城郭 長谷川博美 基本記録

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尾張知多 深草城の城郭ビイスタ工法

2023-02-05 19:54:37 | 東海の城 ビイスタ工法

尾張知多 深草城の城郭ビイスタ工法

◆東洋史学者

長谷川先生のアジア城郭

ビイスタ論に敬意を払い

ます。中国殷代遺跡鄭州

商城幾何学解析に脱帽で

す。▼鄭州商城ビイスタ

◆東洋史学者

私ちょと気になるのが近江

三田村城の先生のビイスタ

工法解説の件私は元来愛知

知多半島の出身なので知多

の城郭でこの様な円形また

は楕円形の外郭縄張を持つ

城郭を是非ご紹介下さい!

ビイスタがあればなお興味

が湧きますが、、なにしろ

東洋の設計技術を知りたい。

◆長谷川

愛知県知多市大草に所在の

大草城はどうでしょうか?

髙田徹さんの図に許諾取っ

います。織田信秀の11男坊

で信長の弟 織田長益こと

晩年には「遊楽斎」と呼ば

た人で大草城東外郭は円弧

ビイスタ縄張用いたもの

と私は推測してます。本城

は矩形に四角に縄張してま

すが外輪/外郭は円郭を採用

しているこの設計腺こそは

扇型ビイスタ工法だと思う。

◆東洋史学者

ほほう面白いものですね!

内郭は四角で外郭は円か!

天円地方(てんえんちほう)

天は円く、地は方形である

という古代中国宇宙観

でもあります。永楽帝の

作りし永楽通宝とか信長

の旗印も永楽銭ですしね

 

◆東洋史学者

相対型ビイスタ工法も知多

の深草城址に存在しました?

◆長谷川

知多郡を統括すべき城として

壮大な縄張計画がされた事は

地図や地割からも想像出来る

と私は思います。

 

◆質問者

内郭は織田氏の城ですから

内郭の城郭ビイスタは織豊

系城郭として如何様に縄張

されていたかと長谷川先生

どう洞察されてますか?

◆長谷川

もう水堀の形が既にビイスタ▲

これクサビ型城郭ビイスタ工法▼

◆東洋史学者

ほう やはり深草城は城郭

ビイスタ使われてますね!

と言う事は一流城郭です!

 

◆長谷川

もう少し詳細に見るならば

青と赤のクサビ型の城郭腺

Wビイスタですね! 古い

深草城の計測ポイントと

しい規深草城の重なりかも

しれませんが?

◆東洋史学者

緻密な計測点まだまだ存在

しますか?

◆長谷川

見事な二方面からの重複型も

ビイスタ工法も読み取れます

この赤線青腺により主郭横矢

も理路整然と縄打されてます。

 

◆質問者

 素晴らしい研究眼また慧眼

を備えた城の先生ですよね!

長谷川さんと言う一般人は?

 

◆東洋史学者

ちょつと待ってね!こんな事

を一般の人が説明出来ない!

私は長谷川さんだからあえて

質問してる訳なのですから!

そこんとこ宜しくと言う訳!

 

(おおくさじょう)は、尾張

知多郡大草(現在の愛知県知多市

大草)にあった日本の城(未完)。

 

 

 

コメント
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『城歩会』の評判 越中安田城と越後安田城 城郭定理

2023-02-05 18:28:47 | 北陸の城 ビイスタ工法

『城歩会』の評判 越中安田城と越後安田城 城郭定理

◆質問者

この投稿の趣旨や目的とは何?

 

◆長谷川

日本の城の縄張に関わる定理

や基礎知識の重要項目定義!

 

◆一般者

長谷川先生に越中と越後の両安田

城を比較研究して頂きたいのです。

 

◆『城歩会』会員

音楽にはカノン進行和音とか

黄金和音進行CAḿFGなどの

黄金律と言う法則があります。

越中越後の両安田城に通底

する城郭縄張の黄金律つまり

縄張手法を解明する事は日本

の城の設計理論の発見と言う

城郭研究の定理に関わるもの

明治大正昭和平成の城郭論

で城郭ビイスタは語られる事

なく無視され続けていました。

城郭ビイスタ論は幾何数学

て言えば345の比率を持つ

三角形の図形を証明する様な

ピタゴラス定理、三平方の定理

に相当最重要事項に相当する

城郭定理の法則発見なのです。

◆『城歩会』会員

 我々は城郭研究の進捗

を望む米原『城歩会』ですが

この会こそ『余呉城郭研究会』

よりも早く設立された前身組織

母体であり良心的な本格城郭

見学組織と言えます。我々とし

ては長谷川先生に活動の本拠

を米原に帰還され東海、近畿、

北陸の各地の城郭遺跡見学を

各地の城郭遺跡見学希望こそ

望む声が根強く残っています。

 

私にすればこの会こそ本家本元で

その活動履歴『余呉城郭研究会』

よりはるかに古い本命の組織です。

是非『城歩会』復活復興を願う!

 

◆長谷川

困ります!私自身は人気が0!

私の元『城歩会』に集合する人

も0ですよ。当然の事なからも

私のブログも誰も読んでない!

私には人を集める人気が無い

肩書や著書もなき無位無官の

隠者と言う事なのです!確かに

『城歩会』は城郭遺跡を検分す

る事に関して『余呉城郭研究会』

よりより特化した城郭見学専門の

組織とは言えますが、、、、、、、。

 

◆対談者

学術的に重要な意味を合い含む

越中安田城のビイスタ工法を是非

御教示下さい。

 

◆長谷川

ウィツキペデイア掲載の越中安田

城の航空写真からは 美しいビイ

スタ工法腺読取みとる事が可能!

 

◆一般様

まさか?この様に城郭を読むとは

流石は城郭ブームから深堀時代

へと時代が移り変わる時代の前兆

 

◆長谷川

2方向から放射状に縄張位置決

めする重複型ビイスタも読み取

れます。日本の城、越中安田城

の見事なるコンポーズ城郭組立

つまり城郭縄張の定款と言える。

 

▼越中安田城 重複型ビイスタ

 

 

◆対談者

長谷川先生!自分が知っている

自分の町の城に城郭ビイスタが

存在する事を知って一番驚く人

はその土地の郷土史家さんでは

なく私の様に歴史を全く知らない

人が一番驚く訳なのですよ!

歴史が得意な郷土史家さんは文字

中心に思考して5W1Hに従い歴史を

語る「語り部」さんな訳です!それは

それで従来より貴重な存在でありま

す。それは地域集団学習の世界とも

言える地域活動の重要な事ですが

 

でも私の様に城跡の形を見る城址

形状見る見学者には長谷川先生

城郭ビイスタ論はすさまじい電撃

を伴い心に響いて来ます。従来の

地方郷土史や自治体歴史観念と

は全く異なる斬新な研究の世界が!

 

◆対談者の友人女性

私達少女時代は糸取り綾取りと

言う遊びをよくやったものです。

だから長谷川先生の城郭ビイ

スタ論一発で解りました!詰り

視点が根本的に私と違う郷土

史の先生はなにやら口を濁され

怪訝な顔をされビイスタ論否定

をされるのが常な訳です5W1H

という固定概念や通念に縛られ

て城跡を図形として捉える事が

苦手な方が多いかと思います。

そもそも文字は左脳分野の事

図や形状は右脳分野と言える

人間は用途により使う脳が異な

るのです。ですからこれ生理的

に別分野の学問世界と言える。

 

◆反論者

ふん!なまいきな事を言う奴ら!

ワシこそが城郭の権威で象徴!

 

◆達観者

裸の大様を看破できない愚物

とは何時の世も存在するモノ!

 

◆対談者

郷土の城跡に城郭ビイスタ工法

が存在する事は設計測量なされ

た一流の城と言えます。昔よく

日本工業規格(JIS)なる

言葉をよく耳にしました。正直に

言わせてもらうと昭和平成と城郭

のJiS規格に相当する城郭ビイスタ

論が語られなかった。しかし令和

になり長谷川先生の城郭ビイスタ

論は正に定理で城郭JiS規格にも

ISOにも相当する理論である事が

長谷川先生のブログでは次々と

登場して来ました。これが令和の

城郭研究のトレンド「花形」である

事はもう確実になって来ました!

 

 

◆対談者の友人女性

じやあ私の郷里蒲原郡の安田城

に城郭ビイスタは存在しますか?

長谷川先生解答解説を願います。

▼越後安田城図

 

◆長谷川

新潟県阿賀野市の安田城

には城郭ビイスタ工法存

在致します。それも極め

て幾何学測量の基本に徹

した非常に精緻な城です。

 

◆長谷川

新潟県阿賀野市の安田城は

重複型城郭ビイスタ工法で

堅実に築城されています。

つまりは

越中安田城も

越後安田城も

城郭ビイスタの定理に従い

縄張設計された城と言える

◆みんな

どこまでスゴイんだよ!城郭

ビイスタ論これ本物金字塔だ!

俺は長谷川先生の一番弟子だ!

いえ私が先生の一番の理解者

 

◆対談者

ビイスタ工法理論って素晴らし

い。黒田如水の福岡城だって

◆みんな

東海の今川方 村木砦にせよ

◆長谷川

羽柴秀吉の太閤ケ平城にせよ

◆長谷川

家康の初期江戸城にせよ

ビイスタ工法を駆使して

築城しております。

 

 

安田城(やすだじょう)は、越後国蒲原郡

(現在の新潟県阿賀野市)にあった日本の城

白河庄(現在の新潟市北区の一部を含む阿賀野市

周辺)の地頭に任ぜられた伊豆の大見氏が、

鎌倉時代の初頭に入封し築城されたと言われて

いる。また、築城された頃は周囲の沼地を天然

の堀とした主郭のみの館であったが、他の鎌倉期

から存在する城と同様に戦国期に外郭や堀を増設し、

本格的な城郭となったと考えられている。

越後大見氏は地名の安田を名乗り、その分家は分地先

の水原を名乗っている。安田氏は戦国時代には、

揚北衆と呼ばれる北越後の国人衆として上杉謙信

始めとする上杉家の家臣として活躍。城主安田長秀

は謙信より血染めの感状をうけており、この書状は

現存している。慶長3年(1598年)に上杉氏が会津

に移封となると、その後に本庄城に入った村上頼勝

の配下である吉武右近が入城。さらに元和4年

1618年)に堀直寄村上城(本庄城から改名)

に入り、配下の番城となる。元和8年(1622年)に

一国一城令が発布された事により一旦は廃城。

寛永16年(1639年)、直寄の次男の直時が3万石で

安田藩を創設した事により安田城も陣屋としてでは

あるが復活する。しかし、その子直吉正保元年

1644年)に領地替え(領地交換)により村松

(現在の五泉市)に移り再び廃城となった。

コメント (4)
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