近江高島郡田中の城 ビイスタ工法
◆一般者
城郭ビイスタ論動画が巷間で
話題になっていると聞いてお
り視聴数が3100人との事です。
◆長谷川
図形には基本基準として
1 方眼紙状グリッド線
2 放射腺状グリツド腺
3 円弧腺状グリッド線
などは世の古今東西に存在
その中で測量台測量盤を設
けて分度を利用し放射状に
計測する測量法2は現在で
も普遍的に用いられいます。
◆一般者
でも織田信長の安土城の設計線
たる安土城ビイスタ工法を発見
された事は戦前戦後を通し最大
の功績、未曾有の発見と見解!
◆対談者
二次資料で地誌『淡海温故録
』には近江犬上郡佐目に明智
十兵衛光秀の伝説が記されて
いますが多賀町佐目の城に現
在日本全国で話題騒然の城郭
ビイスタ工法が読取れますか?
◆長谷川
明智十兵衛光秀近江犬上郡出
身説の真偽は今回述べません。
◆対談者
では多賀町佐目の城に城郭ビ
イスタ工法が読取れますか?
◆長谷川
中世城郭のクサビ型形状城郭
ビイスタ工法は読み取れます。
城郭遺構として凹凸メリハリ
少ない中世城郭ながらも堀切
など小字「腰越」の急峻な山
頂に小刻みに郭を繊細に配置
したセンスある中世城郭です。
◆質問者
近江高島大溝城は織田信長の甥
織田信澄の城として信澄の妻の
父、明智光秀が大溝城の縄張を
担当したとして伝承されていま
すが大溝城の中心部天守台には
ビイスタ工法が読取れますか?
◆長谷川
意外にも大溝城天守台及びその
付帯する附け櫓石垣は正方形で
なく私の分類するクサビ型ビイ
スタに分類されると思います。
◆長谷川
一次資料には近江高島田中の城が
文献『信長公記』に3度登場します。
1回目、元亀元年(1570)4月20日
信長が京都から越前へ向う際に高島郡
田中の城に織田信長の宿泊記録がある。
2回目元亀3年(1572)3月11日
信長が高島郡で浅井・朝倉軍を攻撃
した際の記録で信長家臣の明智光秀
や丹羽長秀らが木戸・田中両城を看視
しています。
3回目元亀4年(1573)7月26日、
信長が大船で湖上から高島郡を攻撃、
陸からも木戸・田中両城を攻撃した
記録木戸・田中両城を信長から明智
光秀下賜されています。
二次資料として
熊本藩の家老米田家に伝わる医学
書『針薬方』永禄9年奥書に「明智
十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」
とある田中城と光秀に関する伝承
ですが、二次資料口伝の範疇です。
◆質問者
近江高島田中の城にビイスタ工法
が明智関係の城として存在する?
◆長谷川
山頂部の詰め城部分に重複型の
城郭ビイスタ工法読み取れます。
見事な中世城郭構図と言えます。
◆一般者
長谷川先生!この投稿は明智光秀
を考える上で非常に重要な投稿!
◆長谷川
興奮しないで下さい!誤解しない
で下さい!私は空偶然明智関係の
城のビイスタ工法を取り上げる訳
であり明智が占有してビイスタの
法則駆使した事を述べる訳でなく
『近江輿地志略』の高島の項目に
「上寺村の上の山に在り」と簡略
に記さてるだけで、上寺城であり
田中の城と未だに確定できない。
先ず高島七寺のひとつ松蓋寺遺跡
として全山の寺院ビイスタ工法を
検討致しましょう。所在地滋賀県
高島氏安曇川町田中大畑平安時代
の遺跡である事を認識しましょう。
▼松蓋寺遺跡本堂を中心とする図
松蓋寺本堂跡を中心の寺院城郭
ビイスタに該当致します。
▼武者隠しから見た城郭ビイスタ図
この城は山頂の城、中腹の城そし
て城下集落の三部構成の城ですね
◆長谷川
近江坂田郡の伊吹七寺のひとつ
とされる弥高寺跡遺跡も典型的
山岳寺院ビイスタ縄張ですよ。
◆対談者
しかし佐目城、田中の城、大溝
城に日本の城郭の基準とも言え
るクサビ型ビイスタ工法が存在
する事自体が新しい城郭論です
城郭ビイスタ法が如何に革新的
令和の先駆的城郭研究論である
と巷では評判が高いのです!
▼明智伝説の城 多賀町
▼明智伝承の城 高島市
▼明智光秀縄張伝承 大溝城 高島市
▼長谷川
ここで近世の城郭の開祖とも
評判の高い安土城なのですが
信長安土城以前にも中川重政
が旧土城に在番していた記録
は『信長公記』にありその先
は佐々木六角配下の目賀田氏
の城であつた事やその前身の
安土寺まで遡って安土城縄張
を考えなければなりません。
安土の縄張が最新鋭の縄張で
はなく旧城郭の様式を踏襲し
た日本の寺院城郭の延長線上
であつた可能性も考慮すべき
です。安土城には六角氏寺院
江南寺御殿や甲賀寺仏塔など
旧材を集めたリサイクル城郭
の要素もあった事も考慮する。
◆長谷川
小谷城最高峰の大嶽城ビイスタ
も山岳寺院『大嶽寺』ビイスタ
の可能性も考えておく事が大切
◆対談者
長谷川先生の研究視点とは
深淵ですね本当に深堀です。
◆一般者
室町幕府の要職にあった細川
藤孝の正妻は若狭熊川城主の
沼田氏でした。また熊川城に
関しては明智光秀の書簡など
も発見されており若狭方面と
明智光秀の関係は深いですね。
◆長谷川
元亀元年『信長公記』に若狭
で活動する明智光秀が記録さ
れています。「明智十兵衛
丹羽五郎左衛門 両人若狭
に差し遣わされ、武藤上野
人質執候て参るべきと」記
さて若狭方面の明智の動向
を知る事が出来ます。
◆対談者
若狭熊川城には城郭ビイスタ
は存在するのでしょうか?昔
の城の縄張の仕方や選地には
最近の城郭ビイスタ論の評価
が非常に高く話題騒然です!
◆長谷川
山城城郭自体中世城郭とし
て弓なりに縄張しています
もう解りますね!扇状ビイ
スタ工法です。赤腺の畝堀
もビイスタ工法と言えます。
▼若狭熊川城ビイスタ工法
◆長谷川
主郭の南にある連続竪堀も
みどり色の上から2本目の
ビイスタ腺に従って中世
城郭としての縄張を展開
しております。
◆一般者
余計な質問を致します。
明智光秀の丹波亀岡城
にビイスタ工法は存在
しましたか?
◆長谷川
複数のビイスタ工法が存在
致します。
▼亀岡城本丸のビイスタ工法
◆長谷
今回の投稿を通してこの様な
元亀元年頃の世相を考えます
越前朝倉義景
↓
足利義昭を奉じての上洛不履行
↓
足利義昭
美濃の織田信長を頼み上洛成就
↓
足利幕府再興を望む利潤探求者
↓
前将軍足利義輝に従属して利権
を得て生計を立てていた奉行集
↓
織田信長義昭を室町将軍に擁立
↓
室町幕府 臣下細川藤孝の立身
↓
細川藤孝の正室は若狭もと熊川
城主の沼田氏出身
↓
熊川城は若狭松宮玄番が奪取
↓
沼田家は熊川領奪還を目指す
↓
元亀年間越前朝倉は若狭国へ
侵攻を繰り返していた
↓
細川氏や室町幕府方の意向と
して若狭国の室町的秩序回復
↓
幕臣から信長家臣へ傾く細川
↓
細川の妻 沼田氏から若狭領
問題を細川氏へ伝達された。
↓
細川は沼田氏の旧領復帰や
若狭武藤氏の領域侵犯を信
長に要請細川は織田信長へ
日本海側の動静を報告する
役目を帯びていた。内面で
縁戚明智をも牽制的に目付
の役目を信長から得ていた。
↓
信長は若狭秩序回復を名目
に朝倉氏の敦賀郡まで侵犯
↓
江北浅井氏は信長の湖北の
塩海産物の供給源の敦賀へ
の派兵を危惧し朝倉に回帰
ライフライン、商業圏確保
↓
信長は急遽敦賀金ケ崎から
朽木を通り挟撃の危機回避
京都に駆着やがて岐阜回帰
↓
姉川合戦
浅井朝倉VS織田徳川
日本海 太平洋
物流資本 物流資本
↓
元亀元年志賀の陣勃発
↓
天正10年
本能寺の変の際の細川家の
冷酷な反応、信長死すとも
織田家の体制の中で明智を
牽制する役目を継続し続け
明智光秀娘を一時幽閉して
細川家は明智光秀に加担せ
ず。
志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年
↓
天正元年北陸物流勢力
浅井朝倉勢力が滅亡へ
◆『信長公記』元気元年引用
江北浅井備前手の反履の由、追々
其注進候。
然共、浅井は歴然御縁者たるの上
、剰江北一円に仰付けらるゝの間、
不足これあるべからざるの条、
虚説たるべきと思食候処、方々よ
り事実の注進候。是非に及ばず、
の由候て、金か崎の城には木下
藤吉郎残しをかせられ、四月晦日、
朽木越をさせられ、朽木信濃守馳
走申し、京都に至つて御人数打納
れられ、是より、明智十兵衛
・丹羽五郎左衛門両人若州へ差遣
はされ、武藤上野人質執候て参る
べきの旨御諚候。
◆ウイッキペデイア若狭松宮玄番引用
松宮 清長(まつみや きよなが)は、
の他、瓜生城主として瓜生・井ノ口・
天徳寺、熊川を領す[2]。松宮氏被官だっ
を攻め、子・左馬亮を熊川城主とした。
結果、新道・河内・熊川を得て三宅庄
まで進出し、近江国から若狭へ入る街道
へ侵攻する際(第一次越前侵攻)、若狭国
内の諸将と共に信長を出迎え、熊川城を
「若州熊川松宮玄蕃所」として提供する[4]。
め信長軍として活躍し、元亀4年(1575年)
の朝倉義景攻め(第二次越前侵攻)に参陣
同年8月の越前一向一揆討伐戦に若狭衆と
して参加。海賊衆を率いて一揆と戦う。
その後の消息は不明だが、明智光秀の乱に
与し武田元明と共に没落したとの説もある。