ミスティック・ピザ (Mystic Pizza、1988米、103分)
監督:ドナルド・ペトリ、原作:エイミー・ジョーンズ
アナベス・ギッシュ、ジュリア・ロバーツ、リリ・テイラー、コンチャータ・フェレル、 ウイリアム・モーゼス、アダム・ストーク、ヴィンセント・ドノフリオ
(2011年9月WOWOWで放送されたもの)
コネティカット州海岸に実在するミスティックという町のミスティック・ピザというピザショップでアルバイトをしている三人娘、二人は姉妹で姉は二十歳過ぎ、妹は優等生でこれからエール大学に入る、もう一人は地元の青年との結婚式途中で突然いやけがさしてキャンセル。
姉の方はいつも男をねらっていて、地元を訪れた金持ちのぼんぼんと仲良くなるが、相手にはいいかげんなところがあり、妹の方はベビーシッターの家で、夫婦仲が微妙なところから夫に惹かれていく。
そういう三人が、いろいろドタバタしたあげく、道を見つけて歩いていくまでの話。青春ものといえばそうだが、アメリカには、特に東部だからか、この年齢ではまだ質実剛健な部分もしっかりあって、後味のいいドラマになった。日本で作ろうとすると、集団結束の話ならともかく、やんちゃなだけになるか、真面目なだけのはじけたところのない話になってしまうだろう。
タイトルは知っていて見たかったが、今回初めて。
ミスティック・ピザという店の名前は、秘伝のスパイスという売りと架けているわけだが、ここの女主人(コンチャータ・フェレル、うまい!)がみんなの中心になっていいて、この店の出入りが話の進行と同期している。舞台でもできる話かもしれない。
今の10代の人たちも、これを見るといいと思う。
さて、ここではクレジットのトップは妹役のアナベス・ギッシュで、役もそれにあっている(したがってまじめな話になるけれど)。
ここで演技が光っているのはリリ・テイラーで、彼女がいなかったら映画としてはそれほど楽しめないものになっただろう。
そしてジュリア・ロバーツはこのとき21歳、本格的な映画にはこれが多分初出演で、背が高く目立つことは目立っているけれども、特に美人でもなく、主役はあまり想像できない。だから2年後「プリティ・ウーマン」でああなったのは、よほどプロデューサーに見る目があったのだろう。
歌劇 夜鳴きうぐいす (ストラヴィンスキー)
エクサン・プロバンス音楽祭2010
指揮:大野和士 リヨン国立歌劇場管弦楽団 リヨン国立歌劇場合唱団
演出:ロベール・ルパージュ
人形製作:マイケル・カリー、人形振付:マルタン・ジュネスト、影絵製作:フィリップ・ボウ
出演:夜鳴きうぐいす(オリガ・ペレチャトコ)、料理人(エレナ・セメノヴァ)、死に神(スヴェトラーナ・シロヴァ)、漁師(エドガラス・モントヴィダス)、中国皇帝(イリヤ・バニク)、侍従(ナビル・スリマン)、僧侶(ユーリ・ヴォロビエフ)
収録:2010年6月、7月 プロバンス大劇場 放送:2011年9月3日 NHK BSプレミアム
初めて見聞きするストラヴィンスキーの作品、タイトルだけはきいたことがある。1908年~1914年にわたって作曲されたものらしく、あの「春の祭典」の前後にあたる。とはいえ春の祭典ほどの爆発的なところはない。アンデルセンの原作をもとに作られたロシア語の原案とか。約1時間である。
漁師が見つけた夜鳴きうぐいすのことを皇帝のまわりの人たちが聞きつけ皇帝のそばで歌わせる。皇帝は喜び、うぐいすに褒美と地位を与えようとするが、うぐいすは欲しくないという。そこに日本から使節が別のうぐいすを贈り物として持ってくると、皇帝は夜鳴きうぐいすを追いやってしまう。ところがその後皇帝は死に神にとりつかれ臥せってしまう。そこへ夜鳴きうぐいすが戻ってきて歌い続けると死に神は力を失い、皇帝はよみがえる。
話しとしてはシンプルで、夜鳴きうぐいすはおそらく皇帝やそのほかの人たちにある美しいもの、よきものへの憧れということだろうか。
さてこの舞台、まずはコンサートとして、オーケストラ、クラリネット、声楽による
ラグタイム、クラリネット独奏のための三つの小品、おどけた歌、バリモントによる二つの詩、ねこの子守唄、四つのロシア農民の歌、きつね
が演奏され、次第にオペラに入っていきそうな雰囲気であるが、それはそのとおりで、男性コーラスは騎馬兵のような衣裳、庶民の衣裳の女たちは洗い場だろうか水に足をつけたまま歌う。
ここで水を出したのはオペラへの導線だったことに後で気がつく。
確か最後の2曲あたりで、曲芸まがいのダンス、それを映し出す影絵が見る者をひきこむ。ここは現実からこのオペラの童話というかそういう世界への序奏。
そしてオペラが始まって驚くのは、登場人物がみな下半身をプールのような水の中におき、、扮装して歌うのだが、その動作表現は彼らが持って操る人形によっている。特に漁師の人形とその操作は、これはもう文楽の世界で、TVで見ることによる利点とともに、まいったというほかない。
死に神は巨大なしかけで歌手は姿が見えない、そして皇帝は最後陸に上がって歌う、その他の人たちは全員水の中にとどまる。
夜鳴きうぐいすだけが、上の方で人の姿で歌い、人々のそばで小さいフィギュアが動かされる。
夜鳴きうぐいすは美声と長丁場をのりきるスタミナが要求されるがオリガ・ペレチャトコは見事、そして漁師のエドガラス・モントヴィダスはどうやってあの人形操りを習得したのだろうか。
大野和士はすっきりとした響きとしなやかで推進力ある進行で、最後まであきずに聴かせた。こういう仕事、経験は今後生きるだろう。
演出のロベール・ルパージュは、調べてみるとシルク・デュ・ソレイユも演出するマルチ・タレントらしい。そういわれてみるとこの演出はなるほどである。またオペラ劇場でのレパートリーにするには難しい今回の舞台だが、こういう音楽祭なら可能かもしれない。そういうことをやってのけるのは大したものである。またこれをTV収録し、見ることが出来たのはありがたい。
そしてストラヴィンスキーの音楽、やはり19世紀の天才たちが成し遂げた管弦楽法のさらに上をいくものはできていた、ということを痛感する。ストラヴィンスキーでは、リズムを別にすればあまりそういうところを意識しなかったが、リムスキー・コルサコフを経て、この人、そしてプロコフィエフ、ドイツではリヒャルト・シュトラウス、今この時期から100年経ってみると、この人たちの成し遂げたものは、並大抵なものではなかったのだ。