城郭 長谷川博美 基本記録

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関東騒然 神奈川小田原 石垣山一夜城の秘密!

2021-05-07 08:21:01 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
関東騒然 神奈川小田原 石垣山一夜城の秘密!
城郭ビイスタ論 上文字クリック

城の伝統文化 城の放射状設計「ビイスタ工法」

◆質問者
天正18年(1590年)
関白豊臣秀吉の天正石垣山城にビイスタ工法
や放射状城郭縄張は存在するのでしようか?

◆長谷川
木下藤吉朗時代の虎御前山秀吉陣にも放射状
設計を読み取る事は可能です。城を作る時に
は藤吉郎秀吉は放射状縄張を多用しています。
◆長谷川
先ず滋賀の人が相模小田原石垣山一夜城を
考察される場合には永禄11年期に織田信長
が近江の佐々木六角氏攻めの時に六角方の
和田山城は攻めず箕作城を攻め落とし公記
の記録がありますが和田山城には意外にも
放射状グリット線つまり既にビイスタ工法
を使い緻密に築城している事が解ります。
なお櫓台や堡塁は古墳を利用してます。▼長谷川図面

▼近江和田山城 ビイスタ工法細分図 長谷川博美

◆長谷川
次に天正18年1590年の小田原役の時の関白豊臣秀吉
の石垣山一夜城図です。縄張図は長谷川博美の作図

◆質問者
この石垣山一夜城も近江和田山などの中世城郭
の縄張技巧ビイスタ工法が潜在するのですか?





◆長谷川
結果を恐れずまた最初から試論を否定せず検証
をしましょう。一体ビスタ工法が存在するのか?
A点からの石垣山城を測量している事が理解可能
です。この放射状ビイスタ線の通過点を●点や〇
点でマーキングを施しました。経過点は重要で
石垣山一夜城の城郭構造は放射グリッド線を結
ぶ事でより石垣山一夜城を立体的に認識し易く
なります。

◆長谷川
和田山城と同じく複数の放射状グリッド。
つまりビイスタ工法を石垣山一夜城にも
読み取る事が可能です。

◆長谷川
和田山城も石垣山一夜城も普遍的なビイスタ工法
放射状測量を駆使して築城されていると言えます。

◆長谷川
 また秀吉の弟で羽柴秀長の紀州和歌山城
でも放射状線縄張を読み取る事が出来ます。
徳川時代も継続して若山城は築造に要注意。


◆質問者
秀吉の築城した九州の肥前名護屋城に放射
状の縄張を読み取る事が出来ますか?

◆長谷川
肥前名護屋城も放射状の縄張ビイスタ工法
が読み取れます。
◆長谷川
名護屋城細部においても放射状縄張や設計を読み
取る事が可能です。


◆質問者
秀吉の天正期大坂城にもビイスタ工法が存在しますか?
◆長谷川▲上図 長谷川博美 線挿入
城郭中央部から緻密に放射線状にビイスタ工法
を用いた秀吉の放射線状縄張が、読み取れます。

◆質問者
  では藤吉郎秀吉のかつての主筋「上様」とも
言える織田信長の天下に名を轟かせた名城安土城
には放射状縄張と言うものが存在するのですか?



◆長谷川
織田信長の安土城にもビイスタ工法や
放射状縄張技巧を読み取る事ができる。

◆質問者
相模天正秀吉石垣山一夜城にもビイスタの
工法が更に存在しますか?上方の城の様式
や工法は神奈川県民は大変に気になります。

◆長谷川
秀吉の石垣山一夜城にも数カ所ビイスタ工法
が存在します。但し元来この城は後北条氏の
持ち城、笠懸山城であった事にも留意したい。
◆長谷川
石垣山一夜城の細部に亘って繊細に複数に
放射状に縄張設計した事が読み取れます。

◆関東人
やるじやない!言うじやない!一流の研究家!
すごいじやないの!滋賀の長谷川さんって人!
近年彗星の如く出てきた城郭の彗星だなコレ!

◆対談者
それ違います!近年出てきた駆け出しじやない!
長谷川先生は先駆者ですよ。滋賀の不毛の城郭
世界、不毛の地を切り開いた苦悩の開拓者です!
伝説の縄張の魔術師と異名を取った長谷川氏だ!
音楽なら不遇の天才ロバートジョンソンまたは
か眠れる巨匠スリーピイ、ジョー、エステスだ!




◆まんが好き
「るろうに剣心」みたいで、カッケー影がある人?
決して日の当たる事ない城郭流浪人長谷川先生か?

◆長谷川
細部の放射線状縄張の存在は秀吉の肥前名護屋城
とも神奈川小田原石垣山一夜城縄張りに酷似する。

◆対談者
長谷川先生!流石です!素晴らしい読みと見解です!

◆一般者
日本の伝統文化 放射状設計「ビイスタ工法」が
存在する事を戦前戦後を通し如何なる高名な歴史
学者さえも誰も気づかなかった遠因原因とは何か?

▼江戸時代の城郭測量法 享保18年『量地指南』


◆長谷川
先ず東洋それ、中国にはピタゴラスに代表される
西欧世界より逸早く三平方の定理や曲尺を駆使す
る規矩術や幾何学、算術や測量術技術が中国から
伝来して日本に存在した事が忘れ去られています。
所謂高度な幾何学算術と言える測量技巧の存在が

和算+、減算-、積算×、割算÷、の言葉は元来
は東洋中国の算術の言葉が起源です。規則正しい
幾何学的な碁盤目状グリッド線を基盤とする都市
計画また前方後円墳八角形古墳設計また一番高度
で複雑な測量術を不可欠とする城郭遺跡がまさか
未測量で設計図もなくアバウト適当な工事で建造
されたとは先ず土木建築の常識から考えられない。



▼日本の規矩術「きく術」の例
▼紀州和歌山城の放射状 縄張理論 長谷川博美 掛線挿入
徳川時代も継続して若山城は築造に要注意。


◆長谷川
戦前戦後を通じ城郭が学問として成立し得なか
った根本原因は城を解説する人が史学系文化系
の人々であった事、それら人々は文字文章詰り
史と書き「フミ」と読む事で文献史学の人々と
は算術、幾何学、図形とは関係のない学問体系
の流の中にあったからとも言える。文字だけで
を駆使し現場の城郭遺跡を論じる傾向や文字論
と言う言語伝達系列学問が根本根底に存在した。
歴史家や郷土史家は物体や遺跡の形状を幾何学
的に図形として認識して理解する根本認識を持
ち合わせなかつた事です現在も歴史は文字のみ。
また城郭構造理論や城郭形状分類は連郭式城郭
輪郭式城郭、渦郭式城郭、梯郭式城郭等の概念
用語に多くの人々が拘束され形骸化され概念化
された結果として全く日本の伝統的な測量文化
放射状縄張「ビイスタ工法」大工用語で言う栄
え「栄え」「はえ」と言う見栄えと言う技巧の
根本測量手法に全く留意しなかった事にも原因
します。また縄張論も曲輪配置論や城郭通路の
導入路枡形虎口論に終始して絵画や美術で言う
構図や工業デザインで言うクランドプラン基礎
設計基礎設計思想にも留意しなかった結果です。


◆対談者
それは言えます。歴史に精通した歴史通と呼ばれる人
が城址を認識する事が出来ずに、1㌔も離れた場所に
城址看板を立て御満悦されている姿を見るにつけ幻滅
します。そこ城跡じゃない場所です形状認識不足です。


ある町の裏山には実は巨大な城址があり長谷川先生が
実測されているにも関わらずそんな物は無いと正義感
を持って平然と言われる人の無知さ加減には幻滅です。
正義感正論と信じ込む的ハズレな群集心理も恐いもの!
結果として郷土歴史会の会長さんが自分の裏山の城跡
も知らず一度も見学する事無く町の郷土史会は高齢化
し解散し若年層も参加せず世代断絶ジエネレーシヨン
ギャップ現象が発生して本当の意味の郷土史会の役目
である我町の裏山城跡見学学習会一度もなく会が消滅
する例は頻繁に人工減少化に伴って発生しております。
▼東近江市伊庭山城 長谷川博美鳥瞰図
▼伊庭山城発見の新聞記録

◆一般者
城の形などうでも良い事!私達一般人は行楽物見遊山。
何時何処で誰が何したか?5W1Hの文字歴史探訪です。

◆対談者
私達の城跡見学は元来曲輪の形を見学認識する世界。
今日見学した城が〇か?△?□か?それが一番重要!
城の形に見ずに城を語れば大変な誤解招く事もある。
明智光秀伝説の城を見学しても根本的に城の見方や
基礎を知らなければ間抜けな素人の串指見学ですよ!
例えば滋賀県米原市磯山城には二重堀切など絶対
に天地神明に誓って絶対ないと言う人が現実に磯山
城二重堀切を見て卒倒したこんな馬鹿な事が無いと!

◆対談者
馬鹿な事どころか磯野家が出版された『近江の磯野氏』
にもチヤンと二重堀切が描かれてる!一体本気で米原
学を指導する人がこの社会にいるのかと言う疑問です!
チヤンと堀を指導者に従い見る基本を怠っているわ!


◆長谷川
一般様は城に関する文字に関心がある=文字認識学
対談様は城の形状や遺跡に関心がある=形状認識学
一般様は文字=書
対談様は形状=図
街の中の「図書館」の「図書」の意味は形と字です。
ですから図書館に行く事は文字も図面も読む事です。

私が文献『信長公記』の講師をしたこれ文字派の人。
私が遺跡『城郭見学』の講師をしたこれ現地派の人。

そもそも両者が根本的に求めてる事や目的が違う。
前者は文字を読む事で歴史をイメージする印象派。
後者は城址を見検分し歴史を体験学習する現実派。
本当は肉も野菜も食べ、両者を備えた人が理想的。
文武両道と漢学では文武の道とよばれる周の治政。

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論の動画が好評です。
秀吉の天正大坂城のビイスタ論や、信長の天正
安土城の城郭ビイスタ論などもは稀代の城郭論
です戦前戦後を通し最も斬新で優れた城郭理論!
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆一般物
私には根本的に全くピント来ない何故なのです?

◆長谷川
貴方はトランプゲームをしている、でもカード
の文字がハートかスペイドかダイヤかクロバー
か?全くその形状には興味がないタイプの人。

◆一般様
確かに形に全く関心や興味が基本的に全くない人
城は行くもの通過するもの行楽も古戦場も同じく
通過する事、古戦場に堀や土塁が何千箇所も残
つていようが遺跡には全く興味ない見る気も無い
合戦が本当にあったとは限らない遺跡じゃなくて
現実の戦闘が存在したのかさえ疑わしく感じます。

◆長谷川
貴方は戦争と戦闘を違い境界を再認識下さい。
英語で戦争はウオーであり戦備、物資、築城
戦略の全てを総称した総合戦争がウオーです。
一方英語のバトルは戦闘や実戦「たたかい」
を言います。巨大企業の工場が令和の各地に
存在林立した事が後世の人が工場遺跡を見学
して令和の大企業の工場では生産が無かった
とは言えません。確かに豊臣秀吉の文禄慶長
役における肥前名護屋城とその周囲に構築
された日本全国の諸大名達の陣屋を無視して
文禄慶長の役は無かったのだと断言できない。
九州内で戦闘は行われた記録は有りませんが
現実には韓半島では合戦が繰り広げられた事
そして肥前名護屋城周辺の遺跡こそ総合的な
合戦英語で言うところのウオーの総合戦略で
言う戦略的拠点基地と言うべきインフラ設備。
この事を忘れてはならないと思います。城址
は設備であり、インフラと呼ばれる施設です。
▼長谷川博美作画柴田勝家内中尾山城復元図


◆対談者
令和3年6月19日に見学予定の玄蕃尾城も
滋賀県60%福井県40%の元は内中尾山城
として歴史に登場する非常に巨大で驚くべき
柴田勝家の余呉之庄、柳ケ瀬表の合戦の巨大
インフラ「施設」そのものです。合戦を戦闘
のみで賤ケ岳のみに囚われているとこの巨大
なインフラ玄蕃尾城を貴方は歴史上から見落
す事になる!旧長浜市内の人々は、玄蕃尾城
の事など全く知らない他府県の城と誤解あの
壮大な合戦のインフラ設備を見落すべからず!

◆対談者
秀吉の天正大坂城のビイスタ理論、太閤秀吉の
肥前名護屋城のビイスタ理論に感服し感激です。
さて秀吉が関白として小田原征伐つまり後北条
氏の小田原城包囲網戦の時の秀吉の天正石垣山
一夜城も天下人の城としてビイスタ工法が存在
するのでしょうか?是非とも教示下さいませ!

▼滋賀県近江八幡市円山城鳥瞰図 長谷川博美
▼同じく放射状縄張検証図 長谷川博美図

◆長谷川
城郭ビイスタ論を軽軽に大衆受けする雑誌記事
の如く、信長、秀吉、織豊政権の一特徴だと安
易に定義づけしない学問の厳格さが大切だと私
は思います。世の中は大衆心理に迎合して得票
を獲得し選挙に当選で員数を確保した政治家が
真に善良で神聖で賢明な政治を執行する人格と
常に限らない世の中員数を確保した者こそ正論
で真理とは限らない。フアッシヨや統制も存在。
世の中に一般的には知られていない滋賀県近江
八幡市に所在する西条氏の城とされる全く無名
の地方小城郭「円山城」にも放射状縄張が現実
▼滋賀県近江八幡市円山城縄張図 長谷川博美

には存在します従って厳格慎重に学問は述べる
べきで元来日本には伝統的な放射状縄張が存在
したと言う根本や根源ルーツを学習して、行か
なと大きな誤解や誤謬や軽率な世俗の城郭論に
多くの社会の人が惑わされ、軽率な大衆誘導や
迎合という愚かな学問見解の窮地を招く原因や
遠因を招いてしまいます。寄らば大樹の陰とか
大船に乗った気分とか長い物には巻かれろ的な
風潮や、赤信号みんなで渡れば恐くない的発想
は学門や学術上の危険と危惧を伴います。自己
自我確立や冷静で客観的能力や自己確立が大切。

※寄らば大樹の陰とは?
よらばたいじゅのかげ 
寄らば大樹の陰とは、頼りにするのならば、
勢力のある者のほうが安心でき利益もある
と言うことの例え。

◆長谷川
天下人とは全く関係のないと思われる武蔵
杉山城の縄張りも是非再度検討しましよう。
幾つかの中世城郭としての測量起点と思わ
れる放射状縄張は読み取れると思いますが
此れを織豊政権が関わった城であるとは決
して言いませんが放射状の縄張が一部には
読み取る事が可能かと思います。

▼武蔵杉山城の放射状起点模索 長谷川博美掛線
▼武蔵杉山城の放射状起点模索 長谷川博美掛線

◆長谷川
また全く純然たる中世城館である武蔵比企郡の菅谷
館にも放射状起点を観察する事が出来る。滋賀近江
八幡の天下人の城とは関係のない円山城も再度見て
下さい。放射線縄張り技巧や測量方法は既に古くか
ら日本の土木建築に早くから潜在していた事かとな
と思います。研究は今後更に進展して行く事を期待
致します。城見る人が日本に増える事を期待します。







◆対談者
滋賀県には長谷川先生と言う素晴らしい本格的
城郭研究家がおられ出会えて本当に良かった。

◆一般者
そうですか?長谷川先生の城郭解説を何度も私
は受けたが私は全く感動も感激もピンと来ない。

◆対談者
人間を評価する時や学術を冷静に評価する場合
は学歴や肩書は別にし内容を吟味する事ですよ。
自分自身が城の形状に興味がある人間だと自分
自身が気付いた時、つまり自我に自覚覚醒した
時こそ長谷川先生の城郭見学は値千金と成り得
る根本的に城の形状に興味ない人は猫に小判よ!

◆長谷川
例えば大津市に野々口丹波城と言う城がありま
すが緻密な中世城郭の縄張や幾何学には驚愕を
致します。

▼一見平凡に見える中世城郭でも
▼入念に土塁の配置を計画して二重堀切も存在する。
▼緻密に虎口や矢倉台二重堀切など様々な防御施設を設定し
▼律然とした工学や測量や高度な設計と
計測の基に築城されています。城は機械。


▼石垣山一夜城について

◆フリー百科事典ウスッキペデイアによると
豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の
際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に
構築した。豊臣秀吉は北条氏の本拠であった小田
原城を攻略するために、大軍を動員して包囲中で
あったが、小田原城を見下ろす山上に城を、構築
中は小田原城から見えないように築き、完成後に
周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜
にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘
意欲を失わせる効果を果たした、とする話が残る。
一夜城の名もこれに由来する。 
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、
関東で最初に造られた総石垣の城であったとされ
る[1]。約3-4万人を動員し、4月から6月下旬まで
の80日で構築された(『小田原北条記』巻九の
記述では、4月1日から築かれたと記す)。6月初頭
に小田原の秀吉の陣へ陸奥国の大名の伊達政宗が
出頭した際は未だ完成途上であったが、同地にいた
豊臣政権中枢に近しかった茶人で商人の千利休が
、茶人大名の古田織部に宛てた同月20日付けの書状
には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記
されており、6月26日に完成したとされている。
およそ10日後の7月5日、北条氏直は小田原城を出て
降伏を申し出ている。 秀吉はこの城で茶会を開いた
り、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは
不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣
に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて
現在もよく残っている。この城の縄張りを行った者
について、城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭
や濠などがこの後に秀吉の命で築かれた肥前国の
名護屋城に非常に似ていることから、同じ担当者
すなわち黒田如水であったと推測している。 

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2 コメント

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Unknown (東急東横線)
2021-05-03 01:59:59
すごいです。実際の城の縄張の現実や日本古来の測量術の現実を垣間見ているような強烈な投稿記事内容には驚きます。
返信する
Unknown (可児秀現)
2021-05-08 04:53:55
城郭研究の画期的視点が提示されていて先ず衝撃を受けます。城郭研究史の盲点を指摘した放射状測量理論は現代の測量技術に等しい高い測量技術の普遍性を感じます。長谷川さんの研究家としての評価は非常に昔から高く城郭遺跡を研究するその道の人々の間では別格の人として「知る人ぞ知る人」として知られています。長谷川さんの資質を洞察した一般の人々は、すこぶる慎重な性格の優れた方々かと御推察申し上げます。
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