城郭 長谷川博美 基本記録

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熊川城 田中城 佐目城  のビイスタ工法

2022-07-07 16:39:35 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

近江高島郡田中の城 ビイスタ工法

 

◆一般者

城郭ビイスタ論動画が巷間で

話題になっていると聞いてお

り視聴数が3100人との事です。

 

◆長谷川

図形には基本基準として

1 方眼紙状グリッド線

2 放射腺状グリツド腺

3 円弧腺状グリッド線

などは世の古今東西に存在

その中で測量台測量盤を設

けて分度を利用し放射状に

計測する測量法2は現在で

も普遍的に用いられいます。

 

◆一般者

でも織田信長の安土城の設計線

たる安土城ビイスタ工法を発見

された事は戦前戦後を通し最大

の功績、未曾有の発見と見解!

 

 

◆対談者

二次資料で地誌『淡海温故録

』には近江犬上郡佐目に明智

十兵衛光秀の伝説が記されて

いますが多賀町佐目の城に現

在日本全国で話題騒然の城

ビイスタ工法が読取れますか?

 

◆長谷川

明智十兵衛光秀近江犬上郡出

身説の真偽は今回述べません。

 

◆対談者

では多賀町佐目の城に城

イスタ工法が読取れますか?

 

◆長谷川

中世城郭のクサビ型形状城郭

ビイスタ工法は読み取れます。

城郭遺構として凹凸メリハリ

少ない中世城郭ながらも堀切

など小字「腰越」の急峻な山

頂に小刻みに郭を繊細に配置

したセンスある中世城郭です。

◆質問者

近江高島大溝城は織田信長の甥

織田信澄の城として信澄の妻の

父、明智光秀が大溝城の縄張を

担当したとして伝承されていま

すが大溝城の中心部天守台には

ビイスタ工法が読取れますか?

 

◆長谷川

意外にも大溝城天守台及びその

付帯する附け櫓石垣は正方形で

なく私の分類するクサビ型ビイ

スタに分類されると思います。

 

 

◆長谷川

一次資料には近江高島田中の城が

文献『信長公記』に3度登場します。

 

1回目、元亀元年(1570)4月20日

信長が京都から越前へ向う際に高島郡

田中の城に織田信長の宿泊記録がある。



2回目元亀3年(1572)3月11日

信長が高島郡で浅井・朝倉軍を攻撃

した際の記録で信長家臣の明智光秀

や丹羽長秀らが木戸・田中両城を看視

しています。

 

3回目元亀4年(1573)7月26日、

信長が大船で湖上から高島郡を攻撃、

陸からも木戸・田中両城を攻撃した

記録木戸・田中両城を信長から明智

光秀下賜されています。



二次資料として

熊本藩の家老米田家に伝わる医学

『針薬方』永禄9年奥書に「明智

十兵衛尉高嶋田中籠城之時口伝也」

とある田中城と光秀に関する伝承

ですが、二次資料口伝の範疇です。

 

◆質問者

近江高島田中の城にビイスタ工法

が明智関係の城として存在する?

 

◆長谷川

山頂部の詰め城部分に重複型の

城郭ビイスタ工法読み取れます。

見事な中世城郭構図と言えます。

 

◆一般者

長谷川先生!この投稿は明智光秀

を考える上で非常に重要な投稿!

 

◆長谷川

興奮しないで下さい!誤解しない

で下さい!私は空偶然明智関係の

城のビイスタ工法を取り上げる訳

であり明智が占有してビイスタの

法則駆使した事を述べる訳でなく

『近江輿地志略』の高島の項目に

「上寺村の上の山に在り」と簡略

に記さてるだけで、上寺城であり

田中の城と未だに確定できない。

先ず高島七寺のひとつ松蓋寺遺跡

として全山の寺院ビイスタ工法を

検討致しましょう。所在地滋賀県

高島氏安曇川町田中大畑平安時代

の遺跡である事を認識しましょう。

 

▼松蓋寺遺跡本堂を中心とする図

 松蓋寺本堂跡を中心の寺院城郭

 ビイスタに該当致します。

▼武者隠しから見た城郭ビイスタ図

 この城は山頂の城、中腹の城そし

 て城下集落の三部構成の城ですね

◆長谷川

近江坂田郡の伊吹七寺のひとつ

とされる弥高寺跡遺跡も典型的

山岳寺院ビイスタ縄張ですよ。

 

◆対談者

しかし佐目城、田中の城、大溝

城に日本の城郭の基準とも言え

るクサビ型ビイスタ工法が存在

する事自体が新しい城郭論です

城郭ビイスタ法が如何に革新的

令和の先駆的城郭研究論である

と巷では評判が高いのです!

 

▼明智伝説の城 多賀町

▼明智伝承の城 高島市

▼明智光秀縄張伝承 大溝城 高島市

 

▼長谷川

ここで近世の城郭の開祖とも

評判の高い安土城なのですが

信長安土城以前にも中川重政

が旧土城に在番していた記録

は『信長公記』にありその先

佐々木六角配下の目賀田氏

の城であつた事やその前身の

安土寺まで遡って安土城縄張

を考えなければなりません。

安土の縄張が最新鋭の縄張で

はなく旧城郭の様式を踏襲し

た日本の寺院城郭の延長線上

であつた可能性も考慮すべき

です。安土城には六角氏寺院

江南寺御殿や甲賀寺仏塔など

旧材を集めたリサイクル城郭

の要素もあった事も考慮する。

◆長谷川

小谷城最高峰の大嶽城ビイスタ

も山岳寺院『大嶽寺』ビイスタ

の可能性も考えておく事が大切

◆対談者

長谷川先生の研究視点とは

深淵ですね本当に深堀です。

 

◆一般者

室町幕府の要職にあった細川

藤孝の正妻は若狭熊川城主の

沼田氏でした。また熊川城に

関しては明智光秀の書簡など

も発見されており若狭方面と

明智光秀の関係は深いですね。

 

◆長谷川

元亀元年『信長公記』に若狭

で活動する明智光秀が記録さ

れています。「明智十兵衛

丹羽五郎左衛門 両人若狭

に差し遣わされ、武藤上野

人質執候て参るべきと」記

さて若狭方面の明智の動向

を知る事が出来ます。

 

◆対談者

若狭熊川城には城郭ビイスタ

は存在するのでしょうか?昔

の城の縄張の仕方や選地には

最近の城郭ビイスタ論の評価

が非常に高く話題騒然です!

 

◆長谷川

山城城郭自体中世城郭とし

て弓なりに縄張しています

もう解りますね!扇状ビイ

スタ工法です。赤腺の畝堀

もビイスタ工法と言えます。

 

▼若狭熊川城ビイスタ工法

◆長谷川

主郭の南にある連続竪堀も

みどり色の上から2本目の

ビイスタ腺に従って中世

城郭としての縄張を展開

しております。

◆一般者

余計な質問を致します。

明智光秀の丹波亀岡城

にビイスタ工法は存在

しましたか?

◆長谷川

複数のビイスタ工法が存在

致します。

▼亀岡城本丸のビイスタ工法

 

 

◆長谷

今回の投稿を通してこの様な

元亀元年頃の世相を考えます

 

越前朝倉義景

足利義昭を奉じての上洛不履行

足利義昭 

美濃の織田信長を頼み上洛成就

足利幕府再興を望む利潤探求者

前将軍足利義輝に従属して利権

を得て生計を立てていた奉行集

織田信長義昭を室町将軍に擁立

室町幕府 臣下細川藤孝の立身

細川藤孝の正室は若狭もと熊川

城主の沼田氏出身

熊川城は若狭松宮玄番が奪取

沼田家は熊川領奪還を目指す

元亀年間越前朝倉は若狭国へ

侵攻を繰り返していた

細川氏や室町幕府方の意向と

して若狭国の室町的秩序回復

幕臣から信長家臣へ傾く細川

細川の妻 沼田氏から若狭領

問題を細川氏へ伝達された。

細川は沼田氏の旧領復帰や

若狭武藤氏の領域侵犯を信

長に要請細川は織田信長へ

日本海側の動静を報告する

役目を帯びていた。内面で

縁戚明智をも牽制的に目付

の役目を信長から得ていた。

信長は若狭秩序回復を名目

に朝倉氏の敦賀郡まで侵犯

江北浅井氏は信長の湖北の

塩海産物の供給源の敦賀へ

の派兵を危惧し朝倉に回帰

ライフライン、商業圏確保

信長は急遽敦賀金ケ崎から

朽木を通り挟撃の危機回避

京都に駆着やがて岐阜回帰

姉川合戦

浅井朝倉VS織田徳川

日本海   太平洋

物流資本  物流資本

元亀元年志賀の陣勃発

天正10年

本能寺の変の際の細川家の

冷酷な反応、信長死すとも

織田家の体制の中で明智を

牽制する役目を継続し続け

明智光秀娘を一時幽閉して

細川家は明智光秀に加担せ

ず。

 

 

志賀の陣(しがのじん)は、元亀元年

1570年9月16日から12月17日にかけて

発生した、織田信長浅井長政

朝倉義景比叡山延暦寺の戦いを言う。

天正元年北陸物流勢力

浅井朝倉勢力が滅亡へ

 

◆『信長公記』元気元年引用

江北浅井備前手の反履の由、追々

其注進候。
然共、浅井は歴然御縁者たるの上

、剰江北一円に仰付けらるゝの間、

不足これあるべからざるの条、

虚説たるべきと思食候処、方々よ

り事実の注進候。是非に及ばず、

の由候て、金か崎の城には木下

藤吉郎残しをかせられ、四月晦日、

朽木越をさせられ、朽木信濃守馳

走申し、京都に至つて御人数打納

れられ、是より、明智十兵衛

・丹羽五郎左衛門両人若州へ差遣

はされ、武藤上野人質執候て参る

べきの旨御諚候。

 

◆ウイッキペデイア若狭松宮玄番引用

松宮 清長(まつみや きよなが)は、

戦国時代から安土桃山時代にかけての

武将若狭武田氏の家臣。長講堂領

吉田荘の代官を務めた[1]

若狭国守護武田義統に仕えた。

遠敷郡東部に勢力を張り、膳部山城

の他、瓜生城主として瓜生・井ノ口・

天徳寺、熊川を領す[2]。松宮氏被官だっ

沼田氏沼田清延の時代に熊川城

築くと、永禄12年(1569年)、沼田一族

を攻め、子・左馬亮を熊川城主とした。

結果、新道・河内・熊川を得て三宅庄

まで進出し、近江国から若狭へ入る街道

筋を掌握した[3]元亀元年(1570年)4月

22日、織田信長朝倉義景討伐のため越前

へ侵攻する際(第一次越前侵攻)、若狭国

内の諸将と共に信長を出迎え、熊川城を

「若州熊川松宮玄蕃所」として提供する[4]

粟屋勝久らと共に敦賀の手筒山城攻めを始

め信長軍として活躍し、元亀4年(1575年

朝倉義景攻め(第二次越前侵攻)に参陣

天正3年(1575年)7月1日、武田元明

随従して上京、相国寺にて信長に謁見した[5]

同年8月の越前一向一揆討伐戦に若狭衆と

して参加。海賊衆を率いて一揆と戦う。

その後の消息は不明だが、明智光秀の乱に

与し武田元明と共に没落したとの説もある。


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1 コメント

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Unknown (言霊)
2022-07-07 06:27:10
令和の城郭新研究の地平線が見えます。長谷川先生という城郭研究家は希代の城郭研究家と言って過言ではありません。ずば抜けた観点、すば抜けた視点。また城郭遺跡測量の基本から叩き上げた城郭理論の堅実さ、なみなみ成らぬ城郭研究の成果をもたらしています。これは衝撃と言える投稿内容です。
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