「シャネル&ストラヴィンスキー」(Coco Chanel & Igor Stravinsky、2009仏、119分)
監督:ヤン・クーネン
アナ・ムグラリス(ココ・シャネル)、マッツ・ミケルセン(イーゴル・ストラヴィンスキー)、エレーナ・モロゾーワ(カトリーヌ・ストラヴィンスキー)、グリゴリ・モヌコフ(セルゲイ・ディアギレフ)
昨年から公開が続いているシャネルものの三つ目、二つ目の「ココ・アヴァン・シャネル」は見ているが、その後に続く時期の話である。
この二人、時間と場所、作曲環境の提供、そこまではあったとしても、ここまでの愛と性、本当だろうか。どこまでが想像、いや妄想の世界か、調べる手立ても今のところはない。
シャネルの事業を引き継いだカール・ラガーフェルトが衣裳やおそらくインテリアもデザインしているし、確かクレジットにはストラヴィンスキーの関連団体も入っていたから、まったく根拠のない話ではないのかも知れないが、フランスという国は大したところである。
この話、軸はストラヴィンスキーであって、「春の祭典」の初演(1913年、パリ・シャンゼリゼ劇場)の失敗の後、ココ・シャネルが支援を申し出る1920年ころのことである。二人の性は随分大胆率直に描かれていて、それが、「春の祭典」に手を入れ再演の成功に持っていく、それはこのバレエの冒頭にある台地の目覚めを思い起こさせ、一方シャネルが香水原料豊富なグラースに出かけてあのNo5を創り出すことに通じる、ここはわかりやすい。
ココがまず先手をとり、イーゴルはそれを受け、それが逆になろうかというとき破局が、というのは、そうだろうなと納得する。
ただ、そのプロセスはいささか退屈で、衣裳と寝具、内装、そしてココを演ずるアナ・ムグラリスで持っているといえないこともない。
本当にこの女優は、力技の演技を要求されているわけではないけれど、なかなか目が離せない。タイプでいうとファニー・アルダン、フランス人が好きなおもむきがある。
そこへいくとイーゴルのマッツ・ミケルセンは、この脚本ならいいのかもしれないが、ストラヴィンスキーを多少とも知っていると、こういう無口なねっとりした人物像は不自然な感じが最後まで拭えない。そこも退屈な感じにつながっているのだろうか。
ストラヴィンスキーはもっとおしゃべりで、風貌もどちらかというと鳥の感じ、そして1920年ころは「春の祭典」の再演も頭にあったかもしれないが、もういわゆる新古典主義に作風も移っていたはず。そのあと最後はブーレーズあたりにも共感をもっていて、ピカソと同様、死ぬまで「前衛」であった。そのイーゴルはここにはいない。
面白いのは、冒頭のタイトル・ロールの「春の祭典」の始まりにぴったりの万華鏡風アニメ、そしてかなり長い時間を使った「春の祭典」の初演、ブーイング、混乱のシーンである。バレエの衣裳、振り付けも資料でほぼ当時を再現したものなのだろうか。
セルゲイ・ディアギレフ、ヴァスラフ・ニジンスキー、ピエール・モントゥー(初演指揮者)は、当人達に良く似た俳優、メイク。
因みに調べたところでは、ストラヴィンスキー(1882-1971)とシャネル(1883-1971)はこのようにほぼ同年齢、没年も同じである。