城郭 長谷川博美 基本記録

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隠岐勝本城と尾張小牧城の縄張新研究論+安土天主縄張

2024-08-01 04:11:22 | 九州の城 ビイスタ工法

隠岐勝本城と尾張小牧城の縄張新研究論+安土天主縄張

 

◆質問者

勝本城の城郭ビイスタ解説

を是非宜しく御教示下さい。

 

◆長谷川

困りますよ私には解明不能

私は肩書が全くありません

私は著書が全くありません

私は人気が全くありません

私のブログ全く読む人ない

 

◆長谷川

見学会へと

 参加を賜った方々には改めて

感謝御礼を謹みて申し上げます

御家族様の御多幸も祈念します

 

◆対談者

長谷川先生は5流研究家です

が城郭幾何学理論ビイスタ

論は東洋史学的見地から見

ておそらく最高峰の先生だ

と思います

 

◆質問様

勝本城にどの様な城郭ビイスタ

があるのか私達は全く解らない

のです。是非御教示を願います。

◆優秀学者

それは勝本城の自然地形

だといえましよう。簡単

な理由です。長谷川先生

のビイスタ論は破棄すべ

き理論で全くの無効です

 

◆熱田様

チヨット待って下さいよ!

名古屋から米原まで城郭

を学びに来ておりますが

長谷川先生のビイスタ論

大変な理論だと思います

永禄三年桶狭間合戦にて

松平元康「徳川家康」に

落城させられた織田方の

佐久間大学が守っていた

丸根砦に城郭ビイスタが

ある事自体が大きな驚き!

こう言う理論は米原のみ!

◆優秀学者

それ長谷川氏の個人の幻想論

にしか過ぎない駄目理論です

社会的コンセンサス合意取っ

てない社会学に無知な学者だ

 

◆長谷川

桶狭間合戦後に三河岡崎へと

帰国した徳川家康の岡崎城の

本丸の縄張がビイスタ工法で

ある事は明白な事であります。

◆長谷川

浜松殿こと徳川家康の岡崎城

天守曲輪も典型的なビイスタ

◆提案者

本日は日本国の城の縄張の

経始つまり築城法を城縄張

の見地から尾張小牧山城と

隠岐勝本を比較研究しなが

ら日本国の城郭縄張の現実

を城郭縄張の専門家長谷川

先生に是非御教示願います。

 

◆質問者

織田信長の居城で徳川家康の

小牧長久手合戦の本陣小牧山

の本丸にはビイスタあります?

 

◆長谷川

まず小牧山城の本丸石垣出土

状況の図から小牧山城の本丸

ビイスタを読み解きましよう

これが小牧山城本丸基本石垣

の放射状測量の痕跡と言える

丸根などと同じタイプですね。

▼尾張小牧屋山城本丸石垣

◆長谷川

更に小牧山城の本丸には

123とビイスタが読み取

れるのです。

◆長谷川

実は隠岐勝本城にも日本の城

織豊親玉太閤秀吉指示し隠岐

に作らせた日本軍の城な訳で

私は日本の城の縄張の手法を

研究しているしがない無名の

日陰暮らしの城郭研究家です

▼隠岐勝本城の複数ビイスタ

 

◆長谷川

 次に文禄慶長の役の際に秀吉

が隠岐に築城させた勝本城縄張

で基本的に扇形の測量縄張実施

している事明白な事と言えます

つまり丸根、小牧、勝本、どの

城も尾張に起源を持つ織豊系の

城郭縄張技巧の系譜にある形態

様式であるとと言えましよう。

 

◆長谷川

だから信長の安土城ビイスタ

工法で築城されているのです

◆長谷川

信長の覇業を継承した太閤秀吉

の肥前名護屋城もビイスタ工法

◆一般様

そうなんだ。ビイスタ理論とは!

極めて正論と言える令和の学術!

◆長谷川

日本の城の金字塔と言える安土城

天主台もビイスタ理論で出来てる。

▼安土城天主台ビイスタ

◆一般様

いやあこれ!天正4年の実際の

工事現場にいる様でスゴイ!

信長や丹羽普請奉行丹羽長秀

や天主作事棟梁の熱田神宮の

大工岡部又右エ門の巧みな技

や信長という異常な常人とは

異なる主観を持つ人間の精神

世界が広がっているようです

 

◆一般様

しかし長谷川先生は平気な顔

して解説されいますがこの件

日本の城郭研究史の重要なる

1ページだと感じますよ。

 

◆質問者

小牧山城の本丸ビイスタとは

どうなっている訳ですか是非!

 

◆長谷川

この1個所だけの石垣ビイスタ

だけで縄張されてはいません

10箇所もビイスタが存在する。

◆長谷川

同じく隠岐勝本城も12345と

多元的にビイスタ工法を用い

ております。織豊城郭ですね。

 

 

 

◆長谷川

秀吉の大坂城の中心部も多数

のビイスタ工法を使ってます。

◆ウイッキペテイア引用

隠岐勝本城

勝本城(かつもとじょう)は、長崎県壱岐市

勝本町坂本触[1]壱岐国壱岐郡勝本)にあった

土桃山時代日本の城。別称風本(かざもと)城

・武末城・雨瀬包(あませかね)城。国の史跡

指定されている[2]

概要

[編集]

豊臣秀吉文禄・慶長の役に際して本陣の

名護屋城から朝鮮への経由地となる壱岐対馬

に兵站基地となる城を築くことを命じ、壱岐に

おいては島の領主である松浦鎮信が主に築城に

あたることになった。1591年(天正19年)夏か

ら工期約4ヶ月というごく短期間に築かれ、

文禄・慶長の役を通じ利用された。

1598年(慶長3年)に秀吉が没し朝鮮から

撤兵した後は建物は取り壊された。

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