古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

男50歳からの古代史構想学(7)

2020年08月31日 | 古代史構想学
■古代史にリアリティを

7回目の今回はいよいよ纒向遺跡の中心を見て回った様子を書こうと思います。

実は纒向遺跡は九州の吉野ヶ里遺跡のような史跡公園になっているわけでもなく、358本もの銅剣が出土した出雲の荒神谷遺跡のように発掘時の状況が再現されているわけでもありません。発掘された場所は全て埋め戻されていて遺跡を遺跡として認識することはできません。案内板が立っているだけなのです。だから実地踏査と言ってもやることは、その場に立って何かを感じること、それをもとに考えること、くらいなんです。(※その後、後述する大型建物跡が発掘された辻地区は史跡公園として整備されました。)

でも、この「感じること」と「考えること」というのがものすごく意味があると思うのです。本を読んだり講演を聴いたりして得た知識をもとに机上で考えることはもちろん重要かつ必要不可欠なのですが、実地踏査はそこにリアリティを加えることができるのです。これによって自分の仮説の確からしさ、あるいは説得力が高まるのだと思います。

埋蔵文化財センターを出た私たちは来た道を戻り、日本最古の道といわれる「山辺の道」に入り、その後は「茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳」という順に回りました。いくつかを紹介します。
 
①茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)
古墳時代中期(5世紀前半代)の帆立貝式前方後円墳で全長は85メートル。「帆立貝式」とは前方後円墳の前方部の長さが短く、ホタテ貝のような形をしていることからこのように呼びます。しかし、この古墳に登ってまず「これは円墳だ」と思いました。というのも上から見ても前方部が確認できなかったのです。おそらく後世に盛土が削られたのでしょう、畑として利用されていたからわからなくなっていました。それでも帆立貝式前方後円墳というからには、発掘の結果としてそれが確認されたのだと思います。
このように古墳は後世に盛土が削られることがよくあるのです。
 
②ホケノ山古墳
3世紀中頃に造られた纒向型前方後円墳で全長が90メートルで後円部の直径が60メートル。1999年からの発掘で重厚で独特な埋葬施設が見つかり、一躍脚光を浴びました。
築造時期が卑弥呼が亡くなった時期に合っていること、この埋葬施設が女王の亡骸を納めるのに相応しい「しつらえ」であること、直径が60メートルということは60センチくらいの小さな歩幅であれば100歩となり、魏志倭人伝にある「径百余歩」という記述と合っていることなどから、この古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えています。山すその少し標高の高いところにあって、墳丘に登ると纒向一帯を見渡すことができる、というのも理由のひとつです。これは実際に登ってみてわかったことです。


(桜井市のホームページより)
 
③辻地区(大型建物跡発掘地)
卑弥呼の神殿ではないかと騒がれた3世紀前半のものと推定される大型建物跡が発掘されたところです。建物跡は4棟分が発掘され、最大のものは床面積が238平米でかなりの広さになります。この最も大きい建物がいちばん東にあり、そこから西にむかって一直線に3つの建物が並んでいることから、この4棟は計画的に建設されたと考えられます。この建物群の主は、東の山々から昇る太陽を拝み、おもむろに振り向いて西の建物に控えた者にお告げを伝える、そんな状況が浮かんでくるのです。とはいえ、この現場は全て埋め戻され、いわゆる「原っぱ」状態になっていたので、これはもう想像の世界に入りこむしかないのです。(※その後、史跡公園として整備されました。)

こんな感じで纒向ツアーを終えた私たちは近鉄電車で難波へ出て、がんこ寿しで互いの労をねぎらいました。

私はもともと纒向に邪馬台国があったと考えているので、纒向を訪ねる目的はそれを補強するための材料探しということになるのですが、一方で、邪馬台国が別のところにあったと考える人にとっては全然違った見方になるのだろうと思います。たとえば、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと考える人はこの纒向遺跡をどのように捉えるのだろうか、というのを聞いてみたい気持ちがあります。ただ、他の人の考えを否定したり反論するつもりは全くなく、むしろ部分的に使えるところはないかな、とすら考えています。

これからも自説を紹介していくと思うのですが、このコラムではそれをわかってもらいたいという思いよりも、私がいかに古代史を楽しんでいるか、というのをお伝えしたいと思っています。

次回からは、一年前の6月に一人で巡った奈良県の葛城地方について書いてみたいと思います。 (第8回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(6)

2020年08月30日 | 古代史構想学
■ 三輪の名物と言えば

纒向遺跡ツアーの続き、今回は三輪山登拝後の至福のひとときを紹介します。

三輪山登拝を終え、狭井神社のご神水でひと息ついて時計を見るとすでに12時を回っていました。炎天下での2時間の山登りで疲労困ぱいの上に体温の上昇も甚だしく、ランチ休憩をとることにしました。入ったお店が大神神社の二の鳥居近くの福神堂という御食事処。お昼どきでそこそこお客さんがいたように記憶しているが、たまたま空いていた奥の小上がり席に陣取ってメニューを開け、まずは当然のように生ビール。そして食事は何と「そうめん」。

関西人にとってそうめんというのはお中元でいただくもので、自分でお金を払って食べるものではないのです。それでもこの時ばかりはメニューにあった冷たいそうめんの写真が何と美味しそうに見えたことか。エアコンとビールとそうめんでようやく体温が下がって正気が戻るかと思いきや、疲れた身体に程よくアルコールが回って何ともいえない心地よさ。



さて、ここから脱線。
その昔、山頂の大物主神に拝礼するために毎朝太陽が昇るとともに三輪の山に入る神職がいた。春夏秋冬、暑いときも寒いときも往復2時間の道のりを黙々と歩いた。そして登拝を終えるとようやく朝餉(あさげ)だ。登拝を終えた神職の身体は、暑いときには身体を冷ます食べ物を、寒いときには身体を温める食べ物を欲した。長期間の保存ができて、良質のたんぱく質が摂取できて、冷たい食べ方でも温かい食べ方でも簡単に調理ができるもの、「そうめん」は古代の神職の知恵が生んだ食べ物ではないだろうか。三輪の地はそうめん発祥の地である。

そう思って「三輪素麺」で検索。
Wikipediaによると「6世紀から7世紀に仏教伝来と共に小麦栽培・製粉技術が伝えられたとされている。伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐に次男穀主が初めて作ったという。」とある。当たらずとも遠からず。これも実地踏査のなせる業(わざ)か。

いつまでも休んでいるわけにも行かず、重い腰を上げて向かった先が桜井市立埋蔵文化財センター。ここには纒向遺跡から発掘された貴重な遺物が展示されています。展示物の数はそれほど多いわけではないのですが、とにかく貴重なものばかり、レプリカではなく本物が並んでいるのです。少なからず興奮状態に。しかし、このときはまだそれほど詳しく纒向遺跡を勉強していたわけではないので、ひとつひとつの遺物の意味がよくわかっていなかったのですが、その後に勉強を重ねていくと「もっとしっかり見ておけばよかった」という後悔の念がフツフツと沸いてきました。

それでもここでひと通りの情報をインプットして、いよいよ私たち3人は纒向の中心に向かってペダルを漕ぎだしました。

最後に、これから何度も登場してもらうことになるので、私とともに纒向を訪ねたメンバー(=宮崎ツアー企画メンバー)の名前を明かしておきます。ひとりは合同会社ウィン・アクション代表の佐々木偉彰さん。もうひとりは故郷へ戻って行政書士事務所を開業した岡田清之さんです。3人とも50代後半(2013年当時)、100年ライフを目指してそれぞれの生涯学習に取り組んでいる真っ最中です。 ※おふたりのお仕事は現在のものに変更しています。 (第7回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(5)

2020年08月29日 | 古代史構想学
■苦行!三輪山登拝

今回はまず纒向ツアーのメインイベントであった三輪山の登拝を紹介したいと思います。

三輪山は奈良盆地の南東部、奈良県桜井市にある標高467mの山で、三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、御諸山とも記されます。古代より自然崇拝の対象とされ、山そのものがご神体であるため、神職以外は入山できなかったのですが、明治以降は入山心得を守れば誰でも登れるようになったそうです。ご神体に登ることから、登山ではなく登拝と言われています。

なお、登拝時の写真撮影は厳禁。そして後日には、登拝時に見たことを口外してはならない、ということを耳にした(目にした?)のですが、あらためて大神神社のサイトで確認してもそんなことは書いていないので、当たり障りのない範囲でお伝えします。これから三輪山へ行ってみようと考えられている方の参考になればと思います。

三輪山への登拝は大神神社の摂社である狭井神社での受付から始まります。300円の登拝料を支払うと三輪山参拝証と記されたタスキが渡されます。これは記念になるので持ち帰りたくなるのですが、登拝後に返却しなければなりません。安全に下山したことを確認するためとのこと。そうなんです。三輪山登拝は危険を伴う登山ということです。
なのに、何の下調べもしていなかった私はこの後、思い知らされることになるのです。



6月、初夏というにはあまりに厳しい日差しの中、帽子もタオルも持たず、さらにはあろうことか、給水の備えもせずに登拝に挑んでしまったのです。当然のことながら途中に自販機などなく、休憩個所もほとんどありません。いったん入山してしまうと頂上を目指してただひたすら歩を進めるのみ。

苦行でした。

帽子、タオル、水を持たなかったことを全身全霊で後悔しました。やっとの事で頂上にたどり着いたものの、日陰がなく、座るベンチもなく、山頂の高宮神社で手を合わせ、磐座を確認して早々に下山しました。下山後は狭井神社境内に湧き出るご神水でようやくノドの、いや全身の渇きを潤すことができました。

往復で約2時間。季節や天候にもよると思いますが、もしこれから行ってみようという方がおられたら、それなりの備えをお勧めします。狭井神社では杖を貸してもらえるのでそれもあった方がいいでしょう。ご神体に失礼になるからということか、靴を脱いで裸足で登拝する人を見かけましたが、危険だなと思いました。

時計はすでに12時を回っていました。実はこのような苦行のあとに私たちを待っていたのは至福のひと時だったのです。続きは次回。

<おまけ>
三輪山の説話は日本書紀や古事記の崇神天皇紀に出てくるのですが、ここで日本書紀のほうを紹介します。有名な話なのでご存知の方も多いかと思います。

卑弥呼ではないかとも言われている倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女性がいました。彼女は大物主神と結婚しました。しかし夫は夜にしか現われず、その容姿を知ることができませんでした。あるとき夫に「その姿を見たいので朝までいて欲しい」と懇願し、夫は「その気持ちはよくわかるので明朝にあなたの櫛笥(櫛を入れる箱)に入っていよう、ただし、私の本性に驚くなよ」と伝えました。彼女は夜が明けてからその櫛笥を見てみました。すると、とても麗しい小蛇がいました。それで驚いて叫んだところ、夫は恥ずかしく思ってすぐに人の形になりました。「お前、我慢が出来ずにわたしに恥をかかせたな。 わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」 それで大空を飛んで御諸山(三輪山)に登りました。彼女はそれを仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。そのとき、箸で陰(ほと)をついて亡くなりました。それで大市に葬りました。世の人はその墓を箸墓と名付けました。

箸墓が卑弥呼の墓であるといわれるひとつの根拠になっている説話です。その箸墓は陵墓参考地「大市墓」として宮内庁が管理しているために柵がめぐっていて、周囲から眺めることしかできません。しかしそれにしても、箸墓の名の由来を伝えるのなら、もう少し上品な話にできなかったのでしょうかね。(第6回につづく)

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男50歳からの古代史構想学(4)

2020年08月28日 | 古代史構想学
■纒向でのヒラメキ

「古代史構想学」というタイトルに見合った内容になっているのか少し不安がありますが、思うままに書いていきますのでこれからもお付き合いください。今回は宮崎ツアーに先駆けて訪れた奈良の纒向遺跡について書きたいと思います。

纒向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期(3~4世紀)にかけて栄えたと考えられている集落遺跡です。3世紀といえば卑弥呼の時代にあたります。卑弥呼や邪馬台国が登場する中国の史書である「魏志倭人伝」には、西暦239年に魏の皇帝が卑弥呼に対して「親魏倭王」の称号とともに金印を授与したことが記されています。まさにその時代に繁栄していたのがこの纒向遺跡なのです。

神殿ではないかと言われている大型建物跡、祭祀に用いたと思われる2千個もの桃の種、同じく祭祀用と思われる導水施設、日本各地から搬入された土器、護岸工事が施された水路などが発掘される一方で、人が住んだ住居跡がほとんど出ていないため、政治や祭祀を執り行うことを目的に建設された政治都市であると言われています。また、初期の前方後円墳である箸墓(はしはか)や、その前方後円墳の原型と言われている纒向型前方後円墳やホタテ貝型古墳がいくつも存在することから、大きな政治勢力がこの地にあったことは間違いないのです。これらの状況に加えて魏志倭人伝や記紀の記述を私なりに読み解いた結果として、私はここが邪馬台国であったと考えるのが最も蓋然性が高いと思うに至りました。


(左側が北です)

さて、話はちょうど4年前の2013年6月16日にさかのぼります。朝9時、宮崎ツアーの企画メンバー3人は近鉄大阪線の桜井駅で落ち合い、レンタサイクルを借りて「桜井駅→三輪山登拝→桜井市立埋蔵文化物センター→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳→桜井駅」という行程で巡りました。

この実地踏査においても私なりに得ることがたくさんあったのですが、何よりも桜井駅に降り立ったときに閃いたことが最大の収穫でした。

日本書紀によると、初代天皇である神武天皇から第9代の開化天皇までの神武王朝における皇居および陵墓のほとんどが、この桜井駅よりも南の磐余(いわれ)や葛城の地にある一方で、第10代の崇神天皇から3人の天皇の宮は北側の纒向近辺に営まれ、崇神天皇と第12代景行天皇はその陵墓も同じく纒向にあるのです。私は約半年ほどの思考の結果、第9代までの神武王朝と第10代以降の崇神王朝はつながっていない別々の王朝であると考えるようになっていました。そして閃いたのです。つい今しがた乗ってきた近鉄大阪線はこの二つの王朝を分断する国境線ではないか!

神武天皇は九州において倭国との戦いに勝利したあと、大和を目指して東征し、そして奈良盆地の南部の葛城・磐余に進出して勢力基盤を築いた。一方で崇神天皇は纒向を拠点に大きな勢力をもち、魏志倭人伝に記される邪馬台国として連合国家である倭国を統治していた。狗奴国王の神武は倭国の本丸である邪馬台国に乗り込んできたのだ。そして近鉄大阪線を挟んで両国が対峙することとなった。



私の頭の中でこの図式ができあがった瞬間でした。次回はこの纒向実地踏査でのエピソードを紹介しましょう。(第5回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(3)

2020年08月27日 | 古代史構想学
■古代史熱に火をつけた宮崎旅行

今回は古代史にはまる直接のきっかけとなった仲間との宮崎旅行を紹介したいと思います。このツアーのテーマは前回でも書いた通り「神話の里を訪ねる旅」でした。1泊2日のツアーは「熊本空港→阿蘇大観峰→天岩戸神社→高千穂峡→高千穂神社→ホテル高千穂(泊)→クルスの海→大御神社→西都原古墳群→宮崎空港」という行程だったと記憶しています。

このツアーは、自分の脚で現地へ赴き、自分の五感で感じ、自分の頭で考える、いわゆる実地踏査の重要性を認識した貴重な体験となりました。結果的にこのツアーで感じて考えた多くのことが自分の仮説を補強することになりました。例をあげてみます。

熊本から阿蘇を抜けて高千穂へ入るルートを辿ったことで、高千穂の地が阿蘇山と眼と鼻の先であることが確認できました。その後の勉強で、阿蘇の北側に弥生時代に大規模な戦闘があったことを想定させる数多くの遺跡が存在することを知り、魏志倭人伝に記される女王卑弥呼が統治する倭国と南九州の狗奴国による戦闘の痕跡ではないかとの考えを持つに至って、高千穂は狗奴国が大本営を置いた場所である、と考えるようになりました。また、地図で見ると山間の狭い土地だと思っていた高千穂は意外にも水田の広がる豊かな土地でした。南九州から北進してきた狗奴国が拠点を設けるには十分な場所です。



パワースポットでも有名な高千穂では、天岩戸神社の奥にある天安河原を流れる小川からパワーを受けて、ここに神々が集まったという話を創作した古代人の感性に感心しました。一方で、高千穂は神話のテーマパークだと言った同行メンバーの言にも頷かされたり。神話が先か、出来事が先か。これは古代史を解き明かすときの重要なポイントなのです。



高千穂神社では、神武天皇が馬に乗って東征に出発しようとする姿が眼に浮かび、狗奴国の王が神武天皇であり、狗奴国は倭国に勝利した結果として次に東を目指したのだ、と考えるようになりました。そして後日に地図を見て、高千穂から日向灘に流れる川の名(五ヶ瀬川)が神武の兄の名前(五瀬命)と同じであることに気がつきました。



ホテル高千穂で夕食をとった後に高千穂神社に戻って観た夜神楽は、この地で代々に渡って脈々と神様の話が受け継がれてきたことを強く感じました。今では、これは創り話としての神話を体現するためのものではなく、この地で起こった何らかの史実が神話に取り込まれたことを自慢する、あるいは祝うためのものではないかとすら考えるようになりました。それにしても、そこそこ広い会場が老若男女でいっぱいだったのには驚きました。



翌朝は4時に起きて前夜に予約しておいたタクシーで国見ヶ丘へ行き、祈る気持ちで待った甲斐あって、朝焼けに輝く雲海を眼下に拝むことができました。この時の感動は忘れられないなぁ。神様はいるんだ、とまでは思わなかったけど。


通常、雲海が見れるのは9月~11月。7月に見れたのは奇跡とタクシーの運転手の方も驚いていました。

最後に訪ねた日本最大級の古墳群である西都原古墳群、ここでは古墳の数に圧倒されました。弥生時代から古墳時代にかけて、この日向の地に当時の日本最大と言ってもいい一大勢力が存在した事実を認めない訳には行かず、南九州を支配した集団、すなわち狗奴国の王族の墓域であると確信を持ちました。西都原考古博物館の展示も見事でした。



こんな感じで現地で感じたことや考えたことを取り込みながら自分の仮説が形成されていったことで、古代の日本(いわゆる大和政権)が成立したプロセスを解き明かしたい、という思いが強くなっていきました。そういう意味でこの宮崎旅行は、準備段階で徐々に充填されていった古代史エネルギーに点火された瞬間だったと言えます。

実はこの宮崎旅行の直前、ツアー企画メンバー3人で大和の纒向遺跡を訪ねました。次回はそのお話を。(第4回につづく)


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男50歳からの古代史構想学(2)

2020年08月26日 | 古代史構想学
■邪馬台国の研究は推理小説から

前回の記事では私が古代史や考古学の道に進むことを諦めた経緯を書いたのですが、実は大学を経て社会人になってからもその方面への興味が失せることはなく、関連する本を読み続けてきました。謎解きが好きな私が若い頃によく読んだのが邪馬台国や卑弥呼を題材にした推理小説です。先日、大阪の実家に帰った時に本棚を探してみるとこんなにありました。

「邪馬台国殺人考」 長尾誠夫
「『邪馬台国の謎』殺人事件」 木谷恭介
「『邪馬台国の謎』殺人事件」 深谷忠記
「邪馬台国の殺人」 中津文彦
「『マ』の邪馬台国殺紀行」 荒巻義雄
「卑弥呼殺人事件」 阿井渉介
「卑弥呼塚殺人事件」 島田一男
「邪馬台国はどこですか?」 鯨統一郎
「卑弥呼伝説地に降りた神々」 井沢元彦
「邪馬台国殺人旅情」 斎藤栄
「卑弥呼の殺人」 篠田秀幸
「『古代四国王朝の謎』殺人事件」 吉岡道夫
「幻の騎馬王朝」 邦光史郎
「箸墓幻想」 内田康夫
「陸行水行」 松本清張
「邪馬台」 北森鴻・浅野里沙子

邪馬台国や卑弥呼は作家にとっても謎解きの興味をそそられるネタなのでしょう。井沢元彦氏、松本清張氏は専門家顔負けの古代史研究家と言って間違いないと思います。
読者の皆さん、もしも今から邪馬台国や卑弥呼を勉強してみようという方がおられたら、専門的なことはさておき、こういうところから入るのもアリではないでしょうか。

実家にはこれらの他にもたくさん(数十冊くらい?)の本がありました。ただ、これだけの数を読んだにもかかわらず、当時はまだ自分の仮説もなくただただ興味にまかせて読んでいただけなので、内容については一片の記憶も残っていません。だから時間がある時にもう一度読み直してみようと思っています。

私は2013年の年明け頃から少し真面目に古代史への取り組みを始めました。その年の夏、とあるコミュニティで旅行に行くことになり、その企画を二人の仲間と一緒に考え始めたのがきっかけです。二人とはいわゆる飲み仲間で、古代史を話題に飲むこともよくあって、そんなことから旅行の企画が始まりました。旅の行き先は宮崎、コンセプトは神話の里を訪ねる旅。企画を練り上げる中で、旅行までに魏志倭人伝を暗記しておくこと、邪馬台国について自分の考えをまとめておくこと、という課題が決まったのです。これが1月頃のことで、少なくとも二人よりも詳しいと自負する私は旅行までのおよそ半年、かなりの時間を魏志倭人伝や邪馬台国に費やすことになりました。このとき、30年以上に渡って封印してきた古代史への想いが心の底から溢れ出てくるのを感じました。

実はこれとほぼ同じタイミングで異動の内示を受けていたのですが、これが会社にとって最も重要と言っても過言でない組織への異動内示でした。本来であればその方面の勉強を始めるべきところでしたが、一度騒ぎ出した血は収まるはずもなく、仕事の勉強はついつい後回しに。

そしてこのときに自分の考えを「邪馬台国畿内説を論証する」と題するレポート(A4で11枚)にまとめました。そうです、私は邪馬台国畿内説を採っております(が、その邪馬台国がそのままその後の大和政権になったとは考えておりません)。このコラムを書く機会にあらためて読んでみたのですが、このときに書いたことが今でも自分の仮説の骨子になっていることが再確認できました。そのときに参考にした主な書籍を以下に紹介しておきます。

「天皇家のふるさと日向をゆく」 梅原猛
「出雲神話の誕生」 鳥越憲三郎
「古代史9つの謎を掘り起こす」 関裕二
「『日本神話』の謎と真実」 三浦竜
「日本古代史を科学する」 中田力
「『出雲』からたどる古代日本の謎」 瀧音能之
「古事記と日本の神々」 吉田敦彦
「出雲と大和 古代国家の原像をたずねて」 村井康彦
「蘇我氏の正体」 関裕二
「邪馬台国は甦る!」 木谷恭介
「吉備の古代史」 門脇禎二
「古代天皇はなぜ殺されたのか」 八木荘司
「『古代日本』誕生の謎」 武光誠
「王権誕生」 寺澤薫
「邪馬台国をとらえなおす」 大塚初重
「邪馬台国の候補地 纏向遺跡」 石野博信
「歴史群像 特別編集『最新 邪馬台国論』」 学研社
「歴史法廷 特集『邪馬台国はここにある』」 世界文化社

難しい専門書の類はひとつとしてなく、どれも文庫、新書、雑誌です。素人は素人らしく背伸びをしないこと。

今回は本の紹介のようになってしまいましたが、次回は宮崎旅行を紹介したいと思います。(第3回へつづく)


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男50歳からの古代史構想学(1)

2020年08月25日 | 古代史構想学
3年ほど前、とあるサイトに「男50歳からの古代史構想学」と題したコラムを寄稿しました。本日、ちょっとしたきっかけがあって久しぶりに読み返したところ、古代史を学び始めた頃のワクワクした気持ちやウキウキした気分が甦ってきました。初心に戻って古代史を楽しんで学ぶことを再確認する意味で当ブログにて再掲したいと思います。当時は勘違いしていたことがあったり、現場の状況が変わっていたり、そのほかの点も含めて少し手を加えて訂正した内容とします。全部で15回のシリーズです。


■おやじバンドを諦め、古代史に夢を

これから「男50歳からの古代史構想学」と題して、50代も半ばを過ぎてから古代史の研究にのめり込むことになった背景やその実態を綴って参ります。サラリーマン人生の終末期を前にして未だ第2の人生の過ごし方を決め切れずに右往左往する姿を、古代史謎解きとともに楽しんでいただければ幸いです。

さて、世の中では数年前から「おやじバンド」が流行っています。会社の先輩にもはまっている人がいて羨ましいと思ってみています。中学2年になった頃にいとこからクラシックギターを譲ってもらい、フォークソング、ビートルズ、ベンチャーズなんかを我流で弾いていました。文化祭では上級生が体育館でコンサートをやっていて、来年は自分もやりたいと思って仲間とバンドを組みました。翌年、体育館が建て替えのために使用できなくなるというアクシデントにもめげず、先生に相談して校庭での開催にこぎつけ、本番では友達から借りたエレキギターでベンチャーズとビートルズを何曲か演奏し、締めはチューリップの「心の旅」だったと記憶してます。

文化祭が終わると3年生は受験にまっしぐら。バンドは解散し、ギターを手にする機会は激減しました。そして高校入学後はもう一度ギターをやりたいという気持ちを押し殺して勉学に励み、結局そのままやめてしまいました。だからおやじバンドが羨ましいのです。だったらやればいいじゃないか、という声が聞こえてきそうだけど、自分の腕前ではムリなのはよくわかっているのです。

おっと、古代史の話を書くつもりがいきなり違う話を長々と書いてしまいました。そんなことでギターをあきらめた私ですが、実はもう一つあきらめたことがあるのです。それが古代史への想いです。小学校6年生のときの作文に「考古学者になりたい」と書いたくらいなので、こっちのほうが本気度が高かったかもしれません。小学6年の社会の勉強で邪馬台国や卑弥呼を習ったときに、なんともいえない興味を覚えたのです。子供の頃から謎解きが好きだったので同じような感覚になったのでしょうか。それ以来、歴史の勉強が大好きになりました。

高校でギターをあきらめてまで勉強に精を出した私ですが、考古学者や歴史学者になりたいという気持ちは細々ながら持ち続けていました。当時のいわゆる共通一次試験(今でいうセンター試験)の社会の科目選択では最も点数が取りにくい組み合わせと言われていた「日本史」と「世界史」で受験することを早々に決めて受験勉強に励みました。そして、いよいよ受験する学部を決めるときになって少し考えました。古代史や考古学をやるなら文学部。しかし、ここで子供の頃から親に刷り込まれてきた「いい大学に入って、いい会社に就職する」という価値観に負けてしまったのです。受験した学部は経済学部や法学部。結局、ここでも自分の夢をあきらめてしまったのです。

いい大学に入って、そこそこいい会社に入った私のサラリーマン人生は概ね満足のいくものでした。だから、あのときの選択が間違っていたとは全く思わないのですが、そのサラリーマン人生もいよいよゴールが見えてきました。おやじバンドは無理だけど、古代史なら今からでも楽しめる。自分の考えを本にして世の中に送り出すこともできる。それって凄くない?

そんなことで4年ほど前(2013年頃)から取組みを始め、一昨年(2015年)の秋頃からいよいよ本格的になってきた古代史研究。仕事そっちのけで没頭することもしばしば。昨年(2016年)の夏から自分のブログ(当ブログ)での発信も始めました。第2の人生の入り口に立って、少しばかりワクワクしながら好きなことに取り組む様子をお伝えできればと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。(第2回につづく)

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あれから7年が経ちますが、3年前に自費出版しました。
続いて今年の5月に2冊目も。
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北海道車中泊ツアー計画中

2020年08月09日 | 旅行・車中泊
今年の10月で人生の節目である還暦をむかえます。その節目のタイミングに様々な事情が重なったこともあり、9月から10月にかけて夫婦でのハワイ旅行を計画していました。日程を決めてホテルや飛行機の予約を済ませたのが今年の2月でした。そのすぐあと、コロナの状況が思わしくない方向に展開していき、4月の緊急事態宣言、その後に解除されたものの、現在の感染拡大の状況です。やむを得ず、旅行はキャンセルすることにしました。

ちなみに、最新のハワイの状況はこちらに詳しく記載されていますが、一時期、ハワイ入国にあたっての14日間隔離政策の緩和が決定され、わずかな期待があったものの、その後も感染拡大がおさまらずにその緩和政策の実施が延期され、ついにはJALもANAも9月末までの運休を決定し、これで9月出発のハワイへの旅行が物理的に不可能になりました。本音でいえばこれでキャンセルの踏ん切りがついたということです。

さて、ハワイキャンセルで空いた日程をどう使うか。バカンスを仕事に置き換えるつもるは毛頭ありません。心の中でハワイは無理だなと思い始めたときに考えていたことを実行に移すことにしました。それは、本来であれば来年以降の実施を考えていた北海道一周の車中泊ツアーです。ただし、最低でも2週間と思っていた北海道一周ですが、今回は10日間の短縮ルートで、内陸部をあきらめてひたすら海岸沿いを走るプランを考え中です。少し紹介したいと思います。北海道車中泊を経験の方はたくさんいらっしゃると思います。私の計画に無理がありそうと感じる方、あるいはルート上でお勧めのスポットをご存じの方がおられたら、是非ともアドバイスを頂戴したいと思います。

大阪を出発して北海道に渡る手段は、舞鶴・敦賀・新潟から小樽までの新日本海フェリー、茨城県の大洗から苫小牧までの商船三井フェリー、青森・大間から函館までの津軽海峡フェリーの3つです。当初はワンコと泊まれる部屋のある新潟発の新日本海フェリーを考えていたのですが、大阪から新潟まで走るならいっそのこと青森まで、と思い直しました。青森からの津軽海峡フェリーは2~3時間ごとに出ているので、時間の融通が利くというのもあります。

●1日目
 午前に大阪の自宅を出てひたすら青森を目指します。青森につくのがその日の夜なので深夜便に乗るつもりです。

●2日目
 早朝に函館に上陸。函館市内を観光したあと西へ向かい、渡島半島をぐるりと回ってできればニセコまで行っておきたい。

●3日目
 積丹半島を一周して小樽、石狩を通過して留萌を目指します。できるだけ北へ行っておきたいと思います。

●4日目
 稚内から宗谷岬を経て、オホーツク海沿岸に入ってクッチャロ湖畔を目指します。

●5日目
 紋別からサロマ湖を経て網走を目指します。余裕があれば内陸に入って阿寒湖まで行ければと思いますが無理かな。

●6日目
 摩周湖から屈斜路湖、そして知床半島へ。この日を知床半島の西で終わるか、東へ行けるか。

●7日目
 根室から納沙布岬へ。日本最東端での朝陽を拝みたい。

●8日目
 釧路湿原へ寄ったあとはひたすら走って襟裳岬あたりまで行きたいと思います。

●9日目
 苫小牧から登別温泉、そして室蘭の地球岬を経て洞爺湖を目指します。

●10日目
 内浦湾を回り込んで函館へ到着。そのままフェリーで青森へ渡り、体力と睡魔と相談しながら東京の単身宅を目指します。

ツアーはいったんここで終了となります。月曜からの東京での勤務を経て、次の週末にゆっくりと大阪に戻ることにします。かなりハードなスケジュールですが、せっかく北海道をめぐるのだから決して先を急がないよう、絶景、グルメ、温泉を楽しみたいと思っています。予定は10日間ですが、2日間くらいの余裕をみて、仕事を休めるようにスケジュールを明けておこうと思います。さて、このプランはいかがでしょうか。










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