城郭 長谷川博美 基本記録

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美濃加納城 究極の城下町 都市計画 ビイスタ工法

2022-07-18 15:59:47 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

美濃加納城 究極の城下町 都市計画 ビイスタ工法

◆対談者

以前美濃加納城跡「岐阜県岐阜

加納丸之内」に長谷川先生達

と現地見学に行きました。現地

に残る遺構に関して全て解説を

解り易くして頂き私は有意義な

学習をさせて頂きました。でも

最後の解説で、この加納城とは

「熊手」の様な形状に縄張され

ていますと言われましたが全く

私は意味が当時解りませんでし

た。現在城郭ビイスタ論動画が

3200人の視聴数がある事も驚き

ます。あの時の「熊手」の深意

を今更ながら御教示下さいませ。

◆長谷川

おそらく貴方は、私が熊手の民俗

学を話していると思って全く会話

の理解が不可能だったと思います。

私はあの時加納城のビイスタ工法

を解説する為「熊手」の形状比喩

を用いて仮託し加納城を解説して

いたのです。後北条氏の三島山中

城の様な縄張の城とか解説したり

姫路城に行って扇型ビイスタ工法

を解説する時に「熊手」の比喩を

用いたりしました。私は城の縄張

を日本文化の一例として捉えてる。

◆一般者

今回の投稿ビイスタ工法その

真髄を語られる内容ですか?

 

◆質問者

城郭と街道は十分に連携して

設計されいてると長谷川先生

は平素から言われております

加納城は天下の往来中山道が

城下を通ってます。城と街道

城下町と城の総合的都市設計

つまり城郭都市設計ビイスタ

論として是非御教示下さい!

◆長谷川

中山道が曲折する街道の場所

こそが加納城のビイスタ視点

に相当致します。振り向きの

見返り様の日本文化視点です

この構造により、徳川幕府は

織田政権が割拠した拠点岐阜

城の山頂魅せず徳川幕府体制

江戸の徳川幕府体制を顕示す

る役目が家康の狙いでもあり

プロパガンダと言え尾張織田

氏の旧居たる清州城を名古屋

へと「清州越し」を実施させ

たのも徳川幕府の新体制です。

岐阜城消去、清州城消去、大津

城消去、佐和山城消去、長浜城

消去、各地前政権「織豊城郭」

の残影を消去して新しい江戸

幕藩体制確立を目指した施策で

す。加納城の解説に戻ります

見栄えAポイント。また城下

のBポイントからも加納城の

本丸眺望する甚だ美観配慮に

対応した都市計画になってる

都市計画論はランドスケープ

論と表現されますが私は此れ

をビイスタの視点、ビイスタ

の眺望として、見晴らし論と

して動画で論述しています。

 

◆長谷川

私のビイスタ理論図の見地か

ら見ると美濃加納城は中山道

と加納城下も含めた重複型の

ビイスタ工法を採用した計画

設計された都市と言えますよ。

 

◆みんな

長谷川先生の城郭ビイスタ

は!正真正銘の歴史民俗文化

論だ!やはり先生は正解の人

◆長谷川

二か所の見所の存在は既に

室町期の能舞台にも存在致

します。

◆長谷川

能舞台では見所「けんしょ」が

2箇所あるつまり鑑賞するポイ

イントが2か所ある伝統がある。

 

◆反論者

おうおう!加納城ってのはよう

城郭の角が全部90度で出来てん

だ。そんなビイスタ工法なんざ

存在する訳がなかろうがよ全く!

 

◆みんな

出た!当ブログの常連反論者

おじさんの登場だ!人気爆発

ブログ読者皆様も期待大だぞ!

 

◆長谷川

加納城には城のヘソ中央

ビイスタが存在致します。

◆反論者

おう!それがどうした?俺の

飼い犬「ペコ」にだってヘソ

があるぞアンパンだってヘソ

がある!加納城遠隔型のビイ

スタがあるのかよ?

◆長谷川

加納城下に向かってトリプル

ビイスタ工法が読取れますよ。

私が言っていた「熊手」とは

この事だったのです。

◆長谷川

城の南にも遠隔Wビスタが

存在致します。

 

◆反論者

おうおう!日本の城に第一そんな

変な測量の仕方は存在しねえよ!

 

◆長谷川

これが日本国の城の計測方法です。

 

◆質問者

美濃加納城天守閣の楼閣自体

にもビイスタの理論は存在致

しますか?

◆長谷川

岐阜城天守を移築したとされる

御三階櫓ビイスタが読み取れる

 

 

美濃加納城ウイッキペデイアより引用

慶長6年(1601年)に岐阜

城は破却された。岐阜城の代わりとして翌

1602年7月1日から加納城が築城され、9月

に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入

城した時には本丸・二ノ丸は完成していた

ようである。縄張は徳川家康自身が行った

とされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大

名を動員した。いわゆる天下普請である。

建材は主に岐阜城の櫓や石垣が用いられ、

近くの革手城からも土砂などが用いられた

 


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