画期的、放射線城郭構造理論 ビイスタ工法の世界
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ理論大変な話題です!
戦前戦後を通じ高名な城郭研究家さえも気付き得
なかった城郭縄張概念理論の根底を全く無名城郭
研究家の長谷川先生が解説すると言う快挙に衝撃
を感じます!まあ昔から長谷川さんて本当は凄い
研究家なんだよ。と言うウサワを小耳に挟んだ事
は何度も何度もあるが滋賀一般大衆民衆は全く理
解してない人間洞察力が脆弱と言わざるを得ない。
◆余呉人
それは仕方がない事、長谷川先生の『滋賀県中世
城郭分布調査報告』が旧余呉町役場の金庫に施錠
され封印されてたから我々余呉町の人さえ長谷川
さんの事を全く知らない隠された研究者だった訳。
◆県外から滋賀移住者
私は城のメッカ滋賀に意図して移住してきました。
しかし城郭遺跡を解説する先生と多数会話したが
長谷川先生の遺跡解説を聞き一味違う。これ本物
の城郭の先生だと日増しに気付き始めた。先生は
意図的に他者に隠されてる。私はネームバリュー
ムや肩書きやレッテルよりも現場の城郭遺跡を見
学する人間で長谷川先生は現場の遺跡を解説され
る人。私は名より実を冷静に評価する城見学の人。
一般者
そりや天正の天下人
織田信長の安土城と
豊臣秀吉の大坂城の
放射状縄張設計存在
解読して更に神奈川
の関白秀吉の石垣山の
一夜城の縄張手法をも
次々と解読したらなら
そりや世間は非常に!
驚くわ!画期的研究!
歴史的見解研究快挙!
まさに衝撃的研究だ!
一般者
そればかりか太閤秀吉として築城させた肥前名護屋城
の放射状縄張ビイスタ理論も発見され更に驚きました!
余呉城郭研究会
余呉城郭研究会として長谷川先生のビイスタ工法
の動画を録画したのに一年経過したのに全く動画
がアップされない事が不可解に思っておりました。
ああまた例の如く「長谷川隠し」の御蔵入りかと?
対談者
秀吉の関白として小田原一夜城にもビイスタ設計
つまり放射状縄張工法、ビスタ工法が存在する事
も自ら図面を作成されて、発表された事も衝撃的!
長谷川
測量計測文化の中に「分度器」の文化や規矩術が
存在する事を文系学者が気付かなかった事ですね。
歴史とは史「ふみ」であると強く固執して現地の
遺跡を省みない文字歴史文化が日本国内に蔓延し
元来本当は城郭の測量法が存在する事も着目され
なかった事に原因があると思われます。室町期の
能楽は江戸にまで継承され2ヵ所の能楽の見物視座
がある事も全く日本人の視点文化論として語られ
考察されていない事も起因してると私は思います。
いわゆる見栄え見通、見晴、見当、展望視点理論
や英語で言うポイント、オブ、ビュー、ビューや
ビューポイント。庭の鑑賞で言うならば要石や庭
の鑑賞視座点が必ずある事は忘れ去られています。
要するに日本語の見所や見晴や見当の言葉の意味
の深意自体が日本文化で語られる事が少なかった。
◆長谷川
そして何より世間の城郭研究者が従来から日本の
山城とは自然の地形を巧みに利用して築城された
と書き続けた事にある。その事で多くの城を学ぶ
人々は城は自然地形自然地形と脳内に刷り込まれ
山城の曲輪をデザインとして捉える事が出来なか
つた。肥前名護屋城も天下人豊臣秀吉の城だから
完璧な四角四面の本丸を完成させる事は可能だが
何故もっと四角四面に簡潔に築城しないのかと?
誰も疑問に思わなかった。その心理的原因は何か
?それ城を人工的計画的に観察検討しようとする
基礎心理初期学習に城は自然地形という固定概念
に縛られて城の縄張りを枡形や導入路や曲輪配置
野身にこだわり過ぎて城の全体基礎構図つまりは
放射状縄張術やビイスタ論や見晴展望論には気付
かなったと言えます。
質問者
我々一般者とくに城ハイキングや城イベントや城
探訪や城町興しや、城ガイドや城観光にとっては
長谷川先生の理論が全くピント来ないのですよ!
まるでレオナルド、ダ、ビンチの理論の様であり
全く我々一般はダ、ビンチの気持ちなど到底理解
出来ないのです。それよりも多賀町佐目の明智の
伝説の城を解説して下さい。勿論小字腰越にある
城址の形態や形状で明智は優れた縄張したのかと?
◆一般者
これはレオナルド、ダ、ビンチの某都市図面です。
西欧らしく放射状グリット線つまり長谷川先生の
説かれるところのビイスタ工法が勿論見てとれる!
時代や場所は異なれども人間が営む文化には常に
普遍性や共通性が存在致します。
◆長谷川
更に図面を詳しく注意してみます。都市入口の
門を守る為の堡塁つまり「砦」が、描かれていて
います。世間で俗に言う馬出機能と言うシステム
◆一般者
多賀町佐目明智伝説とは有り得ない伝説なの
でしょうか?佐目の城跡は果たして駄作か?
◆長谷川
文献『信長公記』には明智光秀が城郭知識
に秀でていたと全く記録されていませんが
でも軍記物『明智軍記』には光秀は信長の
城郭コンサルタントの如く記されています。
また当時日本に来ていた宣教師も明智とは
築城に秀で城郭に造詣ある人物としと記録
されています。文献吉田『兼見卿記』にも
光秀の居城坂本城天守の存在を記録してる。
滋賀県犬上郡明智伝説の城も素人の農民が
築城した形式ではないダビンチの描く都市
の絵図の如く機能的な半円形状の半月堡塁
の痕跡がある事に着目して頂きたいと思う
つまり多賀佐目の腰越の城址はハイカラな
城で知的な人物、あの信長をも納得させる
人傑で智的才能を持っ一族の砦と言う事に
なるかもしれません?佐目の山城の土橋の
前の半月堡塁の痕跡を丁寧に現地見学出来
る気質が果たして貴方にあるのか?ハイキ
ング客の様に通過したり城を探訪するだけ
の訪れる人なのか?先ずは自己分析ですね。
佐目の城や明智伝説を鼻の先でそんな物は
有り得ないと軽率には断言できない一面も
存在する。世の中には様々な見解や視点が
存在します。先ず城郭遺跡よりも時に社会
観察や人間模様の客観的観察から始めた方
が時に良いかもしれませんよ?
◆対談者
二次資料『淡海温故論』などには明智光秀
の出身地を多賀町佐目としていて甲斐武田
氏と明智氏が内通していた事が信長に露見
したと記載され本能寺の変に繫がったと?
◆長谷川
信憑性はともかく甲斐武田氏の新府城に
はビイスタ工法や馬出堡塁は存在します。
城郭素人の宮本さんが放射縄張線を鉛筆
で入れて城郭遺跡を幾何学分析さてます。
これは従来の研究手法や研究理念からは
全く省みれらる事の無かった分野の学門。
私は城郭講座に多数参加されて固定概念
の世界が既に脳内に形成された人よりも
純粋無垢に城址を見学観察される姿勢と
精神を尊びます。人間は記憶や常識固定
概念に縛られて時に真実を見落とします。
◆対談者
そこまで日本の歴史建築構造物のビイスタ工法や
放射状設計放射状縄張に気付く契機と経緯やその
過程の根本は長谷川先生にとり、どの城に有ると
言えますか?長谷川先生は文献『信長公記』講師
もされた長年い経験もあるし現場と文献の双方を
統合させる優れた研究家であり学門する人ですね。
◆長谷川
やはり滋賀県蒲生郡にある和田山城の優れた城郭
構造にあると思います。あの織田信長の『信長公
記』には永禄11年の箕作山城攻めの条では和田山
城に攻撃許可を美濃三人衆には下さず、箕作山城
を攻めています。これは信長が城郭構造の優劣を
看破する能力が高かったと思われます。和田山城
は土塁や虎口配置も巧妙で事前に和田山城の構造
はリサーチ事前調査していた事でしょう。兵法と
は敵の脆弱な城や象徴的な拠点を落城させる事で
「弱き場所」を攻めるのが兵法の常道です。和田
山城小規模城郭とは言え土塁線構造は非常に優れ
ており土塁の中に鉄砲の射手を配置すれぱ織田方
の損害は甚大と信長は思慮した事と私は思います。
◆一般者
和田山城?あんなチッポケな城小さい砦ですわ!
行く価値見る価値もなき無名の城の評価ですよ!
◆長谷川
城は有名無名そしてその規模で軽率に評価する事
を避ける事。有名無名に限らずその城の構造自体
を見学する事が城郭遺跡見学の本質。有名無名や
メジャー、マイナーだけの観点で城址に行く人は
名所めぐり、名城めぐりの、観光行楽部門の世界。
▼工程①縄張図を作成した。
▼工程②放射状設計起点Aを求めた。
▼工程③放射状設計起点Bを求めた。
▼工程④城郭を自分なりに復元してみる試論。
和田山城なかなかどうしてどうして巧妙な城。
完全に縄張技巧を読み切り復元する事は困難。
◆質問者
和田山城の天守のような櫓台から左下に古墳の
周壕のような遺構が、かすかに観察されますが
神奈川石垣山一夜城の天守台にも周壕のような
もの有りますか?
◆長谷川
たしかに秀吉の石垣山城も通路や天守屋根から
流れ落ちる雨水の対応は微細ながらしています。
◆質問者
近江小谷城は秀吉の城造に影響を与えたでしょうか?
◆長谷川
秀吉は天正2年に平城長浜城を築城開始した記録があり
ますが文献『信長公記』には天正3年に織田信長が越前
に向かう軍勢に小谷の秀吉から食料補給を受けた宿泊を
した記録があり小谷城の構造は当然秀吉の後の城造りに
影響を与えた事でしょう。そして何より秀吉の家臣の多
くが近江浅井氏に仕えていた武士団でもあり秀吉自身の
血統的な後継者豊臣秀頼の母親こそ元小谷城主浅井備前
守長政の長女「茶々」こと淀殿「浅井氏」である事など
も当然忘れてならない事でしよう。小谷城本丸大広間や
黒金門や柳之馬帯曲輪の仕切門などの構成も放射状縄張
ビイスタ工法が施されていた可能性が高いと思います。
▼小谷城 本丸周辺の楼閣と殿舎構成図 長谷川博美
◆比較研究論とは?
◆長谷川
織田信長は宣教師の記録によりますと岐阜城や
安土城に宣教師が訪れると自分の居城と同じ様
な城が西欧にはあるのか熱心に質問しています。
信長の学識は現代で言う所の東洋史学つまりは
中国思想史、中華思想に強く影響を受けてます
が彼は未知の東欧の文化特に築城にも強く興味
を示していた事が伺い知れます。それを現代語
に訳すなら比較研究論とでも言う事になります。
◆質問者▲
和田山城の櫓台にせよ。石垣山城天守台にせよ
天正大坂城にも安土城天守台にせよ四角四面で
はない納得行きません。まあ現実に安土城天主
は規則正しい礎石群と不整形な櫓建物の両者に
により成立していますが、、、、?
肥前名護屋城の天守も建物は規則正しく帰幾何学的
だが周囲の天守台石垣はけっして規則正しい矩形と
は言い切れないい印象を受けるのですけど?
◆長谷川
礎石を配置しているのは建築を担当する作事奉行
です。石垣のレイアウト配列は放射状理論で設計
されている築城担当の縄張り普請奉行の役割です。
双方は互いに矛盾しながらも築城が発達して来た。
◆長谷川
因みに羽柴秀吉の甥で近江八幡の秀次居館̪跡でも
特に櫓台Aは歪な四角形であり石垣の配列は放射
状縄張ビイスタ工法を用いてBCDなどの区画が
計画的になされています。勿論武家屋敷群は寺院
の区画を踏襲したものでもあります。しかしAの
区画には注目すべき特徴があります。
◆反論者
安土も石垣線と建物線の両者が一致しない不整合
が発生と建物からはみ出した石垣をどう処理した?
◆長谷川
安土城屏風絵を模写したとされるウインゲの版画
には巨大な腰板が石垣と建物の間に描かれてます。
腰板の技法は越前丸岡城天守にさらに腰板が退化した小屋根
が近江彦根城天守に残っております。我々がイメージしてる
近世の城郭の天守と安土城等の城郭周囲の腰屋根や小屋根の
現実は異なっていた可能性があります。その原因は建築担当
の作事と築城担当の普請奉行の両者の設計の役割分担の違い
にあったと思われます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます