しばらく記事を書いていなかったので、いろいろと確認中や考え中のことを備忘録としてあげておきます。いま何を考えているかというと、魏志倭人伝のことです。今さら、というくらいに基本的なところです。
倭人伝の冒頭に「倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国」とあります。「旧百余国」の「旧」はいつのことでしょうか。これは1世紀頃に書かれた漢書地理志にある「楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」から引用していると思われるので、前漢時代のBC1世紀頃のことで、「漢時有朝見者」は「以歳時来献見云」のことを指しているのでしょう。
次に倭人伝の中ほどに「其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」という文章があります。ここに出てくる「其国」はどこを指すのでしょうか。其国にはもともと男子の王がいたとあり、これは後漢書にある「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」に登場する倭国王の帥升とするのが通説です。したがって「其国」はこの後漢書にある「倭国」を指すと考えられます。帥升王が統治していた国々をまとめて「倭国」と呼んだのでしょう。逆に言えば、帥升王が統治していなかった国々もあったはずで、それらは倭国に含まれていません。ちなみに、安帝永初元年は西暦107年です。でも、後漢書の成立は魏志倭人伝よりもあとのことで、陳寿は倭国王帥升の情報をどこから得たのでしょうか。
そして、その帥升王から7~80年を経て倭国に乱が発生します。後漢書には「桓霊間 倭国大乱 更相攻伐」とあり、桓帝と霊帝の間(146年~189年)に倭国大乱が起こったことになっています。帥升が後漢に朝見したのが107年で、そこから7~80年後は180年代になるので、辻褄はあっています。
その倭国大乱が歴年(数年?)続いたあとに卑弥呼が共立されたので、彼女が女王になったのは190年頃ということになります。中国はまだ後漢の時代ですね。そして220年に魏が成立し、238年に遼東地域を支配していた公孫氏が滅んで、魏への通行が容易になった翌年(景初3年)に卑弥呼を共立した連合国は魏に遣使します。これが冒頭の「今使訳所通三十国」を指すのでしょう。つまり、卑弥呼が統治していた連合国が30カ国あったということです。
さて、この倭国大乱の「倭国」は卑弥呼を共立した国々、つまり卑弥呼が統治していた30カ国を指すのか、それとも共立に参加しなかった国も含めるのか。倭国大乱に参戦した全部の国がまとまって卑弥呼を共立したかどうかはわかりません。卑弥呼と不仲であった狗奴国のような国も倭国大乱に参戦したとも考えられるので、卑弥呼を共立した国々と反卑弥呼の国々があったと考えるのが自然ですが、どうでしょうか。倭人伝には次の通り、ほかに「倭国」が2カ所に出てきます。
①王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使
倭国皆臨津捜露
②太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣
倭国拝仮倭王
①は「王が使いを京都や帯方郡、諸韓国に遣わし、及び帯方郡使が倭国に来た時、みな津で臨検する」という意味で、この津は伊都国の港を指すのでここでの「倭国」は卑弥呼が統治した連合国を指します。
②は「帯方郡から派遣された梯儁が詔書や印綬をもって倭国へ赴いて倭王に授けた」という意味で、倭王が卑弥呼なので「倭国」はここでも卑弥呼が統治した連合国を指します。
そうすると「倭国乱相攻伐歴年」の「倭国」も卑弥呼が統治した連合国、すなわち卑弥呼共立に参加した30カ国のことなのだろうか。
倭人伝には「倭国」のほかに「倭」「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」「倭王」「倭女王」などの単語が登場します。「倭王」や「倭女王」明らかに卑弥呼を指していると考えられるので、この場合の「倭」は卑弥呼を共立した国々という意味に限定した使い方になります。「倭」が単独で使われている場合も同様です。つまり「倭=卑弥呼が統治した連合国」です。一方、「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」などは当時の魏が認識していた日本国全体を表しているように思えます。
ところで、倭人伝を読んでいると「邪馬台国」というのは1カ所にしか登場しません。それに対して「女王国」は5カ所、「女王」が8カ所に登場します。このことについて少し考えておきたいと思います。邪馬台国は「女王之所都」とあるので、卑弥呼の宮があった国です。
「女王国」は以下の5カ所です。
①世有王皆統属
女王国郡使往来常所駐
②自
女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳
③自郡至
女王国万二千余里
④自
女王国以北特置一大率検察
⑤
女王国東渡海千余里復有国
どれも「邪馬台国」に置き換えて問題なさそうですが、あえて言えば⑤については邪馬台国そのものよりも「卑弥呼が統治していた連合国」として広い範囲で捉える方がいいかもしれません。
それよりもここで気になったのは①の文です。この前の部分も合わせると「東南陸行 五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」となります。これは伊都国に関する記述として「伊都国には代々に王がいて皆が女王国に属していた」と解されていますが、「世有王」なのに「代々」と解することに違和感を覚えますが、これは次の「皆」という単語で複数の王がいたことを表しているので「代々」と解さざるを得ない、ということです。
しかし、卑弥呼が共立されたのが190年頃で、魏が滅亡したのが265年なので、この70~80年の間に交代した王は多くみても3人程度でしょう。それを「代々」と解することもどうかと思い、調べてみると
こんな説がありました。
伊都国に関する記述は「有千余戸」で切れて、次の「世有王」からは新しい文となり、この「世」は世の中と解する。そうすると「世の中には王がいて、皆が女王国に属していた」と読むことができる。つまり、伊都国を含む30カ国のすべてに王がいて女王国に属していた、ということです。これはなるほど、と思ったものの、そのあとの記述が奴国、不弥国、投馬国と続くので、今度はこの文章をここに挟んだことに違和感を覚えてしまったのです。いったん棚上げです。
次に「女王」について考えます。「女王」は次の8カ所です・
①南至邪馬台国
女王之所都
②次有烏奴国次有奴国此
女王境界所尽
③其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属
女王
④皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣
女王不得差錯
⑤去
女王四千余里又有裸国黒歯国
⑥景初二年六月倭
女王遣大夫難升米等詣郡
⑦其年十二月詔書報倭
女王曰
⑧倭
女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和
①④⑥⑦⑧は「女王」を「卑弥呼」と読み替えても問題なさそうですが、②③⑤についてはどうも違うようです。⑤は「女王国」つまり「邪馬台国」と読み替えても意味が通じますが、この記述の前には先に見た「女王国東渡海千余里復有国」の一文が出てくるので、ここでも同様に邪馬台国そのものとするよりも「卑弥呼が統治していた連合国」と少し大きな範囲で捉えるのがいいと思います。とくにこちらは四千里も先の国のことを言っているのでその方が腹落ちします。
②は戸数も距離も詳しくわからないその他の傍国の名称を並べた最後の一文なので「邪馬台国の境界が尽きる所」ではなく「女王が統治する国々の境界が尽きる所」とするべきでしょう。③は「卑弥呼」でも意味が通りそうですが、狗奴国を説明している文と考えれば「狗奴国は女王が統治する国々に属さない」とする方がよい。
このように「女王」は「卑弥呼」あるいは「卑弥呼が統治する連合国」のふたつの意味があると考えられます。陳寿は同じ「女王」という単語を意志を持って使い分けているように感じました。
そして今回の最後に「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」をあげておきます。倭人伝の最後の部分に出てくる記述です。これをもって「邪馬台国と狗奴国が戦った」と解される場合が往々にしてありますが、邪馬台国と狗奴国が戦ったとはどこにも書いていません。「倭の女王である卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼はもともと和することがない。倭は載斯烏越等を派遣して帯方郡に至り、互いに攻撃し合う状況を説明した」ということなので、卑弥呼が統治する連合国と狗奴国が戦った、と解するのが妥当と思います。