古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

津島遺跡(吉備国実地踏査ツアーNo.14)

2019年06月28日 | 実地踏査・古代史旅
 中山茶臼古墳の次の目的地は岡山県総合グラウンドにある津島遺跡。この遺跡は1968年(昭和43年)の発掘調査において全国で初めて弥生時代前期の集落と水田が隣接して発見された著名な遺跡です。その後、2005年(平成17年)の「晴れの国おかやま国体」の開催に伴う岡山県総合グラウンドの再整備の際に改めて発掘調査が行われ、弥生時代後期の高床式倉庫の建築部材などが検出されました。つまり、この遺跡の上に岡山県総合グラウンドがあるということです。
 
 
 国の史跡指定に伴って行われた遺跡の整備工事が2009年(平成21年)に完成し、竪穴式住居や高床式倉庫のほか、湿地や水田部分が再現されています。加えて遺跡からの出土品は、岡山県総合グラウンド陸上競技場のメインスタンド内に設けられた「遺跡&スポーツミュージアム」に展示されています。復元遺跡とこの博物館を楽しみにしていたのですが、なんということでしょう、、、
 
 この日は土曜日。陸上競技場では地元J2のファジアーノ岡山の試合があり、ミュージアムが休館になっていたのです。
 
 
 実は当初は津島遺跡には初日に来る予定にしていたのですが、直前の行程見直しで二日目に変更したのです。事前の調べでイベント開催時はミュージアムが休館になることがわかっていたのに、行程見直しの際に確認を怠ってしまい、この結果となってしまいました。結局ミュージアム見学をあきらめて復元された遺跡を見学するのみとなりました。ああ、残念。
 
水田跡。
畔できれいに区画されているのがわかります。
 
湿地。
 
向こうにスタンドが見えます。
 
竪穴式住居と高床式倉庫。
 
シンボルモニュメント。
陸上競技場の場所を流れていたと考えられる川の岸辺から出土した弥生時代後期のものと思われる多量の建築部材をもとに、津島遺跡のシンボルとして復元された建物です。
 
 
 
 せっかくなので、遺跡&スポーツミュージアムを紹介しておきましょう。
 津島遺跡の紹介では、スタジアム改修時に行われた発掘調査の出土品(縄文時代後期~鎌倉時代)や地層の剥ぎ取り標本が展示されるとともに、地下展示として陸上競技場調査区で出土した弥生時代の建物の出土状況がそのままに再現されています。
 スポーツ関連では、人見絹枝氏の足跡をたどる展示として、1928年アムステルダムオリンピック800mで日本人女性として初めて獲得したメダルのレプリカや各種大会での優勝杯などが展示されるとともに、有森裕子氏の活躍を紹介する展示として、バルセロナ、アトランタオリンピックで獲得したメダルのレプリカや、アトランタで着用したゼッケンなどが展示されています。
 ぜひ見たかった。残念。
 
 
 
 
 
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中山茶臼山古墳(吉備国実地踏査ツアーNo.13)

2019年06月24日 | 実地踏査・古代史旅

 古代吉備文化財センターの見学を終え、徒歩で数分のところにある中山茶臼山古墳に向かいました。古墳時代前期(4世紀)に築かれたと推定される全長105mの前方後円墳で「吉備津彦命」の墓に治定され、現在は宮内庁が管理しています。そのため例によって考古学的な調査は行われていないのですが、墓域から特殊器台形埴輪が採取されていることから古い時代の古墳であることがわかります。二段築成で、墳丘表面では葺石が検出されました。

拝所。

 足元に柵があってこれより先に入れません。

 少し離れて横から。


 吉備の中山の山麓に鎮座する吉備津彦神社、吉備津神社の祭神が大吉備津彦命であったことを考えると、その中山の山頂に築かれた古墳にその祭神が葬られているとするのはおかしな話ではないですね。

 ただ、吉備津彦が崇神天皇のときに実在した人物であるとすると時代はおそらく3世紀中頃から後半で、古墳が築造された4世紀と少し時代がずれています。ただし、出土した特殊器台形埴輪が弥生時代終末期のものとすれば3世紀後半という時代の重なりを想定することができます。まあ、どこまでいっても推測の域を出ませんが。

 中山茶臼山古墳がある吉備の中山は古代より神体山であり、山中には当古墳以外にも磐座や小さな古墳が散在しています。吉備国の人々にとって欠かせない神聖な場所なのです。だから吉備国を備前・備中・備後に分国する時に、この中山の稜線を南北に沿うように備前と備中の境を定めました。備前国一之宮の吉備津彦神社と備中国一之宮の吉備津神社が、吉備の中山を挟んで北東麓と北西麓の近距離に鎮座するのもこの理由からです。さらに驚くのは、この国境が中山茶臼山古墳の真ん中を南北に通っているというのです。この土地を治めた王の墓を共有し、共に祀ろうという想いからでしょう。

 拝所の前では吉備の中山をハイクしてきた10人ほどのグループが弁当を食べていました。陵墓を拝んで眺めようとしても場所を譲ろうとしてくれません。少し残念に思いました。




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古代吉備文化財センター(吉備国実地踏査ツアーNo.12)

2019年06月22日 | 実地踏査・古代史旅
 吉備津神社を出た車は吉備の中山を登っていき、5分ほどで岡山県立古代吉備文化財センターに到着です。岡山県内の埋蔵文化財の保護・保存を図るための拠点施設で、発掘調査をはじめ、出土品等の収蔵管理や活用に取り組んでいます。小さな展示室には岡山県内の遺跡から出た様々な遺物が展示されています。
 
 岡山県立古代吉備文化財センター。

 土器の色と思うのは私だけでしょうか。
 
 小さな展示室だとわかる入口。
 
 入口を入るといきなりの特殊器台。

 これは新見市の西江遺跡から出たものです。特殊器台の中では比較的新しい向木見(むこうぎみ)型です。
 
 特殊器台を調べていてわかったこと。最も新しい宮山型の特殊器台が大和の箸墓から出たことは「宮山墳墓群」の記事に書きましたが、胎土の研究によって箸墓で見つかったものが吉備で製作されたことが判明しているとのことです。さらに、それらは箸墓の後円部墳頂で採取されていることから被葬者の魂の封じ込め、逆に被葬者を邪気から守る、あるいは葬送儀礼など、特別な使われ方をしたことが想定されます。
 
 見学中の岡田さんと佐々木さん
 
 器台と壺、銅鐸。
 器台の上に壺が乗せられています。この組み合わせが弥生後期に入ると、特殊器台と特殊壺に変化していきます。
 
 右側の銅鐸は高塚遺跡から出たもの。突線鈕式と呼ばれる形式で流水文が施されているので突線流水文銅鐸と呼ばれます。弥生時代後期に土中に埋納されたと考えられています。高さが58cmと大きく、飾り耳がついたこの時期の銅鐸は近畿式銅鐸と呼ばれ、いわゆる「見る銅鐸」とされています。
 
 一番手前の土器が百間川原尾島遺跡から出た彩文土器。この文様は西都原考古博物館で見た隼人の楯の文様と同じです。潮の流れ、逆巻く渦潮を表しており、海洋族を象徴していると考えます。
 
 彩文土器のアップ。
 これは西都原考古博物館に展示される隼人の楯。
 
 上東遺跡で見つかった波止場状遺構のジオラマ。
 
 上東遺跡は弥生時代後期から古墳時代前期を中心とする集落遺跡で、多くの竪穴式住居のほか製塩炉や波止場状遺構が確認されました。現在の地図を見ると海岸線からかなり内陸に入ったところで、ここに製塩炉や波止場があったことが不思議に思うのですが、古代の海岸線は現在の新幹線に沿うような位置にあったと考えられています。
 
 上東遺跡からは多数の桃の種も出ました。
 大和の纒向からも多数の桃の種が見つかっています。古代において桃は魔除けの果実と考えられており、古事記にも伊邪那岐(イザナギ)が黄泉の国から逃げ帰る際に雷神に投げつけたことが記されています。
 また、何度も書いていますが、温羅伝説で温羅を退治した吉備津彦は桃太郎のモデルとされています。その吉備津彦は纒向からほど近い田原本が生誕の地とされています。大和と吉備は桃を介してもつながっていると言えます。
 
 ここは小さな展示施設ですが、私にとっては興味津々な展示内容だったのですべての展示資料を写真に収めながら解説文もしっかり読んだので、思った以上に時間がかかってしまいました。



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吉備津神社(吉備国実地踏査ツアーNo.11)

2019年06月20日 | 実地踏査・古代史旅
 吉備津彦神社の次は吉備の中山の北西麓にある吉備津神社へ。備中国一之宮で祭神は吉備津彦神社と同じ大吉備津彦命です。吉備津彦神社の記事にも書いた通り、吉備国が備前、備中、備後に分かれる前はこの吉備津神社が吉備国総鎮守であったので、こちらが大吉備津彦命を祀る本宮ということになります。ちなみに、備後国一之宮は広島県福山市新市町にある吉備津神社で、こちらも当然のことながら大吉備津彦命を祀っています。



        


 公式サイトの縁起によると「当社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命(カヤオミナルミ)という人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると云われております。また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる稲速別命(イナハヤワケ)・御友別命・鴨別命(カモノワケ)が始めて社殿を造りお祀りしたとも云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わっております」となっています。

 この吉備津神社は2日目のメインと思っていました。国宝である「吉備津造」の本殿、総延長398mの廻廊、鳴釜神事の御釜殿など見どころ満載で、雑誌などで本殿や廻廊の写真を見るたびに一度は実物を見ておきたいと思っていた神社です。入母屋造の屋根を前後に2つ並べた「吉備津造」は建築学的には「比翼入母屋造」と言うそうです。

扁額。


本殿。


これが「吉備津造」の本殿。美しいです。

拝殿右手の南随神門から南に延びる廻廊。

いずれも南(廻廊下側)から見た写真。写真の腕がないのでうまく撮れませんが、実際に見ると屋根の曲線が何とも言えず美しい。

 この神社にも桃太郎のモチーフとなった温羅伝説が伝わっており、公式サイトで「鬼退治神話」として紹介されています。そして、この伝説がもとになって生まれた鳴釜神事。吉備津彦命に祈願したことが叶えられるかどうかを釜の鳴る音で占う神事です。多聞院日記という文献の永禄11年(1568年)5月16日の記事に「備中の吉備津宮に鳴釜あり、神楽料廿疋を納めて奏すれば釜が鳴り、志が叶うほど高く鳴るという、稀代のことで天下無比である」と記されていて、少なくとも室町時代末期には行われていたことがわかります。江戸時代に上田秋成が著した雨月物語のなかにも「吉備津の釜」として登場するそうです。その古くから続く不思議な神事が行われる御釜殿が廻廊の途中にあります。

御釜殿。




 御釜殿の周囲は神事が終わったあとなのか、米を炊くような匂いがしていました。そして、驚いたことに御釜殿の中に入らせてもらうことができました(残念ながら撮影はできませんでした)。割烹着を着たお世話係の女性が少し説明をしてくれましたが、あまりに神聖で長居できない雰囲気があり、質問の言葉が続きませんでした。希望すれば神事を受けることができたそうです。経験してみたかった。

 御釜殿の裏には弓道場があります。この日は岡山県の高校弓道大会が開催されていて、弓道の試合を初めて観ました。集まった高校生はかなりの数で、温羅伝説の影響でしょうか、岡山は弓道が盛んなのだろうと思いました。





 この神社はいつまでもここに居たいと思える場所で、後ろ髪を引かれながら駐車場に戻りました。

 駐車場の前に桃太郎というお土産屋さんがあって、きび団子と書かれた大きな看板が出ています。吉備津彦神社の茶店で写真を撮り忘れたこともあり、食べ比べをしてみたいという気持ちもあってお店に入りました。メニューを見ておばちゃんに聞いて、そしてビックリ。このお店できび団子を食べようと思うと、熱いぜんざいに入ったものしかないとのこと。今さら立ち上がってお店を出ることもできず、佐々木さんと私は熱いぜんざいを注文。岡田さんはところてんだったかな。

そのぜんざいがこれ。

これで600円は少し高いかな。残念ながらふつうでした。

 駐車場を出て次の目的地、吉備の中山にある古代吉備文化財 センターと中山茶臼山古墳に向かいます。車は神社の裏手から山道を登って行きます。
 
これは吉備津神社に向かう途中に撮った吉備の中山。

 やっぱり登っておけばよかったかな。あとの祭りだけど。


 
 
 
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吉備津彦神社(吉備国実地踏査ツアーNo.10)

2019年06月18日 | 実地踏査・古代史旅
 吉備国実地踏査もいよいよ2日目です。前夜に3時まで遊んでしまったことを受けてこの日は少し遅い9時出発としました。最初の目的地は吉備の中山の北東麓にある吉備津彦神社です。吉備の中山は古来、神体山として信仰されていて北西麓にはこのあと行く吉備津神社があります。

正面の鳥居。


随神門。

 
 吉備津彦神社は備前国一之宮で、夏至の日の出には太陽が正面鳥居の真正面から昇って神殿の御鏡に入ることから「朝日の宮」とも称されます。主祭神は大吉備津彦命(日本書紀では「彦五十狭芹彦命」、古事記では「比古伊佐勢理毘古命」)で、第7代孝霊天皇の皇子です。第10代崇神天皇のときに四道将軍の一人として山陽道に派遣され、腹違いの弟である若日子建吉備津彦命と協力して吉備を平定したとされます。
 
 社伝によると創建が推古天皇の時代ということらしいのですが、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布をもってそれまでひとつであった吉備国が備前国、備中国、備後国に分国されるにあたって、吉備国総鎮守であった吉備の中山の北西麓にある吉備津神社から分祀されて備前国一之宮として創建されたとも言われています。神社由緒は以下の通りです。
 
「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります。後に佛教が入り正宮、本宮、摂末社合わせて51社を具え神宮寺や法華堂も建ちいよいよ御神威は広大無辺に広がり古代気比大神宮・大社吉備津宮とも称され朝廷直属の一品一宮、吉備大明神として武将庶民に至るまで厚く崇敬されてきました。」
 

 
 拝殿。

 
 
 吉備の中山を背後に控える本殿。
荘厳な雰囲気が溢れています。
 
 当初の予定では吉備津彦神社を参拝したあと、神社の裏手から吉備の中山に登って吉備津彦神社の元宮とされる磐座を参拝する計画をしていましたが、前日の古墳や墳丘墓への登頂で足腰が弱っていたこと、夜遊びのために寝不足であったこと、気温が高くて日差しがきつかったこと、などを考慮して中山登山をあきらめました。
 
 境内案内図にあった中山の案内図。

 
 時間の余裕ができたので境内を散策し、随神門の前にあった茶店できび団子を食べることにしました。

 末社。

 天照大神を祀る伊勢宮など7つの末社が並んでいます。

 神池の小島にある環状列石。

 古代の祭祀跡とされていますが、神社創建前からこの場所にあったのか、もともとあった場所に社殿を建てることになったために移されたのか。

 随神門の前にある茶店。

 きび団子を写真に収めるのを忘れました。みたらし団子風で美味しかったです。
 
 前日の雨天、曇天と打って変わった快晴の一日、この日の踏査は気持ちのいいスタートとなりました。このあとは吉備の中山をぐるっと西に回り込んだところにある吉備津神社です。

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鬼ノ城(吉備国実地踏査ツアーNo.9)

2019年06月15日 | 実地踏査・古代史旅
 宮山墳墓群の踏査を終え、この日の最終目的地である鬼ノ城へ向かいました。しばらく走るとゆるい坂道に入り、そこから細い一本道を結構走って山に登って行きました。対向車に気を遣いながら走らないと少し危ない道です。百射山神社から20数分で到着、時刻は16時をまわっていたので、広い駐車場には車が2台停まっていただけで少しさびしい雰囲気でした。まずは駐車場近くのビジターセンターで基本情報の収集です。
 
 
 663年の白村江の戦いにおいて百済に大規模な援軍を派遣した大和政権は唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。国内への侵攻を恐れた大和政権は矢継ぎ早に防衛作戦を展開します。まずは、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ)を配置して監視体制と情報伝達網を構築、さらには大宰府防衛のために筑紫に水城を築造するとともに各地に山城を築城しました。金田城(対馬)、大野城(筑前)、基肄城(肥前)、鞠智城(肥後)、長門城(長門)、屋嶋城(讃岐)、高安城(大和)などです。そして難波から近江に遷都して都の防衛を固めました。鬼ノ城はこのときに築かれた山城のひとつと考えられ、発掘調査によって7世紀後半の築造ということが判明していますが、不思議なことにこの城だけが史書に記載がありません。ちなみに、温羅伝説では温羅が構えた城とされています。

 このときに築かれた城は鬼ノ城もふくめてすべて古代山城と呼ばれます。この古代山城には2種類あって、ひとつが朝鮮式山城でもうひとつが神籠石式山城。神籠石は山腹を取り囲むように築かれた石積みの遺構のことですが、一昨年に高良大社にいったときに見ました。この2種類の山城の違いはなんと、文献に見える山城が朝鮮式山城で、そうでないのが神籠石式山城だということです。近年の発掘調査によって違いがあまりないことがわかってきたので「古代山城」と総称される傾向にあるそうですが、そもそもその基準はどうやねん、ってことですね。
 
 ビジターセンターでは模型とパネルを用いて鬼ノ城を詳しく解説していました。


 鬼ノ城は吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山に築かれています。眼下にはこの日に訪ねてきた遺跡がある古代吉備の中心である総社平野と足守川中流域平野を望みます。快晴時には瀬戸内海から遠く四国の山並みまで見えるそうです。
   
 この日の曇り空では四国までは見えませんでした。

 角楼(防御施設)から見る復元された西門。

 西門にはこんな楯が掛けられています。
 右の楯は隼人の楯によく似ています。S字文様をギザギザにして、鋸歯文もギザギザをきつくしています。隼人と吉備の関係を示唆しているのでしょうか。

 西門は立派な構えをしていました。

 これは角楼に下にある版築工法で築かれた土塁です。
 
 鬼ノ城の城壁は山の7〜9合目の外周を鉢巻状に2.8kmに渡ってこのような強固な土塁や石塁を巡らせています。城壁の6ケ所の谷部では排水口である水門が確認されています。城門は東西南北の4ケ所にあり、西門と南門は12本の柱で支えられた楼門と考えられています。城内は30haに及ぶ広さで城庫とみられる礎石建物跡も6~7棟発見されています。

 少し離れた学習センターから望む西門。
 
 実はこの鬼ノ城は7世紀の遺跡なので、私たちの勉強の対象から外れるのですが、せっかく岡山まで来たのだから見ておこうということで行程に組み込みました。元気が残っていれば城壁に沿って少し歩いてみようと思っていたのですが、朝からあちこちの古墳や墳丘を歩き回って疲労がかなり蓄積されていたのと、新しい時代の遺跡ということもあり、この西門の見学だけで済ませてこの日の踏査を終了することとしました。
 
 鬼ノ城から宿泊地のJR岡山駅近くに向かう途中、でっかい鳥居のある最上稲荷が近くにあることがわかって車で向かったのですが、思った以上に遠くて時間も遅くなってきたのであきらめました。それでも、引き返す途中にあった備中高松城跡に寄りました。
 同じ水攻めにあった埼玉県行田市の忍城に3人で行ったこともあり、たいへん興味の湧く場所でした。
 
 さて、これで初日の踏査は完了です。この日の宿泊はJR岡山駅の東側にあるビジネスホテルで、迷うことなく到着しましたが問題は駐車場です。岡山で最もにぎやかな場所なので、たくさんある駐車場はどこも高い。できるだけ安いところを探そうと同じブロックを3周したあげく、結局安いところを見つけることができずにあきらめてホテルの前のパーキングに入れることにしました。試算すると一晩泊めて1,800円くらいだったでしょうか。東京と比べると格安ということですが、安いところを見つけることができずになんだか悔しい気分。
 とにかく車を停めて眼の前のホテルにチェックイン。手続きの際に、車を停めたパーキングはホテルと提携しているので一晩泊めても900円だと聞いて、3人で顔を見合わせて笑いが止まりませんでした。結果オーライ!

 そんなこんなで部屋に荷物を置いてすぐに晩ご飯。その後、なんと夜は3時まで遊んでしまいました。
 
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宮山墳墓群(吉備国実地踏査ツアーNo.8)

2019年06月13日 | 実地踏査・古代史旅
 作山古墳から次の目的地である宮山墳墓群に向かいました。事前の調査ですぐ近くの百射山(ももいやま)神社の駐車場に停めればいいことがわかっていたので、ナビをセットして出発。まもなく到着という所で右折と左折で細い道に入り込んでしまいバックもUターンもままならない。でもこれがナビの通りなので行くしかない。運転手の岡田さん、慎重なハンドル操作で切り抜けて少し広い道に出ることができた。なんと、右折も左折もせずに真っ直ぐにくればこの道につながっていたことが発覚。頼むで、ナビ!
 
 百射山神社の駐車場にあった説明板。 

 宮山墳墓群は総社平野南西端の低丘陵の尾根上に築かれた弥生時代後期から古墳時代初期の墳墓群である三輪山遺跡群の中にあって、丘陵北西部の尾根に沿って並ぶ墳墓群です。
 
 ちなみにこちらは百射山神社の説明です。
 祭神は大山祇命。御崎神社と三輪神社を合祀したことによって吉備武彦命、猿田彦命、大物主命の三柱が相殿神として祀られています。
 
 扁額には合祀した神社の名も書かれています。

 
 百射山神社の境内右手の階段を登ります。

 
 いきなり目的の宮山墳丘墓です。

 手前が前方部、向こうに見えているのが後円部。全長が38mの前方後円型の墳丘墓です。築造時期をどう見るかで墳丘墓か古墳か分かれるところで、今のところ弥生時代末期とされていることから、前方後円型墳丘墓とされています。
 
 
 後円部の先端から見上げると意外に高さがあることがわかります。
 
 竪穴式石室が土に埋もれてしまっています。
 

 石室内からは中国製の鏡、直刀、剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス小玉などが出土したそうです。
 
 こちらは総社市の公式サイトから拝借した写真です。
 
 この墳丘墓に立てられていたとされる特殊器台は弥生時代終末期(3世紀中頃)の最も新しい型の特殊器台で宮山型とよばれ、同じ文様をもつものが、箸墓古墳(纒向)、西殿塚古墳(天理市)、中山大塚古墳(天理市)、弁天塚古墳(橿原市)の古墳時代初頭(3世紀中頃~後半)の4つの前方後円墳から見つかっています。
 吉備と同じ文様の特殊器台、同じ前方後円型の墳墓が少しだけ遅れて大和に出現する状況をどう考えるか、ということですね。大和の勢力はこの特殊器台を円筒埴輪に変化させ、前方後円墳を首長墓として全国に広めていきます。大和政権の成立において吉備が重要な位置にいた、と考えるべきですね。
 
 ところで、宮山墳丘墓をあえて墳丘墓と呼ぶ必要があるのでしょうかね。宮山古墳でいいと思いませんか。
 
 県立博物館で見た宮山型特殊器台。レプリカです。

 吉備ではこの宮山墳丘墓から出たのみです。
 
 色褪せてしまった説明板。
 宮山墳丘墓の前方部手前には石を箱形に組んだ箱式石棺、土を掘って埋葬した土壙墓、特殊器台を棺に転用した特殊器台棺など多様な埋葬形態の30基以上の墓が見つかっていることから、近隣集落の人々の集団墓と考えられています。



 集団墓は尾根の先端部ぎりぎりのところまで広がっています。逆に尾根の根元の方に進んでいく、つまり丘陵を登っていくと2つの前方後円墳が現れます。

 1つ目は宮山天望古墳。古墳時代前期、全長55mの前方後円墳。

 岡田さんが一足早く後円部の墳丘に登っています。
 
竪穴式石室の痕跡と思われるくぼみ。

後円部から前方部を見ても輪郭がわかりません。
 
 さらに奥にある三笠山古墳。古墳時代中期初頭、全長70mの前方後円墳。


 前方部から見る後円部。

 前方部の高まりがわかります。

 
 これは墳丘から転げ落ちた葺石かな。
 
 宮山墳墓群は近隣の弥生集落の長の墓である宮山墳丘墓を中心に設けられた集落の人々の集団墓と考えられていますが、古墳時代に入ると集落の権力者はさらに大きな力を持ち、古墳時代前期および中期初頭にかけて前方後円墳を築くようになった、ということでしょうか。
 
 この宮山墳墓群はツアー直前に行程に加えた踏査地ですが、来てよかったです。吉備と大和の関係を考える重要性を実感することができました。

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作山古墳(吉備国実地踏査ツアーNo.7)

2019年06月11日 | 実地踏査・古代史旅
 こうもり塚古墳から西へ2キロ、車で5分ほどで作山古墳へ到着。独立した丘陵を加工して築造された三段築成の前方後円墳で、全長282mは県下第2位、全国では第10位の規模。5世紀中頃の築造と推定されています。造山古墳同様に国の史跡に指定されているために詳しい調査は行われていません。
 
 上からの写真。駐車場は古墳の左下の逆三角形のところです。
 よーく見ると後円部は正円ではなく少し楕円形になっています。また、前方部の前面(写真の下側)には丘陵の一部が取り除かれないまま残されています。
 
 左の林が古墳前方部で右の林は取り残された丘陵部。
 この状況から周濠がなかったと考えられます。また、この削り残しがあることから、この王は古墳築造を完遂するだけの余力がなかったのではないか、という考えも出されています。
 
 前方部の左隅から墳丘に登ります。
 
 前方部の前面。2段目のテラスがわかります。
 
前方部の左側にもテラスが確認できます。

 振り返ると結構な高さがあります。
 
 前方部から後円部に向かう小道ができています。

  
 後円部頂上は平らでした。
 
 後円部から見る前方部方向。

 主体部の埋葬施設は明らかになっていないものの、どこにも盗掘坑が認められないことから墳丘内部での現存が推測されるとのこと。それでも、国史跡のために発掘することができません。
 

 
 出土品のほとんどは、円筒埴輪・朝顔形埴輪。墳丘各段のテラス面に巡らされた埴輪の総数は5,000本と推計されています。立ち入りが自由なので、おそらく墳丘上にあった埴輪片などは分布調査によって収集保存されたもの以外は全て持ち去られたのでしょう。
 
 作山古墳の墳丘上は見ての通り木々が生い茂る林になっているので、造山古墳のような眺望がなく、巨大な古墳をあまり感じることができませんでした。
 
 次は宮山墳墓群。ここは事前に吉備を勉強する中で知った遺跡で、私にとっては今回のツアーでもっとも重要な場所になりました。
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こうもり塚古墳(吉備国実地踏査ツアーNo.6)

2019年06月10日 | 実地踏査・古代史旅

 千足古墳を出て次のこうもり塚古墳に向かう途中、県道270号線沿いにある「らーめん夢民」というお店でランチをとりました。シンプルな醤油ラーメンでおいしかったです。そして、こうもり塚古墳はもう目と鼻の先。

 このあたりは「吉備路風土記の丘県立自然公園」と呼ばれ、先の造山古墳、これから行くこうもり塚古墳や作山古墳のほか、備中国分寺跡や備中国分尼寺跡など「吉備文化の発祥の地として日本の歴史を探る上でも大変興味深い重要なところ」とされています。実はこの日に訪ねる場所をGoogleMapにプロットしてみると、最後の鬼ノ城跡を除くすべてが県道270号線に沿ったところにあることに気づいていました。この道は古代の山陽道にあたる道で、この山陽道のすぐ南、現在の新幹線が走るあたりが古代の海岸線であったこともわかっており、古代吉備の権力者集団は瀬戸内海の海上交通を掌握するとともに、山陽道の陸路も押さえていたことがわかります。


 駐車場からこうもり塚古墳までは歩いてすぐ。

 
 田んぼの向こうのこんもりとしたところは、いかにも古墳の雰囲気。


 横穴式石室が口をあけて待っています。

 こうもり塚古墳は古墳時代後期から終末期、6世紀後半の築造とされる全長約100mの前方後円墳です。玄室に入ることはできませんが、長さ2.38m・幅1.4m・高さ1.31mのくり抜式家型石棺が置かれており、まじかに見ることができます。
 


 
 石室のある後円部が二段築成というのがわかります。

 右手の高まりが前方部で、木々の向こうにある後円部がわかりにくいですね。

 
 造山古墳と作山古墳という吉備の二大古墳の間に位置するこのあたりには松井古墳群、江崎古墳群、緑山古墳群、稲荷山古墳群など県下屈指の大古墳群が広がっています。古墳時代後期に入ってから、こうもり塚古墳のような大きな横穴式石室を持った古墳がたくさん築造されました。とくに稲荷山古墳群には石室がのぞける古墳がたくさんあるようです。
 
 こうもり塚古墳を見学するだけの予定でしたが、立派な五重塔が見えたので行ってみることにしました。
 

 江戸時代中期以降に再建された国分寺境内にそびえる五重塔は県内唯一のもので1844年頃に完成し、高さが34mあるそうです。
 
 吉備路風土記の丘は緑がいっぱいで、のどかな田園風景の広がる気持ちのいい場所でした。遠足の小学生たちが「こんにちは」と挨拶をしてくれました。

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日本の神社、日本の神々

2019年06月08日 | 生涯学習
 麗澤大学の生涯学習講座「日本の神社、日本の神々」を受講してきました。担当の岩澤先生は昨年のセカンドアカデミー(株)主催の公開講座「Japanリベラルアーツ入門~神話と芸能~」以来となります。全5回の講座で参加可能なのが2回しかないのは残念なのですが、先生のお話は大変示唆に富む濃い内容なので是非とも聴きたいと思っていました。期待した通り、今回も様々な気づきがありました。
 
 今回のお題は「伊勢神宮・創建の謎に迫る:前編」。まずは「神(カミ)」のお話。前回も教えてもらったキリスト教の「God」との違い。そして「御生れ(みあれ)」。神様は海から、そして川を通ってやってくる。そういえば日本書紀には、大巳貴神(大国主神)が出雲の国造りを終えた後、ともに国を治める者がいようか、と言ったときに神々しい光が海を照らしながらやって来た、というくだりがある。古事記にも同様の記述がある。この神は大巳貴神の幸魂・奇魂であった。記紀神話は大国主の国造りから葦原中つ国平定(国譲り)を経て天孫降臨へ。
 天空の自然現象そのものが神(天つ神)であり、神は天から山へ、そしてふもとの樹木へと降りてくる。そのあと、木から離れて川の流れに潜る。海や川を通って水をくぐり抜けてやってくるので「蛇体」とも考えられたとのこと。そして、筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」からの引用を用いて「カミのすみかは海(あま)から天(あま)へ」と説かれる。
 3年前に古代史実地踏査ツアーで岡田さんや佐々木さんと熊野に行ったときに事前学習で読んだ「ヤマト王権幻視行 熊野・大和・伊勢」。詳細は忘れたが、古代日本人の神との関係は、もともとの水平思考に垂直思考が加わった、という主旨のことが書いてあったのを思い出した。同じ話だ。もう一度読んでみよう。「アマテラスの誕生」も早速アマゾンで注文した。それと、海や川を通って水をくぐり抜けてやってくる神がしばしば蛇と考えられたのは何故だろうか。蛇信仰や龍蛇信仰を勉強しよう。
 
 宮崎県の西都原考古博物館で見た隼人の楯にはS字のような文様が描かれている。岡山の吉備古代文化財センターで見た百間川原尾島遺跡から出た彩文土器に描かれた文様はこれと酷似している。私はいずれも水の流れや潮が渦巻く様を表していると考えるのだが、龍や蛇を表しているという考えが一般的のようだ。私はさらに想像をたくましくして、吉備の楯築遺跡で見た弧帯文石に刻まれた文様や特殊器台に刻まれた文様も水の流れや渦巻く潮をデフォルメしたものではないかと考える。このことから隼人族も吉備一族も海洋族であったと考えるのである。
 
 隼人の楯。
 
 百間川原尾島遺跡出土の彩文土器。
 
 楯築遺跡の弧帯文石。
 
 特殊器台。
 
 
 講義が終わった後、先生に挨拶をしようとタイミングを見ていると先生がわざわざ席まで来てくれた。少し立ち話をさせていただいたが、そこでも気づきがあり、阿曇族と住吉大神を勉強しようと思った。そして何よりも、数か月前から思い始めていたこと、吉備ツアーで佐々木さんのアイデアに刺激を受けてその思いがさらに強まっていた矢先、先生の講義がそれを決定づけた。それは、自分の仮説をゼロベースで見直そうということ。これまで自分の仮説に基づいて古代日本、すなわち大和政権の成立過程を考えてきたが、様々なところで「?」を感じながらある意味強引に進めてきた。岡田さんや佐々木さんとの実地踏査やディスカッション、岩澤先生のお話も含めて、学びの幅と深さが増してきたこのタイミングで考え直そうと思った。
 
 そして、私たちの実地踏査ツアーに岩澤先生にも参加していただけたらどんなに充実ツアーになるだろうか、と想像しながら帰路についた。
 
 
 
  
 
 

 

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造山古墳(吉備国実地踏査ツアーNo.5)

2019年06月07日 | 実地踏査・古代史旅
 鯉喰神社から造山古墳まで車で5分。その間にいよいよ雨が強くなってきました。雨が強いとは言っても、傘を持たない佐々木さんや私が濡れる覚悟ができるほどだったので土砂降りというわけではありません。
 駐車場に車を停めた岡田さんは「ちょっと待ってくれ」と言って車の外に出て持参したレインウェアを着始めました。見ていると上だけでなく下も履いています。帽子もかぶって完全防備です。岡田さんは認めないでしょうが、この行為が裏目に出ました。造山古墳に登っている間に小雨になり、戻ってくる頃には雨はほぼ止んでいました。それだけなら雨を防いだ効果があったと言えるのですが、おそらくここでレインウェアが入っていた袋を紛失したのです。着替えたときに車の外に落としてそのまま気づかずに次の目的地に向かったと思われます。何とそのことに気がついたのは翌日の帰り間際だったのです。

 余談はさておき、造山古墳の様子を紹介しましょう。造山古墳は「つくりやまこふん」と読みますが、すぐ近くにある作山古墳と区別するために「ぞうざんこふん」と読むことがあります。一方の作山古墳も同様に「つくりやまこふん」あるいは「さくざんこふん」と読みます。こちらは午後からの行程に入っているのでそこで紹介します。

 造山古墳は全長が350mで岡山県下最大、全国第4位の規模を誇る前方後円墳で、古墳時代中期の5世紀前半の築造とされています。ここよりも大きい古墳は全て宮内庁が管理する天皇陵に治定されているため、墳丘に登れる古墳としては全国最大ということになります。ちなみに全国第1位の大山古墳(仁徳天皇陵に治定)は全長486mとされていましたが、先頃修正されて現在は525mとなっています。大山古墳の築造は5世紀前半~半ばとされているので、造山古墳とほぼ同じ時期ということになります。
 
 古墳の南側(写真の下)には数基の陪塚が見えます。一番下の白い丸い陪塚はこのあと見学予定の千足古墳です。

 駐車場から造山古墳を望む。
 左側が前方部で右側がくびれ部、後円部はカメラに収まりませんでした。
 
 造山古墳蘇生会というボランティアガイドのサイトから拝借したガイドマップ。
 駐車場にはこれの白黒コピーが置かれていました。これを見ると古墳の下半分(南東部)が集落による浸食を受けているのがよくわかります。

 古墳に向かって歩いていくと、すぐに坂道になります。

 この道を進んでいくと右側に後円部が見えます。

 そしてすぐに前方部に登る階段があります。
 法面の修復工事をしているところでした。
 
 前方部の頂上です。むこうに神社が見えます。
  
 前方部の端から下をのぞく。
 木々が茂ってわかりにくいですが、かなりの高さと勾配です。

 墳丘上の神社は荒(こう)神社。祭神はわかりません。ガイドマップの黄色の部分です。

 
 社殿左手にある手水鉢。
なんとこれは阿蘇凝灰岩製のくり抜き式の長持型石棺です。この古墳から出たものかどうか定かではありません。
 
神社の裏手にまわるとそこには、
 手水鉢に使われていた石棺の蓋の破片が転がっていました。
 
 古墳の右端を後円部に向かって歩きます。
 くびれ部のところが崩落して修復工事中でした。
 
 後円部に登る途中で振り返って見る前方部。
 黒いシートは崩落部分。かなり大きく抜けていました。
 
 後円部頂上から前方部を望む。やはり、でかい古墳だ。
 
 後円部の頂上は平らでした。
 高松城水攻めの際に毛利方がここに築城。そのときに削平されたのか、もともと平らだったのかはわからない。土塁や建物跡も残っています。

 後円部から南西部のくびれ部を見ると造り出しが見えました。
 
 周囲は一面の水田。田植えの準備が進んでいます。

 実際に登ってみるとその大きさを実感します。気がつくと「でっかいなあ」と何度もつぶやいていました。
 地山に土を盛って築いたとはいえ、これだけの造営物を築くための労働力を動員できる力を持った王がいた、ということです。河内の履中天皇陵とほぼ同じ大きさであることからすると、履中天皇と同等の権力を持っていたとも言えます。
 
 ところで、全国第3位までの大山古墳(伝仁徳陵)、誉田御廟山古墳(伝応神陵)、上石津ミサンザイ古墳(伝履中陵)は宮内庁が天皇陵として管理しているため、調査どころか立ち入ることすら許されず、考古学者や歴史学者たちは宮内庁を恨めしく思っているはずです。学者さんのみならず、私のようなマニアも同じです。昨年、大山古墳の周堤の調査が行われましたが、周堤を少し掘るだけでも大騒ぎになりました。
 それに比べると、この造山古墳は宮内庁の管理下にありません。ただ、国の史跡に指定されているために十分な調査ができていません。自由に立ち入りができるのに掘ることができないのです。
 国の史跡は文化財保護法によって定められており、遺跡の規模、遺構、出土遺物等において、学術上価値あるものを史跡として保存することが求められます。つまり、いったん史跡に指定されてしまうと発掘などができなくなるのです。価値ある遺跡の保存は必要だと思うのですが、十分な調査をしてからでも問題ないと思います。実際にこの古墳は史跡指定地以外の周辺部については何度も調査が行われているのです。
 さらに言えば、史跡指定は文部科学省の管轄です。同じ学問や科学の世界にいる学者や研究者の方々であれば文科省あるいは文部科学大臣と交渉することは可能ではないのでしょうか。いったん指定をはずして必要な調査を行い、その上で再度指定する。場合によっては特別史跡に格上げするケースがあるかもしれない。学術的価値を適切に判断するためには学術的調査が必要である、と考えるのはおかしいでしょうか。
 
 またまた愚痴ってしまいました。私などが何を言っても何も変わらないのでしょうが、私たち素人でも掘りたい衝動に駆られるのです。ねえ、佐々木さん。
 
 さて、駐車場に戻ってきたときには雨はほとんど止んでいたのですが、岡田さんはレインウェアを脱がずに車に乗り込みました。また降り出すかもしれないと考えたのでしょう。でも先述の通り、これがあだとなりました。ここで脱いでいれば袋を失くすことはなかったでしょう。でもあとのまつり。
 
 車は細い農道を抜けて、造山古墳の第5号陪塚である千足古墳へ向かいました。
 千足古墳は全長約80mの帆立貝式古墳で5世紀前半の築造とされ、2基の横穴式石室があります。石室には直弧文や刻み目直線帯を持った石障があり、一種の装飾古墳と考えられます。
 岡山市が復元に取り掛かったものの、昨年の豪雨災害によって完成が大幅に遅れているとの情報を得ていたのですが、それなりに工事が進んで近づくことは可能だろうと思って行ってみると、どうしてどうして。こんな状態で近づくことさえできませんでした。
 

 佐々木さんの空腹状態がそろそろ限界にきたようで、次のこうもり塚古墳に向かいながらランチのお店を探すことにしました。
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鯉喰神社弥生墳丘墓(吉備国実地踏査ツアーNo.4)

2019年06月06日 | 実地踏査・古代史旅

 楯築遺跡を見学しているあたりから雲行きは怪しく雨粒がパラパラと落ち始めました。次の鯉喰(こいくい)神社までは北西へ車で5分ほどですが、ちょうど到着した頃に雨足が少し強まってきました。この日の天気予報は曇りで翌日は晴れだったので傘は持ってこなかったのですが、佐々木さんの雨男ぶりを侮っていました。

 鯉喰神社は楯築遺跡のところで触れたように、楯築神社を合祀した後しばらく、ご神体である亀石を祀っていたところです。鯉喰という不思議な名前はどこから来ているかというと、桃太郎伝説のもとになった温羅(うら)のお話からです。岡山県神社庁サイトに掲載された神社由緒を転載します。

 吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅が村人達を苦しめていた。戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢つき、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。社殿は元禄14年(1701)4月、天保13年3月に造営し現在に至った。大正6年4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。大正6年10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。

 この温羅伝説をモチーフにして桃太郎の話が生まれました。桃太郎伝説は各地にあるそうですが、岡山県が最も上手にPRしたことから桃太郎といえば岡山、岡山といえば桃太郎というのが定着したそうです。今回のツアーで巡った備中の南部はまさに桃太郎の聖地とも言えるところで、どこへ行っても桃太郎ときび団子。古墳を訪ねても神社を訪ねても桃太郎。正直、興ざめでした。それに比べて、県内に1万2千基もある古墳、大和政権成立に貢献したことが窺える遺跡や遺物、由緒ある古社などの貴重な観光資源を活かし切れていないことを痛感し、佐々木さんの「桃太郎に頼りすぎや」には大いに賛意を表しました。 

 話を鯉喰神社に戻します。今回、この神社を踏査地に選んだのは桃太郎とは関係なく、この神社が弥生墳丘墓の上に建っていることからです。つまり、主役は神社ではなく墳丘墓なのです。

 いきなり階段を上ることからも墳丘の上にあることが想定されます。参道は社殿に向かってゆるやかな上り坂になっています。
 
 この狛犬のひとつが2015年に盗難に遭い、半年後に無事に戻ってきたらしい。ちなみにこの狛犬は備前焼です。
 
 墳丘を確認する前に参拝。この随神門の奥に拝殿があるのですが、あまり参拝する人がいないのか途中に大きなクモの巣が張っていました。
 拝む前は気をつけて避けたものの、拝んでから気が緩んだか、岡田さんがクモの巣に大接触。やっちまったなあ。門に掲げられた扁額には「御崎宮 鯉喰神社」と書かれています。訪ねた際には確認しなかったのですがこの報告を書くにあたって、あらためて調べてわかりました。
 
 参拝後、社殿の裏へまわって墳丘を確認しました。見えている建物は本殿です。
 
 
 
 
 この墳丘墓の築造は3世紀後半頃と考えられていて楯築墳丘墓から50~100年後ということになります。東西約40m、南北約32mの長方形と推定され、方形の弥生墳丘墓としては全国最大級の規模とされています。さらにこの墳丘墓からも弧帯石や特殊器台の破片が採取されたそうですが、社殿が建っているために、埋葬施設があると思われるところは調査されていません。

 

 ちなみに、楯築遺跡も過去に墳丘上に楯築神社が建っていましたし、現在でも祠が建っているのにどうして発掘調査ができたのでしょうか。それは楯築神社はすでにこの鯉喰神社に合祀されていた、つまり形式上は神社でなくなっていたためです。それでも地元民、とくに楯築神社の氏子の方々の墳丘に対する思いは鯉喰神社に移された亀石をもとの墳丘上に戻すほど強いものだったので、発掘チームは発掘の了解を得るために何度も足を運んで話し合いを重ねて理解を求めたそうです。 

 

 こういう話も含めて楯築墳丘墓と鯉喰神社墳丘墓はどこかでつながっていると考えたくなります。楯築に葬られた王の3代くらいあとの王の墓と考えてよいと思います。弧帯文石が出ているのが楯築とここだけというのもその証左となるでしょう。

 

 また別の視点で考えると、鯉喰神社には夜目山主命(やめやまぬしのみこと)と夜目麻呂命(やめまろのみこと)の父子、狭田安是彦、千田宇根彦の4柱が祀られています。夜目山主命と夜目麻呂命は吉備津彦命が温羅を退治する際に楯築遺跡の西方から駆けつけた武勇の父子とされ、あとの2柱は温羅の家来であったが吉備津彦命側に寝返ったとされています。これら4柱のうちの誰かが葬られているのかも知れません。夜目の父子は翌日の行程にある備中国一之宮の吉備津彦神社の摂社「尺御崎神社(しゃくおんざきじんじゃ)」にも祀られています。随神門の扁額に書かれていた「御崎宮」とつながります。

 

 さあ、いよいよ雨が強くなってきました。次は全国4位の規模を誇る造山古墳です。そんな大きな墳丘に上るのでここだけは雨はいやだったのに、佐々木さんの力に負けました。

  

 
やはり是非読んでいただきたいと思います。
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楯築遺跡(吉備国実地踏査ツアーNo.3)

2019年06月05日 | 実地踏査・古代史旅

 県立博物館の次はいきなりのメインイベント、王墓の丘史跡公園にある楯築遺跡です。弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の墳丘墓で、その大きさ、形、埋葬施設などなど、どれをとっても特徴的な弥生の墳丘墓です。ここだけは絶対に見ておきたい、と力説する岡田さん。私も同じです。どんなに雨が降ろうが風が吹こうが、岡山に来た以上はここに寄らずには帰れない、というほど古代史マニア、遺跡マニアにとっては重要な遺跡です。

 

 「王墓の丘史跡公園」は倉敷市東端の足守川右岸に沿う王墓山丘陵に広がる遺跡群を整備、公開した公園で、楯築遺跡はその北端に位置します。高度成長のとき、この地に総数1000戸規模の住宅団地が開発されることになったために発掘調査が進められ、数十基の古墳が残されることになりました。しかし、宅地開発はそのまま進められたために多くの古墳が失われたことは容易に想像できます。楯築遺跡は失ったものも大きかったものの、考古学者や地元民の熱意によってかろうじて今の姿で残ることになりました。

 楯築墳丘墓は、直径が約43m、高さが4.5mの不整円形の主丘に北東および南西側に長方形の突出部を持つ「双方中円墓」で、突出部両端の全長が78.5~81.5mとされています。北東側の突出部が宅地造成に伴って破壊されて一部が残るのみとなっているため、正確な長さがわからないものの、弥生後期の墳丘墓としては国内最大級です。
 
 双方中円形の古墳(双方中円墳)は全国で4例が確認されるのみで、そのうち3つが香川県高松市の石清尾山(いわせおやま)古墳群にある鎧塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端古墳でいずれも4世紀前半の積石塚の 双方中円墳です。高松は瀬戸内海を挟んで吉備とはお隣の関係にあり、古代より盛んに交易が行われていました。そして高松といえば岡田さんの地元です。ぜひとも追跡踏査をお願いしたいところです。もう1つが奈良県天理市の櫛山古墳です。櫛山古墳は全長が152mで古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造とされています。吉備の大墳丘墓と同じ形の古墳が大和で出現していることが興味深いところです。
 
 そして、この双方中円型の楯築墳丘墓こそが前方後円墳の原形であるという説があります。たしかに双方中円型のふたつの突出部(方型部)のうちのひとつがなくなったのが前方後円型である、と理屈的にはそうなるのですが、単純に形だけを理由にそのように言うのは少し抵抗があります。
 
 入口を入って坂道を上っていく途中に大きな説明板がありました。
 
 
 墳丘墓の全体イメージや発掘時の様子がよくわかります。
 
 さらに坂道を上ると墳丘の手前に立つ大きな白い建造物とその横にある小さな建物に出くわします。
 左の大きな建物は給水塔で、右に見えている小さな建物が収蔵庫、その向こうの木々が茂ったところが墳丘です。
 
 給水塔の建設によって南西側の突出部の先端部を残して大半が破壊されましたが、ギリギリのところで先端部が残っていたお陰で突出部の長さを特定することができたのです。
 この給水塔は丘陵周辺に開発された住宅団地に上水を供給するためのものです。岡山県もしくは倉敷市が建設したものと思われますが、事前に教育委員会等の文化財担当部局に共有されていれば破壊されずに済んだかもわかりません。
  
 王墓の丘を上空から見た図。
 丘陵部のほとんどが宅地になっているのがわかります。写真上部の白い点が給水塔の位置、すなわち楯築墳丘墓の場所です。
 
 これは博物館で見た「伝世弧帯文石」が収められている収蔵庫です。この弧帯文石は地元では亀石と呼ばれ、楯築遺跡の墳丘上にあった楯築神社という神社のご神体として代々伝えられてきたものです。大きさは、93cm×88cm×30~35cm、表面には弧帯文と呼ばれる文様が施されています。
 楯築神社は 1909年(明治42年)に北西にある鯉喰神社に合祀され、社殿が解体されたときにご神体も移されました。その後、もとの場所に戻したいという地元の人々の願いによって1916年(大正5年)、墳丘上に祠を建てて再びもとの場所に戻されました。人の手によって伝えられてきたものなので「伝世弧帯文石」と呼ばれます。
 この経緯に興味のある方はこちらをご覧ください。→ レファレンス共同データベース 
 
 収蔵庫に収められた弧帯文石。
 
 収蔵庫の小さな窓からは弧帯文石の実物が収めされているのがハッキリと見えました。これは感激です。  
 反対側からも。
 やっぱりレプリカよりも実物ですね。迫力を感じます。
 
 墳丘の埋葬施設の発掘によって、同じような文様を持った数百の石の破片が出土しました。全部を接合すると、なんとこの弧帯文石を少し小さくしたものが出来上がりました。大きさは、61cm×30cm×16cmで、体積比では亀石の9分の1ということになります。一部の破片に焼け焦げたあとがみられたので、被葬者を埋葬したあと、その上でこの石を破壊して火を用いた何らかの埋葬儀礼を行ったと考えられています。この接合、復元された弧帯文石はたしかここを発掘した岡山大学に保存されていると思います。
 この弧帯文石の文様は大和の纒向遺跡にある纒向石塚古墳から出土した弧文円板の文様とそっくりなことから、吉備と纒向の葬送儀礼の共通性を説く考えがあります。纒向石塚古墳の築造は3世紀前半あるいは中頃と考えられており、楯築墳丘墓が築造されたとされる2世紀後半から3世紀前半とそれほど時間を経ていないことから、この考えは賛同できます。
 
 さて、楯築墳丘墓の主丘(中円部)はもう目の前です。 
 
 墳丘上には5つの大きな石が立てられています。これらの巨石はそのまんま「立石(りっせき)」と呼ばれています、そしてそのうちのひとつには扉を持った祠が設けられています。先述のとおり「亀石」がご神体として祀られていました。
 
 
 
 立石と一体で建てられた祠 
 収蔵庫が建つ前はここに亀石が収められていました。
 
 この祠の横(写真の左側)を発掘したときに埋葬施設が見つかりました。木棺の底一面に朱が敷かれ、その量はなんと32kgにも及ぶそうです。副葬品として鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉などが出ました。この木棺が腐敗して崩れたときに葬送儀礼で地上に積まれていた多数の弧帯文石の破片や土器片、礫などが埋葬空間に崩れ落ちたようで、それらがまとまって出土しました。
 
 そして、墳丘の各所から特殊器台や特殊壺の破片が10セット分も出土したそうです。特殊器台は古墳時代の円筒埴輪につながる弥生時代後期の吉備地方特有の土器で、この楯築遺跡から出たものはもっとも古い型式の立坂型と呼ばれるものです。県立博物館で見た宮山型は円筒埴輪に変化する直前の型式のものです。その宮山型の特殊器台は最も古い前方後円墳とされる纒向の箸墓から見つかっています。詳しくは宮山墳墓群のところで見ようと思いますが、吉備と纒向のつながりが想像以上に強いと実感しました。
 
 現在の墳丘上は完全に埋め戻されて埋葬施設や遺物の痕跡は全くなく、ただ大きな石と祠だけがここが神聖な場所であったことを示しているだけです。
 
 斜面にも列石が巡らされていますが、素人には大きな石がゴロゴロと転がっているだけで墳丘を巡る列石とは思えません。
 
 
 この階段は遺跡の反対側から登ってくる階段で、もともとは楯築神社の参道であったと思われます。
 
 ここが北東部の突出部の根元。
 本来の姿はこの先に幅が3~4mの突出部が十数m先まで伸びていましたが、ご覧の通り数mを残してその先が切断されています。この先は崖になっていて下に住宅地が広がっています。
 写真の右下に小さな石が3つ並んでいます。これが突出部発見のきっかけになった列石だそうです。岡山大学の先生がこれを見つけて突出部の存在を感じ取ったそうです。専門家の経験に基づく勘というのはすごいですね。
  
 突出部先端からの眺めは素晴らしい。
 右側に見える山が吉備の中山です。拡大するとふもとに翌日に行く予定の吉備津神社が見えます。ここに墳丘墓を築いた当時、おそらく墳丘上の木々はなかったと思います。360度の眺望があったでしょうし、逆にふもとの村々からこの墳丘墓を拝むこともできたはずです。
  
 どうしても来たかった楯築墳丘墓。吉備と纒向のつながりを確信しました。来てよかったです。このあと、同じ弥生墳丘墓の上に建つ鯉喰神社へ向かいました。
 
 
 
楯築遺跡発見から発掘に至る物語は感動ものです。
是非お読みください。
 ↓
 
 
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岡山県立博物館(吉備国実地踏査ツアーNo.2)

2019年06月04日 | 実地踏査・古代史旅
 5月31日、JR岡山駅での集合時刻は9時でしたが、東京でJRのトラブルに遭った佐々木さんは約30分遅れで到着。3人揃ったところで西口にあるバジェットレンタカーに歩いて向かいました。途中、数名の男性グループが後ろを歩いていることに気がつき、おそらく同じところへ向かっていると直感した私は少し歩を早めました。レンタカー屋に着くと案の定、そのグループも店に入ってきました。小さな店舗で手続きをする担当はひとり。タッチの差で先に着いたのは正解でした。逆だと15分くらい待たされることになっていました。手続きを済ませて外に出ると岡田さんがすでに運転席に座っています。最初はお願いするとして、2日間あるので途中で交代しようと思っていましたが、結局最後まで運転してもらうことになりました。
 
 最初の目的地は岡山県立博物館。博物館は岡山市内を流れる旭川の中洲にある後楽園の敷地内に建っています。駐車場は1時間100円と格安です。公式サイトによると「岡山県立博物館は、原始・古代から近世に至るまでの文化遺産を収集保存して、長く後世に伝えるとともに、その代表的なものを展観するための歴史博物館として、県政百年の記念事業として昭和46年に開館しました。」とあります。今回のツアーの主旨はあくまで古代史の実地踏査なので、私達は古代の展示のみの見学としました。 
 
 
 博物館の目の前が後楽園の入り口です。確か、岡山大学に通う高校の同級生の下宿を訪ねてきたときに後楽園に来たように記憶しています。40年近く前の話です。

 
 2階の第一展示室にいた係員に写真撮影ができるかを確認したところ「できない」との回答。古くに設立された公立の博物館は写真撮影を禁止しているところが多いように感じます。展示資料の素材によってはフラッシュ光の影響を受ける場合もあるだろうから、その資料に限ってフラッシュ撮影禁止というなら理解できるのですが、そもそも全部ダメというのは時代錯誤も甚だしい。「都道府県あるいは市町村が保管している重要で大切なものを見せてやっているのだから有難いと思え、写真撮影などもってのほか」という権威主義を垣間見る思いです。岡山県立博物館条例を見ると、第10条に「次に掲げる行為をしようとするときは、教育委員会の許可を受けなければならない」として第2項に「写真又は映画を撮影すること」とあるのですが、映画はわかります。他の見学者に迷惑をかけたり施設を破損させる恐れがあるから。でも写真は問題ないと思いませんか。さらに公式サイトにも「当館ではご所蔵者からの寄託品・借用品があり、著作権、所有権の問題が発生することを防ぐため、また、フラッシュは文化財にとって致命的な損傷を発生させる可能性があるため、展示品のカメラ、ビデオ等による撮影は一部を除き禁止しています。(携帯電話による撮影もご遠慮ください)」とあるのです。寄託品や借用品は撮影禁止というのはどこの博物館でも言われるのですが、そもそも寄託を受けるときに、あるいは借用するときに撮影許可をもらう努力をしたのか、と言いたいのです。それをするのがいやだから最初から撮影禁止にしているのだとさえ思ってしまう。

 岡山の貴重な文化遺産を写真に撮ってブログやSNSで世界中の人に発信することで、ぜひ実物を見たい、岡山の歴史に触れてみたいと思って岡山を訪れる人が増えるかも知れません。この博物館は自由に写真が撮れて居心地のいい博物館だという評判が広がって見学者が増えるかも知れません。学芸員の勉強をしていて、多くの博物館で見学者を増やすことに頭を悩ませていることを知りました。旧い体質や意識を変えていかないとダメです。お客さんに来てもらいたいという気持ちが伝わらないとダメです。象牙の塔にこもっていてはダメです。これくらいにしておきます。
 
 ここまで文句を言っておきながら、実は見るべきものはあまりなかった。このあと行くことになっている楯築遺跡に収蔵されている「伝世弧帯文石」のレプリカ以外、何が展示されていたかほとんど記憶にないのです。もしかすると宮山墳墓群出土の宮山型特殊器台の実物があったかもわからない。記憶に残っているのは、佐々木さんと岡田さんがどこかのおばちゃんに捕まって話し込んでいる姿と、大きな年表を見ながら3人で少し議論したことくらい。ひととおり見学して1階の第三展示室へ。なんと、ここは写真撮影OKでした。違いがよくわからん! 何だかなあ、、、
 
佐々木さんと岡田さんが何やら話しています。

 
 

 ここには宮山型特殊器台のレプリカが写っています。この博物館は実物を収蔵しているはずなのに、ここにはレプリカが。ということは第一展示室で見た特殊器台はやはり宮山型だったのかな。
 
 
 館内の見学を30分くらいで終えて外へ出ました。博物館入り口の近くにふたつの石棺が置かれていました。野外展示です。これは当然撮影OKなんでしょう。
 
 
 果たして、わざわざこの博物館に来た価値があったのかどうか、行程を組んだ自分でも疑わしい気持ちになりましたが、気を取り直して次の目的地である楯築遺跡へ向かいました。


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吉備国実地踏査ツアー(No.1)

2019年06月02日 | 実地踏査・古代史旅

 2019年5月31日・6月1日、古代史仲間である岡田清之さん、佐々木偉彰さんとともに「吉備国の成り立ちを検証する」というテーマで、岡山県へ1泊2日の実地踏査ツアーに行ってきました。おふたりとの関係やこれまでの取り組みについては当ブログをはじめ、いくつかのところで紹介させていただいておりますが、あらためて確認しておきたいと思います。

 岡田さん、佐々木さんとも私が勤務する会社の3期上の先輩です。岡田さんは昨年、めでたく定年退職、現在は故郷の香川県高松市で岡田清之行政書士事務所を開設されて行政書士として活躍されています。一方の佐々木さんは45歳の時に転職、起業され、現在は合同会社ウイン・アクションの代表であり、セカンドアカデミー株式会社のエグゼクティブコンサルタントとして活躍されています。また、佐々木さんは大学の先輩でもあります。

 3人で各地の遺跡や神社を訪ねる実地踏査ツアーを始めて6年、今回で第6回目となりますが過去の5回は、大和の纒向、熊野、埼玉、丹後・出雲、北部九州各地を訪ねてきました。また、佐々木さんがセカンドアカデミー(株)の代表をされているときに株主招待旅行として日向の高千穂や西都原古墳群を訪ねたことも含めると全部で7回の実地踏査を重ねてきたことになります。

 さて、今回は2日間にわたる吉備ツアーの行程を紹介したいと思います。

1日目。

  私は大阪から、佐々木さんは東京から、岡田さんは高松からJR岡山駅に集合してレンタカーにて出発。

 →まずは岡山県立博物館にて吉備の古代史を概観。

 →いきなりのメインイベント、弥生の大墳墓である楯築墳丘墓。

 →おなじく弥生墳丘墓のある鯉喰神社。

 →岡山最大の前方後円墳、造山古墳と陪塚の千足古墳。

 →吉備路風土記の丘にあるこうもり塚古墳。

 →全国第10位の前方後円墳、作山古墳。

 →丘陵上に広がる弥生の群集墓、宮山墳墓群。

 →桃太郎伝説の残る古代山城、鬼ノ城跡。

 →JR岡山駅近くのビジネスホテルにて宿泊。

2日目。

  ホテルを出発。

 →備前国一之宮の吉備津彦神社。

 →備中国一之宮の吉備津神社。

 →岡山の埋蔵文化財を展示する吉備古代文化財センター。

 →吉備の中山に残る吉備津彦の墓と言われている中山茶臼山古墳。

 →岡山のスポーツの聖地に残る津島遺跡。

 →神武東征の仮宮である吉備高島宮跡。

 →古代から中世の複合遺跡、百間川遺跡群。

 →JR岡山駅近くの飲食店にて振り返りミーティングをして解散。

 

このあと、順に紹介したいと思います。

 

 

 

 
 

 

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