「昨日の世界」(DIE WELT VON GESTERN) シュテファン・ツヴァイク著 原田義人訳 みすず書房 ツヴァイク全集(19,20)
シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)の書いたものは最近あまり見なくなったが、この古い全集に並んでいるように、実在の人物を題材にした作品は、全集が出た当時(もう40年も前になるけれど)、そこそこ知られていた。たとえばフーシェ、エラスムス、マリー・アントワネットなど。
この「昨日の世界」はほぼ最後に書かれた自伝。ウイーン生まれでユダヤ人の彼はナチの台頭でロンドンに逃れるが、第2次世界大戦が始まるとそこでは敵国人の扱いとなり、最後はリオ・デジャネイロにたどりついてこれを書いた。
文中でことわっているように、ほとんど記録・資料の類がなくホテル生活のような状態であったから、記憶だけを頼りに書いたようだ。それもあってか、事実を並べればもっと簡潔に、しかも明確に伝えられるところが、ちょっとくどくなっているが、一方で想いはなんとなくわかる、という両面がある。読み進むには少ししんどい。
大人になるまではオーストリアですごし、比較的若くして戯曲などが評価され、国際的に活躍、ロマン・ロラン、ジュール・ベルヌ、バーナード・ショー、ジグムント・フロイト、マキシム・ゴーリキーなどと親交を得、コスモポリタン的な教養とスタイルを身に着けたかに見える。ザルツブルクではヒットラーの台頭を身近に見ていたし、ムッソリーニについても知り合いの作家を助け出すのに直接手紙を書いたりしている。
この時代であれば、時代の潮流に、思潮にもっとはっきりとした態度で書く、言い切るということを求める人たちがいただろうし、事実トーマス・マンなどはツヴァイクに好感はもちながら、物足りなかったようだ。それは1942年にリオで自殺してしまったことも含めてなのだろう。
ナチの台頭については、その現象的な動きとその陰にあるものについてよく見てはいたが、イデオロギッシュな表現ではなく、そのときオーストリアの生活がそれによってどうだったか、人々がどういう困惑を感じていたがについての描写が多い。革命後のソ連への旅においても、特に精神的な高揚はなく落ち着いた描写が見られる。そしてロンドンにおいて、例のチェンバレンがミュンヘンで結果としてヒットラーにだまされ翻弄された一連の動きについても、途中までイギリスがいかに平和への期待と予感で湧いていたか、傍観者として見事に描いている。
この人はユダヤ人であっても、早く逃れたことばかりでなく、モーゼはユダヤ人でなかったという説を出していたフロイトとの会話で見るように、コスモポリタンでありたかったわけで、ユダヤとしての意識はあまりなかったのだろう。もちろんシオニストでもない。
どこで書いているのか確かめたわけではないが、ハンナ・アーレントもツヴァイクには批判的だったようだ。
その他ではリヒャルト・シュトラウスに頼まれオペラ台本「無口な女」を書いていることはこれまで気がつかなかった。このときの、それからツヴァイクがそしてシュトラウスがナチの体制で危なくなっていくときの二人のやりとりが興味深い。いろんな意味でシュトラウスは大物である。
この本、1975年に一度読んでいるとのメモがある。大戦前のヨーロッパの芸術家の書いたものにはかなり興味があって、いくつか読んでいた。これとか、クラウス・マン(トーマス・マンの息子)のものなど。内容についての記憶はあやういけれど。ツヴァイク全集の三分の一くらいは持っていて、ここ数年の大胆な断捨離にも生き残った。みすずの本というのは捨てにくい(?)のかもしれないが。
ところで今ギリシャが破産状態になり、EU離脱の可能性がニュースになっているが、このEUへの希望も、そしてその一筋縄ではいかないプロセスも、この本の時代にすでに見られたものだろう。ウイルソン米大統領の提言もそうだし、コスモポリタンであるツヴァイクの想いもそれにつながるものだったのではないか。そういう文脈で見ていると、突然変な話になるが、ドイツとオーストリアをはじめとする近隣諸国(ハンガリー、チェコ、イタリーなど)とはかなり違うなと思う。つまり旧ハプスブルグとドイツはどうも溶け合うのは難しい。そんな気がする。
シュテファン・ツヴァイク(1881-1942)の書いたものは最近あまり見なくなったが、この古い全集に並んでいるように、実在の人物を題材にした作品は、全集が出た当時(もう40年も前になるけれど)、そこそこ知られていた。たとえばフーシェ、エラスムス、マリー・アントワネットなど。
この「昨日の世界」はほぼ最後に書かれた自伝。ウイーン生まれでユダヤ人の彼はナチの台頭でロンドンに逃れるが、第2次世界大戦が始まるとそこでは敵国人の扱いとなり、最後はリオ・デジャネイロにたどりついてこれを書いた。
文中でことわっているように、ほとんど記録・資料の類がなくホテル生活のような状態であったから、記憶だけを頼りに書いたようだ。それもあってか、事実を並べればもっと簡潔に、しかも明確に伝えられるところが、ちょっとくどくなっているが、一方で想いはなんとなくわかる、という両面がある。読み進むには少ししんどい。
大人になるまではオーストリアですごし、比較的若くして戯曲などが評価され、国際的に活躍、ロマン・ロラン、ジュール・ベルヌ、バーナード・ショー、ジグムント・フロイト、マキシム・ゴーリキーなどと親交を得、コスモポリタン的な教養とスタイルを身に着けたかに見える。ザルツブルクではヒットラーの台頭を身近に見ていたし、ムッソリーニについても知り合いの作家を助け出すのに直接手紙を書いたりしている。
この時代であれば、時代の潮流に、思潮にもっとはっきりとした態度で書く、言い切るということを求める人たちがいただろうし、事実トーマス・マンなどはツヴァイクに好感はもちながら、物足りなかったようだ。それは1942年にリオで自殺してしまったことも含めてなのだろう。
ナチの台頭については、その現象的な動きとその陰にあるものについてよく見てはいたが、イデオロギッシュな表現ではなく、そのときオーストリアの生活がそれによってどうだったか、人々がどういう困惑を感じていたがについての描写が多い。革命後のソ連への旅においても、特に精神的な高揚はなく落ち着いた描写が見られる。そしてロンドンにおいて、例のチェンバレンがミュンヘンで結果としてヒットラーにだまされ翻弄された一連の動きについても、途中までイギリスがいかに平和への期待と予感で湧いていたか、傍観者として見事に描いている。
この人はユダヤ人であっても、早く逃れたことばかりでなく、モーゼはユダヤ人でなかったという説を出していたフロイトとの会話で見るように、コスモポリタンでありたかったわけで、ユダヤとしての意識はあまりなかったのだろう。もちろんシオニストでもない。
どこで書いているのか確かめたわけではないが、ハンナ・アーレントもツヴァイクには批判的だったようだ。
その他ではリヒャルト・シュトラウスに頼まれオペラ台本「無口な女」を書いていることはこれまで気がつかなかった。このときの、それからツヴァイクがそしてシュトラウスがナチの体制で危なくなっていくときの二人のやりとりが興味深い。いろんな意味でシュトラウスは大物である。
この本、1975年に一度読んでいるとのメモがある。大戦前のヨーロッパの芸術家の書いたものにはかなり興味があって、いくつか読んでいた。これとか、クラウス・マン(トーマス・マンの息子)のものなど。内容についての記憶はあやういけれど。ツヴァイク全集の三分の一くらいは持っていて、ここ数年の大胆な断捨離にも生き残った。みすずの本というのは捨てにくい(?)のかもしれないが。
ところで今ギリシャが破産状態になり、EU離脱の可能性がニュースになっているが、このEUへの希望も、そしてその一筋縄ではいかないプロセスも、この本の時代にすでに見られたものだろう。ウイルソン米大統領の提言もそうだし、コスモポリタンであるツヴァイクの想いもそれにつながるものだったのではないか。そういう文脈で見ていると、突然変な話になるが、ドイツとオーストリアをはじめとする近隣諸国(ハンガリー、チェコ、イタリーなど)とはかなり違うなと思う。つまり旧ハプスブルグとドイツはどうも溶け合うのは難しい。そんな気がする。