メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

無法の王者ジェシイ・ジェイムス

2022-08-31 10:04:04 | 映画
無法の王者ジェシイ・ジェイムス( The True Story of Jessie James、1956米、93分)
監督:ニコラス・レイ
ロバート・ワグナー(ジェシイ)、ジェフリー・ハンター(フランク)、ホープ・ラング(ジー)、アグネス・ムーアヘッド(母親)
 
ジェシイ・ジェームズ(日本公開時タイトルではジェイムスだがその後解説などではすべてジェームズと表記されている)は銀行強盗などで有名な実在の人物で、一方一般的なイメージとしては拳銃使い、義賊という感じである。
 
この映画は英語版タイトルどおり、イメージ通りにあまり脚色するよりは、冷めた目で見たストーリーという感じがする。
 
南北戦争がほぼ終わって、北軍により奴隷解放などがされた一方、南軍出身者、その支持者をはじめとする北に比べると貧困な人たちは北の連中からひどい扱いを受けていた。その中でまだ若いジェームズが兄フランクと立ち上げり、仲間を集めて銀行や列車を襲い、金を集めていく。
 
無職の訓練には向かない連中が雇われているため、うまくいかないこともあるが、なぜかジェームズの顔や特徴はあまり知られておらず、懸賞金がかけられていてもなんとか逃げせていたが最後は、というはなし。
 
脚本、監督はあまり思い入れせずクールに淡々と描いていく。こういうものを題材にした西部劇としては異色かもしれない。その後ジェシイものはいくつかあるようで、私は観ていないが、本作とは違った感じのようだ。
 
ロバート・ワグナーって私のイメージではこういうアクションものではない二枚目(どっちかというとただの)だけれど、ここではそれなりのものになっている。監督の腕だろうか。
 
街に集団で入ってきて銀行を襲い、襲撃に会いながら脱出していく、というシーンは西部劇では定番だが、誰がどうやってどうやられたということはわかりにくい。この映画でもそうで、まだこの時期だからかスピード感、カメラワーク(技術的にしょうがないか)など、今一つであった。
 
この時代、南と北という要素が入ってくる西部劇になると、どうも南に肩入れしているものが多いように見える。主義主張、理念とは違って、物語ではそうなるのかもしれない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

綿矢りさ「嫌いなら呼ぶなよ」

2022-08-25 15:55:10 | 本と雑誌
嫌いなら呼ぶなよ : 綿矢りさ 著  河出書房新社 2022年
 
四つの短中編からなっていて、全体に今つまりコロナ禍、SNSの時代に、20~40くらいの男女が整形、;ネット上の交錯、不倫、そして出版プロセスなどの話で、今そうなのかという興味をもって読ませる。
 
いずれもちょっと性格の悪いというか、あんまりつきあいたくない感じの人たち、小悪人たちで、このくらいの長さで、面白く進行させているから読めるといったところである。
 
読み終わった後何か教訓だったり、真実だったり、そういうものを、結末として受け取るということはないけれど、四つ共通してあるのは、登場人物特に主人公の自己肯定感で、きれいな感じではないけれど、これからも生きていくだろうなと思わせるところ。
 
著者の名前は十代でデビューし賞をとったころから知っていたが、読んだのは今回が初めて。タイトルのつけ方が面白いなとは思っていた。実は少し前に本書刊行にあわせた新聞インタビューを読んで内容に興味と持ったのと、こういう時期にそれを書くことが大事と言っていたことで、そういえばはるか昔、100年前にスペイン風邪、関東大震災などの時代、それを背景にした;文学はあったかもしれないが、私は読んでいない。若い天才画家何人も死んでいるのに。
 
出版をめぐる作家、インタビュア、編集者三つ巴のメールによるバトル、作家の名前が綿矢りさ本人となっていて、これは禁じ手か? そういう人なの? むしろ反対?と思わせて、さてどうなのか、やってしまう思い切り、むしろ好きになった。
 
こういう短編、最近読んでないが芥川龍之介あたりが著者の念頭にあるのだろう。ここにある一つで、主人公が推す男のネットアイドルの名前がまさにカンダタ(蜘蛛の糸)。
またいくつか読んでみようと思っている。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラとミュージカル

2022-08-20 09:47:46 | 音楽一般
昨日アップした「ミュージカルの歴史」で書き残したこと。
 
先にラモー「みやびなインドの国々」で書いたけれども、18世紀の特にフランスあたりのオペラでは、ただ歌とドラマというのでなく、レビューみたいに華麗なダンスが呼び物で、それがないと客も入らなかったらしい。
 
この本を読むと、そういう背景もミュージカルのなりたちに関係していると理解することができる。19世紀になりヴェルディの作品など、よりシリアスな音楽ドラマになってきても、パリ版といわれるバレエが入った版がのこり、その後も両方が長く続いた。
 
そう考えるとワーグナーがわざわざ楽劇としてああいう作品群をうみだしたのは大きな意味があるといえるだろう。

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮本直美「ミュージカルの歴史」

2022-08-19 10:06:53 | 本と雑誌
ミュージカルの歴史(なぜ突然歌いだすのか):宮本直美 著(中公新書)
 
ミュージカルというものはおそらくオペラから派生し、より大衆的な人気を得てきたものであろうとこれまで理解してきたが、それが間違いではないにしろ、その具体的な進展にはそれほど気をとめていなかった。
 
本書は19世紀後半からオペレッタ、ミュージックホール、レヴューなどを経て今ミュージカルと認識できる形態になってくるプロセスと、特に音楽に絞れば、ミュージカルに固有の歌というポジションばかりでなく、切り出して歌われ、またラジオや録音、レコードがない時代、楽譜ピースとして売られ、その売り上げがヒットの目安という時代など、音楽の形態、その後の劇場でのマイク、拡声技術の発達で、オペラ、オペレッタなどと違って歌い手の成り立ちも変わってきた、など納得することが多かった。
 
特に楽譜ピースの中心地としてのニューヨーク ティンパンアレーについては1950年代~60年代のポップスシーン、バート・バカラックやキャロル・キング、ポー・サイモンなど作り手に関連してよく出てくる名前だったから、その成り立ち、繁栄など、なるほどであった。
 
これまであまり意識してこなかったことでは、「ヘアー」、「ジーザス・クライスト・スーパースター」あたりから音楽もロックが多くなり、シンガーの成り立ちからマイク、PAが重視され、その技術も発達した、というのは確かにそうだろう。
 
実際に劇場で観たことはそんなにないのだが、その後の「キャッツ」、「ミス・サイゴン」なども歌手というよりは歌がうまい俳優が演じているようにいつのまにかなっていた。
 
副題については、オペラのレシタティーヴォなどからして、もともとそう違和感は持っていなかったから、その解明についてはあまり納得感はない。
 
ついでに言えば、台詞がまったくない「シェルブールの雨傘」(映画だけど)は違和感なく入っていってこのミシェル・ルグランの傑作を堪能したのだけれど。
 
最後に、本書は力作だが、もっと図にまとめた方がよかったのではないか。大ざっぱなものは17頁にあるが、ここで分析したいくつかの要素が入った大きく詳細なものがほしい。
 
それに同じようなことを繰り返し書いていることが多いというか多すぎる。読んでいるとくどくて疲れるが、逆に何度も出てくるから頭に残るという皮肉なところもある。
 
これは編集者の腕でどうにかなったともいえるだろう。どうも最近の出版界、編集、校閲のレバルが落ちてきているようで、残念である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

馬上の二人

2022-08-09 10:01:42 | 映画
馬上の二人( Two Rode Together、1961米、109分)
監督:ジョン・フォード
ジェームズ・ステュアート(ガスリー)、リチャード・ウィドマーク(ジム)、シャーリー・ジョーンズ(マーティ)、リンダ・クリスタル(エレナ)、アネッラ・ヘイズ(ベル)
 
若いころよりはよく見るようになったジョン・フォード監督作品だが、これは知らなかった。いわゆる西部劇とはかなりちがって、ガンプレイもほとんどないし、ならず者というほどの者も出てこない。
 
ある街の保安官ガスリーとそこを通りかかった旧知の中尉のジムは、街の人たちから以前コマンチ族にさらわれた子供たちの救出を頼まれる。
 
ガスリーはコマンチとつてがあるようで二人だけで出かけ、銃などの取引で少年と街とは無関係だがメキシコ系で族の実力者の愛人となっていた娘(エレナ)を連れて帰ってくる。
 
しかし、コマンチになりきって英語も忘れた少年は手におえず、娘も街の人たちから差別的な待遇をうける。
 
終盤はこの状況をどう切り開いていくかだが、ガスリーとジムが男気を出して奮闘するというよりは、この二人、状況に応じてなんとかしていくしかできない。そのプロセスをリアリティをもって観るものに納得させていくのはジョン・フォードの腕なのだろう。
 
ジェームズ・ステュアートはヒーローらしいヒーローでない役が多い印象だが、ここでもコミカルなところもあるなかなかいい味である。リチャード・ウィドマークはまだ若いなと思ったらこの映画はあの「アラモ」の次の年で、その時のイメージと似ている。
 
女優ではシャーリー・ジョーンズが格上みたいだけれど、ここではメキシコ系のエレナを演じたリンダ・クオリスタルが光っていた。
 
少年の運命をどうしようも出来なかったのは、フォードはリアリズムとして飲み込んだのだろう。
最後の場面、ガスリーの画面への登場、あっそうか、駅場車はこういうふうに出来ていたんだと思わせたのはいいハッピーエンドだった。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする