視察の旅程はなかなか厳しかった。
遠野支所をレンタカーで出発し、新潟県経由で日本海側を南下、岐阜県越前市にいたり初日は終了。600kmを越える移動だった。翌日は午前に美濃和紙の里で施設を見学し、午後に越前和紙関係者にお話を伺い、その後に岐阜県関市まで移動した。最終日、美濃市役所美濃和紙推進課の案内で関連施設を見学。その後お話を伺って視察は終了。美濃市を離れ、国道475号東海環状自動車道から中央自動車道、岡谷ICで一般道に降りて国道142号線を通って佐久南ICまで移動、上信越道、関越道、北関東自動車道、常磐自動車道、同道府県でいえば、岐阜県、長野県、群馬県、栃木県、茨城県とめぐって福島県いわき市に戻った。全走行距離でおおよそ1,500kmに及ぶ長いドライブ。私も、帰路、500km弱の運転をこなした。これだけの距離は久々。
美濃でたまたま話しを聞いた復活の取り組みをしている長野県の立岩和紙の産地があることが帰路の途中にあることが分かり、急きょ回ってみることにした。閉館していたが「信州立岩和紙の里」という施設があった。こんなことができるのも、車移動のいいところと言えるだろう。
遠野和紙は、最後の技能保持者が2010(平成22)年に廃業し、いったん途絶していた。その後、遠野町づくり振興協議会の和紙、鍛冶、桶などの遠野の伝統産業継承事業や地域おこし協力隊制度で和紙事業の担い手を募り、地域住民のボランティア活動の支えも得ながら活動を続けてきた。
今年6月には、ボランティアを母体に遠野和紙・楮保存会を発足し、市内の一部小中学生、旧県立遠野高校の卒業証書用紙を制作・販売するなどの活動を続けている。
しかし、実際問題、
楮の植え付けから育成、刈り取り、
皮むき(枝を煮て皮を柔らかくした後に枝から皮をはぐ)、
しょしとり(皮から黒皮と甘皮をはぎ白い皮を剥ぎ出す)、
煮熟(白皮に炭酸ソーダを加え煮込む作業)から
ちり取り(白皮に付着するごみや皮の汚れを取り去る)、
叩解(皮を叩いたりビーターという機会にかけ繊維化する作業)の材料づくりの工程、
紙漉き、圧搾、乾燥に至る和紙を作る工程まで、
経験も専門的知識も圧倒的に不足しているのが実体。他産地で、それに関わる知識と経験を蓄積することは、大切な活動となっているように思う。
実際、今回の視察ではたくさんの新たな知識を得ることができた。話しを聞いてから時間も経過しているので、うろ覚えになっている点もあるが、まとめてみたいと思う。
まず第1に、この言葉が心に響いた。正式な視察先で聞いたお話ではないが、大切なことと思った。
それは何かというと、「何を目的に和紙を漉くのか明確にする」という言葉だ。
遠野和紙の場合、途絶えた和紙作りを復活させるという動機が、和紙作りの取り組みの原点に座っている。ではその和紙作りの何をどのように残していくのかということが、この言葉で問われていると受け止めた。
一口に「和紙漉き」という。以前も本ブログに書いているように、和紙漉きは和紙作りの工程のごく一部にすぎない。その大部分、おそらく90%以上の工程は、前述した工程のように、より良い和紙づくりに必要な材料づくりにあてられている。地域に伝わる紙漉きを残すというのは、この全ての工程をありのままに保存していくことであり、それが伝統文化を継承していくことなのだ。こんなことを話していたと記憶している。
6月に埼玉県の細川和紙から谷野氏を招いて講演していただいたときにも、残されている映像で、流漉きの遠野での簀の揺すり方は縦揺すりなので、これをしっかり継承することが必要だとご指摘をいただいた。
今回、聞いたお話では、紙の用途によって揺すり方は変わり、縦揺すりのみにすることでたたみやすい奉書紙になり、強度が求められる用途では、これに横揺すりも加え製造するという。用具の使い方も含めて、まずは地域の伝統を継承し、そこに自分なりの総意工夫を凝らす。こうしたことが大事ではないかという。
遠野和紙継承に取り組む上での基本姿勢のようなものを、伝えていただいた気がする。
これまでの保存会の活動で、担っている工程は、基本的に楮の育成からしょしとりによる白皮作りまでの工程だ。地域おこし協力隊の配置状況によって、紙漉き以外の煮熟やちり取り等の工程もしていたことがあるようだが、現状はそこまでの工程に取り組んではいない。けっこう活動に時間をとられるので、それぞれの生活や活動を考えると、より多くの時間を割いて欲しいと言いづらい状況がある。
このため煮熟以降の工程は、地域おこし協力隊がほぼ担っている。
遠野和紙を残す。すなわち遠野和紙が完成するまでの全ての工程を継承していくという観点から見れば、全工程に関わることができるよう会を育てていくことが必要そうだ。従来から一生懸命、保存会の活動に関わってくださってきた現在のメンバーに加え、新たなメンバーを獲得していくことが必要となるだろう。
また、「目的」の観点から、もうひとつ考える必要があるのは、和紙漉きの担い手の育成だと思う。この間、私が保存会の活動に関わりながら考えてきたことが、遠野和紙を残すためには、紙漉きを協力隊員のみに頼るのではなく、地元住民の中にも技術を持った人を育成することが必要だということだった。地元に技術があることで、3年任期の協力隊員の技術力の継続性を担保し、安定的に和紙作りを進めることができる。そう考えてきたのだ。
現状では、前の地域おこし協力隊員が隊員卒業後に入遠野地区に和紙店を開いているが、十分ではない。やはりさらに育成が必要だろう。
その先、どこまで技術者が必要になるのか。大量に和紙を生産できるまでの人数を育成する必要があるのか。それとも、技術継承の範囲での人数でも構わないのか。ここは、遠野和紙を今後の地域産業と考えた時、どこに力点を置くかで変わってきそうだ。素材の提供が主になるのか、和紙という素材の供給が主となるのか。ここらは今後、検討が必要そうだ。
第2に、材料について。
楮に関することが中心だが、これてもよく知らなかったと思い知った。その1つが楮の種類の特定をすること。
楮についての私の最初の知識は、愛犬の散歩の時に得た。路程の道端で見つけた小さな花が第一号だった。
道端の枝に咲いている1cmにも満たないような小さな花。華やかさはないが、薄紫の可憐な花だった。写真に撮ってインターネットで調べると、ヒメコウゾの花と知った。そこらに自生しているのだ。
以降、花が咲く季節がくると、花見をしながら楽しんでいたが、ボランティア活動に参加しだしてから楮畑の世話をしている協力隊員の話を聞くと、畑の楮にも似たような花が咲いていると知った。
越前和紙の視察で対応してくれた方のお話で、楮はヒメコウゾとカジノキの雑種だと知った。ヒメコウゾも紙漉きに使うと知っていた。しかし、道端で見るヒメコウゾの1年物の枝は細い。もし楮と同じように紙漉きの材料にしようとするならしょしとりなど皮の処理がとても大変と、マイナスイメージでみていた。楮とヒメコウゾは、近縁種ではあっても全く別物と思っていたのだが、まさか親子関係だったなんて・・。驚がくの事実だ。
越前和紙の方は、楮には6種類(と言っていたと思う)があるという。そして遠野の楮はこのうちのどれなのかを調べておくことが必要だという。
楮に種類があるということ自身が初耳なので、遠野で栽培している楮がどれに当たるのか知らなくて当然なのだが、このように指摘されると至極全うだと思う。何を栽培しているか知らなくて、育てた楮の価値を語ることはできないのだから。
遠野に戻って楮畑の草刈りなど実施した際に、成長した楮の枝を見た。枝の表皮に斑(まだら)模様がある。たぶんこれは虎斑(とらふ)楮だ。この楮は良い材料になると聞いてきた。遠野楮がこの虎斑楮であれば、遠野和紙は良い材料を使っているということになる。見立てが間違っていないことを願うばかりだ。
2つ目が、楮の皮の取り扱い。枝の部位毎に取り扱うことが必要ということを知った。
これまで、枝が太くても細くても、また、枝の根元でも先端でも同じ皮と考え、まぜこぜにして扱ってきた。ところが、和紙産地は和紙漉きの材料として均質な皮を望んでいる。枝の根元と先端の皮を除いた中程の皮を引き取っているという。
あらためて思い浮かべてみると、当たり前のことだが、楮の枝は根元に近いほど太く、先端部に近づく程細くなっていく。枝の皮も同様、根元は厚く、先端に行くに従って薄くなっていく。このことに気がついていなかった。
楮の枝を煮る場合、皮の厚みによって熱の通り方に違いがでるという。同じ1枚の皮でも、根元に近い方と遠い方で厚さに違いができるため、煮熟するさい、それぞれを入れ替えながら時間を変えて煮る生産者もいるという。それだけ皮への熱通しに気をつかっているということだ。
加えて、皮の厚みは、そこそこのものである必要で、厚ければ良いということでもないようだ。
私自身は、これまでの体験から、厚い皮こそ良い皮とする考えをもっていた。しょしとりをしていて、厚い方が作業がしやすいと感じていたからだ。
昨年から楮の育成に年間を通して関わって、といっても、ボランティアで関わったのは畑の草刈りだけだったが、畑に通うたび、高く太く育っている楮の枝に大いに期待を抱いてきた。今年は昨年より成育状況が良いようで、なおさら期待は大きい。まあ、大きな要因は、日常的に管理する地域おこし協力隊員の努力の成果だと思うのだが。
しかし、今回の視察で分かったのは、漉き上げる和紙の用途によって、必要な皮の質も変わるということだった。産地では、商品として価値の高い製品に国産和紙を使い、より良い製品を漉き上げるためにより良質な皮を求めているらしい。その良質な皮は、楮の枝の根元と先端の部分を除いた中程の部分。厚ければ良いということではなかったのだ。
遠野の場合、採取した枝を煮る容器(鉄釜と木桶)にあわせて、採取した枝を75cmで切り分ける。枝は3mから4m程の長さになるので、1本の枝を4本程度に切り分けることになる。中程の1.5m部分が産地の欲するA級品となり、残りの部分はB級品ということになる。もっとも枝によって成育状況が異なるので、枝の太さを揃えるということも大切になるのだろう。
ここで聞いた話しは、早速、今年の楮の採取から活かしていく必要があるだろう。枝の太さを揃え、部位を揃えて、1つのグループとして扱う。このグループ毎に、皮はぎ、乾燥、しょしとりも実施する。こうした観点を取り入れることで、1つには、遠野和紙の質の向上がはかれる、2つには楮の皮を販売する際に高い商品価値を得られることになっていくのだろう。これは大事だ。
3つ目に遠野和紙を漉く際に欠かせないネリの材料、トロロアオイに関する知識だ。
ネリは粘性の物質で、水にとろみをつけて、漉き舟の水に混ぜた植物繊維を均等に浮遊させ、また簀の上に汲み上げた水を保持する役割を担う。ネリには科学ネリもあるが、自然由来のものにはトロロアオイやノリウツギなどがあり、遠野ではトロロアオイを使っている。ネリは根から取り出す。
より良く育ったトロロアオイはダイコンの様に、地上に太く長く根を伸ばすらしい。そのような根を育てるためには、まず石などの障害物が混ざらないふかふかの土を作ることが大切らしく、産地によっては50から60cmものふかふかの土壌を作って生産しているという。
私も今年育ててみたが、粘土質の土地を耕して株を植えた。根に栄養を蓄えるために、花芽も脇芽も摘み取ることが必要で、その作業はしっかりやったため、茎の根本が太いトロロアオイが育った。根はどんなふうになっているのか期待を膨らましながら収穫の時を待った。
しかし、ある意味残念な結果になった。土中でいったんぐるっと輪を書くようにねじれた根が、途中から下に向かって根を伸ばし、枝根も多くなっていた。ねじれの原因は、種苗ポットで発芽させた苗を移植する際に、根が横向きになってしまったことと、粘土質の硬い土壌や草の根などに当たってた根が枝根に分かれてしまったためと考えられる。
視察先で聞いた話では、小石一個が原因で根が分かれ枝根を作っていくという。来年、育てるためには、土をもっと柔らかくし、障害となるものを取り除く必要があるようだ。
また、連作はできなく、次の作付けまで4から5年あける必要があるという。とすると一定のトロロアオイを継続的に生産するためには、それなりの畑の面積が必要になる。少しめまいがした。
さらに、たぶんアオイ科と言ったと思うが、そばに近縁種の植物があると交雑してしまい、質が低下する危険性があるという。交雑を避けるために、産地は種採り専用のトロロアオイを育てるのだという。
不安が湧く。今使っている種は交雑していないのだろうか・・。
新たなトロロアオイの種はどこで手に入れたいいだろう?
視察では、かように和紙の材料作りでも無知なのだなーと痛感させられた。
第3に、産地では和紙の活用範囲の拡大に熱心に取り組んでいるということだ。
美濃和紙の産地、美濃市ではちょうど「美濃和紙あかりアート展」が開催中で、同市に到着した2日目夜に会場を訪ねてみた。
同展は、和紙を材料にしたあかりのオブジェを募集し、応募作品を会場の重要伝統的建造物群保存地区に指定された「うだつの上がる町並み」に展示し、活性化につなげようと開かれているという。
うだつは、本市ではなじみがないが、隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のことをいう。うだつを上げるためにはお金がかかるため、富裕層が競い合って上げたのだという。同地が和紙で潤っていたことを示す、富の象徴のようだ。
アート展の会場となった通りは、芸術やデザイン系の大学や市内外の一般応募者、市内の子ども達から出品された作品に飾られ、なかなかの夜の景色を作り上げていた。出品する子どもたちには、主催側で和紙を用意するという。その他の応募者は自ら用意する。
同展で入選した作品は「美濃和紙あかりアート館」に収蔵され、同感での展示の他、公的イベント時の展示、1回に付き5,000円で一般への貸し出しも行われているという。
また、美濃和紙の里会館という施設では「全国和紙画展」を開催中だった。作品は多くが公募されたもので、絵の具代わりに和紙を使い制作されている。有り体に言えばちぎり絵だ。和紙の使い方によって、写実的な作品も、抽象的な作品も自在に作成できることが示されていた。
また、越前和紙の里の紙の文化博物館には、越前和紙産地の職人や会社の和紙製品の展示もあり、どんな紙が作られているのか一目瞭然だった。
ちなみに同館では竹久夢二展を開催中だった。素人話しで申し訳ないが、夢二の描く美人はみんな同じ顔に見えていた。作品を見ていると顔が違う。認識が変わった。
展示された解説ボードには、夢二の妻だった岸たまき、恋人だった笠井彦乃、お葉(本名・佐々木カ子ヨ=かねよ)の写真があったのだが、数々の美人画に描かれた女性はこの3人によく似ていた。彼の美人がみんな同じに見えていたのは、無知のなせる技だったのだ。
この展示会にあわせたグッズ販売では、和紙に刷った夢二の美人画の販売があった。1点19,800円。魅力を感じたのだがちょっと手が出せない。
美濃和紙の産地では、現在、文化審議会の文化財分科会企画調査会の中間整理には、和紙の需要の創出が盛り込まれていると説明があった。産地が国に求めて来た内容が反映しているのだという。最終報告は来年になるというが、どのような内容になるのか注目されるところだ。
最後に行政の中での伝統的産業の位置づけについて考えた。
美濃市では、産業振興部に「美濃和紙推進課」を設けている。普通会計職員が156人(2,021年度)のうち、同課は5人が配置されている。美濃和紙が他産地とともにユネスコの無形文化遺産に登録されているということもあるかもしれない。同時に行政に産地としての意気込みが反映されているようだ。
こうした経過からなのか、施設の整備もしっかり進められている感がある。それは越前和紙の里も同様だったし、帰路に立ち寄った立岩和紙の里も同様で、外観でしか見ていないが施設には必要な設備がしっかりと整備されている感があった。
こうした取り組みの結果なのだろう、美濃和紙の里会館の、手漉き和紙体験の利用者は30万人を突破したことが示されており、たずねた10月20日も利用者は満員となっていた。後継者を意識した取り組みにも力が注がれていると感じた。
お話では和紙漉きに使う簀の製造技術を持つ技術者も、意識的に育成しているとのことで、まち作りに和紙を活かす戦略性のようなことを感じずにはいられなかった。
以前、まち作りに関して市担当部署と遠野町づくり振興協議会が懇談した際、保存会の1員として参加した際、例えば市のホームページに市の伝統産業を紹介するボタンを設けるなど、市としてのPRを進めることを求めたことがある。14市町村が合併した市で、市内の一体感を生み出すことが難しいとされてきた市の宿命か、焦点を絞ることが難しいのだろう。
もちろん、本市が何も取り組んでいないということではない。地域おこし協力隊が本市で初めて配置されたのは遠野であったし、遠野和紙の製造等作業拠点となっている県の補助金で建設された「学舎」もある。
もちろん地元が頑張らなければならないことは間違いない。同時に、行政をあげて伝統産業をどう継承していくのか。それこそ協働しながら考え、取り組んでいくことが必要だと感じた。
最後に美濃和紙のあかりアート展の作品の数々を紹介したい。
遠野支所をレンタカーで出発し、新潟県経由で日本海側を南下、岐阜県越前市にいたり初日は終了。600kmを越える移動だった。翌日は午前に美濃和紙の里で施設を見学し、午後に越前和紙関係者にお話を伺い、その後に岐阜県関市まで移動した。最終日、美濃市役所美濃和紙推進課の案内で関連施設を見学。その後お話を伺って視察は終了。美濃市を離れ、国道475号東海環状自動車道から中央自動車道、岡谷ICで一般道に降りて国道142号線を通って佐久南ICまで移動、上信越道、関越道、北関東自動車道、常磐自動車道、同道府県でいえば、岐阜県、長野県、群馬県、栃木県、茨城県とめぐって福島県いわき市に戻った。全走行距離でおおよそ1,500kmに及ぶ長いドライブ。私も、帰路、500km弱の運転をこなした。これだけの距離は久々。
磐梯山の上は紅葉。それにしても雲が低いのは合図地方の標高が高いからか
新潟市を過ぎた頃から雨が降り始め、石川に入るまで続いた。低く垂れ込める雨雲。
日本海沖合に雲の切れ間がまっすぐに伸びていたのは、なかなか見ない光景。
日本海沖合に雲の切れ間がまっすぐに伸びていたのは、なかなか見ない光景。
鯖江PAで見た雲。たぶん波状雲。
帰路、長野県から見えた富士山。手前には諏訪湖が横たわる
美濃でたまたま話しを聞いた復活の取り組みをしている長野県の立岩和紙の産地があることが帰路の途中にあることが分かり、急きょ回ってみることにした。閉館していたが「信州立岩和紙の里」という施設があった。こんなことができるのも、車移動のいいところと言えるだろう。
遠野和紙は、最後の技能保持者が2010(平成22)年に廃業し、いったん途絶していた。その後、遠野町づくり振興協議会の和紙、鍛冶、桶などの遠野の伝統産業継承事業や地域おこし協力隊制度で和紙事業の担い手を募り、地域住民のボランティア活動の支えも得ながら活動を続けてきた。
今年6月には、ボランティアを母体に遠野和紙・楮保存会を発足し、市内の一部小中学生、旧県立遠野高校の卒業証書用紙を制作・販売するなどの活動を続けている。
しかし、実際問題、
楮の植え付けから育成、刈り取り、
皮むき(枝を煮て皮を柔らかくした後に枝から皮をはぐ)、
しょしとり(皮から黒皮と甘皮をはぎ白い皮を剥ぎ出す)、
煮熟(白皮に炭酸ソーダを加え煮込む作業)から
ちり取り(白皮に付着するごみや皮の汚れを取り去る)、
叩解(皮を叩いたりビーターという機会にかけ繊維化する作業)の材料づくりの工程、
紙漉き、圧搾、乾燥に至る和紙を作る工程まで、
経験も専門的知識も圧倒的に不足しているのが実体。他産地で、それに関わる知識と経験を蓄積することは、大切な活動となっているように思う。
実際、今回の視察ではたくさんの新たな知識を得ることができた。話しを聞いてから時間も経過しているので、うろ覚えになっている点もあるが、まとめてみたいと思う。
まず第1に、この言葉が心に響いた。正式な視察先で聞いたお話ではないが、大切なことと思った。
それは何かというと、「何を目的に和紙を漉くのか明確にする」という言葉だ。
遠野和紙の場合、途絶えた和紙作りを復活させるという動機が、和紙作りの取り組みの原点に座っている。ではその和紙作りの何をどのように残していくのかということが、この言葉で問われていると受け止めた。
一口に「和紙漉き」という。以前も本ブログに書いているように、和紙漉きは和紙作りの工程のごく一部にすぎない。その大部分、おそらく90%以上の工程は、前述した工程のように、より良い和紙づくりに必要な材料づくりにあてられている。地域に伝わる紙漉きを残すというのは、この全ての工程をありのままに保存していくことであり、それが伝統文化を継承していくことなのだ。こんなことを話していたと記憶している。
6月に埼玉県の細川和紙から谷野氏を招いて講演していただいたときにも、残されている映像で、流漉きの遠野での簀の揺すり方は縦揺すりなので、これをしっかり継承することが必要だとご指摘をいただいた。
今回、聞いたお話では、紙の用途によって揺すり方は変わり、縦揺すりのみにすることでたたみやすい奉書紙になり、強度が求められる用途では、これに横揺すりも加え製造するという。用具の使い方も含めて、まずは地域の伝統を継承し、そこに自分なりの総意工夫を凝らす。こうしたことが大事ではないかという。
遠野和紙継承に取り組む上での基本姿勢のようなものを、伝えていただいた気がする。
これまでの保存会の活動で、担っている工程は、基本的に楮の育成からしょしとりによる白皮作りまでの工程だ。地域おこし協力隊の配置状況によって、紙漉き以外の煮熟やちり取り等の工程もしていたことがあるようだが、現状はそこまでの工程に取り組んではいない。けっこう活動に時間をとられるので、それぞれの生活や活動を考えると、より多くの時間を割いて欲しいと言いづらい状況がある。
このため煮熟以降の工程は、地域おこし協力隊がほぼ担っている。
遠野和紙を残す。すなわち遠野和紙が完成するまでの全ての工程を継承していくという観点から見れば、全工程に関わることができるよう会を育てていくことが必要そうだ。従来から一生懸命、保存会の活動に関わってくださってきた現在のメンバーに加え、新たなメンバーを獲得していくことが必要となるだろう。
また、「目的」の観点から、もうひとつ考える必要があるのは、和紙漉きの担い手の育成だと思う。この間、私が保存会の活動に関わりながら考えてきたことが、遠野和紙を残すためには、紙漉きを協力隊員のみに頼るのではなく、地元住民の中にも技術を持った人を育成することが必要だということだった。地元に技術があることで、3年任期の協力隊員の技術力の継続性を担保し、安定的に和紙作りを進めることができる。そう考えてきたのだ。
現状では、前の地域おこし協力隊員が隊員卒業後に入遠野地区に和紙店を開いているが、十分ではない。やはりさらに育成が必要だろう。
その先、どこまで技術者が必要になるのか。大量に和紙を生産できるまでの人数を育成する必要があるのか。それとも、技術継承の範囲での人数でも構わないのか。ここは、遠野和紙を今後の地域産業と考えた時、どこに力点を置くかで変わってきそうだ。素材の提供が主になるのか、和紙という素材の供給が主となるのか。ここらは今後、検討が必要そうだ。
越前和紙の里の近くに和紙にまつわる神社が大滝神社と岡本神社があった。下宮のみ朝方散策。本宮にはクマが出る恐れがあるらしい。
第2に、材料について。
楮に関することが中心だが、これてもよく知らなかったと思い知った。その1つが楮の種類の特定をすること。
楮についての私の最初の知識は、愛犬の散歩の時に得た。路程の道端で見つけた小さな花が第一号だった。
ヒメコウゾの雄花と雌花
道端の枝に咲いている1cmにも満たないような小さな花。華やかさはないが、薄紫の可憐な花だった。写真に撮ってインターネットで調べると、ヒメコウゾの花と知った。そこらに自生しているのだ。
以降、花が咲く季節がくると、花見をしながら楽しんでいたが、ボランティア活動に参加しだしてから楮畑の世話をしている協力隊員の話を聞くと、畑の楮にも似たような花が咲いていると知った。
越前和紙の視察で対応してくれた方のお話で、楮はヒメコウゾとカジノキの雑種だと知った。ヒメコウゾも紙漉きに使うと知っていた。しかし、道端で見るヒメコウゾの1年物の枝は細い。もし楮と同じように紙漉きの材料にしようとするならしょしとりなど皮の処理がとても大変と、マイナスイメージでみていた。楮とヒメコウゾは、近縁種ではあっても全く別物と思っていたのだが、まさか親子関係だったなんて・・。驚がくの事実だ。
越前和紙の方は、楮には6種類(と言っていたと思う)があるという。そして遠野の楮はこのうちのどれなのかを調べておくことが必要だという。
楮に種類があるということ自身が初耳なので、遠野で栽培している楮がどれに当たるのか知らなくて当然なのだが、このように指摘されると至極全うだと思う。何を栽培しているか知らなくて、育てた楮の価値を語ることはできないのだから。
遠野に戻って楮畑の草刈りなど実施した際に、成長した楮の枝を見た。枝の表皮に斑(まだら)模様がある。たぶんこれは虎斑(とらふ)楮だ。この楮は良い材料になると聞いてきた。遠野楮がこの虎斑楮であれば、遠野和紙は良い材料を使っているということになる。見立てが間違っていないことを願うばかりだ。
2つ目が、楮の皮の取り扱い。枝の部位毎に取り扱うことが必要ということを知った。
楮の枝の刈り取り作業
これまで、枝が太くても細くても、また、枝の根元でも先端でも同じ皮と考え、まぜこぜにして扱ってきた。ところが、和紙産地は和紙漉きの材料として均質な皮を望んでいる。枝の根元と先端の皮を除いた中程の皮を引き取っているという。
あらためて思い浮かべてみると、当たり前のことだが、楮の枝は根元に近いほど太く、先端部に近づく程細くなっていく。枝の皮も同様、根元は厚く、先端に行くに従って薄くなっていく。このことに気がついていなかった。
楮の枝を煮る場合、皮の厚みによって熱の通り方に違いがでるという。同じ1枚の皮でも、根元に近い方と遠い方で厚さに違いができるため、煮熟するさい、それぞれを入れ替えながら時間を変えて煮る生産者もいるという。それだけ皮への熱通しに気をつかっているということだ。
加えて、皮の厚みは、そこそこのものである必要で、厚ければ良いということでもないようだ。
私自身は、これまでの体験から、厚い皮こそ良い皮とする考えをもっていた。しょしとりをしていて、厚い方が作業がしやすいと感じていたからだ。
楮の皮のしょしとり作業
昨年から楮の育成に年間を通して関わって、といっても、ボランティアで関わったのは畑の草刈りだけだったが、畑に通うたび、高く太く育っている楮の枝に大いに期待を抱いてきた。今年は昨年より成育状況が良いようで、なおさら期待は大きい。まあ、大きな要因は、日常的に管理する地域おこし協力隊員の努力の成果だと思うのだが。
しかし、今回の視察で分かったのは、漉き上げる和紙の用途によって、必要な皮の質も変わるということだった。産地では、商品として価値の高い製品に国産和紙を使い、より良い製品を漉き上げるためにより良質な皮を求めているらしい。その良質な皮は、楮の枝の根元と先端の部分を除いた中程の部分。厚ければ良いということではなかったのだ。
遠野の場合、採取した枝を煮る容器(鉄釜と木桶)にあわせて、採取した枝を75cmで切り分ける。枝は3mから4m程の長さになるので、1本の枝を4本程度に切り分けることになる。中程の1.5m部分が産地の欲するA級品となり、残りの部分はB級品ということになる。もっとも枝によって成育状況が異なるので、枝の太さを揃えるということも大切になるのだろう。
ここで聞いた話しは、早速、今年の楮の採取から活かしていく必要があるだろう。枝の太さを揃え、部位を揃えて、1つのグループとして扱う。このグループ毎に、皮はぎ、乾燥、しょしとりも実施する。こうした観点を取り入れることで、1つには、遠野和紙の質の向上がはかれる、2つには楮の皮を販売する際に高い商品価値を得られることになっていくのだろう。これは大事だ。
3つ目に遠野和紙を漉く際に欠かせないネリの材料、トロロアオイに関する知識だ。
トロロアオイの花
トロロアオイの収穫作業
ネリは粘性の物質で、水にとろみをつけて、漉き舟の水に混ぜた植物繊維を均等に浮遊させ、また簀の上に汲み上げた水を保持する役割を担う。ネリには科学ネリもあるが、自然由来のものにはトロロアオイやノリウツギなどがあり、遠野ではトロロアオイを使っている。ネリは根から取り出す。
より良く育ったトロロアオイはダイコンの様に、地上に太く長く根を伸ばすらしい。そのような根を育てるためには、まず石などの障害物が混ざらないふかふかの土を作ることが大切らしく、産地によっては50から60cmものふかふかの土壌を作って生産しているという。
私も今年育ててみたが、粘土質の土地を耕して株を植えた。根に栄養を蓄えるために、花芽も脇芽も摘み取ることが必要で、その作業はしっかりやったため、茎の根本が太いトロロアオイが育った。根はどんなふうになっているのか期待を膨らましながら収穫の時を待った。
しかし、ある意味残念な結果になった。土中でいったんぐるっと輪を書くようにねじれた根が、途中から下に向かって根を伸ばし、枝根も多くなっていた。ねじれの原因は、種苗ポットで発芽させた苗を移植する際に、根が横向きになってしまったことと、粘土質の硬い土壌や草の根などに当たってた根が枝根に分かれてしまったためと考えられる。
我が家で収穫したトロロアオイ
視察先で聞いた話では、小石一個が原因で根が分かれ枝根を作っていくという。来年、育てるためには、土をもっと柔らかくし、障害となるものを取り除く必要があるようだ。
また、連作はできなく、次の作付けまで4から5年あける必要があるという。とすると一定のトロロアオイを継続的に生産するためには、それなりの畑の面積が必要になる。少しめまいがした。
さらに、たぶんアオイ科と言ったと思うが、そばに近縁種の植物があると交雑してしまい、質が低下する危険性があるという。交雑を避けるために、産地は種採り専用のトロロアオイを育てるのだという。
不安が湧く。今使っている種は交雑していないのだろうか・・。
新たなトロロアオイの種はどこで手に入れたいいだろう?
視察では、かように和紙の材料作りでも無知なのだなーと痛感させられた。
第3に、産地では和紙の活用範囲の拡大に熱心に取り組んでいるということだ。
美濃和紙の産地、美濃市ではちょうど「美濃和紙あかりアート展」が開催中で、同市に到着した2日目夜に会場を訪ねてみた。
同展は、和紙を材料にしたあかりのオブジェを募集し、応募作品を会場の重要伝統的建造物群保存地区に指定された「うだつの上がる町並み」に展示し、活性化につなげようと開かれているという。
美濃和紙あかりアート展に展示された作品
うだつは、本市ではなじみがないが、隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のことをいう。うだつを上げるためにはお金がかかるため、富裕層が競い合って上げたのだという。同地が和紙で潤っていたことを示す、富の象徴のようだ。
うだつの上がった家屋・小屋根の上がった部分がうだつ。うだつの向こうに木星かな・・が見えた
アート展の会場となった通りは、芸術やデザイン系の大学や市内外の一般応募者、市内の子ども達から出品された作品に飾られ、なかなかの夜の景色を作り上げていた。出品する子どもたちには、主催側で和紙を用意するという。その他の応募者は自ら用意する。
同展で入選した作品は「美濃和紙あかりアート館」に収蔵され、同感での展示の他、公的イベント時の展示、1回に付き5,000円で一般への貸し出しも行われているという。
美濃和紙アート館の販売コーナー
また、美濃和紙の里会館という施設では「全国和紙画展」を開催中だった。作品は多くが公募されたもので、絵の具代わりに和紙を使い制作されている。有り体に言えばちぎり絵だ。和紙の使い方によって、写実的な作品も、抽象的な作品も自在に作成できることが示されていた。
美濃和紙の里会館
会館に展示されていた和紙画
また、越前和紙の里の紙の文化博物館には、越前和紙産地の職人や会社の和紙製品の展示もあり、どんな紙が作られているのか一目瞭然だった。
ちなみに同館では竹久夢二展を開催中だった。素人話しで申し訳ないが、夢二の描く美人はみんな同じ顔に見えていた。作品を見ていると顔が違う。認識が変わった。
展示された解説ボードには、夢二の妻だった岸たまき、恋人だった笠井彦乃、お葉(本名・佐々木カ子ヨ=かねよ)の写真があったのだが、数々の美人画に描かれた女性はこの3人によく似ていた。彼の美人がみんな同じに見えていたのは、無知のなせる技だったのだ。
この展示会にあわせたグッズ販売では、和紙に刷った夢二の美人画の販売があった。1点19,800円。魅力を感じたのだがちょっと手が出せない。
美濃和紙の産地では、現在、文化審議会の文化財分科会企画調査会の中間整理には、和紙の需要の創出が盛り込まれていると説明があった。産地が国に求めて来た内容が反映しているのだという。最終報告は来年になるというが、どのような内容になるのか注目されるところだ。
最後に行政の中での伝統的産業の位置づけについて考えた。
美濃市では、産業振興部に「美濃和紙推進課」を設けている。普通会計職員が156人(2,021年度)のうち、同課は5人が配置されている。美濃和紙が他産地とともにユネスコの無形文化遺産に登録されているということもあるかもしれない。同時に行政に産地としての意気込みが反映されているようだ。
こうした経過からなのか、施設の整備もしっかり進められている感がある。それは越前和紙の里も同様だったし、帰路に立ち寄った立岩和紙の里も同様で、外観でしか見ていないが施設には必要な設備がしっかりと整備されている感があった。
こうした取り組みの結果なのだろう、美濃和紙の里会館の、手漉き和紙体験の利用者は30万人を突破したことが示されており、たずねた10月20日も利用者は満員となっていた。後継者を意識した取り組みにも力が注がれていると感じた。
美濃和紙の後会館の体験施設
美濃和紙漉き手研修生の研修施設もある
お話では和紙漉きに使う簀の製造技術を持つ技術者も、意識的に育成しているとのことで、まち作りに和紙を活かす戦略性のようなことを感じずにはいられなかった。
漉き上げた美濃和紙が板に張り乾燥作業に入っていた
以前、まち作りに関して市担当部署と遠野町づくり振興協議会が懇談した際、保存会の1員として参加した際、例えば市のホームページに市の伝統産業を紹介するボタンを設けるなど、市としてのPRを進めることを求めたことがある。14市町村が合併した市で、市内の一体感を生み出すことが難しいとされてきた市の宿命か、焦点を絞ることが難しいのだろう。
もちろん、本市が何も取り組んでいないということではない。地域おこし協力隊が本市で初めて配置されたのは遠野であったし、遠野和紙の製造等作業拠点となっている県の補助金で建設された「学舎」もある。
もちろん地元が頑張らなければならないことは間違いない。同時に、行政をあげて伝統産業をどう継承していくのか。それこそ協働しながら考え、取り組んでいくことが必要だと感じた。
最後に美濃和紙のあかりアート展の作品の数々を紹介したい。
遠野和紙といった時、伝統的なものは何かというと、現状は実は良く分からないというのが答えになりそうです。
技術を継承していた方は既に廃業・他界し、残されているビデオ資料は、最後の職人さんの和紙漉きを伝えるだけになっています。
そこで遠野和紙とは何かを改めて定義づけすることが必要になりますが、考えられているのは、遠野産の楮とトロロアオイのネリを使い、ビデオに残された漉き方である縦方向の揺りを加えて過ぎ上げたもの程度になってしまいます。
また遠野和紙は日常に使われる紙が多く、障子などの紙を漉いていたと聞いていますので、それも伝統と言えるかもしれません。
まずは、そのような遠野にこだわった材料と製造技術を獲得し、今後、和紙そのものを生業とできるようにしようと考えるなら、他方面の利用に応えられる紙作りが課題になってくると思います。
ただ、現状は、障子紙作り(流し漉き)でも漉き手の確保や技術の蓄積は不十分と考えられますし、主な収入減となっている卒業証書作りでも苦労している状況がありますし、保存会の後継者の確保も大きな課題です。
多くの方に目を向けてもらい、支援をいただきながら、遠野和紙を継承していければと思っていますので、今後ともご注目くださいますようお願いします。
そうすると、今回視察で得たものを、とても良いからと言って、そのまま真似をするのも違うのかな、とも思ったりして。
昔から引き継がれてきた「遠野和紙」を復活させるのか、それとも、新しい価値のあるものとして「新遠野和紙」を目指すのか。
難しいところかなと感じました。
和紙は、さまざまな新しい分野で必要な素材になっているとも聞きます。そちらにシフトさせるのか、従来の「遠野和紙」を目指すのか、地域の皆さんが結束して方向性を決めるのもアリかなと。
いずれにしても、勝手な意見、しかも上から目線で、大変申し訳ありませんでした。
(っていうか、そこで私が最後に見たのは15年くらい前なので、もしかしたら、震災でなくなっているかも)
場所は、小名浜の古湊地区です。
15年くらい前でも、すでに数件しか残っていなかったので、残っているとうれしいけど。
古湊地区は、昔のまま残っていたなら、今頃、伝統的建造物群保存地区になっていたかも。そんな所です。