メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

間宮兄弟

2007-04-29 22:43:57 | 映画
「間宮兄弟」(2006年、119分)
監督・脚本: 森田芳光、原作: 江國香織
佐々木蔵之介、塚地武雅、常盤貴子、沢尻エリカ、北川景子、戸田菜穂、岩崎ひろみ、高嶋政宏、佐藤隆太、広田レオナ、鈴木拓、中島みゆき
 
もう30も過ぎて、仕事は違うが趣味は共通していて現実にはありえないほど仲良く暮らしている兄弟、そのビール会社技師の兄(佐々木蔵之介)と小学校校務員の弟(塚地武雅)が、二人でよく行くビデオ屋の店員(沢尻エリカ)と小学校の教師(常盤貴子)を自宅のカレーパーティーに誘うところから、なかなかうまくいかない笑いのエピソードで綴られる物語が始まる。もっとぎごちない兄弟と予想していたのだが、そこは現代のこのくらいの年代なのか、女性となんとかつきあうことが出来ないわけではない。
 
がしかし、そこからうまくいかない、妙に兄弟お互いを気遣う、そこのほのぼのとした笑い、というのだろうが、それがなんともこちらに効いてこない。もう一つ内面、動機を脚本が想定していないからではないだろうか。それがストレートに出てこなくてかまわないのだけれど、これではいまありがちの甘えの男たちという風俗から出ていかない。
 
常盤貴子はこの年齢になっての一つの境地か。沢尻エリカと妹は容貌がよく似ていて、配役としてはちょっとと思うのだが、この妹役北川景子がいい。この中で一番映えているのでないだろうか。もうけ役ではあるけれど。この姉妹の方が存在感がある。
 
兄の佐々木蔵之介は違和感ないし、それ以上に弟の塚地武雅が溶け込んだ演技で、昨年度のアカデミー新人賞というのもうなづけるが、普段のドランクドラゴンそのままといえばそうで、映画でこれからどこまで、ということはわからない。
 
森田芳光の脚本はどうもエピソードを連ねるだけで、それが動いていくという感が少ないし、画面もあの皆がほぼ並んでカメラの方を向いているというのは「家族ゲーム」を思い出させるけれど、この手法がここで意味があるのかどうか。なんとか続けて最後まで見られたものの、全体に構成がゆるい。
 
兄弟の実家が地方の資産家であることが途中でわかり、それがこの映画の背景を限定していくのだが、その能天気な母親役に中島みゆきがうまくはまっている。

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マグナムが撮った東京

2007-04-26 22:08:33 | 美術
マグナムが撮った東京」(東京都写真美術館、~5月6日)
写真家集団マグナムが結成されてから60年、この記念もかねて1950年代から10年ごとの区分で、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ・ブレッソン他海外のカメラマン、日本人では濱谷浩、久保田博二、などによる東京を撮った写真展である。
 
見るほうも撮られた時期に生きており、その時代の風俗、雰囲気を多少は共有している写真をまとめてみると、単なる懐かしさではなく、いろいろ不思議な思いにとらわれる。
 
1950年代など、まだ決して豊かではなかったという記憶はあるが、こうしてみると後の時代より、人々の顔が生き生きとしており、またしっかりしている。例えば有名な「銀座の花売り娘」(1951、ワーナー・ビショフ)など。
また明らかに、東京オリンピック(1964)の前後で東京は変った。
 
オリンピックの後はくったくがない良さはあるものの、以前の方が人々の内面と外面のバランスがとってもいい。それは写真というものの、ある程度が経った方が見るものに定着して受け取られるという、これは自論に過ぎないが、そういうこともあるのかもしれない。
 
それにしても感じるのはモノクロの力である。ラティテュード(ダイナミック・レンジ)が広いということなのか、とにかく表現力がすごい。例えばデモ風景にしたって、カラーだと何か印象が定まらない。そういえば昔の記念写真がカラーだったらと悔やんだりしたことはこれまでない。
 
全体にレベルの高い写真ではあるけれど、1970年以降の東京ということになると、荒木経惟や森山大道の方に惹かれる。そう気づくと、近年の東京における様々な対象とこちらとの関係、距離がわかってきて面白い。
 
何ヶ月かぶりにこの館に行ったが、平日にもかかわらず来館者も多く、またその周辺も含め、写真の文化、写真が好きな人たちの雰囲気がより感じられるようになってきたのはうれしい。

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ホテル・ルワンダ

2007-04-24 22:55:11 | 映画
「ホテル・ルワンダ」(Hotel Rwanda 、2004年、英・伊・南ア、122分)
監督:テリー・ジョージ
ドン・チードル、ソフィー・オコネドー、ニック・ノルティ、デズモンド・ヂュベ、ホアキン・フェニックス、カーラ・セイモア、ファナ・モコエナ、ジャン・レノ
 
内戦の激動と、その中の人々、彼らの葛藤を、偏った思い込みなく、しかも映画として見るものの興味をそらさないうまい作りで仕上げた、傑作。
意外であった。オスカーでいくつもノミネートしながら日本に配給されないため運動がおこりようやく公開されたというのが、信じられないくらいである。
 
1994年、ルワンダで先に権力を持っていたツチ族がフツ族に追い立てられるが、多数派のフツ族にまたツチ族が反乱を起こす。フツ族は民兵を使って暴動を起こし、内戦状態となり、この舞台となるベルギー系ホテルをとりまく外国人、ツチ族、穏健派フツ族、孤児などが窮地にさらされるが、ここの支配人ポールは、達者な口、金や酒といった賄賂など可能なあらゆる手段を使って、最後は1200人を脱出させた、という実話が、映画の下敷きになっている。
 
ポールはフツ族だが、おそらく西欧で教育を受けている、そして妻は実はツチ族で、子供もおり、妻の兄弟も危機にさらされている。
この職務上の良心と、家族を守る義務という二つの軸を、最初は持ち前の交渉力とフットワークで切り抜けていく。
 
そして、ここが状況の難しさなのだが、ここには国連が駐在しており、建前はフツ族の政権も外交官、外国人が多いホテルはヘイヴン(避難所)としてあつかい、国連の軍人にも手をださない。しかし、民兵を全てコントロールすることは出来ない、これを利用していることも明確である。
 
それらの間で、常に自分達の有利な面を引き出すよう、ぎりぎりの行動を支配人ポールがするところが、この映画のスリル、面白さとなっている。それでも妻との間では、価値観の違いが出るときもあり、二人の間に亀裂が走る。
  
ポールを演じるドン・チードルが、その風貌も役柄にぴったりだが、うまいし、見ているものが無理なく彼の身になっていける。あまり動じない彼が、緊迫した場面の後に気を引き締めて仕事に戻ろうとネクタイを結ぼうとする、上に来る部分がちょっと短い、結びなおしているうちに震えがきて放り出してしまう。印象に残る場面だ。
 
その一方、海外への訴えが功を奏し、一部の人たちが出国を認められることになり、彼と彼の家族も含まれ、車に乗るが、皆の最後に乗ろうとしたポールは近くの男に家族を頼むと耳打ちし荷台を閉めて後に残る。
 
このあたりは普通なら、もっと表情のアップ、家族との修羅場を作るところだが、彼の演技と耳打ちする後ろからのカメラ、両方ともうまい。これで見るものには充分だ。
 
妻役のソフィー・オコネドーのしっとりした感じもいいし、部下、フツ族の将軍など、皆なかなかである。
 
あと有名俳優が三人でているけれども、ホアキン・フェニックス(カメラマン)、ジャン・レノ(ホテルの欧州本社社長)は、友情出演か。
 
中では国連軍大佐のニック・ノルティが面白い。ちょっと現地をばかにした感がある登場のしかた、それもちょっとアル中風のくせのある男。ところがこれが職務で暴徒から移動する避難民の車を守る段になると、少しもたじろがない軍人となる。この人はいつも予想と違う演技をする。
 
これを見ていると、この国に内戦が起こった端緒には、ベルギーがツチ族の政権を最初は後押したことがあり、その後いろいろな対外関係はあったのだろう。そして一時停戦となり、国連が入ったものの、それだけで安定は保てず、結局大量虐殺が起こった。
 
この映画の冒頭に、コソボ紛争時のクリントン大統領に関するニュースが象徴的に流れるが、このときは米国で従来反戦運動をしている人たちから、むしろNATOなどの介入が求められたということを読んだ覚えがある。
 
介入しないで、国連が仲裁というだけではいかないことも多いのだろう。
クレジットで流れる歌に、アメリカ合衆国があり、ブリテンという連合王国がある、アフリカ連合国は不可能なのか、という歌詞がある。
 
原始から各部族の生産力が上がってくれば、争いはおきるだろうが、もし武器が鉄、火縄銃、近代の銃と徐々に変ってきたならば、その間に戦い方とその収め方を学ぶこともあるいは可能だったかもしれない。
 
が、それが先進国からあまりにも性能のいい武器が、そして移動手段、通信手段が急速に入ってきてしまった。多くの悲劇を避けるためには、外部の介入も必要という理屈になってしまう、ということを、この映画も教えているようだ。
 
最後、なんとか逃れていく国連軍と避難民の車がかき分けていく難民たちに、銃火が襲い、多くが倒れていく、映画はこのシーンをしっかりとつけ加えている。支配人が英雄というわけではないというように。
 
戦時のこの種の話はいくつかある。その映画化で大事なことは、作り手の冷静さだろう。完璧な行動、正義などはない、どうやっても次善ならいいほうである、ということだが、映画作りでこれに耐えることはそんなにやさしいことではないはずだ。

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ミート・ザ・ペアレンツ2

2007-04-16 23:19:21 | 映画
「ミート・ザ・ペアレンツ2」(Meet the Fockers 、2004年、米、115分)
監督:ジェイ・ローチ、製作:ロバート・デ・ニーロ 他
ベン・スティラー、テリー・ポロ、ロバート・デ・ニーロ、ブライス・ダナー、ダスティン・ホフマン、バーブラ・ストライサンド、オーウェン・ウイルソン
 
文字通り「ミート・ザ・ペアレンツ(Meet The Parents)」(2000)の続編。しかし原題が「Meet the Fockers 」となっているように、これは前作とは逆にベン・スティラー演ずるグレッグ・フォッカーの両親、ダスティン・ホフマンとバーブラ・ストライサンドのところに相手(テリー・ポロ)の両親ロバート・デ・ニーロ、ブライス・ダナーを連れていき、両方が二人の結婚を納得するかどうか、特にデ・ニーロはどうか、という話である。
 
アメリカで、どうしてこんなに両方の親が、年甲斐もなく無理をして、見栄を張り、意地をはり、誤解と騒動を続けるのか、ちょっと不思議である。ただこれは相当ヒットしたというから、皆こころの中にはこういう
思いがあり、そうそうと笑いながら見たのだろうか。
 
それにしても、かなりくだらないギャグも多い。製作に名前を連ねているデ・ニーロは、こういうの好きなのかもしれない。
今回登場するダスティン・ホフマンとバーブラ・ストライサンドは、水を得たように、飛び跳ねている。
ダスティン・ホフマンは人はいいが、今は専業主夫で、なんとも普段の役からは遠い、失敗と無様をさらけ出すし、バーブラ・ストライサンドは相手の両親にはヨガのインストラクターと言っているが、教室では実は高齢者向けセックス・セラピスト。二人とも楽しそう。
 
この二組にはさまれたベン・スティラー、よくあるパターンだがあたふたすることが中心で、特に彼の方から笑いの要素を積極的に出そうとはしない。これがこの人の特徴というかうまいところ。シチュエーションと成り行きで追い込まれ、笑われる状態になる。
赤ん坊(芸達者!)や犬の扱いはよくあるパターン。
 
ただ見ていて本当にはじけて爆笑か、というとそこまでいかないのは、アメリカ人でないからだろう。さらに、ベン・スティラーと両親、俳優の鼻の形を見てもわかるように、ユダヤ人家族という設定であり、時々それが出てくる。相手の家族がどうなのかはわからないが、ユダヤ・ジョーク、それもこんなことまで言ってもしてもいいんだろうか、というどぎついものがあり、こちらがわからないところで他にもたくさんあるのだろう。
 
デ・ニーロたちが相手の両親が住むマイアミに出かけるときに使うのが、念願の末手に入れたモーター・ハウス(超豪華バス)、これがなんともすごい。
デ・ニーロの上品な妻役ブライス・ダナーは、グウィネス・パルトローの母親。
 
ベン・スティラーと共演回数が大変多いオーウェン・ウイルソンが、またしても最後に登場する。これはカメオではない。
カメオといえば、先日の「ホリデイ」ではダスティン・ホフマンがそのものずばりの場面で登場していた。

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蟲師

2007-04-10 22:29:50 | 映画
「蟲師」(2006年、131分)
監督・脚本:大友克洋、原作:漆原友紀、撮影:柴主高秀、VFXスーパーバイザー:古賀信明、音楽:蓜島邦明
オダギリジョー、江角マキコ、大森南朋、蒼井優、りりィ、李麗仙
 
漆原友紀の原作漫画を大友克洋が今度は実写で映画化したもの。「AKIRA」、「スチームボーイ」と進んできて、実写というのはこれらの延長上に予想されたとはいえ、いきなりである。ただ原作は自作でないというのが、もっともといえばもっともである。
 
結論からいうと、何か原画、そして大友の絵コンテをフィルム化したものが静かに流れていくようなものになっている。原作が好きな人が、こういう展開を予想していれば、楽しめるのだろうが、そうでないものにとっては肩すかしをくらったようなものだ。
今後どういう方向にいくのだろうか。
 
およそ100年前の、山里深いところで、蟲をよび蟲に居所を与えて人々を治療する蟲師たち、その一人ギンコ(オダギリジョー)が、自らの出自を暗示するトコヤミに気づき、それを探り、様々な蟲たちの顕現と取り組みながら、抜け出していくまでの話である。
 
こんな静かなオダギリジョーは珍しい。体温が低いのは演出でもあろう。そして旅の途中から一緒になる大森南朋との会話の調子が妙に現代なのだが、これも指示されたものだろうか。
 
そういうなかで、贔屓しすぎになってはいけないのだが、蒼井優は少しの鮮やかさとしっとりした味わいをもたらす。彼女(淡幽)は蟲を鎮めないと生きていけない境遇で、これまでの蟲の記録をつけ続け、墨でそれを書くそばから、蟲が彼女の体を出ていく。(これは近代における「書く」という行為の意味づけともつながっているようで、面白い。)
 
それでも蟲に負けそうになり、ギンコに助けてもらおうとするが、そのギンコもトコヤミにとりつかれる。そのなかで、逆転して彼女がギンコを助けることになるのだが、そのときの弱りきった状態で「気」を振り絞り、トコヤミに立ち向かう蒼井優の、凛々しさ、弱々しさとの見事なバランス、そして美しさ。
 
虹の女神」での盲目の浴衣姿、そして今回、着物はよく似合う。
また、この静かな演技ばかり要求される映画でも、彼女は顔の皮膚が少しひきつるか緩むかで、大きな効果を出すことが出来る。これは大変なことだ。
 
りりィ、李麗仙、この二人の老女、今やなくてはならない存在。

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