古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

今年の最後に

2021年12月31日 | 雑感
10月3回、11月0回、12月1回。これが今年後半のブログ更新回数です。これまでも更新が滞ることはときどきあったけど、それはネタ仕込みができない場合が多かった。それに比べると今年の後半は、伊勢方面や能登半島への車中泊旅、その途中での数々の遺跡探訪、高野山や淡路への日帰り旅、などなど、結構たくさんのネタがあったにもかかわらず、ブログの記事にすることができませんでした。少し残念というか、もったいないことをしたなと思う一方で、時間が足りなかったので仕方がない、とも思っています。

実は今年の9月頃から新しい取り組みを始めました。それがこちら → 古代史を深く楽しみたい人のためのサイト「Meets

このサイトおよびサービスの立ち上げに注力していました。某古代史コミュニティを運営している方から声をかけていただいて、以前から自分でもやってみたいと思っていたことなので躊躇なく仲間入りしました。サービス内容の検討、コラム執筆、ツイッター企画、古代史旅のプランニング、ガイドブック作成など、気がつけばどっぷり浸かっていました。楽しいです。これまでやってきたことの全てがサービスのコンテンツになっていくのが何とも言えない快感です。

そんなわけでブログの更新が滞っておりましたが、来年は引き続き「Meets」に注力しながらも、古代史の学びを充実させて、もう少し多頻度にブログ記事としてアウトプットしていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。もちろん「Meets」のほうもよろしくお願いいたします。

今年一年、当ブログを読んでいただいた皆さん、どうもありがとうございました。



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無観客オリンピック

2021年07月09日 | 雑感
1都3県の会場でのオリンピック競技が無観客で行われることが決まった。ようやく結論が出た。実はチケットをもっていた(正確には当選していた)私はこの数カ月間の議論を複雑な思い、いや、腹立たしい思いで眺めていた。開催するのか、延期あるいは中止になるのか、という話があって、その後、なし崩し的に開催が決まり、観客を入れるのか入れないのか、入れるとすれば上限は何人か、会場によっては再抽選の必要が出てきて、その発表も延期になって。その間にも、聖火リレーが始まって、各種目の組合せが決まり、外国の選手団の入国が始まり、その中から陽性者が出て、そしていつの間にやら東京を中心に陽性者数が一気に増えてきて。

アスリートファーストが叫ばれるものの、私はその言葉すら素直に腹落ちしなかった。この5年間をオリンピックのためだけに費やしてきたアスリートのために開催してあげたい、開催すべきだ、というのが詭弁に聞こえて仕方がなかった。誰が何と言おうと、世界最大の商業イベントに巣食う利権のため、オリンピック開催という成果を自分のものにしたい政治家のため、にしか聞こえなかった。だから、仮にオリンピックが開催されても、有観客になっても、チケットを払い戻そうと決めていた。こんな茶番に付き合うのはまっぴら御免と観戦辞退で無言の抵抗をしようと思っていた。

それがだ、持っているチケットの価値を知った時に、情けないことにその決心が揺らいでしまった。私のチケットは7月27日の女子バレーボール予選、7月28日のカヌー予選とサッカー予選、各2枚づつの計6枚。バレーとカヌーは簡単にあきらめることができたのだけど、28日のサッカー予選の組み合わせはなんと、横浜国際競技場で開催される日本vsフランスの試合。これは見たい、見逃すわけにはいかない、と思ってしまった。抵抗したい強い気持ちと観戦したいという少し強い気持ちがぶつかり合った。すぐに結論は出せなかったけど、再抽選で外れてほしい、という気持ちが次第に強くなっていった。

そして昨日の無観客決定。正直なところ、ホッとした。でも、実はその裏でもうひとつ、複雑な思いで眺めていたことがあった。東京都が発表する毎日のコロナ陽性者数だ。陽性者が増えていくのは何とも残念なことだし、その中で亡くなる方もおられるのだ。いつまでも生活や仕事に大きな支障をきたしたくないし、早く終息してほしいという気持ちがあるに決まってる。でも一方で、陽性者数が増えれば無観客になる可能性が高くなる、とも思っていた。とくにこの1週間はその思いが勝っていた。そしてその通りになった。そんな私はいま、少し自己嫌悪に陥っている。
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訪問者1000人!

2021年06月25日 | 雑感
このブログは主に古代史に関することや車中泊など旅に関することを発信する場として利用していますが、私はこれとは別に「古代史構想学のすすめ」というホームページを持っています。こちらは私の古代史に関する活動の履歴を備忘録として残しているもので、3年ほど前から公開しています。ただ、公開していると言っても面白いことや興味がそそられるようなことが書かれているわけでもなく、ましてや宣伝などもしていないので、第三者の目に触れる機会もなく、したがってほとんどアクセスがありません。そんなホームページではありますが、3年間の累計で訪問者数がのべ1,000人に達してしまいました。




たまたまスマホで確認したタイミングで「1,000」という数字が目に留まったので、記念のためにスクショを撮ってこのブログに残しておこうと思った次第です。はい、自己満足でした。


↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。



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今さらの魏志倭人伝

2020年12月22日 | 雑感
しばらく記事を書いていなかったので、いろいろと確認中や考え中のことを備忘録としてあげておきます。いま何を考えているかというと、魏志倭人伝のことです。今さら、というくらいに基本的なところです。

倭人伝の冒頭に「倭人在帯方東南大海之中 依山島為国邑 旧百余国 漢時有朝見者 今使訳所通三十国」とあります。「旧百余国」の「旧」はいつのことでしょうか。これは1世紀頃に書かれた漢書地理志にある「楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云」から引用していると思われるので、前漢時代のBC1世紀頃のことで、「漢時有朝見者」は「以歳時来献見云」のことを指しているのでしょう。

次に倭人伝の中ほどに「其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼」という文章があります。ここに出てくる「其国」はどこを指すのでしょうか。其国にはもともと男子の王がいたとあり、これは後漢書にある「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人 願請見」に登場する倭国王の帥升とするのが通説です。したがって「其国」はこの後漢書にある「倭国」を指すと考えられます。帥升王が統治していた国々をまとめて「倭国」と呼んだのでしょう。逆に言えば、帥升王が統治していなかった国々もあったはずで、それらは倭国に含まれていません。ちなみに、安帝永初元年は西暦107年です。でも、後漢書の成立は魏志倭人伝よりもあとのことで、陳寿は倭国王帥升の情報をどこから得たのでしょうか。

そして、その帥升王から7~80年を経て倭国に乱が発生します。後漢書には「桓霊間 倭国大乱 更相攻伐」とあり、桓帝と霊帝の間(146年~189年)に倭国大乱が起こったことになっています。帥升が後漢に朝見したのが107年で、そこから7~80年後は180年代になるので、辻褄はあっています。

その倭国大乱が歴年(数年?)続いたあとに卑弥呼が共立されたので、彼女が女王になったのは190年頃ということになります。中国はまだ後漢の時代ですね。そして220年に魏が成立し、238年に遼東地域を支配していた公孫氏が滅んで、魏への通行が容易になった翌年(景初3年)に卑弥呼を共立した連合国は魏に遣使します。これが冒頭の「今使訳所通三十国」を指すのでしょう。つまり、卑弥呼が統治していた連合国が30カ国あったということです。

さて、この倭国大乱の「倭国」は卑弥呼を共立した国々、つまり卑弥呼が統治していた30カ国を指すのか、それとも共立に参加しなかった国も含めるのか。倭国大乱に参戦した全部の国がまとまって卑弥呼を共立したかどうかはわかりません。卑弥呼と不仲であった狗奴国のような国も倭国大乱に参戦したとも考えられるので、卑弥呼を共立した国々と反卑弥呼の国々があったと考えるのが自然ですが、どうでしょうか。倭人伝には次の通り、ほかに「倭国」が2カ所に出てきます。

①王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露
②太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国拝仮倭王

①は「王が使いを京都や帯方郡、諸韓国に遣わし、及び帯方郡使が倭国に来た時、みな津で臨検する」という意味で、この津は伊都国の港を指すのでここでの「倭国」は卑弥呼が統治した連合国を指します。
②は「帯方郡から派遣された梯儁が詔書や印綬をもって倭国へ赴いて倭王に授けた」という意味で、倭王が卑弥呼なので「倭国」はここでも卑弥呼が統治した連合国を指します。
そうすると「倭国乱相攻伐歴年」の「倭国」も卑弥呼が統治した連合国、すなわち卑弥呼共立に参加した30カ国のことなのだろうか。

倭人伝には「倭国」のほかに「倭」「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」「倭王」「倭女王」などの単語が登場します。「倭王」や「倭女王」明らかに卑弥呼を指していると考えられるので、この場合の「倭」は卑弥呼を共立した国々という意味に限定した使い方になります。「倭」が単独で使われている場合も同様です。つまり「倭=卑弥呼が統治した連合国」です。一方、「倭人」「倭水人」「倭種」「倭地」などは当時の魏が認識していた日本国全体を表しているように思えます。

ところで、倭人伝を読んでいると「邪馬台国」というのは1カ所にしか登場しません。それに対して「女王国」は5カ所、「女王」が8カ所に登場します。このことについて少し考えておきたいと思います。邪馬台国は「女王之所都」とあるので、卑弥呼の宮があった国です。

「女王国」は以下の5カ所です。

①世有王皆統属女王国郡使往来常所駐
②自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳
③自郡至女王国万二千余里
④自女王国以北特置一大率検察
女王国東渡海千余里復有国

どれも「邪馬台国」に置き換えて問題なさそうですが、あえて言えば⑤については邪馬台国そのものよりも「卑弥呼が統治していた連合国」として広い範囲で捉える方がいいかもしれません。

それよりもここで気になったのは①の文です。この前の部分も合わせると「東南陸行 五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐」となります。これは伊都国に関する記述として「伊都国には代々に王がいて皆が女王国に属していた」と解されていますが、「世有王」なのに「代々」と解することに違和感を覚えますが、これは次の「皆」という単語で複数の王がいたことを表しているので「代々」と解さざるを得ない、ということです。

しかし、卑弥呼が共立されたのが190年頃で、魏が滅亡したのが265年なので、この70~80年の間に交代した王は多くみても3人程度でしょう。それを「代々」と解することもどうかと思い、調べてみるとこんな説がありました。

伊都国に関する記述は「有千余戸」で切れて、次の「世有王」からは新しい文となり、この「世」は世の中と解する。そうすると「世の中には王がいて、皆が女王国に属していた」と読むことができる。つまり、伊都国を含む30カ国のすべてに王がいて女王国に属していた、ということです。これはなるほど、と思ったものの、そのあとの記述が奴国、不弥国、投馬国と続くので、今度はこの文章をここに挟んだことに違和感を覚えてしまったのです。いったん棚上げです。

次に「女王」について考えます。「女王」は次の8カ所です・

①南至邪馬台国女王之所都
②次有烏奴国次有奴国此女王境界所尽
③其南有狗奴国男子為王其官有狗古智卑狗不属女王
④皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差錯
⑤去女王四千余里又有裸国黒歯国
⑥景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡
⑦其年十二月詔書報倭女王
⑧倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和

①④⑥⑦⑧は「女王」を「卑弥呼」と読み替えても問題なさそうですが、②③⑤についてはどうも違うようです。⑤は「女王国」つまり「邪馬台国」と読み替えても意味が通じますが、この記述の前には先に見た「女王国東渡海千余里復有国」の一文が出てくるので、ここでも同様に邪馬台国そのものとするよりも「卑弥呼が統治していた連合国」と少し大きな範囲で捉えるのがいいと思います。とくにこちらは四千里も先の国のことを言っているのでその方が腹落ちします。

②は戸数も距離も詳しくわからないその他の傍国の名称を並べた最後の一文なので「邪馬台国の境界が尽きる所」ではなく「女王が統治する国々の境界が尽きる所」とするべきでしょう。③は「卑弥呼」でも意味が通りそうですが、狗奴国を説明している文と考えれば「狗奴国は女王が統治する国々に属さない」とする方がよい。

このように「女王」は「卑弥呼」あるいは「卑弥呼が統治する連合国」のふたつの意味があると考えられます。陳寿は同じ「女王」という単語を意志を持って使い分けているように感じました。

そして今回の最後に「倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状」をあげておきます。倭人伝の最後の部分に出てくる記述です。これをもって「邪馬台国と狗奴国が戦った」と解される場合が往々にしてありますが、邪馬台国と狗奴国が戦ったとはどこにも書いていません。「倭の女王である卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼はもともと和することがない。倭は載斯烏越等を派遣して帯方郡に至り、互いに攻撃し合う状況を説明した」ということなので、卑弥呼が統治する連合国と狗奴国が戦った、と解するのが妥当と思います。










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ブログ書籍化サービスで2作目を印刷

2020年05月20日 | 雑感
ゴールデンウィーク中に2作目の原稿を書き終えてアマゾンでの電子出版までこぎつけました。その後、やっぱり、手に取れる形あるものにしておきたいと思い、ブログ書籍化サービスを利用して自分用の印刷本の製作に取り組んでいました。

gooブログの書籍化サービスにも採用されているこのサービス、ブログをそのまま製本するというものなので、ルビがふれない、環境依存文字が出ない、半角文字が縦書きにできないなど、どうしようもない制約があるのですが、自分用で人に見せるものではないのでそこは我慢して、何よりもコストが安いこのサービスを使うことにしました。ゼロから原稿を入力することもできるので、電子出版用の原稿をコピーして、ルビがふれない代わりに漢字の後ろにカッコ書きでつけたり、環境依存文字はカタカナにするとか、半角文字を全角文字に書き換えたり、さらに見栄えを考慮した段落替えや改ページのために少し原稿を手直ししたり、そこそこ面倒な作業を続けて、本日ようやく完了して発注するに至りました。

ページ数は全部で220ページ、カラー印刷、ブックカバーつきの上製本で、料金は1冊あたり送料込で約1万円です。2冊の注文だったので2万円とちょっと。1冊が末代までの永久保存用で、もう1冊が名刺代わりの冥土の土産用です。実は前作は電子版だけでなく印刷本を何十冊か作ったのですが、同じ目的で2冊だけ手元に残しています。



納期は2週間ほどかかるようです。電子出版と違って印刷の場合はあとで間違いに気づいてもどうしようもなく、文字通り「後の祭り」。注文ボタンをクリックする前に何度もチェックしたものの、出来上がったものを見るのがこわいです。





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新元号「令和」への思い

2019年04月01日 | 雑感
 新元号が「令和」に決まりました。出典や意味を知る前の第一印象は、漢字から受けるイメージ・音の響きなど、どれも「ええやん、ええ感じ」というものでした。「明治」「大正」「昭和」のどれもが角ばったイメージの漢字で、伝統や格式といったちょっと堅苦しい印象がありました(私は昭和生まれなので「昭和」には愛着がありましたが)。それが次の「平成」になった途端にカドがとれて剛から柔に急に優しくなって、ちょっと締まりのない印象を受けたことを覚えています。こういった過去の経験も含めて今回の「令和」の印象は「昭和」でもない「平成」でもないちょうどいい感じ、と思ったのです。

 「令和」の英字表記は「Reiwa」となります。この「R」の響きも軽やかでいいですね。調べてみると「大化」から「平成」までこれまでに247個の元号が制定されていますが「R」で始まるのは3つしかないのです。ひとつは奈良時代の「霊亀(Reiki)」、ふたつめが鎌倉時代の「暦仁(Ryakunin)」、みっつめが南北朝時代に北朝が制定した「暦応(Ryakuou」です。話は少しそれますが、学生時代に車を運転するようになって自動車メーカーがつける車の名前に興味を持ったことがありました。そのときに、各社とも多くの車種にラ行のどれかの文字を入れるケースが多いことに気がつきました。カローラ、カリーナ、クラウン、セリカ、コロナ、センチュリー、カムリ、ランドクルーザー、スカイライン、ブルーバード、パルサー、セドリック、グロリア、フェアレディZ、プレジデント、レパード、ローレル、スタリオン、デリカ、シャリオ、ミラージュ、ランサー、パジェロ、ギャラン、コルト、レジェンド、プレリュード、、、各社がラ行を意識していたのか、それとも偶然なのかわかりませんが、この時代の車でラ行のついていない車名を挙げるほうが難しいと思います(サニーとかシティとか少しはありますが)。当時、私はこのラリルレロの音から軽快に颯爽と走る車をイメージしていました。「令和」の「令」の音にそのイメージが重なりました。

 「令和」の出典は万葉集だそうです。日本の文献を出典にしたのは初めてとのことで、これまでの慣例や伝統を破ったと批判的に捉える人もいるようですが、そもそも今の時代にあって中国の文献にこだわる必要は全くないですよね。日本が中国の統治体制や文化を取り入れて国家としての体を構築しようとしていた奈良時代や平安時代ならまだしも、あるいは漢字の歴史が浅い時代ならまだしも、日本は漢字を使うようになってすでに千数百年の歴史を持つのです。歴史書も含めて膨大な漢字文献の蓄積があるのです。これこそが伝統であると思います。

 その出典である万葉集の巻五「梅花の歌32首」の序にある「初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」ですが、岩波文庫「万葉集(二)」によると「しょしゅんのれいげつ、きうるはしくかぜやはらぐ。うめはきやうぜんのこにひらき、らんははいごのかをりにかをる」と読んで、その意味は「初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ。梅は鏡台の前の白粉(おしろい)のような色に花開き、蘭草は腰につける匂袋のあとにただよう香に薫っている」ということです。恥ずかしながら、この歳になって初めて「令」という字に「良い」とか「立派な」という意味があることを知りました。「命令」「法令」「号令」「発令」など、どれも上意下達のようなニュアンスで使うことばかりだったので少し意外でした。この「令」の字が元号で使われるのは初めてのことです。
 「和」は、やわらぐ、なごむ、穏やか、仲良くなる、混ざり合うなど、争うことなく良い関係になること、良い関係でいることを表していて、この「和」の字が使われるのは過去に19回ありました。いつの時代にあっても争いのない平和な時代が望まれたのでしょう。

 「令和」は、新しい時代を今よりもいい時代にしたい、平和な時代でありたい、という私達の願いを上手く言い表した良い言葉だと思います。様々なシーンで西暦表記が一般的になってきていますが、それはそれとして、日本の伝統として定着している元号が将来にわたって続いてほしいと願っております。




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環濠集落と高地性集落

2018年10月17日 | 雑感
 今年、何度も何度も日本列島を襲った大型台風や暴風雨による河川の氾濫などの大きな被害の状況をテレビやネットで見ていて、被害にあわれた方々に対するお見舞いの気持ちを抱くとともに、不謹慎と思いながらもある考えが頭に浮かんだ。

 大自然の猛威に対して、現代の治水技術、土木技術をもってしても防ぐことができない河川の氾濫。これが縄文時代や弥生時代といった古代だったらどういうことになるのだろうか。人間が生きていくためには水は欠かせない。そしてその水の主たる供給源は今も昔も河川である。したがって水の獲得だけを考えれば河川の近くに住むのが合理的である。しかし、毎年いくつもの台風が襲来する日本列島で、河川の氾濫を防ぐための堅牢な堤防やダムを築く技術のない古代においては、河川の近くに住むことは危険極まりないことであった。ひとたび大雨が降ると河川は氾濫し、周辺のものは全て流されてしまうことになる。だから、古代のムラはたいていの場合、台地や河岸段丘の上、あるいは平地であっても微高地と呼ばれる周囲よりも少し高くなったところに設けられている。生活のために必要となる水を汲んで高いところへ運搬する労力よりも、河川の氾濫による被害から身を守ることを優先したと考えられる。

 弥生時代になると村の周囲に濠や壕を巡らせた環濠あるいは環壕集落が出現する。稲作中心の社会になって各地で集団による定住生活が定着すると、耕作地に近い低地にムラが形成されるようになる。するとムラどうしが耕作地や水資源、あるいは収穫物をめぐって互いに争うようになり、それぞれのムラは自らを防御するためにムラの周囲に濠や壕を巡らせるようなった。(水を貯えたものが濠、そうでないものを壕と表現するが、ここではまとめて濠と表すこととする。)環濠集落と呼ばれるもので、有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡では濠に沿って逆茂木が備えられており、環濠集落そのものが防御施設であることは間違いないと考えられる。しかし一方で、奈良県の大和盆地中央にある多重環濠集落で有名な唐古・鍵遺跡では、その環濠が浅くて防御機能を果たしえないという。この遺跡の多重環濠は河川につながっていたことから、上下水道の機能、あるいは運河の機能を果たしたのではないかと考えられる。

 そして現代における河川の氾濫による水害の映像を見て思いついたことは、環濠集落は水害からムラを守るために築かれたのではないだろうか、ということだ。現代のゲリラ豪雨のような猛威には抵抗できないであろうが、近くを流れる河川から水が溢れ出てムラを襲った際に周囲に濠があれば被害を緩和することができる。特に低地に設けられた環濠集落は敵からの防御とともに水害対策の目的があったと考えることができないだろうか。

 この発想をさらに拡げてみた。いわゆる高地性集落は実は暴風雨や大水害がムラを襲ったときの避難場所ではなかっただろうか。もちろん、ムラが敵から攻撃されたときの避難場所でもあり戦闘のための施設という位置付けであることは言うまでもない。両者の考えは矛盾するものではなく、むしろ両立するものである。高地性集落は東海地方、北陸地方よりも東側には存在せず、その分布は東海・北陸以西の西日本に限定される。これは台風の進路にあたる地域と一致している。環濠集落についても関東地方や東北地方において存在が認められるものの、その多くが西日本に分布する状況は同様である。環濠集落に関する報告書などを読むと、時代を経る中で環濠が幾度かにわたって埋められたり掘られたりを繰り返すという記事を眼にすることがよくある。これは河川の氾濫による土砂で埋まった環濠を掘り返して再建するということを繰り返したということではないだろうか。

 以上は何ら検証のできていない素人の思いつきの発想なので悪しからず。


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古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
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アマゾンで電子出版しました

2018年09月29日 | 雑感
 日本書紀や古事記は神話の部分も含めて何らかの史実や伝承に基づいて書かれていると考える著者が、その記紀を中心とする日本の歴史資料をベースにして、魏志倭人伝など中国の歴史資料、さらには各地で発掘された遺跡とその遺構や遺物から得られた考古学の知見を組み合わせ、できるだけ合理的な解釈を試みることによって古代日本国、すなわち大和政権が成立するまでの過程を解き明かそうと挑戦した書である。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社



 本書は当ブログ「古代日本国成立の物語」の第一部を書籍化したものをそのままアマゾンKDPにて電子出版したものです。390円とお手頃価格に設定しましたので是非ご購入いただければと思います。印刷版をご希望の方は当画面の「メッセージ」にてご連絡いただけると個別に対応いたしますので、よろしくお願いします。
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「Japanリベラルアーツ入門~神話と芸能~」を受講して

2018年09月10日 | 雑感
 2018年9月5日、セカンドアカデミー(株)と丸善雄松堂(株)が主催する公開講座 「Japanリベラルアーツ入門~神話と芸能~」を受講してきました。講座開催の告知を知ったとき、「リベラルアーツ」と「神話」というふたつの言葉に惹かれてすぐに申し込みました。

 リベラルアーツは最近流行っている言葉で「教養」と訳されることが多いようですが、自己を様々な束縛から解放して生きるための力を身につける学問という理解をすればいいのではないでしょうか。私たち人類は科学技術の進展によって様々な利便性や快適性を手に入れる一方で、自然環境破壊、原発問題など新たな課題を生み出してきました。人類がこれらの現代的課題に立ち向かうためには、分野ごとに高度に専門化された知識や技術を集めただけでは最適な解決につながるとは限りません。部分最適を寄せ集めても全体最適にはならないということです。人文科学、自然科学、社会科学など多方面にわたる分野を横串にした知識や考え方が必要となります。まさに今、リベラルアーツが求められる理由がここにあると思います。
 私は今、 ビジネスマンとして企業で働きながら古代史の勉強に取り組んでいます。またそれと同時に、学芸員資格の取得を目指して通信制大学で学んでいます。私のような学びの取り組みを世の中の人は生涯学習と呼びます。そしてこの生涯学習の考え方はある側面においてリベラルアーツに通じるものがあると思うのです。学芸員資格のための必修科目である「生涯学習論」を学ぶ中でそれを強く感じたこともあって、今回の講座に興味を持ちました。

 そしてもうひとつの「神話」という言葉。古代史の勉強には古事記や日本書紀、いわゆる記紀を読むことが欠かせないのですが、これまで独学で勉強してきた私は実は記紀神話に関する専門家の話を聴いたことがありませんでした。この講座でその専門家の話を聴いてみたいという思いと、リベラルアーツをタイトルに据える講座で語られる古事記は単なる解釈論ではなくて何か面白そうな話が聴けそうだとも思いました。また、神話と神楽のつながりを連想したこともあって「芸能」という言葉にも少し興味が沸きました。

 さて、タイトルに神話と芸能とあるとおり、講座は2部構成になっていて前半が麗澤大学の岩澤先生の「古事記から読み解く日本人の思考法」、後半が清泉女子大学などで講師をされている武藤先生の「歌舞伎の表現-音を見る・動きを聴く-」という構成でした。

 第1部の岩澤先生のお話はユダヤ・キリスト教神話と古事記神話を比較することで、英語文化圏の人々と日本人の間に横たわる民族性の違いや思考法の違いを浮き彫りにして (日本人を単一民族と考えることの是非はともかくとして) 日本人とはどういう民族なのかを解き明かそうとするものでした。その解明プロセスが大変ロジカルでわかりやすく、まさに論理性や言語化を重視する英語文化圏アメリカで学ばれた先生ならではのわかりやすいお話でした。

 ユダヤ・キリスト神話の創世記において神は天地や人間、その他この世の全てを創造しました。翻って古事記神話の始まりをみると、「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時」と天地がどのようにできたのかは記されず、次いで「高天原に成りし神」として天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神がどこからともなく出現します。そしてこの三神を皮切りに次々と神様が生まれ、その神々が日本の国土や山川草木などこの世の様々なものを生み出していきます。しかし人間は神様の子孫として描かれています。
 このように両者を比べると、神話のスタート時点から大きな相違点を見出すことができます。創世記においては神はこの世のすべてのものから超越したものとして初めから存在し、その神が天地を皮切りに人間を含むこの世の全てを造り出しました。この明快な神話に比べて古事記では、天地がどのように出来上がったのかがわからず、神様もいつのまにかそこに存在しています。この曖昧さはまさに日本人特有だと思いました。先生によるとユダヤ・キリストの神様は「創造の神」で、古事記神話の神は「生成の神」であるといいます。なるほど、「造る」と「生む」の違いか。

 この話を聞いていて以前から考えていたことが頭に浮かびました。日本人は神社に行って神様を拝みます。日本にある神社の数は8万とも10万とも言われ、その多くは記紀神話に登場する神様や土地の守り神を祀っています。天照大神を祀る神明神社、素戔嗚尊を祀る八坂神社、住吉三神を祀る住吉神社、建御名方神を祀る諏訪神社などです。一方で全国の神社の約半分を占めるとも言われる八幡神社に祀られる神様は八幡さま、つまり応神天皇です。また天神さんと呼ばれる天満宮では菅原道真が祭神となっています。最近の神社では明治神宮は明治天皇を祀り、乃木神社では日露戦争で活躍(?)した乃木将軍が祀られます。現代人の感覚で言うと神様を祀る神社と人間を祀る神社があるように思いますが、後者も人間を祀っているわけではなく人間が神様になって祀られているということだと思います。そう考えると天照大神や素戔嗚尊も、もともとは人間であったと考えることができないでしょうか。記紀神話に登場する神様はもとは人間だった、つまり記紀神話とは人間の所業を神様の話に置き換えた物語であると言えないでしょうか。記紀神話を神様の話と決めつけてしまえば全てがウソ、創作された話ということになり、逆に人間の話と思えばそこに何らかの事実があったと考えることができます。

 記紀神話というのは、ときの為政者、権力者が自身の権力や地位を正当化するために自身の祖先が神様であったとする系譜、つまり自身は神様の子孫であることを謳うための系譜を作り出そうとしたことから生まれたのです。古事記、日本書紀の原典であったであろう帝紀・旧辞あるいは天皇記・国記、各地の風土記などは各地の豪族や中央の氏族を含む権力者側が作ったものです。
 一方のユダヤ・キリスト神話はどうなのでしょう。詳しくないので間違いかもしれませんが、ユダヤ教成立の経緯と合わせて考えると少なくとも権力者、支配者が生み出したものではなく、支配・被支配を否定する発想から人間を超越したところに神を存在させたと考えられます。権力者、支配層よりも上に神を存在させて、人間は平等であるとの思想のもとに神に祈る。この感覚は日本人である私にも理解できます。しかし日本人は権力者の祖先である神に対して手を合わせて祈ります。よくよく考えると不思議です。日本における権力者は民衆を苦しめる存在ではあったものの、必ずしも民衆の絶対的な敵ではなかったのかもしれません。受講の感想を書きながら発想が広がってしまいましたが、これについてはおいおい考えて行きたいと思います。

 さて、第2部の武藤先生の歌舞伎のお話。想像していた神楽などの芸能の話ではなくて、歌舞伎の楽しみ方のお話でした。私は生まれてこのかた、歌舞伎にわずかでも興味を持ったことが全くなかったので、この第2部への期待は古典芸能であるから少しは古代史に関連する話が聞けるかも知れないということだけでした。しかし、その淡い期待は裏切られ、古代史につながる話は全くありませんでした。その代わり、全く興味のなかった歌舞伎に初めて興味を持つことができました。
 武藤先生によると、歌舞伎の楽しみ方は黒御簾(くろみす)音楽に集約されている、話の筋や内容はどうでもよくて演技に合わせて演奏される黒御簾音楽を聴くことが歌舞伎を楽しむコツだというのです。実際に舞台の映像を見ながら、聴きながら教えてもらい、その意味がよくわかりました。「音を見る・動きを聞く」というタイトルの意味も理解できました。そして、歌舞伎を観てみたいと思うようになりました。単なる食わず嫌いであった自分に気付いたことは大きな収穫でした。

 今回の公開講座は講座ひとつあたり50分、質疑応答も入れて全部で2時間でした。どちらの講座ももう少し聴きたかったなあ。
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JAPAN リベラルアーツ入門 ~ 神話と芸能 ~

2018年08月09日 | 雑感
 来る9月5日(水)、「JAPAN リベラルアーツ入門 ~ 神話と芸能 ~ 」というセミナーに行こうと思います。「リベラルアーツ」という言葉、最近はいろいろなところで聞くようになってきましたが、恥ずかしながら私は最近知ったばかりなのです。

 どこまでも多様化、複雑化する現代的課題に立ち向かわなければならない私たちは、これまでのように深い専門知識、高い技能、長い経験を持っているだけでは対応しきれなくなってきているようです。人文科学、社会科学、自然科学、、、幅広い知識と経験が最適解を導き出すことに大いに役立つはずです。たしかに、ビジネスの世界では従来の経営論や戦略論の教科書に書かれているようなことが効かなくなってきていることを実感します。企業はバカ高いコンサルタントの言うことを鵜呑みにすることはなくなってきました。商品やサービスを生み出す側も、それを買う側もどちらも人間です。ビジネスはまさに人間の営みそのものと言えます。そう考えたときに、人間の感情や行動を本質的に理解しようとするのは自然な流れ。だからこそビジネスマンに哲学や歴史、文学、美術などの学びが求められるようになってきているのだと思います。これはビジネスに限ったことではなく、人生100年を生きていくうえでとても大切なことだと思えるようになってきました。

 博物館学芸員の資格取得を目指す中で「生涯学習論」と「博物館教育論」を学びました。これらを学んだ今だからこそ、リベラルアーツを理解できるようになった気がします。趣味で学んでいる古代史も単なる趣味ではなくて、これからの人生にとって役に立ちそうな気がしてきました。具体的に何が、とは言えませんが。

 リベラルアーツという言葉にも惹かれましたが、それよりも神話という単語に食いついてしまったような気もしますが、以下にあらためて紹介しておきます。


JAPAN リベラルアーツ入門 ~ 神話と芸能 ~
2018年9月5日(水)18:30~20:30 場所:DNPプラザ(市ヶ谷)


 
 
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国会図書館に登録されました

2018年06月26日 | 雑感
去る4月26日、国会図書館から昨年末に出版した「古代日本国成立の物語」を受領したとの連絡がありました。国立国会図書館オンラインで検索してみるとちゃんと登録されていました。



なんだか、うれしい。

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本を出版しました(邪馬台国vs狗奴国の真実)

2018年01月01日 | 雑感
新年、あけましておめでとうございます。

このブログを始めて1年と5ケ月、2回目の正月を迎えることになりました。読んでいただいている皆さま、本当にありがとうございます。毎日のアクセス数を見ていると、訪問いただいている方の数が1年前と比べて2倍くらいになっていて、書き続ける励みになっています。

ここのところ、北九州実地踏査ツアーのレポートを綴っていますが、実はこのツアーに一緒に行った古代史研究仲間の佐々木さんと岡田さんのご協力とご支援を得て、このたび、本を出版することができました。

本のタイトルはブログタイトルと同じ「古代日本国成立の物語」で、サブタイトルを「邪馬台国vs狗奴国の真実」としました。内容は当ブログの「古代日本国成立の物語(第一部)」に少し手を加えたもので、300ページの作品になりました。



この表紙に使用した写真は3月に佐々木さん、岡田さんとともに行った「古代出雲歴史博物館」で自ら撮影したものなのですが、古代出雲歴史博物館には「個人が撮影した写真を営利目的でなくとも出版物に使用する場合は当博物館の承諾が必要」という決まりがあり、担当の方と何度もやり取りをして承諾を得た結果、ようやく掲載することができました。


一昨年のお正月、それまで興味の赴くままに古代史を勉強していた私は「自分の考えを形にしたい」と考え「年内に本を出そう」という目標を立てました。年内という目標は果たせず、結果として2年かかってしまいましたが、ようやく形にすることができました。ご支援いただいた佐々木さん、岡田さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
また、車中泊ツアーの記事にも書いていますが、旅行やドライブに出かけた際に遺跡や古墳、神社に立ち寄ることがたびたびあります。それに嫌がらずにつきあってくれる奥さんにはいちばん感謝の意を表したいと思います。
実際に印刷が終わったのは12月下旬でしたが、発行日は2017年11月1日、30回目の結婚記念日を発行日としました。

当ブログは現在「古代日本国成立の物語」の第二部として記事を連載しています。もう少し書き進めたあたりで「続編」として2冊目に挑戦しようと思っています。今回は自分のために作った本なので印刷冊数はごくわずかにしましたが、次はもう少し思い切ってみようかな、とも。

それでは本年も発信を続けますので、ぜひとも読んでいただけますよう、よろしくお願いいたします。


※私の本に興味をお持ちいただいた方は himiko239ru@yahoo.co.jp までご連絡ください。
コメント (2)
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2016年最後の投稿

2016年12月31日 | 雑感
 今年も残すところ3時間ほどになりました。
 今年の年初、古代日本国成立に関する自分の考えを本にしようと目標を決め、自分の仮説を検証するために本を読み、情報を集めて、考えて、整理して、原稿を書いて、ということを毎日少しづつ続けてきました。また、休日や出張の空いた時間を利用して遺跡や古墳群、神社などを訪ね、自分で感じたことを仮説の補強に利用することにも努めました。結果、すでに書いてきた通り自分の考えを「古代日本国成立の物語(第一部)」としてまとめることができたのですが、書籍化については少し先送りすることにしました。というのも、原稿を書きながらも考えが途中で180度変わってしまうことが何度もあったため、いきなり書籍原稿として起こすのではなく、後戻りや変更もあり、という前提でブログで発信しながら仮説を固めていくのがいいと考えたからです。そして一年がかりで検証を積み重ねてきて、ほぼ固まったと思えるようになりました。
 このブログは開始以来4ケ月が経ちましたが、実は一日も欠かさずに発信を続けて本日の年末を迎えることになりました。明日から新しい年に入りますが、いよいよここまで書いてきた内容を書籍原稿として編集する作業に入るとともに、合わせて第二部の構想も考えていきます。したがって、しばらくの間、当ブログの発信は不定期になってしまうと思いますが、ときどきはのぞいていただければと思います。

それでは来年もよろしくお願いいたします。



↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。

古代日本国成立の物語 ~邪馬台国vs狗奴国の真実~
小嶋浩毅
日比谷出版社
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