メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

OK牧場の決斗

2022-09-20 10:11:27 | 映画
OK牧場の決斗:( Gunfight at the O.K.Corral、1957米、122分)
監督:ジョン・スタージェス、音楽:ディミトリ・ティオムキン
バート・ランカスター(ワイアット・アープ)、カーク・ダグラス(ドク・ホリデイ)、ロンダ・フレミング(ローラ)、ジョー・ヴァン・フリート(ケイト)、デニス・ホッパー(ビリー)
主題歌:フランキー・レイン
 
史実としてあったことをもとに、いろんなかたちで多く映画化、ドラマされた。受け取られ方はずいぶん違うだろう。
この映画、観たと思っていたが、いつ頃とかよくわからない。渋谷にあった東急文化会館の名画座だったかもしれない。
 
始まってからあれこんなだったけと思った。たしかに西部の街、保安官、賭博師、流れてきた女性と、西部劇の要素はそろっているのだが、なかなか大活劇が始まるという風でもない。半分すぎてもそうである。相手のクラントン一家の乱暴というものも画面ではそれほどで。
 
もう保安官はやりたくないらしいワイアット、生まれはいい歯科医でカード(いかさまもやるようだ)にナイフ、拳銃の達人のドク、この二人の意地の張り合い、貸し借りが実は友情からと観るものに多少は想像させつつも、ドライなタッチで続いていく。それぞれローラ、ケイトという女性と惹かれあいつつ、そう簡単には結びつかない。
 
ワイアットのバート・ランカスター、後のヴィスコンティ作品のイメージが私には強いので、ここではずいぶんスマートでノーブルな感じ、それでいて後から出すところは出す。
 
ドクのカーク・ダグラスはまさにこれこそ俳優冥利につきるというポジション、演技で、他の人がやるともっと荒々しく飲んだくれになりそうなところ、最後まで見せる。

決斗場面は意外に時間も短いが、ここはさすがに見た記憶があった。最後、大丈夫かというところの1~2秒前、ドクが多分とこっちも想像出来て、そのとおりになるが、それはこういう映画の満足感で、意外性はこのくらいでいい。
 
ジョン・スタージェス、バランスよく撮っていて、この二人の間の詩情もあり、うまい。見直した。同じ話からかなりちがう方に派生した「荒野の決闘」(ジョン・フォード、ヘンリー・フォンダ)が詩情際立つ傑作と言われていて、それは認めるけれど、今観るとスタージェスの方が感じるものがある。
 
ティオムキン作曲の主題歌、フランキー・レインが歌って大ヒットしたこともよく覚えている。
 

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綿矢りさ「蹴りたい背中」

2022-09-17 09:21:17 | 本と雑誌
蹴りたい背中: 綿矢りさ 著  河出文庫(初出 2003年)
このところ続けて読んでいる綿矢りさ、最新の「嫌いなら呼ぶなよ」がはじめてで、次にデビュー作の「インストール」、そして一番話題となったこの「蹴りたい背中」(芥川賞受賞)である。
 
主人公は女子高校生はつ実、彼女の視点で書かれている。そして相手となるのが同級の男子にな川、あとははつ実を少し理解してくれる絹代、ほとんどこの3人で進んでいく。
 
クラスが編成され、グループ分けに意志を示さなかった二人、はつ実がにな川を注視すると何か雑誌を見つめていて、それは女子向けで、その中のある女性モデルに関心が向いている、それはそのモデルのなにからなにまでで、はつ実は気味悪いと思いながら無視はできず、次第に興味を増していき、相手のなにやら変な家庭、家にまでついていき、彼の好きなモデル、今でいえば「推し」の世界を体験していく。すでに20年ちかく前に書かれた作品だが、この「推し」の強烈さ、描写の見事なこと。
 
彼女は一度そのモデルの撮影に偶然出会っただけなのだが、彼にとってはそれはたいへんな事なのである。
 
この家で彼女を無視してモデルのラジオ放送だけに注意がいっている彼、そして終盤、モデルのライブで極端な行動に出て失敗してしまう彼、その背中を蹴る、微妙な蹴り方だが、それが読むものにこんなに受け取らせるとは。
 
青春、人生を描くと、一般化できる断片や言葉で作られることがほとんどで、それはその作品から離れて語ることも出来るが、なにか抽象化された人生論、文学論、哲学論になりやすい。
この作品はまったくそうではない。そうではないのだが、生きるということは、こういう当人にとってだけかもしれない細かいことが中心にあるのだろう。そういうことがわかってくる。それは綿矢りさの卓抜な文章力を示すものである。




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007/カジノ・ロワイヤル

2022-09-09 09:02:14 | 映画
007/カジノ・ロワイヤル ( Casino Royale、2006英米、144分)
監督:マーティン・キャンベル
ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、エヴァ・グリーン(ヴェスパー)、マッツ・ミケルセン(ル・シッフル)、ジュデイ・デンチ(M)、ジャン・カルロ・ジャンニーニ(マティス)、ジェフリー・ライト(フィリックス)
 
007シリーズはショーン・コネリーのころから見ているが、まめではなく数は多くない。これはダニエル・クレイグがボンド役に起用された第一作。
 
テロ組織を資金面で支えているル・シッフル一味を打倒すべく起用されたボンド、ギャンブルも得意とあって、シッフルとカジノで対決する。駆け引きについてはよくわからないが、ゲームはポーカーなので、なんとかついていける。ここのところが時間も使い、いろいろ事件の要素もからめてこの映画の見どころといえるだろう。
 
その反面、幕開けのアフリカのよどんだ地域と建設重機が立ち並んだ場面での乱闘、終盤のヴェネツィアでの古い;建物を壊すまでの戦闘は、ショーン・コネリー時代のシリーズには無かったもので、ロケ技術、CGなど技術でここまで出来るのだろうが、現実味ということは別としても、どうなっているのかわからない。なにしろ先にも書いたようにもっと以前の西部劇でも銀行泥棒の集団襲撃とその防衛の様がよくはわからないわけだから、もうただ眺めているだけである。
英財務省から派遣された女性ヴェスパーは初め存在感がないけれど、最後あっといわせる。
 
ダニエル・クレイグは風貌、体躯、動きなどぴったりだが、コネリーがたまに見せた弱みもすこしあるといいのだが。ヴェスパーのグリーンは冷たい魅力といった感じ、もう少し色気があったほうがよりフィットするのでは。
 
シッフル役のミケルセンはシリーズにぴったりのクール、冷酷、ジャンニーニはイタリア映画でいくつか見たような気がするが、よくわからないポジションをうまく演じている。
 
そしてなんといってもここで英情報部のⅯとしてジュデイ・デンチが出てきたのがうれしかった。最初のシリーズでもロッテ・レーニャという大女優が出てくるし、ボンドシリーズはなかなか魅力があるのだろう。
 
このシリーズ、イアン・フレミングの原作はまったく読んでいない。もっと前の時代を背景に味があるのではないかとも思う。そういえば先日NHKのドキュメンタリー番組で、第2次世界大戦時、ある女性の二重スパイがジブラルタルで活動していて、その後彼女を尋問したのが当時英情報部にいたイアン・フレミングだったということである。やはりイギリスのこの種のものには広く深い背景があるわけだ。
 
ところでカジノ・ロワイヤルが最初に映画化されたのは1967年で、たしかウッディ・アレンが全体をプロデュース、もう列挙できないくらい数の大スターたちが(レジェンドクラスも)でていて、しかもつくりはおふざけ一杯のパロディー的なもの、「オースティン・パワーズ」シリーズの元になったとも言われている。でもこれ原作者側の許可は得ているらしい。
 
また観てなんといっても残るのは音楽で、ハル・デヴィッド作詞、バート・バカラック作曲、「恋の面影」などヒット曲、名曲ぞろいである。
レンタルでVHSは観たことがあるが、その後DVDは廃盤になってしまった。また観る機会がないかなと思っている。サウンド・トラック盤CDは持っているからまだしもだが。



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綿矢りさ「インストール」

2022-09-06 09:03:13 | 本と雑誌
インストール:綿矢りさ 著  河出文庫(初出 2,001年)
先に新刊の「嫌いなら呼ぶなよ」を読んで、それではデビュー作を読んでみようと思った。
 
大学受験をひかえている女子高校生が、なにもかもいやになり、親になにも言わないで自分の持ち物を全部ゴミ捨て場に持っていき、不登校になる。ゴミ捨て場で会った小学生の男の子は彼女が持て余していたパソコンをもらっていいかといい、それを再生、男の子の家で内緒;の「仕事」を一緒に企てる。それはチャットを使った疑似風俗で、それで金儲けになればということ。
 
それぞれの母親、しだいにわけありということがわかってきて、見つかるかどうかというスリルよりは、二人がこの世界に入っていって、さて相手が見えない中でどうなっていくか。
著者が17歳ということは、考えない方がいいといっても多少は頭に残っている。それでも読み進むうちに、この幾分ませた二人の子の世界、読んでいるこっちもちょっと不思議の国にワープしているようになる。
 
さてどうなるかというところで、すっともとのところに戻ってくる。とはいってももちろん二人とも以前の二人ではない。
 
小説にはこういうのとは違うものもあって、主人公の思いを中心に、想念が深くなったりひねくり回されたりすると、たいてい最後は悲劇的なことになるか、無理して終結する。
「インストール」はそうでなくて、穴からポイっとでてきた軽さもあるが、生きていくということはこういうことでもあるかなと納得した。「嫌いなら呼ぶなよ」にも通じるところがある。
  
そうなるのはおそらく作者の文章の卓抜さによるのだろう。このところ、この数十年に書かれた作品、そんなに読んでいないけれど、一般的に文章としてのレベルは落ちていて、私でもこれはなんでもおかしいだろうという、句読点、接続詞、助詞などのレベルでつかえてしまうことが結構ある。いわゆる第三の新人の人たちも日本語より内容(?)だったのだろうか。
 
比較の対象ではないが、この20年ほど少しずつ読んできた谷崎潤一郎は、一部の作品など、句読点がなかなか出てこないにも関わらず、読み続けて違和感はなかった。
綿矢りさにもそういうところに通じる、日本語に関する意識があるのだろう。

 


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