板付遺跡の次は奴国の王墓があったとされる須玖岡本遺跡に向かったのだが、ツアーを企画した時点では板付遺跡の次に金隈(かねのくま)遺跡を訪ねることにしていた。弥生時代の共同墓地の遺跡で、弥生時代前期中頃から 後期前半までの約400年間にわたって営まれ、348 基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘された遺跡である。 そしてこの甕棺墓の発掘現場を建屋で覆ってそのまま展示館として公開しているので、かなりリアリティを感じることができると思っていたのだけど、事前に駐車場の有無を調べてわかったことが、なんと改修のため平成31年3月まで休館だって。こりゃあ残念。仕方なく金隈遺跡をパスすることにした。
須玖岡本遺跡は福岡県春日市、春日丘陵の北側半分に位置し、南北2キロ、東西1キロの範囲にある弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を総称した呼称だ。古代史に明るくない人でも「漢委奴国王」の金印は記憶に残っているだろう。その金印を後漢の光武帝から授かった奴国である。ただし、金印が出たのはこの須玖岡本遺跡ではなく、博多湾に浮かぶ志賀島とされている。
明治 32年(1899)、土地所有者の吉村源次郎は家屋の新築のために脇にある「長さ3.60メートル、幅2.0メートル、厚さ30.3センチメートルの横石」とその側方に立つ「高さ1.20メートル、幅1.50メートル、厚さ40センチメートルの立石」の二つの巨石が邪魔になるので動かして下を掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土した。もともとはこの遺跡を須玖岡本遺跡と呼んでいたが、いまではここを「D地点の遺跡」という。具体性に欠ける呼称で、どうもいただけない。
須玖岡本遺跡の碑。
向こう側に「D地点の遺跡」から移された二つの巨石が見える。
二つの巨石。横石と立石。
遺跡の中にある「奴国の丘歴史資料館」。
資料館を入ると左手に受付があり、ボランティアと思われるご老人が応対してくれた。このご老人、方言がきついのと滑舌が悪いのが重なって、ほとんど何を言ってるのか聞き取れない。わかったふりをして失礼のないように会話を済ませた。
資料館の展示室。
「D地点の遺跡」から出た合口甕棺を復元し、映像とミックスして紹介。
「この王墓の主は後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を授かった王より数世代前と考えられている」と出ている。金印授受が紀元57年なので、それより数世代前となると弥生時代中期ということになる。
資料館裏手の公園。(前回訪問時の写真)
ここは甕棺墓や住居跡が出た遺跡で、甕棺発掘現場をそのまま残して白いドームで覆っている。
ドームの中。(いずれも前回訪問時の写真)
前回来たときは車ではなく最寄りの南福岡駅から徒歩でやってきて周辺を巡ったので、このあたりが丘陵地であることがよくわかった。また、住宅が建て込んでいる状況から、この丘陵で宅地開発が進んだ結果として数々の遺跡が見つかったのだということもよく理解できた。今回は車だったのでそういうわけにはいかなかったのだが、奴国の首都とも言えるこの遺跡に来ただけでも十分に価値のあることと思う。
さあ、次は私も行ったことのない大分八幡宮。大分と書いて「だいぶ」と読む。福岡県飯塚市にある神社で筥崎(はこざき)宮の元宮とされているところだ。
須玖岡本遺跡は福岡県春日市、春日丘陵の北側半分に位置し、南北2キロ、東西1キロの範囲にある弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を総称した呼称だ。古代史に明るくない人でも「漢委奴国王」の金印は記憶に残っているだろう。その金印を後漢の光武帝から授かった奴国である。ただし、金印が出たのはこの須玖岡本遺跡ではなく、博多湾に浮かぶ志賀島とされている。
明治 32年(1899)、土地所有者の吉村源次郎は家屋の新築のために脇にある「長さ3.60メートル、幅2.0メートル、厚さ30.3センチメートルの横石」とその側方に立つ「高さ1.20メートル、幅1.50メートル、厚さ40センチメートルの立石」の二つの巨石が邪魔になるので動かして下を掘ったところ、「合口甕棺」があり、その内外から種々の遺物が出土した。もともとはこの遺跡を須玖岡本遺跡と呼んでいたが、いまではここを「D地点の遺跡」という。具体性に欠ける呼称で、どうもいただけない。
須玖岡本遺跡の碑。
向こう側に「D地点の遺跡」から移された二つの巨石が見える。
二つの巨石。横石と立石。
遺跡の中にある「奴国の丘歴史資料館」。
資料館を入ると左手に受付があり、ボランティアと思われるご老人が応対してくれた。このご老人、方言がきついのと滑舌が悪いのが重なって、ほとんど何を言ってるのか聞き取れない。わかったふりをして失礼のないように会話を済ませた。
資料館の展示室。
「D地点の遺跡」から出た合口甕棺を復元し、映像とミックスして紹介。
「この王墓の主は後漢の光武帝から金印「漢委奴国王」を授かった王より数世代前と考えられている」と出ている。金印授受が紀元57年なので、それより数世代前となると弥生時代中期ということになる。
資料館裏手の公園。(前回訪問時の写真)
ここは甕棺墓や住居跡が出た遺跡で、甕棺発掘現場をそのまま残して白いドームで覆っている。
ドームの中。(いずれも前回訪問時の写真)
前回来たときは車ではなく最寄りの南福岡駅から徒歩でやってきて周辺を巡ったので、このあたりが丘陵地であることがよくわかった。また、住宅が建て込んでいる状況から、この丘陵で宅地開発が進んだ結果として数々の遺跡が見つかったのだということもよく理解できた。今回は車だったのでそういうわけにはいかなかったのだが、奴国の首都とも言えるこの遺跡に来ただけでも十分に価値のあることと思う。
さあ、次は私も行ったことのない大分八幡宮。大分と書いて「だいぶ」と読む。福岡県飯塚市にある神社で筥崎(はこざき)宮の元宮とされているところだ。