メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

麦の穂をゆらす風

2007-10-27 21:58:15 | 映画
「麦の穂をゆらす風」(The wind that shakes the barley、2006、英・愛蘭、独、伊、西班牙、126分)
監督:ケン・ローチ、脚本:ポール・ラヴァーティ
キリアン・マーフィ、ポードリック・ディレーニー、リーアム・カニンガム、オーラ・フィッツジェラルド
 
1920年代のアイルランド独立運動の物語、こんなにひどいかという英軍、そして休戦しアイルランドは半独立になり、そこでこれをひとまず認めるかどうかに別れ、そしてそれに反対する中でさらに別れ、とどうしようもなく繰り返される悲劇が描かれる。これには一部で宗教が起因している、という示唆もこの映画の中にはある。
 
拷問など、今の映画で見せれば見せられるところを間接的な表現で、それでも充分に進めていく。感情的に入りすぎになることなく、叙事詩的といえばそういう風に進んでいく。
だから普遍的なドラマとしてはもう一つインパクトがたりないが、この問題に静かな理解を促すことには成功している。
 
最初は慎重で長期的な視点を持つ医者の卵、次第に仲間を裏切らない志と仁義に耽溺していく主人公をキリアン・マーフィが演じている。この人を最初に見たのはあの「プルートで朝食を」の女装癖の若者だが、こんなに静かな抑えた演技が出来る人なんだということは驚きだ。前作でもIRAの話があったが、この事情は一筋縄ではいかない話であり、だからこそ当事者はたまらない、ということはこの映画でよくわかる。
 
どぎつい場面が少ないかわりに全編で画面を覆う必ずしも豊かではない緑が記憶に残る。そう緑はアイルランドの色。

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クワイエットルームにようこそ

2007-10-26 22:18:20 | 映画
「クワイエットルームにようこそ」(2007年、118分)
原作・脚本・監督:松尾スズキ
内田有紀、宮藤官九郎、蒼井優、りょう、妻夫木聡、大竹しのぶ、平岩紙
 
精神病院に集まった女性患者たち、自殺未遂、拒食症、過食症、あるいはそう思われている人、その中に入ってしまった主人公内田有紀、彼女がそのわけをたどり、そして周囲の人たちとやりとりしながら、再度の出発へと向かっていく。
だから想像したほど暗い変な話ではない。もっとも松尾スズキだからギャグが散りばめられていることは予想どおりであった。
 
予想どおりというと、やはり松尾スズキとは相性が悪い。説明的でくどいのである。せっかくのこの設定、もっとそこに徹底して入っていけばいいのに、何かとそこに入るまでの過去がしょっちゅう挿入される。こちらの注意も散漫になる。この人は、抜いていくことを知らないのだろうか、またこんなに説明しなければ見る人はわからない想像できないとでも思っているのだろうか。
 
内田有紀の起用はあたりだ。病的な雰囲気はなく本人も無理な演技をしていないから普通に見える人がこういうところに来る可能性を引きずったまま進行していく。相変わらずスタイルもいいし、顔もきれいである。
 
入院するまでの同居人の放送作家役は宮藤官九郎、これはうまいし力演で、しつこいとは思うものの最後まで見ることが出来る。
 
主人公が苦労する年上の患者役大竹しのぶは本当にうまい。うまいけれど、もういいよの感はどうしても最後に少し残る。このあたり最近の日本映画では竹中直人にもあるけれど。
 
そしてこの人が出ていなければ見に行かなかった蒼井優、これだけの場面の数、時間に対し、頭でっかちの拒食症の役にあわせて激痩せ状態になって出てくる。でもこうまでして役を作ることは何かをもたらすのだ。ひときわ違った輝き、アクセントをもたらしている。
言葉、眼、表情、体の動き、メイクすべてがぴたりとはまる。周囲とのバランス上それでいいのかという疑問も出てくるが、今回この場面ではいいのだろう。
「クワイエットルームにようこそ」というフレーズは彼女なくして成り立たなかった。
 
あと一つ、こういう病院では、室内のセットのつくりが重要なのだが、これでは普通に街にありそうな病院、映画ならもっと凝って欲しかった。

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フィガロの結婚(2006年ザルツブルク音楽祭)

2007-10-14 22:10:24 | 音楽一般
モーツアルト:歌劇「フィガロの結婚」(2006年ザルツブルク音楽祭)
指揮:ニコラウス・アーノンクール、演出:クラウス・グート
アルマヴィーヴァ伯爵:ボー・スコウフス、伯爵夫人:ドロテア・レシュマン、フィガロ:イルデブラント・ダルカンジェロ、スザンナ:アンナ・ネトレプコ、ケルビィーノ:クリスティーネ・シェーファー、ケルビム:ユリ・キルシュ
 
新しいフィガロの舞台を見るのは久しりだが、グートの演出からはたくさんのものがこちらに入って来た。過激であり、物語と歌詞の読み方としてラディカルであり、説得的である。
 
衣装も舞台もボーマルシェ原作の時代よりほとんど現代に近いものだし、登場人物特に男女の関係は、その間柄が少し言及される場合は必ず過去に関係があったか、その場でセックスにおよぶというように演出されている。
 
そしてこれはグートの発案らしいのだが、ケルビムというケルビーノと紛らわしい名前のキューピットまがいの無言の天使役を設け、登場人物の心象の強調とその先取りをする。
 
だから、このかなり長く、決してわかりよくない、我慢が必要なオペラから明確なメッセージが出てくる。そして、アーノンクールの指揮による音楽は平均してゆっくりしたテンポでその表現をかなり強調したものになっているが、舞台を見ていると気にならない。
 
こうやって見ていて思うのは、このオペラの核心は前半にある、つまり男と女の本質がこう見せられては、どきっとするものの認めざるを得ない、というシーンの連続であるということだ。
 
特にケルビーノの描き方はモーツアルトの独壇場である。「恋とはどんなものかしら」では、伯爵夫人とスザンナと彼が三人でセックスにおおよんでいるような演出がされる。そうなると以前から指摘されているもっと前に歌われる「自分で自分がわからない」というそのわからないものとは少年が自分でコントロールできない困ったもの、つまり男性器、性衝動をあらわしていることとまさにつながっていることが納得される。そしてモーツアルトのこの二曲が同じ根から出ていることにも気がつきやすい。
 
モーツアルトという人はワーグナーよりこんなに先に、さらに深遠を描いていたのだろうか。
 
それに比べると後半は話をまとめるためとは言わないまでも、そういう男女の本質でありながら人間関係を再度構築していく段階なのだろうか。最後の女達による男達を結果として懲らしめる芝居、こうして聴いてみると、それぞれが「許して」といい、最後に伯爵だけが残ると必然的に彼も「許して」といわざるを得ない、それも地位としては頂点であるからなおさらことさら真摯に歌うことを要求される、と言われることも今回納得できた。
 
歌手では、伯爵のボー・スコウフス、スザンナのアンナ・ネトレプコ、ケルビーノのクリスティーネ・シェーファーが、歌唱、演技、姿ともにぴったりである。
 
アーノンクールの指揮は演出の意図とよく合い、その範囲ではひねったところはない。しかしこの演奏でハイライトを音声だけで聴いてもそんなに面白くはないだろう。不思議なもので、この出演者でスタジオ録音するといいのかもしれない。
 

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ロストロポーヴィチ 人生の祭典

2007-10-08 15:46:23 | 映画
「ロストロポーヴィチ 人生の祭典」(Elegy of Life:Rostorpovich,Vishnevskaya、2006年、露、101分)
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、小澤征爾、クシシュトフ・ペンデレツキ
 
ロストロポーヴヴィチ(1927-2007)とヴィシネフスカヤ(1926- )の金婚式パーティの映像を軸に、それぞれの過去の回想、作曲者ペンデレツキが見守る中で小澤征爾指揮ウィーンフィルと新作チェロ協奏曲のリハーサルをする映像、そしてヴィシネフスカヤの声楽I(オペラ)レッスンの映像、これらの組み合わせで、作られている。
 
作りは巧妙、特にリハーサルとレッスンの映像が交錯するところは音のタイミングがうまい。
しかし夫の方についてはかなりよく知られた面が多いからか、また変化に乏しいからか、退屈してくることも事実である。それに比べるとヴィシネフスカヤという人がどんな人かよく知らなかったせいもあって、こっちの方が面白い。写真と役柄からもっと情熱的、奔放な人かと思っていたが、ここでは非常に冷静で知性的な面が目立っている。これまで勝手に、こんな2人がよく長い間続いていると感心していたのがおかしい。
 
サブタイトルを見れば2人は対等であり、映画においてもそうである。
それにしても、ペンデレツキの初演リハーサルで、こういう現代曲にこれだけ感情移入できるということに驚く。この恍惚とした、涎をたらすような表情は若い頃も同じであった。
 
もしかしたら彼のこういう面が、指揮者としての活躍、そして時の権力の弾圧に強い抵抗を示し屈しなかったことなどに通じると同時に、音楽的な完成度というところで、何か不満が残ることにも関係があるのではないかと考えている。
 
そんなに彼の演奏を多く聴いているわけではないが、あのカラヤン・ベルリンフィルとのドヴォルザーク「チェロ協奏曲」はやはり頂点だった。
生で聴いたのは1971年11月2日リサイタルでのベートーヴェンのソナタ(第3番)、バッハ、プロコフィエフなど、そして11月6日森正指揮N響との、ハイドン「チェロ協奏曲第2番ニ長調」、プロコフィエフ「交響的協奏曲作品125」、ドヴォルザーク「チェロ協奏曲」。
深みのある音は今でも記憶に残っている。特にドヴォルザークの第3楽章でハイライトになっているコンサートマスターとの対峙シーケンスでは、確かこの日もN響は海野義雄だったはずで、本当に堪能できた。
 
あと一つ、音楽の天才は違うなと思ったこと。
有名なジダーノフ批判の対象にショスタコーヴィチとプロコフィエフがなった。この2人は14歳の彼にとって恋人のようなものであり、彼らの音楽を理解でない党に対して憤りを感じたそうだ。
音楽的に早熟な14歳がショスタコーヴィチというのはありうるが、プロコフィエフというのは驚く。やはり音楽の天才には想像しがたいところがあるのだろう。
こちらは、ようやくプロコフィエフがいなかったら20世紀のそしてこれからの音楽レパートリーは随分さびしいものになる、と思えるようになったばかりである。

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