いよいよ国譲りの第三段階であるが、これを考える前に私がここまで書いてきた、あるいはこれから書こうとしている物語における重要なポイントを箇条書きにして確認しておきたい。
●日本列島における縄文時代から弥生時代への変化は大陸からやってきた人々によってもたらされた。
●大きくいえば、中国江南から東シナ海を渡ってきた人々と中国中原あたりから朝鮮半島をわたってきた人々によるものであった。
●前者は南部九州から中部九州を中心に文化を発展させていき、北部九州を侵食しながら瀬戸内、そして畿内へと勢力を拡大しつつあった。(この南部九州から中部九州を勢力範囲とする国が魏志倭人伝にいう狗奴国である)
●後者は北部九州から日本海沿岸の山陰各地域にかけて小国による衝突を繰り返しながら出雲を中心に次第にまとまりつつあった。(これら小国の連合体が魏志倭人伝にいう倭国である)
●この2つの勢力はそれぞれに紆余曲折を経ながらも、いずれも列島外からやってきた天津神集団として日本国の骨格を形成していく。
●そして大和の地において、前者は神武天皇に始まる神武王朝を、後者は崇神天皇に始まる崇神王朝を成立させる。(この崇神王朝こそが魏志倭人伝にいう邪馬台国である)
●記紀には神武王朝に続いて崇神王朝が成立したとあるが、実際は両王朝が並立してにらみ合いつつ、崇神王朝が優勢な状況であった。
●その崇神王朝を倒して政権の座に就いたのが応神王朝で、さらに継体王朝を経て天武王朝へとつながる。
●記紀編纂を命じた天武王朝は神武王朝と同系統、すなわち中国江南の流れを受け継ぐ集団であった。
後半部分の論証はまだできていないが、大まかに言えばこういうことになる。
そして、この考えの下で記紀を何度も読んでいるうちに、もう一つの考えが浮かんできた。記紀では、神武王朝のあとに崇神王朝という順に書かれているが、実際のところは並立していたと私は考えている。ということは記紀において崇神王朝の事績として描かれていることであっても、それは神武王朝の後のこととは限らない。神武王朝よりも前に起こっていたことかもしれない。そして私は、崇神王朝の事績でありながら神武王朝よりも前に起こったことを神代巻、特に出雲神話の中に表現したのではないかと考えた。神武王朝よりも先にあった崇神王朝の事績を神話の中に神の事績として書き、その後の崇神紀には崇神の事績としてより具体的に書いた。だから神代巻と崇神紀は次のようによく似た話が出てくる。
たとえば八岐大蛇の話。素戔鳴尊が大蛇の尾を斬ったときに剣が出てきたが、この剣は三種の神器のひとつの草薙剣であり、素戔鳴尊はこれを天津神に献上したという。一方、崇神紀では出雲の神宝を矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖にあたる武諸隅(たけもろすみ)を派遣して献上させようとした、とある。出雲の神宝が剣であったかどうかわからないが、神器を取り上げるという点でよく似た話である。
同じく八岐大蛇の話。古事記では高志之八俣遠呂知とされ、また出雲国風土記にある大己貴神による「越の八口」の平定話とあわせて素戔鳴尊が越を平定したことの表れとされるが、崇神天皇は越を平定するために四道将軍の一人として大彦命を派遣している。(ただし、私は「八岐大蛇=越」という考えはとらず、四隅突出墳丘墓の分布と変遷から素戔鳴尊のときに出雲が越に進出して支配権を確立した、と考えていることは先に書いた。)
国造りのあと、大己貴神は海を照らしてやってきた自らの幸魂奇魂を大和の三諸山(三輪山)に祀った。そして崇神天皇は、疫病や農民流浪による国民の疲弊を治めようと大田田根子をして三輪山に大物主神を祀らせた。神話の世界は神の事績が書かれているという点で問題ないが、ここでは神(大己貴神)が神(自分の幸魂奇魂)を祀るという不自然なことになってしまっている。実際は三輪山に神を祀ったのは神ではなくヒトであった。それを無理やりに神話の世界に押し込めたためにこのようなことになった。そのヒトとは、先に書いたとおり崇神一族であっただろう。
素戔鳴尊は自分の子孫の国に浮宝(船)がなければ困るだろう、と言って杉と檜を船の材料に定めたが、崇神天皇は、船が無くて困っている人民を見て諸国に船舶を造らせた。
これらのことは、神武王朝と崇神王朝が並立していた、あるいは崇神王朝のほうが少し早く成立していたことの傍証になるのではないかと思っている。そしていよいよ国譲りの最終段階、日本書紀神代巻のクライマックスに入る。
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