メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

恋する妊婦

2008-02-24 18:58:22 | 舞台
「恋する妊婦」(Bunkamura シアターコクーン、2月8日~28日)(2月21日)
作・演出:岩松了
出演:小泉今日子、風間杜夫、大森南朋、鈴木砂羽、荒川良々、姜暢雄、平岩紙、森本亮治、佐藤直子
 
岩松了というとTVドラマ「時効警察」の出演・脚本(時に)、三木聡や松尾スズキの映画での常連など、このところその面白さに注意が行っていたところ、この話題の芝居というので観にいった。
 
演劇はほとんど観にいくことがなく、この世界にはうとい。そのためとは言わないが、舞台となると岩松了はかなり違っていた。
喜劇ではあるけれども、登場人物がそれぞれ勝手に動いてそれは最後まで収束することなく、起承転結の期待も最後まで充たされることはない。
 
大衆演劇の一座、座長(風間)と子供が出来ている妻(小泉)、副座長(大森)とその妹(鈴木)、そして一座から離れている花形だったらしい男(姜)、よく出入りする八百屋(荒川)、見学で入ってきた学生(森本)そのほか、縦横、二重三重にいろいろな関係がありそうで、その中で、結果として不条理といえば不条理な成り行きが、笑い、ギャグを織り込みながら、続く。
見ているものは、こういうことである程度腹いっぱいになってくると、それなりの理解に達する、ということなのだろうか。
ここで思い出したのが、昨年上演され、それをテレビで見た岩松了の「シェイクスピア・ソナタ」(松本幸四郎他)で、これもシェイクスピア一座の中の話、皆が勝手な方向を向いていることは同じであった。
 
あとで岩松の談話を読むと、彼の考え方は「人間は本質的に不機嫌」ということらしい。そうなると納得はいく。
そしてこう言ってはいいかげんかもしれないが、岩松は露文出身だから、チェーホフが近いかなとも考えられる。でも考えてみれば、シェイクスピアの登場人物だって、決して快活な人はいないし、芝居の後味は必ずしもいいものではない。
 
風間杜夫は着物で座長というのにぴったりで、この人が中心にいることで一つの芝居として成り立っているといえる。
このところ映画でよく見る小泉、荒川、平岩は、舞台でもうまい。
大森南朋、鈴木砂羽の二人は、存在感があり、舞台で映える。
 
そして小泉今日子、鈴木砂羽の二人は、照明の下でびっくりするほどきれいだった。

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池田満寿夫 知られざる全貌展

2008-02-23 18:40:31 | 美術
池田満寿夫 知られざる全貌展 (東京オペラシティアートギャラリー、1月26日~3月23日)
 
池田満寿夫(1934-1997)の作品をこんなにたくさんまとめて見るのは初めてだ。同じ人の作品を続けて見るときには、この人ならではの特徴を抽出しようなどということが頭に浮かびにくいから、集中しやすい。
 
それでも版画というのは、特に池田の多くの主要作品のようにドライポイントで独特の密度高く線が飛び交うものを連続して見ていると疲れる。快い疲れであるとしても。
 
ストレートにエロティックで、卑猥であったり、見るものをだましびっくりさせる引用、コラージュなど、多彩なもの、今で言えばリミックスの才能を一つの流れ、語り口にしているものは、やはり作家の筆である。 
感銘というよりは面白さという方が近いのは確かだ。
 
そこへいくと、晩年の陶芸、それもほとんどは冒険的な、野焼きというのだろうか、そういうものたちは、もっと続けば、何か作家のユニークな力とでも言うべきものが、花開いたのにと、この人の急逝が惜しまれる。もっともこの陶芸の世界を私は知らなかったのだが。
 
十代に描いた、池田の好きな画家ばりの絵が面白い。私でも、これらは、松本竣介、ルオー、ピカソ、カンディンスキーをイメージしたものということはわかる。これは若い画家としては一応は器用で達者だったということを示すものだろうか。

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横山大観 没後50年

2008-02-16 18:36:19 | 美術

「没後50年 横山大観 ‐ 新たなる伝説へ」
国立新美術館 2008年1月23日~3月3日

横山大観(1968-1958)の絵は随分見ている。それでも大観だけの展覧会というのは見た記憶がないから、今回は多少余裕を持ってみていると、自然に一つのことが浮かんできた。
 
大観だけというのではないが、近代の日本画というものには時間が感じられない。ということは運動が見えてこない、つまり中の人物や動物が今にも動き出しそうだという気配がないのである。
 
それではその絵がよくないか、感銘を受けないかというと、そんなことはない。例えば「五柳先生」(1912)は六曲一双の大きなもので陶淵明と童子が描かれているが、先生の鬚や衣が風に翻っているにもかかわらず、それは風を表現しているというよりは、なにかその形象そのものを見るものに届けるという趣で、何か一つの理想とでもいうべきものが形として感じとられる。
 
大好きな「生成流転」にしても、これは川がその源から長い旅を経て海へまた空へというスケールの大きいものであるけれども、部分部分を見てみると必ずしも水が流れているという様相ではない。その一方で右から左にどこで変化が起こっているのか、ちょっと見にはわからないうまい描き方である。
 
この時間がない、動きを感じにくいということが、それでは装飾、デザインといったものにもう一歩でなりそうというのでないところが、大観のいいところといったら変だろうか。
 
そういう大観でも大戦後の絵は、荒廃の中から立ち直ろうとしたのか、西洋への対抗意識がより強く出てきたのか、力強さがはっきり出てきているものが多く、また色使いも派手になってきていて、そういったことが様式感を失わせる結果となっているように見えてならない。
 
そういう中であるからこそ、「或る日の太平洋」(1952)には、画家が自らだけを信じた創作というしかないものがある。題材からはちょっと敬遠していたこともあった絵だけれど、次第にそうでもないなと、このところ好きになってきている。
 
新美術館は開館から1年、混雑がいやだったというのは言い訳だが、今回が初めてだ。やはりこれだけ大きいのはいい。ちょうど文化庁のメディア芸術祭も開催されていて、こちらも覗いて見たが、会場に余裕があることもあって、最近の若い人たちの試みをリラックスして楽しむことが出来た。


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今宵、フィッツジェラルド劇場で

2008-02-11 17:45:10 | 映画
「今宵、フィッツジェラルド劇場で」(A Prairie Home Companion 、2006年、米、105分)
監督:ロバート・アルトマン、脚本:ギャリソン・キーラー、音楽監督:リチャード・ドウォースキー
メリル・ストリープ、リリー・トムリン、ギャリソン・キーラー、ケヴィン・クライン、リンジー・ローハン、ヴァージニア・マドセン、ジョン・C・ライリー、トミー・リー・ジョーンズ
 
見終わってみるとロバート・アルトマンの気持ちのよい遺作であった。
ただ、それほどアルトマンのファンではないためか、前半は少し退屈しどうなることかと思ったというのが正直なところである。
 
アメリカのおそらく中西部の町で、長年続いたウェスタン音楽主体の公開ラジオショウが、劇場主の都合で最終回を迎え、そのショウと同時にドラマは舞台上と舞台裏で進行していく、といういわゆる群像劇である。
その中で、保安係(ケヴィン・クライン)と謎の女(亡霊?)が綾を出していく役割となり、実在したらしいショウの中心人物でこの話を書いたギャリソン・キーラー自身が出演、そして歌手姉妹(リリー・トムリン、メリル・ストリープ)、妹の娘(リンジー・ローハン)などが、舞台に入ったり出たりし、この種のショウの音楽、しゃべり、コマーシャルなどは、こんなものだったのか、と興味を抱かせる。
 
もっともそれが延々続くのか、と思わせてしばらくが退屈し始めるときで、このあたり日本人だとやはりもう少し早めに展開してくれないと、という感じである。 
 
後半はジェット・コースターというわけには行かないが、人の死、娘の舞台登場、劇場主(トミー・リー・ジョーンズ)とのやりとりなどの中で、主人公は「時間」だというようなメッセージが次第に鮮明になってくる。
 
こちらが迂闊なのかもしれないが、このショウの風俗的な見え方からかなり以前の話と思っていたら、劇場がなくなって皆が集まっているときの携帯電話、ちょっとだけ見える車の年式などから、現代ということがわかって来る。
キーラーは有名な人らしいから、アメリカではそのあたりの受け取り方は違うのだろうが、アルトマンは意識して終盤まで古いものばかりでセットを構成しているようにも考えられる。

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神尾真由子のチャイコフスキー

2008-02-10 18:16:53 | 音楽一般
ヴァイオリン:神尾真由子
原田幸一郎 指揮:日本フィルハーモニー
シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」、チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」、タイス「瞑想曲」
2007年10月21日 サントリーホール
2月9日(土) NHKハイビジョン
おそらくチャイコフスキー・コンクール優勝の凱旋公演という位置づけだろう。
 
チャイコフスキーの曲はこれほどまでに密度が濃く、ありふれた言い方であるが情熱がほとばしる演奏を許容するものだとは、思っても見なかった。名曲ではあるけれど、多少通俗名曲というかそんなイメージが強かった。それはこの作曲家へのほめ言葉として言うのだけれど。
 
この演奏、どこをとっても力を抜いて流すというところはない。それでいて聴いていて肩が凝るということはなく、飽きることもなく、最後まで引っ張っていかれる。若いからできることでもあるのだろうが。
腹いっぱいになるが、堪能した。コンクールで聴いた人は、彼女の優勝に納得しただろう。
 
そこへいくとシベリウスは、インタビューで彼女も言っていたように感情を抑えた曲の作りでありそこが難しいことはわかるが、それを意識したあまり、どこかつかみきれていないもどかしさは残った。
 
これからどんな曲をどのようにひくのか、楽しみである。小さくまとまらず、とにかくいけるところまで行ってほしい。
 
ここで思い出したのはヤッシャ・ハイフェッツ。この人のシベリウスが素晴らしいのは自然に納得するが、チャイコフスキーも冷たい情熱というか、この人ならではのいい演奏である。単にロシア出身ということではなく、ここが面白いところだ。
 
原田幸一郎は神尾にとって師の一人であるが、指揮を聴くのは初めて。あの東京カルテット最初の第一ヴァイオリンの面影はあまりない。どうして離れたのか、当時残念に思ったものだ。
 
日フィルを見るのは久しぶりである。半数以上が女性のようで、定期公演なんかではもう少し男性がいるのだろうか。音量がどうとかいうことは、こういう曲のそれも録音ではあまりわからなかったけれど。

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