「モディリアーニ展」(Modigliani et le Primitivisme)(国立新美術館、3月26日~6月9日)
モディリアーニ(1884-1920)の作品をまとめて見たことはない。それでもこの人の絵は皆、顔が細く、首が長くてなで肩、目はアーモンド形というイメージが出来上がってしまっている。それが普段はあんまり見る気にさせなかったのだが。
こうしてみると、これらの特徴はそのとおりだけれども、画家はここに至るまで、何度も試行をくりかえし、頭の中でこうしようと理屈をこねたのでなく、描いている中でこれが描きたいフォルムだというところに発見到達したのだろうと、推察できる。今回多くのデッサンがあることもそういう理解の材料になっている。
この人体の形には今回のテーマの一つであるアフリカなどを背景にした原始主義の影響があるのだが、それはきっかけにすぎないだろう。
首が長くなで肩であれば、見るものはまず頭に目がいき、しばらく胴体は忘れるが、そのあとむしろ頭と胴体の対照を味わう、楽しむという具合になる。そうしてみると会場の解説にもあるように、同じようなスタイルの絵でありながらむしろモデルの特徴がよく出ている、ということが出来る。
また描き始めのころは、モデルの人となりをやさしく見つめたやわらかい絵であったのが、すぐに画面の空間にどういう形があるべきかの追求に移り、雰囲気的なもので見せるということはなくなっていく。
実はそんなに期待していなかったのだが、点数が多すぎないこともあり、楽しめた。
平城遷都1300年記念 国宝 薬師寺展(東京国立博物館)(3月25日~6月8日)
薬師寺には行ったことがないから、今回の展示物を見るのはほとんどはじめてである。国宝の日光菩薩立像、月光菩薩立像はこれまで寺の外に出たことはなかったそうだ。
この国宝で名前だけは知っている二つについては、光背がとられて360度すべての角度からじっくり見ることができることもあり、また少し上の方からみることの出来るしかけもあることから、その見事なすがた、出来栄えを堪能することが出来た。
ウエストがしぼられ、少し腰を横に突き出し、片膝が上がっている。優美で豊満な肢体、それでいて表情に甘さはない。3メートルを超える身長で相当の幅もありながら、足にはそんなに重量がかかっているようにみえないのも不思議である(特に月光菩薩)。後ろに回ると衣の翻りも優美だ。
比較すれば、すこしはずした天才的な出来を感じさせるのが月光、近くで見るとより確かな技術を感じさせ見飽きないのが日光、とでもいえるだろうか。
他に、品のいい聖観音菩薩立像、吉祥天像などの名高い国宝もあり、また画像、映像で薬師寺の全貌をわかりやすく展示している。
少し前から続いているが、展示の照明が素晴らしい。
解説にもあるように、境内に神社があり、つまり神仏習合の形がこのころからあったわけだが、水煙の絵柄など見ても、また仏像の力強さを見ても、神社、縁起にあらわれる土着信仰があってこそと納得させられた。
帰りに東洋館で開催中の「蘭亭序」(3月4日~5月6日)で王義之の拓本(の拓本?)をいくつか見ることが出来た。
詩の内容、書なるものをよくわからなくても、いくつかの字を見ているだけで感銘を受ける。勢い、バランス、見事なものである。
中に「宇宙」を見つけた。いずれも「うかんむり」だが、宇は明朝活字より縦長であり、宙の冠はより大きい。なるほど宇宙はこうだったか。
監督:ジョー・ライト、原作:イアン・マキューアン『贖罪」
キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレーヴ
1935年、まだ幼い文学少女が、嫉妬からついた嘘で姉の恋人に罪の嫌疑をかけることになり、その恋人は罪を晴らすことが出来ず刑務所へ、そして刑期削減のため欧州戦線に志願して出て行く。
恋人達が再会しようと苦闘するさま、妹の悔悟とつぐないへの道のストーリーである。
この演出では、映画でないと出来ない仕掛けをふんだん使う。すなわち同じ場面を、当事者、妹からそれぞれどう見えるか、カメラ、音声、そして認識可能な前後の違い、などを、あっそうだったのかと見るものに理解させていく。そのカット割りとテンポはうまい。
マンガや劇画の影響を思わせるが、これもあまり何回も出てくると、大きなサイクルでまだるっこしさが出てしまうのはいたしかたないところである。
画面構成としては、戦争に行ってからの、ダンケルク?、そして退却、これらはこんなに長く、戦争の多様な面を見せる必要がこのストーリーであっただろうか。半分にしてもよかったと思う。
贖罪がどうなったか、それはそう簡単ではないはずで、そういう意味で最後の方にこういう結婚式を持ってきたのはうまい、というかずるい。
シアーシャ・ローナン、ロモーラ・ガライ、ヴァネッサ・レッドグレーヴの3人がそれぞれ13歳、成人、老齢の妹役を演じている。特にシアーシャ・ローナンは印象が強く、オスカー助演女優賞ノミネートは理解できる。
ただヴァネッサ・レッドグレーヴの場面は必要だっただろうか。長じて作家となり、この物語は彼女が書いたものということがわかる仕掛けであるけれども、そうすると全体が彼女にとっての贖罪として強引にまとめられてしまう。しかし、こういうことになった以上、姉とその恋人にとってもこれは重く、解き難い問題なのだ。
このようにいくつも問題がありながら、それでもこの映画は記憶に残るだろう。それは取り上げたテーマが、形を変えてよくあるものであり、その悔恨は、キリスト教徒でなくても、つまり贖罪という言葉とは別に、消えずに残るものだからである。
姉と恋人役のキーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイは風貌も含め、役柄に合っている。
音楽は全体にうまくフィットしており、効果的に使われているピアノは、クレジットによると、ジャン=イヴ・ティボーデが弾いているようだ。