美濃加納城 究極の城下町 都市計画 ビイスタ工法
◆対談者
以前美濃加納城跡「岐阜県岐阜
市加納丸之内」に長谷川先生達
と現地見学に行きました。現地
に残る遺構に関して全て解説を
解り易くして頂き私は有意義な
学習をさせて頂きました。でも
最後の解説で、この加納城とは
「熊手」の様な形状に縄張され
ていますと言われましたが全く
私は意味が当時解りませんでし
た。現在城郭ビイスタ論動画が
3200人の視聴数がある事も驚き
ます。あの時の「熊手」の深意
を今更ながら御教示下さいませ。
◆長谷川
おそらく貴方は、私が熊手の民俗
学を話していると思って全く会話
の理解が不可能だったと思います。
私はあの時加納城のビイスタ工法
を解説する為「熊手」の形状比喩
を用いて仮託し加納城を解説して
いたのです。後北条氏の三島山中
城の様な縄張の城とか解説したり
姫路城に行って扇型ビイスタ工法
を解説する時に「熊手」の比喩を
用いたりしました。私は城の縄張
を日本文化の一例として捉えてる。
◆一般者
今回の投稿ビイスタ工法その
真髄を語られる内容ですか?
◆質問者
城郭と街道は十分に連携して
設計されいてると長谷川先生
は平素から言われております
加納城は天下の往来中山道が
城下を通ってます。城と街道
城下町と城の総合的都市設計
つまり城郭都市設計ビイスタ
論として是非御教示下さい!
◆長谷川
中山道が曲折する街道の場所
こそが加納城のビイスタ視点
に相当致します。振り向きの
見返り様の日本文化視点です
この構造により、徳川幕府は
織田政権が割拠した拠点岐阜
城の山頂魅せず徳川幕府体制
江戸の徳川幕府体制を顕示す
る役目が家康の狙いでもあり
プロパガンダと言え尾張織田
氏の旧居たる清州城を名古屋
へと「清州越し」を実施させ
たのも徳川幕府の新体制です。
岐阜城消去、清州城消去、大津
城消去、佐和山城消去、長浜城
消去、各地前政権「織豊城郭」
の残影を消去して新しい江戸
幕藩体制確立を目指した施策で
す。加納城の解説に戻ります
見栄えAポイント。また城下
のBポイントからも加納城の
本丸眺望する甚だ美観配慮に
対応した都市計画になってる
都市計画論はランドスケープ
論と表現されますが私は此れ
をビイスタの視点、ビイスタ
の眺望として、見晴らし論と
して動画で論述しています。
◆長谷川
私のビイスタ理論図の見地か
ら見ると美濃加納城は中山道
と加納城下も含めた重複型の
ビイスタ工法を採用した計画
設計された都市と言えますよ。
◆みんな
長谷川先生の城郭ビイスタ論
は!正真正銘の歴史民俗文化
論だ!やはり先生は正解の人
◆長谷川
二か所の見所の存在は既に
室町期の能舞台にも存在致
します。
◆長谷川
能舞台では見所「けんしょ」が
2箇所あるつまり鑑賞するポイ
イントが2か所ある伝統がある。
◆反論者
おうおう!加納城ってのはよう
城郭の角が全部90度で出来てん
だ。そんなビイスタ工法なんざ
存在する訳がなかろうがよ全く!
◆みんな
出た!当ブログの常連反論者
おじさんの登場だ!人気爆発
ブログ読者皆様も期待大だぞ!
◆長谷川
加納城には城のヘソ中央
ビイスタが存在致します。
◆反論者
おう!それがどうした?俺の
飼い犬「ペコ」にだってヘソ
があるぞアンパンだってヘソ
がある!加納城遠隔型のビイ
スタがあるのかよ?
◆長谷川
加納城下に向かってトリプル
ビイスタ工法が読取れますよ。
私が言っていた「熊手」とは
この事だったのです。
◆長谷川
城の南にも遠隔Wビスタが
存在致します。
◆反論者
おうおう!日本の城に第一そんな
変な測量の仕方は存在しねえよ!
◆長谷川
これが日本国の城の計測方法です。
◆質問者
美濃加納城天守閣の楼閣自体
にもビイスタの理論は存在致
しますか?
◆長谷川
岐阜城天守を移築したとされる
御三階櫓ビイスタが読み取れる
美濃加納城ウイッキペデイアより引用
城は破却された。岐阜城の代わりとして翌
1602年7月1日から加納城が築城され、9月
に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入
城した時には本丸・二ノ丸は完成していた
ようである。縄張は徳川家康自身が行った
とされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大
名を動員した。いわゆる天下普請である。
建材は主に岐阜城の櫓や石垣が用いられ、
近くの革手城からも土砂などが用いられた
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