メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

YUKI WAVE

2006-12-31 18:28:08 | 音楽一般
今年一番よく聴いたJ-POPアルバムは、YUKIのWAVE、全12曲最初から最後までまぎれが無い、プロの仕事である。
といっても、ファンでないとわからないというものでなく、ポップ性も充分である。
 
最初の「長い夢」から「ふがいないや」あたりまではちょっと突き放すところもある歌詞(自作)だが、曲はテンポもよく、暗く沈むところなどない。
 
そして中盤からはさまざまな作曲者も加わってきて、いろいろな面を見せ、最後の2曲「夏のヒーロー」、「歓びの種」(映画版「タッチ」の主題歌)でなごませて終わるという構成もいい。
惜しいのは、最初の何曲かのバック・サウンドが厚すぎて歌詞が浮かび上がりにくいことだろうか。
 
YUKIの発声、歌いまわしは独特で、またこれらの点ではどの曲も同じようにアプローチしているように見える。これは自分から自然に曲に入っていくことを大事にしたいというのだろうが、そうしても結果としてマンネリにならないのには感心する。
 
歌手を志す若い女性が目標とするのは、ドリカムの吉田美和とYUKIらしい。実際にそう聴いたこともある。
YUKIについてはJUDY AND MARY時代 TVの歌番組でたまに見とことがある程度。しかしそのときも、表面的にはちょっと変なところがあるものの、歌唱に他の人にない音楽性を感じていた。
 
アレンジ、バンド演奏、録音全体のレベルも非常に高い。

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絢香の電池

2006-12-30 22:20:20 | 音楽一般
そんなにまめにJ-POPを聴くわけではないけれども、今年の一曲を選ぶとすれば、絢香「三日月」 だろうか。
 
今年デビューしてこれと「I believe」、大したものだが、とりわけこの「三日月」は曲も歌唱も傑出している。
特に、歌詞に注意しだして、びっくりというか、文字通りぶっとんだのは、「電池」という単語である。
展開して後半にかかるところで、
 
  今度いつ会えるんだろう それまでの電池は
  抱きしめながら言った あなたの「愛してる」の一言
 
会えるまでのパワーの源ということだろう。
これはケイタイから来る語感だし、だから
 
  そのまま放っておいたら切れる
  いつまでもつんだろう
  充電しなければ、充電すれば、、、
 
という思いが、この言葉につながっている。
 
まさに「いま」であり、作詞をした絢香の感覚がここに煮詰められていて見事。 ここのところの歌唱も凄い!
 
電池という言葉が現代詩で使われていないということはないだろうが、こういうヒットすることを目的とした歌に使われたことはなかったのではないだろうか。
こうやって歌のボキャブラリーは追加されていくのだろう。
 
絢香は作詞はしても、作曲はほとんど専門家に任せているようだ。彼女のように歌唱がうまい人はそれがいいかもしれない。いろいろな人の歌の中で、より彼女のいいところが出てくるから。
 
「三日月」も西尾芳彦という人の作曲。うまく三つの部分が続き、それぞれに良いさわりがあって、「電池」の大きな展開部になる。 まるでソナタのよう。

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エレーヌ・グリモーのブラームス・ピアノ協奏曲第1番

2006-12-29 23:32:32 | ピアノ
エレーヌ・グリモーがブラームスのピアノ協奏曲第1番を弾いた映像が今日NHK BS-2で放送された。
NHK交響楽団のアメリカ・ツアーjで、2006年10月14日にロス・アンゼルス ウォルト・ディズニー・コンサート・ホールで演奏されたもの、指揮はウラディーミル・アシュケナージ。
 
これだけの演奏を映像もついて聴くことが出来るとは。
長年得意にしている曲とはいえ、今回この曲を弾いていくうちに彼女が掴み取ったもの、そして表出したもの、それはブラームスが晦渋とか渋いとかいわれながら時に見せる他の作曲家にない輝きだ。
 
第1楽章、ピアノが入ってきてしばらくは、まだよくオーケストラ、そして楽曲に対するこの日のつかみが出来きれない、という状態がある。前にN響とシューマンをやったときも最初はこのような状態だった。スタインウェイもまだよく鳴らない。
でもそれは次第になくなり、この曲に対面して彼女の中に生まれてきたもの、それが捕らえられ、そしてこの日はそれが非常に豊かで輝かしいものであることがわかってくる。
 
スタジオ録音では別のアプローチもあるだろうが、ライブであれば、曲への入りかたはこういうものなのではないだろうか。彼女はそれを通している、そう考えてこれからも聴いてみよう。
 
さて、第2番と比べこの曲の録音はそんなに多くない。その中、男性ピアニストに比べても彼女の演奏は柄が大きい。曲のスケール感をよくとらえているからだろうか。ピアノ自体も第2楽章の途中あたりから本当によく鳴っていた。
 
この日は心身ともにコンディションも良かったにちがいない。彼女の魅力的なショットは左側からであるが、それは承知なのか、うまいカメラアングル、そして少し前痩せすぎではと気になったのも今回は少しふっくらとして、仕草、表情ともやわらかさが見られた。終盤、アシュケナージの肩越しに見える彼女は無意識にかこちらから見て時計回りに頭を回していることからその感興がわかり、また興奮してくると出る声がマイクにとらえられていた。これもライブ・ビデオの醍醐味である。
 
もちろんアップの髪がは映えるきれいな横顔、神は二物を与えることもある。
  
最近はピアニストがコンチェルトを以前ほどは積極的に弾かなくなったと思うけれども、彼女は違う。それもコンクール・ピアニストの技量披瀝などとも違っていて、別の面でいくつかのコンチェルトの魅力とスケール感を引き出してくれているのはうれしい。
 
今回は本当にエレーヌに感謝。
第1楽章の後の拍手、そして最近日本でもあまりない、曲の最後の音が消えないうちの大喝采も、今回はかの地の人々の素直な反応だと、まあ許そう。
 
なお、このコンサートではこれが最初の曲で、そのほかは、ドビュッシーの交響詩「海」、エルガーの変奏曲「なぞ」。

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ブランドの条件(山田登世子 著)

2006-12-26 20:35:24 | 本と雑誌
「ブランドの条件」(山田登世子 著)(岩波新書)
 
岩波新書も随分変わったものである。
と、冗談はさておき、これはブランドのなりたち、それが続いていく条件を、ルイ・ヴィトン、エルメス、シャネルについて、比較しながら説明したもので、同じことをくどく繰り返しているという気味もあるが、わかりやすい。
 
そんなに書くべき内容はないのかもしれない。
王から与えられた権威、そしてヴィトンだから、、、というところまで、通常なら品質を「約束する」「焼印」という解釈だが、著者もいうように発生論的に叙述されるとなるほどというところもある。
 
また、日本の着物にはブランドがなく地名くらいという指摘はそのとおりで、このあたりは今の地域振興におけるブランド論でも考えなければいけないことだろうか。
 
シャネルが他の二つとことなり、ここからモードの世界に入ってきたというのは納得できる。がしかし、著者がライセンス・ビジネスでブランド価値を薄めてしまったというカルダンやサン・ローランなどのデザインに関する革新性にふれてないのはブランド論だからとはいえ、ちょっと誤解を与えかねないのではあるまいか。
 
一方、このように少しずつ革新を加えながらその品質、物語を確認させる、またその遊戯をわかっていながら多くの人々がそれに参加するということは、人間というものの不思議である。 まあ、悪いことではない。
 
ルイ・ヴィトン、そしてエルメスは旅行のイメージ作りがうまい。特にエルメスの広告はいつも秀逸である。
でも、映画での露出となるとルイ・ヴィトンだろうか。
 
この本でもヴィスコンティの「ヴェニスに死す」に触れている。
でも私的に一番記憶に鮮やかなのは「ジュリア」(1977  監督:フレッド・ジンネマン)で、ジェーン・フォンダ扮する作家リリアン・ヘルマンがモスクワのホテルに入ったときの、衣装、化粧用品など一式の、トランクというより縦に立てて横に二つに開く箪笥とでもいうべきあのモノグラム!
へえー、贅沢とはこういうものなのね、と認識したものだった。

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細雪(1959年 大映)

2006-12-24 18:34:40 | 映画

「細雪」(1959年、大映、105分)
監督: 島耕二、原作: 谷崎潤一郎、脚本: 八住利雄
轟由紀子、京マチ子、山本富士子、叶順子、信欣三、山茶花究、川崎敬三、根上淳、藤田佳子、菅原謙二

大映(永田雅一)製作のオールスター・キャスト映画といったらいいだろうか。少し前に書いたこの長い原作を2時間以内にまとめて娯楽性をもたせるわけだから、映画化にあたってはかなり大胆な変更を行っている。
 
まず時代設定は、太平洋戦争前の数年から戦後の落ち着き始めた時期に変え、そしてこの四姉妹(上から順に轟、京、山本、叶)の性格と役割については、有名女優4人の(特に下の2人の)効果が出るようにしている。
 
従って、四女妙子(叶順子)の色恋沙汰というべきものと、三女雪子(山本富士子)の縁談模様が中心となる。ここで妙子の話は原作にかなり忠実であるのだが、原作ではもっと優柔不断で読んでいていらいらする雪子については、ふるめかしさを持ちながらも、それが特に妙子とのかかわりで観客が共感を覚える言動をとらせる、というしつらえにしている。原作どおりの雪子が山本富士子では納得しない人が多かっただろう。
 
そして、どうなるかと思っていると予定調和が待っていたというわけであった。
 
従って原作がもつ、次女幸子(京マチ子)の視点で、自己を、家族を、社会を見ていくという充実した味わいはない。
 
だが映画化するとなるとそれは無理なのだろう。そう考えれば、緩みもなく、一気に見ることが出来るから、島耕二の手腕が発揮された、よく出来た娯楽映画といえる。
 
戦後しばらくした後の、関西のちょっと恵まれた層の風俗は面白いし、その後よく見た俳優たちもまだ若い。
中でも「こいさん」妙子役の叶順子(1936生)は、それまでの女優達と比べ、異彩をはなっている。このあたりから女優も変わりはじめたのだろうか。その後しばらくして引退してしまったらしいが。


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