「哲学散歩」木田元著 2014年10月 文藝春秋社
昨年亡くなった著者が哲学とくに哲学者に関するさまざまな話をわかりやすく雑誌に連載したもので、ある書評を見て読む気になった。
私の読書でもっとも欠けているというか苦手で遠ざけられているのが哲学で、カント、ヘーゲルといったいかにもかたくて難しそうなものはもちろん、キルケゴール、ニーチェなどもすぐに放り出したし、哲学というよりなにか特定の主張が強いもの、たとえば若いころ多く読まれていたサルトルなどにもあまり近づかなかった。
まあ、デカルト、パスカル、ベルグソンなどで、文学系の人たちが論じたりした箇所はつまみ食い、せいぜいそんなところである。
そうはいっても、カミュの「シーシュポスの神話」は、何度か読みかけ、結局それに引用されている世界にうといからか、最後までいかなかったが、そういう意欲を起こさせるものがあって、相性があったというのか、本質的なところは理解したと考えている。
著者は苦労人のようで、その歩みのように謙虚なアプローチと、解釈、説明は楽しめた。それで哲学理解が進んだわけではないにしても、古今の哲学者はどういう人たちで、どうやって、また相互にどう競って書をものしてきたか、少しこの世界に近づけたと思う。
ところで、木田元といえばハイデガー、そしてこのところ本や映画でハイデガーと因縁の深いハンナ・アーレントに再会しているが、これはまったくの偶然、でもこういう偶然は悪いことではない。
昨年亡くなった著者が哲学とくに哲学者に関するさまざまな話をわかりやすく雑誌に連載したもので、ある書評を見て読む気になった。
私の読書でもっとも欠けているというか苦手で遠ざけられているのが哲学で、カント、ヘーゲルといったいかにもかたくて難しそうなものはもちろん、キルケゴール、ニーチェなどもすぐに放り出したし、哲学というよりなにか特定の主張が強いもの、たとえば若いころ多く読まれていたサルトルなどにもあまり近づかなかった。
まあ、デカルト、パスカル、ベルグソンなどで、文学系の人たちが論じたりした箇所はつまみ食い、せいぜいそんなところである。
そうはいっても、カミュの「シーシュポスの神話」は、何度か読みかけ、結局それに引用されている世界にうといからか、最後までいかなかったが、そういう意欲を起こさせるものがあって、相性があったというのか、本質的なところは理解したと考えている。
著者は苦労人のようで、その歩みのように謙虚なアプローチと、解釈、説明は楽しめた。それで哲学理解が進んだわけではないにしても、古今の哲学者はどういう人たちで、どうやって、また相互にどう競って書をものしてきたか、少しこの世界に近づけたと思う。
ところで、木田元といえばハイデガー、そしてこのところ本や映画でハイデガーと因縁の深いハンナ・アーレントに再会しているが、これはまったくの偶然、でもこういう偶然は悪いことではない。