25日、東京都足立区の日本共産党あおぞら後援会が、いわき市の津波被災地から原発で避難地区になっていた双葉郡富岡町までを視察しましたが、バスに同乗し、案内役として被災の様子など説明しました。実は私自身、楢葉町までの議会の視察で入っていましたが、富岡町に入るのは初めて。またいわき市の薄磯地区にある山六観光さんでは、引き波の写真が展示されており、この引き波写真も貴重で初めてみるなど、新たな被災の様相に震災後の背筋が冷たくなった、そんな想いを思い起こしました。
小名浜港で営業している丸克さんでバスに乗り込んで、下神白、永崎、江名、豊間、薄磯と津波被災地を通過しながら被害の状況を説明しました。そして山六観光さん。社長さんが被災の状況を語ってくれました。写真の塩屋崎灯台の下では、岬を回りこんだ津波が渦をまき、自らは美空ひばりさんの記念碑付近で50cmまで上がった津波に足を縛られ、碑にしがみついて何とか難を逃れた体験などを語ってくれました。
四倉から久之浜を通過し双葉郡に入ったバス。楢葉町では、双葉郡住民が損害賠償請求をしている原告団の団長・早川住職のお寺を訪ねました。除染作業をしたのだそうですが、空間線量で0.6μSv(RD1706で地上1mで測定)を超えています。こんな状況ですから、帰るに帰れない状況と言えるでしょう。そこに早期に帰そうというのが国の方針のようですから、何を考えているのと言わざるを得ません。
バスの通る沿線ではあちこちで除染作業が行われていました。草に覆われていた常磐線も復旧作業が進められ、線路がきれいに整備されていました。写真はお寺の付近のお宅で、石垣を高圧洗浄機を使い除染している若い作業員たちです。
富岡町の駅前では津波被災の状況がそのまま残されていました。1階のウインドーが壊れたままの店舗や住宅では、軽トラックが住宅の中に飛び込んだまま残されていました。また津波到達の時刻に止まったとみられる屋外の時計も。
原発事故が地域の時間を止めた。地域の人間を追い出してゴーストタウンにした。原発事故さえなければ。多くの福島県民がその悔いを胸の奥に沈めていることでしょう。
6号国道から第二原発の建屋の屋根部分が見えるなどの新発見(自己の)をしながら、Jビレッジを経由して四倉港の道の駅に帰ったところで案内役は終了。駐車場に降り立つと、東の空に虹がかかっていました。
後援会のみなさんは途中立ち寄ったお店でおみやげをたくさん買ってくれました。復興支援ツアーは被災地への経済的貢献でもあるわけです。お買い物をされたみなさんに心から御礼を申し上げます。
小名浜港で営業している丸克さんでバスに乗り込んで、下神白、永崎、江名、豊間、薄磯と津波被災地を通過しながら被害の状況を説明しました。そして山六観光さん。社長さんが被災の状況を語ってくれました。写真の塩屋崎灯台の下では、岬を回りこんだ津波が渦をまき、自らは美空ひばりさんの記念碑付近で50cmまで上がった津波に足を縛られ、碑にしがみついて何とか難を逃れた体験などを語ってくれました。
四倉から久之浜を通過し双葉郡に入ったバス。楢葉町では、双葉郡住民が損害賠償請求をしている原告団の団長・早川住職のお寺を訪ねました。除染作業をしたのだそうですが、空間線量で0.6μSv(RD1706で地上1mで測定)を超えています。こんな状況ですから、帰るに帰れない状況と言えるでしょう。そこに早期に帰そうというのが国の方針のようですから、何を考えているのと言わざるを得ません。
バスの通る沿線ではあちこちで除染作業が行われていました。草に覆われていた常磐線も復旧作業が進められ、線路がきれいに整備されていました。写真はお寺の付近のお宅で、石垣を高圧洗浄機を使い除染している若い作業員たちです。
富岡町の駅前では津波被災の状況がそのまま残されていました。1階のウインドーが壊れたままの店舗や住宅では、軽トラックが住宅の中に飛び込んだまま残されていました。また津波到達の時刻に止まったとみられる屋外の時計も。
原発事故が地域の時間を止めた。地域の人間を追い出してゴーストタウンにした。原発事故さえなければ。多くの福島県民がその悔いを胸の奥に沈めていることでしょう。
6号国道から第二原発の建屋の屋根部分が見えるなどの新発見(自己の)をしながら、Jビレッジを経由して四倉港の道の駅に帰ったところで案内役は終了。駐車場に降り立つと、東の空に虹がかかっていました。
後援会のみなさんは途中立ち寄ったお店でおみやげをたくさん買ってくれました。復興支援ツアーは被災地への経済的貢献でもあるわけです。お買い物をされたみなさんに心から御礼を申し上げます。
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