メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

オッフェンバック 「ホフマン物語」

2020-10-30 10:04:13 | 音楽
オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」
指揮:アラン・アルティノグリュ、演出:クンシュトフ・ヴァルリコフスキ
エリック・カトラー(ホフマン)、パトリシア・プティポン(オランピア/アントニア/ジュリエッタ/ステルラ)、ミシェル・ロジェ(ニクラウス/ミューズ)、ガーボル・ブレッツ(リンドルフ/コペリウス/ミラクル)
ベルギー王室モネ劇場(ブリュッセル)2019年12月17、2020年10月 NHK BSP
 
欧米では人気があってよく上演されるようだが、2009年メトロポリタンの上演のところでも書いたように、個人あるいは日本人のバックグラウンドが違うせいか、場面の隅々まで楽しめるというわけにはいかない。
 
詩人ホフマンが、何度も恋に破れ、おそらく詩にも行き詰まり、友人ニクラウスの導きで過去に愛した女性をそれぞれの場所・場面に訪ねていき、そこを支配している経営者、学者、父親などとやり取りをしながら女性に対するが、いずれもうまくいかず、最後倒れるが、ミューズがあらわれ、詩人として再生する。
 
といってもこれは私がうまくフォローできていないなかの解釈。詩にも恋にも行き詰まり、死に至るが、最後救われる、時によっては再生する、というスキームにあまりなじみがないのは確かだ。
 
解釈はともかく、5幕のそれぞれで、女性の、機械人形的な歌をはじめとする多彩なキャラクターと芸、酒場などそれぞれの場面での集団の盛り上がり、有名な「ホフマンの舟歌」など、気楽に見ていてもいいのだろうが、それでも欧米の観客のようにはいかない、残念ながら。
 
メトロポリタンでは、特に集団の演技が、世界に誇るコーラスを駆使して立派だったと記憶しているが、今回の演出は、その時代の感じに、ハリウッドの映画世界を組み合わせている?と解釈したが。例えば冒頭に「アビエイター」の一場面が流れる。ディカプリオ演ずるハワード・ヒューズが、成らなかった野望に想いをはせているのか?
 
カトラーのホフマン、歌唱はいいが、詩人としてはどうかという立派な体躯、愛した女性たちはすべてプティポン(メトロポリタンではキム、ネトレプコなど3人)、さすがである。
ロジェのニクラウス/ミューズだが、歌唱はいいけれど、演出の意図なのだろうか、メイク、ヘア、衣装がプティポンのそれぞれの役柄に似ていて、身長が少し高いから見分けはつくが、これはどういう意図なのだろう。女性たちに寄り添った感じを出したいのだろうか。これはメトのケイト・リンジーのズボン役風の方が、見せ方とてはフィットしていると思う。彼女が好みだからということもある。
 
オーケストラ、合唱はメトほどの迫力ではないけれど、まずまず。クレジットによるとコンサート・マスターは日本人女性のようだ。

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愛情物語

2020-10-22 17:50:27 | 映画
愛情物語 ( The Eddy Duchin Story、1956米、123分)
監督:ジョージ・シドニー
タイロン・パワー、キム・ノヴァク、ヴィクトリア・ショウ
 
第2次世界大戦前後、ニューヨークで活躍、人気を集めたピアニスト、エディー・デューチンの生涯に基づいた物語。この時期から戦後数十年の間、好まれたパーティ、レストランなどで演奏された音楽ジャンルの人で、ジャズ映画「上流社会」にもあるように、ジャズでもこういう部分はあった。
 
薬剤師になるのがいやでニューヨークにやってきたエディ(タイロン・パワー)は、レストランを経営するマージョリー(キム・ノヴァク)に認められ、仕事を伸ばしていく。やがて二人は結婚し、子供ができるが、産後に彼女は死んでしまい、エディは息子を預けて海軍へ。終戦で帰ってくると、息子はチキータ(ヴィクトリア・ショウ)になついていて、エディとは打ちとけない。エディとチキータの緊張したやりとりが続く中、エディは不治の病にかかっていることがわかり、息子とどう和解するか、、、
 
こういう流れの中に、エディが弾いている音楽がうまく使われる。ショパンのノクターン作品9の2、マンハッタン、ブラジルなど。中でもこのショパンはサントラで「To Love Again」というタイトルで大ヒットした。私が中学生のころ、ラジオで頻繁に流れたから、ショパンのピアノ曲の普及に貢献しただろう。ここで弾いているカーメン・キャバレロは、このジャンルで人気を集めていたし、他にもロジャー・ウィリアムスやラス・ヴェガスで派手な感じで人気を集めたリベラーチェなど、多くの奏者がいた。その後、リチャード・クレイダーマンなどにもつながったのではないだろうか。
 
実は私も、この曲とこれをフィーチャーした映画がこれ、ということはよく知っていたが、なぜか映画そのものは見ずじまいだった。見るほどでもないだろうと思っていたが、今回見てみると、軟弱ではなく、案外この主人公が妻の死、戦争、自身の病という運命に翻弄されながら生きていくストーリーを見るものに的確に届けることに成功している。
 
場面場面で人物の台詞のやり取りを細かく、長くせずに、出来事が人を動かしていくという演出が、見事にはまっていた。
 
タイロン・パワーはこういう深刻さが表に出てこない役にぴったりでし、私が好きなキム・ノヴァクも表出しすぎない美しさはまさに映画向き。ヴィクトリア・ショウの冷静さとそれに対照的なラストも光った。
画面はテクニカラー? 戦後のこの時期、こういうきれいな画面は、まさにアメリカ。


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プーランク 「カルメル会修道女の対話」

2020-10-06 14:11:15 | 音楽
フランシス・プーランク:歌劇「カルメル会修道女の対話」
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン、演出:ジョン・デクスター
イザベル・レナード(ブランシュ・ド・ラ・フォルス)、カリタ・マッティラ(修道院長)、エイドリアン・ピエチョンカ(新修道院長)、エリン・モーリー(コンスタンス)、カレン・カーギル(修道女マリー)、デイヴィッド・ポルティッヨ(騎士フォルス)、ジャン・フランソワ・ラポワント(ド・ラ・フォルス侯爵)
2019年5月11日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2020年10月 WOWOW
 
プーランク(1899-1963)は三つのオペラを書いているが、これはその二つ目で、1957年の初演。
フランス革命で、キリスト教会の組織に圧力がかかる中で、殉教者が出ればその分維持できる部分があるという考え、動きが出てくる。このあたりは、カトリック文化にうといからか、日本で育ったからか、理解できないが、それは一応置くとして、それを前提に、作品、特にその音楽を味わっていくことにした。
 
主人公ブランシュは侯爵の娘だが、この時代にどう生きるか思い詰めて、修道院に入ってしまう。そこで友人となったコンスタンス、指導者マリーとやりとりしながら、重苦しい動きの中で悩む。
そんな中、第一幕の終盤で、修道院長が病にのたうち回り、苦しみながら息絶える。修道女の長のこのようなふるまいに皆ショックを受けるが、ここは聖と俗、殉教と自然死の対照という、うまい構成であり、後半への伏線になっている。
 
その後、修道女たちは教会そのものを守るためか、俗界に散り、普通の服装で現れるが、結局は捉えられ、死刑を宣告される。この最後、彼女たちは微笑みながら順にギロチンに向かっていく、これは衝撃的だ。
 
音楽はアリアでも劇伴でもなく、20世紀の現代、シリアスオペラによくあるシュプレッヒ・シュティンメのようでもない。優れて美しい声と音楽が織りなす作品である。
 
作曲者はこれを聴いてくれ、とことさらに表現しているという感じではなく、自然に流れていくのを聴いていると、こんなところまで来てしまった、という感があった。
 
作曲された時代からすると、これはナチスを思い起こさせることも想定したではあろうが、そこを超える結果となった。殉教ということは置くとして、観てよかったと思う。
 
指揮者セガンはこのシーズンから総監督だそうだが、以前からなかなかいい指揮、まとめ方、進行という印象があった。優れてきれいな音楽だった。彼へのインタビューによれば、最後の場面、何人かの団員が涙を流しながら弾いていたという。
 
ブロンシュのイザベル・レナード、歌、演技、姿など適役、マリー役のカーギルもいいサポート。壮絶な死を演じたマッティラも見事だった。
あまり余計な動きがなく、モノトーンでシンプルな舞台も、この静かな進行でそれゆえの凄絶なフィナーレに効果を出していた。
 
プーランクのイメージは20世紀作曲家としては、いかにも現代というより、もう少し入っていける音楽といったもので、若いころ器楽曲、協奏曲などそれなりに耳にしていた。宗教曲としては「グローリア」は変な言い方だが、親しめた。これらについては指揮者のジョルジュ・プレートルが熱心で、この人、マリア・カラス晩年のサポートとならび、ここで功績があったと思う。かなり後になって、マーラーなどドイツものもいいということがわかったけれど。

先日アップしたリヒャルト・シュトラウス「影のない女」といい、この作品といい、これだけ年月が経つと20世紀のオペラも、今落ち着いて評価、鑑賞できるようになったと思う。


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ディケンズ 「クリスマス・キャロル」

2020-10-04 14:21:12 | 本と雑誌
クリスマス・キャロル:チャールズ・ディケンズ 著 池央耿 訳 光文社古典新訳文庫
ディケンズの作品、一つも読んだことがない。まだその季節ではないけれど、有名だがかなりの長編をいきなり読むよりいいかと思った。
 
イギリスの18世紀前半の、特に女性作家による小説は中高年になってから、若いころのようにこだわらず読んでみて、その甲斐があった。その一方、ディケンズ(1812-1870)の作品は、ヴィクトリア朝の産業発展の反面で庶民の問題が特に庶民にとっては絶えなかった時代のもので、大衆的にもうけたらしいのだが、手に取ってみようとはいかなかった。

だだ、気がついてみたら現代でも話の中で引用されることもよくあるようで、最近では映画「アバウト・タイム」で父親の語りの中に出てくるのが印象的だった。
 
英語圏ではもう一つのキャラクターとして知られているらしいスクルージは、法には触れないがとにかく金もうけ第一でやってきて、妻子はなく、相棒のマーリーはすでに亡くなっている。クリスマスが近くなって、是非ご寄付をときた紳士には彼なりの理屈で断り帰宅したが、そこにマーリーの亡霊が現れ、これから精霊が三人、順に現れると告げる。
 
現れた精霊はスクルージを街に連れていき、庶民の集まり、ある家族の祝いの準備などの場面をみせていく。その中には彼の甥の一家もいる。そこには様々な苦労、不幸があるが、それでもクリスマスをひかえ、皆明るく、陽気にふるまい、人生を楽しむ風をみせている。そのうちスクルージも次第に変わってきて、これら庶民と気持ちを共有するようになっていく。精霊はスクルージの過去、現在、未来に対応していて、三番目の精霊は声を出さないというのも、暗示的でうまい設定である。
 
しかし、一番うまいのは進行する場面場面の描写であって、舞台、映画にしたら、ビジュアルとして魅力、迫力があるだろう。
 
一年に一度、こういう話、場面を浮かべるのもいいかと思う。そういう意図も作者にはあったに違いない。日本の作品では、最近いくつか読んだ山本周五郎のものに通じるかもしれない。
 
ディケンズの作品、映画化したものとしては「大いなる遺産」を見ている。この映画の色調、「クリスマス・キャロル」にも通じると思う。前者に出ていたヘレナ・ボナム・カーターはどこかに使いたい。ロンドンの貧民街などには、ジョニー・デップもいいかなと思う。




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