「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」 (水村美苗) (筑摩書房 2008年10月)
日本語が亡びるという表現、そしてそれからの連想は、これまで多くの場合、日本語における乱れであり、表現の幼稚化など、現在使われている日本語に対する批判に関するものであった。
ところがこの本はちがう。副題にもあるように世界の力関係のなかで、日本語はどうなるのか、また何か出来ることは、という視点から書かれている。
まず、今それなりに日本語でこのように社会が動き生活できている、また現代に近い表記で近代百何年の間に優れた文学もこんなに生まれてきたが、それは歴史上の偶然、幸運に負うことが多い、というちょっと驚く指摘から始まる。
そう言われてみれば、ペリー来航まで開国を遅れさせた地理的、地勢的な位置、その直後アメリカは南北戦争でそれどころではなくなり、そして普仏戦争、そしてクリミア戦争などにより欧州列強も余裕がなくなった、その間の日本のすばやい対応などから、植民地にならなかった。それは大きい。
他の事例を見れば、植民地になった後、日本語は公用語の一つで生き残っても、経済、学問その他、エリートはその支配する国の言語を会得しようとするだろうし、使われるのもその言語だろう。
著者の定義では、「国語」とは、もとは「現地語」でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、「普遍語」(複数の国で使われる書き言葉としてのステイタスを持つ)と同じレベルで機能するようになったもの、である。
たしかに、江戸時代まででも大衆的な文学などは明治以降のものに通じるところはあるけれども、学問、行政の文書は漢語の世界だ。それが現在のように、学問、行政、文学、日常会話まで、ある程度まとまったものになったのは、著者のいうように、明治から幾多の努力が費やされた翻訳の結果なのだろう。本来なかった言葉が特定の欧州語に当てられた言葉であるということは良よくきくし、著名な人が作った言葉、というのも多い。
日本語がかくもはやばやと無事に国語になったのは、著者の整理によると、
「現地語」で書かれたものの地位が高く、「現地語」が成熟していたこと
「印刷資本主義」がすでにあったこと
日本が西洋列強の植民地にならずにすんだこと
である。 なるほど、納得。
また、西洋の主要国で、国語で書かれた小説の隆盛は、やはり18世紀からであり、主要作品と明治時代の近代小説、そのいくつかの傑作を挙げてみれば、こんなに早くその状態になった他の国はない。それも驚くべきことだ。
ただ、文明開化のときでさえ、政府には英語の採用を唱えたひともおり、その後エスペラントにすべしというひとがいたり、戦後も志賀直哉が日本はフランス語にすべしと言ったり、また米国の圧力もかなりあり漢字の制限などもいまだに続いている。文部省は明治以来、日本語の弱体化を図っていると言われれば、そうだと考える。
そして決定的なのがインターネットである。普遍語としての英語はますます強くなるだろう。
そうなると、世界の歴史を見ても、今後どれだけ日本語を国語として維持出来るか、わからない。それは説得的である。
それでは、どうすればという問いに著者は、
国際間の競争に勝たなければならない政治、経済、およびそれらにかかわる活動、英語で論文を書き発表議論すること、それらを担う人たちとしてはバイリンガルに近い能力を前提として、育成する。それをエリート養成、差別といわれてもかまわない。
ただし、そうはいっても義務教育では今より「国語」に重点を置き、時間数を減らすなどしない。
ことを提案している。
これも納得できるが、総中流化と同じように、幼児のころからこのエリートが身につけるべき能力に関して時間を割かないと将来はないのでは、と不安を持つ親は減らないだろう。著者はこれまでにもあったそれに似た傾向を批判しているが、それが今の日本社会である。簡単に変わるとは思えない。その結果、日本語もろくに出来ず、低いレベルの英語のおしゃべりしか出来ない若者を増産するだろう。
日本語の魅力、英語なんか使うより、観光旅行以外では100%日本語で人もうらやむようなこと、そういうものが出てこない限り、変わらないだろう。
それは、農業の再生でもいいし、また日本のサブカルチャーをさらに振興することでもいいし、あまりアイデアはわかないが。
著者の言うことは理解できるし、書く以上はこのような悲観的極論になってしまっても悪いとはいえない。
だが、日本というところが、まだこれだけ人口があり、知的レベルがかなり高い国内市場が、これだけある。その中で、もう少しなりゆきを見てもいいのではないか。
コンピュータの世界で、日本語が扱えるようになり、入出力がかくも簡単に高速になった、ということだって、日本語が亡びるスピードをかなり遅くしている。
それでも、漢字を減らさない、むしろ常用漢字は増やしていく(ワープロがそれをサポートできるし)、もう少し前の時代の近代文学が読まれるようにする、これらは教育者、マスコミ・ライターたち、が心すべきことである。
偶然にも、松岡正剛「
白川静 漢字の世界観」を読んだところであり、水村も書いている「漢字かなまじり文」の特異性と素晴らしさ、はよく理解できた。松岡の本では、白川は植民地云々に触れていないが、漢字の導入と知識人による翻訳に関することは、1000年以上前にあったことで、そのプロセスは白川によって説明されており、白川の「国字」からは、水村の懸念に対し多少は有効打になるポテンシャルも感じられる。
二つの本を続けて読んだことは幸運だった。
著者は私より数年若く、外国経験も多い。そのいくつかを書いた前半も非常に面白い。以前、朝日新聞で故 辻邦生と往復書簡を連載していたころは、近寄りがたいバイリンガルと思っていたが、それほどでもない。