ。広い敷地にあるでっかい市場。肉、魚、野菜、フルーツ、お菓子、、、どれも安い。一万円以上の買い物をして車に積み込んだ。車にはいつもクーラーボックスを載せていたので氷をたくさんもらって肉も魚も問題なし。


11月5日午後
 すべての予定を完遂して帰路につく。自宅到着は22時を少し回っていたけどほぼ予定通り。新車に買い替えていきなりの長距離旅行で、走った距離は2,000キロを突破。ETC料金がまだ確定していないけど、仮眠も入れて4泊5日の車中泊の旅は食事や買い物も入れた総額はおそらく2人で8万円以内に収まるはず。やめられません。
 


以上です。次は高山・白川郷・能登半島の旅を計画中です。お楽しみに。
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車中泊の旅(岡山・倉敷)

2017年12月02日 | 旅行・車中泊
たまには古代史から離れた記事を書いてみます。


2017年10月、人生初の車中泊の旅に行ってきました。

 我が家にはワンコが一匹います。普段からワンコを乗せてドライブに行くことが多く、最近になってワンコと泊まれる温泉宿を探して旅行に出かけることを始めました。
 また、いま乗っている車がそろそろ10年目を迎えることもあって車の買い替えを考え始め、どうせならワンコと一緒に時間も場所も気にせずに行きたいところへ行ける車中泊の旅を楽しもうと夫婦の考えが一致し、セダンからミニバンに乗り換えることにしました。

 今回は車中泊ってどんなものかを体験してみようと考えて、乗り換え前のセダン車で岡山から鷲羽山、そして倉敷への一泊の旅に出かけたときのレポートをしてみます。
 ちなみに、これからたびたび車中泊に出かけることになると思うのですが、温泉とグルメに加えて、古代史実地踏査を兼ねた神社や遺跡の見学を必ずセットにしたツアーにしようと思っています。興味ある方はご覧いただければ嬉しいです。

10月7日午前
 朝、富田林の自宅を出て三宅から阪神高速に乗り、神戸線を若宮で降りて国道2号線を西に向かいました。まず目指したところは垂水の五色塚古墳。日本で初めて復元整備された古墳としてその存在を知っていたものの、これまで訪れる機会はなかったので行ってみることしました。

 

 明石海峡を見下ろす台地上に築かれていることから、この海峡を支配した豪族の首長の墓と考えられます。ここはワンコの入場がNGだったので奥さんとワンコには外で待ってもらって一人で見学することに。
 

10月7日午後
 五色塚古墳からすぐ近く、舞子公園に寄って明石大橋をまじかに見ようと思っていたのですが、予定よりも時間をオーバーしていたので、そのまま第二神明に乗って加古川バイパス、姫路バイパスを経て相生の「道の駅あいおい白龍城」に到着。ここはペーロン温泉という温泉があるのですが、温泉に入るには少し時間が早かったのでトイレだけ済ませて次の目的地へ移動。

 赤穂城も寄りたかったけどパスして、昔から走ってみたかった岡山ブルーラインへ。ここで夕陽が見れたらいいなあ、と思っていた「道の駅一本松展望園」に到着。想像していたのと少し方角が違ったけど、瀬戸内海と夕陽をセットで見ることができました。
 
 

 さて、どこで温泉に入ってどこで泊まろうか。GoogleMapで調べているうちにあたりは真っ暗に。気がつくとここで車中泊をするのだろうか、キャンピングカーを含めて結構たくさんの車が停まっている。
 結局、岡山市内のスーパー銭湯「ぽかぽか温泉」を目指すことにしました。駐車場もそこそこ広いのでここで泊まれるだろうとも思って。銭湯なので料金は420円、温泉ではなかったのが残念だったけど、いろんな種類のお風呂が楽しめたので問題ナシ。
 入浴後、車を静かなところに移動して寝る態勢に入ったものの、セダンなのでシートを倒すだけで身体を横にすることはできず、時間はまだ21時頃で眠くもなく、これでは時間がもったいない、ということで明朝の目的地だった鷲羽山に移動することにしました。
 
 鷲羽山の駐車場は広くて車中泊にはもってこいと思ったのもつかの間、あきらかに車中泊ではない車やバイクが数台。落ち着いて寝ることができず、本来は許可された車しか入れないさらに上の駐車場へ移動。ここにも数台の車が停まっている。時刻はすでに深夜零時ころ。とりあえず深夜の瀬戸大橋を見ようと車を降りると、数組のカップルが夜景を楽しみに来ているようでした。
 ここで寝ようと思っていたものの、ここも車が出たり入ったりで落ち着かず、結局、鷲羽山を下りていい場所を求めてさまようこと30分。近くの病院の駐車場に侵入して朝まで過ごすことにしました。
 深夜になるとさすがに眠くなって自然に寝入ったものの、いつのまにか車に侵入していた蚊に悩まされ、よく眠れませんでした。明るくなって確認するとマルマル太った蚊が3匹。ワンコが一番の被害者になったようです。

 朝の瀬戸内海と瀬戸大橋を見ようともう一度鷲羽山に戻って展望エリアを散策していると、カメラを持ったおじさんが軽四から降りて近づいてきました。朝の挨拶を交わすと親近感が沸いたのか、おじさんは「もしよかったら頂上まで行きませんか。歩くと往復でかなり時間がかかるけどボランティアガイドをしているので車で上がれます」と誘ってきた。断るのも申し訳なかったので連れていってもらった。結果、行って良かったです。

 橋を真上から見ることができました。
 

 この景色、今放映しているサザエさんの歌のバックの映像と同じです。
 

 おじさんと別れて、この日の目的地の倉敷へ向かいました。目指すは美観地区。30年近く前に高校のクラブ仲間と旅行で来た場所で、当時と比べると街が格段に綺麗に整備されて範囲も広くなり、観光地としての魅力は大幅にアップしている印象。ワンコを連れて歩くのが楽しかった。
 
 お決まりの風景。
 

 30年前にはこの船はなかったなあ。
 

 ランチはピッツェリア・コノフォレスタというお店でピザとパスタ。ここはテラス席はワンコもOKということで選択。そして大正解。

 倉敷を楽しんだ後は牛窓へ。日本のエーゲ海と言われ、バブルのときにリゾート地として流行ったところで、行ってみたいと思いながらも結局は一度も行くことがなかったので、この機会に立ち寄りました。とはいえ、どこへ行っていいのかわからなかったので、とりあえずヨットハーバーへ。
 

 次にオリーブ園。カーナビの設定間違いで偶然通った道に若者がいっぱいのお店。車を停めてのぞいてみるとジェラート屋さん。なんだか有名なお店のようです。
 

 ジェラートを食べたあとはさらに山を上ってオリーブ園へ。ここまでくると日本のエーゲ海と名付けたのも少し頷けるかな。エーゲ海には行ったことないけど。
 

 もう少しで夕焼けになりそうだったけど、帰りがおそくなるので後ろ髪をひかれながら出発。時刻は17時半頃だったかな。
 

 帰路は国道2号線のバイパス、姫路バイパス、加古川バイパスと快適に走ることができ、明石の海岸沿いにある日帰り温泉「龍の湯」で疲れを落として帰ろうと思って行ってみると駐車場に入る車の列。そこまでしてこの温泉にこだわる理由はなかったので、代わりに鳴尾浜温泉「熊野の郷」へ向かいました。閉店時間が近づいていたのでゆっくりお湯に浸かることができなかったけど、帰宅後はすぐに就寝できたので楽チンでした。


 以上が車中泊初体験レポートです。初体験で学んだことは、次の通りです。

  ①やっぱりセダンで寝るのは無理
  ②夏場は安易に窓やドアを開けてはいけない
  ③車中泊の場所は入念な事前調査が必要
  ④温泉は閉店時刻を調べておくこと
  ⑤計画通り行かないことを前提に計画を


すでに二回目の車中泊ツアー、九州の旅へ行ってきたので、次はそのレポートを書こうと思います。



 
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