メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ベッリーニ「夢遊病の娘」(メトロポリタン)

2012-07-25 15:20:03 | 音楽一般

ベッリーニ:歌劇「夢遊病の娘」

指揮エヴェリーノ・ピド、演出:メアリー・ジマーマン

ナタリー・デセイ(アミーナ)、ファン・ディエゴ・フローレス(エルヴィーノ)、ミケーレ・ペルトゥージ)ジェニファー・ブラック(リーザ)

2009年3月21日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場  2012年7月WOWOW放送録画

 

見るのも聴くのも初めてで、もっと深刻な夢遊病の話かと思っていたら、筋自体はばかばかしいコメディであった。

これは主役の男女二人の圧倒的なベルカントを味わうためのしかけで、細かいところはどうでもいいのだろう。演出も最近よくある、当該オペラ上演の劇場、そのリハーサルという設定になっている。あまりその時代の装置、衣装でそれらしくやるよりは、その作品を現代の劇場で鑑賞するのなら作品のポイントを割り切って強調し、エッセンスを味わうというのも納得できないことはない。

リヒャルト・シュトラウスの作品でそういうしかけがよく あるけれど、この人の作品にはもともとそういう要素があるわけで、それらとは目指すところがちがうようだ。

ただ、始まってしばらくは歌手たちもここのオペラと同じ人間模様の中にいるのかと思ったが、どうもロドルフォが出てきたところからは、何しろ伯爵だし、これはリハーサル中と考えないとおかしい。そうなると、いくつかほころびは出てくる。

 

それでも、デセイとフローレス(先の「連隊の娘」と同じコンビ)の歌を聴いていれば、次第に関係なくなってくる。フローレスは今回も圧倒的な迫力を見せ、またデセイは夢遊病状態とそれから醒めた状態という切り替えも含め、文句のつけようがない。この人、こんなに小柄で、狂乱の場、こういう夢遊病状態、そして恋する明るい娘、それも飛んだり跳ねたりも、と大変な人である。インテリジェンスもあるようで。

 

後半の夢遊病状態で歌うアリア、その演出は舞台からオーケストラ・ピットの上にせり出す1メートルちょっとくらいの板の上で平然と歌う、あれは、特に醒めた状態になるときに、こっちもはらはらする。面白い演出である。

 

このベッリーニとロッシーニ、ドニゼッティのベルカント作品が、オペラの人気を支えている、というのことが、このところよくわかってきた。

 


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フェルメール光の王国展

2012-07-20 18:10:51 | 美術

フェルメール光の王国展

2012年1月20日(金)-8月26日(日) フェルメール・センター銀座

 

フェルメールの全作品の複製による展覧会

実物大の豪華画集を一挙に見る感じで、それに相当する価値はある。

ただフェルメールの細密な、そして地味な題材は、一点一点、与えられた機会にゆっくり集中して見るのがよいのではないだろうか。こうして全部みてしまうと、はてフェルメールとはなんだったかと考えてしまい、そうして認識される大画家と比べるとちょっと不利なところがある。ただそれで、いくつかの傑作の価値が下がるというものではないのだが。

 

あと、おそらくデジタル画像技術を駆使していると思われる複製だが、油絵の模写とちがってこうして完全にフラットなものとして見ると、違和感がある。実物より小さい画集の写真であれば、そういう前提で見るわけで、その方が見ていてその中に入っていける。

さらに液晶のディスプレイあるいはプロジェクターで光による複製として見るほうが、フラットな複製は効果的なのではないだろうか。

 


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ゲンスブールと女たち

2012-07-19 18:11:01 | 映画

ゲンスブールと女たち (Vie Heroique 、2010年、仏・米、122分)

原作・脚本・監督:ジョアン・スファール

エリック・エルモスニーノ(セルジュ・ゲンスブール)、ルーシー・ゴードン(ジェーン・バーキン)、レティシア・カスタ(ブリジット・バルドー)、アナ・ムナリス(ジュリエット・グレコ)、サラ・フォレスティエ(フランス・ギャル)、ダグ・ジョーンズ(ラ・グール(面))

 

歌手、詩人、作曲家、画家、俳優その他、マルチタレントとして、そしてスキャンダラスな言動で世の中を沸かせたセルジュ・ゲンスブール(1928-1991)の、子供の時から、女性遍歴、そして死まで、ドラマとミュージカル調の部分のミックスというかたちで、かなり自由に進めていく。

楽しめる傑作映画である。

スファールという人はゲンスブールのよほどのファンだったのだろう。実をいうとゲンスブールという人のことは知っていても、積極的に曲を聴くでもなく、ワルのイメージが強いが才能はあるくらいの認識しかなく、映画にしてもどちらかといえば娘のシャルロット・ゲンスブールの出た映画の方はいくつか見ているという状態だった。

 

セルジュはクラブのピアノ弾きの子で、父親は彼にかなり本格的なピアノを教えていたようだ。女性を前にして達者なショパンで感心させるという場面もある。そしてそれなりに才能はあったのだろう、だから悪徳、堕落を歌っても、その音楽がそんなに無理ないものになっている。また反逆的なものたとえば「ラ・マルセイエーズ」のパロディなども、説得力がある。 

 

何人もの女性に対してかなりひどい仕打ちもあるけれども、こうしてみると変に奸計を弄したものでなく自然なその時のわがままということが、またそれだから愛情も嘘ではないということが相手に分かるから、そんなに憎まれなかったのかもしれない。

 

そんな中、かなりの有名人が切れ目なくでてきて、存命の人もいるから、ここまでやっていいのかとは思うのだが、結果として相手に悪いようにはなっていない、ということは監督からというよりゲンスブールから来たものだろう。

 

ボリス・ヴィアン、ジュリエット・グレコが出て来る時期(戦後のある意味でよき時代)、ブリジット・バルドーとの不倫、フランス・ギャルのプロデュース(「夢見るシャンソン人形」など、懐かしい!)、そしてジェーン・バーキン、、、

 

これらの人たちは本人とよく似ている俳優とメイクで、見ていて楽しめる。もっとも主演の主人公本人がよく似ている。

フランス・ギャルはもうすこし子供っぽかったと思うが、グレコ、バルドー、バーキンは好演。

なかでも若いころのバーキンは本当にチャーミングで、惚れられたのはよくわかる。

ジュリエット・グレコを演じたアナ・ムナリス、はてどこかでと思ったら「シャネル&ストラヴィンスキー」のココ・シャネルだった。それにしても、女性歌手の大御所が結果として男性ミュージシャンを育てるというパターンはフランスでよくあるが、グレコの場合はマイルス・デイヴィス、セルジュ・ゲンスブールだから、大したものである。

 

 

 


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トスカーナの贋作

2012-07-17 11:00:24 | 映画

トスカーナの贋作 ( Copie Conforme 、2010年、仏・伊、106分)

監督:アッバス・キアロスタミ

ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル

 

監督はイラン出身でたいへん有名な人のようであるが、これまで知らなかった。

イタリア・トスカーナのあるところで、本物と贋作に関する本を書いたイギリス人(ウィリアム・シメル)が講演会にやってくる。聴きにきた女性(ジュリエット・ビノシュ)と知り合い周辺を案内してもらううち、入ったカフェで夫婦と間違えられ、そのあと夫婦のふり/つもりで結婚式をやっている名所・レストランなどをめぐっていく。その間の会話を見ていると、それが演技なのか、この二人が夫婦としてこれまでの過去を背負った(冷静に見れば創作しているわけだが)ものとして言い合いをしているのか、双方向に往復しながら進行していく。

 

おそらく、人間というものは、その遺伝子、出自、これまでの生活からその「今」ができているものの、それはそんなに確としたものではなく、それをはかないととるか、これからまた始められるととるか、さあどうでしょうね?ということだろう。

 

監督は結論を出していないし、二人の結末は悲劇的でもハッピーでもない。だからハッピーエンド、といえないこともないのだが。

 

ここで、女性はもともととフランス人で仏、伊、英をしゃべるが、男は英語と旅行用のイタリア語しかしゃべれない。イギリスの男として皮肉られている場面はあるようだ。

 

主役のジュリエット・ビノシュはぴったりで、三か国語だけでなく、多くは正面からカメラを向いたつまりこの映画を見るものにしゃべっているような多くの場面で、このひと自身の魅力もあわせ、最後まで楽しめる。本当の意味でセクシーで、ほかの人は考えられない。

 

タイトルは、原題からすると、認められた・適合したコピーで、もちろんこの二人の話をさしている。贋作という言葉はあわないのではないか。


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ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」(パリ・オペラ座バスティーユ)

2012-07-15 16:56:33 | 音楽一般

ドビュッシー: 歌劇「ペレアスとメリザンド」 (原作:メーテルリンク)

指揮:フィリップ・ジョルダン、演出:ロバート・ウイルソン

ステファヌ・テグー(ペレアス)、エレナ・ツァラゴワ(メリザンド)、ヴァンサン・ル・テクシエ(ゴロー)、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ(アルケル)、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(ジュヌヴィエーヴ)、ジェリー・マトヴェ(イニョルド)、ジェローム・ヴァルニエ(医師)

2012年3月 パリ・オペラ座バスティーユ   2012年5月NHK BS 放送録画

 

これは傑出した公演である。演出にはかなり驚くところもあるけれど。

全体にブルーの濃淡の、ほとんど照明のみで最小限の舞台装置、つまり塔に見立てたものとか、寝台とかだけ、というシンプルな環境、登場人物の多くは短髪で極端な白塗り、そして体の動きも最小限、そう明らかに「能」にヒントを得たものにちがいない。

 

この作品は、じっくり録音だけ聴いていてもいいし、コンサート形式でも十分味わえると思っていたから、こういう演出は納得するし、むしろ効果的だった。

思い切りは、たとえばメリザンドの髪は意味を持っていて、有名な塔の場面でほどいて長くするのかと思っていたら、それはそのまま、ペレアスとは離れたまま、歌で観客は想像の世界に飛んでいく。あのゴローが息子を担いで二人が何をやっているかのぞかせる場面だって、観客にも何も見えず、音楽だけで理解するわけだから、これでもいいといえばいいのである。

 

これまでメリザンドはこの薄明の中、力が衰えていく王国の城の中で、ひっそりとした不幸な存在というイメージがあったが、今回こうしてみると、彼女はゴロー、ペレアスにとって文字どおりファム・ファタルである。この演出で、衣装、動作、そしてそれに見事にこたえているツァラゴワの歌唱・演技から伝わってくる。オッターは多分マルチ・リンガだからこの中でおそらくロシア系の彼女だけがフランス語を母国語としていないのだろうが、違和感はなくむしろ強さを感じる。 

 

フィリップ・ジョルダンという指揮者はまだ若いが、自信に満ちていて、えてして微妙なニュアンスのことを言われる(特にブーレーズの解釈が出る前には)ドビュッシーの音楽を、この演出にも似合ったつまり表現主義の、強いものとして見事に実現している。もしや?と調べたら、アルミン・ジョルダンの息子とか。まだ30代だがこの夏にはバイロイトで「パルシファル」を振るようだ。

 

他の歌手もよい。ところでフランス語というのは意外にオペラで音楽との相性がいいようで、今回も聴きやすかった。ドビュッシーだからとも考えたが、最近いくつか見たロッシーニのフランス語オペラでもそれは感じる。

 

ただ、最後のメリザンド臨終の場面、息を引き取って? 音楽が終わるとともに暗転する直前のあの演出は何なのだろうか?(ネタバレになるので具体的には言わない方がいい?)

やはりファム・ファタル?

 


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