◆対談者
長谷川先生!先生の城郭ビイスタ論全国的に話題
となり動画を視聴する人が絶えません。普段私は
先生と平凡に城郭見学している者として何故城郭
ビイスタ論動画だけが好評なのか全く理解不可能
です!この様な異変が令和に起きる事も夢思わず。
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆質問者
明智光秀は当時、織田家の外様大名です。光秀
が欲する築城希望に対して織田家の城郭監査役
の人物が居たのでしょうか?
◆長谷川
①文献『兼見卿記』元亀四年(1573)七月十四日
条に、信長が明智光秀の進言を傾聴し京都の吉田
条に、信長が明智光秀の進言を傾聴し京都の吉田
山築城を企図し柴田勝家を実地検分に派遣した
が、吉田山「神楽岡」に城を設けるには向かな
いとして断念した記録があります。柴田は監査役。
②文献『言継卿記』
の永禄十一年(1568)九月二十七日の条、上洛
を果たした織田信長方軍勢の傘下として江北郡
衆・高島衆八千ばかり、神楽岡に「布陣」した
記録があります。北近江の武士団が京洛へ進駐。
神楽岡は京都の吉田山の事です。
◆長谷川
②は北近江と西近江合せて浅井備前長政が8千
の京都への軍勢配置が可能であった戦国大名
であった事が文献から理解出来ます。また
志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年(1570年
)9月16日から12月17日にかけて発生した、
織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺
の戦いでは『信長公記』には浅井朝倉高嶋衆を
合せて3万人と記録しており当時朝倉氏は2万2千
ほど兵員を志賀の陣に投入した事が想定できます。
姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代
元亀元年6月28日近江浅井郡姉川河、滋賀県長浜
市、野村町、三田村町)で行われた合戦ですが
浅井朝倉方は姉川合戦に敗北して横山城を信長
に奪取されましたが敗戦後も大津志賀郡方面に
出陣する余力が残っていた事が推定されます。
①は当時織田家新参者の明智光秀が京都吉田山城
築城の稟議を早くも信長にアドバイスした事また
当時信長の家老的「大人」的存在の柴田勝家自身
を京都神楽岡「吉田山」に派遣した貴重な記録で
す。つまり柴田は城郭築城の監査取締役であった
とも考えられます。
▼令和3年玄蕃尾城見学会記念写真コラージュより
◆質問者
柴田勝家など無骨一辺倒で築城選地を監査する
だけの技量や裁定能力は脆弱だと私は考えます?
◆長谷川
柴田勝家の玄番尾城を見る限り黒線の大ビイスタ
も赤線の中ビイスタ工法も存在築城巧者ですよ。
柴田が築城に関し無知とは到底考えられません。
天正11年1583年賤合戦に際して築城さけた内中
尾山城「玄蕃尾城」では見事な築城術を発揮して
います。また信長の父「信秀」の代より織田家に
出仕しやがて信秀の城「末森城」の後継者となっ
た織田信勝の家老でもあり彼の遺児/津田坊丸を
養育して織田信澄としてて育成監督として力量
力があると思います。末森城自体にもビイスタ
工法の片鱗が見受けられると思います。東国の
城には複数の馬出郭や横郭を設定する事が常識。
◆質問者
長谷川先生の過去履歴は青年期より
長いキヤリアがあると聞いています。
◆質問者
長谷川先生の賤ケ岳合戦古戦場解説には驚異的な
現地解説力を発揮され参加される戦国城郭見学者
を圧倒する『滋賀県中世城郭分布調査』で10年間
活躍された実績と実力は知る人ぞ知るの定評があ
る。先生の城址設計解説は戦前戦後通しても何れ
の城郭研究家も成し得なかった「城郭遺跡幾何学
分析手法」いわゆる『城郭ビイスタ論』だと私は
思います。日本城郭研究家の中で殊更な4異彩を放
つ東西随一の力量実力を持つ稀代の城郭研究家、
としての定評があります。古戦場古城の現地解説
をさせたらその分析力は我々常人に及ばない特殊
な観点の城郭洞察力を持つ先生だと思って今まで
先生の陣城古戦場見学に付いて参りました先生の
実力は世間であまりにも過小評価されていると思
います。その現地解説には常々驚かずにはおられ
ません姉川合戦に使われた浅井朝倉方朝倉景健の
陣所「三田村城址」には城郭ビイスタ工法の痕跡
があるのでしょうか?
◆長谷川
突然破天荒な質問をされて戸惑いますが貴方とは
続に言う「城郭鋭いさん」鋭敏な城郭遺跡見学者
と思います。貴方の御質問を謙虚に受け止める事
が凡庸な城郭研究家長谷川博美の役割と思います。
三田村城に南つまり姉川方面に向けて朝倉景健の
陣は半円状計画的に外柵を設けた可能性もあり
ます。または三田村氏の城館の外郭外輪の可能性
もビススタ工法的視点で見る事も可能でしょう。
◆みんな
すげえー!こんな事は誰も教えてくれませんよ!
◆長谷川
教えられるのではなく城の先生は城ですからね!
◆長谷川
この陣形見て何を考えますか?三田村氏の城館
構想や朝倉氏の布陣姿勢「朝倉景健」は守り専
一の越前から近江にお手伝にきた専守防御の構
えが読取れあまり姉川に浅井の様には突撃して
来ずに厭戦気分つまりヤル気が不十分でそこを
徳川に見逃さず看破されて姉川合戦で敗北した
一方越前の大守朝倉義景自身は越前に引き籠り
姉川の現場にさえ来ていません。認識の甘さが。
◆丹波亀岡城概略
織田信長から命を受け明智光秀が、天正5(1577)
年、丹波進攻の拠点の為に築城。保津川を北に望
む丘(荒塚山)に築かれた平山城で天正10(1582)
年の本能寺の変の時亀岡城から出陣したされる。
後に羽柴秀俊(小早川秀秋)前田玄以の修築を経
、慶長15(1610)年、岡部長盛の時代に天下普請
で城郭が完成。城づくりの名手、藤堂高虎により
五層の大天守が造営された。
質問者
さて丹波亀岡城の縄張りに放射線縄張ビイスタ
工法が存在するのでしょうか?何しろ明智光秀
の本能寺攻撃の時の出陣拠点の城ですから重要
長谷川
明智光秀時代の亀岡城と断言できない。しかし
本丸は扇型をしており江戸期亀岡城にビイスタ
工法が存在した可能性は0ではないと思います。
また藤堂高虎も徳川家康に属して亀岡城築城に
は伊賀上野城の天守材木を徳川幕府に提供して
いますから藤堂高虎の築城術も含め検討したい。
お断りしておきますが建物の作事奉行と石垣の
石垣奉行は担当分野が異なり当然石垣と建物は
一致しないのが城郭平面形状と城郭建物配置。
◆長谷川
亀山城主要部全体もビイスタ工法でしょう。図面作成
者様が解らずとりあえずネット記事より謹んで研究の
為に図面をお借り致します。御了承下さい不敬を詫び
ます。図面の完成度は著者様の図面作成が素晴らしい。
▼下図が大ビイスタに基づいて設計された亀岡城
◆長谷川
江戸期亀岡城を観察すると「御館」と「本丸」要害部
に別れている様に思われます。
▼扇型ビイスタ工法
▼丹波亀岡城 みどり色 中央ビイスタ工法
様々な測量起点を基準にして城が築かれた。
▼設計芸術性をも伴うビイスタ工法に驚愕する。
◆質問者
重複型ビイスタ工法は存在いたしますか?
また中ビイスタ型のビイスタ工法の存在?
◆長谷川
先ず中型ビイスタは黄色腺西の丸に存在し
他に緑色や青色のビイスタ腺が重複します。
◆長谷川
本丸は青色扇型ビイスタ工法で
黄色は小ビイスタ工法の縄張!
◆長谷川
坂本城に天主(守)の存在は、光秀と親交のある
神祇官吉田兼見(よしだかねみ)の『兼見卿記』
元亀3(1572)年12月22日の記事に「城中、天主
の作事」と書あります。安土城の天主より早い事
は確実です。ルイス・フロイスの『日本史』には
坂本城を「それ(坂本城)は日本人にとって豪壮
華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、
この明智の城ほど有名なものは天下にないほどで
あった」と記し。ルイス・フロイス『日本史』
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』で明智光秀
は「築城について造詣がふかく、すぐれた建築手腕
の持ち主」と記されてます。坂本城は天正10(1582)
年6月の山崎の戦い後に光秀の娘婿明智秀満が攻め
られ落城します。
◆質問者
明智光秀の近江坂本城跡に安土城や亀岡城や
玄蕃尾城の様なビイスタ工法は存在しますか?
▼安土城 ビイスタ工法線 挿入長谷川博美
▼下坂本地割り
下坂本地割
◆長谷川
近江坂本城址は市街地化が進捗したため全く城郭
の縄張は全く確認把握ができません。復元不可能。
◆質問者
坂本城の小郭には小ビイスタが存在しましたか?
幾何学の欠損を復元する事は可能ではないですか?
◆長谷川
無理です明確に御答え出来ない。しかしABC
等の小ビイスタが存在したかもしれません。
◆質問者
湾曲する街道やクリークの痕跡から
坂本城の琵琶湖からのビイスタ工法
を偲ぶ事が出来ますか?
◆長谷川
クリーク痕跡から琵琶湖側から見た
坂本城のビイスタ「見栄え」を復元
考察可能かもしれませんがこれは私
個人推測論である事を御了承下さい。
確かに琵琶湖から見て坂本城が美し
く見栄えのする城だった可能性こそ
否定できません。何しろ水城です。
◆質問者
江戸城には
本丸 山 紅葉山等も含む城塞部
浜御殿 海 と言う構成です。
浜御殿は後に皇室の浜離宮になりました。
彦根城には
本丸 山 彦根山 彦根城本丸 城塞部
浜御殿 湖 彦根松原 井伊氏松原屋敷 殿様
★木俣氏松原屋敷 家老
★木俣土佐守
木俣は明智の小納戸役を経験し徳川に帰順して
からも徳川雄藩井伊家の目付役として徳川家康
から派遣された重要な徳川の目付役的な人物。
◆長谷川
坂本城をルイスフロイス「宣教師」は城と邸宅
を坂本に明智光秀が建てたと『日本史』で表現
しています。戦闘の為の城郭と接客や饗応の為
の空間である坂本城にには、文献津田宗久の
『天王寺屋』(天王寺屋夜記)には★浜ノ方の座敷
と言う表現があります。★御座船を城の内より乗
り候てと表現されている事に注目致しましょう。
▲滋賀県中世城郭分布調査報告9より引用
◆長谷川
つまり坂本城には城郭と浜ノ座敷という2極面が存在
した可能性があます。
城=城郭
座敷=迎賓館/御座敷
また
①文献『兼見卿記』元亀四年(1573)七月十四日
条に、信長が明智光秀の進言を傾聴し京都吉田
条に、信長が明智光秀の進言を傾聴し京都吉田
山築城を企図し柴田勝家を実地検分に派遣した
が、吉田山「神楽岡」に城を設けるには向かな
いとして断念した記録から類推すると明智光秀
の坂本城の縄張や築城普請の織田家への稟議書
や築城申請は当時も不可欠であり坂本城も織田
家中の統制や監査を受けていた事が偲ばれます。
◆一般様
私達歴史紀行の人々は坂本城と言えば東南寺様
に近辺を散策したものですが現代は湖岸に坂本
城が作られていて大変に驚いている昨今ですが
江戸の昔から坂本城歴史紀行と言えば東南寺様
近辺の散策でしたが、、、?
◆長谷川
観光施設の本質は観光を隆盛させ地域観光発展を
推進する事が観光の本義であります。尾張清須城
も本来天守本丸とは関係ない観光地としての歴史
モニユメント「記念施設」です。観光と歴史現実
の違いを冷静に社会観察して坂本城の観光推進が
進捗する様に充分に分別して観光と歴史を冷静に
観察する冷静で温厚な社会観察眼を身に着つけま
ましょう。時代は何と言っても令和の現代です。
◆対談者
でも亀山城本丸の形状と
近江坂本城東南寺様の形状は類似する様に
私には思われてなりません。
◆長谷川
それは貴方の主観です。心の中に静かにしまって
おいて冷静に社会発展する様に心がけましよう。