古代吉備文化財センターの見学を終え、徒歩で数分のところにある中山茶臼山古墳に向かいました。古墳時代前期(4世紀)に築かれたと推定される全長105mの前方後円墳で「吉備津彦命」の墓に治定され、現在は宮内庁が管理しています。そのため例によって考古学的な調査は行われていないのですが、墓域から特殊器台形埴輪が採取されていることから古い時代の古墳であることがわかります。二段築成で、墳丘表面では葺石が検出されました。
拝所。
足元に柵があってこれより先に入れません。
少し離れて横から。
吉備の中山の山麓に鎮座する吉備津彦神社、吉備津神社の祭神が大吉備津彦命であったことを考えると、その中山の山頂に築かれた古墳にその祭神が葬られているとするのはおかしな話ではないですね。
ただ、吉備津彦が崇神天皇のときに実在した人物であるとすると時代はおそらく3世紀中頃から後半で、古墳が築造された4世紀と少し時代がずれています。ただし、出土した特殊器台形埴輪が弥生時代終末期のものとすれば3世紀後半という時代の重なりを想定することができます。まあ、どこまでいっても推測の域を出ませんが。
中山茶臼山古墳がある吉備の中山は古代より神体山であり、山中には当古墳以外にも磐座や小さな古墳が散在しています。吉備国の人々にとって欠かせない神聖な場所なのです。だから吉備国を備前・備中・備後に分国する時に、この中山の稜線を南北に沿うように備前と備中の境を定めました。備前国一之宮の吉備津彦神社と備中国一之宮の吉備津神社が、吉備の中山を挟んで北東麓と北西麓の近距離に鎮座するのもこの理由からです。さらに驚くのは、この国境が中山茶臼山古墳の真ん中を南北に通っているというのです。この土地を治めた王の墓を共有し、共に祀ろうという想いからでしょう。
拝所の前では吉備の中山をハイクしてきた10人ほどのグループが弁当を食べていました。陵墓を拝んで眺めようとしても場所を譲ろうとしてくれません。少し残念に思いました。
土器の色と思うのは私だけでしょうか。
これは新見市の西江遺跡から出たものです。特殊器台の中では比較的新しい向木見(むこうぎみ)型です。
千足古墳を出て次のこうもり塚古墳に向かう途中、県道270号線沿いにある「らーめん夢民」というお店でランチをとりました。シンプルな醤油ラーメンでおいしかったです。そして、こうもり塚古墳はもう目と鼻の先。
このあたりは「吉備路風土記の丘県立自然公園」と呼ばれ、先の造山古墳、これから行くこうもり塚古墳や作山古墳のほか、備中国分寺跡や備中国分尼寺跡など「吉備文化の発祥の地として日本の歴史を探る上でも大変興味深い重要なところ」とされています。実はこの日に訪ねる場所をGoogleMapにプロットしてみると、最後の鬼ノ城跡を除くすべてが県道270号線に沿ったところにあることに気づいていました。この道は古代の山陽道にあたる道で、この山陽道のすぐ南、現在の新幹線が走るあたりが古代の海岸線であったこともわかっており、古代吉備の権力者集団は瀬戸内海の海上交通を掌握するとともに、山陽道の陸路も押さえていたことがわかります。
楯築遺跡を見学しているあたりから雲行きは怪しく雨粒がパラパラと落ち始めました。次の鯉喰(こいくい)神社までは北西へ車で5分ほどですが、ちょうど到着した頃に雨足が少し強まってきました。この日の天気予報は曇りで翌日は晴れだったので傘は持ってこなかったのですが、佐々木さんの雨男ぶりを侮っていました。
鯉喰神社は楯築遺跡のところで触れたように、楯築神社を合祀した後しばらく、ご神体である亀石を祀っていたところです。鯉喰という不思議な名前はどこから来ているかというと、桃太郎伝説のもとになった温羅(うら)のお話からです。岡山県神社庁サイトに掲載された神社由緒を転載します。
吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢つき、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。社殿は元禄14年(1701)4月、天保13年3月に造営し現在に至った。大正6年4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。大正6年10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。
この温羅伝説をモチーフにして桃太郎の話が生まれました。桃太郎伝説は各地にあるそうですが、岡山県が最も上手にPRしたことから桃太郎といえば岡山、岡山といえば桃太郎というのが定着したそうです。今回のツアーで巡った備中の南部はまさに桃太郎の聖地とも言えるところで、どこへ行っても桃太郎ときび団子。古墳を訪ねても神社を訪ねても桃太郎。正直、興ざめでした。それに比べて、県内に1万2千基もある古墳、大和政権成立に貢献したことが窺える遺跡や遺物、由緒ある古社などの貴重な観光資源を活かし切れていないことを痛感し、佐々木さんの「桃太郎に頼りすぎや」には大いに賛意を表しました。
話を鯉喰神社に戻します。今回、この神社を踏査地に選んだのは桃太郎とは関係なく、この神社が弥生墳丘墓の上に建っていることからです。つまり、主役は神社ではなく墳丘墓なのです。
ちなみに、楯築遺跡も過去に墳丘上に楯築神社が建っていましたし、現在でも祠が建っているのにどうして発掘調査ができたのでしょうか。それは楯築神社はすでにこの鯉喰神社に合祀されていた、つまり形式上は神社でなくなっていたためです。それでも地元民、とくに楯築神社の氏子の方々の墳丘に対する思いは鯉喰神社に移された亀石をもとの墳丘上に戻すほど強いものだったので、発掘チームは発掘の了解を得るために何度も足を運んで話し合いを重ねて理解を求めたそうです。
こういう話も含めて楯築墳丘墓と鯉喰神社墳丘墓はどこかでつながっていると考えたくなります。楯築に葬られた王の3代くらいあとの王の墓と考えてよいと思います。弧帯文石が出ているのが楯築とここだけというのもその証左となるでしょう。
また別の視点で考えると、鯉喰神社には夜目山主命(やめやまぬしのみこと)と夜目麻呂命(やめまろのみこと)の父子、狭田安是彦、千田宇根彦の4柱が祀られています。夜目山主命と夜目麻呂命は吉備津彦命が温羅を退治する際に楯築遺跡の西方から駆けつけた武勇の父子とされ、あとの2柱は温羅の家来であったが吉備津彦命側に寝返ったとされています。これら4柱のうちの誰かが葬られているのかも知れません。夜目の父子は翌日の行程にある備中国一之宮の吉備津彦神社の摂社「尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ)」にも祀られています。随神門の扁額に書かれていた「御崎宮」とつながります。
さあ、いよいよ雨が強くなってきました。次は全国4位の規模を誇る造山古墳です。そんな大きな墳丘に上るのでここだけは雨はいやだったのに、佐々木さんの力に負けました。
県立博物館の次はいきなりのメインイベント、王墓の丘史跡公園にある楯築遺跡です。弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の墳丘墓で、その大きさ、形、埋葬施設などなど、どれをとっても特徴的な弥生の墳丘墓です。ここだけは絶対に見ておきたい、と力説する岡田さん。私も同じです。どんなに雨が降ろうが風が吹こうが、岡山に来た以上はここに寄らずには帰れない、というほど古代史マニア、遺跡マニアにとっては重要な遺跡です。
「王墓の丘史跡公園」は倉敷市東端の足守川右岸に沿う王墓山丘陵に広がる遺跡群を整備、公開した公園で、楯築遺跡はその北端に位置します。高度成長のとき、この地に総数1000戸規模の住宅団地が開発されることになったために発掘調査が進められ、数十基の古墳が残されることになりました。しかし、宅地開発はそのまま進められたために多くの古墳が失われたことは容易に想像できます。楯築遺跡は失ったものも大きかったものの、考古学者や地元民の熱意によってかろうじて今の姿で残ることになりました。
2019年5月31日・6月1日、古代史仲間である岡田清之さん、佐々木偉彰さんとともに「吉備国の成り立ちを検証する」というテーマで、岡山県へ1泊2日の実地踏査ツアーに行ってきました。おふたりとの関係やこれまでの取り組みについては当ブログをはじめ、いくつかのところで紹介させていただいておりますが、あらためて確認しておきたいと思います。
岡田さん、佐々木さんとも私が勤務する会社の3期上の先輩です。岡田さんは昨年、めでたく定年退職、現在は故郷の香川県高松市で岡田清之行政書士事務所を開設されて行政書士として活躍されています。一方の佐々木さんは45歳の時に転職、起業され、現在は合同会社ウイン・アクションの代表であり、セカンドアカデミー株式会社のエグゼクティブコンサルタントとして活躍されています。また、佐々木さんは大学の先輩でもあります。
3人で各地の遺跡や神社を訪ねる実地踏査ツアーを始めて6年、今回で第6回目となりますが過去の5回は、大和の纒向、熊野、埼玉、丹後・出雲、北部九州各地を訪ねてきました。また、佐々木さんがセカンドアカデミー(株)の代表をされているときに株主招待旅行として日向の高千穂や西都原古墳群を訪ねたことも含めると全部で7回の実地踏査を重ねてきたことになります。
さて、今回は2日間にわたる吉備ツアーの行程を紹介したいと思います。
1日目。
私は大阪から、佐々木さんは東京から、岡田さんは高松からJR岡山駅に集合してレンタカーにて出発。
→まずは岡山県立博物館にて吉備の古代史を概観。
→いきなりのメインイベント、弥生の大墳墓である楯築墳丘墓。
→おなじく弥生墳丘墓のある鯉喰神社。
→岡山最大の前方後円墳、造山古墳と陪塚の千足古墳。
→吉備路風土記の丘にあるこうもり塚古墳。
→全国第10位の前方後円墳、作山古墳。
→丘陵上に広がる弥生の群集墓、宮山墳墓群。
→桃太郎伝説の残る古代山城、鬼ノ城跡。
→JR岡山駅近くのビジネスホテルにて宿泊。
2日目。
ホテルを出発。
→備前国一之宮の吉備津彦神社。
→備中国一之宮の吉備津神社。
→岡山の埋蔵文化財を展示する吉備古代文化財センター。
→吉備の中山に残る吉備津彦の墓と言われている中山茶臼山古墳。
→岡山のスポーツの聖地に残る津島遺跡。
→神武東征の仮宮である吉備高島宮跡。
→古代から中世の複合遺跡、百間川遺跡群。
→JR岡山駅近くの飲食店にて振り返りミーティングをして解散。
このあと、順に紹介したいと思います。