メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ドニゼッティ「アンナ・ボレーナ」(メトロポリタン)

2017-09-25 09:22:50 | 音楽一般
ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」
指揮:マルコ・アルミリアート、演出:デイヴィッド・マクヴィカー
アンナ・ネトレプコ(アンナ・ボレーナ)、エカテリーナ・グバノヴァ(セイモー)、イルダール・アブドラザコフ(エンリーコ、ヘンリー8世)、スティーヴン・コステロ(ペルシ)、タマラ・マムフォード(スメトン)
2011年9月26日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2014年9月 WOWOW
 
さてテューダー朝三部作の最初「アンナ・ボレーナ」である。どうも放送の少しあとこの録画を一度見たのに、ここにアップするのを忘れたらしい。こうしてみるとこれは「マリア・ストゥアルダ」、「ロベルト・デヴュリュー」という流れを作った作品で、ドラマといい、ヴェルディの傑作を生みだしたとも最近評価されている(そのとおり)音楽といい、充実している。
 
それを当時もうメトの看板になっているアンナ・ネトレプコが歌うのだから、悪いはずはないが、期待をはるかに上回るもので、王(エンリーコ)、恋人ペルシ、王が気を移した侍女セイモーなどと対峙して歌うときの、歌と演技両方の見事なこと、彼女の経歴としても絶頂に近いだろう。これだけ引き込まれることはめずらしい。
 
話は有名な王の横暴、女好きの犠牲とはいえ、それをそれだけに終わらせない、それが冒頭連れて出てくる幼い娘が後のエリザベスになったことを、思い浮かばせ、納得させる歌唱である。いくつもの思いが矛盾するように繰り返し入れ替わる終盤の狂乱の場、なんとも言いようがない。
 
その他主要な役は皆いいが、中でも体躯と声が立派なアブドラザコフ(王)、ここまでの悪役であれば、それもネトレプコを相手にするのであれば、このくらいでないと務まらない。
 
指揮はここではこのところレヴァインとともにメトを支えてきたアルミリアート、若手歌手の指導もやってきたと思うが、こういうベルカントの作品でのブリオは、聴いていて気持ちがいい。
 
演出のマクヴィカー、先の「ロベルト・デヴュリュー」でもそうであるように、場面転換で少し前の部分を点景として残しながら音楽とともに無理なく次に移っていくやり方だが、この作品で一番フィットしているように見える。
 
ボレーナが断頭台に強い意志を持って進んでいくフィナーレ、このあとの世代の壮大なドラマを予感させるあっというもの(ネタバレは避ける)で、三作目のフィナーレと対照をなしている。

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サマセット・モーム「英国諜報員アシェンデン」

2017-09-19 21:09:33 | 本と雑誌
英国諜報員アシェンデン (Ashenden,Or The British Agent)
サマセット・モーム著 金原瑞人訳 新潮文庫
 
サマセット・モーム(1874-1965)が第一次世界大戦、ロシア革命当時、英国の諜報員だったことは知識としては知っていて、アシェンデンという主人公のシリーズも一部出版されてはいたのだが、読まずに来ていた。
 
新訳が出た機会に読んでみたが、これはもう後年のいわゆるスパイ小説のはじまりといえる。その後のもの(例えばグレアム・グリーン
、ジョン・ル・カレ)のようには込み入った仕掛け、神経戦はないものの、スパイ術の面白さは味わうことができるし、必ずしも母国側にに与した描きかたばかりではない。
 
この本は、短編、中編が話をつないでいたり、挿話になっていたりしているが、ストーリー・テラーとしてのうまさから、楽しんで読める。意地悪い見方をすれば、ちょっと自画自賛のところはあるのだが。
 
書きかたのうまさとしては、たとえば「英国大使」、本筋とはほとんど関係ない話ではあるけれど、一人の友人について大使が話していて、読んでいる方がひょっとして自分のことを話しているのではないかと少し疑い始めたところで、それを聴いている主人公もそう思い出す。この話は、その後最後まで読まずにはいられない力を持っていて、それは例えば同じモームの「雨」、そうあの降り続く雨が、登場人物の官能を、そして読者の官能を撫で上げて終末まで持っていく、あのうまさに通じている。
 
翻訳は新しいもので、もうこんな現代語が?というところもほんの少しあるが、海外ものはそこそこ現代の日本語訳で読んだ方がいいと考えているので、これでいい。モームはこのところ新訳が時々出ているから、注目したい。



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「ロベルト・デヴェリュー」の演出

2017-09-08 11:22:30 | 音楽一般
昨日「ロベルト・デヴェリュー」をアップした際、演出についてふれなかった。
演出のデヴィッド・マクヴィカーはこれでテューダー朝三部作すべてをメトで演出したことになる。
 
今回の特徴として言われているのは、劇中劇の形にしていることで、史劇はとかく広い舞台で、時代、地位(城など)を説明するものになりがちだからということである。それを緊迫した心理ドラマとするために、劇中劇にして空間を絞ったといえなくもない。
 
劇中劇にしなくても、装置、照明などでそういう効果を出すことは出来るだろうが、メトのような大きい舞台だと、実際に見ている人は違和感があるかもしれない。ビデオならカメラワークでなんとかなるが。
 
衣装、メイクは、エリザベッタが特別目立っていて、いかにも69歳の老醜、その恋慕、嫉妬をどぎつく出すのをいとわないのは、ラドゥヴァノフスキーの歌唱・演技ならではである。
 
それにしても、イタリアオペラでイギリスの話はよく出てくる。これがうけるのかと思っていたが、ドニゼッティをはじめイタリアの作者にとって稼げるのはパリでの上演という要素も多かったかもしれない。今でもフランス語版がよく使われる作品は結構ある。
 
そうなると王朝・宮廷ものとしては、反発もありうるフランスそのものよりも、よく知られているイギリスの話がいいのかもしれない。
そのなかでもドニゼッティはよくもこの三つに目をつけたなと思う。エリザベスは、母が断頭台、戦ったメリー・スチュアートを処刑、恋した相手を処刑、なんとも壮絶な人生を送った人だから。

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ドニゼッティ「ロベルト・デヴェリュー」(メトロポリタン)

2017-09-07 10:37:26 | 音楽一般
ドニゼッティ:歌劇「ロベルト・デヴェリュー」
指揮:マウリツィオ・ベニーニ、演出:デヴィッド・マクヴィカー
ソンドラ・ラドゥヴァノフスキー(エリザベッタ)、マシュー・ポレンザーニ(ロベルト・デヴェリュー)、エリーナ・ガランチャ(ノッティンガム公爵夫人サラ)、マウリッシュ・クヴィエチェン(ノッティンガム公爵)
2016年4月16日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2017年8月WOWOW
 
いわゆるテューダー朝三部作の最後を飾るドニゼッティ晩年の作品である。これに先立つ「アンナ・ボレーナ」、「マリア・ストゥアルダ」に比べタイトルを知ったのは最近で、メトでも今回が初とのこと。
 
男女四人の四角関係、それも69歳のエリザベッタ(エリザベスⅠ世)のロベルトへの強引なすさまじい恋慕、ロベルトは謀反の嫌疑をかけられていて、また友人侯爵の夫人サラと相思の仲にある。
 
エリザベッタは支配者としてロベルトを始末(処刑)しなければならず、一方なんとか助けたい。第1幕はロベルトに愛されていないとわかってきたところのすさまじい怒りが、その音楽、ラドゥヴァノフスキーの歌唱と演技で舞台・見る者を圧倒する。この老醜を感じさせる表出の連続で、こっちが敬遠しないというのは、いい意味で予想外であった。怒りの向こうにかすかに悲しみが浮かんでくるが、それは終盤になってやっぱりそうだったか、とうまく納得させる。
 
第2幕はサラと夫の公爵と緊張したやりとりが加わり、サラの女王へのしかけと内心なんとかロベルトを助けたいという女王の迷い、これが緩みなく一挙に終幕へと続く。女王が鬘をとり、上着を脱ぎ捨て、「どこへ」と問われて処刑台を見に行くいうと皆はぞっとする。そうあの処刑台、エリザベッタの父ヘンリー8世が母アンナ・ボレーナ(アン・ブーリン)を送ったあの処刑台、幼い彼女はおそらくそれを見ていた。
 
エリザベッタ以外の3人もメトの常連、手慣れたベニーニがドライヴするドニゼッティの単なるきれいなベルカントを超えたヴェルディの予兆を感じさせる管弦楽をバックに、音がくっきりと映える。
ガランチャは1幕と2幕で対照的なサラを、こちらがすっと感情移入するように、演じてくれた。
 
なお「アンナ・ボレーナ」は録画はしたものの、どうしてかまだ見ていない(この話の映画は見ているけれど)。近々見ることにしよう。
 
ところで今回、このブログ901回目のアップのようだ。1年100回のペース、10年で1000回とも考えたのだが、次第に遅れ気味となり、ここまで11年と少しかかった。これが目的ではないが、健康を維持すればあと2~3年というところだろうか。
 

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