城郭 長谷川博美 基本記録

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武蔵国 城郭ビイスタ工法10城と相模国大庭城

2022-06-11 12:16:19 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

◆対談者

城郭ビイスタ論動画が2700回を超える視聴数です。

これは予想外の事、想定外で考えられない事です。

でも令和の現代でも日本郵便の切手「鬼滅の刃」

にも使われているのでコンパス分度は人間にとり

普遍的な幾何学手法で時代を超えて使われます。

頭脳を柔軟に構えて城郭遺跡を観察する事が肝要。

 

◆有識者

私梯郭式、連格式、渦郭式、円郭式等の城郭用語

全てを学び、虎口、横矢、石垣、郭配置、導入路

城郭考古学、城郭用語の全てを網羅的に暗記記憶

してます城郭遺跡にかけては博士プロフエッサー

級と自負していたんです。しか、長谷川先生の城

郭測量を根幹に置いた日本の城郭構図論とも言え

城郭ビイスタ論には大変驚いています。もう私に

は城郭に関して学ぶ事は完全に無いパーフエクト

と自負し後輩達に高いとこ目線で知ったかぶりで

城郭を指導してたんですが、実は私は未だ初心者

以前だった事に気づきました。城郭ビイスタ論は

日本の城縄張設計の根幹をなす要諦綱領とも言っ

て過言でない論説で戦前戦後を通して希代の城郭

論とさえ最近は考えているのです。ことろで相模

国大庭城に幾何学的扇型ビイスタが存在します?

 

◆長谷川

存在します。赤線は城郭の空堀や折りを形成

する為の基準点になっています。薄水色腺は

城下「しろした」や右の外郭も含むビイスタ。

城下も含めて大規模な重複型ビイスタ工法

が読み取れるます。また中央放射型も読取

れ複数のビイスタ工法の痕跡も読み取れます。

◆一般者

まさか城下の街割りまでビイスタだと絶対に思わない!

 

◆長谷川

大規模な重複型のビイスタ工法も武蔵大庭城には見られる。

◆一般者

江戸城も大庭城も築城に関して太田道灌の築城

が大きく関わったと伝承されていまず大庭城にも

江戸城にも共通する縄張技巧は存在するのですか?

◆長谷川

徳川初期の家康江戸城の天守の位置は現在と異なり

ました。これが太田道灌の縄張とは言い切れません

が下図の赤色ビイスタ腺は古江戸城の原型を継承す

る様式かもしれませんね?これは何とも言えません!

 

◆彦根人

先生!近江国彦根市は小江戸彦根として江戸

文化を現代にまで残す文化観光都市として誇

りに私は思っております小江戸彦根にも重複

型のビイスタ工法が存在したのでしょうか?

 

◆長谷川

元松原内湖側と東から西向けて重複ビイスタ工法

を用いています。特に中堀の横矢の曲折基準線は

ビイスタ工法の従属する規定腺に準じるものです。

 

 

 

 

 

◆長谷川

下図赤色放射線ビイスタを簡略に説明します。

1 腰郭を規定する。

2 腰郭と土塁と外郭堀を規定する。

3 外郭堀と3の手前大櫓規定する。

4 外郭虎口と丸馬出虎口の基準線。

5 堀切と虎口の幅員を規定する腺。

6 T字堀虎口と7郭虎口幅員規定腺。

8と9 食違い虎口を形成する規定腺。

10と11と12 城郭の主軸腺の規定腺。

13と14と15 横堀と土塁の折規定腺。

16 食違い虎を設定する為の規定腺。

17と18 腰郭と竪堀位置決め規定腺。

▼大庭城を細分割する扇型ビイスタ工法

▼中央放射型城郭ビイスタ工法も存在する。

▼様々なビイスタ工法 相模国 大庭城

★中央放射ビイスタの存在は薄水色腺の

縄張の如くもう一つの別城たる外郭城郭

の求芯性もが読み取れると思われます。

▼主郭部も様々な繊細なビイスタ工法を駆使して築城

 

 

◆長谷川 以下  長谷川コメント=★

渋谷の丘の母校國學院大學を卒業して幾星霜

光陰矢の如く過ぎ去りて、未だに、学ならず

著書著す機会にも恵まれず日々鬱勃と過ごす

隠士にして明るい未来無き世捨人長谷川です。

今回関東とくに武蔵国を中心にした城郭縄張

に放射状測量を施したと思われる10城を簡略

に報告させて頂きます。決して、営利利潤を

目的としませんので宜しくお願いを致します。

 

◆標題

武蔵国 中世城郭のビイスタ工法ベスト10

先ず江戸期まで日本国では城を放

放射状に陸測する基本が存在した。

これは重複型ビイスタ測量の事例。

関東武蔵の城にはビイスタ工法が

存在したのか10城を概略取り上げ

て紹介したと思います。宜しく!

 

所在 東京都青梅市

1 青梅勝沼城のビイスタ工法

  ★歪な形状の中世城郭にみえるが見事な放射状

  幾何学設計ビイスタが城域全体から読み取れる。

勝沼城ウイッキペデイアより引用

別名 師岡城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 三田氏
築城年 不明
主な城主 三田氏、 師岡氏
廃城年 永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年
遺構 空堀、土塁、郭、虎口、土橋、馬出し?
指定文化財 なし

 

埼玉県富士見市南畑に所在する城

2 難波田城のビイスタ工法

 ★図は磁北において主郭を中心に扇型のビイスタ

  工法が支配している。馬出、屏風折れ、横矢掛

  水堀、外郭等の整合性ある見事な縄張の城郭!

難波田城ウイッキペデイアより

別名 南畑城
城郭構造 平城
天守構造 無し
築城主 難波田高範
築城年 鎌倉時代
主な改修者 上田氏
主な城主 難波田氏、上田氏
廃城年 天正18年(1590年
遺構 土塁?、堀?

 

東京都調布市深大寺元町所在

3武蔵深大寺城のビイスタ工法 第一郭 第二郭

一見古様で野放図な縄張の城郭の印象を受けるが

見事幾何学設計を併せ持っビイスタ工法が冴える。

 

神奈川県大和市深見字城ヶ岡所在

4 武蔵深見城のビイスタ工法

★相横矢、複数の馬出、横郭など、当時の軍学の

 技巧を網羅集約したような築城技術に驚かさせる。

 しかしこの等高度な築城術を統括し城全体の中芯

 となすのは結局は扇型の放射状要のビイスタ工法。

武蔵深見城ウイッキペデイアより引用

城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 不明
築城年 14世紀末頃?、1452年享徳4年)?
主な城主 山田伊賀守経光?
廃城年 16世紀?
遺構 曲輪、二重土塁虎口

 

武蔵川越城は埼玉県川越市に所在

5武蔵川越城のビイスタ工法

★曲折するる塁濠城塁は一見直線的な幾何学論

 が存在しない城と判断しがちだが緻密な曲折

 を用意周到に用いた縄張技術はやはり川越の

 夜戦などを乗り越えてきて江戸時代にも江戸

 城を補佐するだけの名城に相応しい高度な城

 と言えるであろう。大手方面にまでビイスタ

 工法を拡張させた見事な求芯性のある城郭だ。

武蔵川越城ウイッキペデイアより引用

別名 河越城、初雁城、霧隠城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 太田道真道灌父子
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 大道寺政繁松平信綱、:松平斉典
主な城主 扇谷上杉氏後北条氏酒井氏
堀田氏越前松平氏、他
廃城年 1869年(明治2年)頃
遺構 堀・土塁・御殿の一部・移築物3棟

武蔵松山城は埼玉県比企郡吉見町大字南吉見所在

6 武蔵松山城のビイスタ工法

★ 多数の曲輪を複雑かつ巧妙に掘削配置した城郭

  の形状には圧倒される。主郭に中芯軸を置く城

  ながら城郭の全体を統括しているグランドプラン

  城郭縄張の基準線は赤線の放射状ビイスタ工法と

  青線の放射状ビイスタ工法の重複により城域全体

  を見事に壮大に整合性ある縄張の城郭として構成。

武蔵松山城ウッイキペデイアより引用

城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 なし
築城主 上田友直
築城年 応永6年(1399年
主な改修者 上杉朝定北条氏康松平家広
主な城主 上田氏難波田氏扇谷上杉氏
太田氏桜井松平氏
廃城年 慶長6年(1601年
遺構 空堀、土塁、土橋、虎口、井戸
指定文化財 国の史跡

 

狭山柏原所在

7 武蔵柏原城のビイスタ工法

★ コンパクトな城塞なが横矢の処理、虎口を隠す

  手法「翳し」それに4か所もビイスタ工法読取

  れる城郭は城郭としてパホーマンスが高い城で

  しょう。何より幾何学的縄張技巧の冴えは最高!

『狭山市教育委員会説明板』より引用

天文六年(1537年)七月に北条氏康の手に

落ちた河越城を奪還すべく、天文十四年(15

45年)九月から半年位、山内上杉憲政が陣を

敷いたといわれる天文十五年(1546年)

四月、山内・扇谷上杉・古河公方の三連合軍が

北条氏に敗れた「河越城の戦い」の後は、おそ

らく北条方に移ったと思われる。

 

滝の城(たきのじょう)埼玉県所沢市 所在

8 武蔵 滝の城 城郭ビイスタ工法

★段丘を要害地形として取り込み巧みな曲折する

 折を多用した1が元来の古城であろう。全部で

 六ケ所のビイスタ工法が読取れとくに23のビイ

 スタは遠隔測量を用いた測量手法として注目大

滝の城 ウイッキペデイアより引用

滝之城本丸跡
別名 本郷城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 不詳
築城年 平安時代末頃か
主な城主 大石氏北条氏照の家臣か
廃城年 天正18年(1590年)か
遺構 土塁、空堀(含障子堀[1])、土橋、郭、外郭線[2]

 

埼玉県比企郡嵐山町に所在

9武蔵杉山城 城郭ビイスタ工法

★様々な城郭技巧を取り入れた日本屈指の

 名城して武蔵杉山城はあまりにも著名な

 城で多数技巧は言及をさけます。高度な

 幾何学縄張を施した名城と言う事で多数

 の城郭ビイスタ腺を読み取る事が可能です。

◆以下ウイッキペデイアより引用

市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主

や年代についてはほとんど分かっていない。地元

豪族金子主水による築城との伝承はあるが、文献

資料には現れない。従来、縄張りが極めて緻密で巧

妙なため、後北条氏の時代に造築されたものではない

かとの見方が有力であったが、発掘調査にもとづく

考古学的な知見からは、山内上杉氏時代の城である

可能性が強くなっている。この縄張りを主とする城郭

史的観点と考古学的観点の見解の相違を「杉山城問題

と呼んでいたが、後に発掘調査を裏付ける文書の提示

により文献史学的観点を含めた見解の相違へと深化し

ている。

 

武蔵国豊島郡江戸 東京都千代田区千代田 所在の城

10武蔵江戸城 ビイスタ工法

★城郭研究家の私としましては太田道灌の築城術

 道灌掛りと呼ばれる築城秘術をしりたいところ

 ですが一体太田道灌の築城術は如何なるものだっ

 たのでしょうか?興味津々と言うところですが?

 以上武蔵の城10城のビイスタ工法を考察しました。

以下ウッキペデイア江戸城より引用

別名 千代田城
城郭構造 輪郭式平城または平山城
天守構造 ・1606年新築天守(解体、非現存)
 連立式層塔型5重5階地下1階[1]
・1621年再築天守(解体、非現存)
 独立式層塔型5重5階地下1階
・1635年再築天守(焼失、非現存)
 独立式層塔型5重5階地下1階
築城主 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 徳川家康秀忠家光
主な城主 太田氏1457年-1486年1561年-1577年[2]
扇谷上杉氏1486年-1524年[2]
後北条氏1524年-1561年1577年-1590年[2]
徳川氏1590年-1868年
遺構 現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
特別史跡
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓
桜田巽櫓、大手門

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